外伝1【それからのとある日常】
キィ、とやや古びた蝶番が小さく音を上げる。
同時に蝶番によって扉というその役割を果たしている木の板は僅かに開帳した。
正確には開帳した際に蝶番が軋んだのかもしれない。
フワリとした暖かな風がその開帳した僅かな隙間から扉の奥……室内に流れ込む。
次いでギィ、ギィと床板が小さく撓る音がする。
ギィ、と鳴るたびに黒いソックスが床板に触れる。
正確にはソックスが触れ、そこに重量……体重がかかって床板が撓るのかもしれない。
そのソックスの主は決して重い部類ではないが、必要最低限の重量は要しているので当然と言えば当然のことだ。
それでも極力音を出さないように注意しているのか、ソックス内の足の指先だけで歩くよう心がけ、床と触れる面積を出来る限り減らして体重が乗り切らないようにしていた。
だがその静かな歩みも部屋の隅にあるベッドの傍で止まった。
ベッドの中心は静かに上下している。
それはベッドの上……このシーツの下に眠っている人間が居ることを示していた。
静かなる侵入者はそれを確認するとギシッと音を立てながらベッドに腰掛ける。
今までの隠密に比べれば幾分配慮の欠けた大きな動きだったが、幸か不幸かベッドの住人は眠りの国から醒めることは無かった。
と、腰掛けた侵入者は自らの黒いソックスをおもむろに脱ぎだした。
膝下程まで履いていたそれはそれなりに長く、侵入者が女性で在ることを窺わせる。
細くミルク色の肌をした指がスラリと踵までソックスを下げ、次いで爪先から一気に引き抜いてその綺麗な足を露わにした。
同様にもう片方の足のソックスも脱ぎ、先程歩いてきた床板……フローリングの上に無造作に投げ捨てた。
ソックスを脱ぎ捨てた侵入者は流麗な手つきでそのまま上着のボタンに手をかけ、その下にある真っ白なブラウスを外気に晒した。
微塵も躊躇い無いその指は、侵入者の胸元から段々下降しスカートにまで伸びて、止まる。
何かを考えているかのような僅かな間。
「……スカートは穿いたままの方がいいかも」
無音に徹していた侵入者が、初めて口を開く。
高いソプラノ調の声のそれは、侵入者がやはり女性……それも服装から高校生程度の少女である事を示していた。
侵入者の少女はスカートまで伸ばしていた手を、目標を変えてシーツに伸ばす。
そのままシーツをゆっくり静かに持ち上げて、自らの体をシーツの中……ベッドの住人の世界へとさらに侵入した。
「ん、はぁ……」
侵入者は小さい吐息を漏らす。
シーツの中に侵入した途端、濃厚な“自分ではない匂い”を感じて、鼻一杯にそれを吸い込む。
侵入者の鼻の中一杯に広がるそれは、すぐに侵入者を恍惚へと導いていった。
どんな香水でも麻薬でもたどり着けない、甘い香りの依存臭。
侵入者にとって、例えるならそこはそんな匂いの発生源だった。
スゥ、とまた鼻から息を吸い、また吸い、さらに吸う。
吐き出すのがもったいないとばかりに吸ってばかりになり、シーツの中という事もあって軽く酸欠状態になった所でやむなく少し吐き出す。
もし生物が呼吸するのに“放出する”という工程を必ずしも必要としないなら、彼女はここで吸った匂い付の空気を僅かたりとも吐き出しはしなかっただろう。
吸って吸って吸って、ただこの匂いと空気を吸えればそれだけで良い。
吐き出す必要性を侵入者の少女は微塵も感じなかった。
侵入者の少女はせめて出来る限り吸収しようと鼻を鳴らしながらその匂いの発生源により近づいていく。
もとよりシングルベッドのシーツの中、さほど動くことも無く発生源……眠っている住人には触れられた。
眠っている住人は未だ眠りの国から醒めないのか、規則的に胸を上下させるに留まっていた。
侵入者が笑った、ような気がした。
部屋はカーテンが閉じている為に暗く、表情の判別などどう付かない。
だというのに、確かに少女は笑った。
「サーイトー!!」
突如、侵入者の少女は大きな声で眠っていた住人、この部屋の主である平賀才人の名を呼ぶと彼にのし掛かった。
のし掛かった、とは言っても体重を乗せるようなものではなく、ただ覆い被さったというそれに近いものだったが。
「のわっ!? ちょっ!? な、ルイズ!?」
自身の胸に重みを感じた才人は急速に覚醒する。
慌てて胸の上を見れば白いブラウスにスカート、そして素足の少女が自分に跨っていた。
「また勝手に入ってきたな!? いい加減起こすなら普通に起こしてくれよ!!」
