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No.25409の一覧
[0] 雲の彼方【ファンタジー スチームパンク】[U4](2011/01/13 15:45)
[1] プロローグ[U4](2011/01/13 02:45)
[2] 一章 1[U4](2011/01/13 02:50)
[3] [U4](2011/01/13 02:47)
[4] [U4](2011/01/13 02:47)
[5] [U4](2011/01/13 02:48)
[6] [U4](2011/01/13 02:49)
[7] [U4](2011/01/13 02:49)
[8] 断章[U4](2011/01/13 02:50)
[9] 二章 1[U4](2011/01/13 02:51)
[10] [U4](2011/01/13 02:51)
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[25409]
Name: U4◆74041a4e ID:2de3b00d 前を表示する / 次を表示する
Date: 2011/01/13 02:47
 川の畔はアルフォンスにとって何処か寒々しく感じられた。セーヌ川の色合いは、まるで泥水のようで、澄んだ青とはお世辞にも言えないものだった。蒸気機関によって駆動する巨大な船が本来美しいはずであるセーヌ川を我が物顔で蹂躙している。近くに整列するようにして植えられている木々も数年前から冬の如く枯れてしまい――これも蒸気機関の発達による蒸気病の一種だろうとアルフォンスは考えていた――その意味を失っている。確かにその木々もセーヌ川も灰色の空には似合っていた。だが、もしこの風景を絵にしようというのなら、それはとても寂しく悲しい絵になるに違いない。そうアルフォンスは思った。
「偶然だなあ、アルフォンス・ペノー君」
 セーヌ川の傍をゆっくりとした足取りで歩いていたアルフォンスは煙草をふかし、ベンチに座りこんでいた男を見つけた。
「ラザールさん。こんにちは」
 ラザール・カルノー。痩せすぎずの体躯に、だらしなく着こなしたコート。顔に生えている無精髭に彫が深いその容姿は何となく三十代の年齢を連想させる。が、その腰に携えたサーベルの重みは本物であり、彼が生粋の軍人であることを示していた。
 ラザールは口から煙草を離し、煙を吐き出した。足を組んで灰色の空を見上げる。そして顎の無精髭を撫でるように触った。
「いつもラザールさんは顎鬚を触りますね。癖なんですか?」とアルフォンスは言った。
 ラザールはアルフォンスの言葉を訊くと、ハッとしたように右手を顎から手放した。
「おっと、こいつは失敬。少し失礼だったな。考え事をしていると無意識の内にな。年を食うと考えることが多くなってしまって大変なのさ」
「いえ、僕はそこまで気にしていませんよ」
 ラザールは煙草を吸い終わったのだろか。それを口から吐き出し地面へと落とした。右足ですり潰すように火を消して顔を上げる。
「煙草は嫌いだったかい?」とラザールは言った。
「そこまで好きでもないですね。ただ、最近は空気の臭いなのか、それとも誰かが吸っている煙草の臭いなのか判断に困ります」
「ふっ、それは仕方ないだろうな。最近では国が経済に介入することもなくなって自由で活発な活動が目立ってきている」とラザールは言った。「資本主義というのは自分の利益の為に行動をするということだ。誰も気が付かないのさ、今のこの状況がおかしいとにな」
 ラザールはそう言って自身の右斜め後ろに振り向いた。
「ほら、見てみな。あの貨物船だって速さと一度に乗せることのできる荷物の量のことしか考えていない。黙々と排煙を出すのはいいが、それは明らかに過剰さ」
「ラザールさんは今のパリについてどう思うんですか?」
 アルフォンスが尋ねると少々の笑みを浮かべてラザールは答える。
「俺は一軍人だからな。望むものはパリとフランスの平和さ。それは別に俺や君、つまり一市民の視点から見たものじゃない。国や都市の規模で、だ。だから、国に使える身としてはあまり言及は出来ないな」
 ラザールはそうして言葉を濁した。肝心な事をこの人はいつも言わないのだ。アルフォンスはそう思った。
