3
深夜、アデュレリアの会議室には、殺伐とした空気が漂っていた。
「愚か者、顔を上げよ」
怯えて震える老人へ、アミュは容赦のない言葉を浴びせた。
薬師の老人の所在は簡単に割れた。日常的に市場で商売をしていたのだから、当然といえば当然といえる。すでに王女失踪の事情は聞かされ、その原因の一端が自身が商っていた禁制品と、ジェダ・サーペンティアに伝えた情報にあるかもしれないと知らされた老人は卒倒しそうな勢いで狼狽していた。
周囲をアデュレリア一族の武官や重臣達に囲まれ、老人は平伏したまま、額を床に擦りつけた。
「ご、ごご、ご領主様ッ……氷長石様ッ! なにとぞ、なにとぞご慈悲を……」
アデュレリアの領主アミュは、一領民である老人を睥睨して唾を飛ばした。
「顔を上げよと言うたぞ!」
「はひい!」
余裕なく激昂するアミュを見て、周囲にいる家臣や血族者達も狼狽していた。
年齢、性別、立場を問わず、自身が領民を威圧する事は希だ。弱者に対して意味もなく力を振りかざすという行為を、これまで最も嫌悪してきたのだ。だが、今のこの状況は仁徳ある公爵が常の心がけを忘れるほど切迫していた。
ようやく顔を上げた老人は、みっともなく鼻水を垂らして怯えきっていた。
「禁制品を商っていたようじゃな。よりによって心を腐らせる汚らわしい代物を堂々と我が地で売りさばくとは!」
「で、ですが、扱っていたのは、よく天日干しした後の悪効のないものでして……」
「言い訳は聞かん。その花を買い求めた男に花の採集場所を教えたというが、間違いはないのじゃな」
老人は視線を泳がせながら、
「あ、あのお」
と言葉を詰まらせた。
「違うのか?」
「それが、その、嘘を、申しました。薬を商う者にとっては、薬材の採集場所は食べていくための重要な情報でして……正確な部分は濁して……その、伝えました」
アミュは一枚の地図をひれ伏す老人の前に落とす。
「一言一句、あの者に伝えた内容を説明してもらおう。後であの男にも裏をとるゆえ、嘘は申すな。その後は捜索隊に参加して直接案内をしてもらうぞ」
「は、はぁ……ですが私もその、腰をやってからというもの、あまり山深い所へは行っておりませんで……」
老人は視線を逸らして明瞭な答えをよこさない。その事で、苛立ちはさらに倍増した。
「息子夫婦は王都で薬師業に励んでおるらしいな。そなたの孫はもうすぐ一○になるとか」
老人の顔がさっと青ざめる。
「これより発する言葉、行いのすべてが、貴様の想う者達の命運を握っていると思え」
「アミュ様、温かくて甘いアカ茶です」
カザヒナが、あえて柔らかな態度で接している事がわかる。
「うむ」
熱い茶を小さじ一杯ほど喉に流し、不安げに佇む家臣達を見た。
「笑うがいい。燦光石を有し、大領地の主としてあるこの身が、年老いた領民一人を相手に感情を抑える事ができなんだ」
即座に、居並ぶ者の中から一人が前へ出る。クネカキだ。
「御館様! ここにいる誰が主を笑うというのです。一同現状をよく理解しております」
クネカキの発言に集まっている者達が全員頷いた。
「そうじゃな。取り繕うより先に、今はすべきことをせねばならん。幸いな事に、ユウヒナがもたらした情報と、あの薬師の話を合わせ、王女が襲撃を受けたという場所のおおよその位置は想像できる」
部屋の中央に置かれた縦長の卓にある一枚の地図を指さす。それを追うように、自然と人の輪ができた。
「第十五山道の北外れ、ですか」
カザヒナは地図をなぞりながら言った。
「この身が生まれるより前に、谷間に橋を架けた深界と通じる道があったようじゃが、北からの侵攻があった場合、アデュレリア防衛の脆弱部になると判断されて廃路にされたと聞いた事がある。王女一行がここを進んだという事は、いまだ馬車が通れる程度の道が残っていたという事であろう。まずはここを目指す」
「捜索隊の指揮は私におまかせください」
まっさきに名乗りを上げたのはクネカキだった。経験豊富、冷静さも合わせ持ち武人としての腕はたしかだ。まさに適任ではある、が――
「大所帯の贅肉をかかえた部隊で向かえば、かならず足は鈍る。捜索隊は少数の精鋭を連れて我が直接指揮をとる」
場が一斉にどよめいた。
「なりません! 氷長石様の身に万が一があれば!」
老臣の充血した懇願に満ちた目がこちらを見た。
他の者達も、主君を諫める言葉を口々に吐く。
「重視すべきは王女の命。我はまだ、それを諦めきれておらぬ――」
この場にいる者達の大半が、ユウヒナの話を根拠にすでに王女は事切れていると考えていた。彼らにとっての大事は、この先起こりうる困難に直面した時、必要不可欠である王の石を持つアデュレリア当主の命なのだ。
老いの運命から逃れた身とはいえ、燦光石を持つ者も所詮は人である。狂鬼を前に力で遅れをとる気はさらさらないが、命を失う危険は常に付きまとう。
「アデュレリアの当主自らが捜索に向かったという事実は、後々役に立つかもしれぬ。こちらの必死さを汲んで、誠意であると見てくれる者も出るであろう。またそれを証明するために他家の人間を同行させる」
「それは、もしや……」
アミュは、言ったカザヒナに頷いてみせた。
「ジェダ・サーペンティアを連れて行く」
室内はより一層の喧噪に包まれた。
「この大事に蛇の子を連れていくなど冗談じゃない!」
「それもよりによってご当主様に同行させるなど!」
特に血族の男達のいきり立ち様は凄まじかった。
アデュレリアの者はサーペンティア一族を憎しみを持って嫌悪している。それは向こうも同じで、この構図は長い間、血と共に受け継がれてきた。二家の関係はもはや伝統といってもいい。
アミュは手を二度叩き、皆の注意を引き戻した。
「同行させる相手がサーペンティアであるからこそ価値がある。我ら一族と奴らの仲は国中が知るところ。そのサーペンティアの口であるからこそ、当主自らが王女の捜索に出向いたという話には信用が生まれる。この一件、あの男に責任の一端もあるゆえ、証言を拒むことはすまい」
口々に不満を漏らしていた者達は、それを聞いて押し黙った。まだ損得の計算が及ぶ程度には冷静さを保っている。
「万が一、狂鬼が街中に現れた場合を想定し、守備隊を密に配置する。クネカキは引き続き各門を厳重管理せよ。外からのものは受け入れ、内からは石ころ一つとて外に出すな。王女の生死を把握するまで、中から漏れる情報を完全に封鎖するぞ」
「おう!」
クネカキは威勢よく声をあげた。
続いて、確証が定かではないが、王女が狂鬼の襲撃を受けたと予想される、第二、第三の候補地へ、一族の若い武官達を派遣するよう命令を下した。
「カザヒナ」
「はい」
「当主代行を命ずる。全体の状況判断をして留守中の指揮をとれ」
この言葉は、実質的な後継者の任命と同義であった。これを聞いたアデュレリアの若狼たちは、複雑な感情を見え隠れさせている。
カザヒナは間をあけず、左手を胸に当てて頷いた。
「お引き受け致します。ですが、どうかご無事でお戻りください」
憂いを必死に隠す副官の手をそっと握る。返す言葉は出てこなかった。
*
アデュレリアの領主が率いる第一捜索隊は、夜明けを待たずして出発した。
合計で十二頭の馬が連なって深夜の山道を駆け抜けていく。速度はかなり速い。
捜索隊を指揮するアデュレリア公爵は中央で馬を駆り、前後左右にはぴったりと彼女を守るように男達が壁を作っていた。
アデュレリアの当主が同行者として選んだのは、十人の顔を隠した武人達だった。手甲の石を見るに、それぞれが輝士としての素養を持っているのは間違いないが、ひらひらと軽そうな黒い服や、目以外を覆い隠す妙な頭巾をかぶっているところからしても、堅気の者達でないのは間違いない。
――同類の臭いがする。
先頭を行くジェダ・サーペンティアは、追い立てるように後ろを走る彼らを見てそんな感想を持った。
ジェダはアデュレリア公爵直々に捜索隊への同行を求められた。本来部外者の中でも特に忌み嫌われている一族の自分に同行を、と言った事情は察することができる。この件の証言者として使われるのだろう。
同行に際して、案内役として強制的に連れて行かれる事になった、薬師の老人の守り役としての仕事もついでとして宛がわれた。それ自体に不満はないが、老人を馬に乗せて運ぶ事にはあまり良い気はしなかった。二人乗りの状態では、馬を自在に操る事ができないからだ。
「はぁ……なんでこんな事になったのやら」
ジェダの背で共に馬に揺られる老人が、しんみりと呟いた。
「それは、暗に僕のせいだと言いたいのかな」
