Ⅲ 再会
馬車に揺られていた体が左へ流れ、サーサリアは大きな声で静止を求めた。
一行を仕切る親衛隊長シシジシ・アマイが、小窓から伺いを立てる。
「アマイです、馬上にて失礼を──殿下、いかがなさいました」
「どうして道をかえた」
「上層へあがります。暗くなってから時もすぎました」
その返答に、サーサリアの心は波立った。
「王都まであとすこしのはず、このまま行って」
「ここまでかなりの無理を通しました。馬の疲労も限界です。なにより御身を暗闇の深界にさらしたくはありません。あと少しです、もう少しだけのご辛抱を」
たぎる心を抑えきれず、サーサリアは強く足を踏みならす。
「昨日もそう言った! その前の日も、その前も! 馬車を戻しなさい、いますぐ!」
静寂のなか、聞こえるのはサーサリアの荒れた呼吸だけ。数瞬後、アマイが重々しく言葉を紡ぐ。
「私は殿下にお約束いたしました、無理なことはそうと申し上げると。休息が必要なのです、我々にも、そしてご自身にも。ご命令とあらば、御身には私の決定をはねる権限がおありです。ですが、そうなさるなら、どうかこの命をお断ちください、私は方針を変えるつもりはありません」
怒りにまかせ、サーサリアは左手を外へ向けてかざした。ムラクモ王家の象徴たる毒霧の構築を試みるが、寸前に、はっとして上げた左手を右手で押さえつけた。親衛隊を率いていた前任者、カナリア・フェースの無残な姿が頭によぎったのだ。
消沈しつつ、サーサリアは枯れた声をもらす。
「あの人が、またどこかへ行ってしまうかもしれないのに……」
大国の王女であっても、すべてを思い通りにはできなかった。文武官達の視線は、長年その身を国に尽くしてきた長命の男にそそがれ、長らく日陰の中で無為に時を過ごしてきた王女に、信を置く者はすくない。
ただ一人、心から求める相手すら手元に置くことが出来ない無力さに、苛まれる日々。
「策を、講じていないわけでは、ありません」
アマイの物言いは明瞭ではなかった。しかしサーサリアは溺れる者が最後の希望にすがって伸ばす手のように、必死の眼で闇の中に溶けるアマイの姿を探す。
「説明して」
「彼の新しい配属先として、王都への足止めになる推薦状を提出してあります」
不安という縄で締め付けられていた胸の内が、ほっと緩んでいく。
「それなら、あの人は王都にいる?」
暗がりのなかで、アマイが曖昧に頷くのが見えた。
「たしかな人物に後ろ盾をいただいておりますので、グエン公が承知する可能性は高い、かと」
「そう……わかった、休息をゆるす」
露骨に、アマイが胸を撫で下ろす気配が伝わってくる。
「ありがとうございます、宿に入りしだい、どうか一口でもお食事を」
サーサリアは数日の間、ろくな食事をとっていなかった。思い人が遠く戦地にて功をあげ、王都に呼び戻されたと聞いて以来、食欲が失せてしまったのだ。
「冷たい、汁物なら」
「はいッ」
アマイの声は弾んでいた。彼が足を止めた部隊に再出発を告げる間に、サーサリアは小さく声をかける。
「アマイ」
「はい」
「さっきの話、違えていたなら、隊長の任を解く」
「……かしこまりました」
虫の音も聞こえぬ、静かな夜だった。
*
外から門を通って宝玉院の敷地に入るようになったが、それにはいまだに慣れなかった。候補生をしていた長い間、アイセはずっと、他の多くの者がそうであるように、敷地内にある寮から学舎に通っていた。家の用事でもないかぎり、外へ出ることはそう多くなかった。
すっかり腐れ縁となってしまった元同級生が、同じ馬に跨がるアイセの背に体をあずけ、静かに寝息をたてていた。
モートレッド伯爵邸から出発し、シトリの現住所であるアウレール家の邸へ赴いて、彼女の父──極めて人相と柄の悪い──アウレール子爵に低頭されながら、ベッドの中で眠りこけるシトリの部屋に突撃し、カーテンを引いて朝陽をお見舞いするまでが、ここのところのアイセの日課となっていた。こうでもしなければ、シトリは一日中ベッドから出てこない。
