第百十一話【不眠】
「………………」
「…………すぅ、すぅ……」
一人は口を噤み、一人は寝息を立てる。
一人はベッドに横になり、一人はそのベッドに背を預けるようにして床に座している。
寝息を立てているのはもちろんベッドの上の人物。
その寝息を聞きながら、床に座っている者は考える。
(……記憶喪失者が、ここまで厄介だとは思わなかった)
小さく息を吐きながら、座して蒼髪に月光を浴びる少女、タバサは疲れた顔をしていた。
サイトは今、自分の背後で寝息を立てているが、彼がそうなるまでには一悶着も二悶着もあった。
彼は、まったくもって“ありがたくない事に”記憶が無くても“気を使う人”ではあるらしい。
女の子を床で寝かせて自分だけベッドで寝るという案は当初すぐに逆の案にとって返された。
だが、もしそんなことをして風邪にでもなられたり体調不良の原因にでもなったら、そのしわ寄せはこちらに来るのだ……主に“彼女”の手によって。
それは、それだけは避けねばならない。
思い出すだけで震えが蘇り、身が竦む。
しかし、“忌々しい事に”彼は中々引く気は無いようだった。
自分という人間がどれだけの“影響力”を持っているか自覚していない人間というのは本当に厄介だ。
それもその“影響力”が他人に害をなすものならば尚タチが悪い。
だが得てしてこういう手合いはそれを知ることなく周りを巻き込み、無自覚に周囲を困らせるものだ。
今回もその例に漏れず、本当に“忌々しい事に”彼は全く思い通りにならない。
正直、『お前は女で俺は男なんだから』というような、普通なら悪くないと思えるような言葉にも苛立ちしか覚えない。
それによって被るであろう自分への被害を考えれば、そんな考えなどマンティコアの餌にでもして欲しいところだ。
次に彼なりの苦渋の策として“一緒に寝る”という言葉が上がってきたが、これも即座に却下した。
当然である。
そんなことをしてもし事実関係が“彼女”に明らかになれば、明日の朝日を拝むことは叶わずそのまま永遠の眠りにつかされる事になるのは間違い無い。
だというのにこの男は一向に話を聞く気は無い。
いつまで経っても話は平行線で進まず、苛立ちは募るものの爆発するわけにもいかない。
もし自分が怒り、彼に嫌悪感等を与え、それが“彼女”に伝わったら、その日がシャルロット最後の日になりかねないからだ。
彼は二言目には『気にするな』『俺は男だし』など彼にとって“武器になる”言葉で攻めてくる。
まるで“善意から言っているような”言葉は反論するのが難しくやりづらい上、タバサにとって有り難迷惑以外の何物でもない。
むしろ、そうやってわざと自分を追いつめ、罠に嵌めて“彼女”に自分をどうにかさせようと思っているのではないかと勘繰ってしまう程だ。
“怒れない”、“強制的な行動が出来ない”という目に見えぬ制約は予想以上にタバサを苦しめた。
かつて彼がイーヴァルディかもしれないと勘繰った事があったが、自分の憧れる勇者がこんな“わからず屋”であってたまるものかと思う。
過去の自分に言ってやりたい。
それは気の迷いだ勘違いだありえない、と。
今タバサの中でのサイト株は、やむを得ないとはいえ大暴落の一途を辿っていた。
そしてそれは、翌日の朝に暴落どころか一つの壁を突き破る事になる。
***
タバサはゆっくりと目を開いた。
どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
何度か瞬きをして現状を確認する。
変な体勢で寝たせいで体が痛くなると予想していたのだが、予想に反して体に異常は無い。
視界はこの部屋に軟禁されてから毎朝見ている天井一色で、特段いつもの朝と変わりはない……天井?
