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No.25730の一覧
[0] 【完結・改訂完了】リリカルなのはSts異伝~子連れ武人活人劇~(×史上最強の弟子ケンイチ)[やみなべ](2013/07/16 20:55)
[1] BATTLE 0「翼は散りて」[やみなべ](2013/07/16 00:16)
[2] BATTLE 1「陸士108部隊」[やみなべ](2013/07/16 00:17)
[3] BATTLE 2「新たな家族」[やみなべ](2013/07/16 00:17)
[4] BATTLE 3「昼の顔、夜の顔」[やみなべ](2013/07/16 00:18)
[5] BATTLE 4「星を継ぐ者達」 [やみなべ](2013/07/16 00:18)
[6] BATTLE 5「不協和音」 [やみなべ](2013/07/16 00:19)
[7] BATTLE 6「雛鳥の想い」 [やみなべ](2013/07/16 00:19)
[8] BATTLE 7「一人多国籍軍、起つ」[やみなべ](2013/07/16 00:20)
[9] BATTLE 8「断崖への一歩」[やみなべ](2013/07/16 00:20)
[10] BATTLE 9「地獄巡り 入門編」[やみなべ](2013/07/16 00:21)
[11] BATTLE 10「古巣への帰還」 [やみなべ](2013/07/16 00:21)
[12] BATTLE 11「旅立ち」[やみなべ](2013/07/16 00:22)
[13] BATTLE 12「地獄巡り 内弟子編」[やみなべ](2013/07/16 00:22)
[14] BATTLE 13「誕生 史上最強の○○」[やみなべ](2013/07/16 00:24)
[15] BATTLE 14「機動六課」[やみなべ](2013/07/16 00:25)
[16] BATTLE 15「エースの疑念」[やみなべ](2013/07/16 00:26)
[17] BATTLE 16「5年越しの再会」[やみなべ](2013/07/16 20:55)
[18] BATTLE 17「それぞれの事情」[やみなべ](2013/07/16 00:27)
[19] BATTLE 18「勢揃い」[やみなべ](2013/07/16 20:54)
[20] BATTLE 19「守護の拳」[やみなべ](2013/07/16 00:28)
[21] BATTLE 20「機動六課の穏やかな一日」[やみなべ](2013/07/16 00:29)
[22] BATTLE 21「初陣」[やみなべ](2013/07/16 20:53)
[23] BATTLE 22「エンブレム」[やみなべ](2013/07/16 20:52)
[24] BATTLE 23「武の世界」[やみなべ](2013/07/16 20:52)
[25] BATTLE 24「帰郷」[やみなべ](2013/07/16 00:34)
[26] BATTLE 25「前夜」[やみなべ](2013/07/16 00:34)
[27] BATTLE 26「天賦と凡庸」[やみなべ](2013/07/16 20:51)
[28] BATTLE 27「友」[やみなべ](2013/07/16 00:38)
[29] BATTLE 28「無拍子」[やみなべ](2013/07/16 00:38)
[30] BATTLE 29「悪魔、降臨す」[やみなべ](2013/07/17 21:15)
[31] BATTLE 30「羽化の時」[やみなべ](2013/07/16 00:39)
[32] BATTLE 31「嵐の後で」[やみなべ](2013/07/16 00:40)
[33] BATTLE 32「地獄巡り~道連れ編~」[やみなべ](2013/07/16 00:41)
[34] BATTLE 33「迷い子」[やみなべ](2013/07/16 20:50)
[35] BATTLE 34「I・S」[やみなべ](2013/07/16 20:50)
[36] リクエスト企画パート1「vivid編 第一話(予定)」[やみなべ](2013/07/16 00:43)
[37] BATTLE 35「ファースト・コンタクト」[やみなべ](2013/07/16 00:43)
[38] BATTLE 36「お子様散策記」[やみなべ](2013/07/16 00:44)
[39] BATTLE 37「強い奴らに会いに行け!」[やみなべ](2013/08/01 03:45)
[40] BATTLE 38「祭囃子」[やみなべ](2013/07/16 00:45)
[41] BATTLE 39「機動六課防衛戦」[やみなべ](2013/07/16 00:45)
[42] BATTLE 40「羽撃く翼」[やみなべ](2013/07/16 00:46)
[43] BATTLE 41「地獄巡り~組手編~」[やみなべ](2013/07/16 00:46)
[44] BATTLE 42「闘いの流儀」[やみなべ](2013/07/16 00:47)
[45] BATTLE 43「無限の欲望」[やみなべ](2013/07/16 00:47)
[46] BATTLE 44「奥の手」[やみなべ](2013/07/16 00:48)
[47] BATTLE 45「絆」[やみなべ](2013/07/16 00:48)
[48] BATTLE 46「受け継がれた拳」[やみなべ](2013/07/16 00:49)
[49] BATTLE 47「武人」[やみなべ](2013/07/16 20:49)
[50] BATTLE FINAL「それぞれの道へ」[やみなべ](2013/07/16 00:50)
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[25730] BATTLE 0「翼は散りて」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/07/16 00:16

ある満月の綺麗な夜。
今一つの命の灯が産まれ、同時に一つの命の灯が消えようとしていた。

古めかしい木造建築の診療所、その奥から元気な産声が響く。
それは、新たなにこの世に生まれ出でた命の躍動そのもの。
真円を描く白銀の月も、瞬く星々も一様にその命の誕生を祝福しているかのようだ。

診療所の正面玄関には「岬越寺接骨院」の看板が掛かっている。
しかしこの診療所、接骨院とは名ばかり。いや、接骨院である事は事実なのだが、ここを営む医者が接骨医などとは到底言えない。
何しろこの診療所唯一の医師は、整形外科はもちろん、外科に内科、小児科、耳鼻咽喉科、果ては心臓から脳に至るまで、あらゆる症例に対応できる万能全身科医なのだ。その中にはもちろん、産婦人科も含まれる。
なんでも「輪廻を引き裂き摂理を歪め、熱力学第二法則に真っ向から戦いを挑む人術…それが医術」をモットーにしているとか。彼の手にかかれば、死んでも生き返るとまで言われている。
ただし、血を見ると性格が変わるので、医療の世界では非常に恐れられているのだが……。

その診療所の待合室には、数人の男女が詰めている。
年齢は様々だが、先ほどまでは誰もが落ち着かずにウロウロしたり貧乏ゆすりをしていた。
もし彼らの素性を知る者がこの場にいれば、その予想外の一面に驚愕を隠せなかっただろう。
だが幸いなことに、この場には本当に身内しかいない。

そして、先の産声が上がると同時に皆が一斉に顔をあげ、続いて喜びに満ちた表情を浮かべる。
特に、先ほどから簡素な椅子に腰かけていた青年の表情の変化は著しい。
先ほどまでは焦燥と不安一色だったにもかかわらず、今は涙を浮かべて笑っているのだから。
事情を知らないものでも即座に理解するだろう。彼…白浜兼一こそが、この産声の主の父親であることに。

やがて診察室の戸が開き、その中から一人の中年男性が姿を現す。
名を岬越寺秋雨。この診療所を営み、産声の主を取り上げた医者だ。
同時に、その赤子の父親である兼一の師でもある。ただし、医術ではなく武術のという注釈がつくが。
ともあれ、普段は冷静沈着を絵にかいたような彼も、さすがに弟子の子どもが生まれる場に居合わせた感慨はひとしおらしい。普段浮かべている微笑はその顔にはない。

「岬越寺師匠!?」
「ああ、聞いての通り生まれたよ。いたって健康な男の子だ。
 兼一くん、美羽が待っている。行ってあげたまえ」
「はい!!」

そう言うや否や、兼一は駆け足で診察室の奥へと向かっていく。
愛する妻と、その間に生まれた初めての子ども。
まさしく二人の愛の結晶であるその子の顔を見るのを、今日まで一日千秋の思いで待ち続けたのだ。
もう、コンマ一秒でも待つ事は出来なかったのだろう。

そんな兼一の後を追おうと、同じく待合室で待っていた面々も動き出す。
ある者は鼻の下を擦りながら目尻に兼一同様涙を浮かべ、ある者は全身で喜びを表現し、ある者は無表情を装いつつ気が急いている様子を隠しきれず、ある者はこの一大イベントを記録しようとカメラを手に、ある者は泰然とした態度でゆっくりと歩を進める。
皆、兼一やその妻にとって秋雨同様家族に等しい人たちであり、同時に今日まで教え導いてくれたあらゆる意味での人生の師達だった。
しかし、そんな彼らの前に秋雨は立ちふさがる。

