注:連載一周年記念ということで、皆様からアイディアを募った今回の企画。
ふたを開けてみれば、やはりというかなんと言うか、一番私の琴線を刺激したのはvivid編の先取りでした。
というわけで、今回は話の都合上時間軸がズレ、vivid編が始まった頃となります。
話の整合性を始め、暫定的な部分も多くありますがその辺はご了承ください。
実際にvivid編に入った時は別の形になっているかもしれません。
それでは、これは基本的に本編と直接つながるとは限らない事を承知した上でお読みください。
* * * * *
次元の海の中心世界「ミッドチルダ」。
都市型テロ「JS事件」の発生と解決からは、既に四年が経過して。
幼かった子ども達も成長し、大人達が勝ちとった穏やかな日々を生きている。
ある者は「強くなる」という母との約束を果たす為。
ある者は父に憧れ受け継いだ信念を貫く為。
競技選手(アスリート)として、あるいは武人として邁進する日々。
これは、そんな育ちゆく新たな世代の鮮烈(ヴィヴィッド)な物語。
走る。奔る。趨る。
寒い冬が明けて春になり、新年度を迎えて間もない今日この頃。
日を追うごとに暖かくなるそんな日の夜、街頭と月の光に照らされた暗いミッドの街を駆ける一つの影があった。
大人たちの帰宅時間と重なったらしく、既に7時を回っているが人通りは少なくない。
擦れ違う人々は、誰もが「何を急いでいるのだろう」と不思議そうにその影を視線で追う。
無理もない。如何にトレーニングウェアを着こんでいるとはいえ、これはジョギングやランニングの類ではない。
それは、誰の眼から見ても間違えようのない全力疾走。明らかに、スピード重視の短距離走のペース。
長く走る為ではなく、とにかく急ぐ。誰の眼から見ても、そうとしか思えない。
が、その影の後ろ姿を見て、すれ違った大人たちは眼をギョッと見開く。
何しろ、影の背中には異様な物体が担がれている。灰色の、どこかゴツゴツとした等身大の物体。
ミッドチルダではあまり馴染みがないが、「地蔵」と呼ばれるとある管理外世界の宗教的石像の一種である。
とはいえ、その管理外世界でもこうして地蔵を担いで走る人間などまずいない。
そもそも、石で出来ているために等身大ともなれば途方もなく重いのだ。
そんな物を担いで走れるだけでもとんでもないのに、この速度。
魔法を使っているなら話は別だが、もし純粋に身体能力だけだったらとしたらバカバカしい身体能力である。
しかし、彼らは知らない。
実はこれは「地蔵担ぎ」という技法で、重心を上に持って行く事で前に進む推進力に変えているのだ。
単純に担いで走るのでは恐ろしく大変だが、この技法を身に付けているため外見ほどではない。
まぁ、別にだからと言って楽々できる事でもないのだが。
と言ったところで、別にそれで地蔵を担いで走ることに対して、納得がいく訳ではない。
まさか、こんな時間に地蔵の配達などと言う事もないだろう。
そもそも、地蔵を配達すると言う状況がおかしい。
では、この人物はいったい何をしていて、何をそんなに急いでいるのか。
答えは簡単。単純な「走り込み」である。
特に目的地がある訳でもなければ、何か急ぎの用がある訳でもない。
純粋な基礎体力作りを目的としたトレーニングである。
が、普通こんな荷物を担いで、こんなペースで行うなどあり得ない。
実は魔法を使っていて、これ位はジョギングレベルと言うのなら話は別だろう。
しかし、彼は魔法など一切使っていない。だが、これこそが彼の日常だった。
(よし、今日はこっちに行ってみよう)
突如進路を変え、横道に逸れる。特に理由はない、単なる思いつきだ。
強いて理由を上げるなら、コースを変える事で新鮮な気持ちで走れるから、と言う程度。
人間何より慣れが怖い。走り込み一つとっても、慣れが過ぎれば惰性に変わりかねない。
と言うのは建前で、普段と違う風景が視界をよぎるのが楽しいからなのだが。
あとはまぁ、もう一つ理由がないわけではないが……こちらは多分に運の要素が強い。
『もしかしたら』とは思うが、あまり期待はしていない。
だが、今日の影はどうやら運が良かったようだ。
額には玉の汗が浮かび、激しいながらも一定のリズムを刻む呼吸。
そのペースが落ちる事はなく、ただひたすらに走り続ける。
ふっと気付くと、人通りの少ない広場に出た。
普段なら、特に気にすることもなく通り過ぎていたことだろう。
しかしこの時、影は唐突に足を止めた。軽く息を整えながら、広場の一角を見る。
そこには幾人かのガタイの良い男達が輪を描きたむろし、どこか険呑な雰囲気があった。
とはいえ、それだけなら大した問題ではない。
関わりたくなければ、見て見ぬふりをしてその場を後にすればいい。
だが、そうとわかっていながらも影は足を止めた。
輪そのものはどうでもいい、重要なのは輪の中心。
中心に立つ、長い碧銀の髪をツーテールにし、白を基調とした活動的な衣装を身に纏った少女。
目元はバイザーで隠れ、素顔はうかがい知れない。
しかしシャープな顎のライン、鼻や口もとの造形から、整った顔立ちである事はわかる。
その少女を発見し、影の口元が僅かに綻ぶ。
「…………いた」
一見すると、一人の少女に暴漢が迫っているようにも見える。
もしそうであったのなら、影は即座に少女を助けに入ったことだろう。
だが、影は動かない。
ただ静かに、そのあまり真っ当な雰囲気を感じさせない集団を見ている。
いや、正確には周囲の男達はほとんど見ていない。
見ているのは、凛とした佇まいの少女の事だけだ。
少女は影の事を知らない、それどころか影が自分の方を見ていることすら気づいてはいないだろう。
だが、影は以前から何度か少女の事を見かけたことがある。
コースを変えたのも、もしかしたら見かけるかもしれない可能性を期待してのことだ。
特に理由や目的はない。単に、少女の事が少し気になるから。
やがて、少女の周囲を囲む男達の中から、特に体格の良い男が進み出た。
男は少女から2mほどの距離で立ち止まると、構えを取って軽くステップを踏む。
少女もそれに倣い、軽く腰を落として構えを取る。
その他の男たちが手を出そうとする素振りはない。
所謂、路上試合と言う奴なのだろう。
あまり褒められたものではないが、影の瞳に非難や嫌悪の色はなかった。
双方合意の上での勝負なら、外野が口を出すなど無粋の極みなのだから。
じりじりと、徐々に間合いを詰めていく二人。
そして、先に動いたのは男の方だった。
「おらぁ!!」
体格差を利用した上からの打ち下ろし。
腕には環状魔法陣が展開され、体重と共にしっかりと魔力が乗っていた。
少女はそれを左でガードし、しっかりと大地を踏みしめる。
まさかこうもあっさりとガードされるとは思っていなかったのか、男の顔が驚愕に歪んだ。
(甘く見過ぎだ……)
男の反応に影は小さく呟く。
外見から非力とでも思ったのかもしれないが、それは浅はかと言うもの。
確かに少女は華奢だが、仮にもこれは魔法格闘戦。
単純な肉弾戦なら、確かに体格がものを言うだろう。
だが、魔法戦ではその限りではない。
どんなに華奢であったとしても、それは判断材料としては薄弱過ぎるのだ。
空いた右が男のボディーを打つ。
華奢な身体からは想像もできない豪腕に、男の体がくの字に折れ曲がる。
男はたまらずせき込みながら距離を取るが、少女に甘さはない。
見慣れない独特な歩法で一息に間合いを詰め、追撃をかける。
「ぐぉっ!?」
男は慌てて顔面をガードし、突撃からの掌打を防ぐ。
とはいえ、これで完全にペースは少女が握った。
全力で守りを固める男に対し、次々と重い打撃が繰り出される。
男の体はその度に揺れ、徐々に脚から力が抜けていく。
終始男を圧倒する少女。
しかし、遠目からその様を見る影には、少女の拳筋に優越感の様な物は感じられなかった。
(また、泣いてるんですか?)
