頭の上がらない由紀子さんからの電話。……電話になかなか出なかった事を何て言い訳しよう。想いを巡らせつつ、恭介は通話ボタンを押すと、「――――――――――――――――もしもし」「コォオラアアアアアァァアアアァァァアアアアアアァアァアァア!!」キ―――――――――――――――――――――――――――ィィィィン…………あかねの声が右から入って左に突き抜けた!あれ!?ゆ、由紀子さん?由紀子さんはいつからあかねに進化したのですか!?「ちょっと恭介!いるんだったら最初から電話に出なさいよ!怪我とか病気とかしてんじゃないかと思って心配したじゃない!ってアレ?画面が出てこないよ?」「……怪我なら今したぞ、特に右耳が。てか何であかねが由紀子さんの携帯で掛けてるのさ」そう、ディスプレイに映っているのはパジャマ姿のあかねだった。薄いオレンジ色をした冬物の寝間着に身を包んだあかねは、前回帰省した時に見たのとは違った意味で大人しい――柔らかな印象を見せる。「いや、私の携帯で出ないからお母さんのならと思って。それより、画面が映ってないんだけどどうなってんの?」携帯を変えれば出るかもしれないという発想に、呆れて溜息が出る。しかもその考え方は、自分が着信拒否されている事が前提になっていることに気づいていないのか、こいつは。「たまたま出なかっただけだよ。気にすんなって」「うーん、なーんか釈然としないけど、まぁいいか。それはそうと、なんでSOUND ONLYなの?」「な、なんのことだ?」「ふざけてると殴るよ?」「お前はテレフォンパンチができるのか」「あんた何言ってんの?」「う、うるさいな。髭剃ってないんだ、人様に見せられる顔じゃないんだよ」「髭?あんたって髭濃い方だったっけ?」……しまった。とっさに髭面を言い訳にしてしまったが、仕事に出ているなら髭は毎日剃っていないとおかしいじゃないか。いや、正月休みと言い張ればまだ言い逃れられるか?「それよりどうしたんだ、こんな夜中に。何か急用でもあるのか?今は忙しくて手が離せないんだが」「いや、恭介にお願いしたいことがあったんだけどね。それはおいといて、画面出してよ。髭面でもいいから」「いや、断る。で、何のお願いなんだ?」「顔見せて」「殴るぞ?」「電話越しに殴れるわけないじゃん」「……お前、本当にいい加減にしろよ」声のトーンが低くなり、口調が変わる。あかねのしつこい追及に、イライラが募る。収まってきていたささくれが戻ってくる。あかねは唇を尖らせ、訝しがるような顔で俺――といってもあかねが見ているのは自分の携帯のレンズだが――を見つめている。「……ねぇ恭介。あんた、何かつらいことでもあったの?」「――――――――――――なんでそう思うんだよ」「いつもと全然調子違うじゃない。イライラしてるし、切り返しもうまくない。ねぇ、何かあったの?」「うるせぇな、あかねには関係ない話だろ」「……否定はしないんだ。それに、今忙しいってのも嘘ね。恭介、いま海の近くでしょ。船の汽笛の音が聞こえるもん」こんな時にだけ、妙に鋭い。電話越しだというのに、煩わしさが募っていく。「だからなんだ。俺がどこで何していようと勝手だろ」「勝手じゃないわよ……!そういえばさっき、髭面って言ってたわよね。まさかアンタ、ずっと仕事に行ってないとか言うんじゃないでしょうね?」「正月休みだ」「嘘ね。二・三日の休みじゃ髭面にはならないわよ」「なんだ、お説教でもするつもりなのか?」不機嫌を全開にした声で拒絶する。正直、今の俺には余計なお節介にしか思えない。俺がいつもの調子じゃない事は分かる癖に、そんなことも察してくれないのか、こいつは。「本気で言ってるの、それ。