「……おい、秋雨。んなとこに突っ立ってないで、早く中に入ろうぜ」
「そうよ! アパチャイ、早く兼一と美羽の赤ちゃんを見たいよ!
 二人の子どもなんだから、きっときっと天使みたいに可愛いよ!!」
「そうね。二人の邪魔をしちゃいけないってのはわかるけど、二人の幸せ一杯の様子をこのファインダーに納めるのはおいちゃんの義務と言ってもいいね。
まだまだ子どもだと思ってた二人が結婚して、今子どもまで生まれて、本当に感慨深いね」

逆鬼とアパチャイ、そして剣星の三人は無粋にも行く手を阻む秋雨に憮然としながらそう言い募る。
だが長く共に歩み、弟子を育て、背中を預け合い、切磋琢磨してきた友の言葉を聞いても秋雨は動かない。
そこで、特に付き合いの長いしぐれと長老が秋雨の異変に気付いた。

「…………? 秋雨、なんでそんな悲しい顔を…してる?」
「秋雨君、一体どうしたと言うんじゃ」
「申し訳ありません長老。ですが今は…今だけは!
 彼ら家族三人、水入らず共に居させてやっていただきたい!!」

秋雨は、まるで血を吐くかのように苦悩に満ちた声で語り、土下座でもしそうな勢いで首を垂れる。
そのただならぬ気配に、他の面々の表情がこわばった。
理解したのだ、秋雨をこれほどまでに追い詰める何かが、診察室の奥で起ころうとしている事に。



BATTLE 0「翼は散りて」



診察室の奥、喜び勇んで備え付けられたベッドに駆け寄る兼一。
そこに身体を預けていたのは、彼にとって最愛の女性。
長く伸びた金糸の様な髪と澄んだ湖を思わせる蒼い瞳は、何度見ても彼の心を捉えて離さない。

朝、顔を合わせる度に、言葉をかわす度に彼は目の前の女性を「美しい」と思った。
それは、世界中に存在するどんな美にも勝るものだと確信して疑った事はない。
しかし、今日それが過ちであったことに気付いた。
なぜならば、今まさに出産という大仕事をやり遂げた妻の姿は、過去のどんな時よりも輝いていたから。
自分がこれまでどれだけ不当な評価を彼女に与えていたのか、彼はそれを噛みしめる。

彼女の両手は豊かな胸の下で組まれ、その上には白い布が乗っている。
それは丸みを帯び、何かを包んでいた。その中身がなんであるかなど、考えるまでもない。
子を抱くその姿はまるで女神の様に神々しく、子に向けられる微笑みは無上の慈愛に満ちていた。

その様に、思わず兼一は足を止めて言葉を失う。
そんな彼に対し、妻は兼一が来たことにようやく気付いた様で顔を挙げる。

「あ、兼一さん」

視線を我が子から離し、彼女は兼一に微笑みかける。
その顔は本当にこれ以上ないほどに幸せそうで、そんな顔を向けてもらえる事を兼一は誇らしく思った。
兼一は溢れそうになる涙を必死にこらえ、同時に膝が笑っていることに気付く。
今まで幾度となくボロボロになってきたが、これほど立ち続けることに苦労した事はない。
ほんの僅かでも気を緩めると、即座に座り込んでしまいそうだった。
そうして、ようやく兼一は震える口を動かし苦労しながら言葉を発する。

「美羽…さん。その子が、僕たちの……」
「はい。私と、兼一さんの赤ちゃんですわ。こっちに来て、早く顔を見てあげてくださいな。
 そして、顔を見せてあげてくださいまし。この子のお父さんの顔を」

兼一はまるで何か見えない力に誘われるように、おぼつかない足取りでベッドの脇に移動する。
たった5mにも満たない距離でありながら、辿り着くまでに何秒かかったか知れない。
夢遊病患者の様な歩みで辿り着いた兼一は、怖々とした様子で白く清潔な布の隙間を覗き込む。
そこにいたのは、疑うべくもなく人間の赤子。それ以外いる筈もないと分かっていながら、その顔を見るまで兼一は実感がわいていなかったのかもしれない。何しろ顔を見たその瞬間、彼の顔は涙と鼻水でグシャグシャになってしまったのだから。

泣いた事は幾度となくある。悲しい涙も、悔しい涙も、そして嬉しい涙も。数え出したらキリがない。
だが、これほどまでに心が洗われるような気持ちで泣いたのは初めてだった。

「あらあら、お父さんがそんな泣き虫じゃみっともないですわよ。この子に笑われてしまいますわ」

そう言って妻…白浜美羽は細い指を口元に添えて上品に笑う。
御産の憔悴からだろうか、血色は優れず額には玉の汗が浮かんでいる。
しかしそれでも、優しさに満ちた瞳と溢れんばかりの至福を宿す声音が彼女の微笑みを輝かせていた。

「あ、あの…す、すみません……」

その顔を正視できず、思わず頭をかきながら赤面して眼を逸らしてしまう兼一。
そんな彼に対し美羽は「冗談ですわ」と口にして、その手に抱く我が子を兼一に差し出す。
兼一は差し出されるままにその小さな命を抱き上げる。
手に伝わる重みは、思っていたよりもずっと………………重かった。今までに持った何よりも。

数百キロに届くであろう巨岩ですら持ち上げる兼一の腕力の前では、3キロ前後の赤子などシャボン玉も同然だろう。
にもかかわらず、彼はその腕に抱いた嬰児の重さに膝を屈しそうになる。

だが、膝を屈することは許されない。
これから先、この子が一人で生きていけるようになるその日まで、彼はこの重さを背負って生きて行く。
例えどれほど重くても、押しつぶされそうになっても、膝を屈することも投げ出すことも許されない。
この子の父親として、一人の男として、彼女の夫として。
この小さな命を守るためならば、命を捨てることもいとわないと覚悟するのなら。
故に、兼一は総身の力と不退転の覚悟を以って我が子を抱き上げる。

「小さくて、暖かくて、柔らかい。なんだか、ガラス細工を持ってるみたいです」
「そうですわね。私も、秋雨さんに手渡していただいた時、同じことを思いましたわ」
「…………でも、重い」

重々しく、万感の籠ったその呟きを聞いて、美羽は彼の妻でよかったと思う。
物理的な重量ではなく、命の重さ、大切な存在の重さを実感できる彼と一緒になれた事を。

「……はい。命の重さ、百も承知しているつもりでしたが、自分がどれだけ無知だったか思い知りましたわ」

活人拳を志し、技を磨き、身体を鍛え、いくつもの死線を越えてきた二人。
しかし知らなかった。命とは、こんなにも重いものなのだと言う事を。
同時に、美羽は自身の瞼が急速に重くなっていくことを自覚する。

(ああ、もう何ですわね。アレだけ鍛えてきたのだから、もう少しはもつかと思いましたのに……)

四肢に力が入らない。先ほどまでは辛うじて支えられた我が子の重さも、今となっては支えきれないだろう。
強烈な睡魔が意識に靄をかけていく。
少しでも気を緩めれば、そのまま意識は奈落の底に落ちてしまいそうだった。

(でも、もう少し。もう少しだけ、私に時間をくださいな)

眠るにはまだ早い。まだ眠りたくはない。この、人生最良の時間を終わらせたくはなかった。
だから美羽は、小さく荒い息をつきながらも意識を繋ぎとめる。出来る限り、兼一に悟られないように。

「兼一さん、その子の名前なんですけど……」
「分かっています。この子の名前は……………………『翔』、白浜翔。それで、良いんですよね?」
「……………………………………はい」

それは、兼一と美羽にとって因縁深い相手の名前。
二人がまだ未熟であった頃に立ちはだかった強大な敵にして、二人の命を救った恩人。
美羽同様、空を翔ける翼を持ちながら籠の外へ羽ばたく事を許されなかった男。
男の子であったなら、その男と同じ名前をつける。それが、二人が良く話し合って決めた結論だった。

「この子には、翔が見る事の出来なかった自由な空を飛んでほしいんです。
 そして、彼の様に誰かの為に身を呈して戦えるような、そんな強い人になってほしいのですわ」

それが、美羽がその名に託した願い。兼一にも異論はなかった。
叶翔の事は今でも好いているとは言い難いだろう。だが、大切な人の命の恩人への恩義と、何より筋を通したその生き様に対する敬意の念は些かも揺らがない。

しかしここにきてようやく、兼一は美羽の異変に気付く。
血色の悪さは出産を終えた反動だと思っていた。玉のような汗は疲労から来るものだと。
だが、そのことに兼一は強烈な違和感を覚える。
本当にこれは、ただ御産の憔悴から来る症状なのかと。

「美羽…さん?」
(ああ、気付いてしまわれたのですね)

美羽は兼一の表情の変化を見てとり、彼が何を悟ったかを理解する。
本当は、ギリギリまで隠し通したかったのだが、それはかなわなかった。

「ちょっと待っていてください! いま、岬越寺師匠を……!!」
「それには及びませんわ」

大急ぎで秋雨を呼びに行こうとする兼一に対し、美羽は彼の袖を掴んで引きとめ首を振る。
その力はあまりにも弱々しく、諦観した美羽の表情を見て兼一は愕然とした。
自身が抱いた違和感が単なる勘違いでない事を、無言のうちに肯定されてしまったから。