日課の走り込みの最中、偶然見かけた路上試合。
初めて彼女を見かけた時……実のところ、それほど興味は湧かなかった。
拳筋は確かに清々しいまでに真っ直ぐで、その戦技は華麗で美しい。
だが、逆に言えばそれだけ。影は少女より遥かに流麗な拳を山ほど知っている。
どれだけ光る物が秘められていたとしても、半ば以上埋もれていては魅かれないのも当然だ。
故に、影が魅かれたのは少女の拳ではない。
魅かれたのは、偶々バイザーが飛んだ瞬間飛び込んできた、その瞳。
碧銀の髪の隙間から垣間見た虹彩異色の瞳は、幼馴染の活発な紅と翠とは違う静かな湖を想わせる蒼と紫。
そんな吸い込まれる様な瞳の奥に、影は見た。
やり場のない、行き場のない…強く、深く、悲しい光を。
あれ以来、どうしてもあの瞳が忘れられない。
今もきっと、バイザーの奥に隠された瞳は同じ光を宿しているのだろう。
何故かはわからないが、それが無性に心をかき乱す。
そういている間に、試合の決着はついていた。
案の定、結果は少女の勝ち。だが、勝利を噛みしめるその様にも、喜びの様な物はない。
周囲の男たちは少女の強さに恐れをなしたのか、新たな挑戦者はあらわれなかった。
代わりに、倒れた仲間を抱えてまばらに逃げていく。
声をかけるべきか、影は悩む。
変な所で優柔不断というか意気地なしなのは、どうも父親譲りらしい。
少女は肩を落とし、勝者らしからぬ様子でその場を後にする。
影には、その後を追う事が出来なかった。
リクエスト企画パート1「vivid編 第一話(予定)」
第一管理世界「ミッドチルダ」某所。季節は春。まだ朝靄も残る早朝。
長い夜を終え、ようやく朝日が昇りカーテンの隙間から光が差し込む。
夜の間に冷えた空気はまだ冷たく、甘い眠りを誘惑する。
「……な…い」
鈴を鳴らすような玲瓏な声。真上からかけられたそれに、僅かに意識が覚醒した。
だが、蠱惑的な二度寝の誘惑に負け、頭まですっぽり布団を被る。
「…ったく。ほら、起………さい!」
澄んだ声に、不機嫌の色が追加される。
語調は僅かに強くなり、体を包む温かな結界(布団)に手が掛かった。
布団の中の物体はそれを敏感に察知し、抵抗するべく内側から布団を掴む。
「翔! もう朝よ!!」
上と下、真逆の方向に引っ張られる布団。
寝ぼけている癖に、妙にしっかりと掴まれた布団は中々はがれない。
無理矢理引っぺがすこともできるが、その場合布団が破れる恐れもある。
決して貧乏ではないが、余計な出費は抑えるに越した事はない。
特に、それが家計を預かる身としては……。
そこで布団を引く手が離され、重力に従い再度眠り子の上に戻る。
代わりに、楽園(布団)を奪おうとする侵略者は布団の上にまたがり、拳を握った。
そして……
「ほら、起きなさい!!」
それなりに強く、拳を真下に叩きつける。
だが、その拳が布団の中身を打つ事はなく、無駄に機敏な動きでそれは布団から飛び出した。
「ふぁ~…いきなり殴るなんて酷いよ~」
パジャマ姿で、大あくびをかきながら眠そうに眼元をこする。
どうやらまだ寝足りないらしく、起きたくせに頭は左右にグラグラと揺れ、眼はボンヤリと細められたまま。
突然殴ってきた下手人、長い青髪をリボンで結ったエプロン姿の女性は呆れたように返す。
「だって、これ位やらないと起きないでしょうが。
それに、そもそも翔がしっかり起きれば私だってこんなことしないわよ」
「うぅ~……」
「まったく、また遅くまで巻き藁を叩いてたんでしょ。あれだけ早く寝なさいって言ってるのに」
「ちゃ、ちゃんと寝てるもん」
「それなら自分でしっかり起きる。楽しいのはわかるけど、ほどほどにしなさいね。
さ、いつまでもそうしてないで着替えて顔を洗ってきなさい。
もう師匠が下で待ってるんだから。それとも、今日はやめとく?」
不満そうに唸る翔と呼ばれた人物に、まるで母親の様な小言を重ねる。
元々面倒見の良い性質ではあったが、最近はすっかり母親じみてきた物だ。
「やる~」
「それなら急ぎなさい」
「ふぁ~い」
あくびと返事を一緒にしながら、のろのろと上着を脱ぐ。
その間に、エプロン姿の女性は部屋の襖を開け廊下に出る。
そうして襖を閉じる直前、翔は思い出したように言った。
「ぁ、おはよう姉さま」
「うん、おはよう翔」
翔の挨拶に、姉さまと呼ばれた女性…ギンガは笑顔で返して襖を閉めた。
こうして、白浜翔の朝が今日も始まる。
* * * * *
白浜翔。ミッドチルダ在住の区立学校初等科4年生。
出身は別の世界なのだが、諸事情があって数年前から故郷を遠く離れてこの世界で暮らしている。
元は公務員だったのだが色々あって今は「半公務員(局員待遇の民間人)」な父と、ちゃんと「公務員」をやっている姉の三人暮らし。厳密には姉弟ではなく、姉はこの家の「内弟子」として住み込んでいるのだが、本物の家族同然なのでその分け方に意味はない。
「あ、来たね」
「おはよう、父様」
「うん、おはよう」
黒髪の、柔和な顔立ちと眼元の絆創膏がトレードマークの二十代前半くらいにしか見えない父「白浜兼一」。
既に門の前に出ていた彼の足元には、ロープの結えられた古タイヤが一つ。
ロープを翔の胴に括りつけ、兼一はタイヤの上に胡坐をかく。
その手にはなぜか鞭が握られているが、翔をはじめだれも気にしない。
「じゃ、朝食前にかる~く町内3周しとこうか」
「は~い」
「いってらっしゃい。人を撥ねちゃダメよ、翔」
「うん」
エプロン姿の姉(弟子)「ギンガ・ナカジマ」に見送られ、走りだす。
ただし、その速度はマラソンやジョギングなどとは次元が違う。
後先など知ったこっちゃねぇやとばかりの全力疾走。
その上、胴に括られたロープが伸び切った時、その先にある兼一の乗ったタイヤも動き出す。
比較的小柄とは言え、大人1人が乗ったタイヤを引いての全力疾走で町内3周。
はっきりいって、頭がイカれているとしか思えない。
だが、これこそが白浜家の日常なのだ。
「さあ、もっと早く!」
「う、うん!」
「もっともっと早く!!」
しかも、この上さらに要求されるスピード。
見る見るうちに速度を上げ、二人の背中が見えなくなっていく。
それを見送ったギンガは、朝食の準備をするべく家の中に戻る。
外観は、ミッドの住宅街では少々浮いた白い壁と黒に近い紺色の瓦がまぶしい日本家屋。
廊下は板張り、各部屋には畳が敷かれ、木の柱には中々趣深いものがある。
