第百八話【忘却】
「何を、言ってるんだアンリエッタ……?」
ウェールズは目の前のかつての想い人の変容に戦慄した。
何かがおかしい。
彼女は意味もなく他者を傷つけたり貶めたりするような人間では無かった。
月日と環境は人を変えると言うが、ここまで酷いものだろうか。
「君は……本当にアンなのか?」
「まぁウェールズ様、そこの女の“毒”が随分侵攻しているようですわね。大丈夫ですわ、すぐに貴方が愛し、全てを受け入れ、肯定するのは本物の私、アンリエッタであることを思い出させて差し上げますわ」
ぬっとアンリエッタの手が無理矢理にティファニアに伸びる。
突然の豹変に未だ唖然としていたウェールズはそれを傍観してしまい、
「痛っ!?」
痛みを訴えるティファニアの声で我に返った。
「何をするんだアン!!」
アンリエッタはティファニアの長い金砂の髪を無理矢理に引っぱっていた。
「そこの泥棒猫さんに身の程を教えようとしているだけですわ」
「何を言っているんだ!! 僕は君の言っていることがわからない!! 僕の知るアンはこんなことをするような娘じゃなかった!!」
ウェールズはアンリエッタの手を掴み、ティファニアと距離を置かせる。
「ウェールズ様……予想以上にそこの“雌”の瘴気を吸わされておいでなのですね。大丈夫ですわ、私がすぐに元の私だけを見て下さる貴方に戻して差し上げますから。さぁそこの“雌”をこちらに」
「それは出来ない!! 今の君はどうかしている!!」
「仕方がありませんわね……大丈夫、後で治して差し上げますから」
「何を言って……ウッ!?」
鈍い音と、目眩……それと、腹痛。
“文字通り”刺すような痛みの……痛いというより熱いと感じる……そんな痛み。
視線を下げれば、細いアンリエッタの腕と柔らかそうな手に包まれた短剣の柄が見える。
刀身は見えない。
「ごふっ……!!」
何故なら刀身はウェールズのお腹に深く突き刺さっていたからだ。
ウェールズは腹を押さえ、ぬめりとした血に触れる。
ポタリ、と血が滴って板張りの床を赤黒く染めた。
「ウェ、ウェールズ!?」
ティファニアは尻餅を付いて信じられない物を見るかのようにその光景を見ていた。
同時に、彼女……ルイズの言葉が蘇る。
─────────好きな人を失いたくなかったら絶対にその人を手放しちゃダメよ─────────
ウェールズから血が滴り落ちている。
「さぁ、どいてくださいまし。私がその女を貴方の前から名実共に“消して”目を覚まさせて上げますわ」
崩れ落ちそうになるウェールズの足が、一際強く床を踏みしめ、倒れない。
「それは、出来ない……!!」
ウェールズは未だ崩れず立ったまま、ティファニアを護らんとアンリエッタの前に立ちはだかる。
「ティファニアや、お腹の子には手を出させない……!! 僕には彼女たちを護る義務がある!!」
─────────好きな人を失いたくなかったら絶対にその人を手放しちゃダメよ─────────
「彼女とお腹の子を護る義務……? まさかその中にいる子供は……!!」
「僕と彼女の……子供だ」
「でしたら尚のことその女は粛正しなければ。子供など“無かった事”にしましょう。貴方と子供を作るのは私だけで良い──」
段々とウェールズとアンリエッタの会話が遠く感じる。
耳に届くのは滴る血が床を跳ねる音ばかり。