 そもそも、アルフォンスが今飛行機を呑気に制作していられるのも眼の前の男、ラザールのお陰であった。アルフォンスの飛行機作成というのは大まかな部分をシャルルの援助によって賄っている。あの工房を貸してくれているのもシャルルであるし、アルフォンスはシャルルの家に寝泊まりしているのだ――時折、アルフォンスは工房で作業をしていてそのまま寝入ってしまうということも多々あるが――。
 だが、それだけではまだ貴重な金属などを満足に得ることはできない。ラザールはこの国の王、ルイ=オーギュストに進言をしてアルフォンスの研究に興味を持たせたのだ。今では国王が個人的にアルフォンスを支援するという形で制作に勤しんでいる。
 アルフォンスは深く考えたことが無かった。が、もしかすれば王に進言できるほどの発言力を持っているということは眼の前でだらしなくベンチに腰掛ける男はかなり身分が高いのではないか。アルフォンスはそんな懸念を抱いた。
「ラザールさんって実は結構偉い人なんじゃないですか?」とアルフォンスは尋ねた。
「人を見かけで判断するものじゃないぞ、少年。俺はせいぜい少佐程度かな、それ以上はいくら頑張ったって無理さ」とラザールは答えた。「偉くなったっていいことばかりじゃない。理不尽な命令に従わなくてもいい代わりに責任という枷が常に付きまとう。俺はそういうのが嫌なのさ」
 ラザールは二つ目の煙草を懐から取り出して静かに火を点けた。この前会った時、アルフォンスは気が付かなかったが、どうやらラザールはかなりのヘビースモーカーのようである。輪っかのような煙を吐き出した。
「そう言えばアルフォンス君。“執行人”の彼は元気かい?」
 ラザールは煙草を吸いながら何の気なしに尋ねたに違いない。が、それはアルフォンスにとって聞き捨てならないことであった。
 執行人――
 それは略称である。何の略称かといえば、それは勿論『死刑執行人』のそれである。ラザールの言う彼とは、アルフォンスの友人であり後見人のシャルルのことである。
 死刑執行人という立場はとても特殊なものであった。その言葉は死神と同義であり、パリに住む殆どの人間に対して欠かせない存在である。なのに、同時に殆どの人間に対して蔑まれる。
 何という皮肉であろうか。誰もが犯罪者に対して死刑を望み、喝采する。それと同時に死刑を行う人間を避けて、侮蔑するというのは愚かなことである。アルフォンスは常々そう思ってきた。面倒で、汚らわしくて、危険で、最も忌み嫌われる職業。それが死刑執行人なのだ。ある意味『社会の底辺』と言ってしまっていいかもしれない。それほどにシャルルの立場というのは危うく、崩れやすいものだった。
「僕は、シャルルのことをそういった名称で呼ぶのは好きではないです」
 ぽつぽつとアルフォンスは静かに言葉を紡いだ。声を荒げるほどのことではないにしろ、そういった偏見でシャルルを見られることはアルフォンスにとって許せないものだったからだ。
「またしても、失礼をしたようだ。確かに彼を執行人という職業名で呼ぶことは偏見かもしれない」とラザールは言った。「だが、君も受け入れなくてはいけない。彼が執行人であるということは事実だし、それは変わらない。もう既に本人は受け入れているだろうな。でなければ君に笑顔を向けることなんてできるはずが無いんだよ」
 言って、ラザールは吹かしていた二本目の煙草の火を右足で掻き消した。アルフォンスはラザールに何も言い返せなかった。ラザールはそんな落ち込んだようなアルフォンスの様子を察してか、言葉をかける。
「俺も少々言い過ぎてしまったかな。けど、彼のことを一番の友達だと思うのならそういった所が大事なんだと俺は思うね」とラザールは言った。そして、おもむろにベンチから立ち上がり、その大きな背でアルフォンスを見下ろした。「君も別に何の気なしにここを歩いていたわけではないだろう? 俺も付き合うさ」

 アルフォンスには毎週のように訪れる場所があった。出来れば毎日、といきたいところだったが、そこへ行くためには少々のお金がかかるのだ。アルフォンスは今、シャルルに依存するような形で生活をしているのでそんな我儘はとても言えなかった。
「君は時々、ここに来るのかい?」
「ええ、そうです」とアルフォンスは言った。