「ついたぞ、いい加減起きろ」
言いながら肘でシトリの腹を小突いて馬から下ろすまで、毎日の繰り返しである。
立ったままへなへなと上半身を揺らすシトリを放置して、馬を厩舎に預けてから、アイセはシトリの手を引っ張って宝玉院の学舎へと足を運ぶ。
途中に愛想の良い生徒や顔見知りだった後輩らと挨拶をかわして、師官が集まる部屋に行き、主師が開催する朝礼にでるのだが、この日のアイセはその途中に、ふと違和感に駆られて足を止めた。
気になったのは、流れるように学舎に吸い込まれていく生徒達の視線だった。歩きながら、皆が右のほうを気にしているのだ。
距離が縮むにつれ、生徒らがなにを気にしているのかわかった。
玄関ホールの中で、周囲を威嚇するように睨みつけながら、大男が腕を組んだ体勢で突っ立っていたのだ。男はムラクモではめずらしい褐色の肌をした南方の人間で、手の甲の輝石には色がついていた。一瞬、立場ある人間かとも思ったが、服装は市井の酒場で昼間から安酒をあおっているような人間と大差ない。
みるからに無頼の輩である。
玄関を通る生徒達が、大男を避けるように歩いて行く傍ら、アイセは腰の剣に手を乗せて声を張り上げた。
「何者だ!」
警戒心をこれでもかと込めて怒鳴ったアイセを、大男が敵意たっぷりに睨み返す。
「おまえこそだれだ」
「身元を問うているのはこちらだぞ! ここは誰でも入れる場所ではない、名乗れ、正当な理由なく侵入したのであれば──」
剣の刃を浮かせると、大男はずいと一歩前へ出た。凶悪な視線で高みから見下ろされ、怖気が体を突き抜けたが、アイセは一歩も引くことなくその場に止まる。
「その格好、ムラクモの輝士だな」
大男が不敵に笑った。握った拳をばきばきと鳴らす。
アイセの額から一筋の汗が滑りおちた。
周囲にいる生徒達は立ち止まって、恐る恐るこの状況を見守っていた。こんなとき、まっさきに援護をくれて然るべきシトリは何をしているのか。
静まり返る玄関に、突然険のある声が轟いた。
「シガ! おとなしくしてろってあれだけ言っただろ」
その声がしたのと同時に、大男が舌打ちをして戦意を喪失したように視線をはずした。
警戒を解くべきか、判断がつかぬまま身構えていると、大男の脇からひょっこりと、ある人物が姿をみせた。
アイセは腰に置いていた手をぶらりと垂らして、裏返った声で叫んだ。
「シュオウ!?」
異国情緒のある灰色の髪をした黒眼帯の青年は、アイセと視線を合わせると驚いたように口をぽかんと開けた。
「アイセ、なのか?」
視線を交わして間もなく、アイセは後ろから突然突き飛ばされた。見上げた視界のなかに、集団で見守る生徒らのことも気にせず、シュオウと強く抱擁を交わすシトリの姿があった。
むやみに集めてしまった視線を避けるため、シュオウらと共に中庭の物陰に場所を移したアイセは、彼の片腕に抱きついてべったりと体を寄せるシトリをじっと睨んだ。
アイセが得体の知れない大男と対峙していた際、一切助けに入ろうともしなかったことも腹立たしいが、シュオウの姿を見るや人が変わったように猫なで声でべたべたとすり寄る様も、アイセの苛立ちを倍増させた。体を寄せられても離れようとしないシュオウにも不満がつのる。
「まさか、こんなところで会えるとは思わなかったな」
さらりとシュオウは言うが、アイセの心臓は跳ねっぱなしだった。
「うん、その、少し前から師官として宝玉院に勤めている、あくまで臨時だけど。どちらかといえば驚いたのはこっちのほうだ」
アイセは、もぞもぞと手の指をこねた。
「こっちも似たようなものだけどな」
