第百十七話【激怒】
小娘にしては良く吼える。
最初に感じたのはその程度だった。
しかし、次の瞬間には自分の前歯が折れていた。
その次の瞬間には鼻から血が垂れていた。
ようやくと今を認識した時、膝が笑って立ってはいられなかった。
「か……カハッ……!!」
ガクンと膝を床に落としてボタボタと垂れる血を見つめる。
まさに一息。
それだけの間に目の前の少女は自分にその怒りの丈の“一部”をぶつけて来た。
「サイトは誰の“モノ”でも無いわ。私はサイトの“モノ”だけど」
その声は何処までも冷たく鋭く、そして研ぎ澄まされていた。
張りのある高いソプラノの声は絶対的な自信と力強さを秘めている。
ジョゼフは膝立ちになりながら自分の流している血を見て、嗤った。
「ククク、クハハハハハハハハハ!!!!!」
高らかに嗤い、顔を上げた瞬間、顎を蹴り上げられる。
だがジョゼフは嗤う事を止めない。
「クハハハハハハハハ!! 最高だ、コレを最高と呼ばずして何と呼ぶ!?」
背中から倒れようとも、ジョゼフは嗤うのを止めなかった。
顔は既に、原型を留めなくなりつつある。
重傷と言っても差し支えない。
だというのに、ジョゼフは痛む素振りすら見せずに嗤う。
ただ、嗤い続ける。
嗤う度に吐血し、その血が自分の瞳を赤く染めて、世界を紅くする。
だが、視界が紅くなっていっても、ジョゼフはその胸の裡に沸き上がる狂喜に抑えがきかなかった。
知らない事なのだ。
自分がこうも一方的に殴られるなど。
予定に無いのだ、激痛と言って差し支えない痛覚が自分に襲い来るなど。
ああ、それもこれもどれも全部みんなあの少年のおかげなのだろう。
あの少年が来てから全く持って思い通りにならず……“面白い”
「クハハッ、ハハハハハハハハハ!! 傑作だ!! やはりあの少年は俺に必要なものだ!! 俺のモノだ!!」
「………………」
聴覚を通して正常に伝わるその音声がさらにルイズに拍車をかけ、よりジョゼフを絶頂へと導く。
ボロボロにされながら、確かにジョゼフは幸福を感じていた。
痛みであれ何であれ、それが知らぬ物ならばジョゼフにとっては最高の肴となる。
ああ、このまま好物のブランデーを流し飲みしたいところだ。
しかし口の中が裂けすぎて今は満足に飲めないだろう。
飲める予定であったものが飲めなくなる。
最高だ。
この上ない“未知”だ。
初めて酒より“肴”を美味いと思えた。
味は、血の味だ。
鉄の味などと無粋な味ではなく、未知という甘美な味である。
ジョゼフは確かに絶頂の中にいた。
このまま身が滅んでもいっそ構わないというほどの。
しかし、その幸福は続かなかった。
「ジョゼフ様!!」
一人の女性が、それを阻んだのだ。
二人の間に割って入った女性が、ジョゼフの快楽を中断させる。
「おのれ、よくもジョゼフ様を……!!」
それは彼の使い魔にして興味対象外の位置づけとなりつつあったミョズニトニルン、シェフィールドであった。
彼女は長い黒髪の隙間から、ギラつく目を覗かせていた。
ユ ル サ ナ イ
その目はそう告げていた。
「ミューズ……!!」
「ジョゼフ様、“間に合って”良かった」
苛立ちを含んだジョゼフの声に、名前を呼ばれたシェフィールドは嬉しそうに言葉を返す。
「ミューズ……今俺は最高に愉しんでいる。邪魔をするな」
「ええ、わかっておりますとも。私はあなたの為に駆けつけたのですから」
「ならば消えろ」
ジョゼフがゆっくりと立ち上がりながらシェフィールドを睨む。
「これから私が」
「……消えろ」
これ以上お前の声は聞きたくないとばかりにもう一度言う。
「貴方様の為に」
「消えろ」