母屋は2階建てなのだが、その他に庭の半分を占有する平屋の道場
庭事態のスペースも広めにとられており、花壇や杭が目立つ。
こんな構造の為、その敷地面積はかなり広い。普通の一般住宅で3~4軒分と言ったところか。
なにしろ、門から母屋までが既に5mあるのだから、その広さはかなりのもの。
とはいえ、これでも兼一からすれば必要最低限抑えている。
だが本来兼一の貯蓄では、ローンを組んでもこんな家は難しい。
では、いったいどうやってこんな豪邸を建てたのか。
そもそもミッドに来たばかりの頃はギンガの実家に居候していたのだが、いつまでもそれではバツが悪い。
そこで家を買うことにはしたのだが、色々な条件を鑑みると手が出せない。
しかしある時、悪友が「仮にもウチのナンバー2がそれじゃ体裁が悪ぃだろ」と言って金を貸してくれた。
もちろん、「働いて返してもらうぜ」とは言っていたし、借金はちゃんと返済しているが。
その結果、借金まみれではあるがこんな豪邸に住めていると言う次第である。
まぁ、仲間内の逗留施設を兼ねてしまっているのは御愛嬌だろう。
少々長めの廊下を歩き、台所に戻ったギンガ。
だがそこで目にしたのは、僅かに分量の減った朝食。
「さてっと……あ!? まったく、見かけないと思ったら、またつまみ食いして」
腰に手をやり、少々鼻息を荒くするギンガ。
犯人がだれかは分かっている。この家の住人は家主の兼一と息子の翔、そして内弟子のギンガだけ…ではない。
人数は3人だが、その単位ではカウントされない存在がいるのだ。
「出てきなさい、闘忠丸!!」
「ぢゅっぢゅっぢゅ♪」
大声で怒鳴るギンガに対し、物影でほくそ笑むしっぽにリボンを結った灰色のネズミが一匹。
その手元には奪われた朝食が山と積まれ、頬もハムスターの様にパンパンに膨らんでいる。
まぁ、ネズミ一匹ではたいした量ではないが、それでもつまみ食いはつまみ食い。
家計と並び、台所を預かる身として見過ごすわけにはいかない。
「5秒待つわ。その間に出てきなさい。さもなくば……」
まともにやって捕まえられるとは、ギンガも思っていない。
何しろこの闘忠丸、ただのネズミではない。
まずネズミとは思えないほど賢く多才で、音楽や経済にも精通している。
それだけでなく戦闘能力も中々のもので、自身より10倍以上も大きいネコを倒してしまう程。
また武器の扱いにも長け、その槍捌きは達人と呼ばれる人物をして「見事」と称賛せしめた。
そんな、常軌を逸したスーパーネズミなのである。
なにしろ、普通ネズミの寿命は5年に満たないにもかかわらず、この闘忠丸は20年以上生きたのだ。
だが、さすがに闘忠丸もよる年波には勝てない。
ある時白浜親子が帰省した際、ついに寿命を迎えたのだが、その時奇跡が起こった。
翔は、その体内に魔力と言う力を操る為のリンカーコアと言う器官を持つ。
これは次元世界ではもはや常識として受け入れられている力であり、ギンガもまたこれを持っている。
とはいえ、幼かった翔にこれを思いのままに操る事は出来なかった。
だが、彼はその時この力を無意識のうちに死に行く闘忠丸に与え、使い魔として蘇生したのだ。
元々翔は無意識のうちに他者に魔力を流していたが、これはそれが上手く嵌った結果だろう。
使い魔とは、魔法を操る魔導士が作成し、使役する魔法生命体の総称。
動物が死亡する直前または直後に、人造魂魄を憑依させる事で作り出す。
しかし、肉体の命は繋ぐことができるが、生前とは人格の異なる別個の存在を生みだしているにすぎないのが実情だ。まぁ、少しは生前の記憶が残る可能性もあるが、結局はそれだけに過ぎない。
だが、だからこそ闘忠丸の存在は奇跡なのである。
闘忠丸の心身は、既にネズミの域ではなかった。
その強靭な精神は自己の変質を許さず、なんと元のままの自我を保持し続けているのだ。
まぁ、翔の魔導士としての能力の低さから、何かと不便は少なくないようだが。
とはいえ、彼なら最低限の魔力供給だけ受けて故郷に残る事も出来ただろう。
そうしなかったのは、仮にも命を繋いでもらった恩義からか、それとも……単にこちらの方が面白そうだったからだけかもしれない。
話が逸れた。
そんな闘忠丸をいぶり出すべく、ギンガは戸棚から何かを取りだす。
「これを撒くわよ」
ギンガが手に取ったのは、ハッカの噴霧器。ネズミをはじめ、動物は煙や刺激臭を嫌う。
人間にとってハッカを充満させるくらいではそれほど影響はないが、鼻の効く闘忠丸には刺激が強過ぎる。
「っ!?」
よほどショックを受けたのか、抱えた食べ物を落とす闘忠丸。
耐えられずに気絶する、と言う事はないにしても、家中にハッカの匂いが立ちこめていては気の休まる時がない。
人間的に言えば、常にうっすらとアンモニア臭が立ち込める中で生活しろと言うのと同義である。
「あるいは、あなたのコレクション全部処分しても良いのよ」
「……っ!!??」
闘忠丸は、ネズミのくせに物に執着する。
他人からすればガラクタばかりだが、彼にとっては大切な宝物。それを捨てられるなど……
「ぢゅ~」
観念したのか、隠れていた物影から姿を現す闘忠丸。
その手には拾い上げた食べ物が抱えられ、大人しくギンガに差し出す。
つまり、降参して謝るからそれだけが勘弁と言う意思表示だ。
「よし。まったく、闘忠丸の分だってちゃんとあるんだからそんなことしちゃダメよ」
「ぢゅ~……」
よほど深く反省しているのか、ギンガのお説教に俯く闘忠丸。
そんな姿を見せられては、いつまでも怒りは持続しない。ギンガは一つため息をつく。
「……ふぅ。ほら、これ。師匠と翔には秘密だからね」
そう言ってギンガが差し出したのは、闘忠丸から返された朝食の一部。
二人が帰ってくるまでの間、これで我慢しておけと言うことである。
闘忠丸はギンガの粋な計らいに喜び、飛びつくようにして貪るのだった。
* * * * *
「そういえば翔、どうなの久しぶりの学校は?」
朝食の席、唐突に投げかけられた姉からの問い。
行儀よく口の中の物を租借、嚥下してから翔は答える。
「ん~……楽しいよぉ」
「そう」
弟のそんな答えに、軽く目をつぶるギンガ。
丸いちゃぶ台には所狭しと色とりどりの料理が置かれ、それを囲む様に3人は座っている。
誰の眼から見ても、紛うことなき家族団欒の風景だ。
「でも、ヴィヴィオちゃんと別々の学校になっちゃって寂しいんじゃないかい?
