大変なんだ。
とっても大変なんだよ。
「ボクのこと、忘れてください」
1
最近寒くなって来たよね。こないだなんか雪も降ったしさ。
だから、今日も帰りにあったかいものが食べたくなっちゃったんだ。
こういう日はたいやきだよね。ぱりっとした皮の中にほかほかのあんこ。小さい頃から大好きだった訳じゃないけど、今は一番のお気に入り。
特に、あの商店街の隅っこにある屋台。あそこのが一番おいしいんだ。
だけど……だめ。
ボクは我慢した。
あそこの屋台のたいやき、とっても美味しいし、懐かしい味なんだけど……
だめなんだよ。
あの辺りでは、ボクは顔を覚えられちゃってるからね。たくさんの人達に。
ちょっぴり涙目になって、ボクは屋台の出ている辺りに行く小路を駆け足で通り過ぎた。向こうからいい匂いがしてきたけど、無視。無視しなくちゃ。
解け残った雪の塊を飛び越えたら、ポケットの中で小銭がちゃらんと鳴った。
なんだかとっても悲しかった。
だから、目の前にいたその人に気付かなかったのは、ボクがうっかり者だからじゃないんだよ。
涙で曇ってよく見えなかったんだよっ。ほんとだってば。
いきなり、どしんってぶつかった。なんだか懐かしい感じの衝撃だった。
「あっ……」
「わっ」
跳ね返されるんでも、押し倒すんでもなくて。その人は少しよろけたけど、正面衝突したボクの体をしっかり抱き止めた。
懐かしい感じのする腕。そして、その腕の中にすっぽり抱き止められちゃってるっていう、すっごくまずい状態。でもなんか……ちょっといいかも。
でも、幸か不幸か、その人はすぐに肩を掴んでボクの身体を離した。
って当り前だよね。道でぶつかっただけだし。
ああっ、違うよっ。そんなことより、とにかく謝らなくちゃ。
「あ、ご、ごめんなさいっ」
ボクはぺこぺこ頭を下げた。
「……ちゃんと前見て歩けよ」
聞き覚えのある声に、つい反射的に顔を上げて……心臓が止まるかと思った。
その人も、そうみたいだった。
暫くボクたちは、ばかみたいに半分口を開いたまま、呆然と相手の顔を見つめていた。
やばいよっ。まずいよっ。
今までずっと、一年近くも会わないように気を付けてきたのにっ。夏のチョコサンデーもあんみつも、今日なんてたいやきも我慢して、こうやって別の道を使ってたのにっ。
こんなところに、どうしてキミがいるんだよっ!
祐一くん……。
幸い、立ち直りはボクの方が早かった。一瞬の差ってやつだよね。ボクが身体を翻して走り出すのと、祐一くんが叫ぶのが一緒だったから。
「待てよ! あゆ!」
待てと言われて素直に待つわけには行かないんだよっ。
制服の裾をばたばた言わせながら、ボクは一目散に逃げ出した。
足は多分祐一くんの方が速いけど、雪が残ってる歩道の方に入っちゃえば、何年も雪道を走って年季の入ってるボクの方が……。
「待てこらっ!」
がしっ、と腕を掴まれる。転びそうになるのを慌てて踏みとどまったら、ぐいっと引き寄せられる。そして、またボクは簡単に祐一くんの腕の中。
しまった。やっぱり遅かったよ。ついでに最初が近すぎたのかも。距離ゼロだもん。
2
……そういうわけで、とっても大変なんだ。
どきどきするくらい大ピンチなんだよっ。
「下向いてないで何とか言えよ……」
自分で強引に喫茶店に連れ込んどいて、それはないと思うんだけど。ふつうだったらね。
でも、祐一くんだから仕方ないよね……
「じゃあ、俺から言うぞ」
そうしてくれると助かるよ。だって、ボクからは何言っていいのか、全然わかんないもん。
えーと。もうすぐ受験だけど、頑張ってる? とか。
あ、それからあの人。なんてったっけ。さおりさん、だったかな? かわいい感じの人だったけど、最近うまく行ってる? みたいな。
無難な話題は、そんなことくらいしか思い付かないよ。
「久しぶりだな、あゆ」
抑えているような声に、ずきっ、と胸が痛くなった。
今からでも逃げ出しちゃいたい。おトイレとか言えば、許してくれるかな。
でも、駄目だよね。もうボク、祐一くんに見つかっちゃったから。
今から逃げ出したって、どうせ、すぐにまた見つかっちゃうんだろうし。
「もう会えないとか言ってたから諦めてたけど、やっぱり俺達って腐れ縁だよな」
そういえば、そんなことを言ってた気がする。
ごめんね、ボク細かい台詞まではよく覚えてないんだ。
だってあれは確か今年の一月の末だよ。もう何ヶ月も前の話なんだよ。
「あの時は俺、舞のことでいっぱいいっぱいだったから。お前の探し物もほとんど手伝ってやれなくって悪かったし、まともにさよならも言わなかったけど」
ボクは下を向いたまま、ぶんぶん首を振った。
あれは、無理だよ。ボクだって探し出せるなんて思ってなかったくらいだもん。祐一くんが手伝ったからって見つけ出せるような物じゃないよ。本人がちゃんと思い出さない限りね。
さよならも、しょうがないよ。だって時間がなかったんだから。それに一方的にさよならしたのは、祐一くんの方じゃないし。
「だけど、逃げることはないだろ。喧嘩したってわけじゃないし、なんか顔合わせちゃまずいことがあるってこともないし」
おおありだよ。
超まずいんだよ。
「なんか、あったのか? 捜してた物って、なんだったんだよ」
だんだん、祐一くんの声が冷静じゃなくなってくる。
ボク下向いてるから顔は見えないけど、きっと怒ってるんだろうな。
「こっち向けよ」
だけど、恐る恐る上目遣いで見た祐一くんは、全然怒ってなかった。
泣きそうな顔してたけど、それは、癇癪をバクハツさせるようなのじゃなくて。ただ、すごく悲しそうだった。
もしかして祐一くん、全部知ってるんじゃ。
「なんで黙ってんだよ、あゆ。声、出るんだろ?」
あ、その手があったんだ。
声が出ない振りしてれば、取り敢えずこの場は切り抜けられるねっ。
……って駄目じゃん! それじゃまた次のときにトコトン追及されちゃうよ!