それでも口を開くのを止めないシェフィールドに苛立ったジョゼフは、持っていた短剣を彼女に向け、
「永遠を……」
「いいから消えろ!!」
刺した。
ぬめり、と人体に深く深く突き刺さる短剣。
刃が見えない程深く突き刺さったそれに血が滴り、彼女の命の灯火を急速に奪っていく。
シェフィールドはジョゼフを見てから自分に刺さる剣の柄を見、もう一度ジョゼフを見た。
段々と変色していく唇を震わせ、瞳には涙を一杯に溜め、彼女は言う。
────────“良かった”────────
「な、に……?」
流石にジョゼフも訝しむ。
刺されて、死にそうになって、“良かった”と彼女は言ったのだ。
「ジョゼフ様も“同じ気持ち”だったのですね」
「何を言っている……?」
ジョゼフは狂ってはいるが一般常識を理解出来ないわけではなく、また人の人格を客観的に捉えることは出来ていた。
そのジョゼフから見て、彼女は広義的にはいわゆる普通の部類に分類されると見込んでいた。
だが、ジョゼフの知る普通の人間は、刺されて喜びなどしない。
ジョゼフの知るシェフィールドとは、何かがズレていた。
「ああジョゼフ様……」
シェフィールドはジョゼフに血の付いた手を伸ばす。
「私と“永遠”になってくださるのですね」
言うが早いか、シェフィールドの体から無数の“鎖”が飛び出す。
「むおっ!?」
その鎖は力強くジョゼフを捕縛し、同時にシェフィールドも捕縛した。
鎖に引かれるように二人は絡み合い、さらにがんじがらめに鎖が絡みつく。
「見ていなさい小娘。私は……私の、私達の愛は貴方になんか負けないわ」
ずる、と重い鎖が二人を引っぱる。
見れば、いつの間にか鎖は部屋のバルコニーから外へと伸びていた。
またずる、と鎖ごと二人が動く。
「ミューズ、貴様……!?」
ここに至ってジョゼフはシェフィールドの考えに気付き、目を見開く。
何かが違う彼女の“間に合って”の真意とは彼をルイズから助ける為だけではなかった。
「さぁ、永遠に一緒になりましょうジョゼフ様!! 大丈夫、この“天の鎖”は精霊はおろか“神”でさえも束縛できると言われるほど強固なもの。離れることはありませんわ!!」
途端、急に勢いよく二人はバルコニー側へ引っぱられた。
「なぁっ!?」
宙に浮く。
それをジョゼフが理解した時には、体は既にバルコニーから外へ出ていた。
「ミュュュュウウウゥゥゥゥゥゥズゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!!!!!!」
あらん限りに叫んだ言葉は彼女の名。
それが、シェフィールドにはたまらなく嬉しく、血色の無い顔で微笑んだ。
その時のジョゼフの思いを知ることは永遠に叶わない。
ただ二人は鎖によって離れることなく加速度的に落下していき、
────────────────グシャ
“音”だけが城下に響いた。
***
「いや本当に残念です」
「あ……か、くっ……!!」
サイトは床に倒れ伏した。
かつても感じた事のある背中の切られた痛みが、彼に未だ意識を保たせているが、それも時間の問題だった。
「私としては快くお手伝い願いたかったのですが、仕方ありませんね。まぁ使い魔の“変更”は担い手よりは幾分楽ですからね」
ヴィットーリオは先程からずっと変わらない優しそうな声で話し続けている。
「使い魔は死んでしまえば再召喚可能。担い手ではこうはいきませんからねぇ」
その話し方は優しくとも、世間話をしているかのようなそれだった。
「でも安心してください。私は貴方の事は結構買っているのですよ。何せ“あのジョゼフ”に気に入られた程なのです。だから……」
ニタァとヴィットーリオは笑う、いや嗤う。
