2207年10月6日 9時13分 『シナノ』第2工場視界が揺らぐ。目の前に見える卵型の構造物が、自分が作り上げた機械が、パレットの上でかき混ぜた絵の具のように捻じれ、渦を巻き原型を無くしていく。上下の感覚が曖昧になり、ゆっくりと逆さまになっているような錯覚に陥る。ベルトで固定されているはずの自身の体が、まるで宇宙空間を彷徨っているかのよう。今までの常識がまるごとひっくり返って、異世界に放り込まれた気分だ。実際、今現在『シナノ』は亜空間を一路進んでいるのだ。ワープ航法波動エンジンと亜空間を利用することで、通常航行では10年経っても到達できないような遠距離へとほんの10分程度で辿り着いてしまう、夢の技術。イスカンダルからの技術提供によって実現したその画期的な航法は、地球人の活動範囲を従来の倍、太陽系から12光年の距離まで大幅に広げた。4年前のように地球の危機には星を捨てて他の星へ移民するという手段をとることも可能にせしめた。地球連邦においてワープ航法が確立したのが、母なる星が滅亡せんとする最中の2199年。それからわずか8年で、地球人類は異星由来の技術を完全に自分のものとした。そして今では宇宙艦艇はおろか、太陽系外へ航行する民間船の多くがワープ航法を用いるようになった。従って、もはや地球人類にとってワープ航法は身近なものになりつつあるのだが……。「……うっぷ」やはり、ワープ時特有のこの感覚には慣れない。「ぐえ……。ううっ……」フランク・マックブライトがワープを体験するのは、これで4回目だ。 太陽の核融合が異常増進した際に避難船に乗った際に一往復、つまり2回。『シナノ』に乗って冥王星まで行ったのが3回目。だが、この緩やかに回転しているような、水飴の中に漂っているような浮遊感は、何回経験しようと慣れることはないだろう。視界に、再びコスモクリーナーEの姿が3重に重なって映る。千々に乱れる意識を繋ぎとめる為、マッシュブライトは自らが造り上げた作品へと視線を集中させた。6年の歳月をかけて開発した、放射能除去装置の新型モデル。 小型・量産化しただけのコスモクリーナーDMPとは違う、初の地球製コスモクリーナー。宇宙船舶がなんらかの損傷により艦内が汚染されたことを想定して開発した、艦載型万能クリーナー。といっても理屈自体は単純で、ただ放射性物質と放射線を無害化するだけでなく、その他諸々の有害物質も無害化できるようになっただけだ。本来、有害物質には、それぞれ異なった無害化の方法がある。しかし、宇宙船舶事故で想定されうる全ての有害物質を無害化する為には、多種多様の中和物質を積載しなければならない。水上船舶なら換気して有毒ガスを撹拌、あるいは大気に逃がすことも可能だが、密閉空間ではそうもいかない。フランク・マックブライトが考案したのは、有毒ガスの無害化、中和化の過程で放射線を利用することだった。勿論、一口に放射線といってもこの場合は宇宙空間を飛び交う宇宙線のことで、主成分は陽子だが、陽子1000個に対し約100個のヘリウム原子核、8個の炭素~酸素にいたる原子核、3~4個のさらに重い鉄にいたる原子核が含まれている。窒素化合物や硫黄酸化物に電子線を照射することで硝酸や硫安に改質できることは、放射線物理学の黎明期から分かっていたし、放射線の利用自体は各種産業、医療、生物化学や物理など様々な分野で既に行われていた。コスモクリーナーEはこの基本概念を大幅に発展させ、宇宙空間中あるいは艦内に侵入した陽子線やα線の正体であるα粒子からβ線の正体であるβ線(電子あるいは陽電子)を取り出し、汚染物質の除去に利用するというものだ。概念としてはひどく単純なものだが、人類を絶滅の危機に追い込んだ放射線をもう一度工業利用するなどという発想は、放射性物質と放射線を人間が完全に征服したからこそできることだ。イスカンダルからコスモクリーナーDが届かなかったら、地球の科学者がこの領域に行きつくにはあと数十年……いや、一般人の放射線に対する忌避感が薄れるまで百年はかかっていただろう。もちろんその前に地球人類は放射能汚染によって絶滅していたはずだ。イスカンダルのスターシャがもたらした波動エンジンの設計図やコスモクリーナーDは、人類の技術史と精神年齢を200年は進めたのではないだろうか。現実逃避の為に放射線除去の根本理論を頭の中で反芻していると、体調に変化が訪れた。現実感がまるでなかった幻像のような風景が、徐々に立体感を帯びていく。水面に浮上していくような、住み慣れた世界に回帰する実感。遊離していた身体と意識が結合して、現実世界が目の前に創造されていく。