シュオウはやんわりと笑みをみせる。その仕草からは落ち着きと余裕がみてとれた。もともと落ち着いた性格をしているという印象ではあったが、最後に見た時の彼は、思い返してみると今よりもずっと幼かったようにおもえる。
「ずっとここにいたらいいじゃん。そしたら、わたしも正式にここの配属にしてもらう」
シトリはこの世にシュオウしかいないような態度で、下からじっと熱い視線を送る。
シュオウはしかし、少し表情の色を暗くした。
「わからないんだ、ここへ来させられた理由も、いつまでいるのかも、次はどこへ配属されるのかも」
唇をとがらせて不満をこぼしたシトリに、アイセは心中こっそりと同意していた。シュオウが王都で仕事に就くのだとしたら、考えただけで胸がはずむことだが、自分がそうであるように、シュオウも軍人である以上、いち雇われ人でしかない。
シトリは抱きついているシュオウの腕を、子供のようにくいくいと引っ張って注意を惹いた。
「ねえ、今日の夜いっしょにさ──」
なにを言い出すかと、アイセがぎょっとした瞬間、シトリの体がふわりと浮いた。
「──いッたァ」
音もなく現れた主師のマニカが、鬼の形相でシトリの耳をつまみ上げ、強引にシュオウから引きはがしたのだ。
「はしたないッ」
「やめてよ、ひさしぶりに会えたのに!」
シトリは必死にマニカの指から逃れようとするが、相手もこの道を究めた師官である。ほんの少し前まで宝玉院の問題児であったシトリを捕まえる指の力は、老婆とはおもえぬ力強さだった。
「やめませんよッ、アウレール師官、あなたいったい生徒達になにを教えているのですか。子供達の家からどれだけの苦情が入っているか……一件や二件ではないのですよ。それに他の科目の先生方から、女生徒達が授業中に爪の手入ればかりするようになったとの報告もあがっています、あきらかにあなたの影響でしょう!」
やめておけばいいのに、シトリは百戦錬磨のマニカに口答えした。
「指は綺麗なほうがいいでしょッ」
マニカのこめかみがぴくりと震えた。
「あなたという子はッ──卒業試験の結果を聞いて少しは成長したと思っていたのに、私が間違いでした。今日から心を入れ替えるまで、つきっきりで主師であるこのマニカが指導します! 当面の間、寝泊まりも私の家でなさいッ」
シトリの悲鳴が中庭にこだました。
シュオウにすがるように手を差し伸べるが、彼はマニカの迫力に押されて呆然と引っ張られていくシトリを見送っていた。
アイセは心の中でマニカに拍手をおくりつつ、邪魔虫がはがれて身軽になったシュオウに話しかけた。
「朝礼の時間が近いから、私もそろそろいかないと」
「俺も一緒に行く、なにもいわれていないけど、参加したって怒られはしないだろ」
「そうか!」
普段ではありえないほど明るく弾んだ声をだした自分に、アイセは内心で驚いた。
ゆっくりと歩を出したシュオウは、中庭のすみの壁に背を預けてしゃがんでいたシガという名の大男を呼んだ。
「どうしたんだ、あれは」
シュオウは声の調子をおとし、
「拾ったんだ、南の戦場で」
鬱々としてゆっくりと息をおとした。
「よくわからないけど、後悔してるのか?」
あれだけ柄が悪ければ無理もない、とアイセはおもった。
しかし、シュオウは意外な言葉を返す。
「よく食うんだ、あいつ、少しの遠慮もなくな」
奥歯をすりつぶすような、どこか憎々しげにみえるシュオウの表情は新鮮だった。会えなかった時に彼が経験したことを知りたいと、アイセは強く願う。幸い、そのための時間はあるはずだ。
中庭と廊下の境界に、一人の女生徒が立っていた。シュオウと視線を合わせて一礼した態度からして、あきらかに彼と関わりがある様子である。
「知り合い、か?」
シュオウは頷いた。
「おれの世話係らしい」
少しして、アイセの記憶と前方にいる女生徒が一致した。それはその名を広く轟かす名家のなかの名家、アデュレリア一族の若姫であった。