「そりゃそうですよ。花を売ってちょっとした土産話を聞かせただけなのに、それがまさか王女様の失踪、なんてとんでもない話に繋がってしまったんですから。聞けば、全部あなたが私の話を吹き込んだのがきっかけだっていうじゃないですか」
「随分と言うじゃないか。元はといえば君が僕に嘘を吹き込んだのが原因だ。ついた嘘の大きさに今更責任転嫁をしているようじゃ、君もたいして良い歳のとり方をしていないな」
「好きなだけ言ってくださいよ。よりによって氷姫様に目をつけられた今となっちゃ、怖いもんなんてありゃしません。あとは精々息子に迷惑かけんように、大人しく言われた通りにするだけです……」
老人は肩を落として力を抜いた。軽そうな頭が馬の歩調に合わせてガクンガクンと揺れている。
「まさか、領民の家族を盾にして脅しをかけているなんて思いもよりませんでしたよ、公爵閣下。見た目にそぐわぬ良い趣味をお持ちで」
馬の蹄が奏でる大きな音に負けないよう、ジェダは後ろを振り返って声をあげた。
「黙れ!」
アデュレリア公爵が怒鳴るのと同時に、周囲に付き添う者達がギロリとこちらを睨んだ。
ジェダと共にこっそりと後ろを振り返っていた老人は、肩を竦めた。
「なんなんです、あの恐い人達は。彩石持ちのようですが、格好からしてとても輝士様とは思えませんが……」
「たぶん、アデュレリアの暗部を担う者達。影狼とかいう部隊の人間だろうね。わざわざ公爵が選んで連れているくらいだから、その中でも彼らは最精鋭と見ていいはずだ」
ジェダの説明に、老人は大袈裟に首を振る。
「あああ! 冗談じゃないですよ、こんな歳になって知りたくもない事が勝手に耳に入ってくる」
「聞いたのは自分じゃないか」
刻々と落ち込みを増していく老人を、ジェダは楽しんで観察していた。彼もどこかでわかっているのだろう、アデュレリア公爵が連れる彼らの仕事が、王女捜索だけではないという事を。
――サーサリア王女の無事が確認できなければ。
横目を後ろへ流す。顔を隠した男達の鋭い眼光は、こちらへ一心に向けられている。
――その時は、精々あがいてやるさ。
ジェダは口元に微笑を貼り付けた。
曲がりくねった道を行き、いくつかの別れ道を吟味しつつ通過した。
道中アデュレリア公爵は、こんな道をよく通る気になったものだと呆れ気味に関心していた。
突然に、風の雰囲気が変わった。
圧力のある風が前方から吹き荒び、その中に混じる臭いに、誰からともなく馬の足を止める。
ジェダは振り返り、アデュレリア公爵に声をかけた。
「この臭い、お気づきでしょう」
公爵は不安気な気持ちを隠そうともせず、自身の唇を噛んだ。
「脳天まで届く異臭。場所の見立てに間違いはなかったか……」
「見にいかいないのですか?」
「みなまで言うな。二名の斥候を出す」
公爵が言うと同時に、黒装束の男達は指先を使った手話を用いて物見役を選んで送り出した。姿を隠し声すら発しない彼らは、なんとも不気味だ。あの趣味の悪い黒装束の中には、それなりに名を馳せた人物も混じっているのではないかと考えた。
送り出された者達は早々に戻り、公爵に耳打ちをした。
「行くぞ」
鈍い声、苦い顔。先にあるモノは、決して心地良いモノではないのだろう。
ジェダを先頭とした一行は、常歩で馬を進めた。
「日の出が近いですな」
老人のその言葉で見渡してみると、確かに少しずつ視界が良くなってきている。
道の両端から伸びる枯れ枝が、あちこちで折れて歪な形になっているのが見てとれた。
進むほどに臭気は濃くなる。
朝陽によって宵闇の世界が浄化され、同時に周囲はゆるやかに薄霧に覆われつつあった。
突風が吹き、ジェダは目を細めた。
突然に開けた空間が現れ、そこには馬や人の死骸が散乱していた。
自分を乗せる黒鹿毛の馬の首には、じんわりと脂汗が滲んでいる。
馬を近くの木に繋ぎ、それぞれに目の前に広がる惨憺たる光景を観察した。
恐る恐る着いてくる老人は、惨い光景を目の当たりにして嘔吐いている。
戦場に出た経験のあるジェダは死体には慣れていたが、転がっている者の何人かは、どうにも様子が普通ではないモノが混じっていた。
髪や服はそのままに、しかし中身がそっくり抜け落ちてしまったかのような死体。人の形をした服があればこんな感じなのかもしれないが、輝石が左手の甲にきちんと残っている所から見ても、コレを元人間だと断定して間違いはなさそうだった。
革手袋をはめて、おかしな死体の感触を確かめた。ぶにぶにとした皮の感触はあるが、中の肉の手応えは一切無い。かろうじて骨の手応えが何カ所かに残っているが、それも完全な状態ではなかった。
「何か、まだ聞いていない情報があるようですね」
額に汗を溜めて光景に見入っていた公爵に聞く。
「サーサリア王女一行は狂鬼に襲われたという。この目で見るまでは、いまいち実感が持てなんだがな」
公爵がそう言うと、汚した口元を拭いていた老人が悲鳴にも似た声をあげた。
「狂鬼!? まさかこんなところで」
「珍しいが、ない話でもないぞ」
そう返事をした公爵も、もはや自分が誰と話しているのか把握していない様子だ。
「狂鬼か、なるほど。恐らく食べたあとの残りカスなのだろうね、コレは」
ジェダは中身のないペラペラの死体を持ち上げて、揺さぶって見せた。公爵や老人はもちろん、ソレを見た無言の武人達もまた、目元に集まった皺が嫌悪と怯えを伺わせる。
――彼らも人の子か。
その様子をしっかりと楽しんだ後、ジェダはペラペラの死体を放り投げた。
「それで、どうするんですか。見たところ王女を乗せていたという馬車は見あたりませんが」
「馬車はその先の崖底へ……落ちたと聞いている」
言った公爵は身動き一つ取ろうとはしない。普段の気勢を思えば別人のように萎れてしまっているが、この先にあるモノによっては、アデュレリア一族は窮地に立たされるだろう。
――無理もないな。
黒装束の武人達は、自ずからはあまり動こうとしない。ぴったりと公爵の周囲に立ち、無言で壁を作っている。
しかたなしに、ジェダは自ら進んで崖底を覗き込んだ。止める者は誰もいない。
「たしかに、半壊した馬車と、輝士達の死体らしき物が見える」
「……そうか」
公爵は未だに指示を出すことなく、微動だにしない。ジェダは立ち上がって手を払いつつ、怯えて腰を抜かした老人を見た。
「この下へ降りる道はあるのかい?」
「あ、あるにはありますが、馬も使えないし、今からじゃ昼を過ぎてしまいますな」
ジェダは一つ息を吐いて公爵と目を合わせた。
「だそうです。じっとしていても意味がないのではないですか」
返事を濁していた公爵に、護衛役の一人が耳打ちをした。
「縄を下ろして直接底に向かう」
そう言った公爵に、ジェダは肩をすくめて聞いた。
「それは僕もですか」
「あたりまえじゃ! 一番に降りてもらおう」
――やれやれ。
ジェダは心中で嘆息した。
縄を使って底へ降りていく作業は、思っていたよりもずっと簡単にすんだ。きちんとした道具が用意されていたおかげもある。
一番最初に下へ降りたジェダは、真っ先に半壊した馬車の中を見た。
公爵は護衛役に背負われて降りてきている。ジェダは彼女が底に辿り着くより前に声をあげた。
「おめでとうございます、閣下。王女の姿は見あたりませんよ」
頭上から、
「ほ、本当か!?」
という余裕のない声が返ってきた。声の調子がいつもより見た目相応に幼く聞こえる。
公爵は底に辿り着くや、まっさきに馬車にかけよって中を見た。
「……いないな」
ほっとする彼女に、ジェダは先に得ていた情報も告げた。
「指揮官の姿も見あたらない。共に逃げたみたいですね」
公爵は、はっとして周囲を見渡す。
「あの者は、シュオウはおらぬか」
「シュオウ? ああ、彼も同行していたのですか」
「あの髪じゃ、死体にまぎれておったならとっくに気づいていたはず。やはり生きておったか」
「王女と共に、フェース重輝士に救い出されたのでしょう」
公爵は首をかすかに振った。
「おそらく逆であろう――」
「は?」
疑問をぶつける前に、公爵は護衛役に指示を飛ばす。
「誰か選んで、これまでの経緯をカザヒナに伝えよ。遺体の回収に関しては指示を仰げ。王女らはここから奥へ逃れたとみて間違いないであろ。残りの人員でさらに行方を追う。案内役が必要ゆえ、薬師の老人もここへ降ろせ」
指示を受けた男が、また手話をつかって上の人間へ指示を伝え始めた。
「野営のための支度はあるのでしょうね」
問うと、公爵はぽかんと口をあけてこちらを見上げた。
「なにを言う……どのような結果であれ、王女の所在を掴めるまで眠る暇など考えてはおらぬ」
ジェダは笑った。
「流石ですね。この件を指揮しているのが私の父であったなら、今頃はまだ本拠地でぬくぬくと酒を入れたグラスを揺すっている頃ですよ」
