Ⅴ 自由のために
1
無数の縄張りが蜘蛛の巣のように入り交じるターフェスタの下街で、各地区の親方らが信頼を寄せる有力者ヴィシャという名の男がいた。
天を突くような大男で、腰まで届く美髯《びぜん》を誇りとするヴィシャには二人の娘がいた。姉の名はレイネ、十三歳になる姉より五つ年下の妹ユーニ。
父譲りに気の強いレイネは、頼りない妹の面倒をよくみていた。
レイネにとってそれは決して面倒事などではなかった。血のつながりはなによりも強固であり、うらぶれた下街において血の気の多い人間達をまとめあげる父ヴィシャも、血のつながりがある兄弟達と協力してそれを行ってきたことをレイネはその目に焼き付けてきたのだ。
レイネは遊びを求める妹の相手をよくしてやった。彼女が欲しがる物は手の届く範囲で全部手に入れてやったし、行きたいという場所にもよく連れて行った。
しかし、ここのところはそうした自由もままならなくなっていた。
始まりは一年ほど前、市街地で起こった凶行だ。
被害者は決まって若い女だった。口にするのも憚られるような残酷な方法で行われる殺し。今に至って犯人はつかまっておらず、それを解決すべき立場にある警邏隊は、夜間の外出禁止令を出したきり音沙汰がない。子供は陽が沈むまで、大人はそれより数時間の余裕が与えられているが、本来なら酒場通りが賑わう時間帯に、外を出歩くことは許されなかった。
地下を巡る廃水路。狭い暗がりのなかにある古い穴掘り労働者用の宿泊基地がある。
レイネとユーニの姉妹は、その宿泊施設を陣取り、ヴィシャ第四支部と名をつけた。そこは二人にとって、誰の干渉も受けることのない秘密基地だった。
「おねえちゃん、つまんないよ……」
尖った石を持って床に落書きを増やしながら、ユーニは退屈に悲鳴をあげていた。
レイネは来る途中に露天商から頂戴したリンゴを二つ、曲芸の要領で交互に投げて暇を潰していた。
リンゴを手元に落ち着けて、レイネは妹をなだめた。
「我慢しな、ここんとこ街を出歩く兵隊どもの数が益々増えてるんだ。下手にふらついて捕まったら、またパパに怒鳴られるよ」
ユーニは父親に叱られると聞いて半泣きの顔で、上唇を下唇にかぶせた。
件の凶行が原因で、警邏隊は子供だけで市街地を出歩くことを禁じていた。
レイネはそうした状況もおかまいなしに、すでに三度も捕まっている。二度目までは口頭での注意ですまされたが、三度目は丸一日牢屋のなかで拘束された。娘が軍に捕縛されたと知るや、父ヴィシャの怒りようはすさまじく、あわや刃傷沙汰寸前にまで騒ぎが大きくなったことを、レイネは恐怖して覚えていた。
相手は下街のごろつきとは違う。国を相手に虚勢をはったところで、彼らがその気になればヴィシャとその一族を葬ることくらい簡単なことなのだ。しばしば、身内のこととなると我を忘れる父を、レイネは心配に思っていた。
ユーニは立ち上がって、スカートを両手で力強く握っていた。それは妹のご機嫌が悪いときに現れる合図の一つだ。
「どうしたんだい」
聞いたレイネも、妹の訴えたいことをわかっていないわけではない。
ユーニが溜めている不満の大部分を占めるのが、毎年冬入りの今頃に開催される越冬祈願の祭りである。それが今年は領主の号令により、祭が中止となったのだ。
甘い物や味の濃い食べ物が無数に並ぶ露店、弓打ちやクジ引きなどの選びきれないほどの娯楽。誰に叱られることもなく翌朝まで外で飲み食いをして遊ぶことができる楽しい一時。親から多めの小遣いをもらえるその日を心待ちに一年を過ごしている子供も多く、ユーニもまたその一人だった。
我ながら甘いと知りつつも、レイネは楽しみを奪われてしょげている妹を可哀想だと思った。
レイネは膝をついてユーニを抱きしめる。ユーニはすがるように体を預け、力強く姉を抱きしめた。
レイネは妹の背をさすり、頭を優しく撫でる。
流行病で命を失った母を、ユーニはほとんど知ることなく育った。レイネは妹にとっての母も同然だったのだ。
「そうだな、〈エダーツェの手紙〉でも観に行くか」
レイネのその言に、ユーニは爆ぜるように顔を上げた。
「ほんと!?」
それは街の中央広間にある劇場で公演中の歌劇だった。主催者は西方の劇団であるため、公演は期間限定。ユーニはそれをしばしば見たがり、だだをこねたのも両手の指では数えきれない。
「観たらしばらくの間、良い子に我慢できるって約束できるなら考えるんだけどね」
「するするするッ」
ぴょこぴょこと飛びはねながら、途端に機嫌を直した妹をレイネは微笑んで見つめた。
「でも……お姉ちゃん、夜だよ……」
ユーニの心配は的確だった。講演は夜の限定。その時刻はちょうど子供の出歩きを禁じる頃に始まり、大人達が家に戻らなければならないギリギリの時間に終わる。
