第百七話【再怪】
少女の肩が上下に動く。
息を切らせ、短く呼吸を繰り返す。
純白のドレスの裾が、泥で汚れている。
少女の目の前には一軒の家があった。
その少女は部下から届いた報告を見て、いてもたってもいられず政務も何もかもをほっぽり出し、止める兵士を薙ぎ払い、護衛も付けずに国を飛び出したトリステイン国家元首、アンリエッタ・ド・トリステインその人だった。
アンリエッタは肩で息をしながら目の前の家を見つめている。
「ここに、ここに“あの方”が……!!」
アンリエッタは逸る気持ちを抑えられず、礼節的なノックも忘れ家の中に飛び込んだ。
***
“それ”は、住人が減って閑散としていた家に突然やってきた。
何の前触れも無く勢いよく開かれる扉。
同時に入ってくる息の荒い女性。
その女性が身に纏っているのは純白のドレスで、ここに来る途中でそうなったのか所々が汚れ、解れかけているが、それでも高貴さを滲み出させるほどの豪勢極まりない……このウエストウッド村など森の中みたいな場所に来るにはおよそ相応しくない……そんな姿だった。
それを、目を丸くして最初に出迎えたのは幸か不幸かその女性を知る女性……否、ここに呼びつけた女性のみだった。
「で、殿下!? まさかこれほど早く、しかもそのような格好でいらしたのですか!? 護衛は!? 何故お一人なのです!?」
ここに呼びつけた女性、アニエスにとって彼女の“この来訪”は予想外の一言に尽きた。
自分で呼び寄せておいて何だが、彼女には政務があり、責務があり、義務がある。
そう早くここに来ることなど出来まい、そうアニエスは踏んでいたのだが、予想とは違いその到着は存外“早すぎた”
これは異常だ。
上司……いや女王の全ての日程を把握しているわけではないが彼女自身が城を空ける事が出来る程、戦乱後の混乱……戦後処理は済んでいない。
少なくとも自分がトリステインを出る時はそうだったし、その情勢はしばらくは続くと政務に疎い自分でも感じられた。
もとより一国の元首ともなればそう自由な外出など許されようはずも無い。
ただでさえ外出が難しいお方が、今一番忙しいこの時期に、身ぐるみ一つで護衛も無しに戦争相手国である“ここ”へ“正式な手続きを踏んで”来られるわけがなかった。
異常事態。
そう呼ぶほか、彼女が今ここに居る理由が説明できない。
「アニエス!! “そんなこと”はどうでも良いのです!! “あの方”は? “私のあの方”は何処におられるのです!?」
“そんなこと”
アンリエッタは今“そんなこと”と言った。
一国一城の主であり、その身の安全は国にとって最重要に等しき物。
その最重要物を“そんなこと”と言って切り捨てた。
彼女がいなければ国は路頭に迷い、崩壊することだろう。
“優秀で実質的な為政者”が細いその身をさらに削れば、もしかしたら崩壊は免れるかもしれないが、それでも“象徴”は必要なのだ。
小国なトリステインを支えているのはその“系譜”の力のおかげも一端を担っている。
始祖として崇め奉られているブリミルという過去に実在した偉人メイジ。
彼の人物の血をトリステイン王家もまた継いでいるのだ。
それが失われることはトリステインの歴史が失われることと同義になりかねない。
よしんばトリステインが存続出来たとして、外交手段は著しく減衰し、他国へ助成を求め、多大な“貸し”と“借金”をすることになるのは間違いない。
そうなった時、それを返せる見込は戦争で疲弊した現状のトリステインには無い。
いや、元々戦争する前から貧窮はしていたのだ。
“クルデンホルフ”から一体どれだけ財源を借り受けていたのか、財務に携わる者なら嫌でもわかる。
返せる見込の無い借金を背負い国が存続していけるのかの不安もあれば、それを受け継ぐ次世代への不安もある。
“優秀で実質的な為政者”など、いつの時代もそう都合良くゴロゴロと転がっているわけではない。
今の宰相がその生涯を終えた時、果たしてその意志を継いでなおかつ彼と同等に為政出来る人材がいるのか等……不安要素を上げればキリがなくなる。
またトリステインはその血筋からも言える通り、古くからある由緒正しい国でもあり、領土こそ他国と比して小さくとも住人もそれなりに多い。
国が無くなる、混乱するということは、その国民達全てがその煽りを多大に受ける事になるのだが、彼女はそれを“わかっていてそんなことはどうでもいい”と言ってのけた。
アニエスは息を呑んだ。
彼女のその他を顧みないその顔には見覚えがある。
それは“過去の鏡の中の自分”だった。
何を置いても復讐の道しか頭に無かった……否、今も復讐の為に男を籠絡しようとしているのだから同じ穴の狢なのだが、その自分の顔と、彼女は同じ顔をしていた。
(こんなにも、こんなにも醜いものなのか……)
アニエスは内心そう思いながらも、それを諫めることなど出来ようはずもない。
彼女に仕える騎士だから、ではなく同類の分際でそれを“悪”として諫めることなどどうして出来ようか。
ただ、救いは彼女がそれを知らぬうちに“過去の自分”と思っているところだろうか。
醜いと気づけたということは少なくともそういうことなのだ。
もしかすると、まだアニエス自身は気づいていないのかもしれないが。
「は、もうすぐこちらに来られるかと存じます。少々お待ちを」
「待てないわアニエス!! 今すぐ案内なさい!!」
ギラリとした眼光で、整わぬ息づかいのまま、しかし張りのある声でアンリエッタは反論する。
急がなくても“彼ら”はここにすぐ戻って来るのがわかっているアニエスは、さてどうしたものかと逡巡するが、長く考える必要は無くなった。
