例えば、僕のこの右手は僕が経験した事柄からこうなっている。人間というものは経験を糧にして日々を生きている。
勉強だとか、友人関係の構成だとか、それら全てが学校生活という経験を積み重ねることによってできているのだ。
だからこそ、今この眼の前に起こっている事態に僕はただただ茫然としていた。
「……何だ、これ」
転校してから数週間、もうすっかり馴染んでしまった帰り道で僕はそれを見つけた。夕陽が僕を熱く染めていた。履きなれたプーマのスニーカーが足を止める。
車も人も、この時間帯にはあまり通らないこの道。その道端に一つの大きな段ボールが置かれていた。貼られている張り紙が乾いた風で撫でられていく。
『これを拾うとあなたは幸せになります』
貼り紙にはそんなことが丸い字で可愛らしく書いてあった。それだけならばまだよかっただろう。それだけならば、僕はこんな段ボールに眼もくれず家路を急いでいたはずなのだ。
「いやいや、これはさ……」
段ボールの中には一人の女の子がいた。段ボールは比較的大きなものだったが、それにすっぽりと身体が納まってしまうのだから身長はかなり小さいに違いない。
虚しく響く烏の鳴き声の中に女の子の寝息が混ざった。眼を閉じ、その女の子は眠っていた。長く川のような黒髪が段ボールから溢れて綺麗だった。僕はその可憐さに一瞬息を呑んだ。
が、そんな浮ついた気持ちも一瞬で消える。
「待てよ」
何だか、こういった状況をどこかで見たことがあるような気がする。僕は必死に自分の記憶を追憶した。そして、ようやく思いだした。あれは、確かそう。暇だった時に読んだライトノベルだったっけか。かなりテンプレ設定のラブコメで主人公は偶然道端にあった段ボールから偶然美少女を拾ってしまうのだ。そして、その後はお約束通りのラブコメ展開。下らないといって途中でその本を投げ捨てたんだった。
小説は現実に起こらないことを書くから面白いのであって、そんなことが本当に起きたら誰だって認めようとはしないんだよな。宇宙人だって超能力者だって、そんなものはいるわけがない。って、これもどこかのライトノベルで読んだような気がする。
僕がそんなことを思っているうちに後ろを自転車が軽快な音を奏でながら通り過ぎていった。それに乗っていたおじさんは僕と段ボールに訝しげな視線を向けながら夕陽の中に消えていった。
「下らない」
僕はそう言って踵を返そうとした。いつまでもここにいたら警察が来たっておかしくない。面倒な事になるのは御免だった。
僕のスニーカーに小石が当たって小さな音を立てた。それに反応したのか眠っていた女の子は眼を覚ました。
「うん……」
眼を右手で擦りながら女の子は段ボールの中から身を起こす。やはり、僕が予想した通り小さな体躯の女の子だった。軽く背伸びをして女の子は視線を僕に預けた。女の子は僕を見るとまるで珍しい動物でも見たような表情を浮かべた。僕はその真黒な美しい瞳に見つめられて身動きが取れなくなっていた。
しばらくの間、僕ら二人の間に奇妙な沈黙が流れた。気まずさ、というかなんというか。こんな怪しい女の子とは一刻も早く関係を断ち切りたかったのだ。
僕はようやく冷静になった思考でもう一度女の子を観察した。今日は平日である。高校生ならば当然、制服を着て下校しているか部活をしているはずなのに女の子はまるっきり私服だった。花柄のワンピースに大きめのカーディガンを羽織っているその女の子は僕の眼にはとても女子高生には見えなかった。
彼女はようやく答えを見つけ出した小学生のような笑顔を浮かべ、こう言った。
「あなた、佐倉 希君でしょ?」
「え……?」
僕は正直に言って驚いた。こんな女の子に知り合いはいないし、そもそも段ボールの中に入って眠っている人物に見覚えなんてあるはずもなかった。この街に戻って来てまだ日は浅いはずである。どうして自分の名前を知っているのか僕には理解できなかった。
「何で俺の名前を知っているんですか?」
僕はそう、女の子に問いかけた。女の子はそれを訊くと得意げに人差し指を上に掲げ、こう答えた。
「私ね、天使なの」
………………。
ああ、分かった。これは俗に言う宗教勧誘ってやつだ。私は信仰していくうちに天使にクラスチェンジしちゃいました。てへ。
とか言うお決まりのパターンに決まってる。こういう輩には関わらない方が身のためだ。大体天使とか言うくせにこいつには羽も無ければ、頭の上に輪っかもない。胡散くささは僕の中でマックスだった。