「なあに、昼間ならまだしも暗い頃なら、あの間抜けどもに見つからずに劇場まで行くことなんて簡単だよ」
ユーニの表情は晴れない。
「でも……おかね、ないよ」
入場料は大人が二日はうまい物を腹一杯食べられるくらいの料金がかかる。この心配も実に的確なものだったが、これに関してレイネには一計があった。
「上街にボナンサっていう札付きの闇商人がいてね、あいつパパにしこたま借金や借りがあるんだ。ヴィシャの娘だっていや、小遣いくらいちょろりと出すさ。もしかしたらチケットを持ってるかもしれないしね」
片側の歯を見せて意地悪そうな笑みをつくると、ユーニも同じように笑い鼻にシワを寄せた。その表情は悪だくみをしているときの父、ヴィシャにうり二つであり、改めて自分たちは血を分けた姉妹なのだと、レイネは強く実感した。
地下水路と裏道を駆使しながら闇商人の住処へたどり着いたレイネは、その戸を軽快にノックした。
トトン、トン、トンと調子をつけて叩いたのは、それが店主が商売の客かどうかを見極めるための合図だったからだ。
家主からの応答はなかった。
周囲は個人の商い店がちらほらと並ぶ商店街。
しんと静まり帰った夜の空気に耐えきれず、レイネはぶるりと肩を震わせる。
──留守じゃないよな。
出窓の隙間から漏れる淡い光は主が在宅であることを示している。
その時、扉の奥からゴトリと重い物音が聞こえた。
居留守、という言葉が頭をよぎる。
──あいつッ。
レイネは眉を怒らせた。
感情にまかせて取っ手を掴み、力任せに揺さぶると、扉はなんら抵抗なくするりと手前に開く。
鍵がかかっているものと思い込んでいたレイネは、体制をくずして尻餅をついた。
「くそ、ざッけやがって──」
痛みをまぎらせるため口汚く罵り、レイネは部屋の奥へ視線をやる。
揺れる小さな蝋燭灯りを頼りに廊下を進み、商品を並べてある奥の部屋へ踏み込んだ。
睨んだだけで相手を怯ませる父譲りの眼力で首根っこでも掴んでやろうと、威勢良く飛び込んだ先で、レイネは目の前に広がる異様な光景に絶句した。
血溜まりのなかに倒れ込んだ店主の男。胴体を半分に切断され、無残に両腕も引きちぎられた死体となって、横たわっている。
瞬間、夜間外出禁止の元凶である一連の事件を思い出し、レイネの体を巡る血液は、冬夜の水たまりのように凍り付いた。
背後からひとの気配を感じ取り、レイネは慌てて後ろを振り向く。
手に短剣を握った黒ずくめの男が、そこにいた。
目と口元だけが開いた黒頭巾をかぶった男がレイネに短剣の刃を向け、空いた手を伸ばす。
レイネは得意の敏捷さを活かし、身を低くかがめて部屋を飛び出した。
一切の思考を捨て、廊下を走り抜けて外へ飛び出る。
来た道を辿り、細道で待たせていた妹の姿をみてほっと一心地をつく余裕もなく、追われているという恐怖に煽られて真っ暗闇の細道を駆けていく。
正しい道順をなぞるための余裕もなく、怯えて泣き声をあげはじめた妹をひきずりながら走り続けた。
めまいがするほど走りきり、レイネは足を止めて肩を揺らす。
体力のないユーニは息も絶え絶えに、膝をついて激しく咳き込んでいた。
ふと見まわした周囲の景色が、まるで見覚えのないことに気づく。
暗がりでよく見えない通路の奥から、地面を踏みしめる靴の足音がした。
レイネは反射的に妹を抱き寄せる。足音は奥からこちら側へゆっくりと向かってくる。
震える足を奮わせてどうにか立ち上がった。逃げるための一瞬の暇《いとま》を無駄にしないため、最後の踏ん張りに力を込める。
迫り来る人物の姿がちょうど建物の隙間から漏れる月明かりを受け、おぼろにその姿を晒す。限界まで見開いた目に映ったのは、灰色の外套を目深にかぶった人物。袖から出た左手の甲は、闇飲まれて元の色がわからない。しかし、それは明らかに白濁したものとは違った。
──輝士だ。
瞬間、安堵が広がっていく。彩石を持つ人間。それはすなわち国軍に所属する輝士であるという安直な思考。
人気の無い裏路地に佇む、暗い色の外套をかぶった妖しい人物も、今のレイネにとっては窮地に現れた救世主にしか見えなかった。
レイネは後ろにではなく、前へ向けて駆けだした。
常日頃、憎く思う軍人が、いまはなにより心強く思える。
ほとんど抱きつくようにしがみついているユーニを抱いたまま、レイネは男に駆け寄った。
「助けて! 人殺しが追って──」
レイネは言葉を切り、男の寸前で足を止めた。
──臭い。
背筋を虫が這いずっていくような不快感。
清廉な空気に混じった血の臭いがした。
闇に溶けた奥の通路に、ぼんやりと人の形が浮かび上がる。仰向けに倒れ、不自然なまでに微動だにしない。すっぱりと綺麗に切り落とされた左腕は、その体がすでに亡骸となっていることを表していた。
後ずさる間もなく、男の手が姉妹の腕を掴み上げる。
大きな手、強い握力。