それに、考えてみたらさっきごめんなさいって言っちゃってるよね。あはは……
もう、どうにもならないんだ。
「……うん」
ボクは観念して頷いた。ちょっと諦めが良すぎるかなぁ、って思ったけど、いい方法なんにも思い付かないし。
「なんか、妙なことやらかしたのか? また食い逃げとか」
「そ、そんなことしないよ」
「怪しいな」
なんでそのことを持ち出すかなぁ。
ひょっとして、ほんとにそんな目で見られてたのかな。あれにはボクもものすごく驚いたんだよ。って言っても信じてくれそうにないけど。
でもこれって多分、祐一くんはまだいろんなこと知らないってことだよね。
残念なような、安心したような……、なんか複雑。
「ま、そのカッコしてるってことは、今はちゃんと学校に通ってるらしいな。少し安心した」
祐一くんはなんか勘違いしてるみたいだけど、学校サボってたわけじゃないんだよ。ボク、あの年は高校浪人しちゃってたんだから。
それもちょっと恥ずかしいけどね。
でも、今年はあの一月ほとんど勉強ストップしちゃったけど、ちゃんと希望してた高校に入れたんだよ。
祐一くんの学校の制服も可愛いけど、ボクはこの紺色のブレザー、結構気に入ってるんだ。
「なんだよ、また黙って。感動の再会に声も出ないか?」
「そうじゃないけど……」
どう、しよう。
何から話せばいいんだろう。
いまさら嘘をつく訳にも行かないし……でもこんな話、信じて貰えそうにないし。
それより、祐一くんがどこまで知ってるのかわかんないから、どう話せばいいのかもわかんないよ。
「判った、判った」
祐一くんはため息をついた。外国映画みたいに大袈裟に肩なんかすくめちゃって。
そういう恰好って、祐一くんにはあんまり似合わないと思うけどな。ちょっと女の子っぽい顔だし。
あ、でもそういうアンバランスなところがいいのかなぁ。
……ごめんね。ボクには、よくわかんないんだ。
「なんか、辛いことがあったんだな?」
祐一くんと顔を合わせてるのがつらいんだよっ、と叫びたくなるのをこらえて、ボクは頷いた。
祐一くんはふむふむって偉そうに頷きかえした。
さっきはあんなに寂しそうにしてたのに。
「じゃ、話してみろよ。聞いてやるから」
……それがやりにくいから、困ってるんじゃない。
相手が祐一くんだから、話しにくいんだよ。
でも、ボクは卑怯者だ。
結局、頷いちゃった。
ごめんね、祐一くん。きっと、ボクが言うことはキミを傷つけちゃう。
3
とはいうものの、何から切り出せばいいんだろう。
祐一くんは、じっと待っててくれている。こういうとき、急かされても慌てちゃうだけだって判ってくれてるんだね。
変に強引だったり、意地悪だったりすることもあるけど、やっぱり優しいところもあるよね、キミ。
きっかけがどうしても掴めなくて、ボクは視線を逸らした。
窓の外を、ボクと同じ制服の子が何人か連れ立って通っていく。
あああっ、あれボクの同級生じゃん。
あの子達のうち誰か一人でもお店に入ってきたら、きっとボクに気がつくよね。そしたら、ボクがうじうじしてたって、結局全部バレちゃうんだ。
やっぱり、話すしかないんだ。なんとなくだけど、そう思った。背中を押された感じって言うのかな。
ボクは、同じように窓の外を眺めてた祐一くんの横顔を見詰めた。
全部、最初から、話そう。
ボクの知ってることだけだけど。
それは祐一くんを傷つけちゃうだろうけど。
「祐一くん、あのね」
「おう」
祐一くんはこっちを見た。真剣な顔っていうよりは、相談聞いてやるぞって感じ。
……ごめん。相談じゃないんだよ。
「7年前の1月、祐一くんがこの街に来た時のこと……覚えてる?」
祐一くんが息をのんだ。
空気が凍りついたみたいに思ったのは、きっと気のせいだけじゃない。
「あ、ああ。お前が俺と初めて会った年のことだよな」
違うんだ。
そのときに会ったのは、ボクじゃなかったんだよ。
だって、ボクは月宮あゆちゃんじゃないんだから。
4
駅前のベンチに腰掛けている女の子が見えるようになったのは、いつごろからだったっけ。中学のときには、もう見えてたと思う。
ボク、心霊写真とか霊の気配とか、そういうのに縁がなかったんだけど、どうしてかその子とだけは波長が合っちゃったみたいだった。
その子が月宮あゆちゃんだった。
なんとなく気味が悪くて、最初は避けてたんだよね。中学のときは駅なんて使わなくても登校できたし、駅も通学区から外れてたから、たまに見掛けるくらいで済んだ。
