第百十四話【愛比】
───────ひきかえそう。りゅうをおこしたら、おれたちみんなしんでしまうぞ。おまえはりゅうのこわさをしらないのだ───────
「引き返した方がいい。もし見つかったらどうなるかわからない。最悪、殺されることだってありうる。貴方はジョゼフの恐さを知らない」
イーヴァルディはいいました───────ぼくだってこわいさ。でも、こわさにまけたらぼくはぼくじゃなくなる。そのほうが、りゅうにかみころされるよりもなんばいもこわいのさ───────
「俺だって恐いよ。でも、ここで動かなかったら何だか俺が俺でなくなりそうで、それがもっと恐いんだ」
***
ルイズは走っていた。
走って走って走り続けていた。
肺に酸素が行き渡らず呼吸が苦しくなろうと、そのスピードを落とすことなく走り、その光の感じられない鋭眼で全てを見通すように通路を注意深く睨んでいた。
足が痺れてこようと、酸素欠乏によって胸に痛みを感じようと、頭の中が霞がかったようにぼんやりしはじめようと、彼女はその足を止めない。
何故なら、
(近づいてる……わかる……!!)
彼女の中の何かが、彼……自身の使い魔にして最愛の人を感じ取っていたからだ。
それだけで、彼女はまた一段スピードを上げる。
どれだけ体が悲鳴を上げていようと、聞くのはサイトの声のみで良い。
ルイズはそのシルクのような滑らかな桃色のロングヘアをなびかせながら止まらない……ハズだった。
今も止まる……いや留まるつもりはない。
だというのに、彼女は前進しようとしてしかし、何故か動けないでいた。
「そんなに急いで何処にいこうと言うのかしら?」
自身が動けない、という事実を認識してすぐ、女性の声を脳が理解する。
この声は、忘れようと思っても忘れられない。
いや、“忘れてはならない”相手の声だ。
ルイズは全身のうち、唯一少しばかり動く首を動かし、声の主をその双眸に納める。
長く艶のある黒髪にひょろりと長い背丈。
スレンダーと形容するに相応しい体でありながら整った抜群のプロポーションも備える女性。
「あんたは……」
こいつは、間違いなく“サイトを傷つけよう”とし“サイトを攫った奴”に外ならない。
「動けないでしょう? 貴女は今影を“縫われてる”んだから」
ルイズの背にある影。
そこにはいつの間にか、数本のまち針のような物が刺さっていた。
スラリとした長い腕が伸び、ルイズのシャープな顎を撫でる。
「顔だけは綺麗ねぇ、顔だけは」
黒髪の女性、神の頭脳ミョズニトニルンであるシェフィールドはそんなルイズの顔を見て表情を歪め始める。
「貴女の使い魔をジョゼフ様はいたくお気に召されたわ、全く持って忌々しい程に。わかる? 私よりも“あんな男”を今ジョゼフ様は気に入っているのよ。私がこんなにお慕いしているのに!!」
シェフィールドはギリギリとルイズの頬を力強く摘む。
「貴女があんな男を召喚しなければジョゼフ様はきっと私だけを見て下さったわ!! 全くよくもあんな男を召喚してくれたわね!!」
己の不満の丈をぶつけるようにシェフィールドは力を込め、ルイズを睨み付け、さらに何か続けようとしたところで、
──────────────ゾクリ──────────────
悪寒がした。
「……言いたい事はそれだけ?」
ルイズが震えながら搾り出すように呟く。
震えながら?
「ハッ、何だ怖いのかい? 強がっても所詮小むす……め……?」
ルイズが震えている。
ぷるぷると震えている……いや、奮えている。
奮えて?
パキンと音がする。
それが、“無理矢理床から針が抜けた音”だと気付くのに、シェフィールドは少々の間を要した。
何故なら、その事が“些細”だと思えるほどの“圧倒的な存在感”を目の前の少女が発していた為だ。
先程までの、自分に掌握されていた事実が嘘のように、彼女はそこに圧倒的な存在感を持って屹立していた。
彼女が一歩をこちらに踏み出した事で、ようやく彼女が自由になった事実に気付く。
(アレを無理矢理抜いた!? 馬鹿な!? どれだけ体に負荷がかかると思っているの!? そんなの出来るわけがない!!)