レイネは力任せに暴れ、脱出を試みる。しかし相手に動じた様子はない。少女の力で抵抗は難しく、この男にもそれがわかっているようだった。
レイネは捨て身の行動に出る。自らを拘束する手を諦め、妹を拘束するもう一方の手に攻撃を加えた。蹴った足は肘を打ち、運良く痺れを誘ったようだ。
見計らい、レイネは声を上げた。
「逃げなッ!」
懸命にもがくユーニは、踏ん張って必死に体をよじる。
男は右手に手袋のようなものをはめていた。それが功を奏し、ユーニは手袋ごとを引きはがして男の拘束から逃れる。
レイネは自由になった妹に声をあげた。
「振り向かずに逃げて! いつもの場所、わかるねッ」
恐怖と涙でぐしゃぐしゃに歪んだ顔で、ユーニは頷き、がむしゃらに道を駆けて夜の細道へ消えていく。
安堵するだけの余裕などない。さきほどの商人の家で起こった事を思えば、逃げた妹の安全はまだ確実ではなかった。
レイネは思い切り悲鳴を上げた。
助けを求めるための最後の手段もむなしく、なにかに強く顔を打たれる。
のけぞって倒れこんだ際に目に映った男の顔。ひどく怯えた人の顔が、じっと自分を見つめていた。
2
シュオウ、ジェダの両名はターフェスタに拘束された後、夜の街を連れ回され、事件があったという現場にまでそのまま歩きで案内された。
左手に手袋をはめられたこと以外は、携帯していた武器をとりあげられたくらいで、拘束はゆるい。
彩石を持たないシュオウにとって、封じ手袋は意味をなさない。締め付けの不快感と手首の錠の重さ以外、なんら害となるものではなかった。
風の力を操る彩石を持つジェダはともかく、無力な濁石しかもたないシュオウに手袋をはめて安心しきっているターフェスタの軍人を見て、シュオウは彼らが大きな勘違いをしていることに気づく。
ベンの指示でターフェスタに入った頃からここまで、手首が隠れてしまう大きさの輝士服を着ていたせいだ。事情を知らない彼らがシュオウを彩石を持った輝士と思うも当然であり、異国からの使者の素性をきちんと把握しようとしなかった、彼らの怠慢と油断が生んだほころびでもある。
──隠しておく。
当然のこと。シュオウにとってそれは、状況を打破するために残された小さな隙間だった。そこからは、僅かだが希望の光が漏れている。
都合の良いことに、手袋をはめられてしまったいま、わざわざこれをはずしてなかを確認するようなことも、あえてすることはしないだろう。
囚われて後、ジェダは一切の感情を捨てたように無表情になっている。
こじんまりとした商店に通され、奥の部屋で横たわるバラバラに切り離された死体を見せられても、それは変わらなかった。
部屋にこもった生々しい血の臭い。
久方ぶりに嗅いだ死臭を不快に思い、シュオウは苦々しく顔をしかめた。
先頭をきって部屋に入ったデュフォスが、無残な死体の前に立って、その上を撫でるような仕草をしてみせた。
「本日の日暮れ頃、この家で争うような物音を聞いたと近隣の住人からの通報があり、なかを捜索した警邏隊員がコレを発見しました……状況からみて考えるまでもなく他殺、人体を切断するという残虐なやり方に加え、監視下にある施設を抜け出し、市街地を出歩いていた黄緑色の髪をした異国の輝士の目撃情報が多数あがっている。どれをとっても、それらの事実はある一人の人物が犯人であることを証明しています。いかがですか、サーペンティアの公子殿」
あらかじめ用意していたかのように、流暢に説明したデュフォス。
ジェダはそれを、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「なにか」
「切断面があまりにも汚い、僕がしたことなら面はもっとなだらかだ。各所に無数のためらい傷と断面についたのこぎり状の痕。見ればわかる、これをした人間は死体の部位を切り分けることが心底嫌だったんだ。君たちが実行しているお粗末な作戦の立案者は、無神論者か罪悪感の欠如した異常者を雇うべきだった」
デュフォスは瞼を深く落とし、いらだたしげに歯を擦った。
「現場の精査はすでに終えている、反論は無用です」
「だろうね。けど、自己弁護の機会を与えないというのなら、どうして僕に現場を見せた」
「……実際に見なければ、本当にあったことかどうかわからないのでは」
堰を切ったようにジェダは吹き出した。
「なるほど素晴らしい、これまでの人生のなかで一番笑える言葉を聞かされたのがこんな状況だとはね」
デュフォスは尖らせた唇の隙間から、すりあわせた白い歯をみせる。
「ジェダ・サーペンティア。戦場で神を冒涜するのみならず、他者を不快に貶めることも得意なようだ……。現時点を持って貴様を重罪人として扱う。異国の輝士であることを考慮し、裁きはターフェスタ大公が直々に下されるだろう──」
デュフォスは右手の甲でジェダの頬を強く叩いた。