誰かに話すなんてできなかった。なんか、話したらそういうのが現実になるっていうか、とにかく恐かったんだよ。
それが、どうしても駅前通らなくちゃならなくなったのは、ボクが高校受験に落ちちゃってからのこと。駅前の予備校に行くことになっちゃったんだよ。
他の予備校にすればって? だって他の予備校は、電車に乗って通わなくちゃいけないんだよ。だから結局、おんなじなんだよね。
それでね。毎日毎日見ているうちに、なんかだんだん……なんていうのかな、女の子に興味が湧いて来たんだよ。
ボクは子猫が餌につられるみたいに、女の子に近づいていったんだ。毎日少しずつ。怖いもの見たさってやつだよね。
あーでも、暇だったっていうのも、あるかも。ボクの選んだコースってあんまり授業時間長くなかったし、予習復習って家でやってたし。それに、街で遊ぶのも同級生に顔見られるのってなんだか恥ずかしくて、やることなくて時間余ってたから。
そのうち、毎度毎度じろじろ見てたせいか、女の子もボクに気が付いた。
やばっ、気付かれちゃった、っていうのが最初の感想。うーん、ボクってかなり意気地なしなのかも。
これも意気地なしだからかな。その子のびっくりしたみたいな、そのくせ寂しそうな目を見たら、ボクはもう逃げられなかった。なんとなく、逃げちゃいけないって思ったんだ。
それ以上おどかさないように、ゆっくりゆっくり近寄って、ベンチに腰掛けた。視線合わせないように注意して近づいたんだ。
女の子はボクの顔をじっと見詰めてた。ボクが半分透明のその顔をじーっと睨み返したら、女の子は、うぐぅって言ってそわそわし始めた。
なんか、変だよねぇ。幽霊みたいな子なのに、生身のボクを見てそわそわしてるなんて。ボク、思わず笑っちゃったよ。それから、にっこりして話し掛けたんだ。こんにちは、って。
女の子は目をぱちぱちさせて、それから周りをきょろきょろしたけど、近くで立ち止まってる人なんて誰もいない。昼過ぎだったしね。
暫くして、すっごく驚いたような、でも今度はほんとに嬉しそうな顔になって、女の子はボクを見上げた。
「こんにちは」
気のせいじゃないんだ。ボクには、確かにその声が聞こえたんだよ。
5
「それが、あゆだったって言うのか」
「そう。それがボクと月宮あゆちゃんの出会い」
祐一くんは、なんだかよく判んないみたいだった。
ボクの説明が良くなかったのかなあ。
それとも、ボクがあゆちゃんだと信じてて、今の話は全部口からでまかせだって思ってるのかな。
「続けていい?」
「ああ」
取り敢えず、続きは聞いてくれるんだね。
ありがとう。やっぱり、キミは優しい人だね。
でも、それはボクにはちょっと痛い優しさだよ。
**********
それから、ボクたちは毎日いろんなことを話した。予備校の行き帰りだから、時間はそんなに長くなかったけどね。
最初のうちボクは全部言葉に出してしゃべってたから、側から見たら変な人状態だったと思うけど……。
あ、途中から、言葉に出すみたいに考えていれば伝わるって事が判ったから、声に出すのは止めたんだよ。かえって変な人っぽかったかな。
あゆちゃんは、もう何年も前から祐一くんを待ってることや、あゆちゃんの姿を見えた人は多分ボクが初めてだってことを教えてくれた。
自分がいつからこうなってたのかは、あゆちゃんも判ってないみたいだった。でも、祐一くんのことはよく覚えてて、たった何日間かのことを詳しく話してくれたよ。
祐一くんの話をするときのあゆちゃんは、すごく嬉しそうだった。
ボク思ったんだ。ああ、この子は祐一くんに会いたいから、こうしてずーっと待ってるんだなって。
それで、ボクは休みの日には図書館に行くことにした。あゆちゃんを祐一くんに会わせてあげたいって思ったんだ。
ほら、図書館って新聞の縮刷版が置いてあるじゃない。
あゆちゃんがあんな風になったのがいつ頃かはわかんないけど、片っ端から調べていけばきっと、原因が判るはずだって思ったんだ。事故とか事件が原因なら、名前、新聞に載るからね……。
なかなか見つからなくて大変だったけど、最後は何度も新聞の縮刷版見てるボクに司書さんが話し掛けてきて、それであっさり判っちゃった。
ボクは子供だったからよく知らなかったんだけど、7年前、あゆちゃんが事故に遭ったってことを司書さんは覚えてたんだ。
有名な事故だったから、ボクも事故があったってことだけは知ってたんだけどね。
6
「事故……」
「うん、事故……」
「……7年前」
「うん」
祐一くんは、汗を浮かべて顔を赤くしてる。