達人といえど、所詮は人間。重篤な病や致命的な怪我をすれば当然死ぬ。
美羽の体は、誰に気付かれることもなく重い病に冒されていたのだ。
余命は残りおよそ半年。だが、御産は母体に多大な負担をかける。
如何に内臓を含めた全身を鍛えぬいたとしても、負担が大きいことに変わりはない。
出産自体は成功しても、その負担に母体が耐えきれない可能性は十分想定される事態だった。

「もう、私には時間がありませんの」
「な、何を言ってるんですか!? 岬越寺師匠と馬師父なら……!!」
「人は、神にはなれません。どれだけ技術が進み、その技術を極めても限界はあります。
 命数を使いきってしまえば、もう……」

美羽の言わんとする事はわかる、それこそ理解したくない事まで。
彼女の顔色が悪いのは単なる憔悴や疲労ではなく、生命力そのものが底をつこうとしているから。
よく耳を澄ませば、不自然なまでに息が荒い事にも気付く。

「前々から、秋雨さんには言われていたんですの。死ぬかもしれないと」
「そ、そんな!? 僕はそんな事一言も!!」
「誰にも言わないようにお願いしましたから」
「なんでそんな事を!?」

美羽の告白に、兼一は先ほどまでとは違う涙を浮かべて声を張り上げる。
それは、やり場のない怒りと悲しみに満ちた慟哭だった。
だがそれは、美羽や秋雨に対するものではない。
今まさに最愛の妻を奪おうとする運命と、二人にそんな気遣いをさせてしまった自分に対するもの。
それが、どれだけ無意味な事か理解しても、兼一はその感情を抑えることができなかった。

そもそも、美羽と秋雨が病のことに気付いたのは、子どもを身籠ってからの定期検診の中での事。
その時すでに、美羽を侵す病魔は取り返しのつかないところまで進行していた。
恐らく、ここで中絶しても次の子どもを望む事は出来ない。
幸いだったのは、その病が胎内で育つ子に感染するような類の物ではなかった事。
故に、美羽は命と引き換えに産み落とす事を選択したのだ。最愛の男との、ただ一人の愛の結晶を。

「産んでも産まなくても、結果は変わらないと言われましたの。早いか遅いか、それも半年程度の差だと。
 それならいっそ、その時が来るまで心配させたくなかったものですから」

だから、誰にも言わないよう懇願した。最愛の夫でありパートナーである、兼一にさえも。
それが兼一に対する最初で最後の裏切りと知っていながら、それでも彼女はそれを望んだ。
せめてその時が来るまで、自分が愛した人たちの顔を悲しみで曇らせたくなかったから。

しかし、それが自分のエゴでしかなかった事を美羽は理解する。
片手で我が子を抱いたまま、もう片方の手で自分の手を握りながら涙する兼一を見て。

「僕は………僕はあなたを守るって誓ったのに! やっとあなたを守れるくらい強くなったのに………それなのに、こんな時にあなたに何もしてあげられない!!
 アイツとの誓いも、あなたとの約束も、みんな…みんな破ってしまう!!!」

悔しかった、やっと美羽を守れるくらいに強くなったのに、むざむざ彼女を死なせてしまう事が。
折角この世に生を受けた我が子に、碌に母との思い出を作らせてやれない弱い父(自分)が。
だが、そんな兼一に対し、美羽は優しく手を重ねて首を振る。

「いいえ。それは……それは違いますわ、兼一さん。私、最近になってようやく気付きましたの。
 以前はあなたが私の庇護を離れる事をさびしく思ったこともありましたが…………本当は逆で、私があなたに守られていたんですわ」
「……………え?」
「私はずっと、あなたに守っていただいていましたわ。
いつ闇に堕ちるとも知れなかった私の心を、あなたのその…優しくて強い心が」

逃れられない死を宣告されて以来、美羽は人知れず不安と恐怖に耐えてきた。
命をかけて戦う事には慣れていたが、ヒタヒタと忍び寄る死の影は彼女をして恐怖させる。
それに今日まで耐えて来られたのは、傍に兼一がいてくれたから。
彼の優しさに、温かさに、強い心に励まされたからに他ならない。
そして気付いた。初めて会ったあの時から、その心を守られてきたことに。

「ですから、あなたは約束を破ってなどいませんわ。
誓いは、もう十分に果たしたと、きっと翔もわかってくれる筈ですもの」

それは、確かに美羽にとっての真実なのかもしれない。
だがそれが、兼一にとって何の気休めにもならない事は承知していた。
それが真実だとしても、彼はきっとずっと自分を責めて後悔し続けるのだろう。
そんな彼だからこそ、美羽は彼に惹かれたのだ。その、無上の優しさに。
しかし、それでも美羽は今日この日まで自分を支えてくれた兼一に、感謝の気持ちを伝えたかった。
伝えずに死ぬ事だけは、したくなかったから。

「ありがとうございますわ、兼一さん。私の事を愛してくれて、守ってくれて。
 あなたに出会えて、私の人生は本当に豊かになりましたわ。武術と梁山泊しなかった私にお友達が出来て、一緒に楽しい時間を過ごして、たくさん………本当にたくさんの事がありました。
 その全てが、私の大切な宝物。みんな、兼一さんがくれたもの。
 そして…………ごめんなさい。あなたからもらった物を何も返せず、あなたと翔を置いて逝く私を許してくださいまし」

最後の時には何を伝えればいいか、ずっと美羽は迷ってきた。
だが、いざその時が来てみれば、スラスラと伝えたい事が口から溢れてくる。
むしろ、いくら伝えても伝え足りないからこそ、残り少ない時間がもどかしい。

出来るなら、このまま一晩中思いの丈を紡ぎ続けたかった。
それができない事を、美羽は心の底から呪う。
いや、本当に呪っているのはそんな事ではなくて、最愛の夫と息子から引き離され、やっと得た宝物を失うことそれ自体。
『死にたくない』と、『もっと生きたい』と、『愛おしい人たちと過ごしたい』と、魂の底から願う。
しかし、それが叶わないことを、指一本動かすことにすら苦労する体が知らせていた。

今にも溢れそうになる涙をこらえ、美羽は我が子を見つめる。
翔はスヤスヤと寝息をたて、自身の母に何が起ころうとしているかまだ知らない。
何も伝えられず、碌に愛情を注ぐこともできなかった事を心のうちで詫びながらも、美羽はその穏やかな寝顔に魅入られる。こうして我が子の顔を見ているだけで、あらゆる束縛から解放されたようだった。

兼一は最早、美羽に対して何も口にできない。
漏れるのは嗚咽ばかりで、言葉を発する余裕などどこにもなかった。
そんな彼に対し、美羽はいくつかの願いを託す。

「兼一さん。最後のお願いを、してもよろしいですか?」

美羽の言葉に、兼一はしばしの間をおいてから頷く。
その様子を見て美羽は静かに微笑み、その願いを口にする。
兼一はただ一語一句逃さないように、決して忘れないようにその言葉に耳を傾けた。

そしてすべての願いを伝え終えた後、二人の家族、梁山泊の面々が診療室に入ってくる。
秋雨から事情を聴いたのだろう、皆の眼には涙が浮かんでいた。
自分の為に泣いてくれる家族に対し、美羽は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
特に、祖父に対してはその気持ちが強い。屈強な祖父の眼にも、透明な雫が浮かんでいたから。

そんな彼らに対し、美羽は精いっぱいの感謝と謝罪の言葉を伝える。
そうして美羽は、愛すべき家族達に囲まれ安らかな微笑みと共に…………………その短い生涯に幕を閉じた。



  *  *  *  *  *



数日後の梁山泊。
重い曇に包まれたその日、白浜美羽の葬儀がしめやかに行われようとしていた。

高校・大学時代の学友はあまり多くなく、参列者の多くは新白連合のメンバーたち。
あるいは、武術を通して出会ったライバルがその大半を占めている。
中には警察や中国の武侠組織の重鎮などもいたが、その数もやはり多くはない。
同時にそれらの事実は、ある意味彼女の特殊な生い立ちを象徴しているようでもあった。
だが、彼らの眼には一様に涙が浮かび、故人がどれほどまでに皆に愛されていたかは一目瞭然だろう。

やがて葬儀も終わり、ほとんどの参列者が家路についた頃。
梁山泊の道場で、喪主を務めた兼一は友人たちと向かい合っていた。

「新島、折り入って一つ頼みたい事がある」
「どうした、相棒。藪から棒によ」

スヤスヤと眠る我が子を抱く兼一の対面に座るのは、兼一無二の悪友「新島春男」。
その周りには、新白連合最初期のメンバーや黎明期を支えた幹部たちが勢揃いしている。
また、少し離れた所には兼一の妹のほのかと、彼女の交際相手である「谷本夏」の姿もあった。