「──以上」
切れたジェダの唇からこぼれる鮮血が、死体から漏れ出た血溜まりにぽつりと落ちた。
まるで王侯の行列のように大勢の兵士達がかり出され、市街地から城への道中、そして城門をくぐって城の中にいたるまで、綿密に配置されていた。
一軍と称せるほどの人員を動員してのこと、一朝一夕で支度ができることとは思えない。 謁見の間へ通される途中、シュオウの眼には廊下に飾ってある花びんに活けた花ですら、仕込まれた舞台の小道具に見えた。
シュオウとジェダは城の二階にある謁見広間に通された。
逆さにひるがえされた絨毯は黒い裏面が上を向いている。
一条に伸びる絨毯の先には重装を纏う高位の武官、きらびやかな官服に身を包む文官が居並び、その先に三段分の高い位置に置かれた座に背の曲がった初老の男が座っていた。おそらくこの男がターフェスタの領主、ターフェスタ大公であろう。
大公の背後には四人の輝士が並んでいた。
要塞アリオトからここまでの案内をしたナトロ、ユーカ。他に筋肉太りした巨体の男、線の細い女が佇んでいる。彼らの共通点は、赤と黒の輝士服を纏っていること、そして腰から華を象った紋印をさげていることだった。
大公の座に向かって奥へ行くと、右前方の列のなかに一人だけ浮いた青の輝士服を着た男がいることに気づいた。ベンである。
ベンは左手に手袋こそはめられていないものの、両脇を屈強なターフェスタ輝士に囲まれ、実質的な拘束状態にあった。
ベンは怯えきった様子で、白くなった唇をわなわなと震わせている。
「大公殿下の御前である、ひざまずけ」
氷柱のように冷たく、デュフォスが告げた。
ジェダが輝士の礼法にのっとって片膝をつくと、デュフォスはあげているもう一方の彼の足を踏みつけた。
痛みを感じてか、ジェダは僅かに顔を歪め、黒絨毯の上で両膝をついた。
視線が自分に向いたのを感じ、シュオウは言われるまでもなく同様にしてみせる。
二人並んで膝をつく様は、親に許しを請う子供のようだった。
「殿下にご報告をお伝えいたします。来訪中のムラクモ輝士六名。うち一人は宿泊地にいたところを確保。後に市街地を出歩いていたこの二名を確保いたしました。他三名の輝士については宿泊地に姿がなく、未だ市街地に潜伏しているものと思われます。捜索は警邏組に現在も継続させているところですので、今しばらくお時間を」
デュフォスの報告にターフェスタ大公は無言で頷いた。
右手を後ろ腰において、デュフォスは靴の先で二人の靴の裏を小突いた。
「殿下にご挨拶を──名乗りたまえ」
「蛇紋石の主オルゴア・サーペンティアの子にしてムラクモ王国軍の輝士、ジェダ・サーペンティア。大公殿下に拝謁いたします」
ジェダの名乗りに、ターフェスタ大公はそっと頷きを返す。
次いで皆の視線がシュオウに注がれた。
「……シュオウ」
一言、そう名を告げると場に集った皆の表情に呆れと失望がひろがっていく。
デュフォスはシュオウの前に立ち、冷たい視線で見下ろしながら腰に差した短鞭を抜いてシュオウの頬を叩いた。
じん、と伝わる鮮烈な痛み。シュオウは歯を食いしばってデュフォスを睨み上げる。
「ふざけているつもりなら場をわきまえるべきだろう。家名、地位、階級。最低限の挨拶すらできないとは。さすがは神を持たぬ蛮族、国を捨てた愚か者に相応しい。猿にも劣る無知蒙昧ぶりだ」
居並ぶ者達がデュフォスの言葉に頷く。
シュオウは密かに唇を濡らした。
「そ、その男は──」
シュオウの素性について、言いかけたベンの口を止めたのは大公だった。
「よい、木っ端輝士の名など興味はない」
手を凪いでターフェスタ大公が言うと、デュフォスは短鞭を腰にまわし、一礼した。
大公はベンに向けてあごをしゃくった。合図を受け、ベンの両脇を固める二人の輝士達が、彼の両腕を抱えて絨毯の中央に誘導する。
「東方よりの特使殿、このような形での対面となったこと遺憾に思うぞ……」
「ムラクモ王国輝士、王括府書記官ベン・タール、大公殿下に拝謁いたしますッ。失礼ながら、これはなにかの手違いではないのでしょうか!?」
大公は足を踏み鳴らした。
「初報が届いて後、そうであればよいと何度祈ったかしれぬ。私が特に信頼を寄せる冬華六家の長直々に捜査に当たらせた結果が、この有り様であった。まったく残念でならん、ターフェスタはムラクモよりの特使団を国賓として招き、民らの歓迎のもと丁重に都まで案内させた。この度、我らの尽くした最上の礼はすでに北方諸都市に広く伝わっているとか。それに対してのムラクモの返礼は惨たらしい方法を用いての領民の殺害でもって返された。なんということか」
ベンはおそるおそる振り向き、ジェダとシュオウへ顔を向けた。ターフェスタに入ったばかりの彼とはもはや別人。困惑と混乱にまみれた中年の輝士の顔には死相すら浮かんで見える。