 緑の木々と広い芝生の群れ。週末には紳士や淑女の姿も見られる。かの国王ルイ十四世によって整備されたこの庭園のことを人々はテュイルリー庭園と呼ぶ。パリで穏やかな時間を過ごしたいのならばここしかないだろう。まだ機関化されていない新緑の楽園。中央にはきらきらと光り輝く水を放出する噴水が飾られ、外の灰色の雰囲気とは一味違っていた。
 でも、誰でもこの庭園に足を踏み入れることができるというわけではないのだ。
「俺はわざわざ金を払ってまでここに来たいとは思わないな」とラザールは言った。そして、煙草を口に咥える。「それにどこかの物理学者が、あれは健康を害する、なんていう論文を出したそうじゃないか。俺は煙草が吸えればそれでいい」
 ラザールはそう言うと咥えてあった煙草に火を点けようとする。アルフォンスはその煙草を無理やり取り上げて、ラザールを眼で諫めた。
「この庭園内は禁煙ですよ。知らないんですか? 少しでも排気を少なくしようってことでそう制定されたはずです」
「分かってるさ、冗談だよ。この庭園の売りが消えてしまったら洒落にならないからな」
 ラザールはそう言って皮肉めいた笑いを浮かべた。
 この庭園には別名があった。即ち――聖地。
 ここは別に一般に開放されているわけでも、国が管理しているわけではなかった。教会の独占状態が今も続いているのだ。
 それには理由があった。
 アルフォンスは煙草を取り上げた手を下ろし、天を見上げた。そして、それを見た。
「綺麗ですね……」とアルフォンスは感嘆の声を漏らす。
 ――美しい、光。
 このような現象は世界各地で報告されているらしい。灰色の雲の間から太陽の光が漏れる。無数の光の剣は庭園にいる人間の心を暖める。誰もがここに来れば天を見上げ、神を連想する。それは教会が一番にそう思っていたらしく、この日差しが降り注いできた瞬間に原因を神に委ねた。
 教会はこの庭園に入場料を設け、一般人が簡単に入ることができないようにしている。が、その真意はアルフォンスには分からなかった。
 奇跡、といってもいいのかもしれない。
 パリの中で、フランスの中で太陽の日差しを見ることができるのがここだけなのだから一層その感覚が強くなる。
 そしてアルフォンスはその向こうにある青空を一目見ようと眼を凝らすのだ。
「やっぱり見えませんね」
「何がだい?」
「青空、ですよ。ラザールさんは信じないんですか?」
「ふっ、君がそれほどまでロマンチストだとは思わなかったよ」とラザールは言った。「だが、男なんてのは案外女よりもそういうものさ。女のほうが現実を見てる。男なら夢を追うのも悪くないんじゃないかな」
「夢なんかじゃないですよ。きっとあります」
 アルフォンスはラザールのことを見て、そんなことを言った。アルフォンスにも確証なんて言うものは無かった。ただ、信じたかったのだ。青空というものを。
「なるほどね……おっと」
 ラザールは自分の懐を漁り、そこから蒸気電話を取り出した。耳に付け誰かと会話をする。アルフォンスはただそれを見ていた。
「すまんね、急に用事が入ってしまった。今日のところはさよならだ。君の飛行機の完成を楽しみにしているよ」
 ラザールはそう言うと、足早に庭園を出ていってしまった。アルフォンスはまだ、光を見ていた。





 結婚式の後、パーティーのようなものを催すのは貴族皇族にとってもはや通例の出来事だった。掻い摘んで言えば新たな花嫁、花婿のお披露目会というわけだ。
 マリアは皇族が住むべき宮殿へ馬車で移動し、パーティーに向けての準備を施されていた。馬車の外の景色はマリアを酷く陰鬱にさせた。暗く、灰色で、空気が汚くて。こんな私利私欲に溢れた都市に未来なんてあるのか。たった今皇女になったばかりのマリアは思ってはいけない懸念を抱いていた。
 宮殿に着くと、マリアはもう精神的に疲労困憊といった様子だった。これから自分がどうなるのか。あの美丈夫の王とは上手くやっていけるのか。そんな不安だけしか頭になかった。が、現実逃避する時間は終わりを告げたのだ。もう自分はこのヴェルサイユで生きていくしかないし、そう決めたのだ。マリアは心の中でそう誓った。
 ヴェルサイユ宮殿は外から見ればそこまで豪華絢爛というほどではなかった。赤みがかったレンガでできた壁面は重厚でどこか重々しい雰囲気を醸し出していた。それはとても巨大で近づきすぎていたマリアは一望できないほどであった。何度か訪れたことはあったのだが、こんな感覚でヴェルサイユを見るのはマリアにとって初めてだった。