女生徒の冷えた紫色の瞳が、不意にアイセを捉えた。まばたきもせず、無表情にじっと見つめられ、アイセは不快感に眉をひそめて唇を噛みしめた。
*
「すっかり噂の的になったな、あの平民の剣士」
午後の休みを迎えた直後、昼食を片手に空き教室の壁に背をもたれながら、友人のリックが、新任の剣術指南として派遣されてきた男の話を切り出した。
カデルは横目で赤毛の悪友の顔を睨み、ふんと鼻を鳴らす。
「どうでもいいさ」
本心では真逆だった。家の名をつかって正式な抗議をだしたにもかかわらず、宝玉院に件の男をどうにかしようという動きがみられないのだ。カデルの実家であるミザントの家以外にも、リックを含む他の生徒らの複数の家から苦情が入っているはずなのに、である。
「聞いたか? 朝、玄関で新任の師官がべたべたあいつに抱きついてたって話」
カデルは背を浮かせ、リックのほうを向いた。
「ほんとなのか」
「ああ、それにバカでかい南方人の用心棒を連れて歩いているらしい。おまけにその用心棒の手にあるのは彩石だってよ」
奇妙な話の連続にカデルは眉目の整った顔をしかめ、鼻の奥を鳴らした。
「どういうことだ」
「な、おかしいだろ。お前の家が抗議しても無視され、貴族の用心棒を連れて、ムラクモ貴族と抱き合ってたんだぜ。噂じゃ、アデュレリアの姫がべたべたくっついて歩いてるなんて話もあったし。それでさ、一連の話をまとめた結果、おれはこう思った、平民の身分でここの師官として派遣されてきただけのなにかが、あいつにあるんじゃないかって」
リックはそばかすの目立つ鼻先に皺をつくって笑った。この悪友がよからぬ事を考えているときにみせる癖だ。
「つまりなんだ」
続きを促すと、リックはにへらと笑う。
「あの男が寝泊まりしてる部屋を給仕から聞き出しておいたんだ」
「馬鹿じゃなければ、鍵くらいかけているだろ」
リックは得意げに内ポケットから古めかしい鍵を取り出した。
「ちょっと金をちらつかせてやれば、これくらいちょろいもんさ。な、いくだろ?」
カデルはしばしの間、仏頂面で悪友の顔を見つめた後、その手から鍵を奪い取った。
師官用の宿舎に向かう途中、カデルはある人物の姿を見つけ、気色ばんだ。
同級のアラタが昼食を手に持ちながら、カデルと目を合わせると怯えたように背を向けて顔を落とす。カデルはアラタの背にまわり、思い切り彼を突き飛ばし、去り際に落ちた昼食を踏みつけた。
アラタは膝をついたまま、到底食すことが無理な状態となった昼食を呆然と見つめていた。
「やりすぎると笑えないぜ」
リックにやんわりとクギを刺され、カデルは踏む足に力を込める。
「黙ってろ」
「なんでそこまでアラタに執着するんだよ。実技は下の下だし、家だって落ちぶれもいいところじゃないか、お前みたいに絵に描いたような良家の優等生が相手にするほどのやつじゃないだろ」
カデルは憎々しげに口元を歪めた。
「嫌いなんだ、あいつが──」
吐き出しながら、拳を強く握りしめる。
そうしているまに、師官の宿舎に通じる階段まで辿り着いていた。あたりに人気はない。勢いままに平民剣士の部屋の前まで行くと、リックは無人をたしかめるため部屋の戸を叩いた。
「よし、いないみたいだ」
カデルとリックは頷きあって、鍵を開けてこそこそと部屋の中に体を滑り込ませた。
なかは寝台とテーブル、チェストがあるくらいで実に殺風景だ。
ただ、やたらに目を惹いたのが壁にかけられていた黒い毛皮の外套と、チェストの上に置かれていた剣である。
武器を好むリックは、まっさきに剣に手を伸ばした。
「すっげえ、なんだこれッ」
急ごしらえ風な見栄えの悪い鞘からリックが抜き出した刃は、薄黒い見たこともないような素材を鍛え上げて造られた、まごうことなき逸品だった。
「持って見ろよ──この重さ、見かけ倒しじゃないぜこれ」