本当に怒るわよ?」そうだ、こいつは昔からそうだった。人の気持ちも知らないで一方的に自分の感情をぶつけてきて、そのくせ自己完結して終わっちまうんだ。そうだ、あのときだって……恭介は慌ててかぶりを振って、陥りかけた思考を追い出した。俺の事はそっとしておいてくれ。お願いだから、これ以上俺の気持ちを掻き乱さないでくれ!俺は電話を耳から離した。「っせぇってんだよ!!もう俺の事は放っといてくれっ!!」我慢できなくなった恭介の怒声が、無人の港に響く。「……ッ!!」あかねが息を飲む音が聞こえる。画面を見なくても、怯えた表情をしているのが容易に想像できる。僅かに罪悪感が胸を突くが、かまうものか。「何なんだよお前は!いちいちウゼェんだよ!俺にかまうんじゃねぇよ!!」「恭介、一体何を、」「いつもいつも俺のやることに文句言って来てよぉ!口出しすんじゃねぇよ!」心にもない罵倒の言葉が次々と口を衝いて出る。負の衝動に任せて発せられる音が夜の空気を震わせ、闇に染み込んでいく。今まで、ここまであかねに感情をぶつけた事があっただろうか。……いや、無かった。俺はあかねとは、この十年で冗談や軽口を叩き合える関係を築いてきた。しかしそれは、見方を変えればお互いに本心――感情を隠す仮面を被った関係であった。もしかしたら、これが初めての喧嘩になるのかもしれない。と言っても、俺が一方的に喧嘩を吹っ掛けているだけなのだが。やがて息切れした恭介が黙ると、周囲に歪な静寂が戻る。電話の向こうからは、一言も聞こえてこない。不審に思って耳から携帯を外してディスプレイを見ると、いつのまにか画面は真っ白になっていた。通話が切れているのかと一瞬思うが、名前と11ケタの電話番号は表示されている、どうやら、俺と同じようにカメラ機能をオフにしたようだ。「……放っとかない」互いに沈黙すること暫し。いい加減、こっちから通話を切ろうかと思い始めた刹那、さっきまでとはガラリと変わってあかねの震え声が耳朶を打った。【推奨BGM:「宇宙戦艦ヤマト part 2」より《大いなる愛》】「放っとくわけ、ないでしょう?」ぐし、と鼻をすする音がする。まさか、泣いているのか。こいつは、これくらいの事で泣く奴だっただろうか?「家族、だもん。心配して、当たり前じゃない。妹が兄さんの心配をして、何が悪いのよ」時折声を上ずらせながら、言葉を不器用に紡いでいく。「妹」「兄」という言葉に眉がピクリと動く自分が、少し嫌になる。「兄妹で支え合うの、当然の事でしょ。兄さんが落ち込んでいたら、励まそうって思うじゃない」「別に落ち込んでなんか、」「落ち込んでる。誤魔化そうとしてるの、分かるもん」「…………」いつもの快活な声とも、さっきのような元気過ぎて鼻につく声でもない。まるで病院で初めて会った頃……半年前にも見せた昔のあかねのようだ。呼び方も、昔のように「兄さん」に戻っている。「それを何よ、かまうなって。……私のこと、そんなに嫌いなわけ?話もしたくないの?」「…………」「半年前もそうだった……。兄さん、私がたまには帰ってきてって言っても結局返事しなかったじゃない。メールだって電話だって、兄さんの方からは絶対に来なかった」涙声が雨垂れのようにポツポツと響く。一体なんだ、この展開は。先程のイライラはすっかり収まってしまって、まるで酔いが一気に引いたような後味の悪さだけが胸の奥に重く引っかかっている。あれだけ暴言を吐いたんだ、あかねが怒って通話を切ってしまっておしまい。そうなるはずだったんだ。何故、俺はあかねを泣かせてしまったんだ?何故、あかねはあのくらいの暴言で、泣くほどまで傷ついてるんだ?「返事してよ、兄さん……。