 ヴェルサイユの内部は、言うまでも無く財の髄が惜しみも無く使われて光り輝いていた。天井には様々な壁画が何枚も何枚も貼りつけられており、壁紙と見間違えるほどである。無数にぶら下がっているシャンデリアはまるで夜空に輝く星のように点々としている。マリアは改めてこの宮殿が別世界なのだと実感した。
 マリアが通されたのは沢山の衣装が並べられている一室だった。話を訊くと、どうやらここでパーティー用のドレスに着替えろということらしい。赤や金を基調に花をあしらった装飾や調度はきらびやかで女性的な雰囲気。それほど大きな部屋ではなかったが、着替えるだけには十分すぎた。
 部屋に入る前は金魚の糞のように沢山ついて来ていたメイドも今やたったの一人となっている。どうやらこういった習慣らしかった。名前も知らないメイドとマリアが話すことなど限られていた。必要最低限のこと、服のサイズ、髪型をどうするか、香水は使用するか、例えば――
「これでよろしいでしょうか后様」とメイドは言った。
 マリアはその瞬間、自分が人形であるかのような感覚に襲われた。身体に触れられ何かをされているのだが、感覚が宙に浮く。他人事のようにマリアはそれを俯瞰していた。
 名も知らぬメイドの声は心地のいいものだった。安心できるような感覚をマリアは抱いた。
「あの、ちょっと派手すぎないかしら。私にこんな光るものは会わないと思うのだけど」
「そうでしょうか? 私にはこれでも后様には不十分なように思われますが」
 メイドはマリアのお色直しを行いながら、言った。スパンコールが妖しく周囲を照らすようなそのドレスはマリアにしてみれば確かに過ぎたものだった。まるで周囲に自らの存在を振りまいているような。それは本来のマリアの望むところではなかった。
 それでもこのメイドはマリアのことを似合っていると評価してくれた。今までは気持ちがどこかに行っていたせいか目も虚ろになっていて彼女の顔も視てはいなかった。
(なんだ、私なんかよりずっと綺麗じゃない。笑顔なんて特にそう)
 メイド服を着ているのが勿体無いと思われるほどの容姿だった。流れるような黒髪は酷く美しく、繊細な彫刻のようであった。鏡越しにみる彼女の顔はそんな感想が漏れるほどのもので。マリアは自分が酷く矮小なものに思えた。
「そんな、私なんかよりあなたのほうが似合うと思うわ」
「后様。そのようなことを私以外の下賎な者に言ってはいけませんよ。后様の威信が疑われてしまいます」とメイドは優しい声でマリアを諫めた。そしてその手でマリアの髪をとかす。
 マリアにとってそれはとても心地よかった。
「私、あなたの名前が知りたいわ。教えてくれないかしら」
 メイドは数刻驚くような顔を覗かせてこう囁いた。
「……セリスと申します。記憶の片隅にでも覚えておいていただけるのならばこれ以上のことはありません」
「セリス、なんだか優しい響きね。これからも私のお世話をしてもらえないかしら。私、あなたといると安心できるの」
「もったいないお言葉です」とセリスは言った。
 それから二人の間をしばらく沈黙が支配した。もともと身分の違う二人に話すべきことなどそれほどありはしなかった。マリアはもう普通の人間ではない。この国の命運を背負う皇族の仲間入りをしたのだから。
 それがまた、マリアの心を孤独にしていた。
「后様。后様は今、不安ですか?」とセリスは言った。
 マリアの口からは驚きの声が漏れた。そして、マリアにはその言葉の真意を読み取ることはできなかった。
「后様が思っておられるよりもオーギュスト様はよいお人です。后様を無下に扱ったりすることもないでしょう。それに私も居ます。ですから安心してください。――あなたは一人ではないのです」
 マリアは何も答えることができなかった。
 涙を堪えることで必死だったから。

 衣装の着替えを終え、マリアは舞踏会用のホールへと入った。未だこのドレスには不安が残るものの、セリスが薦めたものだったので止むなく了解をした。
