このSSはポケットモンスター ブラック ホワイトの観覧車デートイベントを元に何やら色々妄想して書いたモノです。
男主人公でプレイした時、秋になると登場する「OLのチアキ」がいろんな意味で好きすぎて、気になり過ぎて、色々妄想してると「もうしんぼうタマラン!」となり、勢いに任せて書いたモノなので、皆さまが想像されているチアキ像とは違うかもしれません。
しかしその場合は生温かい目で見守りつつ、「貴方の中のチアキ」を愛してあげて下さい。
なお、この話にはゲーム本編のネタバレが多数含まれておりますのでご注意ください。
また、ゲーム、アニメ、歌等、いろんなポケモンネタが含まれておりますので、知ってるとさらに楽しいよ、っていうか、よくわかんねーよ!となる可能性がありますので、色々と頑張ってみて下さい。
上記、色々と大丈夫なかた、お楽しみ頂けたら幸いです。
<OLのチアキ>
●プロローグ
地上から遠く離れた空の上。あたしは見知らぬ少年の胸の中にいた。
どうしてあたしはこんな場所でこんな事をしているのだろう?それが分かっていたら、今ここで泣いてなんかいなかったと思う。
とめどなくこぼれ落ちる涙を追いかけてみたら、その先には真っ赤な海が広がっていた。海の上を滑る風がザッ……、とざわめき、波しぶきの代わりに赤い葉を散らす。
風に巻き上げられた赤い波しぶきがあたしの視界を覆い、現実感のない景色があたしの中から更に現実感を奪っていく。
始めはちゃんと輪郭を帯びていた赤い海が、体が空に昇っていくにつれて、いつの間にか赤一色になってきて、それはまるで血の様で、もしかしたらあたしが流しているのは涙じゃなくて血なのかもしれない…。そんな風に感じてしまう。
そうか…。だから寒いんだ…。血を流して冷たくなったあたしの体に、窓の隙間から入り込む秋の風が纏わりつき、残った体温も搾り取る様に奪おうとしている。
そんな風に思ったらもうこのままどこまでも舞い上がってしまって、あたしもこの赤の中に溶け込んでしまえたならいっそ楽になれるのかもしれない…。そんな風に思った。
赤に揺れて……。
赤い海に、揺れて………。
●第1章、あたしとポケモンと部長
あたしは「ヒウンシティ」の「バトルカンパニー」で普通のOLをしている。バトルカンパニーで働いているからって特別ポケモンが上手いワケじゃない。たまたまと偶然が重なり、ここで働く事になっただけ。
小さい頃、誰もが「ポケモンマスター」に憧れて10歳の誕生日を迎える日に冒険の旅に出て、戦い、学び、成長して自分のやりたい事を見つけていくけれど、あたしは家の都合で旅立つ事は出来なかった。だから普通に学校に入り、普通に勉強をしたり、普通に恋をしたりして、今はこのバトルカンパニーに普通に就職して普通に働いてる。だからこの年になるまで自分のポケモンを持った事はなかったんだよね…。そんなワケであたしが最初に手にしたポケモンは、「ツタージャ」でも「ポカブ」でも「ミジュマル」でもなくて。
あたしが最初にゲットしたポケモンは……、「チラーミィ」。ゲットしたと言ってもポケモンバトルをしてゲットしたワケでも、「アララギ研究所」でもらったワケでも、ましてや怪しげなおじさんから500円で買ったワケでもない。あたしにポケモンをくれたのは……、職場の部長だった。
部長が言うには、バトルカンパニーで働く以上、ポケモンの1匹や2匹、持っていなければ示しがつかない、って事で初心者でも扱いやすく、そして女性が持つのにふさわしいって理由でチラーミィをくれたんだ。
初めてあたしだけのポケモンをもらった時、……ふふ…!年甲斐もなく本当にワクワクしたんだ。小さい頃、あたしにだって人並みには夢があったんだよ。イッシュ地方で生まれた女の子ならだれでも思い描く夢。「ライモンシティ」の「ポケモンミュージカル」に自分のポケモンをデビューさせたい!……そんな幼いころの憧れを思い出して、懐かしさと嬉しさで胸がいっぱいになったのを今でもはっきりと覚えてる…!
でも、今となってはやっぱり幼い日の遠い夢なワケであって。例えば、「ゆめくい」を喰らっても相手はほとんど回復できないくらい、遠くぼやけて、思い出すのも困難になってしまった夢…。そうは思いつつもワクワクは隠せない、そんな気持ちを抱えながらあたしとチラーミィの生活が始まった。
……でもね、順風満帆とはいかなった…。理由は簡単。だって、チラーミィが全然あたしに懐いてくれなかったから。よく言うじゃない?人からもらったポケモンって成長は早いけど、ジムバッヂを持っていないと言う事を聞かなくなる、なんて。あたしはそれを嫌ってほど身をもって知ったのだ。
ポケモン初心者のアタシはチラーミィとどうコミュニケーションをとったらいいのかわからなくて、アレコレ色々試してみたけれどどれも上手くいかず、結局は一番身近なポケモンのお手本である部長に相談をしてみる事にした。
それくらい、自分で考えろ!って怒られるかと思ったけど、でも部長はポケモン初心者のあたしにポケモンとの付き合い方をじっくり教えてやる、という事で仕事の後に「スリムストリート」にある「カフェいこいのしらべ」に誘ってくれたんだ…。
ポケモンが上手い事が全てのこの会社において、彼は本当にポケモンが上手くて優しくて…、彼に憧れを抱かない社員なんていなかった。かく言うあたしだって、そんな部長に憧れていた女子社員の一人だったワケで、彼にとっては遠くから眺めている取り巻きその4、にしか思われていなかったと思ってたし。だから理由はどうあれ彼があたしを誘ってくれたのは凄く驚いたし、純粋に凄く嬉しかった。憧れていた人と二人っきりで会えるなんて…、ね。
うん、何というか…、憧れってね、自分の手の届かない存在…、たとえばジムリーダーとか、四天王とか、チャンピオンとか…。絶対自分が到達できないであろう人への憧れだったら現実感の伴わないただのミーハーで一方的な思いなんだろうけど、でも部長は同じ会社にいて、そしてあたしに初めてのポケモンをくれた人。もしかしたら手が届くかもしれない憧れ。それはもう憧れではなくて、憧れを超えてもっと身近に近づける存在。それはもしかしたら自分がゲットすることのできる存在なんじゃないか…?なんて考えたりした。……ちょっとだけ。うん、ホントにちょっとだけね。
でも彼には奥さんも子供もいたから。それを知っていながら憧れるって事は、やっぱりただのミーハーな憧れだったのかもね。仮にそうじゃなかったとしたら、「ユナイテッドピア」から差し込む夕日が「あやしいひかり」になってあたしを「こんらん」状態にさせた、とかね。
そんな事を考えていないとどうにも変な勘違いをしちゃいそうで、なんだかなぁって感じ。とは思いつつ、待ち合わせに向かうあたしの足取りは妙に軽やか。…あぁもう、落ち着け、あたし!