「ええー? 普通に起こしてるわよー? だって今日はキスしてないしー、舐めてないしー、『アソコ』を触ってもいないしー、今日は“匂いを嗅いだだけ”だしー」
ルイズと呼ばれた侵入者の少女がその細い指を一つ一つ折りながら鼻高々に説明する。
その説明に才人は盛大に顔を紅くした。
キスはまだ良いとして(良くないけど)舐めるって何処を? 『アソコ』って何処? 匂いを嗅いだ“だけ”ってなんだ“だけ”って。
そんな慌てた思考で脳を埋め尽くされながら才人は無理矢理起きあがる。
「きゃっ」
そうなれば当然、彼の上に乗っていたルイズは体勢を崩し、スカートがめくれる。
才人はそれを目の当たりにしてしまって、固まる。
その思考は目前の視覚によってもたらされた情報、『今日は青の縞パンツ』で統一され、
「んもう、才人のエッチ♪ そんなに焦らなくてもいいのに」
すぐに茶目っ気たっぷりの笑顔で我に返って慌ててルイズを着替えさせ、自分も着替えを始める。
それが彼女、フランスからの留学生、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと知り合ってからの平賀才人の日常だった。
***
「あれほど勝手に入ってくるなって言っただろ?」
ルイズの「着替えさせてア・ゲ・ル・♪」というふざけた朝の決まり文句を切って捨てた才人は着替えをさっさと済ませて家を出た。
彼女との付き合いはそれなりな期間になるが、それでもこの突拍子もない突然のスキンシップには閉口してしまう。
「でも才人、最近は鍵かけなくなったじゃない。それつまり、もうOKってことでしょ?」
「……いや、鍵の意味が無いようだからかけるのも面倒になっただけだって」
彼女は鍵をかけていようがいまいが、部屋に侵入してきてしまう。
一体どうやって鍵を開けているのかは謎だが、彼女曰く日本の鍵なら電子ロックでもない限り開けられる自信があるらしい。
一度何かの“棒”のような物を振っているところを見たことがあるが、あんなもので鍵が開くはずがないので、その特技は未だ謎に包まれたままだったりする。
まぁ大方、母親とグルになって合い鍵でも手に入れているのだろうとアタリは付けてはいるが。
とにもかくにもそうして侵入してきた彼女はその侵入難度が高くなればなるほど過激なアプローチをして来る。
自分とて年頃の男であり、“そういった”事に興味は津々だが、向こうから無防備を通り越して誘惑されるとやや躊躇ってしまう。
別段彼女が嫌いなわけではないし、見るからにブサイクというわけでもない。
背はやや低く、体の起伏も平均よりは下というレベルではあるが、それを補ってあまりある腰の細さと綺麗な顔立ちが全てをカバーしている。
むしろカバーどころか補ってあまりある、“美人”と呼ぶに相応しい程のそれで、学校でも彼女の人気は高い。
そんな彼女が自分にとんでもないほどの『好意』という名の『行為』を向けてくれるのは嬉しくもあり複雑でもある。
彼女の『好意』から来る『行為』に、自分はどれだけ真摯でいられるかわからない。
彼女が向けてくれるだけの『好意』を、自分は彼女に『行為』という『好意』で返しきれるかという不安と、返しきりたいという欲望が彼の中には渦巻いている。
白状するなら、才人は間違いなくルイズの事が好きだ。
自分に尽くしてくれる美少女を、どう嫌えというのだろうか。
相手が自分を好きでいてくれればいてくれるほど、自分も相手を好きでいたいと思う。
だが、彼女の『行為』の『好意』を受け入れるには、“覚悟”が必要だった。
「何考えてるの?」
「え? いや別にたいしたことじゃないよ」
「もしかしてまた一年の佐々木って子のこと? それとも同じくクラスのティファニアかしら?」
スゥ、と彼女の瞳から先程までの溢れんばかりの輝きが消え失せていく。
瞳の奥の奥、真っ黒なそれしか映さない瞳孔が開ききったかのようなその目は、才人に身震いを起こさせる。
「違う違う!! シエスタの事はこの間説明したろうが!! テファだって相手がいるんだから!!」
「……そう? ならいいけど」
フッとルイズの目が元に戻る。
同時に才人はホッと胸を撫で下ろした。
彼女は異様に嫉妬深かった。
ルイズ以外の女の影……どころか親密すぎる男友達でさえ彼女の嫉妬のレーダーには探知される。
これが偏にサイトがルイズに“まだ”傾倒出来ない理由だった。
例えば才人が歩いていて『あ、あの女の人綺麗』と言ったり思ったりした時、彼女のレーダーはその機微を遺憾なく察知し先のような表情になる。