最初は素知らぬ風っていうのかな、どうでもいい話だけど聞いてやってるって感じだったのに、今は真剣そのものの顔になってる。
顔が赤いのは、恥ずかしいとか照れてるとかじゃない……よね。怒ってるわけでも、ないよね。
そのくらい、必死に思い出そうとしてるんだね。
「……駄目だ。思い出せない……」
暫くして、絞り出すように祐一くんは言った。叱られた子供が謝るみたいな、小さな声だった。
覚悟を決めて話し始めたはずなのに、泣きそうな顔見ると、胸が締めつけられるような気がするよ。
ごめんね。祐一くん。ほんとにごめん。
それはボクが言わなきゃいけないことなんだよね、きっと。
だけど、ボク意気地なしだから、やっぱり後回しにしたいよ……。
「思い出せないなら、思い出さない方がいいよ」
「……」
「思い出さない方がいいこともあるんだよ、きっと」
「適当なこと言うなよ!」
押し殺した感じだったけど、隣のテーブルのカップルが振り向いたくらい大きな声だった。
祐一くんもすぐに気づいたみたいで、すまん、って言ってまた小さな声に戻った。
「でもここまで話しといて、それはないだろ」
「……そう、だよね」
やっぱり話さなくちゃいけないんだね。
祐一くん、いいの?
いま、祐一くんは誰か……さおりさんだっけ、名前もよく覚えてなくて悪いけど……と幸せなんでしょ? あゆちゃんのこと、思い出してもいいの?
「思い出す。そこは自分で思い出すから、今は話を続けてくれ」
なんで、そんなにつらい思いしたがるの?
絶対、つらいと思うよ。思い出したら。
だって、あゆちゃんは。
「……頼む」
「うん……」
**********
あゆちゃんがそうなった原因は判ったし、祐一くんの歳も判ったけど、祐一くんを探すのは無理みたいだった。
手掛りが少なすぎたんだよ。なにしろ、ボクは祐一くんの顔も声もわかんないし、あゆちゃんはベンチから動けないみたいだし、肝心の祐一くんはこの街の人じゃないし……。
「あゆちゃんが、ボクの体に乗り移れたらいいのにね」
そんな話をしたのは、もう白いものが舞う季節に入った頃だった。
あゆちゃんの心がボクの体に入って自由に歩き回れたら、一緒に祐一くんを探せるのにね、って言ったら、あゆちゃんもうんうんって頷いた。
その後暫く、あゆちゃんはかなり本気でボクの体に飛び込んでこようとしたけど、上手く行かなかった。
「うぐう……やっぱりそんなに便利じゃなかった」
「しょうがないよ」
ボクもね、乗り移るって、そういうのとちょっと違うんじゃないかなって思ったんだよ。
でもほら、ボク幽霊じゃないし、その辺あゆちゃんの方がよく判ってるはずだから。
涙目になっちゃったあゆちゃんをなだめるのは一苦労だった。
でも、そのときはそれでおしまいだったんだよ。
7
とんでもないことが起きたのは今年に入ってすぐだった。
祐一くんは判るよね。キミがこの街に帰ってきた日なんだよ。
降り始めた雪をやだなぁって思いながら、ボクは予備校を出た。
駅前のベンチに、誰か座ってた。うわぁ、この雪の中正気の沙汰じゃないよ、って思ったんだけど、考えてみればあれって祐一くんだったんだよね。
あゆちゃんは、当然そこにいた。そして、一生懸命にその人に話し掛けてた。
ボク、見ていられなくなっちゃった。今日は暫くしてから話すことにしようって、いったん商店街に回ったんだ。
なんていうんだろ、すごく切なくなっちゃったんだよ。
最近はボク以外の人が座っても、ボクみたいにあゆちゃんのことが「見える」人かも知れないからって、話し掛けることが多くなってた。
友達が欲しかったんだね、きっと。とっても寂しくて。
でも、全員空振り。なんか特別なのはボクだけだったみたい。
それが可哀相、っていうのもあったんだけど、もうひとつ。あゆちゃんを変えちゃったような気がしてたんだ。
だって、あゆちゃんは祐一くんに会うためだけに、ずっとあそこに居たんだよ。
それなのに、ボクなんかが中途半端に目の前に出てきたから、あゆちゃんの思いが変な風に変わっちゃうのかも知れない。
普通の人ならそれでもいいよ。でも……。あゆちゃんは、そうじゃないから。
すっかり重くなっちゃった足を引きずるみたいにして戻ると、ベンチの前には幾つか足跡が残ってて、もうさっきの人はいなかった。
あゆちゃんはすごくしょんぼりしてた。何を話し掛けても上の空って感じで。
ボクも負けないくらいしょんぼりしちゃった。ああ、やっぱり駄目だったんだなって。
でもそのうち、あゆちゃんは祐一くんのこと教えてくれたんだ。今日この街に帰ってきて、なゆきって女の子と一緒に向こうに行ったって。