ヒウンシティはイッシュ地方でも指折りの近代都市で商業の中心地。アフターファイブに外に出ようものなら会社帰りの人の波が寄せては返し、荒波の様に他の人間を飲み込んでさらなる巨大な渦になっていく。まるで「ジョウト地方」で人の侵入を拒む巨大な「うずしお」のように。そんな荒々しい賑わいから一歩離れた裏路地。そこに「カフェいこいのしらべ」はあった。近づけば誰にでも快く扉を開く、作り笑いの様な自動ドアばかりのこのヒウンシティでは珍しい木製の扉が出迎えてくれた。無機質な笑顔ではなく、無愛想だけど温かみのある人間性を感じさせてくれるその扉を恐る恐る開いてみると、そこはヒウンシティにいる事を忘れさせてくれる空間が広がっていた。
始めに感じたのはコーヒーの香り。会社のコーヒーメーカーなんかじゃ出せない様な豊かなコーヒーの香りがアタシの鼻をくすぐった。きっと「サンヨウシティ」で「ポケモンソムリエ」をやってるジムリーダーの「デントさん」が淹れたコーヒーってこんな香りがするんだろうなぁ。……、サンヨウシティ、行った事ないけど。
良い匂いから悪い匂いまで、常にいろんな香りに溢れてるヒウンシティだけど、こんなに良い香りは初めてかもしれない。
それから次に感じたのは音楽。聞こえるか聞こえないか程度の音量なんだけど、……ジャズかな?アタシの知らない曲が流れていた。普段は歩いているだけでも、にぎやか過ぎて何が言いたいのか分からない音楽や宣伝文句が垂れ流されていて、聞きたくなくても耳に入ってくる音が沢山ある街で、まったく主張していないのに、でも体に心地よくしみ込んでくる音楽が流れていた。
例えるなら…、「ビレッジブリッジ」で楽器を使わずにボイスパーカッションだけで音楽を奏でるパーフォーマンスをする人達の演奏がこんな感じなのかも。うん、それはちゃんと聞いた事あるから例えてみたけど。
ちょっとドキドキしつつ、音と香りに誘われてついつい中に入ってみたものの、店内は薄暗くてカウンターの場所もはっきりわからなかった。もしかしてあたし、怪しい所に入っちゃった?なんてちょっと後悔し始めた頃、珍客がオロオロしてる姿に耐えかねたのか、静かで落ち着きのある声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ。何かお困りですか?」
声をかけてくれたのはお店のマスターだった。確かに困ってると言えば困ってるけど、優しそうな声だったから、これって特別困るような状況ではない?だけど何を言ったらいいのかわからなくてついつい上ずった声がでてしまう。
「あ…、いや…、あの…、ま、待ち合わせで…。」
うん、怪しい人だ、あたし。
「…そうですか。どうぞごゆっくり…。」
うん、優しい人だ、この人。
怪しげな客にも動じないこの人の特性は「せいしんりょく」か「ふくつのこころ」かもしれない。そんな事を焦った頭で考えていると、どうやら目が慣れてきたみたいで、始めは薄暗く感じられた店内も落ち着いた雰囲気を演出する照明の優しい光なんだってわかった。朝でも夜でもケバケバしく自己主張する光につつまれたこのヒウンシティの中で、こんなに落ち着きのある優しい光を感じられるのってすごい事だと思う。なのでそんなお店の雰囲気に甘えてみる事にした。
品の良さそうなカウンターに並べられている座り心地の良さそうな椅子に腰をおろして、店内をザッと見渡してみる。まだ部長は来てないみたい。まぁそうだよね、忙しい人だもん。もし自分が遅くなるようだったら先に行って待ってるように言われていた。あたしも残業とかしてちょっと時間をつぶしてみたけれど、部長の忙しさには全然かなわない。やることもなくなってチラリと部長を見たけれど仕事が終わる気配がなかったので、先に待ち合わせ場所に向かう事にしたんだし。そもそも約束の時間までは10分くらい早い。だからせっかくだしこのお店を楽しんでみよう。こんなに雰囲気の良い喫茶店なんだから、出してくれるメニューもそれに見合った雰囲気の良さなんだろうなぁ。そう思ってマスターに声をかける。
「何かおススメってありますか?」
「この空間がおススメです。そしてそんな空間を楽しむにはミックスオレがふさわしい…。」
そう言って冷蔵庫からキンキンに冷えたミックスオレを出してくれた。
「あ、ありがとうございます…。」
この空間にはミックスオレは似合わないんじゃないかなぁ…。でももしかしたら彼なりの気遣いなのかもしれない…。そんな事を考えながらミックスオレを一口飲んでみる。……なんだかいつもと違う味?ただただ甘いだけのミックスオレだけど、渋い店内に影響されて、甘みの中にも渋みを感じる?「あましぶポフィン」ってこんな感じなのかも。なんて考えながらお店を見渡していたら、ジャズの音色に「チリンチリン」と繊細な高音が混じった。この店はドアベルの音色まで心地良い。きっと「チリーン」の「いやしのすず」がこんな音なんだろうなぁ…、なんて反転世界にトリップしてると不意に肩を叩かれた。
「待たせて悪かったね、チアキ君。」
あたしを反転世界から現実世界に引きもどしたのは「ギラティナ」ではなく、……部長だった。仕事の時に着ていたスーツとは違って、シックなブレザーと爽やかなチノパン姿で、この人はポケモントレーナーじゃなくて「シンオウ地方」で人気の職業、「ポケモンコーディネーター」でもやっていけるんじゃないか?なんて思った。
「待ったかい?」
うっ!さっき言われた言葉をもう一度言われてしまった。若干?の妄想癖があたしの悪い癖だ。部長に悪い印象を与えないためにしっかりしなくっちゃ!
「いえ、あたしも今さっき来たばっかりで…。でも部長、あの…、早かったですね。さっき見た時は忙しそうにしてたから、もう少し遅くなるかな?って思ってました。」
「そうか…。でも君に早く会いたくて、仕事は急いで片づけてきたよ。」
……!!な、なんて事をサラリと言うのだろうか、この人は…!これは勘違いされてもおかしくない発言だと思います…!「はかいこうせん」並みの爆弾発言を受けて、放った本人ではなく、受けたあたしが1ターン固まってしまった…。
「この店、いい店だろう?」
はかいこうせんを受けて固まってパクパクしてたあたしの心を知ってか知らずか、部長が話を続けてきた。
「そ、そうですね…。」
なんとかひるみ状態から抜け出して発する事のできたこの一言。
「この店は私が贔屓にしている店でね。仕事の後なんかに良くくるんだよ。疲れた時にこの空間が癒しをくれるんだ。」
「そうなんですか。」
「あぁ。普段は一人でくるんだけどね。」
「え、じゃあ…、あたしなんかと一緒だとご迷惑じゃあ…」
「いや、構わないよ。むしろチアキ君とならいつも以上に良い癒しになりそうだ。」
……何という「だいばくはつ」!あたし、この時ほどゴーストタイプになりたいと思った事はなかった…。例えアタシの特性が「がんじょう」だったとしても、きっと即死だったに違いない。
「で、今日は先日渡したチラーミィの話だったね。」
……、この状態でポケモンの話をさせようと言うのか。や、まぁそれが目的なワケだし。う…、うぅ~ん…。多分部長は誰にでも優しいんだ。だから人気があるんだ。そう、勘違いするな、あたし。でも…、うぅ…、ここに「ドッコラー」がいるならぜひアタシに「めざましビンタ」を!!!まちがいなく威力は2倍なハズ!!!