彼女は全てにおいて才人優先で、才人以外に眼中が無い。
加えて、彼女は独占欲よりも“被独占欲”が強かった。
才人を独占したいという思いは強いが、それよりもさらに才人に自分の全てを独占して欲しいと思っていた。
彼女の中では彼が全てにおいて優先される。
だが、そこに“他の存在”が入り込む事を良しとは思わない。
彼には“自分だけ”を独占して欲しいのだ。
才人には、何となくそんな彼女の考えがわかっていた。
わかってはいたが自分はお年頃。
ついつい目移りしてしまうのは仕方がないことと言えた。
先程言われた“巨乳”の佐々木シエスタ然り、ルイズと同じく留学生の“爆乳”のティファニア然り。
だから、いずれ“彼女だけ”を見るという“覚悟”を決めるまでは、彼女の『好意』は受けられても『行為』は受けられないと決めていた。
「ん? 何? どうかした?」
いつの間にかルイズの横顔を見つめていた才人は、ルイズの不思議そうな顔に苦笑して、いつかその日は必ず来るんだろうなあと胸の奥に本心を仕舞う。
「いーや、何でもないさ」
***
学校というものは総じて退屈である。
学生である以上勉学に励まなくてはならないという一般論は無論理解しているが、授業を聞いていると眠くなるのもわかりきったお約束の一つだろう。
それでも教室内に響く鐘の音が授業の終わりを告げれば、不思議なことに眠気は吹っ飛びお昼休みという名の学校生活における一滴のオアシスタイムへと変貌する。
「才人、今日はどうするんだい?」
癖の無い金髪の少年が、ややキツイ香水の匂いを振りまきながら才人へと声をかけてくる。
その髪は決して世の中に反抗したい現れのそれではなく、地毛のそれであった。
「おうギーシュか、今日は弁当がある、と思う」
ギーシュ、と呼ばれた彼もまた留学生の一人で、才人とは気の置けない仲だった。
才人の通う学校は半数は留学生という海外交流盛んな学校で、逆にこちらからも交換留学生として向こうに行っている生徒も少なくない。
この学校に入学する大半の学生はその海外交流目当てが多いのだが、才人はただ単に家が近いからというそれだけの理由だったりする。
「そうかい、“今日も”なワケだ」
「ウルセー」
いやらしげな笑みを浮かべたギーシュに才人は頬を赤く染めて視線を逸らした。
彼とは入学後、良く食事を一緒に摂る間柄だったのだが、それも最近ではめっきりと減ってしまった。
その理由は偏に、
「はい邪魔」
突如として現れるピンクブロンドの少女、今朝も一緒に登校してきたルイズが才人のお昼タイムを独占するからに外ならない。
彼女はお手製のお弁当を毎日作って才人の元へとやってくる。
クラスが違う為にギーシュの方が先手こそ打てるが、そのまま彼を連れて行った日には彼は暗い夜道を歩くことは叶わなくなってしまう。
嘘でも誇張でも無くそうなった人間がいるし、ギーシュも何度かその被害には遭っているのだ。
それでも彼は才人との友達付き合いそのものを止める気は無いらしく、こうしていつも声をかけてくれる。
それが才人には有り難かった。
ルイズは人気が高い。
そんなルイズが好きだと公言して憚らない自分はそうたいした人間ではないと才人は自負している。
それはルイズを覗いて自他共の周囲共通認識に外ならず、それによって僻みも生まれる。
『何で平賀なんかと』
『見せつけてくれるぜ』
『もげろバカップル』
『あのルイズって娘媚びすぎじゃない?』
『ルイズさんて何か近寄り難いのよね』
と、様々な良くない噂や風潮も立っていて、才人にはやや居心地の悪さを感じる事がある。
決して陰湿なイジメのようなものがあるわけではない上、半数が外国人なのも手伝ってさほど気にしたレベルまでいっていないのは幸いだが、ルイズは特に孤立しているように感じられた。
才人は自分の事を好きだと言ってくれる彼女が孤立しているのをどうしても放っておけず、学校では彼女の味方でいることにし、結果才人もやや孤立するハメにはなったもののギーシュを始め外人の多くはそんな才人にむしろ好意的に接してくれた。
そうして現状のような勢力バランスが生まれたのだ。
最も一応の勢力図のようなものがある、というだけでさほどそれも意識されてはいない。
大まかに言うなら、という程度のものである。
「うわっと、彼女のおでましだね。僕はもう行くとするよ。あ、そうだ才人、今度また祖国の“おみやげ”を持ってくるから楽しみにしていたまえ」