あっちも色々忙しいみたいで、最近はあんまり会えてないんだろ?」
「うん。でも、よくメールで話すから全然寂しくないよ。
あ、ただヴィヴィオはメールが長いのに返してくるのが早いからちょっと大変」
(別にあなたが返してる訳じゃないでしょうに……)
言葉にはせず、ギンガは胸中で呟く。
それもその筈。何しろ大抵の場合、翔は送る内容を闘忠丸に代わりに打ってもらっているのが実情だ。
それどころかメールの表示、電話のかけ方等々、機械関係全般で闘忠丸に依存している。
正直、色々将来が心配なのだが……今更つっこんでも仕方がない。
治る物なら治しているだろうし、結局治らずに今日に至ってしまっている背景を察してやるのが優しさだろう。
「だったら、St(ザンクト).ヒルデに行きたいとは思わないの? そうすれば、メールの手間は省けると思うけど?」
「あ、あははははは……」
父の問いに、笑ってごまかす翔。
理由は簡単。翔にSt.ヒルデ魔法学院に入れるだけの能力がないからだ。学力的にも、魔法的にも。
決して頭の回転が悪いわけではないが、翔はあまり勉強が得意ではない。むしろ、苦手と言っていいだろう。
頭より体を動かす方が得意だし、ずっと性に合うのだ。
昔は一緒の学校に通おうと勉強と魔法に精を出したりもしたが、あえなく試験に落ちた。
いま編入試験を受けても…というか、今ではあの頃以上にその方面には差が開いてしまったのではないだろうか。
何しろ翔は、その生活の大半をある物に捧げているのだから。
「全く、笑っても誤魔化されないわよ。
別に学年一位を取って学院に入れなんて言わないけど、勉強を疎かにしない事。いいわね」
「え、ええっと……ご、ごちそうさま! 行ってきまーす!」
「あ、こら、待ちなさい翔!! ……もう」
まるでお母さんの様なギンガの小言に、不利を悟って撤退を選択する翔。
とはいえ、食べるものはしっかり食べ、食器を片づけている辺りは躾が行き届いている。
また、その頭にはいつの間にか闘忠丸までのっていた。どうやら、今日は一緒に学校に行くつもりらしい。
まぁ、ネズミの闘忠丸はあまり目立たないので、大人しくしていれば大丈夫だろう。
「あの子はホントに……」
「まぁまぁ、無理にやらせても身にはならないよ」
「それはそうですけど……師匠は翔に甘いです。
勉強も武術も、身につけておくにこした事がないって意味では同じなんですから。
あの武術に傾ける意欲を、もう少し勉強にも向けてくれたら……」
弟分の将来を案じ、ギンガは深々と溜息をつく。
この一家三人の共通点、それは「武術家」であると言う事。より正確には「師匠」である兼一を筆頭に、「一番弟子」にして「姉弟子」であるギンガと、「弟弟子」の翔という構成だ。
それも、兼一は故郷「第97管理外世界『地球』」にあって、かつては「史上最強の弟子」、現在は「一人多国籍軍」の異名で名を馳せ、魔法全盛の次元世界においてもその身一つで魔導士と対等以上に渡り合い、各方面から畏怖される正真正銘の達人である。
そんな人物の一人息子であり、二人しかいない弟子の片割れである翔。
当然、その人生は既に武に捧げられているし、本人も武の練磨は怠らない。
その結果、つい勉強などが疎かになってしまうのも無理からぬことだろう。
そして、そんな弟分をギンガが心配するのもわかるだけに、兼一としては苦笑しか浮かばない。
「翔だって別に勉強が嫌いなわけじゃないし、必要だと思えばもっと力を入れるさ」
「はぁ……そんな事は私だってわかってます。今だって、別に勉強を嫌がってる訳じゃありませんし……あんまり成果は出てませんけど」
実際、翔の学校の成績は良くて「中の下」。
学校を休みがちなこともあって、本人は一応頑張っているが中々伸び悩んでいる。
まぁ、「一応」がつく時点で色々とアレなのだが……。
「あぁ、ねぇギンガ。実は……」
「もしかして、またですか?」
「その……うん。ジークさんが、近いうちに時間が取れるから来ないかって」
「はぁ~……全くもう」
ジークとは、兼一の修業時代からの友人にして、新白連合と言う組織の幹部の一人だ。
兼一もまた所属していた組織であり、一度は離れたものの、いまは復帰している。
彼の肩書に「半公務員」と言うものがつくのはこのせいだ。以前、時空管理局と言う組織に勤めていた折、新白連合が次元世界に進出。渉外や折衝などの橋渡し役を務めると言う名目の下、所属を連合に戻され「局員待遇の民間人」と相成ったのである。本人の意向は無視して。
どうも、新白のトップであり兼一の悪友である「宇宙人の皮を被った悪魔」が何かしら手を回したようだ。
だが、それとこれに何の関係があるのかというと……。
「それはまぁ、翔はSSDの中心ですしね。皆さんお忙しい方ばかりですから、中々時間が取れないのもわかりますよ。でも、これじゃますます翔の出席日数が……」
「あ、あはははは……」
親子なだけあり、笑って誤魔化すやり口が実にそっくりである。
ちなみにSSD計画と言うのは、新白連合がかねてから計画していた一大プロジェクトだ。
新白連合に所属、ないし関係する達人達の武を一人の弟子に叩きこむ。
かつて、兼一が住みこんでいた道場「梁山泊」は史上最強と呼ばれ、梁山泊に住まう達人たち全員の弟子であった兼一もまた、「史上最強の弟子」と呼ばれていた。
それに倣ったのがこの計画であり、以前は暫定的に色々な呼び方をされていたが、正式に動き出すに当たり「S(史上)S(最強の)D(弟子)計画」と名付けられた訳だ。
ついでに、ネーミングセンスがなく、頭文字を取りたがるのは宇宙人の皮を被った悪魔の趣味である。
「笑い事じゃありません!」
「じゃあ、今回はやめておく?」
「それは……」
基本、新白の幹部は世界に散り散りになっており、中々スケジュールが合わない。
その上、次元世界とでは時差やらなんやらもあるので、向こうが休みでもこっちは学校などざらだ。
そのため、こうして思いっきり平日にもかかわらずお誘いが来ることも珍しくない。
この辺りが、翔が頻繁に学校を休む理由である。
ギンガとしては、できれば新学期早々学校を休ませたくはないし、しばらくは学業に集中させたい。
だが、次はいつスケジュールが合うかわからないし、それが幹部の中でも特に変わり者のジークなら猶の事。
折角の機会、行ける時に行っておくべきだろうし、翔もそちらを希望するだろう。
「わかりました。私も休みを取って一緒に行きます」
「ごめんね」
「謝らないでください。私が勝手について行って、勝手に修業の合間に勉強を教えるだけですから。
まぁ、私自身ジーク先生に稽古をつけてもらえるのは勉強になりますし」
「そっか………ジークさんに、くれぐれもよろしく伝えておいて」
「はい。師匠も、私がいないからって仕事を滞らせないでくださいね」
「ははは、手厳しいなぁ……」
兼一がああいう立場になったことで、なし崩し的にギンガは兼一の秘書の様な役割を担う事が多くなった。
なにしろ、今や兼一は事実上新白における次元世界方面の統括役。
そう言うのは柄ではないと本人は思っているし、事実彼はそういう方面の能力にも全く恵まれていない。
が、そこは象徴としての役割と、実戦力としての役割さえこなしてくれれば良いと言うのが悪友「新島」の考え。
兼一が上にいても上手く回る様、その辺は色々と手を加えている。その一環がギンガな訳だ。
一応、ギンガの所属は古巣の108部隊ではあるが………いったい何をどうやったのやら。
まぁ、それでも仕事は決して少ないわけではないので、兼一は中々二人について行けないと言う次第。
とそこで、それまで呆れた様な様子だったギンガの表情が引き締まった。
彼女はしばらく何か悩んでいた様子で俯いていたが、意を決して兼一に向きなる。
「………………………師匠、ちょっと良いですか」
「?」
「実は、どうもこの近辺で格闘系の実力者に街頭試合を申し込んで叩きのめすという人が出没しているらしくて」
被害届は出ていないので事件にはなっていないが、そんな事がかなりの回数起こっているらしい。
とはいえ、別にギンガは兼一の事を心配して言っているわけではない。
むしろ、その程度の事をしているような相手に師が傷を負うことすら想像もしていない。
今のところ負けなしの様なのでそれなりの実力者なのだろうが、所詮はその程度。
超一流の武人を相手に、まぁ5秒持てば奇跡だろう。