「この城に来た本当の意味……“アンドバリの指輪”によって貴方を素直で協力的な子として蘇らせてあげましょう」
ヴィットーリオの指にある、不気味な指輪が淡い光を放っている。
「だから、安心して早く死んで下さいね」
そのヴィットーリオの笑顔は先程までと変わらぬ物だったが、一部始終を見ていたタバサにはその笑顔がとても恐ろしく見えた。
同時に、この男は最も手を出してはいけない物に手を出したと悟る。
タバサの目には、とんでもない速度で駆けてくる桃色の鬼神が見えていた。
***
「馬鹿な女ね」
ルイズは一言、そう吐き捨てた。
二人の悲劇とも喜劇ともとれる様を見ていた彼女だが、シェフィールドの見せつけるような愛の形は、彼女の心を掴む事は無かった。
「二人一緒に死んで永遠? もし本当にそうなるなら“私はあの時既に死んでいた”わよ」
決して届くことの無い手向けの言葉はそれだけ。
ルイズすぐに踵を返した。
先程から嫌な予感が止まらない。
これはいつかの予感に似ている。
学院で、会ったばかりのサイトが血塗れになっている姿を見た時も同じような予感がしていた。
そうして、彼女は目の前の光景を見て、かつての学院での出来事がフラッシュバックする。
背から血を流すサイト。
血塗れのサイト。
動かないサイト。
「あ、あ、ああ、あああ亜亜亜アアアアアァァァァアアアア亜亜亜アア!?」
ただ、嘆きの声を上げるだけの自分。
その自分が発する声すら煩わしいと思えるほど不快感。
今、サイトが■に直面していた。
■ぬかもしれない。
■んでしまう。
■ぬ。
■ ン デ シ マ ウ カ モ シ レ ナ イ
「──────────────────!!」
喉が再び焼け付くような声ならぬ声を上げて、ルイズはサイトに飛びついた。
「ル、ルイズ……」
か細い彼の声が、“さん”付けの取れた彼の声が、ルイズを一瞬我に返させる。
だが同時に、必要の無いノイズも捉えさせられた。
「おや、来てしまいましたか」
ウルサイ。
今は全神経をサイトに集中していたのだ。
邪魔をするな。
「やれやれ仕方ありませんね、本当は“彼が完全に死んでから”ご対面願いたかったのですが」
ジャマヲス……ナンダト?
汚いノイズ。
だがそのノイズの中に聞き逃してはならない言葉があった。
ギギギ、とルイズは首を横に振る。
途中で視界に見知った蒼い髪の少女が入った気がしたがどうでもいい、今は激しくどうでもいい。
その一切の輝きの無い目は、サイトの傍に立つ一人の男に向けられた。
男はニコニコ顔で言う。
「安心して下さい。彼が死んでも私が生き返らせてあげましょう、この指輪でね」
「貴方が、サイトを殺そうと、したの……?」
それに、ルイズは恐る恐る尋ねた。
「おや? 見ていなかったのですか?」
「何を……?」
「いえ、しかし……ふむ……」
ヴィットーリオは僅かに悩んだ。
このままうやむやにした方が虚無の少女を御しやすいのではないか、という打算もあった。
しかし、その間が決定的になった。
「この男が彼を刺した。この男は彼が思い通りにならなかったから殺そうとした」
唯一の目撃者、タバサが一足早く口を割ってしまったのだ。
「……っ!!」
ルイズの空気が変わる。
これはまずい、嘘は逆効果になりかねないとヴィットーリオは嘘は言わない事にした。
ことここに至ってまだ彼は彼女を御せると思っていた。
「ええ事実です。しかしそれも大義の為。それにこの指輪があれば彼を蘇ら……がっ!?」
ヴィットーリオは言葉を最後まで紡げなかった。
ルイズに見せつけるように見せた指輪。
それを彼女はあろうことか“指の付け根から指輪ごと喰いちぎった”のだ。