ボクは悲しい気分なんか吹っ飛んじゃった。思わず言葉に出して言っちゃったくらい。
「じゃあ、もう大丈夫だね。この街の中にいるなら、いくらでも探せるよ」
「そ、そうかな」
「そうだよ! ボク、頑張って探しちゃうよ」
「うぐぅ……」
あゆちゃんは浮かない顔をしてた。どうしたの、って聞くと、上目遣いになって、それからうつむいちゃった。
「祐一くんと、話せないんだ……よ」
「……あ」
そうなんだ。ボクがいくら祐一くんを見つけて連れてきても、話はできないんだよ。
祐一くんにはあゆちゃんは見えないし、あゆちゃんの声も聞こえなかったんだから。
膨らんだ風船がぴゅーって飛んでっちゃうみたいに、ボクのはしゃいだ気分もどこかに飛んでっちゃった。
8
「でも、あゆは俺の目の前に現れた」
「うん。ボクの姿でね」
「じゃあ、あれは……全部おまえだったのか?」
「そうだけど、そうじゃないんだよ」
祐一くんはまた、訳わかんないって顔になった。
そりゃそうだよね。ボクだってわかんないもん。
でも、その顔してくれるの、ちょっとだけ嬉しいんだ。
さっきみたいな顔は……また見ることになると思うけど……見てて、すごくつらいから。
「取り敢えず、続けてくれ」
「うん」
**********
1月の7日、あゆちゃんのところに行ったとき、それはほんとに唐突に起こったんだ。
何が起きたのかわかんなかったし、今でもどうしてそんなことが起きたのかよくわかんない。
だけど、多分あれは、あゆちゃんの願いが起こしたことだと思うんだ。
ボクの願いも、ちょっぴり入ってたら嬉しいけど、やっぱりよくわかんない。あの日そんなに強く、そうなることを願ってたのかって考えても、どうかなぁって思うし。
ベンチに座って話し掛けようとしたときだった。いきなり頭がくらくらっとして、気が付いたら、ボクはなんか変な状態になってた。
夢の中にいるみたい、っていうのかな。自分は自分なんだけど、自分の身体を動かしてるのは別の人なんだ。
すぐに判ったよ。ボクの身体を動かしてるのはあゆちゃん。
びっくりしたけど、ものすごく驚いてもいなかった。そうなればいいな、って話してたしね。
ずっとこのままだったらどうしよう、って思ったりもしたけど、暫くしたらちゃんと戻れたし。
でも、あの後すぐに祐一くんと出会ったり、その前にたいやきを盗って逃げ出したりしちゃったのには参ったよ。
ボクいつも背中のバッグの中にお財布入れてたのに、あゆちゃん全然気が付かなくて。
スカートのポケットとかコートのポケットとか探してて、たいやき屋のおじさんに見付かったら慌てて逃げ出しちゃうんだよ!
でも、それで早速祐一くんと会えたんだから、あれもあれで良かったのかなあ。
あ、お金はね……あの日暗くなって、ボクがボクに戻ってから、返しに行った。ごめんなさいって言ったら、逆におじさんの方が、恐がらせてごめんって言ってくれたんだ。
おじさんいい人で良かったけど、なんだかすっごく悪いことした気分だったよ。
そんな風に、なんていうか、割合上手く行ったと思ったんだけど……。
やっぱり、上手く行ってなかった。
あ、予備校の授業の方は、結構サボったのに何も言われなかったんだけどね。
後で聞いたら、気にしてた人はいたみたいだけど。なんかそれも寂しい話だよねぇ。
それは置いといて、ボクの体を使ってるときのあゆちゃんは、やっぱり半分夢の中にいるみたいな状態だったみたい。
しかも、ボクはちゃんと何が起きてたか覚えてるのに、肝心のあゆちゃんの方はボクから出るとなんにも覚えてないんだよ。
ボクを乗っ取ってるときも、そのときにしたことは思い出せるみたいなんだけど、ボクのことも、ボクと喋ってたこととか待ってたことも忘れてるみたいで。
テレビでやってた多重人格っていうのと似てるかも。違うかな。
せめて、ボクを乗っ取ってるときにあゆちゃんと話せればいいんだけど、それもできないみたいだった。
とにかくそんな中途半端な状態で、ボクは毎日あゆちゃんにその日起きたことを報告してた。
「今日も、何か探してたんだよ」
「何か……かぁ」
「うん、なんだか、ものすごく大切なものらしいんだけど……」
「そうなんだ……」
あゆちゃんはうーんって考え込んだ。
ボクの体を乗っ取ってるときのあゆちゃんが一生懸命探してるものが何なのか、やっぱり、心当たりはないみたいだった。
「天使のお人形があればいいのに」
「天使の人形?」
「うん」
祐一くんは覚えてる?