公爵は怪訝な顔をした。
「我の前で父をあざけるか。まさか、この身に安い世辞が通用するとは思っておらぬであろうな」
「まさか。よく言われるんですけど、僕は世辞で時間を潰すのが得意ではありません。この先王女が無事であればよし、そうでなければ、僕はあなたに殺されるのですか」
公爵は口をつぐんだ。
「沈黙は是、ですか。ご心配なく、今更逃げ出そうなんて考えてはいませんよ」
「今後、状況によって我々一族が進むべき道を決めねばならぬ。いくつかの思い描く未来にそうした選択がないとも言えぬが、すべてが丸く収まる未来も、まだ諦めてはおらん。信じぬかもしれんが、そなたの命など今はどうでもよい」
神妙に言う公爵に、ジェダは聞いた。
「生きているとお考えですか?」
「上のモノと、ここにある死体の中でも捕食された形跡があったのは少数じゃ。つまり狂鬼は腹を満たしていると考えるのは妥当。であれば、すでに目的を遂げて深界に帰っているかもしれん。王女らが狂鬼に追われていないのであれば、生き延びている可能性は十分にある。それに、王女にはおそらくあの者が……シュオウが付いている」
「シュオウ、ですか。あなたほどの方が、一平民の存在に縋っているような言い方をするのですね。あの人間に、それほどの価値があるものでしょうか。彼は輝石を操る力もなければ、輝士としての訓練も受けていないのですよ」
公爵はしばし黙考した後、答えを寄越した。
「人としての素養と、石の色は別であると思っている」
それを聞いたジェダの顔から微笑みが消えた。言った公爵の顔を凝視し、ぼうっと見つめていると彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたか?」
「あ、いえ…………ただ、珍しい考え方だと思っただけです」
「たしかに、彩石は持って生まれた才でありそれはそのまま力であるが、この世で人の持つ力がただの一つであると誰が決めた。石についた色の他にも、人は多くの可能性を秘めておる。生まれだけでその可能性をすべて否定するのは、愚者の思い込みであろう」
言葉によって対峙する少女は、やはり老獪な長老であるのだと確信する。でなければ、堂々と平等を訴えるような思想を吐けるはずがない。人の世では、貴人達にとって石の色は絶対なのだ。そこには地位や名誉、富や権力といった様々な力が内包されている。むろん、より良い未来を勝ち取るための資格もそこに含まれている。
ジェダはあえて戯けた仕草で腹を押さえた。
「少し、腹が減りました」
公爵の顔が呆れた様子になる。
「少しじゃが支度はさせてある。歩きながら食べられる携帯食でよければ用意させよう」
「助かりますよ」
ジェダは再び微笑を浮かべた。咄嗟に出たごまかしの言葉だったが、ここからの徒歩での道行きを考えれば食事をすませておくのも悪くはないだろう。
崖底から伸びる緩やかな坂を上り、その先にある小さな森へ向かった。
おそらく、サーサリア王女達は狂鬼から逃れるために隠れられそうな所を探したはずだ。他に逃げ込むのに適しているような場所がなかったため、勘頼りではあるが、見立てとしてはそれほど的外れではないだろう。
森の中は雪解けが進んでいるようで、うっすら残った積雪も部分的に溶けて暗い色の地面がむき出しになっている箇所もある。
少し歩くと、大した時間もかからず森は途切れた。先には広大な山の景色が広がり、稜線の奥から昇った起きたばかりの太陽は、ようやく仕事を始めようかという頃合いだ。
この辺りは未だに積雪も多く残されている。足跡でもあるのではと期待したが、小量の降雪でもあったのか、それらしい痕跡はなにもなかった。
「ここまで人が休息をとっていた雰囲気はどこにも見えなかった。このあたりに身を落ち着けられそうな場所はないのか」
公爵は薬師の老人にそう聞いた。
老人は古ぼけた地図を取り出し、唸りながら現在地周辺をなぞる。
「そういえば、大昔に山仕事をする者らが使っていた細長い洞窟があったような……」
「どこじゃ! どこにある?」
「たしか、ここからそう離れてはおらんかったと思います、行ってみましょう」
老人はひょいひょいと身軽に歩を進める。先頭を行くジェダを追い越して、皆を先導し始めた。これまでに少しずつ入ってきた情報を元に、どうも薬師の老人はムラクモの王女を救うという使命感を抱いたらしい。
「老体で無理はよくないよ。僕は腰を壊した老人を背負って山歩きをするのはごめんだ」
ジェダが軽口をかけると、老人はひょひょっと笑った。
「たしかに弱りはしましたが、老いたとはいえ、何年もこの山を歩いてきたんです。私にとっちゃ庭を散歩するのと大差ありませんよ」
その言葉に偽りなく、老人は雪で隠れてみえないような場所まで、きちんと歩きやすい道を選んで踏みしめていた。若く健康なジェダですら追いかけるのがやっとの速度で進んで行く。
「ううん、おかしいぞ」
しばらく歩いた後、老人は足を止めて周辺を睨んだ。
「どうした」
公爵が少し不安げに聞く。
「おかしいんです、このあたりまでくれば坂の下に洞窟の入口が見えるはずなんですが」
「見えんのか」
「はい、雪崩でもおきて雪に隠されちまってるかもしれませんな……」
「雪崩、か……他に雨風を凌げそうな場所はないのか?」
老人は首を振る。
「私が知るかぎりは、ございません」
「……手がかりを失った、か」
ジェダは想い悩む公爵に提案する。
「ここから二手に分かれて捜索を続行するのはどうです」
しかし、公爵はそれを即否定した。
「見立てを失った状態で、少人数で捜索を続けるのは効率が悪い。この辺りに陣を設け、人を集めて手当たり次第に探す他ないか……ん?」
公爵は突然言葉を止め、空を見上げた。ジェダや周囲の者達もそれに倣い、辺りを警戒する。
「この音――」
それは羽音だった。近づいてくる重たい震動音と共に、空から真紅の巨大な虫が近づいてくる。
「件の狂鬼か!」
公爵が叫ぶや、武人達が剣を抜いて主の周囲を円状に囲んだ。
紅い狂鬼は滑空して一直線にこちらへ迫り来る。ジェダは咄嗟に輝石の力”晶気”を行使した。
生み出すのは風の刃。思い描くのは世界に一本の線を引く光景。肉眼では確認できないほど精巧な細い風の糸は、極限にまで風刃を圧縮した形でもあった。右手を薙ぎ、風糸を狂鬼に放つ。
――殺った。
放った晶気を気取られた様子はない。ジェダはこの一撃には自信があった。だが、狂鬼は風糸が胴体を真っ二つにしようかという寸前、滑空を止めてこれを躱した。
「さすがは化け物か」
狂鬼は再び降下を始めた。それはほとんど落下といってもいい速度で、地面に追突するかという寸前に羽根を動かして着地の衝撃を和らげる。
紅い狂鬼は黒光りする複眼で睨みをきかし、歯をカチカチと鳴らして威嚇の姿勢を見せている。
ジェダの背後で公爵を守る男達も黙って見てはいなかった。十本の氷柱が狂鬼目掛けて飛んでいく。が、地に足をつけても尚、自在に大地を駆けて、予め予測していたかのようにそのすべてを躱してみせた。
――見えているのか、すべて。
体は動いた。自身が操る風刃を、あえて広く拡散させ周囲の積雪を巻き上げて即席の面紗を作り出す。突然目の前を覆う白のカーテンに目隠しをされれば、こちらの挙動は気取られないはず。ジェダはすかさず、先ほど放った物と同じ鋭く編み上げた風糸を薙ぎ払った。
――手応え、無し。
正面からは虫の断末魔も、身体が崩れ落ちる気配もない。その逆に異様に静かだった。そこで気づく、視界を失ったのはこちらも同じである事を。頭上から剣が吊されているような落ち着かない感覚。白のカーテンの向こうから紅く細長い前足が伸ばされた。
「ちぃッ」
輝石の力で造る晶気の盾、晶壁を貼るだけの余裕はない。咄嗟に身をよじるが、前足の先から伸びる鋭い爪の一撃に右肩の肉を抉られた。生温かい血が腕を伝う。
「一歩下がれ!」
背後からした少女の声に従い、ジェダは後退する。
舞い上げられた雪が消え、紅い狂鬼が悠然と構えてそこに居た。その足元から音もなく突然複数の氷の手が伸びる。氷手は虫の足を絡め取ろうと指先をくねらすが、不意打ちであったにもかかわらず狂鬼は空へ退避しようと羽ばたいた。が、無数に地面から伸びる氷手の一つが、狂鬼の前足を一本掴み捕っていた。囚われた狂鬼は振り払おうと藻掻くが、氷手のほうも根を張ったように微動だにしない。すぐに諦めたのか、狂鬼は逆の前足を使って氷手に握られた部位を自ら斬り落とし、天高く飛翔した。
再び背後から公爵の声がする。
「戻ってくるようならッ」
