新説・東京魔人学園野獣帖
幕間
-人形-
ソレは140年前からその場所にあった。
本来の持ち主がこの世を去った後、ソレは持ち主に殉ずる用に、その命を止めていた。
ソレの存在は今の場所から命を吹き込まれ、ソレの存在意義を生み出してきた。
ソレは敵を穿ち、持ち主を護り、持ち主の守り人を守り、持ち主の主を守り、そして持ち主の愛すべき者を守り続けていた。
だが時を止めてから、その日が丁度140年の刻を刻み始めたとき、ソレは再び光に照らされた。
ソレの表面は黒く淀んでいた。140年間の埃と塵が、ソレの表面に覆われていた結果である。
だが光から生まれた…それは女性の手か? 白く、透き通るような手によって触れられた刹那、ソレの表面は波打つ木目の色を露わとさせた。
女性の手は、愛しく、まるで我が子を撫でるように、ソレの表面を触れていく。
黒く汚れていたソレは徐々に本来の姿を取り戻していった。
木目を基本とした肌はまるで先ほどまで生えていたかのような美しさを見せている。
眼に該当する場所は空洞であるが、輪郭はあった。鋭い眼であり、穏やかな眼でもあった。見るものによってソレは二つの眼を持っていた。
顔は精悍さを持ち、体は巨躯と言っても差し支えない程巨大である。膝を曲げ、手足を地面に預けている姿でも、女性の頭を優に超えていた。
もっとも、女性もまた普通ではなかった。
ソレと同じ…木製のイスに腰を掛けている女性。彼女は足が動かないのだ。
イスに座り、ソレをゆっくりと、丁寧にソレの表面を撫で続けている。
既に十時間以上の時が刻んでいる。滴る汗が顔を濡らし、動かし続けている手は既に疲労によって震えが止まらない。それでも女性は手を止めることは無かった。
彼女に苦痛など無かった。
ソレに触れる事が喜びであり、楽しみであった。
140年以上前の記憶が、彼女の脳裏に蘇っていたのだ。
もっと触れ合いたい、もっと動かしたい、もっと……
「少しは休憩をしたらどうじゃ?」
突然の声に彼女の手は止まった。
目の前の作業に没頭していたとは言え、声の主が真後ろに居るのに気づけなかった事に驚愕したのだ。
だがその驚愕も直ぐに消えた。
真後ろに居る男が、自分の仲間の中で最も暗殺術に長けていた事を思い出したのだ。その技はこの時代となっても、健在であった。
「久しぶりの相棒の対面に嬉しくなるのは判るが、それ以上したら体が壊れるぞ……水角よ」
深緑の衣に身を纏い、鬼面を被る老声を発する男……風角は目の前の女性の名を口にした。
女性……水角はゆっくりと体を動かし、後ろに佇む老人に頭を下げた。
「心配をかけてすまぬ。されど…妾にとってこの子は我が子も同然。まだ…愛でておりたいのじゃ」
「主の体が壊れては意味はない。それにしても…御屋形様は此度の件はなんと?」
それが数日前の青山霊園地下で起こった出来事を指している事は水角には容易に想像できた。
脳裏に一人の男が蘇る。
自らの愛刀を弄びながら、目の前に居る自分に対して笑みを浮かべる男。
まるで少年のように、地下で起きた報告を喜々とした表情で聞く男は、報告を終えた水角に満足げに頷いた。
そして最後に一言だけ口にした
セツラと言う男はどうだった?
問い掛けに水角は即答できなかった。
自分の名と、鬼の力を封印した珠を預けた男の名を聞いたとき、水角の奥底から何かが脈打った。
それが何なのか確認する前に、水角は意識を取り戻した。豪快な笑い声が彼女の耳を打ったのだ。
目の前の男が楽しそうに、可笑しそうに笑っていた。いや、僅かに嬉しさも含まれていたかもしれない。
男は笑みを零した。犬歯はまるで乱杭歯如く鋭く、唇から覗いていた。
殺すか? セツラと言う男を?