視線を戻したベンは大公を見上げた。
「で、ですが……ありえません。輝士ジェダ・サーペンティアは風蛇公の子息。交渉のための越境任務において現地の民を殺めたなどと……」
「疑いはもっとも、信じられぬというならば、この後デュフォスの案内を受け状況の把握に努められるがいい。しかし、もとはといえばそなたの監督不行届ゆえのこと、努々意識されるべきであろうが、そのことでそなたの罪を問うことはない」
大公が手を振ると、ベンは再び列の片側へ誘導されていった。
「さて──」
大公は細い人差し指でアゴをつつき、
「──罪に相応しい罰を与えねば。宰相ツイブリ、このたびのこと、いかなる処分を下すべきか」
呼ばれた男、宰相位にあるツイブリと呼ばれた老人が列の中から抜けだし、大公に向けて一礼した。
その老宰相は地位に似つかわしくない地味な装いをしている。彼よりも下位にあるであろう若い文官らのほうがよほど高給な装飾品を纏っていた。
「ムラクモ特使団には、その身の安全を守るための重警護をつけておりました。が、件の者はこれを許可無くすり抜け逃げ出した。これをもって逃走の罪。また、異国の軍属でありながら、領民の命を奪ったこと、これを殺人の罪とし、加えて殺めた者の体を切り刻み、返魂を阻んだこと、なにより重き神への冒涜。これらすべてを合わせるに、死罪が妥当であると提言いたします」
ツイブリは宣言し、深々と頭を下げた。
当然だ、などとターフェスタ側の人間達から声があがり、広間は彼らの拍手で満たされる。
控えるデュフォスがかかとを鳴らし、雑音を遮った。
「殿下、この不心得者の処遇はいかに」
デュフォスの短鞭がシュオウの肩を打った。
「ううむ……」
大公は唸る。
「この者、ジェダ・サーペンティアと共に居たところを拘束されております。重罪行為に荷担していた可能性は否定しきれないかと」
少しずつ首を振って、大公は頷きを大きくしていく。
「うむ……ツイブリ、いかに考える」
「は……」
ツイブリは腰に手をまわし、ゆっくりとシュオウに歩み寄る。判断を決めかねているのか、シュオウの前を行ったり来たり、左右に歩き始めた。
「ん……?」
ツイブリは突然足をぴたりと止め、シュオウに向けて鼻を鳴らす。
小声で、
「なにか香のものをつけておいでか」
とシュオウに聞いた。
突然の意味不明な質問に、シュオウ訝りながら首を横に振った。
ツイブリは釈然としない様子で再び歩き始めるが、すぐにまた足を止めてしまう。物憂げに首を傾げふらふらとおぼつかない足取りで跪くシュオウの前で腰を折った。
なにを思ってか、ツイブリは勢い良くシュオウの輝士服に顔をつけ、轟音がするほど強く香りを嗅ぎ始めたのだ。
周囲に一斉にどよめきが広がり、大公は椅子を押して立ち上がっていた。
「ツイブリ、お前、なにをしている……」
大公の問いに、はっとなってツイブリは顔をあげてのけぞった。
「は?! わかりません……私はなにを……」
言いながらツイブリは再びシュオウの服へ顔を近づけていく。こんどは寸前で、ツイブリの肩をデュフォスが掴んで止めた。
「ツイブリ様……いったい何事です」
デュフォスに対し、ツイブリは焦点をシュオウに合わせたまま首を振り続けた。
「わからん、わからん……」
無表情だったジェダも、この事態にさすがに目を剥いてあっけにとられている。その視線はシュオウにどういうことか、と今にも聞きたそうな顔をしていた。
当のシュオウもまた、急なツイブリの奇行に困惑しきっていて、物言いたげなジェダに微かに首を振って応えるのが精一杯だった。
デュフォスはツイブリを立たせ、腰を浮かせた大公へ進言する。
「殿下、宰相はお疲れのご様子。脇でお休みいただくのが妥当かと」
「そ、そのようだ……許す」
答えのない問題を前にしているかのように、不明瞭な顔をしたまま大公は座に腰を戻した。
聴衆らは声にこそださないが、互いに顔を合わせて首を振っていた。
列の奥へ戻っていく老いた背に、皆の視線が突き刺さる。
空気をもどすための咳払いが大公の喉から出た。
取り戻した沈黙のなかで、大公の不振な瞳がシュオウを睨めつける。
「そこの者、状況を聞くにジェダ・サーペンティアと同罪である可能性が高い。よって共々死罪に処する。これはターフェスタ大公としての決定である。反論は一切認めん」
鳴り響く拍手のなか、シュオウはジェダを横目で睨み、一言かけた。
「おい」
話が違う、とまで言わずともジェダは意を汲んだだろう。
ジェダは皮肉っぽく眉を傾けて、
「謝ってほしいのかい」
と返した。
シュオウは溜め息を吐き、首を振る。
「予想はしてたんだ。敵意のある相手に捕まって、状況が良くなったためしがない」
「でも、どこかで僕の言葉を信じていたから、おとなしくついてきたんだろう」
ジェダの指摘にシュオウはむすっとして頬をむくれさせた。図星だったのだ。