─────────“何があろうと絶対に”─────────
頭には、ルイズの言葉が繰り返される。
何があろうと絶対に。
何があろうと絶対に。
何があろうと絶対に。
ティファニアは、頭の中で繰り返されるその言葉に従うように、知らず何か呟いていた。
左手にはいつ持ったのか、杖が握られている。
「っ!?」
それは、アンリエッタが気付いた時には遅く。
ティファニアの詠唱は完成していた。
***
「う……?」
「あ、ウェールズ? 目が覚めた? 大丈夫?」
目を覚ましたウェールズは顔を覗き込むようにしていたティファニアと目が合った。
そこで気付く。
自分はどうやら寝ていたらしい……と腹部に痛みを感じた。
「まだ動かない方が良いわ、酷い出血だったし」
そう言われて、何があったのか思い出す。
「そうだ、アンは?」
「……あの人は、アニエスさんが連れて帰るって」
やや消沈したようにティファニアの表情が陰る。
「そうか……ティファニア、君魔法を使ったね?」
「……うん」
ティファニアは否定しない。
あの時、ティファニアは忘却と呼ばれる虚無魔法を使った。
「アンは、どうなったんだい?」
「“ウェールズに関する事”を“全部忘れてもらった”の。上手くいったかはわからないけど」
「そうか……」
ウェールズは短く答え、目を閉じる。
昔のアンリエッタはあんな無法者では無かった。
「……どうして魔法を?」
それは責めているのではなく、単純な疑問。
何かの魔法でも使わなければ彼女が止まらないだろうことはウェールズも途中から薄々気付いていた。
だが、自身の中の甘さか、彼女と過ごした過去の年月とその後ろめたさからか、ウェールズは結局最後まで自分で手を下すことが出来なかった。
「……ウェールズを助けたかったの。だってあのままじゃウェールズが……」
それを聞いて、ウェールズは益々申し訳ない事をしたと思った。
“無垢”な彼女の手を汚させてしまったと。
ウェールズは止めるティファニアの声を無視して腹部の痛みに耐えながら上半身を起こし、ティファニアを抱きしめる。
「すまない。君に嫌な役を押しつけた。それは本来、僕がやらねばならないことだった」
「そんなこと……」
「アンは、あんなんじゃなかったんだ。それが僕には信じられなくて、ああまで変わってしまったアンを止める事が出来なかった。僕は卑怯者だ、自分で手を下せなかったのだから」
「違うよ、ウェールズは卑怯者なんかじゃないよ」
「ありがとう、ティファニア。こんな僕で良ければ、今度こそ、僕が君を護ろう」
そう言って、より一層強く抱きしめる。
彼女は思う。
この“温もり”は、“彼”は、“何があろうと絶対に手放さない”と。
彼女はこの時、ルイズの教えをようやく悟り、ありがたく思った。
そんなティファニアの瞳からは、輝きが消えていた。
この後、ここにティファニアの姉のような存在が、好色な“夫”を連れて帰って来て、再び一悶着あるのだが、それはまた別のお話。
***
アンリエッタは困惑していた。
銃士隊という“創立目的不明”の隊長アニエスが自分の騎士になっているという“覚えの無い事”もさることながら、自分の部屋の中に見覚えの無い帝王学や戦争関係、政務の本など“為政者”として必要そうな本がたくさんあるのだ。
マザリーニが勝手に置いたのだろうか?