「なかなか懐いてくれないんだろう?」
せっかく部長が忙しい合間を縫って話を聞いてくれるんだ。ちゃんとお話をしなくっちゃ!それに…、このままじゃアタシみたいな未熟なトレーナーに従うチラーミィにも悪い。
「そ、そうなんです。あたしもせいいっぱいチラーミィに懐いてもらえるように頑張ってるんですけど…。」
「そうか…。ポケモンによって懐きやすさはそれぞれだ。始めから人間に友好的な種族もいるし、チラーミィは懐きやすいポケモンだと言われているが、ポケモンは個体によってバラバラの個性を持っている。チアキ君のチラーミィもそうなのだろう。」
「じゃああたしはどうしたらいいんでしょう…。」
「焦る必要はない。君は良くやっているさ。本当に努力している。会社の中でも君ほどポケモンを大切にしてる社員はいないよ。」
この世界に生まれた以上、ポケモンと関わり合いにならずに生きていくのは難しい。だからポケモンと円滑なコミュニケーションをとれるのは当たり前の事。それを「努力」とか言うのは間違っている事だと思ってた。……でも…、部長があたしの頑張りを見ていてくれてたんだ…。その一言であたしの心は救われたような気がした。多分、このお店の照明がもう少し暗かったらあたしは泣いてたと思う。でもなんで部長はあたしが努力してるってわかるんだろう?バトルカンパニーは大きな企業だし、あたしの部署にだって沢山の社員がいる。その中の一人であるあたしなんかに目を止めるような事もないんじゃないかなぁ?その気持ちがつい口からこぼれおちてしまった。
「でも…、どうして…?」
「……私はチアキ君の事を良く見ているから。」
「え…?」
「君は私が自分のポケモンを渡した社員だからね。」
……、一瞬びっくりしたけど、当然だよね。あたしのチラーミィはもともと部長のチラーミィだもん。そのチラーミィとトレーナーであるあたしに何かあれば自分の問題になっちゃうわけだし。あはは…、なぁ~んだ、また勘違いしちゃったよ…。アタシのばーか。それにさ、社員だけじゃなくて社員が持つポケモンもしっかり管理できてこその部長だもん。あたしだけ特別、なんて事はないんだ。そう、ないんだよ…。
「……、何か難しい事を言ってしまったかな?」
……、だめだめ!ちゃんと気持ち切り替えないと!例え部長が自分の保身のために言ってるんだとしても、お世話になってる部長の為にあたしが失敗するワケにはいかないんだ。それに彼はそんな人じゃない。ポケモントレーナーの先輩として、ちゃんとあたしとチラーミィの事を思って言ってくれてるんだから。彼の為にも、チラーミィの為にもちゃんと相談しよう!
「あたしはどうしたらもっとチラーミィと仲良くなれるでしょうか?」
「そうだな…。チラーミィは人見知りで、まだキミに心を開けないでいるんだろう。そこでどうだろう?マッサージでポケモンの気持ちをリラックスさせて懐かせるマッサージ屋があるんだ。」
「マッサージ屋…、ですか?」
「あぁ。このヒウンシティにあるんだ。良かったら案内しよう。」
チラーミィと仲良くなれるならなんでもしなくっちゃ!それに…、部長が案内してくれる…。って事はまだ彼と一緒にいられる…?
「ぜ、ぜひお願い…します。」
「うん。だが…、さすがに今日はこんな時間だ。年頃の娘さんを遅くまで引きとめてしまうのは悪いからね。今日は引き揚げてまた明日行くとしよう。」
あ、明日か…。まぁそうだよね。うん。こんな時間だし。彼の紳士的な気遣いにちょっとだけガッカリした。
「あ、はい。ありがとうございます…。」
「それじゃあまた明日。同じ時間に同じ場所で。」
……、また明日。同じ時間に同じ場所で、か。なんか恋人同士のデートの待ち合わせみたいだな。全社員憧れの部長をまた明日も独占できる…。や、でもこれはチラーミィの為だからね?別によこしまな気持ちが……、ない…とは…、言いきれませんが…、うん。そんな気持ちからまたも上ずった変な声が出てしまった。
「あ、ひゃい、またあ、明日。」
「ああ、明日。楽しみにしているよ。あっと…、送っていきたいのはやまやまなんだが、チアキ君も年頃の娘さんだ。私みたいな中年と一緒にいて誤解されるのは迷惑だろう。」
いえ、是非とも誤解されたいです!……、とは言えず…。まぁね、部長と一緒の帰り道なんて他の女子社員にみられたら何て言われるか…。それを思えば一人の帰り道は気楽だよね。さて、それじゃあ明日もある事だし、名残惜しいけど早く帰らないとね。
「今日は相談に乗って頂きありがとうございました。明日もお時間を取らせてしまってすいません…。」
「いや、構わないよ。チアキ君と一緒にいられて私も楽しいからね。ふっ…、ではまた明日。」
……、最後までこの人はアタシの心をひっかきまわすのか!「みだれひっかき」が綺麗の5回連続でヒットした時くらいのひっかきまわしっぷりに脱帽するしかない。再び「いやしのすず」を奏でながら颯爽と去っていく後ろ姿。しかしそのわざ効果はいまいちで、あたしのステータス異常は回復せず…。はぁ~……。そんなワケでアタシは、ビル陰に隠れた「ルナトーン」の様な月がでる夜道を悶々とする心を抱えながら帰宅したのでしたとさ!……、はぁ……。
●第2章、マッサージ屋としろいきり
翌日、あたしと部長は昨日と同じ時間に昨日と同じ場所で待ち合わせをした。相変わらずの忙しさの中で時間をキッチリと守る彼は、「デキる男」ってヤツなんだろう。多分曜日と時間限定のスィーツ、「モードストリート」の「ヒウンアイス」だって余裕で買えるくらいの時間管理能力を持ってるんじゃないか、なんて。あたし、いっつも買い忘れるのになぁ。
ま、それはそれとして、「カフェいこいのしらべ」で合流したあたし達はその足でポケモンマッサージ屋に向かった。
普段忙しく飛び回っている部長。夕方にならないと戻ってこない彼は日中は大抵外回りをしている。あたしの知らない所で頑張ってるんだろうなぁ。だからかな?部長の歩くスピードは速い。その部長が今日は妙にゆっくり歩いている。というかあたしの歩幅に合わせてくれている。そんな気遣いが嬉しくて、始終ニヤニヤしっぱなしだった。きっと今のあたし、「ヒヤップ」みたいな顔してるんだろーなぁ。ちょっとはずかしい…。
でもこのまま二人で「スカイアローブリッジ」でヒウンシティの夜景を腕を組みながら見れたら……、なんて考えちゃったりしてるあたり、あたしも可愛い奴だと思う。でもダメダメダメ!妻子持ちにトキメいたりしちゃ!……、あぁ、わかっちゃいるけどニヤニヤしちゃうさ!きっと今のあたし、「ヒヤップ」を通り越して「ヒヤッキー」みたいな顔してるんだろーなぁ。かなり恥ずかしい…。そんな思いでうつむきながら歩いていたら、どうやら目的地に到着したらしい。
そこはヒウンストリートの一角にある小洒落たビルだった。そのビルの一室にマッサージ屋があった、と言うかいた。マッサージ屋は大々的にやっているお店ではなくて、個人がビルの一室を借りて趣味のように経営しているお店らしい。そのマッサージ技術と効果は折り紙つきで、予約無しではとても入店できるような所ではなく、さらに予約も半年待ちだとか…。そんなお店を昨日の今日で予約できてしまう部長…。貴方は一体何者ですか!?「きんのたまおじさん」並みに謎な存在です…!