「ここからはもう、好きにさせてもらう」
背後で鳴った靴音を聞いて、シュオウは瞬間、全身に力を込めた。
「なにを話し合っている、私語を許した覚えはない」
ひゅんと空気をつんざく鞭の音がした。
それが振り下ろされるより早く、シュオウはつま先に力を込め倒れんばかりに体重を前へやり黒絨毯を駆け昇った。
「まッ──」
デュフォスの声はもはや聞こえない。
この状況に気づいていない両列に居並ぶ者達は、未だに間抜け面をさらして大公に向けて手を叩いている。
彼らが手をあげ、そしてたたき合わせるまでの一動作の間に、シュオウは俊敏に二歩、三歩と足を出していく。
前方で警護のために控えていた二人の兵士が、起こった事態に気づいて剣を引き抜いた。シュオウは彼らが剣を振るより早く、その手首を掴み、ひねり上げる。中にある芯がちょうどぽっきりと折れてしまう角度に持ち上げてやると、兵士達は苦悶の表情を浮かべ、剣を落として手首をかばうようにうずくまった。
障害を排除し前方に視界が開ける。
狙いはいうまでもなく大公一人。この国でもっとも尊く、皆が命を張ってその命に従う相手。人質として手に入れれば瞬時に状況を翻すことができるかもしれない切り札だ。
しかし視界の外から突如躍り出た一本の長棍が道を阻んだ。伸びてきた棍を避けるついでに、シュオウはそれを掴み、こちらへ向いて伸びる力を利用して力強く引っ張った。そのせいで均衡を崩した攻撃の主、冬華六家のナトロは棍を持ったままよろめき、前のめりに倒れ込む。
対処に難はなかったが、対処にとられた時間分、結果的にシュオウは不意打ちで稼いだ敵の油断を使い果たしてしまっていた。
大公の周囲は三人の親衛隊が取り囲み、各々に力を駆使して透明な晶壁を巡らせている。
シュオウは決定期を逃したことを悟り、心中で舌打ちをした。
「お前でいい」
「は!?」
シュオウに首をつかまれ、引きずりながら持ち上げられたナトロ。
妥協の末の戦利品を盾に、シュオウは少しずつ壁に向かって後ずさる。
「はなっせよ──このッ」
暴れるナトロの首を腕に挟んでがっちりと固定しながら、シュオウは現在の状況把握に努めた。
──予定変更。
手にしたモノ《ナトロ》では、ここにいる全員を従わせることは無理だろう。盾としての役割もいつまでもつか怪しいものだ。
今し方まで自分が膝をついていた場所を見ると、ジェダがデュフォスにしがみつき、その動きを封じているのが見えた。
──あいつ。
援護のつもりでしたことなのだろうが、この状況においてはただの自殺行為に思えた。周囲には武装した武官達がひしめき合っている。案の定、彼らは剣を抜いていままさにジェダの体を突かんととしている真っ最中だった。
「その者を傷つけてはならんッ!! 離れろ、今すぐその男から離れるのだ! 背いた者は即刻死罪に処すぞ!」
なにより必死な叫びをあげたのは大公だった。その命に武官らは剣を止めて、困惑したままジェダのまわりから遠ざかっていく。
ジェダにまとわりつかれ、立つこともままならないデュフォスも、できるはずなのに彼に致命傷を与えようとはしなかった。死刑を言い渡した相手にすることとしては、違和感しか残らない。
「ユーカ!」
デュフォスは叫んだ。
「灰髪の男を逃がすな、諸共に討て!」
ジェダの拳がデュフォスの顔面を撃ちつけた。デュフォスは項垂れ、そのまま意識を手放す。
大公の守護にまわっていた冬華六家の幼輝士ユーカは晶壁を解いて、そのままシュオウに向け、手のひらを掲げて手元に緑の光を集めていく。
「ちょっと待て、本気でやるつもりか!?」
ナトロは声を裏返し、ユーカにそう問いただす。
「覚悟、できてるでしょ」
「できてねえよ! 真顔でこっち見るな、おいッ、あっちをどうにかするのが先だろうが」
ナトロは空いた手でジェダを指さす。
「却下。上官の命令を優先、する」
ユーカは力を溜めた手を振り上げる。シュオウが逃げるためにナトロの拘束を緩めかけたその時、突如一人の人物が目の前に躍り出た。
「ツイ、ブリ……?」
呆けた大公の声がして、ユーカは溜めた力を散らして手をあげたまま硬直していた。
両手をぎりぎりまで広げて、かばうように前に立ちはだかったのは、ターフェスタの老宰相ツイブリだった。
「なんの真似だッ」
懸命に首を振って応えるツイブリの首や顔から、滝のように汗が流れ出ていた。
「わ、わからんのです……こうしなければいけないという衝動がこの身を突き動かすのですッ」
「きさま……気でも狂ったのか!?」
ツイブリは呼吸荒く、
「まったく、そ、そうとしか思えませぬッ──」
大公の拳が玉座の肘掛けを叩きつけた。
ツイブリがなぜ盾となっているか、その理由を考える暇などなく、シュオウは腕の中で固めるナトロに耳打ちをした。
「今すぐ後ろの壁を壊せ」
