人が生まれてくる事に意味なんか無い。こうして詩人はいつの時代も愛を謳う。筋違いの哲学者はそれを形而上学で式化する。真理を誰かに説き、自らのくだらない発見を世間に露呈したとき、それは美学すらも無くなってしまう。そんな事も分からない人間が歴史に名を残し、彼らの言葉は名言として語り継がれる。彼らは何がしたかったのか。富が欲しかったのか、いや、名声か? それとも欲求か…。
僕は六畳一間の小さな部屋で考えていた。
何かを知ろうと思う事はそれなりに楽しめる。知識欲は人間に与えられた唯一の娯楽だ。
所詮は趣味。何かを考えたところで何も変わらない。なんの進歩も進捗もない。
どこかの哲学者のように考える事で自らの存在を感じ取るなんてナンセンスにもほどがある。知れば知るほど世界はつまらなくなるのだ。
広がりきった世界は、しぼむ事でしか存在理由を主張できない。
もしくは、破裂か。
そういえば、昔幼稚園の先生が言っていた。小学校の先生も、中学の先生もいっていた。高校ですら言っていたか。
人の気持ちを考えろ。
一般的に、人々が考える事のほとんどがこれだろう。僕でさえこんな事を考えながら生きているのだから、きっと世の中の人々だってこれを考え、白日の下に過ごしている。
さて、初めてこれを言われたのは5歳の時だ。今でもはっきりと覚えている。誰かと喧嘩になり、僕がその喧嘩に勝った。何が理由で喧嘩になったのかは覚えていないが、その時に保育士が僕に言った言葉はよく覚えている。
「やられた方の気持ちになってみろ」
あの頃の僕には無い発想だった。人の気持ちになれる? そんな事が可能なのか。新鮮な響きに魅了された僕は、そいつの気持ちになってみようと思った。真剣に考えた。
あいつの気持ちになるには?
できなかった。方法が分からなかった。幽体離脱をして、あいつの精神と入れ替わる。あいつと同じくらいの目線になるよう、少し膝を曲げてみる。あいつが僕に殴られたように、僕も殴られてみよう。同じ個所に同じ威力で、あの時のリアリティで。
できるはずがない。
一応、名札の名前をそいつの名前にしてみたり、あいつの好きなアニメとか見たりもしたが、そういつになれる事はなかった。だから、あいつの気持ちも分からない。
そして、僕はむしょうに腹が立った。僕に嘘を言った保母さんに、怒りが込み上げた。
「どうやっても人の気持ちなんかわかりません。詳しいやり方を教えてください」
翌朝、僕は開口一番に言ってやろうと思った。文句を言いたいだけではない。どうしても、その方法を知りたかった。つまらないお遊戯よりも、はるかに好奇心を揺さぶられたからだ。そして僕は幼稚園に着くなり、保母さんのいる職員室に走った。その保母さんは僕を見るなり笑顔で言った。
「おはよう」
僕は思った。
こいつは、僕が一晩中悩んでいた事を知らない。いや、考えてもいない。質問を投げかけたのはこいつだったはず。
それなのに、彼女は僕の気持ちなど考えてやしない。
だからこいつは、答えを知らない。
僕の気持ちが分からない以上、こいつは他者の気持ちを考える方法を知りはしない。
僕は挨拶に答える事もせずに教室にもどった。
残念な事だが、これが初めて人の気持ちを考えた瞬間だった。その時に感じた憂鬱な靄は、二十年たった今でも持ち続けている。
人の気持ちを考えろ。なんていう奴は、所詮人の事なんて考えられない人間だ。
結局、人なんてそんなものなんだと思う。そんな事すら、ほとんどの人間は考えない。そんなものだ。
人はいつでも、くだらない。