その問い掛けには即答した。
水角が頷くと、男はまた笑った。楽しそうに、嬉しそうに。
それから男は立ち上がり、ある場所を水角に教えた。
それは自分達が根城とする屋敷内の開かずの間であると知ったのは、男が去ってから5分後のことである。
開かずの間には140年前に時を止めた“自分”の相棒が眠っていた。“自分”が命を失ったと同時に眠りに付いたソレに水角…否、雹は再び命を見た。
人間であれば心臓に位置する場所には、黒塗りの物体が脈を打っている。
か細い指が触れる。
140年間の塵と埃に塗れていた物体は徐々に本来の姿を見せていった。
心臓である。
とある剣豪が世に悔いを残し、世への渇望により心の臓だけを動かしていると言われている心臓。
だが雹は否定している。
現世に執着する。生に渇望する。そのような感情だけでこの心臓が動くはずがない。そのような感情で、これほど見事な心臓が動くはずがないのだ。
140年経っているとは思えぬほど艶やかで、荒荒しく動く心臓を見ればわかる。
その後、雹は動かぬ脚を省みず、一人でソレを……巨大なカラクリ人形を運んだ。
顔が汚れようが、手が擦り切れようが、体中が埃と塵に塗れようが、雹は人形を磨き続けたのだ。
鬼道五人衆の筆頭である風角の前では流石の雹も人形の掃除を続ける事は礼を失する。鬼の力を失い、動かなくなった脚を引きずり、椅子の傍にある車椅子に移動しようと両手を動かしたとき、風角の手が上がった。
そのままでいい、と声も無く言ったのだ。
「鬼道門の失敗……水岐に情報を渡しすぎたのが失敗であったの」
「すまぬ。妾が付いておりながら」
「いや、構わぬ。今後の行動に生かせるじゃろう」
「今後の?」
「ふむ。知らせておらなんだか。次の鬼道門の為にじゃよ」
風角の言葉に雹の顔が強張る。
異形の神格を召喚せし鬼道門をこの老鬼は再び開こうと言うのか?
思わず口を開こうとした雹の眼下に再び風角の手が上がった。
言わなくても判る。と再び声も無く言っていた。
「安心せい。星の位置、地脈の流れ、贄の配置、全てが整われ始めておる。先の失敗は星の位置すら読めぬ愚か者が先走った結果じゃ。ある意味、当然と言えたじゃろう」
「じゃが…何ゆえあの〈異門〉に執着するのじゃ。あのような力が無くとも、我らの〈力〉だけで…」
「全ては御屋形様のため」
雹の言葉を遮った風角の声には反論を許さぬ力が篭っていた。
その事に反論はない。同意である。
主の為に自分達は生きている。否、生き返されている。全ては主の為である。
だからこそ、雹は恐れた。あの〈異門〉から生まれる力は、主すらも危険に及ぼす存在なのだ。
再度口を開こうとした雹の視線には、既に風角の姿はなかった。
言うべきことを言った老忍者にとって、既にこの場所にいる意味はなかったのかもしれない。
無音となった部屋の中には物言わぬ人形と自分だけがいた。
風角の言葉が彼女の頭に反芻する。
主のためと言った老忍者の言葉には、異様なまでの力があった。
主の為…主を護る為…
何から護る為なのか? 宿星の者達から? それとも……あの鬼の……
雹は思考を止めた。無意識のうちに止めていたのだ。
何故だかも考えなかった。それ以上、考えていては、自分が消えてしまうと感じていたから。
ゆっくりと振り返る水角は、じっと無言のままこちらを見つめる人形があった。
「ガンリュウ……また、妾の手足となってくれるか? また、妾の大切なものを護ってくれるか?」
人形が言葉を発する事などあり得はしない。
無機質なものが言葉を発する事などありはしないのだ。
だが、言葉以外のものは発する。
キリ……キリ………キリキリキリ………
ガンリュウは立ち上がる。
雹は何もしていない。指先に絡められた糸は動かしていない。
だがガンリュウはまるで自ら意思があるかのように、立ち上がり、自らの肩で雹の体を持ち上げた。
140年前と変わらず、我が主を護る為に、我が主の願いを叶える為に、我が主の手となり、脚となる。
それがガンリュウの存在意義であり、使命であり、誇りであった。
人形が意思を持つ事はない。
だが人形が雹の体を持ち上げ、遂には肩口へと彼女を座らせた。
そこは彼女の定位置であった。
140年前から決められた…彼女だけが許される場所であった。
あとがき
今回は幕間です。
水角、改め雹のお話です。
鬼の力を失い、足が動かなくなった雹が活躍する為にはあの人形が必要不可欠。
と言うわけで書いた幕間です。
思いのほか時間が掛かってしまいました。しかも短い;
これならば少し間をおいて前話と幕間を一緒に投稿した方がよかったかもしれませんね;
9話は普段どおり長くなると思いますのどうかご安心下さい。
メキシカン…ううむ、上手く表現できていない;
な、なんとか頑張って行きますw
「PEACE MAKER」を読みながら 水無月