「しかも、なんのつもりか古代ベルカ聖王戦争時代の王様の名前『覇王』イングヴァルトを名乗っている様で……」
「ふ~ん、最近の若い子にしては元気だねぇ」
師の呟きに「何を呑気な」と思いかけて頭を振る。
良く考えてみれば、この人も昔は不本意ながら路上での喧嘩に明け暮れていた時期があったのだ。
そんな彼からすれば、路上試合で相手を叩きのめし事件沙汰一歩手前になるくらいは可愛い物なのだろう。
「はぁ……とりあえず、そう言う人がいるみたいなので、一応翔には注意しておいたんですけど……」
「なるほど、確かにその方が良いね……相手の為に」
「はい、相手の為に」
何しろ、翔は生まれ持った類まれな才能に加え、5歳の頃から武術の英才教育を受けてきた。
その翔の技量は、身内の贔屓目を抜きにしても同年代の中ではトップクラス。
街の喧嘩自慢程度なら楽にあしらえるだろう。仮に、相手が想像以上の使い手だったとしても……まぁ、大抵の事は自力でなんとかできる。伊達に、地下格闘場やら道場破りやら…果ては裏社会科見学に明け暮れてはいない。
故に、問題なのは相手の方。
翔はあれでドジなので、うっかりやり過ぎてしまわないかが心配だ。
「ただ、昨日この話をしたら、あの子何か隠してるみたいなんですよね。
なんとか誤魔化そうとしてたみたいですけど、嘘が下手な子ですから……」
「ふ~ん、もしかしたらその『覇王』さんの事を何か知ってるのかもね」
「ですね」
「聞いてみるかい?」
「別に大丈夫でしょう。確かにちょっと問題ではありますけど、結局は子どもの喧嘩ですから」
「そうだね」
まぁ、多少のやり過ぎ程度は若さのなせる技だろう。
というのが、もう思い切り武の世界に浸かっている二人の見解だ。
「さて、まだ少し時間もあるし、出勤前に軽く組手でもしておこうか」
「はい。一手、ご指導お願いします」
* * * * *
翔が家に帰ると、まだ父と姉は帰っていなかった。
とりあえず荷解きをし、出された宿題に取り掛かる。
元々、翔は決して勉強が嫌いなわけではない。
苦手なのは事実であり、そのため少々敬遠しがちなのは否定しないが。
だが、自分の成績が悪い事を自覚し、それをなんとかしなければとも思っている。
故に、今日こそは苦手克服の第一歩とばかりに真っ直ぐ机に向かったのだ。
しかし、その結果はと言うと……
「う~……」
早速壁にぶつかり、頭を抱えて悩み出す。
そのまま5分10分と宿題に悪戦苦闘し、30分が経過した所で翔はおもむろに立ち上がった。
「よし………………ちょっと気分転換」
人間、勉強などで息詰まると意味もなく掃除などを始める物だ。
そして、それこそが奈落の底への第一歩。
庭に出た翔は、まずジョウロに水を組んで壁際に造られた手製の棚に向かう。
そこには、綺麗に並べられた鉢植えの数々。
翔はそれらに水をやり、懐から鋏を取りだした。
「フ~ンフンフ~ン♪」
鼻歌など歌いながら、チョキチョキと鋏を動かし剪定していく。
翔は兼一と違い、それほど本を読む方ではない。
その代わり、園芸という趣味を父から受け継いでいた。
ただし、翔の場合は花壇よりも盆栽の方が好みに合うのだが。
やや枯れていると思わないでもないが、それでも彼にとっては立派な趣味である。
ただ…………これは正直どうかと思う。
「う~ん、銀八君もだいぶ葉の色が良くなってきたねぇ~…土を変えたおかげかなぁ♪
あ、寸梢ちゃんはもうちょっと日当たりを良くした方が良い? うん、じゃそうしようね~。
っと、九重君。枝が変な方に伸びてるよ、早めに切っておこうか~」
盆栽一つ一つに名前を付け、まるで人間を相手にするかのような口ぶりでの独り言。
その上相当にリラックスしているらしく、口調だけでなく表情まで緩み切っているときた。
人様の趣味をどうこう言うのは褒められたものではないが…………はっきり言って、だいぶ怪しい。
とはいえ、手際が良いのは紛れもない事実。
まぁ、滑らかに鋏を動かしてこそいるものの、センスが良いかと言われると首をかしげざるを得ない。
好きこそものの上手なれとは言うが、好きだからと言って上手とは限らないのだ。
やがて一頻り剪定を終えると、今度はじっくりと枝の伸び具合をチェックする。
そこでまたさらに鋏を入れるのだが、そこに先ほどまでの切れはない。
一度鋏を入れては具合をチェックし、再度鋏を入れるの繰り返し。
そうしてたっぷり1時間かけて全ての盆栽の手入れを終えると、小さく呟いた。
「…………これでよし…なのかな?」
一応自分なりに良かれと思ってやったのだが、やればやる程に不安になる。
果たして、こんな具合で大丈夫なのだろうか。
しかし、一度切ってしまった物は戻せないと開き直り、とりあえず他の草木に水をやる作業に移る。
白浜家の庭はかなり広いが、水をやるだけならそう時間はかからない。
間もなく水をやり終えると、翔は僅かに考えこんでから……
「うん、まだ時間もあるし……ちょっと巻き藁でも突こうっと」
と結論する。もうこの頃には、すっかり宿題の事など忘れていた。
着替えを済ませ、庭の一角に突き立った杭の一つの前に立ち打ち込みを始める。
最初は一つ一つの動作を確認しながら、徐々にその速度を上げていく。
手始めに正拳突きを500に、前蹴りなど各種基本技を同数。
それが終わったら投げられ地蔵を出して投げの練習を行い、仮想敵を想い浮かべてのシャドウ。
当然、そんな事をやっていればあっという間に時間は過ぎていく。
空が暗くなっていくことも気にせず、鍛錬に没頭する翔。
彼の意識を引き戻したのは、帰宅を告げる姉の声だった。
「ただいまぁー!」
「あ、おかえり、姉さ…ま……」
姉を出迎えるべく門の前まで駆けて行きながら、ようやく翔は思い出す。
自分が、ほとんど宿題に手をつけていない事実に。
そんな弟の様子に気付いたようで、ギンガは眉を寄せながら問う。
「翔?」
「な、なんでもないよ! うん、全然!」
(またこの子は……自分がとんでもなく嘘が下手だって言う自覚はあるのかしら?)
たったそれだけのやり取りで、ギンガは翔の嘘を見破り真実に気付く。
となれば、彼女から言う事は一つ。
「翔、今日の宿題は?」
にっこりと、花開くような笑顔でギンガは尋ねる。
だがその瞬間、明らかに翔の表情が強張り息を飲んでいた。
翔はしどろもどろになりながら、なんとか誤魔化そうと頑張る。
「きょ、今日は……出なかったかな?」
「へぇ、そう」
「う、うん! そうなんだ!」
「……………………………………」
しばし流れる沈黙。
だが、やがて沈黙に耐えきれなくなったのか、翔は自ら白状した。
「ご、ごめんなさい! 嘘ついてごめんなさい! ホントは出てる、出ててやろうとしたんだけど……!」
「どうせ、また盆栽いじりと修業にかまけて忘れたんでしょ」
「……はい」
物の見事に大当たり。
すっかり肩身の狭くなった翔は、小さくなってうなだれる。
そんな翔に向けて、ギンガは言い聞かせる様にして言葉を紡ぐ。
「私が言いたい事、わかるわね?」
「………………」
「修業も良いけど、先に宿題を終わらせてきちゃいなさい!!」
「は、はい―――――――っ!?」
「まったくもう……」
一目散に部屋へと戻っていく翔を見送りながら、深々と溜息をつく。
本当に、いったい誰に似たのやら……。
その後、兼一が戻る前にギンガの監視兼指導付きでなんとか必死で宿題を終わらせた翔。
兼一が戻ってからは朝の修業の続きとばかりにギンガと共に組手やら足腰の鍛錬に精を出し、夕食を終えてからは再度ギンガの指導のもと勉強。
で、なんとかギンガのスパルタ指導を乗り切った翔は、こっそり家を抜け出していた。
別に、街に出て悪さをする訳ではない。
いつも通り、一人稽古がてらの走り込みである。
「さて、今日はどっちに行こうかな」
特に目的地も決めず、先日同様地蔵を担いで猛スピードで走りだす。
もしかしたら、今日もあの碧銀の少女を見かけるかもしれないと少しばかり期待して。
だが、その日はいつもと少しばかり違った。
当てもなく適当に走っているうちに、何故かコインロッカーが並ぶ区画に出てしまう。
まぁ、適当に走っていたのだからそう言うこともあるのかもしれない。
だから、それは別にいい。
問題なのは、少しばかり息を切らした翔の前で倒れている少女。
「えっと、ど、どどどどうしよう!?