カデルは手にずっしりと重いそれを渡されて、息をのんだ。求めたからといって手に入るような代物ではない、この剣に宝剣の称号がついていてもなんら不思議には思わない。
「こんなの、平民が持てるような剣じゃないぞ……」
「盗んだんじゃないのか。本当にすごい、こんなの初めて見たよ」
剣を返すと、リックはヨダレをこぼさんばかりにみとれて、うっとりと溜め息をもらした。
カデルは気持ちを切り替えて、壁にかかった外套に手を伸ばす。触れてみると、それも持ち主には分不相応に思える手触りの良い極上品だった。内ポケットを見つけ、まさぐってみると、なにか尖ったモノに指先が触れ、カデルは慌てて手を引いた。慎重にそれを取り出してみると、青い宝玉が埋め込まれた装身具のようなものがでてきた。
「これ、勲章だよな」
見せると、リックは目を細めて何度も頷いた。
「形からいって四種しかない翼章じゃないか……間違いない、これとよく似たのを付けた老将軍を見たことがある、色は緑だったけど」
カデルは息をのむ。
「翼章って、それじゃあこの青の勲章は」
「青は王家の色だ、つまりそれはムラクモ王国最高位のものってことになる」
カデルは身体中の血が冷えていく心地に肩をふるわせた。
「冗談だろ、なんであんなやつが──」
外から入る日差しにかざすと、勲章が眩い青の光を反射させた。
不意に、扉の外から人の気配を感じ、カデルとリックは身構えた。
──戻ったのか。
心臓が跳ね、カデルは口をつぐんで緊張に身を固くした。反射的に手にしていた勲章を胸の内にしまい込む。
リックは青ざめた様子で、剣を手にしたままおろおろとしていた。
ゆっくりと開いた扉の先に、見慣れぬ黒髪の女生徒が佇んでいた。その容姿のあまりの美しさにカデルは声を失い、言葉もなく呆然と立ち尽くす。
麗しい女生徒と互いの目が重なった瞬間、彼女の瞳が憤怒の炎で燃え上がった。急に華奢な手をかざしたかとおもうと、直後にカデルの視界のすべてが青で染まった。
重くまとわりつくような青い空気を吸い込むと、肺が縮んでしまったかのような息苦しさを覚え、喉を押さえて膝をつく。
側にいた友を案じる余裕すらなく、カデルは激しく悶絶して床に倒れ、溺れゆくかのように意識を手放した。
*
シュオウが自室で昼食をとろうと思ったのは、ほんの気まぐれだった。旧交を温めるため、アイセやシトリを誘うつもりだったが、一人は老婆の監視下にあり、もう一人はやり残しの仕事に集中していたため、声をかけることが憚られたのだ。
シュオウがこの伝統ある宝玉院に連れ込んだ歩く胃袋は、用意された食事が足りないといって、併設された建物にある調理場に直接乗り込んでいく姿を見たのが最後である。
なんとなく手持ちぶさたをおぼえ、学舎をぶらついていたが、じろじろと遠慮のない視線を送ってくる生徒らが煩わしくなり、シュオウは静かにパンをかじるため、自室に戻ることにしたのだ。
部屋の扉の鍵が回らないことに違和感をおぼえ、一抹の不安と共に勢いよく扉を開いたシュオウは、なかの光景にぎょっとして一歩退いた。
二人の男子生徒が苦悶の表情で横たわり、それを輝士服をまとった男が介抱していて、奥にある寝台には宝玉院の制服を着た女生徒がちょことんと座って足をぶらつかせていた。
扉を開けたシュオウを、女生徒と輝士風の男が見た。男の顔を正面から観察し、シュオウはその人物が顔見知りであることに気づいた。
「もしかして、アマイさん? じゃ、まさか──」
寝台に腰掛けていた女生徒は、この国でもっとも高貴であろう血を継ぐ、王女サーサリアだった。
サーサリアは雪解けの後に咲いた春花のように微笑んだ。
シュオウは慌てて扉をしめる。
「どうも、お元気そうでなによりですよ」
アマイはめがねをくいと上げながら、ほがらかに挨拶をのべる。
「聞きたいことがたくさんあります。まずその二人、死んでるんですか」