片方の前足を失った狂鬼は、体液を漏らしながらしばらく滞空していたが、すぐに退避行動を選択する。
背を向けて、高度を上げながら、狂鬼は羽音と共に姿を消した。
ジェダは傷ついた肩を押さえてへたりこんだ。すぐに治療を受けたいところだが、恐怖のあまりに気を失って白眼を剥いて倒れている薬師の老人には期待できない。
――手玉にとられた。
痛みを通り越し、苦い悔しさが心に滲む。どんな相手であれ、真剣勝負には必ず勝利を得てきた。ジェダにとって、相手が狂鬼であったとしても、敗北や引き分けという結果は許容できるものではなかった。
「手ひどくやられたな、ジェダ・サーペンティア。悪名と共に耳に入っていたほどの実力はなかったようだのう」
声の主、アデュレリア公爵を睨みつけて言う。
「あなたのほうこそ! なぜ殺さなかった。あなたならあの虫を仕留められたはずだ」
「相手の出方を見たかったのじゃ。あの狂鬼がどのようにして戦うのかも興味があった」
「結果として、ただ相手を見逃しただけではありませんか」
「逃がしたのじゃ。アレがどの方角に向かうのか把握しておきたかったのでな」
公爵は鮮血が流れるジェダの肩を見て人を呼んだ。
「蛇の子に治療を」
血止めの処置を受けている間も、公爵の話は続く。
「あの狂鬼、相当に賢い部類と見た。こちらをためすような戦い方といい、分が悪いと判断して早々に退散した判断力といい、ただ本能に従って生きている下等な生き物とは格が違う。今回の王女襲撃も偶発的に起こった出来事ではないのかもしれぬ」
「奴らにとっては、あそこで気を失っている老人も、氷長石を持つあなたも同じ生物という存在でしか見ていないはずだ。狂鬼が狙って特定の相手を襲うなんてありえませんよ」
痛みと苛立ちで否定の言を吐き捨てる。幼子のように見える公爵はしゃがんでジェダの顔を覗き込んで言った。
「王女が深夜に突然山奥へ入るという愚行を犯すなど、ありえぬと思った。あったとしても側に仕える者らが諫めぬわけがないと思った。そして狙いすましたかのように人の世界に狂鬼が現れる等、ありえないと思っておった。あるはずがない、という言葉は時に真実を遠ざけ、大いなる失敗を招く。そうした思い込みこそが、あってはならぬと思わんか」
一時も視線をはずさない公爵の言葉に、ジェダは両手をあげて降参の意を示した。
「わかりましたよ。ただそこまで言うからには、氷長石様の考えを聞かせてもらえるのでしょうね」
アデュレリア公爵はしゃがんだまま頷いた。
「あの狂鬼は食料を得るために高地まで乗り込んできたのだと思っておったが、だとしたらその目的はとうに果たされていると考えて間違いない。じゃが、糧として得たはずの輝士や馬の死骸は大半がそのままの状態で放置されておった。あの狂鬼が王女の行方を追っていた我らと鉢合わせになった事と合わせて考えると、奴らの目的は捕食ではなく狩りか捜索であると見たほうが納得がいく。高地を嫌う狂鬼が今までのこのこと滞在している所を見るに、逃げ延びた王女を未だに捜している、と考えるのはそこまで的外れだと思うか?」
ジェダは首を捻った。
「なんともいえませんよ。ただ、なにも手がかりがない現状を思えば、なんらかの取っかかりになるかもしれない」
公爵は笑みを浮かべて頷いた。
「であろう。それに、いま言った考えが正しければ、王女の死は狂鬼共にとっても確認できていないという事になり、我々としても希望が持てる。今はそれがなにより心強い」
アデュレリアの領主は、はにかみながら笑顔を作った。そうしていると、本当に見た目相応の少女に見える。
「我々は伝達役を一人残し、あの狂鬼が逃げた方角へ向かう。少々賭けではあるが手がかりを得られる可能性はある。異存はなかろうな」
ジェダは血止めの処置を受けた肩をすくめて戯けて見せた。
「はじめから僕の答えなど聞く気はないのでしょう」
公爵は立ち上がり、腕を組みながら言った。
「当然じゃ!」
*
狭くくねった細道が続く洞窟の中を、どれほど歩いただろうか。
外の様子がまったくわからないという状況下、すでにここへ入ってからどれだけの時間がすぎたのか、感覚が麻痺しつつある。
頼りになるのは、空腹感と体が覚えているおおまかな時間感覚だけだ。それを頼るなら、今の時刻は夕陽が沈む頃か、月がおぼろにその姿を現している頃のはず。
崖底へ落下する途中に痛めた体は、重傷というほどではないにしろ、今も鈍い痛みを抱えている。
硬い岩肌の上で眠る事で体は休まらないし、まともな食事はすべてサーサリアに渡しているため、自分は時折手に入れる得体の知れない虫や毒々しい色のキノコを、丸薬と一緒に腹に放り込んでいるだけだ。当然、腹は満たされない、どころか多少なり体に取り込まれる毒性のおかげで、目のかすみや手先の震えに耐えている状況だ。
――だけど。
シュオウは思う。この程度の状況は、アマネのしごきに耐えてきた自分にとっては、日常の延長でしかない。
深界のど真ん中に放り込まれ、生き残る事を強要されてきたこれまでの生き方は、こうした状況下で途方もなく役に立つ。だがしかし、そうした時には、いつも一人だったという事を無視する事はできないのだが。
「大丈夫か?」
シュオウは後ろからヨロヨロとついてくるサーサリアに声をかけた。
「うん、平気」
うっすら微笑みを返してくるサーサリア。洞窟の中を共に歩き出してからの、彼女の態度の豹変ぶりには大いに困惑していた。
好意を持たれている事は理解しながらも、彼女から寄せられるそうした感情があまりにも極端だった事が引っかかる。
ここまで歩いてきた地面は、決して平坦ではない。段差が多く、ゴツゴツした岩だらけの部分も多々ある。
小さな湖を越えてから、サーサリアは一つの愚痴もこぼさずに付いてきているが、無理をしているのではないかとふと心配になった。深界を旅したとき、貴族の娘であるアイセが足を痛めていた事を思うと、尚更そう思えた。
「今日はここまでにしておこう」
荷物を降ろして言うと、サーサリアは静かに首肯した。
あくまでも落ち着いた風に寝支度をするが、じつのところ呑気に休憩をとっていられるような状況ではない。唯一の明かりである夜光石は、その数を順調に減らしていき、残りはもう丸一日分あるかないか。たどりつく先もわからない今、明かりを失った時に真っ暗闇の中を手探りで歩くというのは、精神的にも体力的にもこたえるだろう。
側で寝場所を整えたサーサリアに手を差し出す。
「足を見せろ」
「……どうして?」
「長い間歩いてきたから痛めてるんじゃないか。あまり無理をされても後々困る事になる」
「そんなことない、けど」
否定しつつも、サーサリアは靴を脱いで足を差し出した。俯いて少し照れている様子だが、シュオウはおかまいなしに様子を伺う。
「傷はない。綺麗、だな」
言いつつ、足首を捻ってサーサリアの表情を見るが、痛がっている様子は微塵も見せなかった。本人の言葉通り、本当にたいした事はないらしい。
――丈夫な女だ。
ここへ来る前までは、足を気にした様子で歩いていたが、悪路を歩きつつ直ってしまうような負傷だったのだろうか。
一人首を捻りつつも、お荷物の王女様が、やせ我慢をしているわけではないという事は確認でき、ひとまずシュオウは安堵した。これなら背負って歩く心配はしなくていい。
明かりを消し、眠りにつくまでの一間、サーサリアは暗闇の中でしきりに話をしたがった。
育ての親の話や、ムラクモで従士をする事になった経緯、アデュレリア公爵の世話になるきっかけ等に関する質問が立て続けに投げられ、あまり眠くなかった事もあり、シュオウもその一つ一つに真面目に答えていった。
サーサリアは終始楽しげに話を聞いていたが、話題が広がって家族の事に及んだ時、彼女の気勢は露骨に小さくなっていった。
「お父様やお母様に会いたいとは思わない?」
サーサリアのなにげない問いかけに、闇の中で心が震えた。
「……思わなかったといえば嘘になる。けど、物心もついていないような子どもを置き去りにするような人間なら、今更顔も見たくないな」
自分がムラクモという街に一人ぼっちでいた理由については、幼かったため知る事はできない。気がつけば残飯を漁り、誰に頼る事もできないような生活を送っていたのだ。なんらかの理由で否応なしに親とはぐれてしまったのかもしれないが、いつもどこか思い描く想像は負の方向へと傾いていた。
闇の中で、シュオウはそっと眼帯に手を当てる。この顔の醜さが原因で捨てられたのだとしたら、そんな理由で子を捨てるような人間を親と呼ぶ事ができるだろうか。
「そっちはどうなんだ」
底のない闇を落ちていくような思考から逃れるため、シュオウは質問を返した。
「そんなの……」