警防署? それとも病院? でもでも、なんか訳ありっぽいし――――――っ!?」
思いも知らない場面に遭遇し、翔は慌てふためく。
いったい何があったのかさっぱりわからないが、とにかく意識がないのは間違いない。
何か見た感じわけありの様だし、彼の勘もそう言っている。
故に近くの交番か警防署、あるいは病院に連れていくべきかどうかさえ迷う。
そんな感じに困り果てていた翔だったが、ふっとある事に気付く。
(あれ、そう言えばこの人の髪……)
あの、たまに路上試合をしている所を見かける碧銀の少女と同じ色ではないか。
背丈などを見るに何歳か年下のようではあるが、その特徴的な髪の色は間違いない。
「………………………妹さん?」
などと、翔が思ったのも無理はないだろう。
それが、真実とは大きくかけ離れていることを、翔はまだ知らない。
ある意味、これこそが育ちゆく世代が紡ぐ、新たな物語の最初の一歩。
覇王の拳を受け継ぐ少女と、最強の弟子の名を背負う少年。
似て非なる道を行く、二人の始まりだった。
あとがき
はい、如何でしたでしょうか。
とりあえず、一応はvivid編第一話(予定)という事で書かせていただきました。
一応、今のところやるとすればこんな具合で第一話は出すつもりです。
まぁ、部分的に削除してる所はあるんですけどね。翔の容姿とか学校風景とか。
その辺は、実際に入ってからのお楽しみと言う事で。
ちなみに、翔とヴィヴィオの学校が違うのは、翔に魔法方面の資質はあっても才能がまるでないからです。
というか、基本翔は武術に才能が特化し、それ以外はからっきしという感じ。
勉強ダメ、家事ダメ、魔法ダメ、その他色々ダメという具合なのです。
武術以外に関しては、ある意味兼一以下と言えるかもしれませんね。まさに、天は二物を与えずの好例です。
とはいえ、これだけだとちょっとさびしいのでもう少し追加を。
さすがに、出てきたのが兼一とギンガと翔、後闘忠丸にアインハルトが少しだけでは………ねぇ?
そんなわけで、以下はおまけの番外編です。
P.S まだまだ色々試行段階なだけに、ちょこちょこ書き加えたり書き直したりしています。大筋に変化はありませんが、今後も頻繁に改定するかもしれませんのでご了承ください。
* * * * *
D(ディメンション)S(スポーツ)A(アクティビティ)A(アソシエイション)公式魔法戦競技会。
出場可能年齢、10歳~19歳。
個人計測ライフポイントを使用し、限りなく実践に近いスタイルで行われる魔法戦競技。
全管理世界から集まった若い魔導士たちが、魔法戦で覇を競う。
それが、インターミドル・チャンピオンシップである。
つい先日その地区選考会を終え、スーパーノービス戦が近々に迫るある日の事。
久しぶりに仕事が早く終わり、早めに帰宅したギンガ。
今日は折角時間が出来た事だし、たっぷりと翔の勉強やら修業やらを見てやれると思った矢先。
玄関を開け放ったその瞬間、黒煙が溢れだし、彼女の鼻孔を言葉にできない刺激臭が貫いた。
「くはぁ!?」
思わず奇声を上げ、鼻をつまむギンガ。
その目尻には涙が浮かび、肩を震わせ、荒々しく息をつく。
まるで、鼻に直接殺虫剤でも噴射されたかのように錯覚する程の刺激臭。
鼻の奥がツンと痛み、それどころか痛みは喉にまで広がっている。
あの一瞬でこれほどとは、いったいこの家で何が起こっていると言うのか。
「って、考えるまでもないわよね」
推理するまでもないとばかりに、早々に事態を把握するギンガ。
どうしてまたこんな唐突にと思わないでもないが……そんな事を言っても仕方がない。
なんというか、これはアレの病気みたいなものだから。
おまけ「ヘル・コック事件」
同時刻、ミッドチルダのとある公園。
エリートクラス行きのかかった大事な一戦を控えたチームナカジマの面々。
チームメイトとは言え、選手としては皆ライバル。
そのため最近は個別メニューが多く、一同に会する事はめっきり減っていた。
だが今日は、少々久しぶりに全員が揃っている。
「おし、全員揃ってるな」
「「「「はいっ!」」」」
コーチである赤毛の少女…「ノーヴェ・ナカジマ」の前に集合し、元気良く返事を返す子ども達。
みな、一様にその顔には気迫が満ちており、次の試合に向けて順調に準備が整ってきている事が伺える。
そんな可愛い教え子たちに、ノーヴェは再度注意を促した。
「いいか、お前ら。気持ちがはやるのはわかるが、週末にはスーパーノービス戦も控えてる。
充分に休息をとって、無理な練習なんてするんじゃねぇぞ。ここで怪我したり体調崩したりして見ろ、勝てる試合も勝てなくなる。そうなったら泣くに泣けねぇんだからな」
「もう、大丈夫だよ、ノーヴェ」
「そうそう」
ここ最近、耳にタコができるほど聞かされたその内容に、明るい金髪と赤と緑の虹彩異色が特徴的な「高町ヴィヴィオ」と、頭頂部で結ったリボンと八重歯が印象的な「リオ・ウェズリー」が「心配し過ぎ」と苦笑交じりに手を振る。
だがそんな二人を余所に、ノーヴェの言葉にビクリと肩を震わせる人物がいた事を、ノーヴェは見逃していない。
「アインハルト、お前まさかまた……」
「だ、大丈夫です。ちょ、ちょっと最近寝る時間が遅くなってるだけで……」
ノーヴェのジトッとした眼にいたたまれなくなったのか、しどろもどろになりながら弁明するのは碧銀の髪と青と紫の虹彩異色が目を引く「アインハルト・ストラトス」。
チーム内の年長者であり、一番の実力者ではあるのだが……どうにも真面目すぎる性分らしく、つい食事や睡眠より練習を優先させてしまう。
ある意味、ノーヴェにとって年少組以上に色々心配な教え子である。
本人は「ちょっと」と言っているが、この手の事柄に関してアインハルトの自己申告はあてにならない。
故に、ノーヴェはアインハルトの肩に鎮座する、猫型デバイス「アスティオン」…愛称ティオに真実を問う。
「どうなんだ、ティオ?」
「にゃー」
「あ、ちょ、ティオ!?」
「以前より二時間は遅くなってるだぁ!? それのどこがちょっとだ!」
「ひんっ!?」
案の定、ちょっととは到底言えないその削り方に、大声を上げるノーヴェ。
その怒声に思わず肩を竦め、その身を縮こまらせるアインハルト。
そんなアインハルトに対し、ノーヴェは一端気を落ち着けて心もち語調を押さえて語りかける。
「はぁ……あのなぁ、お前らのメニューはちゃんと負荷を考えて組んであるんだ。
練習量を増やせばいいってもんじゃねぇし、最悪身体を壊すかもしれねぇ。
いいか『壊れないように練習する』事は出来ても、壊れちまったもんをあっという間に治すなんて真似は出来ねぇんだ。わかってんのか?」
「はい、申し訳ありません」
「…………………まぁ、気持ちはわからねぇでもねぇ。
練習量を増やしたいっつーんなら、とりあえず相談しろ。できる限りなんとかなる様に考えるからよ」
「……は、はい!」
渋々と言った様子で妥協案を示すノーヴェに、アインハルトの表情が華やぐ。
が、そうと聞いて大人しく黙っているチームナカジマの面々ではない。
「え~、アインハルトさんだけズルイ~」
「それなら私達も~」
「もっと練習したいです~」
「ああもう! わぁったわぁった、まとめてなんとかしてやるよ! それで良いんだろ!」
しなだれかかる様に「私も私も」とおねだりする年少組。
ヴィヴィオやリオはもちろん、この中では大人しい方のキャンディー型のアクセサリーをつけた「コロナ・ティミル」も例外ではない。
性格こそ違えど、練習好きと言う意味では四人は似た者同士だ。
ちなみに、ヴィヴィオの頭の上では彼女の愛機、ウサギ型のぬいぐるみ姿の「セイクリッド・ハート」、愛称クリスがヴィヴィオ達のマネをしていたりする。
「「「えへへ~♪」」」
「すみません、お手数おかけします、ノーヴェさん」
「別に良いけどよ。お前らのコーチ役を引き受けた時から、概ね覚悟してたし。
その代わり、これがほんとにギリギリだ。これ以上は体への負担がでか過ぎる、ちゃんと指示は守れよ」
「はい。それは、必ず」
念を押すノーヴェに対し、アインハルトは真摯な瞳で誓う。
アインハルトはつい練習を優先させてしまうが、それ以上に約束は守る。
その点に関してはノーヴェも疑っていないらしく、これ以上言い募る事はしない。
とそこで、唐突にノーヴェに誰かから通信が入った。
「わり、ちょっと待っててくれ」
四人に詫びながら、通信回線を開く。
すると、そこに映し出されたのは大家族ナカジマ家の長女であり、今は「内弟子」としてとあるお宅に下宿しているギンガ・ナカジマの姿。その後ろには何やら悲惨な有様の台所が広がっていた。
またギンガの顔色は妙に青く、体はワナワナと震えている。
明らかに、どこからどう見てもただ事ではない。
「よ、良かった。つ、繋がらなかったらどうしようかと……」
「ど、どうしたんだ? つーか大丈夫か、なにがあったってんだよ?」
「はぁ……じ、時間がないわ。か、簡潔に説明するから、よ、良く聞いて」
「お、おう!」
ノーヴェの問いに答えず、どこか鬼気迫る様子で荒い息をつきながら言葉を紡ぐギンガ。
その雰囲気に気圧されたのか、ノーヴェは思わず居住まいを正す。
それどころか、後ろで聞き耳を立てている四人もまた、何やら緊張した面持ちだ。
「はぁはぁ……し、翔が発作を起こしたわ。たぶん、い、今はそっちに向かってる。
急いで逃げて、て、手遅れになる前…に……」
「「「っ!?」」」
「ギンガさん!?」
「だ、大丈夫ですか!? へ、返事をしてください!!」
弱々しくなる声音と共に、ついには崩れ落ちるようにモニターの範囲からギンガの姿が消えた。
リオとアインハルトは必死にギンガに呼びかけるが、返事は返ってこない。
どうやら、いまので残された力を使いはたしてしまったようだ。
二人はそこでさらに慌てふためくが、残る三人は微動だにしない。
「ど、どうしましょう、アインハルトさん!?」
「と、とりあえず翔さんのお宅に行ってみましょう!