「実は……………………………連合を抜けようと思う」
「な、なに言ってんですか隊長!?」
「そうですよ! 連合は総督と隊長がいてこそじゃないですか!!」
「奥方を亡くして悲しいのはわかるが、思いとどまるんじゃあ隊長!!」

元は新島が作ったまやかしの団体でしかなかった新白連合。
はじめは煩わしくも思っていた兼一だったが、いつの間にか見捨てる事の出来ない掛け替えのない仲間になっていた。自分の発言に対し、必死に引き留めようとする水沼や上岡、旗持ちの松井を兼一は優しい目で見つめる。
いや、引きとめようとしているのは彼らだけではない。ラグナレクとの抗争を乗り越えて連合に吸収された白鳥達元キサラ隊の面々も、共に兼一を引き留めようとしてくれている。
隊長達はさすがに騒ぎ立てこそしないが、それでもその眼には憂いの色が濃い。
こんなにも自分を思ってくれる友人たちに、兼一は重く沈んだ心が僅かに軽くなる事を自覚した。

だがそれでも、これはもう決めた事なのだ。
そう口にしようとしたところで、新島が騒ぐ彼らを制する。

「静かにしろ手下ども!」

新島の一喝により、ざわついた場の雰囲気が静寂を取り戻す。
元は単なる小悪党でしかなかった筈の男だが、今や組織のトップとしての貫録を身につけていた。

大学時代にジークフリートの出資や株取引によって得た資金を基に、連合を武術団体として起業して早数年。
新島の頭脳と統制され忠誠心厚い部下達、そして各隊長の秀でた武術の腕前。
これらの歯車が絶妙にかみ合い、瞬く間のうちに日本の武術界に連合の影響力は広がって行った。
今や、世界にも連合の名は浸透しつつある。洋の東西、裏表を問わず。

二十歳を超えたあたりから、チラホラと達人の領域に至る者も出てきた。
そうして新白連合は、世界的に名の通った達人を幾人も擁する一大武術組織へと成長しつつある。

「理由を聞かせてもらおうか、兼一。俺はおめぇに、組織のナンバー2としてふさわしいだけの物を提供してきたつもりだ。おめぇだって、まんざらじゃなかったように思えてたんだがな」
「…………そうだな。正直言ってしまうと、連合としての活動も充実していたのは本当だ。
 互いに武を競って磨き合い、時に笑い、時に共に戦った。みんな、掛け替えのない仲間だと思っているよ」
「そこで金とか地位とか権力が出ねぇのがおめぇらしいが、なら何が不満なんだ?」

実際、新島から支払われる給与は下手なベンチャー企業の社長より多い。
そこに加えて、表沙汰にできない警察などからの依頼仕事をこなせば、さらに特別手当が出る。
おかげで、梁山泊の経営はここ数年かなり余裕が出て来ているほどだ。

兼一は金銭には興味の薄い人間だが、決してその価値を軽視して良わけではない。
生きていくためには金がいる、その事を正しく理解している。
だから貰えるものはしっかりもらうし、それを梁山泊の運営に充てたり、自分自身の趣味などの為にも使う。
ただ、元よりあまり欲の強い方ではないので、余った金銭は匿名で慈善団体に寄付している辺りがこの男らしいが。

…………話が逸れた。
要は、今の兼一に新白連合に対して特に不満らしい不満はないと言う事だ。
だからこそ、新島をはじめ連合の面々は首をかしげざるを得ない。

「不満とかじゃないんだ。ただ、武の世界から少し離れようと思ってね。
 その為には、連合にいたままじゃダメなんだ」
「お兄ちゃん!? いきなり何言ってるんだじょ!
 あんなに頑張って、大好きだって言ってた武術をやめるの!?」

それまで静観していたほのかが、ついに声を張り上げる。
まさかこの兄が、武を捨てるなどと言うとは思ってもみなかったのだろう。
それは誰もが同じ気持ちで、皆信じられないと言わんばかりに目を見開いている。
今日まで兼一がどれほど真摯に武に打ち込んできたか、それを知るからこそ。
しかしそこで、夏は何かを確かめるようにゆっくりと口を開く。

「それは、その手元にあるものの為か?」
「さすがだね、谷本君。でも正確には、美羽さんとの約束なんだ。
 武の道を行くかどうかは、この子…翔自身に決めさせるって」
「それはどういうことなんだ~い、兼一君?」

兼一の言葉に隊長陣の一人、ボクサー「武田一基」が問いかける。
その問いに対し、兼一は美羽が逝った夜の事を思い出しながら言葉を紡ぐ。

「僕は、武術と出会えてよかったと思っています。武術を通して、沢山のかけがえのない宝物を得たから。
 武術は、僕にとって無二の恩人とも言える存在です。出来るなら、翔にもその素晴らしさを知ってほしい。
 それに僕も武術家のはしくれですからね。息子に後を継いでほしい、自分の全てを伝えたいと言う気持ちはあります」
「それならなんでなんだい、ボーヤ。息子に武術をやらせたいっていうのと矛盾するじゃないか」
「でも、同時に僕たちは知っています。武術は辛く苦しく、危険なものである事を。
 僕も美羽さんも一人の親として、翔には平穏な人生を歩んでほしいんですよ。平凡で、ありきたりで、特別なものなんて何もない人生。それはきっと、そう悪くないものだと思うんです」

テコンドーの使い手「南条キサラ」の言葉に、今度は父として答える兼一。
それは、父親として当然の願いだろう。どこの世界に、息子に苦難の道を歩ませたがる親がいる。
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言うし、優しくするだけが優しさとは限らない。
あるいは中国の諺にも、「摩擦なくして宝石を磨けないように、試練なくして人は完成しない」とある。

確かにその通りだろう。
だが、だからと言って達人へ至る道程は「険しい」などと言う生易しいものではない。
ならば、我が子に平凡な人生を望む事は、何も間違っていない筈だ。
武術は素晴らしいが、武術を修めねば幸せになれないわけではないのだから。

「父としては我が子の平穏を望み、武術家としては継承を望む。
 これは、子を持つ武術家が誰しも抱く葛藤でしょうね~、ラ~ラララ~♪」
「たしかに、風林寺がそれを望んだのも無理はない、か」

ジークフリートこと「九弦院響」とフレイヤこと「久賀舘要」は、兼一達の思いに共感を示す。
武術家といえど人の親。何より、兼一と美羽の二人は特に情に厚い。
そんな二人が、我が子の平穏を望むのは必然と言えただろう。
そして、トールこと「千秋佑馬」が兼一の言葉の意味を総括する。

「なるほどのぅ、つまり我が子を武から遠ざける為に、自ら武を離れると?」
「はい。翔に普通の人生を歩むチャンスを与える事、それが美羽さんの最期の願いなんです」
「っ! おい兼一、まさかお前……!」

そこで、柔道家「宇喜田孝造」が兼一の言葉の裏にある意味を悟る。
さすがに驚きを隠せない宇喜多に対し、兼一はいたって平静のまま答えた。

「たぶん、あなたが思った通りですよ宇喜多さん。
納骨が終わり次第、僕は梁山泊を離れて実家に戻るつもりです」
「その事は、あのジイサンたちは知ってるのか?」
「ああ、美羽さんが逝ったあと、長老たちと話し合って決めた事だ」

新島の問いかけに、兼一はその時のことを思い返す。
美羽の臨終を秋雨が告げ、兼一を含め皆はその胸の内の悲しみをそれぞれの方法で発散した。
ある者は酒を浴びるように飲み、ある者は部屋に引き籠もって泣き、ある者は夜空を見上げて家族の冥福を祈り、ある者は自身の不甲斐なさを悔いた。

そうして悲しみに暮れた後、兼一の呼びかけで梁山泊の豪傑達が道場に集ったのだ。
そこで兼一は、今新島達に言ったこととほぼ同じ内容のことを告げた。

「決意は堅いのかい、兼一くん」
「ごめんなさい、岬越寺師匠」
「私に謝られてもね……皆はどうだい?」
「へっ! やめてぇってんならやめさせればいいじゃねぇかよ! 俺の知ったことか!」
「…………………僕も、それでいいと思…う」
「そうね、確かにここにいたら美羽の遺言は果たせないしね」
「アパチャイ、むつかしい事は良くわかんないけど、兼一と翔が戻ってきたら一杯一杯歓迎するよ!
 だから、兼一は気にしないでいくといいと思うよ!」