アマイの足下で倒れたままぴくりともしない二人の男子生徒を指して聞くと、アマイは彼らの首元に指先をあてた。
「大丈夫ですよ…………たぶん」
どう見ても大丈夫ではなかった。男子生徒らは白目をむいて喉をかきむしったような体勢で硬直していたからだ。よほど苦しんだのか、喉には赤い無数のひっかき傷が残っている。
「なんでこんなことに」
聞きながら、元凶であろうサーサリアを見ると、水色の制服に身を包んだ王女は悪戯を叱られた子供のようにしゅんと俯いた。
「だって、あなたの部屋を荒らしていたから」
保証を求めてアマイを見ると、彼はしっかりと頷いた。
「間違いありませんよ。すでに片付けましたが、我々が訪れたとき、床に荷物がちらばっていましたし、合い鍵も転がっていました。おそらくなんらかの悪意をもって侵入したのでしょう──あ、脈が戻りましたね」
もののついでのように、アマイは二人が命を取り留めたことを告げた。
罪悪感のかけらくらいはあるのか、サーサリアは覗き込んで生徒達の様子を窺った。
「いきて、るの?」
「はい殿下ッ、お見事です!」
サーサリアは照れくさそうに笑ってシュオウを見ながら、
「練習したから」
と誇らしげに言った。
「優秀な家庭教師がついていますからね」
とアマイもまた誇らしげに胸をはった。
感性の著しいズレを感じつつ、シュオウはなんと言えばいいか迷っていた。褒めるべきか、叱るべきか。しかし、立場を思えば後者はあまりに現実離れしている。
反応を待つサーサリアを前にして、ゆっくりと口を開きかけたそのとき、部屋の戸を叩く音がして、心臓が飛び上がった。
扉の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「シュオウ? 私だ、アイセだ。よければ一緒に昼食をどうかとおもって寄ったんだが」
アマイは一差し指を口元へ当てて、サーサリアに口をつぐむよう指示している。
ベッドに座るこの国の王女と、惨い形相で気を失っている男子生徒達という、あまりにもあまりな状況をどう処理するべきか、答えが見つからない。
いっそ居留守をつかうか、などと考えていると、
「いるんだろ? お前がここに入っていくのを見たものがいるんだ」
と追い打ちをかけるような言葉が舞い込んできた。
「もしかして寝てるのか? は、入るぞ……」
ぎい、と音をたてながら扉に隙間が生じた瞬間、シュオウは俊敏な動作でそこに割ってはいり、中に入ろうとしていたアイセを押して、後ろ手でさっと扉を閉じた。扉から距離をおかせるため、そのまま通路の先まで誘導する。
荒くなった呼吸を必死に落ち着けながら、シュオウは生唾を飲み下した。
「シュオウ? いたのか、なんで黙ってたんだ」
「寝てるんだ俺は」
混乱してむちゃくちゃなことを言ったシュオウを、アイセはいぶかる。
「ねてるんだって、起きてるじゃないか」
「ッ……じゃなくて、寝てたんだ、気づくのが遅れた」
アイセはまぶたを半分おとし、首をかしげる。
「そうか……なにか釈然としないな」
「疲れがたまってて、少し眠りたい」
「あ……そう、か」
アイセは一目でわかるほど気を落とした。悲しげな顔がシュオウの罪悪感を刺激する。
「ここへは仕事できているんだし、仕方ないな」
「……すまない」
落ち込んでいたかと思ったアイセが、急に瞳に力を込めた。
「明日の夜、少し時間をつくってくれないか? 家で最近腕の良い菓子職人を雇ったから、夕食を楽しんだあと、とびきりのデザートを一緒に食べたいと、思って」
アイセはいつもと同じような調子でいうが、その実なにげない仕草に不安が表れていた。
「ありがとう、行く、かならず」
心底ほっとしたように笑むアイセをみて、後ろめたさが少しずつ晴れていく心地がした。