最後にブレーキをかけられたような衝撃を背中に感じて、マッシュブライトは通常空間に帰ってきたことを感覚的に理解した。『ワープアウト完了。総員、損傷個所のチェックを急げ』そのアナウンスを受ける前に、正規クル―達は次々と立ち上がり、持ち場へダッシュしていく。本当ならば我々もすぐにコスモクリーナ―Eの点検に向かいたいところだが、民間人である生徒達は、殆ど経験の無いワープに精も根も疲れ果ててしまっていて、シートベルトを外したはいいもののその場に両手両膝をついてしまう。三半器官の弱い者は床に倒れこんでしまうほどだ。大人の意地で平気そうな表情を取り繕っているが、周りの目がなければこのままベッドに倒れこみたい。その証拠に、情けない事だが、いまだ椅子から立ち上がることすらできないのだ。《なんだ、地球人というのはいい大人がワープ酔いするものなのか。いくらワープ航法に慣れていない民間人だからといって、そのような醜態を晒すようでは子供の手本にならないぞ》そんな私達の前を、一匹の黒猫が余裕綽々と歩き去っていく。……黒猫が人語を喋っていたような気がするのは、ワープ酔いの所為だと思いたい。◇同月同日9時48分 『シナノ』医務室王宮の中で育ったからという訳ではないが、世間というものは狭いものだと本当に思う。たとえば、生後2か月の頃王宮を抜け出して城下町に遊びに行けば、たまたま休暇を取って実家に帰っていた女官に遭遇して強制送還されたり。生後6か月の頃に爺やを撒いて脱走した時には、たまたま入った店に衛兵が強制捜査に突入してきて、あやうく犯罪者に人質にされそうになったり犯人と間違われそうになったり。中でも一番驚愕したのは、1歳の誕生日。過去の失敗から通常のやり方では脱走してもすぐに見つかってしまうと悟った私は、王宮への出入りが多くなりまた城内が混乱を極める日時を選んで脱獄計画を練った。そう、私の満一歳の誕生パーティーの最中に脱走するのだ。私はこの日の為に逃走ルートを綿密に計算し、発生し得る障害への対処と幾度もシミュレーションし、幾重にも裏工作を施した。まず、今まで使ってきた壁沿いや天井裏といった12の逃走ルートを全て破棄。既に発見されて見張られている可能性があるからだ。次に、城内警備のスケジュールと配置表を極秘裏に入手。その上で、物理的かつ心理的に最も相手の意表をつける、かつ大胆な逃走ルートを策定。更に、私がパーティーを抜け出しても違和感がないように、何日も前から体調が優れないとさりげなく周囲に伝えておく。勿論、具合悪そうな演技をすることも忘れずに。最後に、いつも王宮に出入りしている幾つかの業者にこっそりと渡りを付けて味方につける。当日、祝いの席だからとブーケを唆してマタタビジュースを飲ませてベロンベロンに酔わせた上で、人込みに酔ったからと騙ってパーティー会場を脱出。事前に入手した給仕服に着替えて堂々と厨房を通過し、勝手口から建物の外へ。扉を開けたところに待機させていた業者の車へダッシュし、空の段ボールが山積みにされた荷台に潜り込む。事前に買収した業者を幾度も乗り換え、その度に隠れる場所も変えた。最初は段ボール箱の中、次は馬用の藁束の中、更には甲冑の中。最後はトラックの助手席に乗って、正々堂々と正門から出ていってやった。王宮と城下を繋ぐ橋を渡り切って、トラックが加速し始めた時の興奮は、今まで脱走した時の何倍ものものだった。人影が少なくなった所でトラックを降ろしてもらい、私は夕焼けが遠くなりつつある城下町に繰り出す。遊ぶ準備は万端。既に給仕の服は破棄して、平民風の服に着替えてある。もしも職質された時の為のキャラ設定も万全。軍資金もちゃっかり準備してある。王宮に住んでいる私がどうやって貨幣をゲットしたかは内緒だ。まずは、衛士に見つからないように大通りから一本はずれた裏路地にある食事処に行って、王宮では食べられないような濃い味でジャンクな平民料理を堪能した。私は、王宮で出るような小奇麗に並べられた高級感あふれる、しかし少量しか無くて満腹感を得られない料理よりも、味と安さと速さを重視した平民の料理の方が好みだ。カウンターから眺める事が出来る、フライパンとお玉を豪快に振り回す調理風景。お玉で調味料を目分量で掬うテキトーな味付けと、フライパンからお皿にかきだしただけのダイナミックな盛り付け。店の雰囲気や隣で舌鼓を打つお客さんや、それら全てを感じつつ食べるのが大好きだ。それは、星間戦争の暗い雰囲気も吹き飛ばす、市民の活気を象徴する象徴しているように思えた。腹を満たしたら、今度は城下町一番の繁華街をウィンドウショッピング。