サーサリアは言葉に詰まり、溜息を吐いた。
――ばかな質問だったな。
会いたくないわけがないだろう。共に親がいない境遇とはいっても、その愛情と温かさを知る彼女と、元より親の声や姿すら知らない自分とでは、抱えている気持ちも、想う事も何もかもが違うのだ。
互いにぶつけあった無神経な問いかけ。だが、世界から隔離されたこの空間の中では、それが許されるような気がした。
「兄姉はいなかったのか? 俺の知っている貴族の娘は、母親の違う兄姉がいると言っていた。貴族なら普通の事だろ」
「お父様は、お母様以外の思い人は作らなかったから」
言ったサーサリアの声はどこか誇らしげにも聞こえた。
「おかしな話だな。ただでさえ少なくなっていたムラクモの王族が、積極的に子供を残そうとしなかったなんて」
「無理矢理に見合いを続けて、思いを結ぶ事ができる相手と作れるだけの子を残していた時代もあったみたいだけど、大昔に、枝葉のように別れる王家の血族者達が、玉座を巡って酷い争いをしたことがあって、それでたくさんの血が流れて、それから、王族は自由な恋愛をして結婚をするようになって、無理に子どもを作らなくなったって聞いた事があるけど」
それが事実であるとすれば、ムラクモの王家がとった手段は大いに失敗であったと断言ができる。なにしろ、その貴重な血を引く人間が、今シュオウの隣で危機的な状況に置かれているサーサリア一人きりになってしまっているのだから。
サーサリアは話を続ける。
「人間に与えられた真実の愛を語り合える機会にはかぎりがあるって、よくお母様が言っていた。実際に、私たちは思いを重ねた相手でなければ子を残すことはできないけど、お母様はそれとも違う意味で言っていたような気がするの。あなたは――」
細く冷たいサーサリアの指が、腕に触れた。
「――あなたには、もうそんな相手がいる……の?」
「俺は……」
言い淀む。出会った女達の中には、自分への好意をはっきりと態度でしめす者もいる。彼女達への自分が抱く感情は、いったいなんなのだろう。そんな自問をし、返事をできずにいると、腕に触れていたサーサリアの手が、しだいに力を込めて握りしめられていった。
「今はそんな事を考えていられるような立場じゃない。自分の家もない、金もないで、誰かと人生を共にする事なんて、無理に決まってるだろ」
強く握られていたサーサリアの手から、ふっと力が抜けた。
「そう……そうなの」
静かだが、はずむような声音。サーサリアはそのままこちらに体を預けてきた。伝わってくる女の柔らかい感触は悪くはない。じんわりと伝わる体温に、すこしほっとする心地がした。
クモカリやジロ、二人の貴族の娘達にシワス砦の同僚達を想う。彼らに言って信じるだろうか。自分のような人間が、お姫様と並んで眠ったなどという話を。
かけあう言葉は消え、二人はどちらからともなく眠りについた。
「よかった」
前方を照らす日差しを見て、シュオウは安堵の溜息を漏らした。
「出口……なの?」
サーサリアは幻でも見ているかのように虚ろな瞳を細める。
「ああ。このあたりに人が出入りしていたような形跡があったから、間違いないとは思っていたけど」
くたびれていた両足に力が戻る。サーサリアの手を引いて、無心で外へ出た。
温かい陽光のまぶしさに手で傘を作る。季節が移り変わる頃を予感させる爽やかな風が吹き、新鮮な山の空気を胸一杯に吸い込んだ。真上に昇った太陽が積もった雪をギラギラと照りつけている。
最後に眠り、目を覚ましてから恐らく半日ほど歩いただろうか。夜光石が尽きる前に、どうにか細道で繋がった洞窟を制覇できたようだ。
最も身近な不安が晴れたおかげで顔が綻ぶが、同行者である王女の表情は不思議と曇ったままだった。
「どうした? あとはここから――」
言いかけ、咄嗟に言葉を切る。聴力より早く訪れた不安感に身構えた。
――くそッ。
耳朶に響く鈍い震動音に、シュオウは心中で毒突いた。
「中に戻る!」
「えッ」
有無をいわさず、サーサリアを腕で抱え上げて、薄暗い洞窟の入口へと駆け込んだ。
サーサリアを抱えたまま、岩場の影からこっそりと空を見上げると、青空の中を悠然と行進する紅い狂鬼が目に入った。
「まだ捜していたのか」
あまりのしつこさに辟易とする。自分達が洞窟の中を彷徨っていた間中、こうしてあちこち巡回して廻っていたのだろうか。以前にした想定通り、アカバチ達の目的がサーサリアだとしたら、この状況は非常にやっかいだ。
アカバチは、周辺をぐるぐると規則正しく飛び回り、しばらくして来た方向とは逆の方角へ飛んでいった
光が届く程度に入口から離れ、抱えていたサーサリアを降ろしたシュオウは、どっかと座り込んだ。
肺に溜まっていた空気を緊張と共にすべて吐き出すと、サーサリアが不安げに聞いてきた。
「ここで助けがくるのを待つ?」
「食料が残り少ない。水だけでもしばらくは耐えられるかもしれないが、消耗との戦いになるな」
「そう」
アデュレリアの領主はとうにこの事態に気づき、それなりに手は打っているはず。しかし、シュオウはすでに事件現場から遠く離れた場所まで来てしまった。この洞窟の反対側の入口はいまだに硬い雪で覆われていて、発見は難しいだろう。
なんら手がかりもない状況で、捜索隊に自分達を見つけてもらおうという考えは、あまりに都合が良い考え方だ。
望みの薄い希望にすがってしまえば、体力だけを消耗し、なんら手を打つこともできない事態を招きかねない。
サーサリアの虚ろな瞳が、淡々とこちらを見つめている。
「少し考える」
言って、シュオウはかかえた膝に顔を埋めた。一人で生き残りを賭けて深界を歩いた際に、よくこの姿勢で眠ったものだ。
結局、シュオウとサーサリアは、この日も洞窟内の冷たく尖った地面の上で床についた。
サーサリアは夢を見ていた。
若く麗しい母と逞しく眉目の整った父。乳母に預けられる事もなく、両親の愛を受け何不自由なく育てられた幼少期の光景が、泡のようにゆらゆらと浮かんでは弾け飛んでいく。
何度も見た夢。その度、サーサリアは思い出を内包した泡を守ろうと必死に手を差し伸べていた。だが、今のサーサリアの華奢な両手は胸の上に置かれている。
それは不思議な感覚だった。
はじけて消えていく数々の思い出を安らかな心で看取る事ができる。二度と手に入らないと思っていたモノ。しかし、今は寛大な気持ちですべての結果を受け入れる事ができる。
「いつからだろう」
夢の中で発した声は、幾重にも反響し、再び自分の中へと戻ってきた。
すべての泡が弾け飛んでしまった後に、どこからともなくふわふわと小さな泡が現れた。その泡だけは弾け飛ぶでもなく、ただサーサリアの前にあって静かに漂っている。サーサリアは、その泡にそっと手を伸ばし、手の平の中に包み込んだ。
「あたたかい」
心の中に、ふと灰色の髪をした風変わりな男の姿が浮かんだ。
――彼は。
偽りなく、ムラクモの王女に接する不思議な男。怯えず、怒り、真実を口にする。死んでしまった両親の他に、そんな態度で自分の前に立てるような人間が、どれほどいただろう。
「いなかった。グエンでさえ……」
長らく王家を見守るあの男。口うるさく注意はするが、どこか気が抜けていたように思う。愛を持って接してもらった記憶などなく、ただただ自分を王女という役柄でしか扱わなかった。
「あの人は違う」
ひさしく感じていなかった、対等に扱われるという感覚。恐れや怯えのない、まっすぐな視線。下心もなく心配をしてくれる声。時にくったくなく笑うあどけない表情。
「会いたい」
彼を思い出すたび、腹の底がそわそわと疼いた。
ここには思い出しかない。すぎてしまったモノ。もう手に入らないモノ。泡のように消えていくだけのモノ。ここには何もない。
閉じた世界に、あの男はいない。
飛び散った泡の残滓は、水たまりのように地面に落ちて揺らめいていた。サーサリアは柄になく地面を蹴って飛び出した。水たまりを飛び越え、後ろを振り返る事なく駆け出していく。
心はすでに、先にあるモノにしか興味がない。
サーサリアの顔には、長らく忘れていた満面の笑みが浮かんでいた。
寝起きにさっと体を起こし、すぐに周囲を見渡す。殺風景な岩肌に囲まれる洞窟の中にいるはずの曇り空のようなあの髪を探した。
「あ、れ……?」
心臓にずきりと痛みが走る。
目を覚まして一番に見たかったあの姿がどこにもない。眠りから覚める度、おはようと声をかけてくれた人の姿がどこにもないのだ。
跳ねるように立ち上がり、体を包んでいる温かい外套を脱ぎ捨てて半狂乱で周囲を探るも、やはりシュオウの姿はどこにもなかった。
――行って、しまった?
