7月中旬。幼稚園の教員である藤林杏は職員室の椅子に身を横たえていた。冷房の効いた部屋の中で多少なりとも疲れを取ろうとしているのだ。
「こんな暑いのに子供たちは元気でいいですね~。」
「そうですね。大人の私たちより子供たちのほうが体力があるみたいですよね。」
年配の先生とそんな他愛もない会話をする。夏休み前でうだるような暑さが続いていたので先生たちもバテバテだった。
「(私ももう歳なのかしら・・・。)」
そんなことを内心考えている藤林杏はまだ26歳。今では年長のすみれ組の担任をしている。元気いっぱいの園児たちに翻弄されつつも楽しく仕事をしていた。
「失礼します。」
職員室の扉を重そうに開けてひとりの女児が入ってきた。杏の受け持ちのクラスの子である。
「あら、どうしたの、汐ちゃん?」
その子の名は岡崎汐。高校時代の友人・岡崎朋也と岡崎渚(旧姓古河)の子である。父に似てたくましく、母に似て聞き分けの良い模範的な園児であった。
「今日はママ遅いんでしょ?まだ時間はたっぷりあるからたくさん遊んだほうがいいわよ。」
母・渚は家計を支えるためにパートに出ている。そのため、しばしば延長保育を頼んでいて、今日はその日であった。
「先生にお話があってきたの。」
「お話?」
「うん。あのね、夏休みの宿題のこと。一番すごかった出来事を絵日記にするやつ。」
この幼稚園では絵日記や自由工作などの夏休みの宿題があった。汐は昨年は『おはなばたけ』という題で青森の実家の近くの花畑の絵を見事に描いて園長から賞状を貰っていた。
「汐ちゃん、今年は何を書いてくれるのかな?先生すごく楽しみにしてるのよ。」
「うん、がんばる。」
「で、その絵日記のことで先生に何のお話があるのかしら?」
「あのね、結婚式の絵日記を書くお手伝いをしてほしいの。」
「結婚式?ううん、先生は結婚する相手も予定もないのよねえ。ごめんなさい、力になれなくて。」
杏は申し訳なさそうに首を振った。杏は仕事のほうが楽しいので恋愛や家庭を持つことについては全く考えておらず、未だに実家暮らしであった。
「先生の結婚式じゃないよ。私のパパとママの。」
「あら、パパとママ、結婚してるじゃない?」
「でも式は挙げてないって。」
杏ははたと思い出した。渚が二留したあと結婚したはいいものの、式をあげる余裕がなく金がたまったらと呑気に構えていたところに汐を授かり、結局そのままになっていたのだ。
「じゃあ、汐ちゃんはパパとママにちゃんと結婚式を挙げてもらってそれを絵日記にしたいのね?」
「うん。」
「でも、お金が結構掛かるのよ?こういう言い方は良くないけど、時間的にも金銭的にも難しいと思うわ。」
杏は汐を傷つけないように気を使いながら、大人の事情を説明した。会場を押さえるのに予約待ちであること、その費用は数百万円単位でかかること、など。しかし、汐のほうがそれをよく承知していることに驚かされた。
「全部知ってる。だから、パパとママのお友達だけ集めてやる。」
「でも、身内だけでやるにもどうするの?」
「皆にお願いしますって頼んでみる。」
杏はふっと微笑んだ。汐は渚に似て頑固だから一度言ったら聞かないだろう。なので、最初から協力してしまったほうが早い。
「先生にできることなら何でも言ってね。」
「うーん、先生ってお料理得意だよね?」
「料理なら任せて。先生、これでも自信はあるのよ?」
「あとね、このことはパパとママに内緒にして。」
「びっくりさせたいのね?」
「ううん、違う。パパ、奥手だから。だからね、前もってやるって言ったら誓いのキスを嫌がると思うの。」
「ああ、そう・・・。」
杏は軽くため息を付いた。娘に奥手であることを心配される父親ってなんなんだろう、と。汐はお辞儀をしてそのまま職員室を出ようとした。それを杏が呼び止めた。
「あ、そうだ、汐ちゃん。先生には一番最初に教えてくれたのよね?」
「うん。」
「なら、おじいちゃんとおばあちゃんにもすぐに話したほうがいいわ。えっと、アッキーと早苗さんのことね。」
杏は渚の両親である古河夫妻に相談するようにアドバイスした。それが最善の行動であろうから。
「うん、分かった。明日古河パンに行く。」
「ええ、そうしてね。さ、もうこの話は今日はこれでおしまい。先生と一緒にお外で遊びましょう、汐ちゃん。」
「うん!」
汐は杏に連れられて外の滑り台に走って行った。
続く