皆、形は違えど兼一と美羽の意思を尊重してくれた。
長老は黙って何も言わないが、兼一の眼には彼の覇気が衰えたように見える。
まるで、唐突に何十歳も年をとってしまったかのようだ。

そのまま、兼一は長老の言葉を待つ。
酷かもしれないが、それでもここは言葉として聞かねばならない時だから。
そうして待つこと十数分。やがて、長老はその重い口を開いた。

「孫娘の最期の願いじゃ、聞かんわけにはいかぬて」

重い重いため息と共に、長老はそう言って兼一が翔とともに梁山泊を離れることを承諾した。
武術の世界に置いて、兼一はすでに「梁山泊の弟子」ではなく「梁山泊の一員」として見られている。
それはつまり、彼が師達の技の全てを継承したことを意味する認識であり、師達もそれを否定しない。
未だその技の深さは師に及ばないが、教えられることは全て教えたから。
もし、まだ残っている物があるとすれば、それは武器術である香坂流と無敵超人が誇る超技百八つくらいか。

「それに、別に武をやめるわけじゃありませんよ。
これからも練磨を怠る気はありませんし、翔が寝付いた後にでもご指導賜りたいと思っています。
いつか、翔が自分自身の意思で武の道を選んだ時、腕が鈍っていたら美羽さんにあわせる顔がありませんから」

そう言って、兼一は苦笑を浮かべる。
平穏か武か、それを選ぶのは翔自身でなくてはならない。それが美羽の願い。
そして翔が武を選んだその時は、自分自身の手で鍛える事を兼一は決めていた。
だからこそ、兼一はここで師達が思いもよらない事を口にする。

「長老、一つよろしいでしょうか?」
「? なんじゃ、兼ちゃん」
「僕に超技百八つ、その全てを伝授していただきたいんです」

兼一は座布団から降り、畳の床に額を擦り合わせて土下座する。
その言葉に、さしもの梁山泊の豪傑達もおどろきの表情をあらわにした。

兼一も長老の教えは受けているが、百八つあるとされるその秘技の全てを学んだわけではない。
それどころか、その全容を把握しているかさえ怪しいだろう。

無敵超人は弟子をとらないことで有名な達人だ。
修業をつけ、技を授ける事はある。だが、正式な弟子は取らない。
兼一や美羽もまた「教えを受けた」だけであり、正しい意味での「弟子」ではなかった。
そんな彼に、兼一はその全ての技の伝授を乞うたのだ。
それはつまり、正式に弟子に取ってほしいと願ったことを意味する。

長老は兼一の申し出に押し黙り、鋭い眼光が兼一を射る。
並々ならぬ気当たりが発せられ、知らず兼一の額に汗が浮かぶ。
それを見た秋雨は、とりなすように二人の間に入った。

「理由くらいは聞いてはいかがでしょう、長老」
「そうね、兼ちゃんに限っていい加減な気持ちで言うとも思えんしね」
「…………………良かろう。では白浜兼一、御主はなぜわしの超技百八つ、その全てを求める」
「一武術家として己を極める為…………………と言うのもあります」
「それだけではない、と言う事じゃな?」
「はい。翔が武人となる事を選んだその時、僕は僕や美羽さんが愛した梁山泊の全てを、この子に伝えたいんです。
 美羽さんが何を見て育ったのか、どんな技を使う人に武を学んだのかを。
美羽さんとの思い出がないこの子に、その代わりとなる物を授けてあげたいんです」

全ては、我が子が選ぶかもしれない未来の為に。
それが、兼一が超技百八つの伝授を求めた理由。
自分の為ではなく大切な人の為に、それは実に彼らしい理由だった。

「もし拒否した時、御主はどうするつもりじゃ、白浜兼一よ?」
「その時は、戦ってでも盗みます」
「わしと戦って、無事で済むと思うておるのか?」

その瞬間、長老の気当たりがさらに強まった。
『侮るなよ小僧』と、無言のうちに激怒されたかのような錯覚を覚えるほどの気当たり。
よほどの達人でも呑まれ、心がくじけてしまいそうな重圧と根源的な恐怖。
しかしそれでも、兼一の覚悟は揺るがない。

「長老、あなたは一つ勘違いをしていらっしゃいます。
 梁山泊に入門して以来、僕はずっと自分より強い相手とばかり戦ってきました。
 どれだけ力の差があっても、僕は一度だって負けるつもりで戦った事はありません!!」

長老の気当たりを、兼一もまた真っ向から受け止める。
彼の言う通り、未だ兼一では長老には敵わないだろう。
美羽との結婚にしたところで、アレはかなり例外的な事例だ。
その武の全てを晒した無敵超人を相手にするには、兼一はまだ若く未熟過ぎる。
だが、そんな事で兼一の意思はくじけない。

両者が睨み合う事しばし。
気の弱い者なら、それだけで死んでしまいかねないほどの気当たりの応酬。
先に気当たりを引っ込めたのは、長老の方だった。

「………………………良かろう。ただし、わしの修業は厳しいぞい。
 それが、翔に気付かれないようにするとなれば尚更じゃ」
「元より、覚悟の上です」

兼一の意思と覚悟に思うところがあったのだろう。
長老は溜息と共に、頭を振って兼一の申し出を了承した。
あるいは、どこまでも真摯で邪念の無い兼一の思いに折れたのかもしれない。
そんな彼に対し、兼一はただ深々と頭を下げる。
信条か流儀か。どちらにせよ、これまで貫いてきた自身のあり方を曲げてまで己の我儘を認めてくれた、義理の祖父に。

こうしたやり取りが行われた後、兼一と長老は二人で縁側に座っていた。
互いの手には御猪口があり、静かに二人は酒を酌み交わす。
そこで、夜空を見上げていた長老がポツリと漏らした。

「兼ちゃんや。わしはな、別に神様や仏様をそれほど真面目に信じ取るわけではないが、今回ばかりは彼らを呪ったぞい。こんな老い先短い老人ではなく、なぜまだ若く、子を産んだばかりの孫娘を殺すのかとな」

それは、兼一もまた抱いた怒りだった。
どうしてよりにもよって美羽だったのか。
子の成長を見届けられない母親、母の思い出を持たない子。
どちらも、あまりにも悲し過ぎるではないかと。

「じゃが、今はほんの少しだけ………感謝しておるよ。
 お主の様な若者と孫娘を引き合わせ、この老いぼれに最後の役目を与えてくれたんじゃからな。
 それならまぁ、神や仏とやらもそれほど捨てたものではないのじゃろうて」
「長老……」
「わしの全てを、お主に託す。翔がどの道を選ぶとしてもな。
 誰に伝えるも、どう使うかもお主の思う様にするがよい」

これが、数日前に長老と兼一との間で行われたやり取りである。
こんな話を聞かされては、連合の面々に異論などある筈もなし。

「ジーク」
「はい、我が麗しの魔王よ」
「兼一の脱会の手続きだ。明日の朝までに書類をまとめろ」
「………承知いたしました」
「わるいな、新島」
「へっ、別におめぇがいなくなっても連合はもう盤石よ。
 これで俺様の独裁だからな、かえって清々するぜ」

それだけ言って、新島は兼一に背を向けて歩み出す。
その背を追って、一人また一人と連合員達が立ち上がる。
その中には、兼一にとって戦友とも言うべき隊長達も含まれていた。

「ま、こっちのことは気にせず子育て頑張りたまえ、兼一君」
「そういうこった。おめぇの分まで俺達で何とかしてやっからよ」
「何言ってんだい宇喜多、アンタが一番心配なんだよ。なぁ、ボーヤ」
「その子の前で武の練磨はできんのだろう。なら、必要な時は声をかけてくれ。
 うちの道場でよければ、いつでも貸すさ」
「おしぃのぉ、お主の息子を弟子にして実戦相撲を極めさせようかと思うとったんだがなぁ」

口々にそう言って、隊長達も梁山泊を後にする。
兼一は知っていた。新島主導で梁山泊の豪傑達が兼一にそうしたように、あるいは闇における「一なる継承者」と同じように、隊長たち全員の武を一人の弟子に伝える計画がある事を。

しかしそれも、兼一の離脱で白紙になるか、再考されることになるだろう。
特に、全てを伝える弟子の最有力候補が翔であったから。
その事を申し訳なく思いつつ、友人たちの配慮を嬉しく思う兼一だった。

「お兄ちゃん、ほのかは武術とか全然関係ないから、いつでも頼ってくれていいじょ」
「ああ、ありがとな」
「子育てにかまけて腕を鈍らせねぇ様に気をつけな。
 梁山泊を離れようが連合を抜けようが、てめぇを狙ってる奴は掃いて捨てるほどいるんだからよ。
 てめぇは俺が殺すんだ。その事を忘れんな」