「いらっしゃい。さぁ、貴方のポケモンを見せてくれるかしら?」
そう声をかけてきたのは40代半ばくらいの女性で、とても柔和な雰囲気を醸し出していて、ポケモンが好き!って気持ちが笑顔からにじみ出ていた。それはとても素敵な笑顔で、さっきあたしが浮かべていた様な邪悪なニヤケ顔とはまったく別次元の笑顔で、それを思い出すと、今度は「ヤナップ」の様な微妙な顔になってしまう…。そんな顔のままでいるのも女性に悪い気がしたのであたしは早速モンスターボールからチラーミィを出してみる事にした。
「出ておいで、チラーミィ!」
「ポン!」と言う心地良い効果音と共に眩しい光の中からチラーミィが出てきた。ボールから出たチラーミィは初めて来た場所って事で、辺りをきょろきょろ見回している。
「あら、好奇心旺盛だけど人見知りなチラーミィちゃんね。」
チラーミィを見たマッサージ屋の店主は言った。
「そうなんです。人見知りみたいで、あたしになかなか懐いてくれなくって…。」
「そう…。でも大丈夫。きっと仲良くなれるわ。」
「本当ですか?」
「ええ、私を信じて。」
評判のマッサージ屋が大丈夫っていってくれたならちょっと安心。でもいくらあたしが安心してもマッサージをうける肝心のチラーミィの表情はいまだ固いまま。その不安を少しでも和らげようと出来る限り優しく声をかける。
「さぁ、チラーミィ。マッサージしてもらおうね!大丈夫!きっと気持ち良いよ。」
そう言いながらチラーミィを抱っこする。ちょっと警戒してるけどこれでも大分進歩したんだから!今までは抱っこすらさせてくれなかったんだもん。ゆっくりと抱きあげるとチラーミィの体温が伝わってくる。この暖かさとフワフワの柔らかい毛があたしの心をいたく刺激してくれてクラクラっときちゃうんだよね…。いつもはここで思いっきりモフる所だけど、今はやめておこう、って言うか、初めてあったその日にイキナリ思いっきりモフッたから、それで警戒されちゃってるんじゃないか…、って思うんだけど…。うん、でも可愛すぎてやめられない…。あぁ、ダメダメ、ここはぐっとこらえてマッサージ屋さんにチラーミィを預ける。
「お願いします。」
「ええ、任せといて。」
そう言って店主はチラーミィの体を優しく触りながら満面の笑みで語りかける。
「大丈夫よ、何も怖くないから…。そう…、良い子ね…。」
最初は警戒していたチラーミィもマッサージが気持ち良いのか、じょじょに警戒を解いていき、いつの間にかあたしが見た事のない表情を浮かべている。あぁ…、なんかすごい気持ちよさそう…。でもなんかちょっとジェラシーを感じる…。うぅ…。
「アナタも良く見ててね。この子は他のチラーミィより警戒心が強いから、こうやって優しくなでてあげるの…。焦って仲良くなろうとしてもダメよ。この子は慎重な性格みたいだから時間をかけてゆっくりじっくり付き合ってあげなきゃ…。私も色々なポケモンを見ているからわかるけど、この子はアナタの事、決して嫌いじゃないみたいよ。」
「ホントですか?よかったぁ…!」
「でもだからと言って、いきなりモフってはダメよ。慎重な子はよっぽど懐いてない限りは過激な愛情は禁止。」
「は、はい…、気をつけます…。」
うぅ…、すっかり見抜かれてる…。だって仕方ないじゃない!この子の特性って「メロメロボディ」だから、撫でたり触ったりしてると30%の確率でメロメロになっちゃうんだから!そりゃ思いっきりモフりたくもなるよぉ!
「……、ぷっ。はっはっは…。」
そんなやりとりを見て部長は堪え切れず吹き出していた。
「ちょ!ちょっとぉ!笑わないで下さいよ~!」
「いや、すまんすまん、あまりにおかしかったもので。……はははは…!」
「もう!ひどいなぁ…!」
「でもよかったじゃないか。これでチラーミィと仲良くなれそうだな。」
「はい!これも部長のお陰です!本当にありがとうございます…。」
ちょっと恥ずかしい思いはしたけど、でもこれでチラーミィと仲良くなれるんだったら来たかいがあったなぁ…。ホントに部長には感謝感謝です!そんな風に思ってるとマッサージが終わったのか、チラーミィがアタシの所に戻ってきた。
「それじゃあ今日はここまでね。またいらっしゃいな、そちらの彼と。」
「へ?か、彼?」
突然の一言にアワアワしてしまうアタシ。彼って…!や、別にそーいう意味で言ったんじゃないんだろーけども!なんか変な風に意識しちゃってるからかなぁ?あぁ~、いかんいかん!
「そうよ、彼に感謝しなさいな。ありがたい事にお店は繁盛してるから、中々予約を入れさせてあげられないのだけど、彼がどうしてもみてほしいポケモンがいるからって言って私に連絡をしてきたの。彼はお得意様だし、色々お世話になってるから何とか予定をあけさせてもらったのよ。」
え…?それって…。あぁ…、そうだよね。昨日の話を思い出したらなんとなく納得。だって、あたしとチラーミィは部長にとってお荷物みたいなモノだもん。ちゃんと面倒みてあげなきゃだもんね。そうだ、勘違いしちゃ…だめ。変な顔をみせるずに返事するんだ。
「……、はい!本当にその通りです。有難うございます、部長!」
「いや、ははは。気にする事ないさ。社員の悩みを聞くのが僕の役目だからね。」
……、ほら、やっぱり。わかってる。わかってるよ、そんな事。
「さて、そろそろ帰ろうか。結構良い時間になってしまった。」
「お代は結構よ。アナタとチラーミィが仲良くなれる事を祈ってるわ。」
「え、でもそんな…。」
「いいのよ、初回のお客様はサービスって事でお代は頂いてないの。その代わり気に入ってくれたなら是非また来て頂戴。アナタだったら予約、取りやすくしてあげるから。」
「あ…、はい!ありがとうございます!じゃあさっそく次回の予約を…!」
なんて感じで、しっかりと次回の予約を取り付けてから店主に別れを告げ、外に出るとかなり遅い時間になっていた。
「部長、今日は本当にありがとうございました!部長のお陰でチラーミィと仲良くなれそうです!」
「そうか…、それは良かった。それで…、さっきは彼女の手前、あんな風に言ってしまったが…。」
……、ん?さっきの話……、だよね?
「今日チアキ君をここに連れてきたのはキミがウチに社員だから、と言うワケだけじゃない。それは……、君だから、なんだよ。」
………それは……、え?どういう…事…?
「チアキ君さえよかったら、これからも君とチラーミィの仲を協力させてくれないか?」
突然真面目な顔をして話し出した彼の言葉によって、アタシの頭には理解不能な「しろいきり」が立ち込めた…。
「嫌だったらいいんだ。」
「え……、やじゃ……、ない……。」
な、なんだその小学生みたいな言葉使いは…!それくらいに頭の中にはしろいきりが渦巻いていて五里霧中状態!あぁ、何にも考えられない…!
「チラーミィをプレゼントしたのも、今日ここに連れてきたのも君に喜んでもらうためだった。迷惑……、だったかい?」
「そ、そんな事…、ない…。憧れの部長に、そんな風に思ってもらえて…嬉しい…です…。」
「そうか、よかった…。喜んでもらえたなら…、お礼をもらってもいいかな?」
「お、お礼だなんて、あたし、どうしたら……。」
「大丈夫……、これは強制じゃない。本当に嫌だったら言ってくれ…。」
そう言って彼の手があたしの頬に触れた。あ…、なんかあったかい…。大きな…手だな…。あたしが手のぬくもりを感じていると、彼の顔がすぐ近くにあった。吐息がかかるほどの距離…。これって……。
や…、でも……、そんな…、ダメ…だよ…。
だって、貴方には大切な人が……、いるでしょ…?