「はあ?!」
シュオウはナトロの片手を背に回し、あってはならない方へ思い切りひねり上げた。
「それが出来ることは知っている。アリオトでしたことと同じことをすればいい」
「やらない、と言ったらどうするんだよ。腕を折られるくらいで俺が言うことを聞くとおもったら──」
シュオウは掴んだ腕にさらに押し上げ、ナトロの耳元でささやいた。
「利き腕が二度と使えなくなってもか」
ナトロは痛みに悲鳴をあげつつ、シュオウに手首を折られ未だに床で転がったままの二人の兵士達を見た。そして生唾を嚥下する。
次の返事を聞かず、シュオウはさらにあとずさり、分厚い石造りの壁際まで歩み寄っていた。
「やれ」
「くっそッ──」
ナトロは歯を食いしばり、空いた手を握って拳で壁を殴りつける。次の瞬間、壁面は爆ぜ散り、爆風の後に謁見広間の壁に人一人が通れる程度の穴を開けていた。
冷めた夜風が穴から入り込み、舞い上がった土埃が謁見広間を満たしていった。
シュオウは穴から外を急ぎ観察する。場所は二階、外は中庭に通じていた。ほどほどに高さはあるが、下にある茂みに飛び込めば怪我無く降りることができるかもしれない。
「ジェダ!」
シュオウはその名を呼び手を差し伸べる。
ジェダは立ち上がり呆然と穴の先を見つめていた。
「来い! 無実だとしても、命を他人にゆだねたら、その瞬間から自分で運命を掴むことができなくなる。自分の足で動け、あとのことはそれから考えろッ」
ジェダは浅く呼吸を繰り返し、一瞬腰を落として足に力を込めたように見えた。しかしそれも束の間、足を伸ばして腕をさげ、ただ静かに佇んでシュオウに向けて小さく微笑んだ。
「いッかあん!!」
佇むジェダへ、傍観者でいたはずのベンが突撃をくらわせた。その身を縛るように抱きついて、身動きを封じようと懸命にしがみつく。
「嫌疑がかかった以上、いまは公正な裁きを受けてしたことの責任をとらねばならんのだ! 私たちの行動にはムラクモとターフェスタ、両国に生ける多くの者達の未来がかかっているのだぞ! これ以上の勝手はこのベン・タールが許さん、後先を考えない無責任な逃亡など許してなるものか!」
状況に対応できぬままおろおろとしていた大公が、慌てて号令を出す。
「ジェダ・サーペンティアを捕えよ! ただし武器の仕様を禁ずる、無事なまま捕えるのだ!」
体格の良い武官や兵士らが待ってましたとばかりにジェダの拘束にかかる。一人ずつが手を一本ずつ押え、足を押えて動きを完全に封じていた。
完全に期を逸したと判断し、シュオウはナトロを抱えたまま穴の外へ体をずらしていく。
「おい、まさか……やめろッ、やめてくれ──」
蒼白顔で振り返るナトロを巻き添えに、シュオウは中庭に向けて飛び降りた。最中に、最後までかばって盾となった老宰相と目をあわせる。その口が自分に向けて動く様を最後まで見つめていたシュオウは、彼が最後に告げようとしていた一言を頭の中で瞬時に組み立て直した。
──あなた、は、いったい。
3
深夜の牢獄は凍える空気に包まれていた。
罪人を囲うこの場所で、僅かでも暖を提供するような優しさなど欠片もない。
ジェダは一人暗い牢に放り込まれ、左腕に窮屈な拘束具をはめられていた。
ほどなくして、向かいの牢部屋に新たな住人が運ばれてきた。
「やあ、さきほどはどうも。お年に似合わぬ活躍ぶりでしたね、宰相閣下」
左腕を封じられた宰相ツイブリが、すっかり弱った様子でへたり込んだ。
ジェダの軽口に、ツイブリは顔をしかめる。
「皮肉のおつもりか……サーペンティアの若君」
ツイブリはしこたま打たれたらしく、顔中に切り傷と痣を残していた。右手首は膨らんだ餅のように腫れ上がり、片足はあらぬ方向を向いている。おそらく、服の下はもっとひどい状態だろう。
「ふ、嗤われるがいい。あなたを貶める企てをした張本人が、こうして向かい合って幽閉されているのですからな」
思わぬ形で出くわした仇《かたき》。しかし、ジェダは動じることなく微笑した。
「あなたに聞きたいと思っていた、いったいなんのつもりで彼を助けるような真似をしたのか」
いくつかの思考のなかに、ツイブリのとった突飛な行動も、なにかしらの思惑あってのことではないか、という考えもあった。しかし、当事者たちの心底驚愕した顔と、いまの彼の状況を見れば、それも怪しい。
返事を寄越さず、痛めた患部を見て口を曲げているツイブリに、ジェダはさらなる問いかけをする。
「あなたは彼を知っていたのですか」
ツイブリは這うように鉄格子に寄って、赤筋の浮かぶ眼でジェダを見つめた。
「知らぬ、のです……同じ質問を何度もされ、この歳で歩くこともままならぬ体にされました。生まれてこのかた、我が身はターフェスタにつくしてきたというに、その見返りがこの有り様でございます──」