おかしい。
自分はベッドを背にして床に座していた筈だ。
いつもと違和感が無い事が逆に違和感を感じさせ、タバサはバッと飛び起きた。
「おわっ? 起きたのか? へっくし!!」
すぐ近くのテーブルセット、その椅子に座っていたサイトがこちらに振り向き驚いている、ついでにくしゃみもしている。
タバサは開いた口が塞がらなかった。
目の前の男は、自分が苦心してようやくベッドで寝かしつけたと思ったのに、朝気が付いてみればベッドで寝ているのは自分で、男はシャツ一枚になって椅子に座っているのだから。
大体何のために自分がベッドを明け渡したと……シャツ一枚?
何故彼はシャツ姿なのだろうというタバサの疑問はすぐに氷解した。
ベッドのシーツからハラリと異国風の服が一枚落ちる。
起き抜けで気付かなかったが、どうやら彼は彼の服まで自分に被せ暖を取らせようとしてくれたらしい。
「君がまだ寝てたからベッドに移したんだ、シーツも無しじゃ寒かったろ?」
凄く良い笑顔でサムズアップしながらこちらを見る彼……は方鼻から鼻水を流している。
彼は自分を犠牲にしてまで暖を提供した。
その結果、彼は寒い思いをし、鼻水を流しながらも、やりきったというような良い笑顔をしている、と。
タバサは現状をあらかた正しく認識し、震えた。
彼の取った行動に、心の底から震えた。
彼の取った行動、その意味することを鑑み、思うことは一つ。
な ん て よ け い な 真 似 を !!
即座にシーツと服を投げつけ暖かくするよう言い含める。
確かに昨日のうちに二人分のシーツを確保する事を怠った自分にも非がある。
だが!! 自分が何のために彼にベッドを明け渡したかを考えればそれぐらい察してくれてもいいだろう!?
その上風邪でも患わられた日には“彼女”の怒りを買うばかりか自分の身も危ない。
タバサはサイトの軽率な善意に心の底から迷惑していた。
そして彼女の懸念はそれだけに留まらない。
一体どれほどの時間自分はベッドに居たのか知らないが、その間自分は彼の服と一緒だったわけだ。
敏感な“彼女”のことだ、彼の着ている服から“他の女の濃厚な匂いがする”となれば、あらぬ誤解を生みかねない。
普通の人間ならそんな匂いなど気付かないだろうが、生憎と彼女は普通では無いことをタバサは正しく認識していた。
タバサの悩みと不安を一夜にして大幅に底上げした元凶はそんなタバサの事などつゆ知らず、照れたように頭を掻いて服を着始めた。
全くいい気なものだとタバサはさらに内心での不快感を蓄積しつつ、外面は出来るだけ丁寧に今朝の件を諫め、今晩こそこのような事が無いように言い含む。
彼は諫められたことに渋い顔をし、こちらの気も知らないでとタバサは憤りを感じていたが、そのタバサもサイトの事など考えず、また知らなかった。
翌朝、昨日あれだけ言ったのに、タバサは気付けばベッドの上にいた。
サイトは相変わらず椅子に座っている。
いい加減にしろと頭に血が上りそうになるタバサだが、なんとか堪えた。
昨日と違い、彼は服は着ていたので、少しは進歩があったと自分に言い聞かせて昨日と同じ“優しく言い含める”作業に入る。
彼は自分の感情を逆撫でするかのようにまた渋い表情をし、さらには“疲れたような態度”で話を聞く。
それがタバサをさらに苛つかせたが、タバサは苛立ちを表面には出さなかった。
しかし翌朝、またも起きれば自分はベッドの上、彼は椅子だった。
これはそろそろ彼が本気で自分を嵌めようとしている可能性を考えるべきかもしれないと隠しきれない怒りをタバサは抱いた。
彼にしつこいほど、苦言を呈し、半ば優しさにも欠けた言葉遣いになりつつあったが、それでもタバサはまだ“理性的なつもり”だった。
「でも俺が使ってないんだから君が使ったって良いだろ?」
「だめ」