目前の出来事を信じられないシェフィールドは、事実を事実として認識せず、それによって視界が黒くなった事にも気付くのが遅れる。
「ギャッ!? ……あ、あ、あああ……!! 痛っ……!!」
シェフィールドは自身の鼻頭を押さえた。
突然の激痛。
おそらく、鼻骨は折れている。
「あ、貴女……女でありながら女の顔を……!!」
……タラリ。
そこまで言って、シェフィールドのその“整っていた”鼻から血が滴る。
それを、ルイズは何の感情も映さない瞳で見ていた。
ルイズの拳は依然握られたまま、やや血が付いている。
「お、おのれ……!! もう許さないわ!!」
こいつは許さない、そう敵意ある目をルイズに向けると、そこで“初めて感情のこもった言葉”がルイズから発せられた。
「許さない、ですって?」
その声は高いソプラノ調でありながらどこまでも低く、重い。
「それは、こちらの台詞よ」
ルイズがまた一歩踏み出す。
自然、シェフィールドは一歩引いた。
「よくもまぁベラベラと……サイトを悪く言ってくれたわね。“あんな男”ですって? 貴女程度にサイトの良さが理解出来ないのは仕方が無いとしても……サイトへの侮辱、サイトの誘拐……“貴女如き”がしていいことでは無いわ」
正確には、この世の誰もそれをルイズに許されてはいないが、そこは問題では無い。
サイトを侮辱した、そこだけがルイズの中で許されない事実として認識される。
また一歩を踏み出す。
「う、うるさい!! あのお方のお気に入りは……あのお方と一緒に居るのは私だけで良いのよ!! 私だけがあのお方を真に愛している!! あのお方の為ならなんだって出来る!! そう、だからあんな奴はいらないのよ!!」
「いらない、ですって?」
ルイズがピタリと止まる。
その目は大きく見開かれ、体は未だ小刻みに奮えている。
「いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですって? いらないですってェェェェェェェェェェェェ!?」
ルイズは怯えて震えていたわけではない。
あまりの怒りに、自身の体の中を駆けめぐる情動を抑える事が出来なかっただけだ。
「くっ!!」
シェフィールドはウエストウッド村でも使った魔法銃を構え、ルイズに放つ。
入っていたのはエア・ハンマー。
ルイズは風の鎚によって飛ばされるが……すぐにムクリと起きあがる。
もう一発、とばかりにシェフィールドは撃ち放つが、同じ威力の魔法のハズなのに、今度はルイズは倒れない。
倒れないどころか、前進してくる。
「く、くぅぅぅぅぅぅ!!」
シェフィールドは来るなとばかりにありったけの魔法を撃つが、命中しているはずのそれに、ルイズが意に介すような素振りは無い。
気付けば、ルイズはシェフィールドの目の前に戻ってきていた。
「サイトがいらない?」
ぐっと顔を近づけられる。
その瞳は大きく開かれ、黒一色でしか無い。
何も映っていない何もない。
本当意味で何も無い黒というものは、“他”を認識出来ない。
それほどの真の闇を、シェフィールドは見たことが無かった。
「いらないのは貴女の方よ」
ぐっとルイズがシェフィールドの喉を掴む。
先程自身が頬をそうしてやられたように、力強くギリギリと締め上げる。
「ぐ……あ、が……ぐる……じ……」
バタバタと両手を暴れさせるが、ルイズは微動だにしない。
が、ルイズは唐突にその手を離した。
「うえっ!? ゲホッゲホッ!!」
シェフィールドは急速に呼吸を再開し、大きく息を吸い込んだ所で、
「アウッ!?」
ルイズのローキックが腹を抉った。
空気を吸い込んでいる途中での強力な蹴り。
シェフィールドはあまりの痛みと打ち所の悪さに、呼吸が出来なくなった。
「……!! ……!!」
悶え、床を転がる。
その顔は涙を浮かべながらも怒りの形相でルイズを睨む。
ルイズは既に何の表情も映していない。
「所詮貴女はその程度よ」
な、なにを……とは未だろくに呼吸が出来ない為に言えないが、ルイズには伝わっているようだった。
「苦しい? 痛い? “そんな余分な感覚”を使う暇があるなら、私はサイトの為だけにそれを使うわ、所詮、貴女は自分が可愛い口だけの女よ」
ただ、その顔の通り既にシェフィールドに興味が無くなったのは事実のようで、それだけ告げるとシェフィールドを無視してまた走り出してしまった。
「っ!! ……ううううううううう!!!!!!! あああああああああああ!!!!!!」
それを床に転がったまま見送って、ようやく出るようになった声で、最初に口にしたのは、慟哭だった。
叫ばずにはいられない。
自分は彼女に負けたのだ。
戦いにおいてのことではない。
好きな相手を“想う”というただそれだけの“感情比べ”に完敗を喫したのだ。
無論ルイズの言っていることは極端で、それが正しいとも誰にでも出来る事とも言えない。
しかし、限りなくその感情に近い位置にいるシェフィールドだからこそ、わかる。
自分は彼女には敵わない。
それが、とてつもなく悔しい。
何をおいても、ジョゼフの為なら捨てられると、彼を一番に考え彼を愛している事には誰にも負けないと思っていた自分が、負けたのだ。
「だああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
叫ばずにはいられない。
涙を流さずにはいられない。
自分は“愛する”というもっとも自信ある比べ事において、勝てなかったのだから。
だが、それでも彼女はジョゼフを愛していた。
まだ、負けたくないとも思っていた。
ジョゼフの為なら、とそう思う心は死んではいなかった。
だから……ルイズが立ち去ってしばらくしてから、彼女は声が枯れるほど叫び続け涙が枯れるほど泣いてから、再び立ち上がった。
ジョゼフの元へいかなくてはならない。
あの女に自分がどれだけジョゼフを大事に想っているかを見せつけなければ終われない。
その為にはどうすればいいか、既に答えは出ていた。
「待っていなさい、虚無の小娘……待っていて下さい、ジョゼフ様……今、貴男のミューズが“貴男と永遠に”なるために、そちらへ行きます」
***
「そろそろ撤退しましょう」
「そうね」
その頃、別口から騒ぎを起こしたレディ組、キュルケとエレオノールは撤退の準備に取りかかろうとしていた。
「でもまさか、こうして宿敵のツェルプストーと肩を並べることになるとは思っていなかったわ」
「あら? 私だってそうですわ。でもこれも全てミスタの為。中々刺激的ではなくって?」
「言うわねツェルプストー」
満更でも無いようにエレオノールは笑う。
実際家柄的な宿敵でありながらも現在の立ち位置によって良きライバルだと認定している二人は、お互いに背を預ける人間として申し分ないと感じていた。
これが終わったら改めて恋の戦いが始まる、そう思って疑わなかった二人だが、
「ほう、何やら騒々しいかと思えば蛮人か」
その、疑わなかった未来を、消し去る存在が現れた。