血が滲むほど唇を噛み、ツイブリは肩を落として嗚咽をもらす。
「──誰かこの私に教えてくだされェ! 我が身にいったいなにが起こったのか。人生を賭け血の滲む思いで積み上げてきたものと引き替えに、私がいったいなにを行ったのかをッ。あの若者がいったい何者なのかを……」
消え入る言葉に、ジェダがそっと火を灯す。
「彼の名はシュオウ。ムラクモ王国軍所属の従士ですよ」
ツイブリは顔をあげ、顔中から汁をこぼしながら聞き返した。
「従士、ですと? このごに及んで私をからかいなさるおつもりか」
「事実だ。服は着る者を表すが、真実を隠しもする。彼の左手には白濁した輝石があり、家名はない。孤児だったという話です」
「そんな……」
自らが命がけで守った相手が、名も無き一介の平民だったのだという事実。ツイブリは混乱の渦に飲まれながら、なおも捕まる命綱を手に出来ずに悶え苦しんでいた。
「わからないことだらけですね」
他人事として、気楽にジェダは言う。
「若君は怖くないのですか、これよりに後に起こること、すでにご承知でしょう」
その問いは、この老人の嫉妬心からでたのだと、ジェダは思った。
自分だけが苦しい、自分だけが悲しい。その感情に、おそらくこれまでの人生で勝ち続けてきたこの老人の自尊心は耐えられないのだろう。同様に不幸に底に落ちている者同士、本音を晒せと嘯いている。
「さあ、ただいまは、なにも考えていないだけなのかもしれません」
望んだモノを得られなかったツイブリは、苦しげに顔をおとして唾液をすすった。
──恐怖はないさ。
ジェダはこっそりと自答した。
──ただ。
ぽっかりと、胸に穴があいていることは自覚している。
冬の日に、着る物もなく古井戸のなかで長時間過ごす羽目になった過去の思い出が、頭をよぎった。
──寂しい、のか。
幼少期に捨て去った孤独という感覚。
その原因を想い、ジェダは灰色髪の仏頂面を思い出していた。
「目障りな邪魔者だと思っていたのに、存外、あれが心を紛らわせる一助になっていたらしい」
身分と生まれの境界を曖昧にしているシュオウと輝士の娘達。旅の間中、どれだけの罵倒を心の中で唱えたか。しかしいまにして思えば、死出の旅に赴く恐怖や孤独を、彼らが奏でる不協和音でごまかしていたのかもしれない。
互いの心が測れず、不安や苛立ちに心を揺らして生きている彼らが羨ましかったのだろうか。
皮肉を込めて、ジェダは自分を嗤った。
「それは、件の若者のことでしょうか」
ジェダは曖昧に肯定した。
「まあ」
「教えていただきたい、あなたが知るその者のことをすべて」
必死な老人の頼みに、ジェダは否を告げた。
「お断りだ、僕は恋する乙女じゃない。一人の男のことを想ってだらだらと語るのはごめんですよ。それより、あなたはご自分のこれからを心配されたほうがいいのでは」
ツイブリは首を振り続けた。
「ドストフ様……いや、大公様はだれよりも疑り深く、猜疑心にまみれたお方。一度信を失った相手を二度と信じることはございません。おわかりか? 私は終わったのです。自分でもわけのわからぬ理由で、すべての信用を失いました。この後は死罪か、よくてもなにもかもを奪われ、一族ごと放逐されるでしょう。それがこの身に待ち受ける顛末なのです」
だから、とツイブリは懇願した。
ジェダは鉄格子に背をあずけ、天井を見上げる。
「ずうずうしいと思いませんか、自分を死の罠にかけた相手の願いをかなえろと?」
「百も承知のことでございます」
揺らがぬ言葉にジェダは根負けした。
「僕は彼の信奉者じゃない。知ることは彼が軍に入ってからのこととか、表面的なことばかりですが」
「ぜひにッ」
鉄格子をガタと揺らして、ツイブリは強く話を求めた。
ジェダはシュオウのことを知るかぎり語って聞かせた。
その行いはどことなく不愉快さを伴うものでもあったが、話している間は、空虚な心を忘れることができた。
一人で怪物を退治して、囚われた者達たちを救い出し、死の危険にさらされた王女を守り抜いた。初陣で獅子奮迅の活躍をして、要塞一個を制圧……
話していくうち、ジェダは自分の言うことの馬鹿馬鹿しさを自嘲した。
シュオウ、という人間の軌跡。そのほんの僅かな断片ですら、まるで詩文や物語の世界だ。
ツイブリはそんな話をまじめに聞いて、ときに疑い、感心しながら熱心に耳を傾けていた。
話しながら、ジェダは謁見広間からまんまと逃げ出したシュオウの姿を思い出していた。その後のことはどうなったのか、ここまで話は聞こえてこないが、彼が生きていることだけは疑う余地もなく確信できた。
*
早朝。
郊外の下水路から赤の輝士服を纏った男が姿を現した。
昇りかけの朝日をうけた髪を銀色に光らせて、黒の眼帯にふれて位置を直し、手にした冬の華の紋印を腰に下げる。
シュオウは両手で頬を強く叩き視線を上げた。
「よし──」