 ホールからは陽気な管絃楽の音が、抑え難い幸福の吐息のように、休みなく溢れてきていた。装飾は踊りやすさを意識したせいか、それほど過剰なものではなかった。部屋の奥に配置された二枚の絵画。淑女と紳士であろうか。装飾と呼べる装飾はその絵画とシャンデリアくらいのものであった。そうしてまた至る所に、相手を待っている婦人たちのレースや花や象牙の扇が、爽やかな香水の匂の中に、音のない波の如く動いていた。皆同じような水色や薔薇色の舞踏服を着たてていて、中には同年代らしい少女もいた。
 鮮やかな雰囲気であるそのホールはマリアにとって目に毒でしかなかった。シャンデリアが照らす光は妖しく見え、自分自身を含めたドレスの全ては見苦しい拘束具のように見える。ここはマリアにとってお世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
 そんなマリアの想いとは裏腹にパーティに集まっている者たちからは感嘆の声が漏れていた。賑やかな歓談の中にそんな声がちらほらと混じっている。
「これはまた……」
「画になりますわね」
 ひそひそと囁きあう声が木霊するが、無意識の内にマリアはその音を遮断する。いつの間にか先ほど口付けをかわした男が横に立っていた。相変わらずの美しさでノエルは自分の場違いさを改めて認識した。
 手を差し出される。
 オーギュストの手は思ったよりも傷ついていて、マリアは手を取るのを一瞬躊躇ってしまう。もうすぐ王座につこうとする人間の手がこんなに汚れているなんてマリアは思ってもいなかった。そして、こんなことも知らなかった自分を選んだ運命に嫌悪感を抱いた。
 手を取り、中央にぽっかりと空いた人ごみの中の穴をマリアたちは目指した。舞踏会用のドレスには慣れていないはず、それなのに自然と歩を進められることはマリア自身を驚かせた。拍手が連鎖し、マリアたちは受け入れられる。
「果報者ですな、オーギュスト様。こんなに美しい后をめとるとは」
「きっとお子様も美しいことでしょうね」
 マリアは好き勝手に様々な言葉をかけてくる来席者たちに苦笑を交えながら応答していく。そして、自分など美しくもなんともないと心の中でそう思った。
(子供を作る? 私が? 何で? 何で?)
 それはつまりマリアがオーギュストと契りを果たすということ。マリアにとって受け入れがたい現実がそこにはあった。
 心が軋み、マリアは適当に受け答えをしている自分自身を殺したくなった。
「これはこれは、マリア様。初めまして」
 いつの間にかマリアはオーギュストとはぐれてしまい、パーティの渦の中に飲み込まれていた。声を掛けてきたのは参列している中でも一際目立つドレスを身に纏う女性だ。ブロンドの美しい髪に紅い双眸が印象的あった恐らくはどこか有名な家の人だろうとノマリアは思った。
「初めまして……あの、あなたは?」と何の気なしにマリアは尋ねた。それが彼女の機嫌を酷く損ねたようであり、表情は驚きから苛立ちへと変化していった。
「申し遅れました。わたくしはエレーナ・アラゴンといいますの。それにしても意外ですわ。これよりハロルド様の正室になろうとするお方がアラゴン家の顔であるわたくしの事を存じ上げていないだなんて前代未聞ですわね」
 ――何が言いたいの。
 嘲笑交じりに言葉を紡ぐその女性にマリアは純粋な怒りを覚え始めていた。それでもあくまでマリアは冷静に対応しようと心がけた。面倒事は御免だったのだ。
「申し訳ありませんでした。何分世間には疎いものですので」
「構いませんのよ。わたくしはそこまで短気ではありませんし」とエレーナは言った。「それにしても、何故あなたのような人がオーギュスト様の正室なのでしょうね」
 エレーナの言葉に悪意を感じたマリアは強い眼で彼女を睨みつけ、言葉を紡ぐ。
「それはどういう意味でしょうか」
「いえ、他意はありませんのよ。ただ、どんな事情があったのかな、と。少々気になったもので」
 マリアはエレーナの皮肉めいた言葉、仕草に自分の怒りを抑えきれなくなっていた。そして言ってはいけない言葉を呟く。
「――あなたがやればいいじゃない」とマリアは言った。言ってはいけなかった。
「今、なんと仰いましたか」
 言葉の端を微かに訊きとったエレーナはマリアに確認を求めた。いつものマリアならばよかっただろう。が、今のマリアは我を忘れてしまっていた。
 声を荒げてマリアは言い放つ。
「私はっ――」
「失礼をいたしましたエレーナ嬢。私の妻がとんだご無礼を」