ルイズの登場に長居は無用だと悟ったギーシュは片手を振りながらその場を去っていく。
その背中を見ながら才人は彼の口にした“おみやげ”の内容を夢想した。
日本では手に入らない海外製の“それ”はこちらの物とはレヴェルが違う。
その為才人はそれの文字を読むためだけに英語を必死に勉強し、それが幸じて英語の成績だけは良いという不純から来る努力の副産物が生まれた程だ。
最近全ての“ブツ”をルイズに見つけられ没収された身としては上質な“それ”の補充の目処がたったのは有り難い。
有り難いが、
「ふぅん、“おみやげ”ねぇ……」
「っ!!」
ルイズの視線がじぃっとこちらを射抜いているのは大変宜しく無い。
この後、ギーシュが闇夜に襲撃される事件が起きるが、それは余談である。
ついでに、その怪我が思ったよりも酷く、わざわざ日本留学にまで付いてきた香水好きの彼の彼女が付きっきりでの看病をしたのも余談である。
ちなみに、彼女が看病と称して持ってきた物は一つ、“ノコギリ”だけだったとか。
***
放課後を報せる鐘の音が鳴ると、頭頂部が寂しい教師は教科書を閉じて号令をかけ授業を終わらせる。
それと同時に今さっきの授業で説明していた内容を質問しようと女生徒が数人教師に近づいた。
「……先生、こことここ」
やや蒼みがかった髪をした背が低めの子は教科書とノートを一緒に見せ、質問を開始する。
この先生は教え子にも人気が高かった。
見た目こそ禿げかかっている中年にさしかかった男だが(本人曰く禿げではない!!)その授業内容と授業方法、真摯な生徒との付き合い方から彼は誰からも尊敬されていた。
「先生、その質問の回答が終わったら私と出かけませんこと?」
もっとも、中には彼を一人の男性として誘う女生徒もいたが。
赤茶けたロングヘアーに高校生にしてはダイナマイトボディ過ぎるその女生徒は、彼の腕を取って自身の体を使った誘惑を開始する。
「……まだ。この問題も」
小柄で背の小さい眼鏡の子は質問中に先生を連れて行かれたくないのか、はたまた彼女に先生を取られたくないのか、必死に食い下がって難しそうな文を先生に見せつける。
「これは……まだまだ先にやる予定の分野ですよ? それとミス・ツェルプストー、私はこの後もやらねばならない仕事が残っていますので」
苦笑しながら教師は二人を優しく諫め、他の生徒の質問にも答えていく。
教師にとって生徒は皆平等で、力になりたいと思う相手達だった。
一人一人丁寧に対応し、さぁこれで終わりだと教室を出ようとした時、目の前の扉がガラリと開いた。
「お、おと、おとうさ……禿げ教師!! 今日はアンタが食事当番だからな!! 忘れるなよ!!」
そこには上級生の女生徒がいた。
「あ、アニエス先輩だ!!」
その女性の登場に女生徒の黄色い声が上がる。
がっちりとした体格ながらも女性らしさを決して失っていないアニエスと呼ばれた上級生は学校内で知らない人間はいないほどの有名人だった。
特定の部活には入っていないがいつも体を鍛えていて、助っ人で部活に参加すれば度々大活躍し、勉学も成績優秀、顔立ちも悪くなく面倒見の良い彼女はまさに女性の間で神格化されていた。
男子はその容姿と気っ風の良さからもちろんのことだが、女子の中にはアニエスお姉様などと呼ぶ連中もいるくらいでむしろ女性人気の高い人物だった。
そんな彼女は幼い頃に両親を亡くし、まだ若かった目の前にいる教師が彼女を引き取ることによって法律上親子となっていた
「うわっ!? ここもか!! い、良いか!? 言ったからな!! 今日は速く帰って来いよ!!」
「はいはいわかりましたよ、ですがアニエス。学校では極力家庭内事情は持ち出さないようにと言ったでしょう? あと私は禿げではありません」
「う、う、ウルサイ!! 約束したからな!!」
アニエスは集まりだした取り巻きから逃げるように教室を離れ、取り巻き達の幾分かは彼女を追いかけ教室から消えた。
そんなアニエスの後ろ姿を見て、教師は変わったものだと微笑み今度こそ教室を出る。
「才人ー? 授業終わってるよー?」
背後から、そんな女生徒の声を聞きながら。
***
「ねぇ才人、帰りに“ガリア”に寄っていかない?」
「“ガリア”? 何か欲しい物でもあるのか?」
「まあね」
授業を終えた才人は、ルイズに“ガリア”への寄り道を誘われた。
“ガリア”とは多国籍に渡る大型百貨店でそこへいけばたいていの物は手に入ると言われるほどテナントも商品も豊富なデパートだった。