グスッ……そうなんだ、そんなに、私と話するの厭だったんだ……!」「……何で、俺にきつく言われたくらいで、そんなに泣くんだよ。」つい、疑念が口を衝いて出てしまった。「何で、て!!……そんなの、兄さんの事が好きだからに決まってるじゃない!!」「……ッ!!」「嫌われたくないからに、決まってるじゃない……!」今度は、俺が息を飲む番だった。あかねが、俺の事を「好き」だと言った。鼓動が跳ね上がる。憂鬱な気分、卑屈な感情が全部吹き飛ぶ。空いた心の隙間を、あかねの声が埋めていくような錯覚。冬風で冷たくなっていた頬が暖かくなっていくのが分かる。……もしもこんな時じゃなくて、もっとロマンチックなシチュエーションの時に告げられていたら、彼女の発現を「誤解」してしまったかもしれない。俺も、勢いのままとんでもないことを口走ってしまったかもしれない。でも。――――あかねの涙ながらの告白は、俺にとっては本当に唐突過ぎて。――――それでも、「兄さん」の言葉にちっぽけな拘りと諦めを抱いていたから。俺はあかねの言葉を、ちゃんと「正しく」「文字通りに」理解できた。「……ハハッ、」知らず、笑みが漏れる。「……兄さん?」今も涙を浮かべているであろうあかねに、できるだけ明るい声で、あかねを安心させるように答える。「そこまで妹に慕われていちゃ、無碍に扱う事も出来ないな。」本当の気持ちが声に出てしまわないように。密かに想っている女性に「好き」と言われた嬉しさと、「兄として好き」と断定されてしまった痛みを押し殺して隠すように。「兄の事が好き」と言われた時点で、俺に脈が無い事は決定的だ。つまり、俺はあかねに振られた……しかもカッコ悪いことに、不戦敗なのだ。悲しくないわけがない。ヘコまないわけがない。でも今は、「兄」としての義務を果たさなくては。募った想いが開くことなく散った初恋に泣くよりも、俺の所為で泣かせてしまった妹を宥めるのが先だから。――――今は、「好き」と言ってくれただけで満足だ。それだけで、俺は虚勢を張る事ができた。「悪かったな、あかね。確かにお前の言うとおり、イライラしてたみたいだ」「えっ……。あ、うん。」俺の突然の変わりように戸惑っているのが手に取るように分かる。そりゃそうだ、さっきまでとは180度違う態度だもんな。「もう大丈夫だ。お前に全部ぶちまけたら、スッキリしたよ。いろいろと酷い事言って、ごめんな」「う、うん。色々と言いたい事はあるけど……、兄さんが謝ってくれるなら、まぁ、許してあげる。本当にもう平気なの?さっきみたいになったりしない?」ならないよ、と優しく言ってやると、イヤホンから安堵のため息が聞こえてくる。涙声になるぐらいだ、よっぽど怯えさせてしまっていたんだろう。八つ当たりで妹を泣かせるなんて兄として最低だ、と後悔する。「本当にすまなかった。お詫びに、何でも一ついう事を聞いてやるから」「え?あ……えっと、じゃあ、あの。携帯。顔……見せて?」「そんなんでいいのか?」「と、とりあえず!後は、改めてまた言うから。」顔を真っ赤にして、電話口でワタワタしている姿が容易に想像できる。そんなあかねを脳裏に浮かべるだけで口元がにやけてしまう俺は、本当にあかねのことが好きなのだと実感する。「一つって言ったんだけどな……。」苦笑いしつつ携帯を操作。カメラ通話モードを選択。ハンズフリー機能と夜間通話用のライトが自動的に設定される。ディスプレイに映った自分は、一週間以上剃らなかった髭の所為で思ったよりもみずぼらしい。「ほらよ、これでいいか?」「……確かに、ひどい顔になってるわね。何日ほったらかしにしたらそんな髭モジャになるの?」「ほっとけ。