外伝 【END EPISODE ~終章~】
始まりがあれば終わりが来る。
それは本当に当たり前のことで、どんなものにも避けられない必然だった。
「母さん」
一人の青年が、見た目まだ十代の少女と言っても差し支えない女性をそう呼ぶ。
呼ばれた女性はやや桃色がかったブロンドの欧州人だった。
彼女の年齢が実際には既に還暦を過ぎているという事実を聞いて、一体どれほどの人間が信じるだろう。
「■■■■、悪いけど二人にしてくれないかしら?」
「……うん、わかったよ」
■■■■と呼ばれた青年は特に異を挟むことなく病室を出て行った。
そう、ここは病室だった。
無機質な白い壁紙に大きなベッドがあるだけの、たいしたことは無い病室。
見た目十代の、実際は妙齢の女性は、丸いパイプ椅子に座ってベッドで眠る老人を見つめた。
「才人……」
「……ルイズ、か」
呼ばれて目が覚めたのか、老人は重そうにその瞼を持ち上げた。
老人はもう老い先短いことがわかっていた。
気を抜けばすぐにでも、ここでは無い何処かへ旅立ってしまうような気がしてならない。
「変わらないな、お前は。いつも綺麗で可愛いままだ」
だから少しでも意識をしっかり保とうと、才人と呼ばれた老人は苦しそうにしながらも微笑む。
事実彼は少しの挙動が思いも寄らぬほどの負担になる体になっていた。
「………………で」
普段なら、今までなら彼に誉められればどんなことでも嬉しかった彼女だが、今は素直に喜べない。
「…………ないで」
何故なら、これを最後にもう二度と彼に誉めてもらえなくなるかもしれないからだ。
「……死なないで」
「はは……また無茶な事を言うなあルイズは」
人間には生まれつき寿命というものがある。
いや、人間に限った事ではなく、どんな物にも、それこそ無機物にだって寿命はある。
それを覆すことは、出来はしない。
寿命が無い、もしくは限りなくそれに近い物がある、としたらそれは……、
「……無茶でもなんでもないわ、これまでと同じように、これからを過ごしましょうっていうだけの、極々簡単な事よ」
「簡単、か……、でもな」
「毎日同じベッドで起きて微笑みあって、おはようのキスをして」
「でもな」
「才人さえその気ならそのまま営みを始めたっていいし、偶には会社を休んでおでかけしてもいいわ」
「……でもな」
「ああ、そういえばここのところあのお店のパスタを食べに行ってなかったから食べに行くのもいいわね」
「……ルイズ」
「お昼過ぎはどうしようかしら? 映画でも見に行く? そういえば才人が好きだった映画のリメイクを今やっているのよ」
「ルイズ」
「その後は私が夕飯を作るわ。才人の好物ばかり「ルイズ」……」
決して咎める類のそれではない彼の声は、彼女の息付く暇無い矢継ぎ早の言葉を止めた。
優しげでありながら悲しそうな顔をしている彼は、申し訳なさそうな声色で口を開く。
「ごめんな、もう一緒に居てやれなくて」
それは謝罪の言葉。
彼女を残して一人遠い世界へ旅立ってしまう事になるだろう彼唯一の心残りの言葉。
「……や、いや、才人。そんな事言わないで。貴方はまだまだ死なないわ。死ぬわけ無い」
才人の言葉にルイズは絶望の色濃い顔で縋り付く。
その言葉が幻想であるかのように、幻想であってほしいように。
彼女にとっての全ては彼で、彼無くして世界はありえない。
「ごめんルイズ。本当にごめん。■■■■と▲▲▲▲を頼むな」
「だめ、ダメよ。あの子達だってまだ貴方が必要よ。私にはもっと必要よ!!」
「ごめんな……」
小さくなっていく声にルイズは嫌な予感がして彼の手を必死に掴む。
この手を離せば、彼は“また”手の届かない所へ行ってしまうかもしれない。
「そ、それに才人言ったじゃない。“今度こそ二人の子供を作ろう”って。私だって■■■■と▲▲▲▲は本当の子のように思ってるけど、私はまだ貴方の子を産んでいないのよ」
「は、はは……この歳になっても求められるなんて男冥利に尽きるな」
「まだ、まだいなくなっちゃダメよ。貴方がいなくなったら貴方の子を産めなくなるわ。産んだら才人だってきっともっと子供の成長をみたくなるわ。孤児だった■■■■や▲▲▲▲を引き取って育てて来た時だってあんなにたくさんのことがあったんだもの。二人だって妹か弟が出来るのを楽しみにしているのよ」
「……大分歳の離れた兄弟になっちまうなあ、でも■■■■と▲▲▲▲ならきっとよくしてくれるよなあ」
「う、うんそうよ!! あの二人なら大丈夫!! だから……だから才人」
才人の言葉に僅かにルイズは希望を見出し、
「……ごめんな、約束……守れなくて」
彼の諦めに似た心からの謝罪の言葉が、彼女を絶望へと突き落とす。
いや、頭では理解できている。
人の寿命には限りがあるという理を。
一方で認めたくない。
才人がいなくなるという現実を。
「ごめ……なさい」
口から漏れるのは、謝罪。
何も出来ない無力な自分でごめんなさい。