でも…、嫌だったら言ってくれって…。
……嫌じゃない…。嫌なんかじゃないから…、そんな言い方…、困る…。
アタシ…、ん……ダメ……、何も…考えられない……。
……あ…………。
一瞬…、時が止まったような気がした……。でもそれはホントに止まったワケではなくて……。でも「でんじは」を喰らったような感じで…、動けなかった……。いや…、多分動かなかったんだと思う……。あれ…?「しろいきり」の効果って能力を下げられなくするんだっけ?状態異常にはならない、だっけ?どっちだっけ…?でも「まひ」しちゃったから前者の方かも…。ん…、わかんない…。
「では今日も遅いから気をつけて帰るんだよ。また明日、会社で君の顔をみせてくれ。」
顔が……、凄く近い……。さっき繋がった所がまだ温かい…、気がする…。
「じゃ、おやすみ。」
そう告げて部長は仕事の時の歩幅で去っていった。あ…、そういえば今日は一度も彼の後姿、見なかったな…。そっか、アタシの隣にいてくれたから…。彼の仕事の時の歩幅は大きくて歩く速度も速い。その背中があっと言う間に「セントラルエリア」に消えて、そこにはもう誰もいないのにあたしはただただ立ち尽くしていた。それからようやくしてボンヤリした頭が彼に「おやすみ」と告げられた事を思い出して、なんだか妙にカラカラに乾いた喉がようやく
「お、おやすみ……なさい……。」
と絞り出した。でも返事を返す相手はそこにはいない……。
さっきの言葉…、さっきの行動…、どういう意味なの…?わかんない…、わかんないよ…。頭の中が真っ白だよ…。誰か、あたしに「きりばらい」をして……。
●第3章、お礼
その日からあたしの日常は明らかに変化していった。仕事が終わればいつもの時間にいつもの場所で待ち合わせ。それから夜のヒウンシティに消えるあたし達。……、なんて言うと誤解が生まれそうだけど、…うん、アレです、アレ。「ポケモントレーナー同士、目が合えばバトルの始まり」ってやつ?つまりポケモンバトルね。バトルはトレーナーとポケモンが息を合わせて行う高度なコミュニケーション。それを繰り返せば次第とトレーナーとポケモンの絆は深まっていく。
ビジネスってのはお客様を満足させる事が重要で、普通の会社だったら顧客を喜ばせるために「接待ポケモンバトル」が横行してるんだけど、バトルカンパニーでは基本的に「接待ポケモンバトル」は禁止で常に本気のガチバトル!それでも大きく成長していく企業だから、一体どうなっているのやら…。
とは言ってもあたしは経理なのでポケモンバトルとまったく関係のない部署だったりする。だって、「ポケモンバトルに勝ったから給料を上げてくれ!」とか言われたって無理だし。うん。そんなワケで経理にはポケモンバトルはありません。で、そうなると中々バトルの機会には恵まれないからチラーミィとのコミュニケーションはおろそかになってしまう。そこで部長は会社の後であたしのポケモンバトルに付き合ってくれる事になった。そう、部長は昨日言ってくれた言葉を本当に実践してくれたんだ。……あの時の行動の真意は分からないけれど……。だって…、あんなの…、ね…。でもあたしに好意を持ってくれてるって事だよね?それはとても喜ばしい事。憧れの人に好意をもってもらって嫌な気持ちになるなんてありえないし。でも…、ちょっと複雑だったりする…。その好意を素直に受け止めたなら倫理的に問題があるし、かと言ってせっかくの好意を無下にするのも部長に悪いし…。はぁ……。チラーミィとは別の問題が生まれちゃったな…。とか言いつつも、心の中に芽生えた温かい感情は丁度今の季節の「シキジカ」みたいなピンク色だった。
もしくは色違いのチラーミィみたいな色?本物は見た事ないけど。そんな感情を抱えながらの毎日は、ヒウンシティの名物と言っても過言ではない通勤ラッシュですら、部長のいる会社へ続く楽しい散歩道になってしまっていた。あぁ、人間ってすごい…。いつもは会社に行くだけでも一日分の体力を使い切ってしまうほどにグッタリしてたのにね。それもあの日を境に毎日が楽しく輝くように変わってしまったんだなぁ…。
……、あの日…。初めてポケモンマッサージ屋に行った帰り、部長はお礼を、と言ってあたしの唇を求めた……。そしてそのお礼は毎夜繰り返されるポケモンバトルの後の恒例行事の様になっていき、最初は部長から。何度かの夜を迎え、今度はあたしからお礼をあげられるようになった。
これって……、世間の一般常識から言うと……、不倫…、とか、になるのかな?奥さんのいる相手とキスをする……。それって…やっぱ?……や、そんなのじゃない。そんなのじゃないよ。だって、これはお礼だから。そう、他意はない。感謝の気持ち。それを表現してるだけ。他意なんてないよ……。
………………。
…………、うそだ。うそ。他意がないわけなんてない。そんなの決まってるじゃないか。でもだからってそれを意識してしまうとあたしは罪の意識に苛まれてしまって、今この時を失ってしまう気がするから。こんなに綺麗で輝いている時を失ってしまうなんて。この唇のぬくもりを失ってしまうなんて。……、多分、今のあたしには考えられない。でもね……、それ以上は望まない。それ以上の彼を望まない。だって、十分に幸せだから。それくらいに憧れだった彼があたしの側にいるんだから。例えばさ、お昼休みの休憩室で放送されている昼ドラみたいな展開はちょっとアレだし。だって、なんて言うの?略奪愛?……、あ~…、あたしには無理。絶対無理。だから今のままで構わないんだ…。
そうして何度目かの夜のポケモンバトルが繰り返され、あたしとチラーミィは漫画やアニメに出てくる様な主人公とそのパートナーポケモンの様な仲の良さになっていき、息もぴったりで会社でもかなりの強さになっていた。それも全て部長のお陰。その部長とも仲は良くなったけど、それはあくまでもあたしとチラーミィが仲良くなる上での副産物!そう!副産物なんだからね!……なんて苦しい言い訳?でもそれを抜きにしても感謝してるのは本当。だからあたしは部長へのお礼を考える事にした。……お礼かぁ…。あたしに何ができるんだろう?家庭を持ってる人へ個人的にお礼なんて、何か変な風に取られないかなぁ?奥さんに誤解されたりしないかなぁ?でもやっぱり感謝の気持ちはちゃんと伝えたい。こんなにも素敵なパートナーと、素敵な時間をくれた彼。普段の激務やあたしのお守で疲れている彼に少しでも心休まる時間を提供したい。でも部長が楽しい事って何だろう?あたしといる時間が楽しいって言ってくれたけど、でもやっぱり何かしてあげたいし…。楽しい事……、かぁ……。
そこで一つだけ、大人も子供も楽しめる、素敵な時間がある事を思いだした。
あたしは小さい頃、一度だけポケモンミュージカルを見た事がある。小さなポケモン、可愛いポケモン、大きなポケモン、カッコイイポケモン、本当に様々なポケモンたちが一生懸命頑張っているとてもきらびやかな世界に、幼いあたしは夢中になった。ミュージカルが終わっても興奮が冷めないあたしは拙い言葉でも感動を表現しようと、親に「早く寝なさい!」と怒られるまで、……いや、怒られて渋々布団に入った後でもずっとしゃべっていたんだっけ…。そんな世界は今も変わらないままなんだろうか?それとももっと素敵になってるんだろうか?そこに部長を招待出来れば楽しんでもらえるよね?そしたらあたしの感謝の気持ちは素直に表現できるよね?だから思い切って誘ってみようかと思う。あたしに幼いころの夢を思い出させてくれた彼に、あたしの夢の原点だったポケモンミュージカルへ。
ポケモンミュージカルはライモンシティで行われている。ライモンシティはヒウンシティの一番最寄りの街だけど、それでも少し遠い。だから仕事の後ではなくて、休みの日を合わせていかなければいけない。……、部長っていつ休んでるのかな?休んでる姿なんて見たことない。部長の休みかぁ……。休みの日はやっぱり家族サービスとかしてるのかな?奥さんとか子供さんの姿は見た事ないけど、でも多分幸せな家庭なんだろうなぁ…。あれだけ仕事のできる部長なんだから家庭も円満、みたいな想像しかできない。……、そんな人を誘ってしまっていいんだろうか?円満な家庭の妨げになってしまわないだろうか…?……悩みは尽きない。でも……、悩んでても仕方ないよね。それにこれはあくまでも普段お世話になっている「お礼」なんだから。うん、大丈夫。あたしは変に勘違いしたりしない。だから大丈夫。絶対に迷惑はかけないんだから……。