 現れたのは背の高い美丈夫、オーギュストであった。マリアは何故か自分自身の怒りが急速に醒めていくのを感じた。
「オーギュスト様……いえ、わたくしの方こそ行き過ぎてきました。申し訳ありません」とエレーナは言った。
「今後ともあなたとアラゴン家とは親密な関係でありたいと所望します」
 オーギュストは手を取り、エレーナのそれに口付けをする。その動作の一つ一つがノエルには宝石のように光り輝いて見えた。
 エレーナと名乗った女性は女性らしく頬を赤らめる。真っ赤になった頬に片手を当てるその仕草はマリアにとって素直に可愛いらしいものだった。
「オーギュスト様……」
 先ほどまでの貴族の子女という雰囲気は薄れ、今のエレーナはマリアにとってただの恋する少女にしか見えなかった。そして、マリアはエレーナの言動の意味をおぼろげながら理解した。
「では、失礼します。マリア様、またお会いしましょう」とエレーナは言った。
 にこやかなその笑みの中に鋭い敵意が隠れていたことをノエルは見逃さなかった。踵を返すその動作すら綺麗でノエルは自分自身が不思議な感情に支配されていくのを感じた。
 怒りは変換され、自嘲へと移り変わる。落ち込むというよりは開き直るといった感覚であった。
「……すまない」
 表情は見えなかった。
 ノエルはハロルドがそう言った気がしただけ、それだけだった。








 ラザール・カルノーは王への報告書を届け、ヴェルサイユ宮殿の廊下を歩いていた。
 モノクロのタイルが敷き詰められた床は綺麗に整えられていて、ふと視線を落とすとしばらくの間見入ってしまいそうである。廊下は全体がアーチを描くようになっている。壁面はただの灰色であり、ヴェルサイユ宮殿のイメージからはかけ離れていた。天井からはカンテラがぶら下がり、辺りを薄く照らしていた。窓の反対側には聖人の像がいくつか並んでおり、この国の将来を案じているようだった。
 ラザールが報告した事柄とは最近、パリを中心に発生している連続殺人事件についてであった。事件の詳細は至って単純だった。紳士淑女を問わずに行われた無差別殺人。それがこの事件の真理であった。同一犯だと結論付けた要因はその犯行の手口である。体躯の至る所が切り刻まれているが、共通している点が一つあった。
 それは死因である。連続殺人の全てにおいて心臓を的確に打ち抜かれて皆殺されていた。直接の死因はこれであった。絶対に素人では不可能なほど正確な切っ先が被害者たちのそれを穿っていたのだ。
 工業的な発展によって一気に霧の都と化したパリではこういった悪夢のような事件は大きな噂になりやすい。陽が落ちれば唯でさえ濃霧によって視界が悪いパリは薄気味が悪いのだ。そこに連続殺人鬼ともなれば人々が恐れを抱くのは当然である。ラザールはなんとしてもこの事件が大事になる前に処理をしてしまいたかった。
 しかしながら有効な手がかりが皆無と言っていいほどなかった。本来、普通の殺人事件ならば被害者の周辺を漁り、殺してしまいそうな動機を有している人物を容疑者として立てるのが筋である。が、無差別殺人ともなれば話は一変する。被害者たちには何ら関連性を見出すことはできないし、そもそも無差別殺人を起こした犯罪者にはまともな動機など存在しないのが殆どなのだ。
 殺人を楽しんでいる愉快犯や、神に求められたのかは分からないがそういった意味で狂っているなど。ラザールはこういった人間たちの考えることなど理解できなかったし、したくもなかった。であるが為に今回の事件の捜査は行き詰っていたのだ。
 ラザールはため息交じりにヴェルサイユ宮殿の廊下を進む。それもそのはずである。王に対して吉報を報じるべき報告書には『進展なし』としか書けなかったのだから。少々視線を下へと移していたラザールは近づいてくる人影にようやく気が付いた。
「気分でも悪いのですか。ラザール殿」
 線が細いながら鍛えられた印象が強い体躯。何よりも人の目を引くのは紅い瞳に紅い髪。ラザールと同じくフランスに使える軍人である男が目の前にいた。
「アンリ殿、奇遇ですね」とラザールは嫌々しそうに言った。
 アンリ・デジレ・ランドリュー。
 ラザールとは別の所属ではあるがラザールは彼の噂をよく耳にしていた。何でもフランス軍一の剣術使いだとか、先の戦争で千人切りを果たしただとか――後半の話は半分嘘であるとラザールは思っているが――。とにかく軍の中でも剣の腕が立つのは確かである。ラザールも剣の腕はそれなりであり、時たまラザールと彼でどちらが強者であるかの議論がなされたりしていることはラザールの知らぬところであった。