最後まで我が侭言ってごめんなさい。
それでも諦められなくてごめんなさい。
子供が出来なくてごめんなさい。
言っていない事があって、ごめんなさい。
「わ、わたし……子供……産めなくて」
「別にルイズが悪いわけじゃないさ。それにお前も言ったろ? 俺たちには■■■■と▲▲▲▲という血が繋がっていなくとも子供と呼べる存在が居たじゃないか」
才人は何だそんなこと、と彼女を責めることはしない。
だが、彼女は収まらない。
「ちが、ちがうの。才人には言ってなかったけど……ずっと秘密にしてたけど、私……本当は子供が産めないの。検査ではなんとも無かったけど、自分でわかってるの。私は、才人と……“ヒト”とは子供を作れないって本当はわかってたの」
ぼろぼろと泣きながらルイズは口を開く。
彼女は、“ある事情”から、子を成すことは出来ない体になっていた。
あるいは、“その事情”が今も彼女を若々しい姿そのままにさせているのかもしれない。
才人に子作りの為と言ってはずっと彼を求めてきた。
……自分は子を成せないと理解しながら。
だというのに、今も浅ましく自分は“それ”を武器にして彼を現世に留めようとした。
何と汚い女だろう。
こんな汚い女は才人に嫌われてしまうかもしれない。
でも何を敵に回しても彼にだけは嫌われたくは無かった。
そんな彼女は、
「何だ、そんなことか。とっくに知ってたよ」
いつも彼の一言によって救われる。
「え……?」
「だって、なあ? あれだけその……連日ヤっていて出来ないってのも変だったし……何かあるんだろうなって事くらい気付くって。俺はお前の亭主だぞ?」
呆けたようなルイズに、老人である筈の才人は少年のような照れを見せながら答える。
そんなことはとっくに気付いていたよ、と。
気にする事ないよ、と。
お前は悪くないよ、と。
嫌いにならないよ、と。
「ふぇ……、え……っ!!」
感極まったかのようにルイズはシーツに顔を埋める。
そんな彼女の髪を、才人はシワシワになった手で優しく撫でた。
「……俺なあ、最近夢を見るんだ」
「っく、ひっく……!!」
「どんな夢だと思う? 何とお前の夢だぜ!?」
「……っ!!」
「しかも舞台は魔法の国ときた」
「!?」
「……俺はお前に呼び出された使い魔でな、お前は伝説の魔法使いなんだ」
「ちょ……ちょっと才人……」
「そこでのお前は俺に冷たくてよぉ、泣きそうだったぜ、鞭で虐められるし犬呼ばわりされるし……でも、深いところがやっぱりルイズなんだよなあ」
「ね、ねぇそれって……!?」
「俺はそんなお前がやっぱり好きでさあ、お前の為に戦うんだ」
「才……ううん、“サイ、ト”……?」
「ルイズ、俺は今度はちゃんと、お前を惚れさせられたかなあ?」
「っ!! うん……うん!!」
ニカッと笑う彼の顔は、皺が寄っていようとも、どれだけ苦しそうでも、かつての、彼女の愛した少年のそれそのものだった。
奇跡だと、そう言うのならそうなのだろう。
偶然だと、偶々だと言うのならそうなのだろう。
必然だと、そうなるものだと言うのならそうなのだろう。
それでも、二人はこうして巡り合った。
再開と別れを経験し、本当の意味で再逢した。
例え、それが彼が発し、彼女が最後に聞いた彼の言葉だったとしても、その事実が……“歴史”が変わる事は無い。
それから、実に“十六年”の年月が経過する頃、彼女は自身の血の繋がらない娘と息子に看取られて、夫と同じ場所へ旅立った。
最後の瞬間まで、彼女はその姿が変わることなく、若々しい出で立ちでその生涯を終えた。
一見すると、彼女は死んだのではなくただ止まったってしまったのではないかと思えるほど、それはあっさりとしたものだったと言う。
まるでいつまで“生きる”……いや“動く”という期限があったかのように。
それでも、彼女の最後の十六年は、決して廃れたものではなく、血が繋がっていない子供達に支えられ、最後まで笑って過ごしていた。
その顔は生前、夫に誉められ続けた笑顔であり、彼が好きだと言ってくれた顔だった。
その生涯に、その生き方に、きっと不満は無かった。
そう血の繋がらない彼女の子供達は母の生き様を確信する。
夫愛溢れる彼女はきっと、夫に誇れる生を全うしたと。
そうして────────────────────
時は移り、所は変わる。
まだ夜明けは遠い時間帯、金髪にモノクルを付けたまだ青年と呼ぶに相応しい男が、小さな小さな赤子を抱いていた。
「よくがんばったなカリーヌ、ほらお前に似て可愛い子だ。女の子だそうだぞ」
「まぁ、そうですか」
「名前は、そうだな……うむ、考えてあったうちの一つでこれにしようと思う」
「おや? どんな名前です?」
「うむ、ルイズだ。ルイズ・フランソワーズ」
元気に鳴き声を上げる名前を付けられたばかりの女の子。
その子は必死に窓枠の外、夜闇に浮かぶ“双月”に手を伸ばしていた。
まるでそこに欲しい物があるかのように。
そこに、自分の半身がいるかのように。