今日は私の誕生日を祝して、いつもよりも更に人と品物と装飾で溢れかえっているとのこと。出征に伴って閉店する店が多いらしく、商店街は以前に比べて灯りのついていない店頭が増えたらしいが、街灯の光に照らされて輝くショーウィンドウや飾り付けられた装飾品は、それでも私の目にはシャンデリアの何倍も何十倍も輝いて見えた。星の瞬きを隠すほどに色鮮やかさを主張するイルミネーション。豊かさを体現したかのような、街を行きかう人々の熱気。アレックス王国の首都ペイラは、数十世紀変わらぬ姿を見せる石の街だ。歴史を重ね続けたその外観は、それだけで胸の内にこみ上げる物がある。普段は首を傾げて見上げるばかりの居城を遥か遠くに小さく見るのも、街に出なければ味わえない興だ。私はあの時、間違いなく生まれてきて一番楽しい瞬間を体中で満喫していたのだ。……しかし、私の冒険は思ったよりも早く終わりを迎えた。一時間ほど外の世界を堪能していると、背後からそっと肩を叩かれたのだ。「サンディ殿下、お迎えに上がりました。さぁ、王宮へ帰りましょう」興を削いだ衛士に振り向き、恨みをたっぷり含んだ視線を向けてやる。「……随分早いわね。もしかして、最初から泳がされていた?」選ばれた者だけに着用を許された華美な甲冑をつけた衛士は、私の殺気などどこ吹く風。「仕事中です」と言わんばかりのポーカーフェイスで、私の質問に淡々と答えた。「いいえ。目撃者の通報です」「自慢じゃないけど、私の変装は完璧だったはずだけど?」「ええ、姫殿下の変装は完璧でした。脱走の手筈も完璧です。通報者がいなければ、あと2時間は姫様の脱走に気付かなかったでしょう」「あら、私も上手くなったものね。じゃあ、後学の為に誰が通報したのか教えてくれる?今度脱走した時にボッコボコにしてあげるから」それは無理ですよ、と、漸く相好を崩して苦笑いする。「だって、通報したのは猫さんですから」「……はい?」猫?人間じゃないですと?「ええ。姫様、先程市場にある『林檎亭』という定食屋で夕食を召し上がられましたよね?」「よく知ってるわね。やっぱり、最初から尾けてたんじゃないの?」「いえ、通報者はそこの食事処の飼い猫のシロさんなんです。」「……………………はい?」飼い猫? 『林檎亭』にいる?――――そういえば、テーブルやカウンターの下を徘徊して誰彼かまわず足元にすり寄っている真っ白な猫がいたわね。まさか、あの猫がスパイだったとでもいうの!?「ブーケ殿の話ですと、シロさんはブーケ殿の昔馴染みだそうで、度々王宮に招かれていたそうです。姫様の事も匂いですぐに分かったそうですよ」世間は狭いものですね、と甲冑を鳴らして肩を竦める若い衛士。そうか、いつも口うるさくお小言を言ってくるブーケが原因か。あとでタマネギのスライスを差し入れしてやろう。「それじゃあ参りましょうか、姫様。父君が怖い顔して待っておられますよ」「はぁ……。同じ怒られるなら、もうちょっと楽しんでからにしたかったわ。見逃してくれない?」「ダメデス」「そうよね……」こうして、かつてないほど用意周到に練った脱走計画はあっけなく幕を閉じたのだった――――――何で、こんな何年も昔の記憶を回想しているのだろうか?「本当にあなた、6歳なの!? 小学生じゃない!」サンディが言った何気ない一言に、椅子に座っている黒髪の女性―――アカネというらしい―――は目を丸くして驚いた。そうだ、今は世間は狭いってことを話している途中だったのだ。「ショウガクセイというのが何かは分からないけど、6歳というのは間違いないわよ。サバ読んでるとでも思ってるの?」サンディは肩を竦めながらアカネに答える。私は今、人生で初めて会った異星人と何の違和感もなく談笑している。相手は母なる星から250万光年先、天の河銀河の地球という星の人間だという。そんな遥か彼方の人間と、言葉が通じているどころか円滑な会話が出来ている事自体、驚愕すべき事態だ。晩餐会で紹介された同じ星系のダイサング帝国やプットゥール連邦の人達とは違う、それこそ文字通り縁も所縁もない、極端な話をすれば違う生物。進化の大樹のどの枝にも属していない、むしろ別の木の枝の先にいる2種類の生物が、これほどまでに姿かたちが似ているものなのだろうか。しかも驚くべきは、こんな最果てにいる人間が、我が民族の始まりの地であり今回の旅の目的地であるイスカンダルと浅くない縁があるということ。王宮を脱走した時も思ったが、思いがけないところに思いがけない知り合いが出現するものである。「いや、あかねが言ってるのはサバとか言うレベルじゃなくてだな。