 アンリは右の親指の先を舐めながら、ラザールの身体を下から上へ見回した。ラザールはその仕草がどこか気持ち悪くてアンリから一歩後退した。
「ラザール殿はやはり身体を鍛えてらっしゃるようだ。無駄のない、それでいて強い。これは剣術の動きもさぞ素晴らしいことでしょうね」
「……それはどうも、ありがとうございます」
 ラザールはあくまで控えめにそう答えた。
 アンリは相変わらずラザールのことを見回しており、ラザールは背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
「今度ぜひ、俺と手合わせ願いたいですね」とアンリは言った。「歯ごたえのある戦いができそうだ」
「私もそれは常々思っておりました。あなたの腕がどれほどのものなのか、私も興味がありましたので」
 アンリはラザールの言葉を訊くと気味の悪い笑みを浮かべた。まるでそれは暗闇に潜む悪魔のようであった。
 ラザールがアンリに対して悪い印象しか抱けないのはラザールの悪い噂の存在が大きかった。剣の腕は確かに立つが、戦争で捕虜とすべき人間を殺しただとか、本来殺さなくてもいい犯罪者を一存で殺してしまうだとか。とにかく、いい噂もあれば悪い噂もあった。そんなアンリはラザールにとって信用の置けない人物であった。
「アンリ殿、最近頻発している殺人事件について何か情報はありませんか?」とラザールは尋ねた。
 信用の置けないアンリではあったが、ラザールは今どんな些細な情報であっても必要であった。自分の好みで眼の前の手がかりを見捨てることなどラザールはできなかった。
「……いや、何も訊いてないですね」
 少々頭の中を整理したのだろうか。アンリは数刻置いた後、答えた。相変わらず親指の先を舐めているアンリにラザールは眼を細めた。
「そうですか、ではまた機会があれば」
 そうしてラザールとアンリは会釈をし、すれ違った。その間、アンリの足音が皆無だったことにラザールは気が付いた。相当鍛えられた人間でなければ無意識のうちに足音を消すなど出来るわけがない。ラザールは改めてアンリに畏怖のようなものを抱いた。
「やはり、あいつに訊いてみるしかないか……」
 ラザールはそんな独り言を零した。ラザール自身もそれは最後の手段として残しておきたかった。が、今はもう予断を許さない状況であり、手段を選んではいられないのかもしれなかった。
 夜が満ちてパリに暗い夜がやってくる。





 パリの酒場とは案外いつも賑わっているものだ。シャルルはそんな感想を抱いていた。
 上流階級の人間は決してこのような場所は利用しない。挙って集まってくるのは汗水を垂らして肉体労働をし、そのなけなしの銀貨を一杯の葡萄酒に変えようとするブルーカラーの人間たちである。礼儀作法など関係なしに和気あいあいと歓談をする彼らをシャルルはいつも微笑ましく見ていた。
 軽く汚れている木材でできたテーブルやカウンターはどこか暖かい印象を人々に与えている。明かりは何個か吊るしてある小さなカンテラのみであり、酒場の雰囲気を強調していた。歓談の中にジョッキを叩く音と葡萄酒の香りが混じり、シャルルにはそれがとても心地よく感じられた。
「お待たせいたしました」
 女給が葡萄酒を運んで来てそれをシャルルが座っているテーブルへゴトリと置いた。葡萄酒の甘い香りが鼻孔を撫でて、シャルルはその味を空想する。女給はさらにこんがりと焼きあがった鶏肉が乗せてある皿をテーブルへ乗せた。シャルルは鶏肉などは頼んでもいなかったので戸惑いの表情を隠せなかった。
「あの、僕はこんなもの頼んでいないんだけど」とシャルルは女給に尋ねた。
 女給はシャルルに顔を近づけて軽くウインクをし、「シャルルさんにはサービスですよ。いつもお世話になってますから」と言った。皿とジョッキを乗せていた盆を胸に抱えて女給は踵を返す。その足取りはどこか軽かった。シャルルは苦笑いをしながら葡萄酒に口をつけた。鼻を軽く抜ける爽やかな酸味に、舌に両側からしみ込む葡萄の甘さ。強烈さが売りのラム酒もいいが、シャルルは葡萄酒や蜂蜜酒といった甘いもののほうがよかった。