綺麗なピンク色を誇っていた桜が舞散り、ピンクだったシキジカもそろそろ緑色に染まり始める季節がやってきた。チラーミィのモコモコだった冬毛が抜けに抜けまくり、さながら「ドンファン」の「ころがる」攻撃のようにコロコロコーラーが大活躍する日々。そしてバトルカンパニーの制服が冬服から夏服に変わる頃になって、ようやくあたしと部長のライモンシティへのプチ旅行の日がやってきた。
待ち合わせ場所はいつものあの場所。だけど今日はいつもと違う印象だった。それもそのはず。いつもは仕事が終わってからの待ち合わせだったからあたしはこの店の夜の顔しかしらない。朝のカフェいこいのしらべ……。落ち着いた照明でリラックスできる雰囲気だけど、もともとこのお店はビルとビルの隙間に出来た裏路地のような、昼なお暗いスリムストリートにある。そんなだから窓から差し込む光だって微々たるものだ。まるで深海を心許なく照らす「チョンチー」の光みたいに。でもそれはそれで味があって、うん…、朝のこの店も悪くはないかもね。そんな事を考えながらこの店で何度飲んだかわからないミックスオレを飲みながら部長を待つ。時間は朝の10時前。待ち合わせは10時半。うぅ~ん、まだ早い…。今日という日がとても楽しみで、ついつい早く来すぎてしまったみたい。アハハ。子供みたいだなぁ…。でもこうやって窓から差し込む光を肴にミックスオレを飲むのも悪くない。「チョンチー」の光が「ランターン」並みに大きくなった頃、部長はやってくるのかな…。すっかり「ダイビング」した頭でボンヤリ深海散歩を楽しんでいると、突然押し寄せるまばゆい光と音があたしを深海から引き上げた。それはドアノブの音と、暗い店内に差し込んだ外の光。部長はチョンチーの進化を待たずしてやってきたのだ。しばらく光に慣れない目をパチパチさせていると、部長は颯爽と近づいてきた。その姿に何度目かわからないけれど、それでもため息が漏れる。センスの良い白い出張鞄に夏を感じさせる緑色のジャケット。……相変わらずこの人はトップコーディネーターだなぁ…。そんなんだから目がくらむんですよ。どんだけ「フラッシュ」か!命中率落ちまくりですよまったくもう!でも待ち合わせの時間は全然早い。不思議に思い聞いてみる。
「おはようございます、部長!まだ待ち合わせの時間には結構早いですよ?」
「いや、なに。今日が楽しみで、ここに向かう足がついつい早くなってしまったようだ。いつのまに私は「でんこうせっか」を覚えてしまったんだろうな?ハハハ。」
部長がでんこうせっかならアタシは「しんそくいどう」かもしれない。部長もあたしのしんそくいどうに負けないくらい、今日を楽しみにしていてくれたんだ…。そう思うとついつい笑顔がこぼれてしまう。べ、別に部長のポケモンジョークが面白かったわけじゃないって事をつけたしておくけど。
「さぁ、行こうか、チアキ君。」
「はい!」
残りのミックスオレを一気に飲み干して、部長の背を追いかけた。再び奏でられるドアベルのいやしのすず。その音色はあたし達の未来を祝福してくれているのかな?今まで聞いた中で一番素敵な音色だった…。
●第4章、ポケモンミュージカル
地下鉄を乗り継いでやってきたライモンシティ。ヒウンシティが商業の中心だとしたら、ライモンシティは娯楽の中心だ。大小の「スタジアム」に遊園地、そしてミュージカル。ありとあらゆる娯楽がこの街に集まってくる。そんな街を部長と二人で歩く。人は多いけれどだれもがみんな笑顔で、だれもが「グレッグル」の目みたいなヒウンシティの通勤ラッシュとは大違い。そんな街だからかな?あたしもなんだか大胆になってしまって、ついつい部長の腕をとってしまう。これだけ人が多ければあたし達も人並みにまぎれて、きっと誰にもみつからない。だって、ここはヒウンシティじゃない。誰もが笑顔になれるライモンシティなんだ。だから……、今だけは内緒の恋を楽しんでみてもいいよね……?そっか…、これは……うん、恋だ。憧れの人と素敵なひと時を過ごしたいと願う、少女が抱く夢や漫画みたいな恋心。それは罪のないただの憧れ。でもアタシのこの行為はきっと罪な事。罪の意識はちゃんと持っている。だから……、今だけはそれを忘れて、純粋にこの恋心を楽しんでいたかった。
腕を組みながら歩く街並み。それはすべてが輝いていて、普通の街並みがこれだけ輝くんだもん。ポケモンミュージカルはこれよりももっともっと輝いているんだと思う。そう考えたら、あたしの鼓動は早鐘が打ち鳴らされるかのように高鳴っていた。この胸の鼓動は繋がった腕を伝って部長にも伝わってしまうかも。…………、伝わって欲しい。あたしのドキドキ、伝わってますか?伝わってるといいな………。だからもっと沢山動いて、あたしの中の「ドータクン」。沢山動いてその鐘を打ち鳴らして……。
ライモンシティ内を流れる小さな川にかかる橋を越えると、そこはお目当てのミュージカルホール。ヒウンシティのビル群が機能性を重視した武骨なコンクリートの森だったとしたら、こちらは人の目を楽しませる為に作られた、遊び心満載の建物だった。「シンオウ地方」にある神話の時代に作られたと言う「ミチーナ」って町の神殿の様な建物からは優雅な音楽が流れ、あたし達を誘っているかのよう。……とは言いつつも、実は社会の教科書とかテレビでしか見た事ないんだけどね~。と言う事であたし達は早速神殿の様な門をくぐって中へと足を踏み入れる。
そこに広がる光景は幼いころのあたしが憧れていた姿そのものだった。
大理石でできた柱が何本もそびえ立ち、「レックウザ」の様に威風堂々と天に昇っていく。レックウザの尻尾から頭までを見上げると首が痛くなりそうなくらいに高くて広い天井が広がっていて、煌びやかなシャンデリアが自分の存在をこれでもか、とばかりに猛アピール!それから放たれる色とりどりの光はヒウンシティで見るようなケバケバしい原色の光ではなくて、まるで「ホウオウ」がその翼を広げたような色とりどりの美しい色で、それが一つずつあたしに降り注いでいる。この世のものとは思えない様な美しい空間…。それがミュージカルホール…。小さい頃に一度だけ連れてきてもらった時の感動が鮮やかに蘇ってきた、と言うよりは子供の頃に戻った、と表現するのが正しいのかもしれない。あたしはこの気持ちを共感したくて彼を見た。すると彼も気持ちでいてくれたようで、顔を見合わせると子供の様にクシャクシャな笑顔を向けてくれた。
その笑顔を見た時、アタシは……、
本気で彼の事を…、
好きになってしまった……。
報われる事はないとわかってる。
結ばれる事もないとわかってる。
でも……、好き。
彼の事が…、とても好き……。
あたしはずっと部長に漠然とした憧れを抱いていた。でも今この瞬間、憧れは終わりを告げてしまった。ここから先の想いは………、何なのかわからない……。でも……、今は分からなくてもいいのかもしれない。だって、答えなんか出ないから。答えなんか出してはいけないから。悲しい答えしかでないのは分かってる。だから答えは……、いらない。そんな答えは必要ない。今のあたしはただ彼が好きなだけな女の子で、彼とポケモンミュージカルを観に来ただけ。そう、それ以上の答えは今はいらない。だから、今は楽しもう。大好きな彼と一緒に大好きなポケモンミュージカルを。ね…、いこう!
………目の前で繰り広げらている世界は本当にあたしの目の前で起きているはずなのに、とても現実の世界で起きている事の様には思えなかった。それくらい幻想的で、キラキラと輝いている世界。ポケモン達が飛び、跳ね、踊り、歌う。中には本当に「うたう」をしちゃってお客さんが寝てしまうハプニングなんかもあったりしたけれど、それはそれでミュージカルに花を添える1シーンだ。楽しげなシーンではポケモン達は楽しく踊りまわり、悲しげシーンでは観る者の心に染み込んでくるような舞を見せ、そしてクライマックスでは限界まで「たくわえる」をした後の「はきだす」の様な爽快感!もしくは「こらえる」→「きしかいせい」が綺麗に決まった時の様な達成感!それが大きな波がザザザザザブーン!と押し寄せてきて、ピカチュウ波乗りクルクルターン!!!!