そうして、ほのかと夏も去っていく。
夏の不器用な配慮に、兼一は苦笑しつつもよい友人を得たことを噛みしめる。

場所は移って新島の車。
一人で運転し家路を辿る彼は、誰も聞いていないこの状況でやっとその本心を吐露した。

「まったく、俺様も丸くなったもんだぜ。
 折角の手駒を、みすみす手放すんだからな」

自身の甘さに呆れかえるとばかりに、新島は肩を竦めてため息をつく。
兼一と関わって、彼も変わった。その変化を、彼もそう嫌っていはいない。

「まあ…………しゃーねーか。
 あんな奴でも、俺様の唯一の悪友(親友)だからな」



  *  *  *  *  *



それから4年の月日が流れた。
兼一は一人の幼児に急かされながら、買い物袋を手に駅前のアーケードを歩いている。

「父様、はやくはやくぅ!」
「ああ、分かってるよ翔」

それはだれの目にも微笑ましい、仲の良い親子の姿。
翔と呼ばれた幼児は跳ねるように歩き、兼一はその様子に穏やかに目を細める。

美羽が死んでからいくらかの時が流れ、翔もだいぶ大きくなった。
美羽の願いどおり、今のところ翔は武とは無縁の生活を送っている。
自宅に武にまつわるものはなく、テレビで武術関連の番組を見る事はほとんどない。
自然、翔は武に対して無知なままにスクスクと大きくなった。
兼一が密かに、翔が寝静まったあと技を練磨していることも、彼はもちろん知らない。

翔にとって父はどこにでもいる普通の、ただし理想を体現したかのような良き父だった。
写真や父とその友人たちの話の中でしか、翔は母を知らない。
母がいないことには寂しさがあるが、それも決して大きくはなかった。
祖父母と共に生活し、また叔母や叔父、父と母の古い友人達が訪ねてかまってくれることも理由の一つだろう。
時折母と共に歩く子どもをうらやましそうに目で追う事はあっても、我儘を言って兼一を困らせる事はなかった。
父が今は亡き母の分まで、惜しみなく愛情を注いでくれていることを何処かで理解していたからかもしれない。

何より、翔は父が大好きだった。
約束は必ず守り、その場しのぎの安易な言葉を使わず、決して嘘を言ったりはしない父。
優しく、いつでも柔和な笑顔を浮かべ、何があろうと自分を受け止めてくれる父。
時には厳しく叱りつけられることもあるが、翔にもわかる様に言葉を選んで伝えようと努力してくれる父。
幼いながらに、翔は父に憧れた。大きくなったら父の様な大人になりたいと、漠然と翔は思う。

そんな感情が、兼一の周りを飛び跳ねるようにして歩く翔から見てとれる。
別に久しぶりの父の外出とかそういうわけではなく、極々日常的な買い物に過ぎない。
それでも翔は、こうして父と一緒にいられるだけで幸せだった。

「ねぇ父様、新しいご本はもう書けたの?」
「ん? ああ、出来たよ。今朝出版社……本屋さんに送ったんだ」
「へぇ、僕も読んでみたいなぁ」
「う~ん……翔には、まだちょっと早いかもしれないねぇ」

そんな会話をしつつ、兼一はにこやかに首を傾げる。
実際、兼一の執筆する本は幼児の翔にはまだ難しい。
何しろ主なテーマが「イジメ」だ。これはハードルが高い。

ただ、執筆活動は梁山泊を離れてから始めたわけではない。
実際、美羽が存命中にも執筆活動は細々とやっており、いくつかの小さな賞を取ったこともある。
だが、本格的に執筆に集中するようになったきっかけが、美羽の死だったと言うだけの話。

とはいえ、その頃と今で兼一の執筆内容は若干変化している。
その一つが、当時メインテーマの一つだった「武術」を取り上げなくなった事。
翔の周りから武術の気配を取り除くにあたり、兼一は武術をテーマにした執筆をしなくなったのだ。

それでも、武門に入る前の実体験を基にした兼一の小説はそれなりに売れている。
幼い頃からの夢だった直木賞こそ受賞していないが、今や知る人ぞ知る若手小説家として活動中だ。
まあ、さすがにまだこれ一本で食っていけるほどの収入にはならないが……。
しかし、別段これが本業と言うわけでもない。

今のところ、本業は連合を抜けた後に再就職したチェーンの園芸店だ。
駅前の小さな店だが、親切な接客と豊富な専門知識、そして取り揃えていない品でも数日のうちにとり寄せられる手早さが好評を博している。
なんでも高校時代の友人、泉が大手のメーカーに就職したおかげでそのコネもあり何かと恩恵を受けているらしい。また、利用者や主婦層の間では「軍手と作業着の似合う店員」としてちょっとばかし有名だったりする。

だが、武術とは無縁の生活を送るだけなら夏を頼ればよさそうなものと思わなくもない。
何しろ彼の表の顔は、大企業『谷本コンツェルン』の総帥。
しかも今やお飾りなどではなく、実際に辣腕を振るう経営者だ。
そのコネを頼ればもっと収入の良い仕事、高いポストに付く事も出来そうなものだが……。

しかし、実際の世の中とはそううまくはいかないもの。
まず、彼の性格を考えると素直に兼一を援助するとは考えにくい。
もちろんあれで情に厚い所があるので非情に徹し見捨てるとは考えにくいが、むしろ問題となるのは彼の裏の立場。表向きは大企業の総帥だが、その裏には闇の一影九拳が一人『拳豪鬼神』の一番弟子としての顔がある。
如何に武術界を離れたとしても、活人拳の象徴たる梁山泊の一番弟子である兼一が夏の下に付くのは、色々問題があった。それをわかっていたからこそ、この4年夏は一切の援助を兼一にしていないのだ。

とはいえ、それでも兼一の手には職がありとりあえず食うに困る事もない。翔も元気にスクスクと成長している。
決して楽とは言えないが、父子家庭としてはおよそ順風満帆と言っていい生活を、現在の兼一達は送っていた。
未だに美羽を失った喪失感は大きく、胸に空いた空洞は小さくなる様子はない。
だがそれでも、人は生きていける。ましてや、支えねばならない家庭があれば尚更だ。
美羽が残した忘れ形見である翔を立派な大人に育てる、それが今の兼一の生きる指針。
同時に、彼の成長を見守る事こそが今の生甲斐と言っていい。

そんな事を再確認しながら歩く兼一と、そんな事はつゆ知らず父との時間を楽しむ翔。
そこでふっと視線を挙げると、電器店のショーウインドウにいくつかのテレビが陳列されていることに気付く。
それ自体は何てことはないが、問題なのは映し出されている内容だった。

兼一は思わず足を止め、その内容に耳を傾ける。
そこから流れているのは、昨日行われた新白連合も出資している総合格闘技、その王者決定戦後に行われた勝者へのインタビューだった。

『8度目のタイトル防衛おめでとうございます、水沼さん。
 総合格闘家としてデビューして以来無敗、いまや国民的ヒーローですね!』
『いえ、僕なんてまだまだですよ』
『おお、まだまだ向上心は衰えませんか! それが強さの秘密なんですね』

そこに映っていたのは、兼一にとってもなじみ深い人物。
かつては兼一同様いじめられ子だった水沼は、いまや連合を代表する格闘家として活躍している。
『表側の』と言う注釈こそ付くが、内閣総理大臣に匹敵する有名人だ。

幹部クラスは達人ばかり、表の世界ではその武を披露するのは憚られる。
その為、結果的に水沼達平隊員たちが表側での主力となった。
実際、水沼以外にも何人もの連合メンバーが格闘技の第一線で活躍している。

『では、この喜びを今どなたに一番伝えたいですか? やはり、先日生まれたお子さんでしょうか?』
『そうですね、正直「一番」と言うのは決められませんよ。
妻と娘もそうですが、恩師をはじめ伝えたい人は大勢いますから』
『恩師と言えば、先日二十番目の支部を開設した「鬼幽会」、その会長アラン須菱さんですね』
『はい、アラン先生の教えがあったからこそ、今の僕があります』
『ほぉ、たとえばどんな教えが心に残っているのでしょう?』
『そうですね……「強くなる方法なんて簡単だ、どんなに殴られても蹴られても、絶対に倒れなければいい」。
 この教えがあったからこそ、どんな窮地でも立ち上がり、戦えるんだと思います』
『そうですかぁ! では、やはり一番喜びを伝えたいのは恩師、と言うことになりますか?』

水沼の言葉に感動したのか、それとも単なるパフォーマンスか。
どちらにせよ、ショーマンシップに溢れた反応を返してくれる。
だが、最後の質問に水沼は僅かに押し黙り、ゆっくりと噛みしめるように慎重に返答した。