 酒場に来るのは殆どが下級市民ばかりであったが、中には別の人間もいたりする。何かしらの情報を求めてくるものもいれば気まぐれな貴族の人間もたまにいたりする。そういった人間はこの酒場では一目見れば分かるように浮いてしまうものだ。彼らと同じようにこの酒場で毎日を過ごす人間にも強い同族意識のようなものがあった。自分たちは自分たちに頑張ろう、そういった決意の表れかもしれない。
 シャルルはため息をつきながら、この酒場には少々風変わりな人物がテーブルに着くのを容認した。
「……またあなたですか」
「どうも」とだけその男は言った。
 強靭な筋肉によってその体躯にその外装は一見似合わない。赤いガウンを身に纏う男はしかしながら、落ちついた雰囲気と貫録に満ちていた。
 シャルルはこの男のことを知っていた。
 ジョルジュ・ダントン。
 何度かこの酒場でシャルルと席を同じくしたことがあるが、シャルルにとって彼の話す言葉はとても訊けたものではなかった。
「サクソンさん、決心はしていただけましたか」
「何度言われても僕の意思は揺るぎません。あなたの言葉は正しい部分もありますが、今の僕にはとても無理です」
「何故ですか? あなたはこの国がおかしとは思わないのですか?」とダントンは言った。
 シャルルはダントンの言葉に半ばうんざりしていたのだ。ダントンは身を乗り出すようにしてシャルルに詰め寄る。
「今この国には変化が必要なのです。それも大きな、とても大きな変化が。それはつまり――革命です」
 ――革命。
 ダントンがいつもシャルルに対して口にする単語である。それはつまり非合法な方法により、しばしば暴力的な手段を伴いながら、政府と社会の組織を抜本的な変更する政治権力の行使を指す。つまりは現時点での政治体系、王政の全面的な否定であった。
「今この間にも飢えで苦しみ、仕事も何もなく、明日の日の出を絶望でしか迎えられないような人間が沢山いるのですよ? あなただってそれは分かっているでしょう。市民たちに支持のあるあなたの言葉は私よりも大きいです。だから――」
「僕はそういった暴力での解決は望まないと言っているんです」とシャルルは言った。「確かにあなたの言葉は魅力的かもしれない。でも、その革命の動乱の中で皆が命を落とすかも知れないと思うと、僕は気が気ではいられません」
 ダントンはその言葉を訊くと頭を抱え、目を閉じた。シャルルはダントンが何を言っても気持ちを変えるつもりはなかった。
「大きな変化の中には多少の犠牲は付き物です。歴史はそうやって作られ、塗り替えられてきました。分かってくれませんか」
 ダントンは身ぶり手ぶりを加えながらシャルルに訴える。だが、シャルルの心は揺るがない。
「そんな言葉を話すようでは、いくらあなたの信念が素晴らしくてもメシアにはなれません。あなたに市民を率いる資格はない」とシャルルは鋭く告げた。
「では、あなたは今飢えで苦しんでいる市民を見捨てるというのですか」
「そんなことはさせません――僕が助けます」
「どうやってですか」
「僕がパンをその人たちに与えます」
 ダントンはシャルルの言葉を訊くと薄ら笑いを浮かべて、言葉を紡いだ。
「何を莫迦な。あなた一人の財力で一体どれだけの人々を救えるというのですか。それにそれは一時凌ぎにすぎない。いずれはフランスという大きな闇に呑みこまれますよ」
「それでも、僕が助けます」とシャルルは力強く言った。
 ため息交じりにダントンは首を振る。
「詭弁ですよ、サクソンさん。あなたの『力』があればなんだってできるんです。あなたが首を縦に振りさえすればフランス国民の大半は救われるんです。あなたは現代に蘇ったジャンヌ・ダルクになるのですよ」とダントンは言った。
 その言葉を訊くとシャルルは辟易してしまい、席を立った。銀貨を一枚テーブルの上に置き、酒場を後にしようとする。
「僕は英雄になんてなれません。僕は人間に絶望しか与えられないんですから」とシャルルは去り際に呟いた。
「サクソンさんっ! 全てはあなた次第なのですよ!」
 ダントンはテーブルを叩き、シャルルに訴える。酒場の雰囲気が一変して閑静なものになるが、そこにシャルルの姿はなかった。


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