7年前、キミがあゆちゃんに上げた人形。祐一くんの叶えられることなら、何でも3つまで、あゆちゃんの願いを叶えてくれるお人形だって、あゆちゃんは言ってた。
そして、あとひとつだけ、お願いが残ってるんだって。
ベンチに座ってるときのあゆちゃんは、その人形のことを覚えてるみたいだった。
でも、ボクの体を乗っ取ってるときは、思い出してないみたいなんだ。
「お人形にお願いすれば、探してるものも見つかるかも……」
「え? 有効なお願いは祐一くんが叶えてあげられることだけじゃないの?」
あゆちゃんはぶんぶん首を振った。
確か、前に聞いた話だとそうだったけど。
でも、あゆちゃんははっきりと言った。
「ずっと待ってる間に、お願いの力も強くなってるんだよ。この間、天使さんがそう言ってたから」
「そ、そうなんだ」
「うん」
天使さん……かぁ。
それって、あゆちゃんの夢じゃないのかな、とは思ったけど、はっきり表に出すのは止めておいた。
だって、ボクがこうしてあゆちゃんと話したり、あゆちゃんに体貸したりしてるのだって充分夢みたいなんだもん。この上もうちょっと変なことが起きたって、全然不思議じゃないよね。
でも、人形にそんなパワーがあるとしたら……
「ねえ、あゆちゃん。あゆちゃんが探してるのって、その人形そのものじゃないかな」
「うぐぅ?」
「あゆちゃんがボクの中にいるときに、いまみたいにしてるときの記憶が全部消えちゃうんじゃなくて、どっかに残ってるんだったら……」
「あ……」
あゆちゃんが何を感じたり、何を考えてるかは、あゆちゃんがボクの中にいるときも、ボクにははっきりとはわかんない。けど、でももし、今みたいにしてるときのあゆちゃんが天使の人形を探したいと思ってたら。
体を自由に使えるようになったあゆちゃんは、曖昧な記憶のまま、それを探そうとしてるんじゃないかな。
もちろん、ボクの想像だよ。根拠なんて全然ないよ。
でも、なんとなくそう思ったんだ。
結局、その日はあゆちゃんとそれ以上突っ込んだ話はできなかった。
少し早めにベンチからさよならしたボクは、久しぶりに商店街に回ったんだ。
買いたいものは溜まってたんだ。毎日行ってはいるけど、たいやきだけだからね……。
たいやきのお金は、小銭入れをコートのポケットに入れることにしたんだ。毎日毎日何百円もたいやきに化けちゃうのはちょっと恐怖だったけど、お昼ご飯の分のお金を回せばいいことに気がついた。
なにしろ、たいやき食べてるから……。朝ご飯はしっかり食べてるから、お昼は我慢できたしね。
後ろから声をかけられたのは、本屋さんから出て、バッグの中に月刊誌を詰め込んでるときだった。
振り向くと、司書さんが立ってた。前にあゆちゃんの事故のこと調べてたときに、教えてくれた人だよ。
挨拶して、少し立ち話をしてから、司書さんは急に言ったんだ。
「もう、月宮あゆちゃんのお見舞いには行ってみた?」
祐一くんごめんね。ボクそのとき、ええっ、て思っちゃった。
だって、ボクあゆちゃんのこと、幽霊だと思ってたから。
生き霊さんだなんて思いもしなかったんだよ。
でも、生き霊さんだとしたら、あゆちゃんの記憶の混乱みたいなのも、ちょっとだけわかる気がするんだ。
あゆちゃんの体は病院にいて、ベンチにいるあゆちゃんも、ボクの中に入ってるときのあゆちゃんも、根っこの部分は体につながってるんだと思うんだ。
多分、病院にいるあゆちゃんは、ずっと夢を見てるような状態なんだと思う。
根っこは同じなんだけど、ボクの体に入ってるときは、新しい別の夢なんだ。だから、ベンチに座ってるときの夢の内容は、ほとんど覚えてないんじゃないかな。
これも、ボクの想像だけどね。
9
「……それで、天使の人形は見つかったんだな?」
祐一くんは先をせかすように聞いてきた。
ごめん。また脱線しちゃってたね。
でも、半分はわざとだったんだよ。
「うん」
「見つけたのは……」
「あゆちゃんだったよ」
そう、ボクじゃなかった。ボクだったら、聞いてからすぐに探し当てられたと思うんだけど。でも離れたときのあゆちゃんは、ボクにはとうとう人形の場所を教えてくれなかった。
あゆちゃんは、ボクにも言えないことがあったんだよね。
人形の力のこと。
人形を探し当てたら、ボクの体に入ってるときの自分も、きっと全部わかっちゃうってこと。あゆちゃんが今思い出せないことまで、全部。
だけど……
ボクの体に入ってるときのあゆちゃんには、ベンチに座ってるときのあゆちゃんは何もできなかった。