星が変われば人間の成長の仕方も変わるって話だよ」「キョウスケ、それってどういう意味?」不快そうに目を細めながら、アカネの兄だという青年に視線を向けた。金髪が当たり前のアレックス人には珍しい、焦げ茶色の髪。サラサラした前髪はいくつかに分かれて無造作に伸ばされている。やや釣り目気味で一瞬とっつきにくそうにも見える。その所為もあって最初は強く当たってしまったが、よくよく話してみると、私のからかいに不愉快そうな顔をしつつもしっかりレスポンスしてくれる。アカネと話しているときは兄弟で似たような雰囲気を醸し出しているし、どうやら悪い人ではなさそうだ。そのギャップが面白くて、今でもついついからかってしまうのは何故かしら。打てば響くというか、からかう程度に合わせて期待通りに反発してくる彼の性格に、嗜虐欲をそそるというか支配欲が刺激されるというか。昨日の夜、私はこの人とブーケから現状を教えられた。最後のワープで、私達が乗ってきた艦は天の川銀河に辿り着いた事。敵がしつこく追撃してきて、ついに艦が沈んだ事。この宇宙船―――『シナノ』というらしい―――の人達が私を救出してくれた事。その際私は負傷して、しばらくこの病室で安静にしている必要がある事。養生している間はブーケが地球との交渉を受け持ってくれる事。ブーケに任せることには何の不安も抱いていない。父の代から王宮に仕えているあの化け猫は、実務能力や交渉能力は私よりも上だ。ならば、せめて体調が回復するまでは、本来ならば航路が交差するはずもなかったはずの人達とこうして出会えた奇跡を噛み締めるとしよう―――。「俺達地球人は、サンディくらいの姿に成長するのに20年以上かかるんだ。別にサバ読んでるとか思っていった訳じゃないからな」質問を向けられたキョウスケは、私を諭すように説明する。「20年!? なによそれ、何で地球人ってそんなに成長遅いの!? 動物よりもひどいじゃない! なに、辺境の人間って猫の子孫か何かなの?」キョウスケの反応を期待して、少し強めに反応してみせる。「それを言うならアレックス星人は成長が昆虫並みに早いな! 貴様の親は蝶か何かか!」「なんですってー!? 貴方、アレックス人を侮辱する気!? いいわ、それなら戦争よ!」「テメェこそ地球人馬鹿にしてんじゃねぇ! それに戦争ならお前は今すぐ捕虜だ捕虜! ハーグ陸戦条約上等だコラ!」「ちょっと、恭介もサンディさんも落ち着いてってば! 全く、なんで二人はそうやってすぐ衝突するかな?」「「だってコイツ(キョウスケ)が!」」ハモッてしまい、お互いに顔を顰めて睨みあう……が、私は内心ほくそ笑んでいた。ここまで期待通りのリアクションをしてくれる人も珍しい。知り合って1日経っていないのに、私は3人での会話を楽しんでいた。「そのくせ、変なところで息が合ってるんだよね……。自信無くしちゃうなぁ……」一方で、何故かアカネが意気消沈している。ベッドが隣同志という縁で仲良くなったヤナセアカネは、見た目は私と同じくらいの年齢の女の子だ。実際の年齢はおそらく私よりも10も20も違うかもしれないが、なんとなく意気投合したので年齢差はこの際気にしない。「もう、何言ってるのよアカネ。私とこのお猿さんが息が合ってる訳ないじゃない」「お猿さんって……。この翻訳機ゼッテー壊れてるな、オイ」後ろで縛った黒髪の房を胸元でつまんでいじけている様は、女の私から見てもかわいらしいと思う。しかし昨日から接し続けた印象としては、普段のアカネはもっと明るくてサッパリした性格なのだろう。異星人であり王女である私に対して、物怖じもせず恐れもしない態度。目を醒ましたら一人ぼっちで知らないベッドに寝かされていて、傍にブーケもいなくて、もしかしてガトランティス帝国に捕えられてしまったのではないかと怯えていた私の不安を綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれた、アカネとキョウスケの騒がしくも温かみを感じるじゃれあい。あれを見たからこそ、私は自分だけ助かってしまった罪悪感に押し潰されそうながらもこうして笑顔を繕う事が出来ていた。(まさか、私とキョウスケが仲良くしている事に拗ねてる?)なればこそ、シュンとしているアカネをみて何が彼女に起きているのかすぐにピンときた。(もしかして、アカネって……)……私の中で、悪戯心が鎌首をもたげる。「……一日中ベッドにいても、退屈はしないで済みそうね」遠くないうちに自身の周りに訪れるであろう混乱も、自分の行く末への不安も、今この時だけは忘れることができそうだ。