翔さんの発作と言うのも気になりますし……」
「ダメ、ダメですアインハルトさん!!」
「そうです、今言ったらギンガさんの二の舞です!!」
「え、あの……」
「ど、どうしたの、二人とも?」
急ぎ白浜邸に向かおうとする二人を、必死に引きとめるヴィヴィオとコロナ。
そんなチームメイトの意味不明な行動と、ただならぬ慌て様に目を白黒させる二人。
しかしそこで、絞り出す様にノーヴェが口を開く。
「そうか、お前らはまだ付き合いがみじけぇから知らなかったっけな」
「あの、ノーヴェさん?」
「いったい、なにを……」
「ちっ、説明してる時間も惜しい。ヴィヴィオ、コロナ!」
「うん!」
「わかってます」
二人には皆まで言わずとも伝わるのか、試合の時に勝るとも劣らない真剣な顔つきで頷く。
ノーヴェはこれなら心配いらないとばかりに深く頷き、指示を出す。
「よし、ヴィヴィオはアインハルトを、コロナはリオを連れて逃げろ。
その間に、事情説明を頼む」
「ノーヴェは?」
「アイツを…………なんとか足止めする」
「そんな……」
「まぁ、仮にもコーチだからな。お前らを守るのも、あたしの仕事だ。
それに、なんだ………運が良ければ生き残れるって」
まるで、死地に飛び込む覚悟を決めた戦士の様な雰囲気を醸し出すノーヴェ。
いや、「まるで」ではない。正真正銘、これはそれに匹敵する覚悟を要するのだ。
だが、意味がわからず呆然とするリオとアインハルト。
「おら、急げ! 早くしねぇと来ちまうぞ!」
「……うん。アインハルトさん、こっちへ!」
「え、えぇ!?」
「リオも急いで!」
「な、なにがどうなってるの!?」
「ノーヴェ、死なないでね!」
「あぁ、おめぇらの試合を見届けずには死なねぇよ」
ノーヴェをその場に残し、それぞれ相方の手を引いて走りだす二人。
ノーヴェは静かにその後ろ姿を見送り、覚悟を決めてその時が来るのを待つ。
願わくば、子ども達が無事に逃げきれる事を祈って。
そして、逃げ出した4人はと言うと……。
自体がさっぱり呑み込めず為すがままに走っていたアインハルトとリオだったが、ようやく思考力が戻ってきた所で事態の本質を尋ねた。
「あのヴィヴィオさん、これはいったい……」
「そうだよ、三人ともなんかすんごい深刻そうな顔してどうしたのさ」
「それに、翔さんの発作というのはいったい? 翔さんは病気なんですか?」
あの翔が持病持ちと言うのは今まで聞いたことがなかった。
だが、この様子だと翔には何か持病があり、その発作がなにか危機的な事態を引き起こしていると言う事なのか。
しかし、病気と言うのなら逃げるよりも心配するべきだろうし、もし危険な病気だと言うのならそれこそ病院に連れていくべきではないか。
そんなアインハルトの考えは正しい。ただそれは、相手が翔でなければの話。
「病気……そうですね、確かに翔のあれは病気です」
「それなら早く病院に……」
「違うんです、アインハルトさん」
「え?」
苦々しそうなヴィヴィオの呟きに、「早く病院に連れて行くべきだ」と言おうとするアインハルト。
だが、そこに被せられるコロナからの否定の言葉。
「どういうことなの、コロナ?」
「二人も知ってる通り、翔はすごいガンバリ屋だよね」
「あ、うん」
「あの特訓を毎日、ですからね」
一応、二人も多少なりとも翔の修業風景は知っている。
正直、あれはもう「頑張る」とか言うレベルを超越しているし、よくあんなのを毎日やっていられると感心するやら呆れるやらと言う気持ちだ。
まぁ、あれを知っているからこそ無理を承知で頑張ろうとしてしまった部分もあるのだろうが。
「でもその代わり、翔ってある意味コンプレックスの塊でしょ?」
「まぁ、その……」
「なんと言いましょうか……」
確かに、ヴィヴィオの言うとおりである事は否定しない。
ただ、あまりそうはっきり言うのも可哀そうなので、言葉を濁しているが。
「不器用だし勉強は苦手だし魔法下手だし……数え上げたらキリがないですけど、武術以外はからっきしじゃないですか」
「ガンバリ屋で、それなのに苦手が多い……だからこそ、翔は時々唐突にその苦手を克服しようと奮起することがあるんです…発作的に」
そう、これがギンガが言った発作の意味である。
病気と言う意味での発作ではないが、限りなくそれに近い。
なんの前触れも脈絡もなく、ある日突然思い立つ。それが翔の「苦手克服発作」である。
「でも、それはとても良い事なのでは?」
「ですよね。苦手を克服しようとしてるんだから、むしろ応援した方が良いんじゃ……」
「二人とも、それは知らないから言えることだよ……」
「そりゃ、私達も前は応援しようとしたけど……」
全く危機感のない事を言う二人に対し、悲しそうに俯くコロナと天を仰ぐヴィヴィオ。
確かに、昔は二人もできる限り翔の力になろうとした。
が、その結果はあまりにも無情過ぎたのだ。
いつしか、翔を知る人たちは一様に彼の奮起を「発作」と称し、それが出たら一目散に逃げる事を選択するようになるほどに。
とその時、四人の下にノーヴェからの通信が届いた。
「ノーヴェ? 大丈夫なの!?」
「ヴィヴィオか、進路を変えろ! アイツ、何を勘違いしやがったか知らねぇが、練習場所を完全に間違えて向かってやがる。このままいくと、あと何十秒かで鉢合わせになるぞ!!」
「え、ええ!?」
「そ、そんな!?」
バカの厄介な所、それは何をしでかすかわからない所にある。
今回がまさにそれだ。ノーヴェがあえてあの場に残り足止めしようとしたにもかかわらず、そもそも目的地を間違えていた為にスルー。結果、真っ直ぐにヴィヴィオ達の方に向かう形になってしまった。
「コロナ、急いで方向転換を……!」
「ダメだよ、ヴィヴィオ。もう、手遅れっぽい」
「え? って、この匂いは……」
まだ幾分距離がある筈なのに、ここからでもわかる程に焦げ臭い。
やはり、最悪の事態はすぐ傍にまで迫っていたようだ。
もしこれが別の…例えば勉強とかの苦手克服であったのなら、まだ協力しただろう。
しかし、ことこれの場合は協力などできない。
そんな事をしたら最後、身の破滅に繋がると二人は身を以て知っているのだ。
「あ、みんなこんな所にいたんだ~」
「で、でた……」
「ど、どうしようヴィヴィオ!?」
「どうしようたって……」
ここまで近づかれては、最早逃げることなど不可能。
フィジカル面において、翔はチームナカジマの誰よりも優れている。
逃げた所で、たいして時間をかけることなく追いついてくることだろう。
「? ? ?」
学校は違えど、長い付き合いになる二人の引きつった様子に、疑問符を浮かべる翔。
二人としては、なんとか逃げる算段をつけたいところだが……こういう時に限って何も浮かばない。
とそこで、リオがようやくなんで友人たちがこんなテンパっているのか、その一端を理解する。
まぁ、そもそもこの匂いを嗅げばイヤでもわかるだろうが。
「ねぇ、もしかして翔って………料理下手?」
「……絶望的に」
「サバイバルとかは得意なんだけどね……」
そう、翔の不器用は料理においても例外ではない。
何しろその腕前は、八神はやてをして「シャマルの再来」と慄かせ、白浜兼一をして「ほのかそっくり」と諦めさせたほど。
味見をしてないわけではないのだろうが、本人はバカみたいに強靭な内臓の持ち主なので、割と平気。
そのせいで、結果的に被害が広がるのだから救いがない。
「クッキー焼いてみたんだけど、どうかな?