鼓動がうるさい。
狂鬼が飛び交う危険な場所に置き去りにされた恐怖より、シュオウが黙って一人で行ってしまったという現実が、千本の矢となって胸に突き刺さった。
洞窟の入口で、サーサリアは途方に暮れてへたり込んだ。
外は静かだ。
頭の中で、なにがいけなかったのかという自問が繰り返される。嫌われないよう、疲れているのも隠して必死について歩いた。言われた事はすべてそれなりにこなしたはずだ。それでも、シュオウは自分を足手まといであると判断したという事なのだろうか。
「いやッ……もう……」
両手で長く伸びた黒髪をかきむしる。忘れていたはずの吐き気やむかつきがぶり返し、目から冷めた涙がこぼれ落ちた。
――みんないなくなる。私の中から消えていってしまう。こんなの、もういや。
サーサリアは考えもなく立ち上がり、ふらふらと外へ出た。
空を見上げ、ぼうっと呟く。
「もういい……」
もとより、生への執着などなかった。ただ生きたいと思わないのと同じように、いままで特別死にたいと考えた事もなかった。しかし、今となってはどうでもいい事だった。自分を守る唯一の男に見捨てられた今となっては、どうしたところで行き着く運命は決まっている。人の世界で誰もがひれふすような権力を持っていても、山の中で一人生きていく術は持っていないのだから。
再びここに狂鬼が現れるのなら、いっそ食われてしまったほうが早く死ねるはず。そうすれば、ようやく手に入れたと思っていたモノが、するりと手からこぼれてしまった悲しみからも解放されるだろう。
縋るような心地で空を見る。あれほど恐怖していた存在を待ち望んでいる自分が可笑しかった。
サーサリアはぐるりと体を回し、周囲に広がる空を見た。その時、洞窟入口の真上あたりの岩陰に、束になって咲く見慣れた花を見つけた。
――あれ、は。
投げやりな心に咲いた一輪の好奇心に誘われて、サーサリアの蒼い瞳はその花に釘付けにされていた。
洞窟から少し山を下った先にある森の中。シュオウは一歩ずつ足場をたしかめるように慎重に歩を進めていた。
積雪は深い所でも足首が少し埋まる程度で、これなら走れないというほどの難はない。周辺は背の高い針葉樹で囲まれ、所々朽ちた大木が倒れて適度な障害を作っていた。
――悪くない。
森の中で小さな崖のように段差になっている落ちくぼんだ地形を見つけ、シュオウは一人頷いた。
早朝、明るくなる前に、シュオウは眠っているサーサリアをそのままにして周辺の地形を把握するために外に出ていた。
一晩中寝ずに、アカバチ達が巡回をしている間隔を計っていたのだ。
実際のところ、アカバチの連携は見事だった。彼らはほぼ同じような間隔を空けて飛んでくるのだ。練度の高い統制された軍隊のような動きに関心しつつも、この包囲網を突破するのはたやすい事ではないことを改めて把握する。
アカバチ達が交代制で見回りをしているかどうかへの確証はなかったが、観察していた所、飛んでくるアカバチの中に前足を欠いた個体がいた事から、シュオウは確信を持った。
つまり、たとえ一体に何かがあったとしても、その事に残りの二匹は気づく事ができるように予定が組まれているのだろう。
一晩悩み、シュオウはいくつかの脱出方法を模索していた。
一つに、彼らの巡回の隙をついて脱出するという手段だ。うまくいけばもっとも安全に逃げる事ができる方法だが、自分の現在地もわからず、この山の地形に不慣れな状況では現実的な案とはいえない。サーサリアを連れての移動となれば尚更だ。
さらに、アデュレリアからの捜索隊を待つという手もあるが、自分達が身を隠す洞窟もいつアカバチ達の捜索の対象になるかわからない。洞窟の入口は幅が広く、巨体の狂鬼が中へ入ってくるだけの余裕は十分にある。ろくに灯りも確保できず、食料もほとんどない今、再び洞窟の奥へ戻るというのも、まるで解決を得ない方法だ。
自然、思考の行き着く先は真っ向勝負という最も単純で、そして最も損害を被る可能性の高い手段だった。しかしすべてが上手く運べば、その分見返りに揺るぎない安全を得る事ができる。
だが、そのためには覚悟と同行者の協力が必要になるだろう。
――話してみよう。
あれだけ虫を怖がっていたサーサリアが、自分の提案に頷いてくれるかどうかは心配だったが、反対されても説得しようと思えるだけの気力はまだ残っていた。
洞窟まで戻ると、サーサリアが入口の近くでうつ伏せに倒れ込んでいた。
シュオウの顔面から血の気が引いていく。
「おいッ!」
駆け寄り、背中に触れると苦しげなうめき声が漏れた。
「う、う……」
「なにがあった?」
見れば、サーサリアの両手の平は傷だらけだ。周辺には季節外れの花が散らばっていて、あちこちに嘔吐物らしきものがある。
ただうめくだけのサーサリアを仰向けに動かすと、口元に一枚の花びらが張り付いていた。
「まさか、食べたのか?」
サーサリアの虚ろな瞳がうっすら開く。
「置いて行かれた、って……」
「それが、どうして花を食べる理由になるんだ…………わけがわからない」
どこから見つけてきたか知らないが、この花には何か特別な効能でもあるのだろう。これだけ手を痛めてまで調達してきたのだから、彼女はそれを知っていたはずだ。
水を用意し口の中をゆすがせる。幸い飲み込んでしまったモノは、ほとんどが吐き出されているようだ。
サーサリアは酷い吐き気に見舞われているようで、何度も嘔吐いていた。
少しでも楽にさせてやろうと、シュオウは自身が背もたれとなって彼女を支え、ハリオから借りた外套を上からかけてやった。
太陽が高く昇る頃になると、ようやくサーサリアも落ち着きをとりもどしていたが、軽く発熱しているようで、かかえている体がじんわりと熱い。
「ここまで一緒に来て、いまさら置いていくわけがないだろ」
責める気持ちに呆れが混じり、シュオウは腕の中のサーサリアにそうこぼした。
「でも、突然いなくなったから……」
苦しそうに、かすれた声でサーサリアは反論した。
「荷物がそのままだっただろ」
「わからない、そんなの……」
「はぁ」
このお姫様の身の回りの世話をしていた人間に、大いなる同情心が芽生えそうだった。ただ世間知らずのわがままな女だと思っていたが、単純に馬鹿なのではないだろうか。
どこか幼稚な所があるのは、彼女が辛い体験をしたその日から、心の成長を止めてしまったせいなのかもしれない、と考えた。
サーサリアはくるりと体を回転させ、顔をシュオウの胸にうずめた。そのまま、めそめそと声をあげて泣きじゃくる。
それにどうしていいかわからず、ただ背中をさする事しかできなかった。
「苦しい思いをしたり、泣いたりできるのは生きているからだ。それすらできなくなった人達のことを、すこしくらい考えてるか」
サーサリアの鳴き声がぴたりと止まる。
「親の愛で生まれ、長い時を学ぶ事に費やして、辛い修練に耐えて鍛えても、死ぬときは一瞬だ。死ねば全部なくなる、苦労や努力は無になるんだ。俺は死にたくない。まだ見たいものも、したいこともたくさんある。だから、生きて帰りたい」
サーサリアに語りかける言葉は、自分への言葉でもあった。
――生きていたい。
人に嘲られながら腐った飯を漁っても、死ぬよりも苦しい修練にあけくれていても、常に自分はこの想いと共にあった。
「お前は、どうなんだ」
その問いに、間を置いてサーサリアは伏せたまま首を振った。
「わからない……」
彼女の肩を支え、強引に顔をあげさせる。
子どものようにくしゃくしゃに歪んだ泣き顔を、強く睨みつけた。
「俺は生きたいんだ。それに、お前も無事に連れて帰りたい。だから、そのために力を貸してくれ。手伝ってほしい事がある」
下唇を噛み、鼻水をこぼしながら涙目で、サーサリアは一度、二度、三度と頷いた。
耳が痛くなるくらい静寂に覆われる山の中で、サーサリアの荒い呼吸音だけがやたらと耳についた。
当然といえばそう。彼女は今、もっとも苦手としている生物を誘き寄せるため、一人無防備に佇んでいるのだ。
周囲は背の高い山々に囲まれ、サーサリアが背負って立つ森は生物の息吹もなくただ静かだ。
温かな日差しが降り注ぐ、途方もなく穏やかな世界。
シュオウは森の中で横倒しにされた大木の影に隠れていた。手にはカナリアの持ち物であった長剣が握られている。
数刻前、シュオウは狂鬼と戦う意思がある事をサーサリアに告げた。一匹ずつを誘き出し、少しでも有利に戦う事が出来る、障害物の多い森に引き込んで戦おうという案だ。
しっかりと休息はとらせたつもりだが、サーサリアは頭痛や微熱を引きずっている状態で、はっきりいってかなり無理をさせている。だがそれとわかっていても、シュオウは強引に彼女の了承を取り付けた。それはなにより、今回のこの遭難は、これから時間との勝負になるという強い予感があったからこそだ。