彼の毎日言う似たような反論は殆ど聞かずにバッサリと切って捨て、自分の要求に応える約束をそうとわからないように誘導し、させる。
だいたい、自分より“良い環境”を提示しているのだから、自分の為にもいい加減大人しく甘んじていて欲しいものだとタバサは思っていた。
だが、彼の反応はまた“疲れたような態度”で応対し、渋々と“善処する”というような約束の仕方だった。
これは今夜も危ないかもしれない、そう思ったタバサは一計を案じる事にした。
眠ってしまうから朝困る事態になるのである。
寝ずに彼のベッドの番をすれば良いのだ。
実のところ、いかに“彼女”に誤解されないかということと、いかにそれを成すために彼に言うことを聞かせるかという事を考え続けているため、肉体的にはともかく精神的に多大な疲労をしているタバサは毎晩やたらと眠くなっていた。
だが今夜は寝るわけにはいかない。
いつものようにベッドを背にし彼の寝息を聞きながら目を閉じる。
寝た“フリ”をするためだ。
すると、存外早く、すぐに寝息は聞こえなくなって自分の体がフワリと浮く。
これは正直予想外だった。
今日は“偶々”かもしれないが、こんなに早くから自分がベッドに寝かされるとは思っていなかった。
うっすらと目を開けて彼の様子を探ると、彼はバルコニーから外の様子を少し眺めた後、毎朝見た時と同じように椅子に座って微動だにしなくなった。
眠っているのではない、ただ動かなくなったのだ。
不気味に思ったタバサは、偶々強く入ってきた月光に照らされた彼の顔を見て……息を呑んだ。
これまで、自分はいかに彼を上手く動かし自分を優位にして“彼女”対策を講じるかを考え、まともに彼の“顔”を見ていなかった。
彼の眼の下には、真っ黒な隈が出来ていた。
彼は……ほとんど寝ていないようだった。
こんな顔を“彼女”に見られでもしたら、自分が危ない……まず最初に浮かんだのはそんな保守的な考え。
だが、次に彼は何故“寝ていないのか”という疑問が生まれる。
自分にベッドを明け渡しても、眠れないということは無い筈だ。
今まで気にしなかったから気付かなかったが、あの隈は一日やそこらで出来るものじゃない。
“寝たフリをするつもり”が、“いつも寝たフリをされていた”のだろうか、それなら疲れた態度もおかしくない。
そう思った時、タバサはここ最近の苛立ちの対象でしかなかった彼に苛立ち以上の疑問を覚え、声をかけていた。
「眠れないの?」
「っ!? 起こしちゃったか?」
「最初から起きてた」
「……そうか、じゃあ今日までずっと?」
「……今日だけ」
少し迷ったが、タバサは正直に答える。
そんなタバサに苦笑しながら、サイトは観念したように口を開いた。
「……足りないんだ」
「足りない?」
なんだろう? 用意された食事が足りなくて、お腹が空きすぎて眠れないとでも言うのだろうか? だとしたら何とかして食事の量を増やしてもらわねばなるまい。
「ああ、上手く言えないけど、“いつも寝る時にある筈の何か”が無くて、眠れないんだ」
タバサは最悪自分の食事を減らす事も視野に入れていたが、どうやらその心配は無いらしい。
「何か、とは?」
「……わからない。思い出せないんだ。何も……覚えていないんだ」
答えたサイトの顔はとても寂しそうだった。
理由のわからない不眠症。
いや、理由はわかっていても解決方法がわからない。
そんなサイトを戸惑った瞳で見つめていると、サイトは一つだけ確信があるように口を開いた。
「でも、その“足りない何か”は、自分にとってとても大切なものだった気がするんだ」
そんな彼の顔と言葉は、今日までの彼への嫌悪感と迷惑感をタバサの中から吹き飛ばしてしまった。
同時に、彼の様子がどことなく“自分の母親に近い”ような、そんな錯覚を覚えた。