疲れた時に甘いものって良いと思うんだけど」
確かに、発想は間違ってはいない。
間違っているのは、「自分で作る」と言う部分だ。
おそらく、頑張っているチームナカジマの皆の為を思って作ったのだろう。
こんな事は言いたくないが、有難迷惑この上ない。
しかし、あの期待に満ちた満面の笑顔にそれを言うのは気が退ける。
そのため、ゆっくりと歩み寄る翔に対し、ヴィヴィオとコロナは蛇に睨まれた蛙状態で硬直していた。
「あの、でもクッキーなら卵とお砂糖、それに小麦粉とかしか入っていない訳ですし……」
「そうそう、確かにちょっと…かなり焦げ臭いけど、食べられない事はないんじゃ」
「甘いよ、リオ」
「翔はね、どこにでもある様な日用品で全く新しい“劇物(なにか)”を創造しちゃうんだよ」
いったいどんな調合をすればそんな事が可能になるかは不明だが、なってしまうのだから仕方がない。
色々と疑問は尽きないが、とにかくそれが白浜翔と言う少年なのである。
やがて、4人のすぐ目の前に立つ翔。
その手には、手製のクッキーが入っていると思しき紙袋。
近づいてきてわかったが、単に焦げ臭いだけではない。
原因不明の刺激臭が鼻・口・目の粘膜を刺激し、言いようのない危機感を揺り起こしてくる。
ことここに至って、リオとアインハルトも理解した。
確かに、目の前のこれは人間が食べていいものではないと。
とはいえ、この笑顔の前では「食べない」という選択肢は取り辛い。
また、彼なりに頑張って苦手を克服しようとしたのだから、一応はその努力の成果を評価してやらねばなるまい。
つまり、誰か一人は犠牲にならなければもうこの場はおさまりがつかないのである。
だが、ヴィヴィオとコロナは前例を知るだけに「もうあんなのは嫌だ」とばかりに震え、リオもまた未知の恐怖に怯えている。
しかしそこで、アインハルトが動いた。
優しい彼女には、後輩を犠牲にすることも、目の前の少年を悲しませることもできないが故に。
「あ、ありがとうございます、翔さん。で、では、お一ついただきますね」
「「「あ、アインハルトさん!?」」」
「にゃーにゃー!!」
(ばたばた)←懸命に止めようとする健気さ
「はい、どうぞ召し上がってください♪」
無謀にも翔の差し出すクッキーに手を伸ばすアインハルトに対し、年少組を始めデバイス達も「早まるな」とばかりに引き留める。
だが、時すでに遅く。
一度伸ばした手はもう引っ込みがつかない。
アインハルトは震える手でクッキーを1枚手に取る。
見た感じ、だいぶ焦げ焦げでこの時点で既に地雷の匂いがするが……鼻孔を貫く匂いがさらにその直感を強める。
はっきり言おう、これはネズミ捕りに使われる毒餌レベルだ。
しかしそれでも、ここまできたら運を天に任せるより他はない。
「それでは………いただきます」
意を決してクッキー(?)を口の中に放り込む。
少々行儀が悪いが、これくらいは大目に見てほしい。
正直、一口で食べないとどうなるか自信がなかったのだ。
口に入れた瞬間、噛む以前に口内に充満する摩訶不思議な臭気。
焦げ臭く酸っぱい様な、それでいてどこか毒々しい甘ったるさがある。
これは、いつまでも口の中に入れておくのは危険だ。
本能がそう判断したのか、気付いた時には奥歯でそれを噛み砕いていた。
だがその瞬間……
(っ!? もがっ………こ、これは!?)
喉元から脳天に向けて、槍で貫かれたかのような衝撃。
形容しがたい、辛味とも違う痛みが口から全身に広がっていく。
あまりの衝撃に意識を失いかけ、同時にあまりの衝撃に意識を引き戻されるの繰り返し。
味? そんな物は一噛みした瞬間から感じない。
味がしないのか、それとも味覚の許容を越えているのかすらわからないが、ただ味とは異なる刺激だけがある。
アインハルトはその場で硬直し、震えながら顔を青から紫へと変えていく。
いっそのこと吐き出してしまおうかとも思うが、最早口がマヒして言う事を聞かない。
それは全身に言える事で、まるで神経系が破壊されたかのように体が固まっていた。
あるいは、倒れてしまえれば楽だったろう。
しかし、覗きこんでくる翔の期待を込めた瞳を前にしては、意地でも倒れるわけにはいかない。
アインハルトは感覚のない口を(恐らく)動かし、噛み砕いた“それ”を飲み下す。
言葉は出ない。最早、言葉を発すると言う機能は停止している。
故に、精一杯の虚勢を張って頬を動かし、翔に向かって微笑みかけた。
そんな健気なアインハルトに、ヴィヴィオ達は涙が止まらない。
とにかく今は、少しでも早くアインハルトを楽にしてやらねば。
「しょ、翔! そう言えば、飲み物買って来てくれない?
ほら、クッキーばっかりだと喉乾くし」
((ヴィヴィオ、GJ!!))
「あ、そっか! そうだね、ちょっと買ってくる」
ヴィヴィオのファインプレーに、内心喝采を上げる二人。
すっかり乗せられた翔は、自販機を探してその場を後にする。
「行きましたよ、アインハルトさん」
「もう大丈夫です、お疲れさまでした」
(なでなで)←背中を摩ってやる優しさ
「にゃ~……」
皆からかけられる、その言葉が聴こえていたのかは定かではない。
だがアインハルトは、力尽きたかのように後ろ向きに倒れヴィヴィオに支えられてその場で横になった。
ティオは心配そうにアインハルトに頬摺りし、クリスはおろおろと言った様子で飛び回り、後輩たちはパタパタと風を送る。
そして、うっすらと目を開けてアインハルトは言った。
「よかった……」
「「「え?」」」
「翔さんを、悲しませずにすみました…から」
「「「アインハルトさ――――――ん!!」」」
力尽き、今度こそ本当に意識を手放すアインハルト。
みなはあふれる涙を拭いもせず、その雄姿を目に焼き付けたのだった。
ちなみに、この数日後行われたスーパーノービス戦において、チームナカジマの四人は無事勝利。
揃ってエリートクラスにコマを進めた……………のだが、正史では1R29秒KO勝利だったアインハルトは、この時はギリギリの判定勝ちだったとか。
その原因は………………………言うまでもないだろう。