……あぁ!もう感情も言葉もおかしい!おかしすぎてハラハラリレー!!
……、ダメだ、あたし暴走中です。素敵過ぎて表現する言葉が見つからない…!……、うん、別に見つからなくてもいい…!あたしの心が素直に感動しているんだから、それを言葉に表すのは無粋だよね。とにかくとにかく!凄い!素敵!!自分が大人である事を忘れて子供の様にキャッキャとハシャいでしまう。
……、「子供の様に」ではなくて、幼いあたしがあたしの中に蘇って来て、純粋に子供としてハシャいでる。そんな感じ。これが子供の頃に憧れていた世界なんだ……。いつまでもいつまでもこの美しい世界が続けばいいのにな……。
そうは思ってもやはり何事にも終わりはやってくる。夢のような世界は終わりを告げ、興奮が抑えきれず、ロビーで立ち話に花を咲かせるあたし達は、終了の時間を知らせる「ゴーリキー」にミュージカルホールの外に放り出される。夏を目前にしたライモンシティの夜に、夏になりきれない少しだけ冷たい風が吹く。その風にさらされても興奮はさめる様子がない。幼い頃のあたしはミュージカルの後も興奮が冷めなくて、眠りにおちる最後の瞬間まではしゃいでいた。部長もどうやら同じ気持ちらしくて、普段は口数もそう多くはない彼も、この時ばかりは「どのポケモンが良かった」とか「どこのシーンがどのように素晴らしかった」とか、とても饒舌だった。そんな彼を観たのは初めてで、なんだかちょっと可愛く見えた。
そんな彼の意外な一面も含めてまだまだ語り足りないあたし達は場所を変え、更に深く会話を重ね、どれだけ言葉を重ねても言葉だけでは語りつくせないと思った時………。
あたし達は、言葉以上に想いを語ることのできる方法をお互いが求め合あった。
彼の想いがアタシの中に入り込んでくる。
それを拒む事なく受け入れるアタシ。
ミュージカルと同じくらい、うぅん、それ以上に輝いた夢の様な世界をあたしと彼、二人で、二人だけで作っていく。
その世界には彼の家族への罪悪感も、他の社員への優越感もなくて、あたしが彼を想う気持ちと、彼があたしを想う気持ちだけが混ざり合って、一つの想いになっていく。
その想いは憧れを越え、
恋心を越え、
全てを越えて、
彼とあたしは一つになった…………。
部長にとって近しい存在になったあたしに、彼は自分の話を色々教えてくれた。
彼は単身赴任でヒウンシティに一人で住んでいる。子供は12~13歳くらいで、春の訪れと共にポケモントレーナーとして旅だったんだって。その子供の事で奥さんと意見の食い違いが生まれ、夫婦仲はあまり上手くいっておらず、ほぼ別居状態なんだそうだ。そんな寂しさを感じさせる時、アタシの存在に心惹かれるモノがあったらしくて、あたしに良くしてくたみたい。
……む~…、一体あたしなんかのどこに惹かれたのやら…。見た目も普通でポケモンも大して上手くない。ま、彼の特訓でだいぶ上手くはなったけどもね。……あ、むしろアレか。誰もがポケモンが強いバトルカンパニーで、ポケモンが上手く扱えないあたしが旅立ったばかりの子供と重なって親近感を感じた、みたいな感じだったのかも…。う~、なんかそれが一番近い気がするぞ…。そう言って彼の腕の中で甘えながらちょっとだけ駄々をこねてみる。彼はくすぐったそうにほほ笑む…。
今この瞬間、彼を独占してるのは奥さんでもなくて、子供さんでもなくて、このあたしだ。だからこのほほ笑みはあたしだけのモノ…。
でも……、あたしは奥さんの代わりにはなれない。あたしはあたしだから。彼が奥さんと別居状態だからって、ずうずうしくもそのポストにちゃっかり収まろうなんて、そんなおこがましい考えなんて持ってないし。なので、今日が終われば彼はまた元の部長に戻ってしまうんだろうな。そう考えると、今この幸せが偽りの幸せだと感じてしまって、幸せのすぐ裏側で切なさが見え隠れしている。まるで表面は可愛いけど、後ろには大きな口を持ってエモノに襲いかかる「クチート」みたいに。
でも……、それでもいい。「クチート」みたいな日々だったとしても。彼の「一番」にはなれないけれど、彼にとって「特別な存在」になれたんだから。それを分かって彼と一緒にいるのだから。そう、これ以上を望んでしまっては彼の迷惑になる。彼の家庭にも迷惑になる。わかってる…。十分にわかってるよ。だから彼の腕の中にいられるのが今夜だけだとしても、それに最大限の幸せを感じていよう。彼の腕の中から離れた時、あたし達は現実に戻らなければいけないんだから。彼の腕の中で幸せを感じられる今この時を、体に、心に刻み込もう。
だから……、ね……、今だけは…………。
あたしだけ想って……。
あたしだけ愛していて…………。
●第5章、17時発、カントー地方行きの船
それから数日が過ぎ、シキジカの緑もより濃く、より深くなっていき、ビルの間から差し込む太陽の光も「ソーラービーム」かと思わせるくらいの強さに変化し、夏真っ盛りを肌で感じるようになっていた。そしてあたしと彼の関係も「ソーラービーム」をチャージするかのごとく、より深まっていった。仕事の後はいつもの時間、いつもの場所で待ち合わせ。その度に飲んだミックスオレを積み上げてみたら、高いテンガン山を越えてしまうんじゃないかってくらい。……、ごめん、ちょっと言い過ぎたかも。気持ち的にはそれくらいの感じって事でどうか一つ。
でも気になる噂も出ていて、秋の人事異動の際、彼がカントー地方に転勤になるのだとかなんとか。彼ほどの人材ならどこだって引っ張りダコだ。むしろ引っ張り「オクタン」。水タイプのくせに「かえんほうしゃ」がつかえたりして、それくらいマルチに活躍できる彼はどんな場所だって大活躍だろう。それに対してアタシはオクタンにもなれないただの「テッポウオ」程度だ。そんなアタシが彼に対してどうこう言う事は出来ない……。オクタンになれないテッポウオはコバンザメの様に「マンタイン」にくっついている事しかできないんだから。
そう、あたしは彼と言うマンタインにくっつくテッポウオ。確かにそれはそれで「特別な存在」かもしれないけれど、彼の奥さんでもなければ恋人でもない。一緒に行く事なんてできないし、ましてや引き留めるなんて事も出来るわけがない。あたしに出来るのは成り行きに任せるだけ。
そんな折、彼の家庭では大きな問題が起きていた。兼ねてより不仲だった奥さんとの関係がより深刻化しているのだとか。その原因はポケモントレーナーとして旅だった子供さんにあるらしい。部長としてはカントーへの転勤を機に、奥さんにも一緒に来てもらい、心機一転、夫婦仲をやり直すつもりだったのだけど、奥さんは旅立った子供さんの帰る場所として今の家を離れたくないそうだ。それで喧嘩になり今では離婚も秒読み状態なんだとか。
それに対して、あたしはどう思えばいいのだろう?奥さんの代わりになれるかもしれない立場に喜ぶべきなのか、彼の家庭が上手くいかない事を悲しむべきなのか。あたしはどうにも地に足がつかない、特性「ふゆう」の様な状態だった。
……自分の心に正直になって欲を言ってしまえば、あたしだって人並みには幸せになりたいと思っている。彼に抱かれた時、幸せを感じながらも長くは続かない関係だと思っていた心も抱えていた。普通の幸せって、家庭や家族を大事にする事なんだと思う。だからあたしは大切な彼の幸せ…、普通の幸せを祈ってきた。……祈ってきたハズ。
でも、今それが崩れようとしている。そんな今なら彼にあたしを選ばせるための努力は出来ると思う。自分の幸せの為に競争相手を蹴落としてでも彼の一番の座を手に入れる事は可能なんだと思う。だからってその心の隙間に付け入って悪タイプの新技「イカサマ」みたいなマネはしたくない。あくまでもアタシは……、彼の「特別な存在」にすぎないのだ。でももし……、もしもね、そんな事は絶対にないだろうけど、今回の転勤を機に彼が……、あたしを選んでくれたなら……。彼の心の支えになってあげられる。絶対に……!