別段彼女が寄り道しようと誘って来ることは珍しくないが、“ガリア”へ寄り道しようと言うのは初めてだった。
「何を買うんだ?」
「お姉様の結婚祝いよ。本当に結婚するのかわからないけどお姉様は用意しときなさい!! ってうるさいし」
「結婚!? あの人とうとう先生を射止めたのか!?」
「まだよ、でもお姉様はきっと周りから固めて行くつもりなのよ」
「怖えー、女って怖えー」
「あら才人、女は好きな相手の為なら時に悪魔に魂を売るのよ? 例えばその代償がどんなものでも……“ヒト”じゃなくなったとしてもね」
「お前が言うと冗談に聞こえないぞ」
才人が肩をぶるると震わせて笑う。
ルイズはそんな才人を見て笑った。
「そう? じゃあ冗談じゃないのかもしれないわね」
そんな女の怖い一面の話をされながら二人はガリアへと向かう。
歩いても行くことは可能だが駅前にある為、徒歩ではやや時間がかかりすぎる。
そこで二人はバスに乗って駅前まで向かう事にした。
バス内は存外人が多く、空いている席は一つだけだった。
当然才人はルイズに座るよう促すがルイズは中々首を縦に振らない。
一人だけ座るのは納得いかないらしいがかといって女に立たせて男が座っているのは才人も許容できない。
それなら、とルイズが才人の膝の上に座るという案も即刻却下し、二人がどちらも譲らぬ工房を繰り広げているうちに次のバス停でおばあさんが一人乗り込んできた。
これ幸いとばかりにルイズはおばあさんに席を促し、自分たちのどちらかが座らなくてはならないという状況を打開する。
それ自体は才人も口を挟むつもりは無く、おばあさんの「ありがとうね、初々しいカップルさんや」という言葉も恥ずかしくはあったが素直に受け取れる。
が、ルイズは座れなくなったからと才人の胸に体を寄せて密着させる。
おい!! と小声で抗議するも、返って来るのは他に掴まるところが無いという正論ばかり。
確かにつり革も余ってはおらず、才人自身が掴んでいるのが唯一のライフラインとなっている。
こんなことなら出入り口付近の棒にでも掴まっていれば良かった、と顔を赤らめながら才人は鼻腔をくすぐるルイズの髪の匂いにドギマギしながら思っていた。
ルイズは無論満面の笑みで才人の胸に体重を預けて、口端を釣り上げていた。
その顔は丁度才人からは死角になっていて見えないが、『計画通り』と物語っているようにも見えた。
バスに揺られること数十分、バスは目的地に無事終着した。
ここからは歩いて五分とかからない。
ルイズは調子に乗ってそのまま才人の腕に絡みつきながら歩く。
これは正直かなり恥ずかしいが、周りには似たようなカップルがいないこともないので、才人は不満そうな声を上げるに留め、無理にほどこうとはしない。
才人にとっても、恥ずかしくはあるが嬉しくもあるのは間違いないのだ。
そうして歩いた先のガリアへの入り口からすうっと上を見上げる。
「やっぱ何度来てもでかいよなあ」
「そうね、イギリスも同じようなものだったわ」
“ガリア”は多国籍であり、世界中のあちこちに支店を置く大会社だった。
「儲かってんだろうなー」
「でしょうねぇ」
「でもさ、そんなに儲かってたら社長の息子とか娘とか誘拐されそうになったりしねーのかな? ほら、身代金目当てで」
「どうかしら? 少なくともあの子はそう簡単に拉致されるような子じゃないと思うわ」
「あの子?」
「あれ? 才人知らなかったの? それだけ私の情報が才人の中で占められているのね♪」
ルイズは感激、とばかりに才人の腕に頬を擦りつけて喜びを露わにする。
が、才人には何のことだかわからない。
「ほら、タバサって子いるでしょ? あの子ガリアの副社長の娘よ」
「マジ!? すげぇな、こういうの何て言うんだっけ? えっと、御曹司? じゃない……セレブ?」
才人の驚きようと出てきた発想にルイズは笑みを零す。
無邪気でいて裏表の無い、素直な才人の一挙一動はルイズの胸の中を常に暖かくしてくれる。
首を少し傾ければ彼の匂いが、体温が、彼自身が感じられる。
それがまた彼女の胸の裡を満たしてくれる。
ずっとこうしていたい衝動にかられるが、立ち止まっていると他の客の邪魔になってしまう。
案の定睨み付けてくる客もいるようだ。
が、自分はともかく才人に敵意を向けるとは良い度胸だ。
くいっと腕を引かれた才人は、ああ入るのかと何にも考えずに付いていき、
「ぎゃっ!?」
誰かの奇声を雑踏の中に聞いた。