ボクの体だけど、あゆちゃんが入ってるときは、ボクは何もできずに見てるしかなかった。
なんて、不便で融通が利かないボクたちなんだろう。
**********
人形を見つけたのは、多分偶然だったと思う。
もしかしたら、その頃はもう少しずつ、二つの夢は交じり合ってたのかもしれない。それだと偶然じゃないことになるけど、どっちなのかボクにはわかんなかったし、今でもわかんない。
確かなのは、ある夕方あゆちゃんはそれを見つけて、そして、全部判っちゃったってこと。
ずっと寝たきりで、ここにいるのはボクの身体っていう器を借りたあゆちゃんの心だけってこと。ベンチで座ってるあゆちゃんが、ずっと祐一くんを待ってたこと。探してたものが、やっぱりその人形で間違いなかったこと。
全部知ってしまった自分が、もう今の状態ではいられなくなってしまうことも。
**********
「待てよ」
祐一くんが、干からびたようなかすれた声を出した。
「その、人形の願いを使ったんなら、どうしてあゆは姿を見せないんだ?
人形を見つけたかったのは、パワーアップした願いを使って復活することじゃなかったのかよ」
「最初は、そのつもりだったんだと思うよ」
最初は、そうだったのかもね。でも、ボクにさえ、手伝って欲しいなんて言い出せなかった。
それに、人形を見つけたときは、もうそんなことは考えてなかったんだよ。
だから……。
「7年前、あゆは言ってたんだぞ。『このお願いは、将来の自分に』……」
「でも、その次に『別の誰かに』とも言ってたんじゃない?」
あてずっぽうだったけど、祐一くんは苦しそうに頷いた。
やっぱり、そうだったんだね。
あゆちゃんは、そういう子だもん。
「なんでだよ。わからん。全然理解できない」
嘘だよ。祐一くんには判ってるはずだよ。
ボクだって覚えてるもん。
あのとき、もう祐一くんの心には別の人が住んでた。
それは祐一くんが悪いんでも、その人が悪いんでもなくて。
多分いろんなことがあって、二人の心が寄り添い合うことになったんだろうね。
あゆちゃんもきちんとそれを判ってた。だから、自分のためにお願いを使おうなんて思わなかったんだよ。
だって、祐一くんが傍に居ない自分なんて、考えてなかったから。
だけど、祐一くんの傍に居る人を押しのけるなんて、考えられなかったから。
「あゆちゃん、言ってたんだ。ボクがもらう奇跡は一つだけでいいって」
「一つ?」
「もう会えないはずの人に逢えて、話もできて、大好きなものもいっぱい食べられたし、楽しい時間も過ごせた。
すごい奇跡だよね、って」
「……」
「だから、お願いの力は、誰かほかの人に使った方がいいんだ、って」
祐一くんは、こぶしを固めた。下唇を噛み締めて、机に、ゆっくりとそれを下ろした。何度か。
ボクは小さな声で、お見舞いに行く? って尋ねた。
祐一くんは、泣きそうな声で、ああ、って頷いた。
ボクは、初めて口に出して、ごめんねって言った。
返事はなかった。
10
病院から出て、ボク達は暗くなった道を歩いた。
祐一くんは、ずっと斜め下を向いてる。ボクはたまに祐一くんの顔を見ながら、なんとなく落ち着かなくてきょろきょろしながら歩いてた。
二人とも、何も言わなかった。
言えなかった。
病室に居るあゆちゃんは、今すぐにでも起きておはようって言いそうな感じで、ほんとにただ眠ってるみたいに見えた。前にお見舞いしたときもそう思ったけど、7年以上もそのままなんて信じられないくらいだった。
それを思い出すと、胸が詰まっちゃうんだ。
ボクの思いと、祐一くんの想いは多分ぜんぜん別だと思う。でも、ふたりとも何も言えないのは一緒だった。
四辻にきて、ボクは足を止めた。祐一くんは一歩歩いて、それから振り返った。
「どうした?」
「ボク、こっちだから」
「でもおまえの……」
祐一くん、それはすごく残酷な呟きだよ。
ボク達、どっちにとってもね。
「……ごめん」
「ううん、いいよ」
ふたりで苦笑いして、それから少しだけ話をした。
他愛ない世間話。空模様とか、成績のこととか。
それが途切れると、祐一くんはボクの顔をじっと見つめた。
祐一くんにとっての、あゆちゃんの顔だよね。
ボクにとってのあゆちゃんの顔は、多分7年前の事故のときのままの、あのベンチに腰掛けてた女の子の顔だけど。
「いろいろ、ありがと」
「ううん、ボクのお節介で、なんかみんなにつらい思いさせちゃったのかも」
「そんなこと、あるはずないだろ」