じゃあ、と言って去る間際、アイセは照れくさそうに指をあげ、はめてある指輪をシュオウに見せた。それはシュオウが以前に買い求めて贈ったものだった。
「ちゃんとしたお礼をずっと言いたかった。また明日、あらためて」
アイセと別れて部屋に戻ると、二人の気絶した男子生徒は壁際に背を預ける形で体勢を整えられていた。
アマイは部屋の角に佇み、心の読めない微笑をうかべたまま、じっとしている。
サーサリアは戻ったシュオウに駆け寄ろうとして寝台から立ち上がった。が、その体がぐらりと揺れた。
シュオウは咄嗟にサーサリアの手を引いて、華奢な体を抱き寄せた。
「大丈夫か?」
腕のなかで力なくもたれかかってくるサーサリアを心配すると、傍らでじっとしたままアマイが口を開いた。
「ここ数日、まともに眠っておられないのですよ」
「どうして?」
アマイは眉を下げて苦笑しただけだった。
腕のなかでぐったりとしているサーサリアは、顔をあげて虚ろな顔でシュオウを見つめていた。さきほどから寝台に座り通しだったのも、体力の低下で足に力が入らなかったのかもしれない。
アマイは持参した様子のカゴを床から拾い上げた。
「よければサーサリア様とご一緒にお昼にしていただけますか。王都へ戻るまでの間、きちんとした物を口にされていないんですよ。シュオウ君から言っていただければ、私としてもありがたいのですが」
請われ、シュオウはサーサリアに聞く。
「食べる、か?」
サーサリアは即座に頷いた。
「うんッ」
シュオウはサーサリアの願いに応える形で、二人肩を並べて寝台の上で具材を挟んだパン料理にかじりついていた。
視界の片隅には、白目を剥いたままの男子生徒二人の姿があり、サーサリア側の背後には、アマイが静かに佇んでいる。
彼のほうを伺うと、
「私のことはいないものとおもってください」
と笑顔で言われ、シュオウはおおいに戸惑った。
生まれ故か、サーサリアは側に侍る人間を空気のように平然と背負っている。
サーサリアは借りてきた猫のように静かだった。色白な顔が、心なし桜色に熱を帯びているようにみえた。
「その服、どうした」
その問いかけは無礼に過ぎたかもしれない。だが、いまさら殿下、などと気どって話しかける気にもならなかった。
「普段着は目立つからって、用意してもらったの。へんにみえる?」
「いいや、似合ってる」
真実シュオウはそう思っていた。水色の制服に身を包むサーサリアを見て、宝玉院の生徒ではないと疑う者はいないだろう。
シュオウがかぶりついたパンの欠片が敷布の上にころりと落ちた。素早く、サーサリアがそれを拾い上げて口に放り込む。もぐもぐと咀嚼しながら得意げに見上げてくるサーサリアに、シュオウはどう反応をすべきか困惑した。
高い天井の窓から温かい陽光が線を描いて差し込んでいる。部屋のなかに滞留する空気の音が聞こえそうなほど静かだった。
耳に障るほどの静寂をやぶったのはサーサリアだった。手にしていた食事をあらかた腹に収めて、とろんと眠たげな目をしながら、ぴったりと体を預けて肩に頭を乗せてくる。
「会えなかった間、あなたはなにをしていたの。ずっと、南の戦地にいたのでしょ」
シュオウは最後の一口を飲み込んで、腰を落として壁に背を預けた。頭を深くおとし、天井を見上げる。
「色々あった。仲間ができたり、一緒に訓練をしたり、砦の仕事をしたり。あと、はじめて戦争で戦った」
「こわく、なかった?」
なかった──即座にそう言おうとして、しかしシュオウの口からは、吐息しか出てこなかった。
記憶は、前触れもなく去来する。
一所に集まる大勢の人間達。死を覚悟している者がまとう独特な空気と臭い。絶え間なく怒号が飛び交い、風が運ぶのは血と鉄の臭いだけ。
シュオウは差し込む一条の陽光に左手をかざした。
「生きるために戦って、そのためなら誰かを殺すことも平気だと思ってたけど、やっぱり、食べるために動物を狩るのとは違った」