アンリエッタの目当て、元アルビオン皇太子、ウェールズ・デューダーがこの場に現れたからである。
***
「ウェールズ様!!」
ウェールズが来るのと同時、声を上げてアンリエッタはウェールズの胸に飛び込んだ。
「アン!? 君なのか!?」
突然の事で驚愕を隠せないウェールズは、胸の中に縋り付いて離れない王女……否女王にして従姉妹の彼女のされるがままになっていた。
「はい、“貴方の”アンリエッタですわ。ウェールズ様、良かった……本当に良かった……!!」
アンリエッタはウェールズの背に手を回して彼を抱きしめようとし「ひゃうっ!?」変な声を聞く。
アンリエッタはウェールズから一歩退いて首を傾げると、恐る恐るといったようにウェールズの背中から少女が顔を覗かせた。
何かに怯えたようにウェールズの背中に隠れつつも顔だけをひょっこりと出している。
それに気付いたウェールズがようやくと再起動を果たした。
「ウェールズ様、その方は……?」
「ああ、すまない。彼女はティファニア、僕の命の恩人だ。彼女が僕に気付いて介抱してくれなければ僕はここにこうして居られなかっただろう。ティファニア、彼女はアンリエッタ。僕の従姉妹……ということはティファニアとも従姉妹、になるのかな」
「従姉妹……?」
アンリエッタは首を傾げる。
親戚なら見覚えくらいあってもいい筈だが、どうにも彼女に見覚えは無い。
「アンが首を傾げるのも無理はない。彼女は君や僕の父上の弟……モード大公の娘なんだ」
「プリンス・オブ・モードの? そういえば私はそちらの親類縁者とは関係が薄かっ……娘? ……アッ!?」
アンリエッタはモード大公の娘と聞いてその意味を思い出したのか、ややバツが悪そうな顔をしながらもティファニアに話しかける。
「ええと……ティファニア、さん?」
アンリエッタに呼ばれ、ティファニアはおっかなびっくりではあるがウェールズの背中からその隠れきっていない豊満な体を表した。
「ウェールズ様のこと、ありがとうございました。その、お父上とお母上のことでこれまで大変だったでしょうけど私自身はその事は特に含む物はありませんので、何よりウェールズ様を助けてくれたんですもの。どうかよしなに」
「あ、えっと、ティファニアです。宜しくお願いします」
アンリエッタが頭を下げたので、ティファニアも慌てて頭を下げる。
それからクスッティファニアは笑った。
「どうかなさいました?」
「あ、ごめんなさい。ルイズもアンリエッタ……さんも同じ事言う物だから」
「さん付けはいりませんわ。従姉妹ですもの。それよりルイズ、ですか? “そういえば”彼女も無事なんでしたわね。ルイズと同じ事とは……?」
「えっとね、私自身はたいしたこと出来なかったんだけど、サイトを介抱したの。そしたらルイズがサイトを助けてくれてありがとうって」
「そうですか、では使い魔さんも無事なのですね」
「あ、それは……ねぇ“ウェールズ”……」
ティファニアがアンリエッタの言葉を聞いて表情を沈ませる。
だが、そのティファニアのウェールズの呼び方に、アンリエッタは眉を吊り上げた。
和やかだった空気が、一変する。
「呼び捨て、ですか? 随分と“私のウェールズ様”に馴れ馴れしいのですわね? それにウェールズ様には言えて私には言えないことでも?」
「えっ!? 違っ……そういうつもりじゃないの。ごめんなさい…………“私のウェールズ様”?」
ティファニアはすぐに怯えて謝辞を口にするが、アンリエッタの発言の一部に反応する。
「そうですわ、“私のウェールズ様”です。見たところ貴方は懐妊されているようではないですか。そんな身で他の男性を誑かすのは少々いかがなものかと思いますわ」
アンリエッタは、先程までの聖母のような顔から一転、蔑むような目でティファニアを見つめる。
恐くなったティファニアは再びウェールズの背中に隠れてしまった……が、それがさらにアンリエッタのボルテージを上げる。
「ちょっと貴方「よすんだ、アン」……!?」
頭に血が上ったアンリエッタは、ティファニアに掴みかかろうとするが、それをウェールズは妨害する。
「ウェールズ様?」
信じられない物を見るような目で、アンリエッタはウェールズを見る。
自分のウェールズは、自分の知る自分の中のウェールズは自分に異を唱えたりするような人だっただろうか。
自分はウェールズを愛し、ウェールズは自分を愛し、常に互いが互いを全肯定するような間柄だった筈だ。
アンリエッタの脳内には優しいウェールズがいつも自分に微笑みかけているが、今現実のウェールズは目の前で他の女を自分から護るように険しい顔立ちで立ちはだかっている。
他の女を護っている。
ホカノオンナヲマモッテイル。
ティファニアは恐がり、ウェールズの服の裾を怯えながら掴んでいる。
それをウェールズが優しそうに撫でている。
他の女の事を気にかけている。
ホカノオンナノコトヲキニカケテイル。
彼は自分しか見ず、“自分だけを愛している”筈だ。
なのに目の前の現実は、そんなアンリエッタの脳内を侵食するかのごとく“彼女にとってありえない”物を見せる。
アリエナイ。
なんで自分を見ずにそんな女の事ばかり見る?
オカシイ。
何だこれは? 何なんだ?
アンリエッタは目の前の“現実”を見て、段々と瞳孔が開ききったように黒一色の瞳になっていく。
目の前の受け入れがたい現実について、必死に解答を探し、瞳から完全に光が失われた時、
────────ああ、そうか。
ようやくとその解を見つけた。
気付いてみれば簡単なことだったのだ、その“解”も、彼を“元に戻す方法”も。
「“その女”が、貴方を“誑かして”、“狂わせて”、“おかしくしている”んですのね……?」