祐一くんはそう言って、細い月の出ている空を見上げた。
綺麗だな、って思った。かっこいいとは思えなかったけど、寂しい綺麗さがあった。
祐一くんはすぐにボクに向き直ると、いつもの──前の冬、あゆちゃんと話してたときみたいな──口調になって、ご褒美になんか一つ我侭きいてやるぞ、って言った。
「いいの?」
「ああ。今すぐ叶えられることだけだけどな」
「相変わらず、ちょっとけちなんだね」
「これから我侭聞いてやるやつに言われたかねーよ」
「あははは」
二人で笑ってから、ボク達は真面目な顔になった。
なんとなく、ふざけてはいられない気がしたんだ。
「なんでも言えよ」
「うん……じゃあ」
ボクは息を吸い込んだ。
「ボクのこと、忘れてください」
祐一くんは、何も言わなかった。だけど、表情も変えなかった。
「ボクなんかはじめから居なかったって。あの冬、キミの前に姿を現したのは、月宮あゆちゃんだったって。
そして、あゆちゃんは別の町で元気にしてるって……そう、思ってください」
祐一くんは、空を見上げて長い息を吐いた。
それから、そっぽを向いたまま、はっきり言った。
「それは駄目だ」
なんで。
いいじゃない。ボク、ずっとそのためにいろいろしてきたんだよ。
道も変えたし、商店街にも寄らないようにした。あゆちゃんの大好きな、ボクもいつのまにか好きになってたたいやきも我慢した。
だから、それでいいじゃない。どうして、わかってくれないのさ……
「俺、決めたんだ。今日おまえに会って、あゆにも会って、少しだけだけど昔のことも思い出した」
「……うん」
「俺は、都合の悪いことを忘れようとしてた。今でも多分、一番つらいことは忘れてると思う。でも、それはよくないことだろ」
あゆのことまで忘れちまったんだからな、という祐一くんの声は、自棄っぽい口調だったけど、泣いてるようにも聞こえた。
「だから、もう忘れない。都合のいいところだけ繋ぎ合わせた、嘘の過去はもう厭だ。どんなに汚くても、つらくても、都合が悪くても、全部乗り越えて行かなきゃいけないんだ。俺達、生きてるんだから」
ボクは頷いた。
そうだね。
一番つらかった祐一くんがそう言うのなら。
11
夜風がちょっぴり寒くなってきた。
祐一くんがくしゃみを始めたところで、ボク達は、またね、って手を振って別れた。
さよならじゃないよ。これから、どこでいつ出会うかわかんないからね。
そのたび、お互いちょっとどきどきするんだろうな。そして、多分寂しかったり、つらかったりもするんだろうな。
でも、祐一くんの言うとおり、ボク達は生きてる。生きてる限り、そういうこととはちゃんと向き合っていかなくちゃいけないんだよね。
……生きてる。
ボクははっと気がついた。
生きてる限り。
どんなにつらくても。
鞄をごそごそあさる。少し泥のついたままの、古い人形は、ビニールの透明な袋に入ってちゃんとそこにあった。
あゆちゃんが、最後にボクに身体を返すときにくれた人形。
あゆちゃんはもうこれを使うことができないし、誰に使っていいのかわかんないから、ボクに、これを使ってって。
そうだよ。これがほんとに、あゆちゃんの言ったとおりのお願いの力を持ってるなら、そしてボクがこれを使えるなら、ボクがあゆちゃんを目覚めさせることだってできるはずだ。
それは、あゆちゃんにとってすごくつらい道になると思う。
大好きなお母さんもいない。
大好きな祐一くんは、ほかの女の子を愛してしまっている。
リハビリだってある。元通りの身体に、戻れないかもしれない。
でも。
あゆちゃんも、生きてるんだよね。どんなにつらくたって、それに向き合っていかなくちゃいけないよ。
だって、もともとこの人形のお願いは、あゆちゃんのためにあったんだから。
ボクは人形を袋から取り出した。
お願いするにはどうすればいいのか、ボクは知らない。だから、ボクはそれを弱弱しい月の光に捧げるようにして、ただ、真剣に祈ってみる。
ボクの祈る、この人形の最後の願いは。
月宮あゆちゃんが、元気になることです。
もし、このお願いがとどくのなら、あゆちゃんを目覚めさせてください。
そして……できることなら、それからのさまざまなつらいことに、向かい合っていける心をあゆちゃんに持たせてあげてください。
ボクで良ければ、いくらでも力になります。
だって、ボクはあゆちゃんの、今は多分一番の親友ですから。
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