最近名も顔も知らぬ人の奇声をよく聞くなあ、とぼんやり才人は思いながら、引っぱられるがまま群衆の中に身を投じた。
広いガリア店内には無数のテナントが乱立している。
売上が多く人気のある店は面積がそれなりに多く、逆に人気の無い店の販売スペースは極端に少ない。
「聞いた話によると週ごとの売上高によってガリアがテナントのエリアスペースの広さを変えるんだって。一定以下になったらスペースも取れないから立ち退きになるそうよ」
ガリア内はテナントの競争こそ激しいが中は多国籍化なだけあって幅広いジャンルがある。
どこのガリアにもあるテナントエリアとその地域ならではのテナントエリアの層に分かれ、地元の客も他所からの客も退屈させない仕様が取られていた。
「でもこんだけあっても全部回るのメンドイよなあ、俺なんて知ってる店3~4軒しかいかないし」
「そう? 私は才人と一緒に回るなら何千軒回っても飽きないと思うわ」
「何千軒って……流石に疲れるだろ」
「才人と一緒なら大丈夫よ」
「そうですか……」
才人は真っ直ぐな目のルイズに脱力したように肩を落とす。
ルイズは心配げな顔をするが、これはただの照れ隠しの一種なので放っておいて欲しいと内心思う才人だった。
二人はそんなやり取りをしながら目的もなくブラブラと歩く。
競争激しいガリア内各店の店員は呼び込みも必死で、活気が溢れている。
「よっ、そこのカップル!! どうだい可愛い彼女の為に服でも買ってあげないかい? 今なら20%引きセール中だ」
「そこの冴えない君、そんな汚い靴では彼女に嫌われるぞ!! うちの靴は今30%引きセール中だ」
「あらそこお嬢さん、隣のぼーっとした彼氏に綺麗になった自分見て貰いたくない? 今日は化粧水が安いのよ」
何処も「寄っていってくれ!!」と凄いオーラを撒き散らして呼び込みをしている。
才人は大変そうだなあと苦笑しながら歩き去ろうとしたが、ルイズがくいっと手を引いて最初の呼び込みのお兄さんの服屋へと足を向けた。
「ルイズ? お姉さんのお祝いを服にするのか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけどちょっと見ていきたいかな、って」
「もしかして俺にお前の服を買えっていうのか? 俺今金欠なの知ってるだろ?」
「まさか。私が今まで才人にそんな事言ったことある?」
笑うルイズに、“だからこそ”面白くないと才人はへそを曲げる。
ルイズは言った通り物欲が極端に無い。
服もバッグもそれなりに良い物を使っているが適当に選んでいるだけであって特段気に入ってる様子は無く、オシャレも周りの女性ほど機敏ではない。
ただあるからそれを着る、使う、という観点が強い用に見受けられる彼女は今まで才人に“あれ欲しい、買って”とおねだりしてきた事は皆無だった。
確かに才人は万年金欠貧乏学生ではある。
しかし仮にも男であるなら少しは女に良い物を買ってやる甲斐性を見せたくもあるのだ。
もっとも、ルイズは物欲がない代わりとばかりに“才人欲”は半端が無く、“才人が欲しい”と臆面もなく言ったりはするのだが。
それも彼女の場合、その言葉が精神的な意味の場合と“肉体的”な意味の場合があるから侮れない。
才人としてはそっちを少し抑えて物欲をもう少しくらい持っても良いと思ったりする。
「無いけどさ、じゃあ何で入ったんだよ?」
「それは……だって呼び込みの人がカップルって言ってくれたじゃない?」
てへ、とはにかみながら照れるルイズの言葉の内容に「たったそれだけのおべっかで?」と頭を抱え込みたくなるも、その笑顔で全てを許してしまう。
「ま、まぁ悪くないけどさ……って何ケータイ弄ってるんだ? メールか?」
「あ、うん。ちょっとね。送信、っと」
「誰宛だ?」
「気になるの?」
「べ、別にそんなわけじゃ……」
顔を逸らして素知らぬフリをするが、内心才人は気になった。
自分でこんなことを言うのも気が引けるが、ルイズは自分に夢中な女の子だ。
今までそうそう自分から意識を逸らした事なんて無かった。
そんなルイズが自分の前で別人とコンタクトを取っているのは、不思議と奇妙な感じがした。
何故か相手が男だったら、などという胸の裡にモヤッとしたものまで生まれる始末。
が、そんな嫌な感情はすぐに氷解する。
「? タバサにメールしただけよ、ちょっと用事が“出来た”ものだから」
「あ、そうなのか。そっか……ふぅ」
一気に脱力、何故だかとても安心した。