ほら、俺が画面出したんだから、お前も顔出せ」「何でも聞いてくれるんじゃなかったの?」「俺が何も要求しないとは言ってないぞ」ズルいわねぇ、と文句を言うあかね。そう言いながらもカメラを準備してくれるあたり、全く以て素直じゃない。―――ようやく、いつものあかねに戻ってくれたようだ。しおらしいあかねも可愛いけど、やっぱりこいつは元気でなくちゃな。「なんだ、お前だって酷い顔じゃないか。人の事言えないな」「ひ、ひどいって何よ。もう……本当、馬鹿なんだから」直前に涙を拭ったらしく、ディスプレイに映ったあかねの頬には涙が流れた跡は無かったが、眼も頬も赤く染まっていた。でもそれは、満開の桜のように綺麗な笑顔だったのだ。「で、仕事は大丈夫なの?その様子だと、しばらく家から出てないでしょ」「まぁ、正直無理かもしれないけど。一応頭下げて、もう一度働かせてもらえるよう頼んでみるよ」「万が一クビになっちゃったら、一度ウチに帰ってきてね?母さんも恭介が帰ってきたら喜ぶから」「コラ。兄の解雇を願うんじゃありません」静かな笑いが漏れる。オレンジ色の街灯しかない暗い路が、今ではとても暖かだ。その後、しばらく以前のような会話を楽しんだ。「あ、恭介。そういえば結局、アンタ何で海にいるの?」すっかり調子を取り戻したあかねが、ついでに思い出したように訪ねてきた。「へ?あ、いや。なんとなくフラフラ~と歩いてたらな。ていうか、いまだに此処がどこだか正確には分からん」「ちょっと、大丈夫なの!?ちゃんと帰れる?警察呼んどこうか?」俺は迷子のガキンチョか。そして東京から呼ばれてもお巡りさんも困るだろう。そして来たら来たで今度は俺が困る。「まぁ、後で携帯のGPSを使えば分かるんだけどな。え~と、今ここはどこなんだ?」立ち上がって道路の左右を確認。当然ながら人っ子一人どころか虫一匹いやしない。電話を自信の正面に掲げながら悠々と道路を渡って、さっき見上げていたドックへ向かう。ドックのフェンス沿いに歩けば看板ぐらいあるだろう。果たして、それは見つかった。出入り口のゲートと銅板製のプレートを見つけたのだ。「えーと、ここは。……ああ、第四特殊資材置き場か。結構遠くまで来たもんだなぁ」今は12時過ぎだから……ここから歩いて帰ったら家に着くのは2時近くか。いっそタクシーでも使うか?……こんな姿の客を拾うタクシーなんかいないか。「特殊資材置き場?何それ、特殊資材って」「ああ、ガミラス戦役で地球が干上がった時に、世界中で海底に沈んでいた船舶や飛行機を資材として回収したんだよ。で、それを保管してあるのが特殊資材置き場。日本は日本籍のものと日本近海のものを回収して、いろんなところに分散して備蓄してあるんだ。ここは名古屋第四だから―――」そこから先は声が出なかった。頭の中を、衝撃にも似た強い閃きが走る。数多の単語が頭を駆け巡り、一筋の道を作り上げる。――保管されている「資材」、いや「軍艦」――――ヤマト――――修理資材――――改装――――ヨコハマ条約――――禁止条項――……戦闘空母!!「あかね!!」「ふぇ?な、なに?どどど、どうしたの?」「サイッッッッッッコウだよお前!素晴らしい!天才!ブラボー!マーベラス!」「え?え??えええ?なななな何?」電話の向こうから困惑を通り越してテンぱっている声が聞こえる。だが知ったこっちゃない。今、俺のボルテージは最高潮に跳ね上がった!!「ホンットーに偉い!すげぇよ!好きだ!愛してる!!んじゃ俺、急用が出来たから切るな!」プチッスピーカーから何やら叫び声が聞こえたような気がするが、それどころではない。素早く携帯から電話帳を呼びだし、掛けたのは飯沼局長の携帯電話だった。