「きたッ」
空に浮かぶ紅い虫。もう何度も聞いた不快な羽音も、すっかり耳慣れしてしまった。
「おッ………………おぉーい!」
サーサリアは手順通り、手を大きく振って狂鬼の気を惹く。当然、長らく探していたはずの獲物を見つけた狂鬼は即座に滑空の体勢をとった。
――釣れた。
あとは手はず通り、サーサリアが森の中に逃げ込み、シュオウの隠れる大木を跨いで奥まで逃げればいいだけだ。狂鬼が獲物に気を取られてこの大木の上を走り去る瞬間、下から思い切り剣で突き刺せば、死角から勝利を得られるはずだ。
辺りを覆う木々は幾重にも重なり、天然の要害となって飛翔を妨げる。アカバチの持つ特性の中でも一番やっかいな眼の良さは、視界の外からの不意打ちによって脅威ではなくなるだろう。
しかし、なにごとも予定通りにはいかないものだ。
サーサリアはもたもたと足をばたつかせるばかりで、あまりにもその歩みは遅かった。
ほぼ落下する形で狂鬼が舞い降りる。着地した後、即座に足をつかって尋常ではない速度でサーサリアに襲いかかった。
サーサリアはどうにか森の中に逃げ込むが額には玉のような汗が浮かんでいる。視線は明後日の方へ泳ぎ、恐怖に硬直した体は足をもつれさせ、無防備に体は地面に横たわった。
「くそッ」
予定変更だ。勢い良く大木の影から飛び出し、転んだサーサリアを掴み上げて引き上げる。歯をカチカチと鳴らしながら迫り来るアカバチは、寸前までサーサリアがいた地面に、鋭い爪を突き立てた。間一髪である。
呼吸も浅く興奮状態に陥ったサーサリアを抱きかかえ、シュオウは走った。
大木をまたいで飛び、木々の隙間を縫うように走り抜ける。
なにもない場所であれば、アカバチの足に瞬時に追いつかれていたはずだが、ここは入り組んだ森の中だ。事前におおまかな地形を把握していたシュオウにとっては、それが多少有利に働いた。
アカバチは威嚇音を発しながら、障害を避け、小さな木をなぎ倒しながら追ってくる。
シュオウは見覚えのある地点を見つけ、そこでサーサリアを降ろした。
「ここから真っ直ぐ走って逃げろ!」
言った途端、サーサリアは無言で走り出した。それは何か考えを持って動いているような動作ではなく、ただ本能に突き動かされているような、そんな走り方だった。
シュオウは振り向き、剣を抜いた。
すぐ目の前まで追いついてきたアカバチは、一瞬歩みを止めて首を回した。
「やっぱり、狙いはあいつなのか? 理由を聞いたって教えてくれるわけはないよな」
輝士の長剣を両手で構え、長い切っ先を突き出す。
狂鬼は、しかしこちらを無視してサーサリアを追う姿勢を見せた。
一歩前に出された紅い足を、シュオウは剣で思い切り薙ぎ払う。風を切る音。アカバチは寸前で前足を上げ、何事もなかったかのように躱してみせた。
カチカチ、カチカチッと威嚇音が鳴った。
「そうだ、目の前にいるのはお前の敵だ! 獲物まで辿り着きたかったら俺と戦え!」
人語が通じる相手でないことはわかっている。が、言葉は伝わらずとも、挑発する意思は伝わったらしい。アカバチは突如怒りに咆哮をあげ、二本の前足でこちらに襲いかかった。
喉を狙った前足の爪を逸らして躱し、足を狙った二撃目を後ずさりで躱す。
――目が良いのはお互い様。
だが狂鬼は人とは違う。所作に油断はなく、こちらが攻撃を躱してみせたことに驚く様子もなくすぐに次の手に打って出る。尾を腹のほうへくるりと巻いて、槍のように鋭い針を尾の先端からぬるりと突き出した。
伸縮自在な槍の一撃。尾針の先端からは透明な雫が溢れ出ている。獲物を生け捕りにする麻痺毒だろう。
尾針の一撃は強烈で早かった。身体を使って避けるにはあまりに分が悪い。咄嗟に剣を構え、尾針をはじく。凄まじい力に押し負けそうになる寸前、膝を折ってうまく身体を反らしてみせた。
尻餅をついた状態で周囲を見渡すと、あちこちの木につけた目印が見えた。アカバチを相手にするのに適した場所であると、自分でつけた印だ。
身体を曲げて後転し、勢いよく立ち上がる。
刹那、再び尾針の一撃が見舞われた。
――ここだ。
シュオウは大地を這う木の根にわざと足を引っかけ、背中から盛大に転けた。
目に写る世界は緩やかに流れていく。毒液のしたたる尾針が、自分の胸を突く間際、身体はまっすぐ後ろへ倒れて行き、尾針はただ虚空を貫いた。
森のなかにできた小さなくぼみに、シュオウの身体は放り出され、勢いそのままに突進を継続した狂鬼はこちらの頭上を跨ぐような形になる。この時、シュオウは初めてアカバチの視界の外に出た。
「俺の勝ちだ!」
片腕で身体をささえ、無防備に晒されたアカバチの腹を目掛け、カナリアの長剣を突き刺す。勢いを殺し切れていないアカバチは、腹に剣を刺したまま自分からその傷口を大きく広げた。銹びた車輪のような悲鳴が轟き、アカバチは盛大に体液をぶちまけて、そして絶命した。
*
真っ直ぐ逃げろと言われたサーサリアは、愚直なまでにその言葉を実行していた。
もはや自分の考えなど、なにもない。
紅い狂鬼の姿を見た途端、巨大な虫の口の中で苦しみながら死んでいった母の姿が頭に浮かび、冷静さと共に思考力のすべては消え去った。目に写る世界はすべて薄暗い灰色に覆われ、圧倒的な存在感を放つ狂鬼をも同色に塗りつぶした。
サーサリアの脳は、恐怖を呼ぶすべての光景の受け入れを拒否したのだ。空気の臭いも、激しく繰り返される呼吸の音も、なにもわからない。だから、サーサリアは気づいていなかった。狂鬼の羽音が背後から迫っている事に。
森を抜け、寝泊まりしていた洞窟の入口を通り過ぎ、ゴロゴロとした白い岩が転がる平原を駆け抜けた先に、サーサリアは崖っぷちへと辿り着いた。目眩のするような高さ。底から吹き上げてくる風が死出の旅路に誘う手招きのようだ。
太陽は沈みかけ、空はあかね色に染まりつつある。
振り返ると、そこには一匹の巨大な虫がいた。
瞬きも呼吸も忘れ、サーサリアはただその虫を見つめていた。
鋭い爪を備えた前足が持ち上がる。不思議と恐怖はない。
虫の前足が振り下ろされる寸前、突如目の前に男の背中が現れた。途端声が耳に届く。
「何度も呼んだんだぞ!」
シュオウは狂鬼の前足を剣で払いのけ、サーサリアの手を引いて間合いをとった。
輝士の長剣を携え、豪快に身体を動かしてシュオウが狂鬼に立ち向かう。
時にあと一歩の所まで踏み込み、抉るような狂鬼の反撃も軽やかに躱してみせる立ち回りは、荒事にまったく知識のないサーサリアから見ても見事なものだった。
だが形勢は少しずつシュオウにとって悪い方向へと進んでいく。狂鬼の放つ爪の一掻きに押され、変幻自在な尾針の攻撃を剣でいなすのがやっとの状態だ。
シュオウが一瞬の早業で相手を追い詰めたかと思えば、狂鬼は猛烈に羽根を動かして爆発的な風をまき、即座に形勢を立て直す。
――私の、せい?
ここはあまりに開けている。狂鬼にとっては、その巨体を存分に暴れさせる事が出来る最適な場所だ。彼が今、不利な状況で戦っているのは自分のせいなのだろう。きっとまた、なにかをしくじったのだ。
視界はより不鮮明になっていく。
自分にとっては都合の良い逃避。あるがままの現実を受け止めるだけの力すら失ってしまったのか。
「※※ろ!」
彼がなにかを言ったような気がした。だけどわからない、聞こえない。
その時、狂鬼の尾針がシュオウの肩をトン、と突いた。その瞬間に、糸が切れた操り人形のようにシュオウの体が崩れ落ちる。多くの輝士達にしたように、麻痺毒で身体を冒したのだろう。
狂鬼は彼にトドメを刺そうとはしなかった。崩れ落ちたまま微動だにしないシュオウを跨いで、一心不乱にこちらへ向かってくる。
サーサリアは崩れ落ちるように雪の上に腰を下ろす。父や母にしたように、この虫も自分を食べるのだろうか。
音は遮断され、視界はぼんやりと霞んで色すら認識ができない。
サーサリアは自嘲する。幻を見せる花に依存し、あらゆるものから逃げてきた人生だった。たいした努力もしてこなかったが、逃避の果てに、ついに心と体は恐怖を完全に遮断する術を体得したらしい。これを克服と呼んだら、きっと彼は怒るにちがいない。
首を落とし、項垂れる。目を開けている意味はもう感じない。
終わりを待つだけだった。なのに――
「※※※※※※!」
なにも聞こえないはずなのに、何かが聞こえた。人の声。男の声だ。大切な音だ。
「前を見ろ! サーサ!!」
懐かしい響きだった。それが耳に届いた時、世界が突然に広がった。
目に写る灰色の世界が、すべての色を取り戻していく。
美しい白の世界に落ちた一点の紅い染み。狂鬼は今まさに目の前まで迫り来る瞬間だった。
人の世界にあってはならない異物を睥睨する。
サーサリアは左手を前に突き出した。念じる意思はただ一言だけ。
――動くな!