自問し、答えを得る。
「こわかった、すごく」
刃で肉を切り裂く感触、吹き出した血と、泡立つ喉の音。
かざす左手の指が、小刻みに震えた。
サーサリアは両手を挙げてシュオウの手を包み、胸元へ引き寄せる。人肌の心地よさに、シュオウは無意識に止めていた息を吐き出した。
互いに言葉もなく、時がゆっくりと流れていく。やがて、隣から静かな寝息が聞こえてきた。
「疲れておいででしたからね」
頭上からアマイの声がかかり、シュオウは肩をふるわせた。
「いたのを忘れてました」
アマイは壁にかけてあるシュオウの外套を手に取った。
「少しお借りしてもいいですか」
頷くと、アマイは寝息を立てるサーサリアに外套をそっとかけた。
「すいませんでしたね、こちらの都合に振り回してしまって。ここでの生活は、君にとってはあまり心地良いものではないでしょう」
シュオウは左手をサーサリアの手の中に預けたまま、はっとして体を起こした。
「じゃあ、俺がここに配属されたのは──」
アマイは申し訳なさそうな顔をしてみせる。
「私が推薦状を出しました。殿下のためにも、王都に止まっていてほしかったものですから。でも正直に言いますと、ここまであっさりと承認されていたのは意外でしたが」
あまりにも場違いな配属が、サーサリアを想ってのアマイの仕業だったと知り、淀んでいた疑念が浄化されていくようだった。
「なにかとやりにくい事も多いでしょうが、どうか胸をはって堂々としていてください。この人事は筋を通したうえでグエン公が直々に承認したものです。二大公爵家ですら、決定に横やりをいれることはできませんよ」
「俺は、ずっとこのままなんですか」
「望むなら、王室の名の元に全力で掛け合うのですがね」
遠回しに聞かれても、シュオウは返事に窮した。
「今は、なんともいえないです」
アマイは微笑する。
「そうですよね」
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
「長居しすぎましたね、殿下の寄り道もそろそろ限界です。シュオウ君も予定がおありでしょうし、失礼しなければ」
「俺の場合、誰もこない剣術の授業に出て、昼寝をするくらいの予定ですけど」
シュオウは自嘲して笑う。アマイも釣られるように笑みをみせて肩を竦めた。
「ゆっくりとサーサリア様のお相手をして差し上げてほしいのですが、ここではなにかと制約もありますし、一度王宮の殿下のお部屋まで、顔を出していただけますか。時を見て使いの者をやりますので」
アマイの申し出には、断りを許す選択肢が含まれていなかった。シュオウもとくに肯定することもなく、無言を通す。
アマイは眠りこけるサーサリアの体を起こした。
「ここまでして起きないなんて」
呆れ気味に見守りつつ、サーサリアを背負おうとするアマイを手伝った。
「普段の姫殿下は眠りの浅い方ですよ。会いたいという一心で、衰弱するほどの無理を通して王都まで戻ったのです。水晶宮に帰参を報告するより先にここへ立ち寄られたお気持ちを、少しでも汲んであげてください」
サーサリアを背負って、アマイは部屋の扉を開けた。
「ひとつ言い忘れていました。君が一時、敵国の手におちていた事実を殿下は知りません。秘密にしていておいただけると助かります」
首肯して、シュオウは王女を背負うアマイに別れを告げた。
一人きりになった、と一息つきかけていたシュオウは、部屋を見渡して一人で声をあげた。
「どうするんだ、これ」
気を失ったまま放置された二人の男子生徒達を前に、腰に手を当てて呆然と立ち尽くす。
──あいつに運ばせるか。
連れてきた大食漢が、腕力こそを誇りとしていることを都合良く思いだし、シュオウは今現在繰り広げられているであろう凄惨な光景を想像しながら、調理場を目指して静かに部屋を後にした。