『………………いえ、それでも敢えて一人に絞るのなら、別の人です』
『おや、それはどなたですか?』
『その人は訳あって名前を出す事を望んでいません。なので、名前は秘密にさせてください。
 ですが、あの人と出会えたからこそ、今の僕がいるんです。今日にいたるまで、僕は何度も道を誤りかけてきました。でもその度に、あの人の存在が僕を正しい道に引き戻してくれました。
 あの人が、本当の勇気と強さを教えてくれたんです!!』
「どうしたの、父様?」

そこまで見たところで、翔が兼一の裾をやんわりと引っ張る。
兼一の意識はテレビから引き戻され、優しく翔に微笑みかけた。

「ん? ああ、ごめんよ翔。
ほら、うちのテレビもだいぶ古くなってきたし、新しいのに買い替えようかと思ってさ」
「ダメだよ! まだあのテレビ使えるもん! 物は大切にしなくちゃダメって教えてくれたのは父様だよ!!」
「そうだったね、ゴメンゴメン」

翔のちょっと背伸びをしたツッコミに、兼一は「してやられた」とばかりに頬をかく。
そうして二人は電器店を後にする。
いくらか歩いたところで、兼一は前を行く翔に話しかけた。

「そう言えば、そろそろお昼だね。どこかで食べて行こうか?」
「じゃあ僕、ハンバーグがいい!!」
「ははは、翔はホントハンバーグが好きだなぁ。じゃあ、いつものお店にしようか」
「うん♪」

子どもらしい元気な返事に、兼一は自身の幸せを噛みしめる。
美羽を失った時はもう笑えないと思った。涙が枯れる事はなく、枯れても血が代わりに流れると思ったものだ。
しかし、人は時間をおけば笑えるようになる。枯れない涙など存在しない。
失った空白はそのままに、それでも生きていけるのが人間と言う生き物だから。

同時に、兼一は口には出さず、心のうちで水沼の成功を讃えていた。
自身と違い、大切な物を失うことなく日々を生きる友を少しうらやましく思いながらも。

(違うよ、水沼君。僕は何もしちゃいない、君が今日ここまで来られたのは君自身の克己と努力の賜物だ。
 もし僕が何かしたとしたも、そんな物はきっかけに過ぎないさ)

もう何年も会っていない友人に向けて、兼一はそう心中で語りかける。
兼一の決意を聞いて以来、水沼をはじめとした連合の一般メンバーは彼の前に立った事はない。
武田達幹部クラスだと、表の世界では名が売れていないおかげで、武を披露しなければ翔の前に出られる。
しかし、彼らは表の世界で名が売れてしまった。故に、翔の前に姿を見せないようにしたのだ。
その為、兼一は幹部クラスとは時折会っているが、新島とも全く会っていない。

それでも、かつての友人たちが壮健であるという知らせは兼一にとっても喜ばしい。
新島も、今では世界的企業に成長した新白連合の代表取締役としてメディアを賑わしている。
隊長達も、風の噂では武術の世界でその名を轟かせているとか。
それらのことを思い返せば、自然と兼一の足取りは軽くなる。
翔はえらく上機嫌な父を不思議に思いながらも、そのまま兼一との外出を楽しむのだった。



買い物と食事を済ませ、二人は人通りの少ない路地を歩いて家路につく。
ただし、翔が今している事はあまりほめられたものではないだろう。
なぜなら翔は、肌着の下から何かを取り出し、それを夕日に当てながら眺めているのだから。

人通りが少ないとはいえ、歩道と呼べるものはない路地だ。
多少の余所見は誰でもする事だが、やはり推奨される類のことではない。
故に、兼一がやんわりとそんな翔を注意したのは当然のことだった。

「翔…ちゃんと前を見て歩きなさい。余所見をしてると危ないよ」
「あ…はい。ごめんなさい、父様」

父の注意に翔は素直に頷き、いそいそと取りだして眺めていた物をしまう。
それは、冷たい輝きを放つ虹色の立方体。
その頂点の一角には華奢な紐が結えられ、翔の首からペンダントの様にして下げられていた。

兼一がそのまま翔の手を差し伸べると、翔は満面の笑顔を浮かべながら父の下へと小走りに駆けてくる。
そこでふっと、兼一は唐突に翔の首から下げられている物の事を思い返し首をひねった。

(それにしても、アレっていったい何なんだろう?
 ガラス……のようには見えないし、だからって宝石とも違うんだよねぇ。
 長老は『御守りじゃ』とか言ってたけど……)

そう、アレは翔が生まれてすぐに義理の祖父でもある長老から翔に送られた御守り。
由来を含め、一切の説明を為されずに半ば押し付けられたそれが結局何なのか、兼一も未だに知らない。
ただ、渡されたその時に『翔に肌身離さず持たせなさい』と厳命されただけだ。

長老の秘密主義は今に始まったことではないが、御守り程度にそれを発揮するのは少々不可解でもある。
何よりも、四年以上の時間が経った今でも何も教えてくれないとなると、兼一でなくとも何かいわくつきの品ではないかと勘繰りたくなるというものだろう。
まぁそれはそれとして、兼一はさしあたってのささやかな問題へと頭を切り替える。

(やれやれ、またか……)

見える範囲内にこれと言って異常はない。
時折擦れ違う人々からすれば、普段となんら変わらない穏やかな日常の一ページだろう。
だが、兼一の「鋭敏」程度では収まらない感覚は、確かにそれを捉えていた。

(ひい、ふう、みい……4人か。中々丁寧に気配を断ってるとは思うけど、まだまだ甘い。
準達人級ってところかな)

あちらとしては、慎重に気配を断ち、入念に姿を隠しているつもりなのだろう。
実際、翔を含め道行く人々は誰ひとりとして気付いていない。
しかし、それは所詮一般人レベルの話。
曲がりなりにも「達人」の域に至った兼一からすれば、この程度は隠れていないも同然だ。
隠行の粗さから見ても、実力はそれほど高くはあるまい。

もちろん、『何十年も武を磨き続けた強者が一瞬の油断で弱者に敗れる』のが武の世界。
それを時にその眼で見、あるいは直接経験してきた兼一は格下相手でも侮る事はしない。
侮る事はしないが、その代わりに少々気が滅入る。

(アレから結構経つって言うのに、よくもまぁ……)

翔に気付かれない様に、こっそりと溜め息をつく。
武の世界、その第一線から身を退いて早数年。
かつてはひっきりなしに挑んできた挑戦者やら刺客やらも、兼一自身が表舞台から姿を消し、また悪友や戦友たちが方々に手をまわしてくれたおかげで最近は大分ナリを潜めて来た。

その事は純粋に友人たちに感謝なのだが、やはり全てを抑えきる事は出来ないらしい。
もういい加減に、昔話や過去の遺物扱いされていても良さそうなものだが、未だにこうして忘れた頃にこの手の輩が現れる。元来争い事を好まない兼一からすれば、気が滅入るのも無理はないというものだろう。

まぁ、それでも隠遁当初に比べれば格段に減ったのはまぎれもない事実。
なにしろ、最後に襲われたのはもう3ヶ月も前になる。
この調子で行けば、いつかは完全に刺客の影が消える日も来るかもしれない……ただ、経験上あまり期待しない方がよさそうなのが、一番の問題なのだが。

(っとと、いけないいけない。
 先の事を気に病んでも仕方がない。とりあえず、この状況はどうしたものか……)

相手が4人とはいえ、準達人級が何人いた所で油断さえしなければ物の数ではない。
だから、問題なのは「すぐ傍に翔がいる」というこの状況だ。

武の第一線から離れたとはいえ、技の練魔までは怠っていない。
故に、撃退するだけでいいなら、準達人級が4人位なら秒もかけずに沈められる自信がある。
幸いあちらも不意打ちする気満々の様だし、正面から堂々と名乗りあった上で対峙してやる義理もない。
だが、それで万が一にも翔にその場を目撃されては事だ。
できるなら、兼一はまだ翔に己が武術家である事を知られたくない。

(かと言って、まさか「ちょっと用事があるからここで待ってなさい」とは言えないしなぁ)

幾らここは人通りが少ないとはいえ、まだ5歳にもなっていない我が子を道端に数秒間でも放置するのは別の意味で不安だ。それに「何をしていたのか」を聞かれても困る。
0.1%でもバレる可能性を潰す為には、やはり家に帰ってから闘うのが望ましい。

なぜなら、家に帰りついてさえしまえば、「トイレに行く」など適当な、それでいて納得させやすい理由をつけて翔の傍を離れられる。また、同居している母が翔を見てくれるので、事故などの心配もいらない。
なにより、これなら決して翔の眼の届かない所で撃退できるし、事実過去の襲撃者の大半はこの形でなんとかしてきた。

(できれば、彼らには空気を読んでほしいんだけど……不意打ちする気満々じゃ望みは薄いか)