狂鬼が頭から地面に崩れ落ちる。晶気によって生み出した紫色の毒霧が、そのまわりにまとわりついていた。しかし、すぐにサーサリアの呼吸は乱れる。これだけの大きさの相手を殺しきるだけの力は、自分にはないのだ。晶気を操るための努力をなんらしてこなかった今の自分には、ほんの僅かな足止めしかできなかった。
毒霧はしだいに濃さを失っていく。狂鬼はすぐに正常な身体機能を取り戻し、サーサリアの前で両前足を振り上げた。
サーサリアは咄嗟に両手を構えて防御の姿勢を取る。狂鬼を前にしてあまりに無意味な行為ではあったが、それは何より生きたいと心が望んでいる証拠でもあった。
「………………あれ」
狂鬼は前足を振り上げたまま動かない。翳した手の隙間から覗くその身体には、頭がなかった。
そのままの体勢でどさりと横倒れになった狂鬼の後ろで、剣を振り下ろした姿勢のままで固まるシュオウがいた。
「シュオウ!」
「よく、やったな」
シュオウはぎこちなく笑みを作る。だが様子がどこかおかしかった。勝ちを得たはずなのに、剣を振ったままの体勢で指一本動かそうとしない。サーサリアが手を差し伸べようとすると、シュオウは剣を握ったまま、どさりと後ろに倒れ込んでしまった。そこでようやくカナリアの長剣が手から離れた。
思い出す。そもそも彼は身動きがとれないはずなのだ。
即座に駆け寄りシュオウの顔を覗くと、左目から大量に涙が零れていた。
「どうして……?」
シュオウは、にぃと歯をむき出しにする。見える歯はすべて黒く塗りつぶされていた。
「お前に追いつく前にあるだけ全部口に放り込んでおいた。戦ってる最中に少しずつ唾で溶けるから、苦くて死にそうだったよ。あいつに刺された瞬間に全部噛み砕いて飲み込んだから、それからずっと涙が止まらない。でもそのおかげで、ほんの一瞬体を動かせるくらいの効果はあったみたいだ。運が良かった」
どこか大人びた笑みに釣られるように、サーサリアも笑みをつくる。
「だいじょうぶ?」
「じゃ、ないな。もう指一本動かせない。ただ、首から上はかろうじて自由が残ってる。いっそ気を失ったほうがましだったのに」
「でも、生きていられた。あなたのおかげで」
晴れやかな心で言うが、シュオウは苦笑いを浮かべた。
「安心するのは早い」
シュオウは空に向かって顎をしゃくった。その方向を見ると、空を滑る紅い虫の姿があった。
「そんな……」
「最後の一匹を相手にする余力はないな。さっきのあれ、もう使えないのか?」
サーサリアは首を振って答える。
「私の力じゃ、仕留めきれない。できても一瞬の足止めくらい」
「そうか――」
シュオウは固唾を飲み下した。
「――逃げろ、と言っても、どこにも逃げ込めるような場所はないか」
サーサリアは、シュオウの心臓の上に頭を乗せた。
「あっても、あなたを置いて逃げたくない」
その言葉に対しての返事はなかったが、代わりにトクントクンと静かに脈打つ心臓の鼓動が耳に心地良かった。
狂鬼はすでに目前にまで迫っている。
あれほど恐怖を感じていた羽音も、いまではどうでもいいただの鈍い音に聞こえた。
「死にたく、なかった」
彼の言葉が胸に突き刺さる。
――ごめんなさい。
ひさしく考えた事もなかった謝罪の言葉。それは心の中でだけ唱えられた。変わる別の言葉など、今は一切思いつかない。
向かってくる最後の狂鬼は、なぜか前足が一本欠けていた。
空を泳ぐ狂鬼は羽根をたたみ、尾針を突き出してそのまま滑空して向かってくる。一撃でこちらを仕留めようというのだろう。
あと数秒で届こうかという距離になって、狂鬼は突然羽根を広げて速度を落とした。次の瞬間、音も無く現れた四匹の氷の狼達が狂鬼の足に食らいついていく。狂鬼は力一杯羽ばたくが、氷狼達の重さによって少しずつ高度を落としていった。囚われた狂鬼の判断は速かった。自ら四本の足を引き千切る形で氷狼の拘束から逃れ、そのまま脱兎の如く彼方へ逃走して行った。
あとには何も残らない。ただ空と、世界があるのみ。
三匹の紅い狂鬼の襲撃から始まった騒動は、こうして静かに幕を閉じた。
事の顛末を見届けたシュオウは、鈍りかけていた思考でようやく助けが来たことを理解した。眠気に誘われるような感覚を抱え、すでに意識は途切れかけている。
ひょっこりとこちらを覗く見慣れた少女の顔をみて、全身に安堵が染みわたっていく。
「うい、まえん」
すでに、舌にまで毒が浸透しはじめたらしい。
「すまぬ、アデュレリアはそなたに一生の恩ができた」
小さな顔に涙を溜めて、アミュ・アデュレリアが握った手をそっと胸に置いた。
「すぐに薬師をここに呼べ! 容体を見て中継地までこの者を運ぶ。誰でもよい、先行して国一番の医者を用意させておけ!」
アミュはシュオウから離れ、次々と周囲に指示を飛ばしていった。
交代するように、再び見知った顔がこちらを覗く。
――ジェダ・サーペンティア、だったか。
「随分お疲れのご様子だ。ごくろうさま」
上から見下ろすようなジェダの言葉にむかつきを覚える。
「途中森の中で死んだ狂鬼を見たよ。聞かなくても、あれをやったのは君なのだろうね」
ジェダはすぐ近くで頭を失って絶命したアカバチへ視線を送って目を細めた。
「化け物がなぜそう呼ばれているか、知っているかい?」
舌が機能せず、答えることができないシュオウは突拍子もないジェダの質問に対して眉根を寄せて不快感を表明した。
「僕は人の手に負えない相手をそう呼ぶのだと思っている。であれば狂鬼とはまさに化け物と例えるのにうってつけだが、その化け物を生身で屠る君は、いったいなんなのだろうね」
人を舐めるような視線。ジェダはにやついた笑みを貼り付けてくすくすと笑った。
――うるさい。
体が動くなら、首根っこを押さえ込んでやりたかった。
「怒るなよ、褒めてるんだ。それに同情してほしいくらいだよ。おそらく、これから僕は君を担いで山歩きをさせられる。ここまでろくに眠る事もできなかったのにね」
苦笑いで頭をかくジェダの目の下には隈があった。それを見て、シュオウは少し溜飲が下がる思いがした。
目蓋が重い。
サーサリアは無事に保護されただろうか。
ここにアデュレリアの主がいる以上、もう何も心配をする必要はないだろう。
もう、眠ってもいいはずだ。
*
アデュレリア本邸の中庭は、冬の残り香が残していった真新しい雪に覆われていた。
夜の帳が下り、純白の雪はくすんだ闇に溶かされ、天空から降り注ぐ月明かりを受けて銀色に輝いている。
葉の落ちた木々の枝は、するりと抜けていく風に揺られてざわざわと音を立てていた。
「座ってもいい?」
「……ああ」
中庭に置かれた長椅子に腰かけていたシュオウの隣に、サーサリアが座る。その出で立ちは外出着のままだった。
「戻ったんだな」
「うん」
「フェースは、どうだった」
「フェース侯爵は……とても悲しそうだった。謝ったけど、それが娘の仕事だったって。あなたには特に感謝してた。綺麗なまま娘を送ってくれて嬉しいって」
「嬉しい、か」
シュオウは自嘲して顔を歪めた。
「こんな所まで一人で歩いてきていいの?」
「あれから半月もすぎてるんだ。いいかげん体力を戻さないと」
サーサリアは腰を横にずらし、シュオウにぴったりとくっつく。シュオウはすかさず同じように腰をずらし、先ほどと同じくらいの距離を空けた。
同じような事を何度か繰り返し、サーサリアはようやくシュオウを椅子のはじまで追い詰めた。
シュオウが盛大に溜息を漏らす。
サーサリアは、彼の手にそっと触れた。
「無理はしないで」
「……わかってる」
シュオウは言ってそっぽを向いた。
「ねえ――」
サーサリアはシュオウの腕を絡め取り、寄りかかった。
「――もう一度呼んでほしい。あの時みたいに」
シュオウは顔をそらしたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「いやだ」
「どうして? だって、あの時は――」
「あれは、ぼうっとしてたお前の注意を惹くために呼んだだけだ」
サーサリアはしゅんと肩をおとし、唇を尖らせた。
「なら、おまえ……でもいい」
拗ねるように言ったサーサリアに、シュオウが席を立ってひざまずいた。
「邸の中に戻りましょう殿下。このままではお風邪を召してしまいます」
しばしの静寂。
多くの臣下達と同様に振る舞うシュオウを前にして、サーサリアの瞳には少しずつ涙が溜まっていく。しかし、よくよく監察してみれば、シュオウの肩は小刻みに揺れていた。
堪えきれず、シュオウは自分の柄ではないと吹き出した。
「もう……」
溜めた涙を拭いながら、サーサリアはささやかに抗議する。
「冗談だよ。半人前以下のお姫様には、お前でも十分すぎるだろ」
「うん」
シュオウの話し方は冗談めかした調子だったが、サーサリアはその言葉を真摯に受け止めた。
「もう少し、ここにいてもいい?」
「好きなだけ」
シュオウはさっきとは逆側に座った。距離を置くためかと思ったが、そこは風が吹いてくる方角である。
身に染みるような冷たい夜の風は、もうサーサリアには届かなかった。
*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*
あとがきのようなもの
ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。
謹慎編は今回で無事にクライマックスまでの展開を終える事が出来ました。
今回の投稿分は二回に分けてだす予定だったのですが、勢いをつけて読んでもらいたい部分だったのでこういう形になりました。
今後も、長かったり短かったりになると思いますが、なるべくきりの良い部分で区切ろうと思ってます。
謹慎編はラピスの心臓を始めてからの、3つめの大きな節目となりますが
後半の主人公は、ほぼサーサリアだったといっていいくらい出番が多くなりました。
薬に溺れるラリ姫として物語にデビューしたサーサリアは、生まれや過去の経験を含めて、結構ややこしい内面をもった人物像を設定しています。
彼女が主人公に対して抱いた感情は、恋愛の枠を遙かに超えているもので、出会いから短期間の関係だったわりには、とんでもなく重たいです。
例えるなら、長い間砂漠をさまよっていて、餓えと渇きで弱り切っている所に
目の前によく冷えた綺麗な水が出る蛇口が突然現れたような、そんなイメージです。
対する主人公はというと、モンスターと有利に戦うための釣り餌として使えてしまう程度の冷めた感情しか持っていません。
この二人の噛み合わない関係が、後々ストーリーにどう影響してくるのかという部分も、楽しみにしていてください。
次回は謹慎編のまとめとなるエピローグを投稿します。
その後は息抜き編を挟んで、主人公が初めて戦場で活躍する4つめのお話「初陣編」に入ります。
血と汗と野郎共がひしめきあう男臭いお話です。