安心したために、才人はどんな内容のメールだったのか聞かなかったのだが、それは正解かもしれない。
***
「貴方の靴屋は今日限りで“ガリア”から撤退して頂きます。さるお方の“通報”により我が“ガリア”内に相応しい店舗では無いと判断致しましたので」
「そ、そんな!?」
「あとそちらの化粧品店の方、残念ですが貴方のお店も“ガリア”から撤退して頂きます」
「え? だってまだ何とか約束の売上値は守っているんですけど!?」
「理由はさるお方からの通報、とだけ言っておきます。今後の為に助言するなら、言葉使いには十分お気をつけになることです」
***
「何だか外が少し騒がしくないか?」
「そう? 何かあったのかも知れないわね。例えば『客』に“冴えない”とか“汚い”とか“ぼーっとしてる”とか言って怒りを買っちゃったりとか。全く売るのは商品だけにしときなさいってのよ」
「?」
才人はルイズの言葉には小首を傾げつつも深くは気にしない事にした。
彼女がイマイチよくわからない事を言うのは今に始まったことではないのだ。
既にルイズも気にせず近くの洋服棚を物色している。
物欲は無いが、ルイズも女の子らしくこういった物を見て回るのは好きなようだった。
「ねぇ才人、これ似合うかな?」
「おう、可愛いんじゃね」
「こっちは?」
「う~ん……それはあんまり。あ、でもお前が前着てた赤いヤツと一緒に着たら結構いいかも」
その実、ただルイズは見て回るのが好きなわけではなく、才人に自分を見て貰って批評されるのが好きだという事には、才人自身理解していなかった。
ただそんな才人も、いやそんな才人だからこそ言ってしまう素の言葉もある。
「まぁ、お前は何着ても似合うよ、素材が良いし」
「っ!!」
才人の言葉に息を呑んでルイズの体が硬直する。
彼からの誉め言葉は彼女にとって天にも昇る嬉しさとなる。
才人が自分を誉めてくれた。
彼の意識と彼の眼には自分が映っている。
自分だけが映っている。
それが、それだけが、なんて至福。
ルイズはこの服屋に感謝した。
この服屋がなければ才人からの誉め言葉をもらえなかったかもしれない。
お礼に才人から誉められた服は全部買って行くことにしよう。
ルイズは鞄からクレジットカードを出すと、カウンターまでぎこちなく歩き出して店員に説明しカードを渡す。
才人はそんなルイズの背中を見ながら苦笑した。
彼女が良いところのお嬢様なのは才人も理解していた。
彼女は自分からは欲しがらないが、自分が誉めた物はどんなに高い物でも買おうとするやや金銭感覚が狂った人間でもあった。
以前、将来住むならこんな家がいいよなあと彼女に何かの本を見ながら冗談めかして言った時、次の日に彼女が将来二人で住む家を買う手筈を整えたと言ってきた時には仰天したものだ。
だから才人は不用意に彼女を誉めたりしないようにしていたのだが、今回はつい本音を出してしまった。
家のことがあってからは(結局その家は才人の取りなしで話は無かった事にした)ルイズのブレーキ役を勝手に自分に戒めてもいたのだが、失敗失敗。
時には口を出して買った方がいい、買わない方がいいと最近は上手く手綱を握れていたつもりだったのだが、本当に“つもり”だったらしい。
でも仕方がないではないか。
だってそれほどまでに彼女は間違いなく可愛かったのだから。
後でいくら買ったか確認して、必要とあらば返品させようと才人は内心自分に言い聞かせる。
この国にはクーリング・オフという制度もあることだし何とかなるだろう。
そう思って才人はルイズから視線を外し、暇つぶしがてら商品棚をゆっくり見回した。
と、ふいに目が引かれるコーナーがあった。
服屋などにはよく見られる、角の売り場にあるアクセサリーコーナー。
そこに、いくつものシルバーアクセサリーが並んでいた。
それ自体は不思議でも何でも無かったのだが、何故だがそのうちの一つ……いや一ペアに目が引かれた。
安っぽそうなシルバーアクセサリーではあるが、形状は様々で星やらハート型、髑髏なんてものまである。
その中で、一際手抜きのように見栄ながらも何故か目が離せない一ペアのアクセサリー、“太陽”と“月”があった。
「ペアネックレス、かな」
もしも在庫が店頭に並んでいるだけならこの“太陽”と“月”はあと二ペアで売り切れになる。
普段ならこんなアクセサリーなど気にも止めないのに、何故だか才人はこれに引き込まれた。
手にとって値札を見ると投げ売りセールと書かれていて一ペア千円。