自分はこういうのは嫌いだと知っている筈なのだが。
だが、異変はそれに留まらない。
軍の会議や戦後処理等様々な会議に自分は何故か駆り出された。
そんなことは今までそうなかったし、案の定言っている事がちんぷんかんぷんだ、と思っていたのだが“何故か”内容が理解出来てしまった。
それは軍の情勢と内情、戦後における公約と立て直し、国家予算の不足と嘆願の数々、トリスタニアで行方不明になっていた徴税官がゴミ山の中から背中に酷い裂傷を負い、顔は原型を留めない程潰れた死体となって発見された、などその多くは聞きたくも無い内容で、特に戦争に関する事が大半を占めた。
だが、“何故戦争をやったのか”という根本が自分の中には“無い”為に、話を半分にしか聞く気になれない。
まるでしばらく自分が自分でなかったような、その間の事がほとんど覚えていていないような、そんな奇妙な感覚。
不安に駆られ、話を聞こうとマザリーニを呼びつけても忙しいの一点張で、やむなく自分から赴いて問い質したが、彼は不思議そうにして、
『貴方が望み、必要と判断しておやりになったことでしょう。何を今更言っておられるのです?』
覚えの無い事を言われる。
もう何もかも信じられない、そう思ってしつこく「それより政務をして下さい、この前も勝手に外出されて……」などと“わけのわからない事”を言うマザリーニを無視し、自室に引き籠もって居た時、トリステインでは珍しい黒いおかっぱ頭の少女が自室を尋ねてきた。
「女王様……」
「貴方は……」
────────シエスタ────────
頭には彼女の名が浮かぶ、が何故彼女と知り合ったのか、何故彼女がここに居るのか“わからない”、“思い出せない”
「サイトさんはどうだったのですか? ミス・ヴァリエールは? “薬”は上手く作用していたんですか?」
「薬? 何のことです?」
「惚けないで下さい!! 貴方様が“わざわざガリア国王と裏取引をして手に入れたエルフ製の禁忌薬”ですよ!! 国宝の“破壊の杖”と“そうと気付かれない工作”を施して交換して下さったではありませんか!! “ちゃんと”ミス・ヴァリエールは“記憶喪失”になったのですか!? “私のサイトさん”は無事なのですか!?」
シエスタは焦ったようにアンリエッタに縋り付き、質問を重ねる。
「薬? ルイズ? 記憶喪失? 貴方は……何を言っているの? そもそも貴方は……“どうしてここにいるの?”」
「っ!? 何を言って……」
シエスタは目を見開く。
女王の様子がおかしい……そも“目”が、“自分と同じ色だった目”がいつの間にか透き通っている。
シエスタがアンリエッタと知り合ったのは偶然だった。
アンリエッタがタルブ近郊にアルビオン部隊降下後、戦線情報収集と近郊国民の士気を高めるために僅かな時間訪れた時、“自分と同じ目をしている”として目を付けられたのだ。
話をしているうち、シエスタの想い人を聞いて、アンリエッタは“虚無”を御する“非人道的”とも呼べる作戦を考えた。
“虚無”は戦争をするにあたって有力な武器になると考えていたアンリエッタは、友人とウェールズの弔いを天秤にかけ、弔いが勝ってしまったのだ。
ルイズが大事では無いわけではなく、それよりも彼女のウェールズを想う気持ちが上回っただけのこと。
シエスタもまた、そのように利用されていると知りながらも、サイトを自分の物に出来るなら、と悪魔のような契約書にサインをし彼女の手を取ったのだ。
マザリーニは唯一この作戦を聞いていたが、恐ろしいと思った反面、泥を被ってでも進むという“為政者”としての彼女の才を見た気がし、かつ虚無を味方に出来るならと反対していた“平民の貴族化”に賛同し彼女を支持した。
だが、それらの事実を、今のアンリエッタは“一切覚えていなかった”
周りが自分ではない自分を見ているようで、覚えの無いことばかり言われて、アンリエッタは錯乱しそうだった。
「うう、何が一体どうなっているの? 助けてルイズ。私の“唯一”のお友達……私はもう、貴方以外何を信じれば良いのか……」
アンリエッタは“友達だと思っている”ルイズに胸を馳せるが、彼女がここに居ない事が自分にとって“幸福”だということを知らない。
「……女王様、入ります。今日も“この顔”で宜しいので?」
混乱の中、ノックと共に入ってきたのは金砂の髪に端正で綺麗な顔立ちをした……まるで“王子様”のような少年だった。
何処か、見覚えのあるようでわからない、“とても大事だった筈なのに思い出せない”そんな顔の少年。
一筋の滴が、瞳から滴り落ちる。
何故かはわからない。
ただ、“彼”のことを“思い出せない”のが何故だかとても悲しかった。