あとは、気当たりで牽制しながら時間を稼ぐ手もあるにはある。
しかし、それで気圧された相手が自棄になっては裏目もいい所。
なにより、誰に似たのか翔は妙に勘のいい所がある。
武術の「武」の字も知らない子どもにそれで気付かれるとも思えないが、迂闊な事は避けるべきだろう。
となると、あとは運を天に任せるか。あるいは……

(徒に時間を費やせば不測の事態が起こるかもしれないし、ここはやっぱり……)

『孫子』曰く「兵は拙速を尊ぶ」。
作戦を練るのに時間をかけるよりも、少々まずい策でも素早く行動することが肝要。
とはいえ、迂闊な事をすべきではないと考えた傍からこんな決断をするあたり、この男もすっかり朱に交わって赤くなったものだ。
それはそれとして、決断した兼一は翔を呼び止め、その傍らに腰を下ろすと西の空の一点を指差す。

「見てごらん、翔。ほら、あそこに飛行機」
「え、飛行機!? どこどこ!」

空を見上げ、キョロキョロと夢中で飛行機を探す翔。
その瞬間、翔のすぐ傍らに腰をおろしていた兼一の姿が掻き消える。
一陣の風となり、兼一はバラバラに隠れていた筈の4人の顎を突きで“ほぼ同時”に打ち抜いた。
何が起こったかわからぬ内に意識を寸断された4人は、表情一つ変えぬまま糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。要した時間は、先の確信に違わず僅か1秒にも満たない、べらぼうなまでの早業であった。

だが、4人を一瞬のうちに沈めながらも、兼一は彼らが地面に倒れ伏していく様を見届けることなく踵を返す。
確実に沈めたと言う確信があるが故なのだろうが、それだけではない。

今の所、翔はまだ空を見上げたままで、父の消失に気付いた様子はなさそうだ。
いや、ちょうど今まさに翔は兼一がいた筈の場所を向こうとしている。
偶然か、あるいは何かに気付いたのかは定かではないが。
いずれにせよ、このままでは翔が兼一の不在に気付いてしまう。

とはいえ、翔との距離は少々離れているが、この程度兼一にとってはないに等しい。
少し急ぐだけで、翔が兼一の不在に気付く前に元いた場所に舞い戻る事が出来るだろう。
しかし、内心でホッと息をついた瞬間、兼一の背筋に悪寒が走る。

(っ! これは―――――――――――――殺気!!)

そう。それは、かつて幾度となくその身を刺し、不本意ながら慣れ親しんでしまった感覚。
翔の下へと向かう足を止めることなく、兼一は反射的に殺気の出所へと視線を向けようとした瞬間、視界の端で何かが光った。
たったそれだけで、兼一はなにが起こったのかを理解する。

(狙撃か!)

そう判断した理由は、はっきり言ってしまえば勘だ。
いくらなんでも、視界の端で何かが光った程度では情報が足りない。
だが、兼一とて銃で撃たれた経験は一度や二度ではないし、実際に狙撃された経験もある。
武術家とはいえ、闘う相手は同じ武術家ばかりとは限らないからだ。
傭兵や暗殺者から命を狙われた…もっと限定してしまえば、狙撃された経験が、全ての過程をすっ飛ばしてこの結論を導き出したのだろう。

光と殺気の出所を視界の端で確認した所、500mほど隔てた高層ビルの中腹辺りにスナイパーライフル…より正確には、その上部に取り付けられたレンズの反射光が見えた。
おそらく、そこが狙撃地点と見て間違いない。
射程が1~2kmにも及ぶスナイパーライフルを用いている割には近い様に思えるが、それは違う。
スナイパーライフルの弾速は秒速900~1000m。これは、1km以上離れた所から撃てば、着弾までに一秒以上かかると言う事だ。しかし、この距離ならコンマ5秒以内に着弾する。
より遠くから撃つよりも、より速く着弾する方が当たる可能性が高いと、この狙撃手は踏んだのだろう。

実際、たった500m程度の距離で撃つ直前まで兼一に気取らせなかった時点で、相当な腕の持ち主であろうことは間違いない。それこそ、隠行や狙撃に関して言えば高位の達人と遜色ないレベルだ。
また、今思えば、あの準達人級の4人は狙撃手の殺気に気付かせないようにするための囮でもあったのだろう。
とはいえ、彼らは全力で隠れていたようなので、本人達はなにも知らない自覚無き囮であった可能性が高いが。

その上、相当に兼一達の行動を研究し尽くした上での狙い澄ました一射だったらしい。
狙撃地点である高層ビルの位置は、兼一達の進行方向の真逆。
つまり、歩いている間中ビルは死角である真後ろにあった事になる。
これでは、本当に殺気を感じ取る以外に事前に察知する術はない。
だからこそ、囮を用意したのだろう。

しかし、もしそれだけであったなら今の兼一であれば充分に対処できた。
距離が近く、弾速が早いとはいえ殺気を感知してから到達までコンマ5秒の猶予がある。
それだけあれば充分に回避は可能。
だがそれはあくまでも、放たれた凶弾が兼一へと向かっていたならばの話だ。

「翔―――――――――――っ!!!」

膨大な経験と磨きぬかれた直感によって弾きだされた弾丸の予測進路の先は、兼一ではなく翔。
故に兼一は、それが危険とわかっていても我が子を守るために自ら射線上へと向かっていかなければならない。
やり口としては武人らしからぬものだが、相手が暗殺者や傭兵ならむしろ当然と言えるだろう。
となると、何者かに金銭で雇われたと見るべきだが……不本意ながら、思い当たる節が多過ぎる。
絞り込むのは不可能だ。

なにより、今はそんな考察よりも翔を守る事が最優先。
しかし、タイミング的にはギリギリなんとか間に合うかどうか、と言った所。
それはつまり、兼一自身には弾丸に対処する余裕が与えられないであろうことを意味する。
おそらく…いや、間違いなくそれを目的として仕組んだのだろう。
その際に、翔が巻き添えになったとしても構わない、位の考えで。

あるいは、翔の身体がもう少し出来あがっていて、あとほんの少しでも頑丈であったなら。
そうであれば、多少手荒でももっと確実で二人とも安全な対処もできたかもしれない。
だが、厳然たる事実として翔は未だ脆弱な幼子なのだ。できる事は限られる。
兼一は疾走から水平の跳躍へと切り替え、なんとか翔を射線から外そうと、その小さな背へ向けて懸命に腕を伸ばす。

(せめて、翔だけでも……!)

強く押す必要はない。軽く押す、それだけで翔は凶弾の射線上から外れる。
むしろ、強く押してはならない。そんな事をすれば、逆に翔の身が危険だから。
故に、兼一に取れる対処はこれ一つしかなかった。
代わりに凶弾を受ける事になっても、翔が無事ならば本望。

(届けぇ!!)

ゆっくりと流れる時間の中、兼一は徐々に自分の右手と凶弾が翔に近づいて行く様を認識する。
だが、どんな運命の悪戯か…その手と凶弾が翔に触れる直前、翔の胸元から虹色の光が生じた。

「っ!!!」

光は瞬く間の内に膨張し、二人を呑み込んでいく。
兼一は右手が翔に触れたと感じたその瞬間、視界が…五感の全てが意識もろとも白く塗り潰された。
残されたのは、弾丸により虚しく穿たれた灰色の壁と、僅かに滴る紅い雫。

そうして、白浜兼一と翔の親子は世界から消えた。
二人がその場にいたことを示す、僅かな証拠だけを残して。






あとがき

まず、全国の美羽ファンのみなさんにお詫びを。
いきなり美羽を殺してしまいました!? 「美羽以外とくっついてもいいんじゃないか」と思いつつ、「兼一のお相手は美羽以外いないよなぁ」とも思っているので、結局はこんな形に。
何と言うか………準ハッピーエンド? とりあえず、これなら他の誰かとフラグが立ってくっついたとしても合法ですよね? だって、結婚相手はもう他界してるんですし、あとは本人の心の問題なわけですし。
「めぞん一刻」の響子さんだって最終的には再婚してますしね。再婚ならどこにも角が立ちません、たぶん。

あと、兼一は一応かなりレベルの高い達人と言う扱いです。どの程度かは敢えて明言しませんけど。
リリなのとクロスさせるなら、最低でも達人じゃないと話になりませんしね。

また、改定に伴い転移の仕方もちょいと修正。
自分自身、前のにはやっぱりちょっと無理があるとは思っていましたので、きっかけは事故から人為的なものに変更しました。ちなみに、兼一を撃った相手は狙撃や隠行と言った点において達人級の力量の持ち主です。
まぁ、狙撃メインな時点で正面きっての決闘するタイプじゃないんですけどね。

最後に、個人的には水沼は結構好きなキャラクターなので、割といい扱いになってます。たぶん、彼が一番等身大に近いんですよね。DofD初戦の彼は輝いていたと思います。アランのアレも好きですし。


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