瞬間的にこれはここに並んでいるだけで在庫は無いと確信した。
どうしようか、と才人が悩みながらアクセサリーを戻そうとして、
「あれ……?」
不思議な事に気付く。
今このコーナーには自分しかいないし、手に持つアクセサリーを見つめていたのも僅かな時間だ。
だというのに、その僅かな時間で置いてあったもう一つの“太陽”と“月”のアクセサリーが消えてしまっていた。
普通なら誰かが買っていったと考えるが、人の気配は感じなかった。
まるで残っていたアクセサリーは、“異世界にでも消えた”んじゃないかと思えるほどそれは跡形も残っていない。
不思議な事もあるものだ、と才人は思いながらアクセサリーを再び戻そうとして……躊躇った。
この手に持っているのが、最後の一品。
確かめてはいないけど間違い無いだろうと才人は直感していた。
どうにも気になるこのアクセサリー。
最後の一品、となればやっぱり買っておくべきかとまた彼に散財を悩ませる。
「才……トッ!?」
そう長い時間は経っていなかった筈だが、思考の海に飲まれていた才人を背後のルイズの声が我に返させる。
声をかけてきた彼女は、酷く驚いた顔をしていた。
心なしか呼ぶ声のイントネーションもおかしかった気がする。
が、彼女の姿を見て才人は決心した。
偶には男の甲斐性を見せる時、彼女を見てそう思ったのだ。
「そ、それ……」
「ああ、これか? 何か気に入ってさ。ペアみたいだし、プレゼントするよ、ルイズ」
「あ、あうあうああああああ……!!」
ルイズは呂律が回らない言葉を口にするとその場に座り込んで泣き出してしまった。
「え、ちょっと!? おい!?」
才人は突然の彼女の豹変ぶりに驚きつつも、彼女が悲しくて泣いているワケではない、ということが少なくない付き合いから何となくわかった。
ただ、純粋にプレゼントが嬉しいというわけでもなさそうで、結局何故ルイズが泣き出したのかはわからず終いだった。
才人は泣きじゃくるルイズの手を引いて、周りの様々な好奇の視線を浴びながら、“ガリア”を後にした。
目的だったお祝いの品はまたの機会にすることにした。
***
「ごめんね才人、取り乱して」
夜の帳が落ちて数時間。
夜中と言って差し支えない時間帯に、目を紅く晴らしたルイズは才人の寝顔を見つめながら呟いた。
いつまで経っても泣きやまないルイズに、才人は面倒がらずに自分の部屋まで連れてきてずっと傍に居てくれた。
すっと手を伸ばして才人の髪を撫でる。
さらりさらりと黒い髪がルイズの細い指を撫でていく。
もう一方の手には渡された“太陽”のアクセサリーがあった。
「また“サイト”からこれをもらえるとは思ってなかったわ。本当にありがとう」
ルイズは愛おしそうにそのアクセサリーを撫でる。
手にしっくりと来るそれはまるで“長年持っていたかのような慣れ親しんだ物”のようだった。
「そういえば、部屋に泊めてくれたのって初めてね」
眠っている才人の横に顔を埋めて、クスリと笑う。
才人は意外にも頑固で、何度かお泊まりには来ても一緒の部屋で眠ってはくれなかった。
涙は女の武器、とは聞いていたがこうまで効果があるとは。
これからも少し無理を言う時は使ってみようか、と思って即座に却下した。
今日は多大に才人に迷惑と心配をかけた。
そうでなくとも彼女は自分の都合で“才人”に返しきれない“迷惑”と“罪”を犯しているのだ。
「長い、永い時だった────────」
噛みしめるように、思い出すように、悔いるようにルイズは呟く。
「“サイト”が“才人”になって、“私の我が侭”でまた“サイト”へと────────」
『止めときな娘っ子』
「……アンタも“しぶとい”わね」
部屋にはルイズと眠っている才人しかいない。
だというのに、ルイズの静かな独白に口を挟む声があった、気がした。
『どっちも“同じ相棒”な事に変わりはねーんだ、お前さんが“やった事”は“些細な事”でそれを気に病む必要はねーさ』
声のような音。
暗く静かな部屋にカチカチと鳴るただそれだけの音。
ただ、ルイズはもう独白じみた懺悔は口にしなかった。
「……私、もう娘っ子って歳じゃないんだけど」
ルイズは最後に不満そうな声を上げて、才人の胸に頭を乗せ、彼と同じ眠りの世界へと旅だった。
『俺様からすりゃ娘っ子はいつまで経っても娘っ子だよ。しかし相棒も罪な男だね、どれだけ時間が経とうと娘っ子の心を手放さないんだから』
最後に鳴ったカチンという音は、誰にも聞き取れなかった。