「ああ、すいません。僕は根っからの仏教徒なのでこれで……」
僕は視線を女の子から外し、その場を立ち去ろうとした。
「ちょっと、待ったっーーー!」
急に女の子に右手を掴まれ、僕の身体はガクンと一瞬揺れた。どうやらかなりしつこい宗教勧誘のようだった。
「何ですか? 僕はこれから家に帰らないといけないんですが」
「仏教徒って何よ。私は天使だって言ってるじゃない」
「だから、どうせ宗教勧誘とか何かでしょう? 僕はそう言うの一切興味無いんで」
「宗教勧誘? そんなんじゃないって。ていうか、そもそも日本人は仏教徒とか言うくせにクリスマスを祝ってるじゃない」
「僕はそんなこと記憶にありません」
「子供の頃、サンタにプレゼントをもらったことぐらいあるでしょう!?」
「それは親からもらったのであって、別にキリストとかサンタからもらったわけじゃありません!」
僕は女の子(自称天使)に掴まれた右手を強引に振り払った。
「これ以上しつこいようだったら警察を呼びますよ? それでもいいんですか?」
僕はきっぱりと眼の前の女性に言い放った。これでもう僕からは身を引くはずだと思った。が、そんなことはあり得るわけも無かった。
彼女は僕の言葉を訊くと、途端に大人しくなり、泣いている時のような啜り声を上げ始めた。両手を眼の位置まで移し、嗚咽を漏らした。
「そんなんじゃないんだってば……どうしたら信じてくれるの……?」
「い、いや、そんな泣くことは……」
僕が豹変した自称天使の態度に戸惑っていると後ろの方からひそひそとした小さな声が聞こえてきた。振り返ると買い物帰りであろう主婦の皆さま方が僕を蔑むような眼で見ながら井戸端会議を繰り広げていた。当然話題は傍から見れば彼女に見えなくもない女性を泣かせている僕についてだろう。とにかく今はこの状況をすぐに打開しなければならなかった。気は進まないが。
「分かった。分かりましたよ。あなたが天使だという証拠を見せてくれれば大人しく信じましょう」
彼女の嗚咽は僕の言葉を訊いた途端、ピタリと止んだ。そして、手の間から微かに見える口元が三ミリほど上がったように僕には見えた。
「ふふ、良かったー。信じてくれないかと思っちゃった。てへ」
「なっ……」
この女、さっきのは嘘泣きかよ。
彼女は先ほどまで泣いていたことが嘘のように満面の笑みを浮かべていた。言ってしまったことを反故にするわけもいかないし、僕は何だか損をしたような気持ちになった。
「えっと、私が天使だっていう証拠だっけ。いいよ、何個かあるんだけど一つ見せてあげる」
そう言うと彼女は先ほど僕の話で盛り上がっていた奥様方の所へ懸けて行った。何をするつもりなのか僕には全く持って分からなかった。
「えいやっ」
「はあ……?」
天使は奥様方の前で奇妙な踊りを踊った。
……いやいや、あいつは何をしているんだ?
自称天使は奥様方の前で訳のわからない踊りを踊って何か彼女たちに声をかけているように見えた。
だが、
「え?」
奥様方の視線は僕に固定されたままだった。眼の前で不思議な踊りを踊っている天使には見向きもしない。未だ、蔑んだ眼で見られていて僕は悲しくなったが、それよりも何故天使のことが見えないのか。
というよりもここを通りかかる通行人全てが彼女を無視しているように見える。まるで、そこに元々存在していないかのように。
「ねえ、これで分かったでしょ?」
天使は僕が気が付かない内に踊りを止め、僕に声をかけた。得意げなその笑みは僕にとってとても可愛らしく見えた。
「私、天使だからさ、君以外には見えないんだよ。凄いでしょ」
「嘘だろ……」
こいつは本当に天使なのかもしれない。そんな気持ちが僕の中で芽生え始めていた。いや、そんなわけがない。そう思う気持ちと拮抗していること自体が僕の中ではあり得ないことだった。
奥様方は井戸端会議を終え、家路につく。天使の背後にある山から夕陽が垣間見えて僕は思わず眼を細めた。天使は夕陽にライトアップされてとても眩しかった。
「あの貼り紙、読んだでしょ?」
「あ、ああ、まあ」
「私はね、あなたを幸せにしに来たの。佐倉 希君」
「は? 俺を、幸せに?」
僕は天使の言っている言葉の意味が分からなかった。戸惑う僕を他所に天使は先ほどまでとは打って変わって真剣な表情で続ける。
「君は将来、必ず不幸になるわ。私が、救ってあげる」
天使の眼はその一瞬だけ、酷く悲しそうに見えた。
夕方の少し寒くなった風が僕たちの頬を撫でた。
これが、僕と頭の上に輪っかも無く、飛べない天使との出会いだった。