そんなあたしの想いが通じたのかどうかは分からないけれど……。
彼は言ってくれた。
結婚してカントー地方についてきて欲しいと。
奥さんと別れてくれると。
そう……、彼はあたしを選んでくれた。
あたしは彼の奥さんにも子供さんにも会った事はない。写真ですら観た事もない。どんな姿かは知らないけれど、彼にとってはとても大きな存在だったはず。彼の心の大部分を占めていたと思う。その大きなスペースに今度はあたしが入る事が出来るんだ……。
彼の奥さんの事を考えると喜んではいけない事なのかもしれない…。でも……、それでも……、嬉しかった……。彼にとって一番の存在になる事が出来るんだ……。こんなにも自分の幸せを強く感じた事はなかった。
そうしてあたしは部長と一緒にカントーへの転勤が決まった。正式な結婚はカントーに転勤して今の家庭の問題が片付いてから、と言う事になったけれど、カントー転勤はアタシと彼とのちょっと早い新婚旅行も同じだった。秋の人事異動までにはまだ時間があったが、新婚生活を始めるにあたって、アレコレ考えるには全然時間が足りないくらい。まぁ向こうに着いたからってイキナリ結婚出来るわけでも新婚さんになるわけでもないけれど、でも同じだよね?……新婚さん……、新婚旅行かぁ……。んふふ。
良く言うじゃない?旅行は行く前に色々考えている時が一番楽しいって。でもこれはただの旅行じゃない。結婚生活と言う人生の大きな旅路なんだ。一日二日で終わる旅行なんかじゃなくて、二人で時間をかけて刻んでいく長い旅なんだ。長い年月が二人を更に結びつけて、その結びつきがさらに大きな幸せを産んでいく……。その日々を想う時間は、アッと言う間に過ぎていき、「ネジ山」の標高の高い部分が赤みを帯び始めるには十分な時間が流れていた。その間、彼は仕事の事、家庭の事で忙しく動き回っており、あまり会う時間は取れずにいた。深海の様にゆっくりとした時が流れるいつもの待ち合わせ場所でもあまり長居は出来ず、ミックスオレも半分以上残す事が多くなった。
いつもあたしに合わせてくれていた歩幅が、いつの間にか仕事の時と同じような歩幅になった。
いつも隣で見せてくれた彼の笑顔も隣にはなく、いつの間にか無表情な背中ばかり追いかけているようになった。
でもそれは仕方のない事。今の彼にはやることが沢山あるから。あたしに出来るのは少しでも彼に負担をかけないように労わってあげることだけだから…。
そうして緑色だったシキジカも完全に茶色の毛並みに生え換わる頃、ついに人事異動の日がやってきた。アタシと彼にとっては新しい人生の門出の日。
カントーへの移動はユナイテッドピアから出港する午後17時発の最終便。「フキヨセシティ」から飛行機に乗ってカントーを目指せば時間の短縮にもなるけど、船の方が経費削減になるのだそうだ。ま、このご時世だもんね。それに結婚までにクリアしなければいけない障害が沢山あって今まで忙しかったんだし、ゆっくりとした船旅を楽しむくらいの幸せな時間があったって良い。せっかく誰はばかることなく二人でいられる関係になれるんだもん。彼と二人で過ごせる新天地を目指して海を進んでいく船…。だからあたしは喜んでこの選択をした。
出港の時間までにはけっこう時間があったのに、それでもはやる気持ちが抑えきれず、初めて彼とあの場所で待ち合わせをした時のように、1時間以上早く港まで到着してしまった。相変わらず、逆の意味で時間にルーズなあたし。でも彼だって待ち合わせの時間より早く来る人だから丁度いいのかな?待ち合わせの時間は16時40分だけど、きっとそれよりも早くやって来ると思う。最近は忙しくて難しい顔をしている事が多かったけど、きっとその時にはとびっきりの笑顔を浮かべてやってくるよね。久しぶりの彼の笑顔……。早く見たいな……。でも彼は最終日もやっぱり忙しいみたいで、残務整理をしてからここににやってくるんだそうだ。まぁ仕方ないよね。だからあたしはおとなしく待つことにした。
彼を待っている時間だってとても幸せな時間だ……。どんな顔でやってくるのかな?どんな笑顔をあたしに見せてくれるのかな?そんな事を考えるだけであたしの心の中には幸せが溢れてくる。そう……、あたしは今、とても幸せ……。でも……、でもね、それだけの幸せを与えてもらいながらも、一つだけ、本当に一つだけ叶えたいささやかな夢があるんだ…。彼があたしを選んでくれたってだけでも凄い事なのに、それ以上の事を望んでしまったらなんだか罰が当たってしまうようで、本当はこんな事望んじゃいけないのかもしれないけれど、でも一つだけ。本当にささやかな願いを一つだけ。それは彼を「名前」で呼ぶ事。いずれは彼と二人の生活を始めるのだけれど今はまだ「部長」と「部下」の関係。だからあたしは彼を「部長」と呼んでいる。それが例えベッドの中でも。彼を名前で呼ぶ事が出来て初めてあたしは結ばれたと言う事を実感できるんだと思う。早く彼を「部長」ではなくて、名前で呼べるようになりたい…。
貴方の事、早く名前で呼ばせてね……。
待ち合わせの船着き場はついさっき、カントー行きの別の便が出港したばかりで、閑散としていた。そのせいなのか海を渡ってやってくる風は遮るモノがなくて、さらに秋のベールを纏っていて肌寒い…。だけどあたしの心はそんな寒さなんてまったく感じていなかった。だって、これから彼と新しい日々が始まるんだから。そう想ったら胸の中のロウソクに「ヒトモシ」が温かい火をともしてくれた様な気分だった。これで側に彼がいてくれたなら、「ヒトモシ」が1段飛ばし進化とかしちゃって「シャンデラ」くらいにはなっちゃったかもね。とは言え、まだまだ時間があるからチラーミィと遊ぶ事にした。
彼からもらったチラーミィは彼の存在と同じくらいにかけがえのない宝物…。彼がこの子をくれたあの日からあたし達の関係は始まったようなものだし。本当にありがとうね、チラーミィ!あたしはギュッと抱きしめる。チラーミィも凄く嬉しそうな顔をして頬ずりをしてくれる。最初は全然懐かなくて、抱っこしようとしただけでも「スイープビンタ」を喰らったものだけど、今はこの子から「アンコール」をしてきてくれる。こんなにも仲良くなれるなんてね…。この子とは辛い思いも色々あったけど、色々あったからこそあたしは彼と結ばれる事が出来たんだ……。
世間一般では男女間を取り持つキューピットは「ラブカス」って言われてるけど、あたしにとってはこのチラーミィこそがキューピットだった。それに、「ラブカス」よりも可愛いしね。うん、あくまでもあたしの偏見だけど。ラブカス使いさん、ごめんなさい。他意はありません。あぁ、ラブカスと言えば、この前仕事でホウエン地方からやってきた人がラブカスを持っていて、「ラブカスは絶対に「ママンボウ」に進化すると思ってイッシュ地方に連れて来たのに進化しない!」ってクレーム付けてきた事があったっけ……。ん~、気持ちはわからなくもないけれど…。ラブカスって進化しない上にお世辞にも良いステータスとは言えないし、ママンボウって明らかにラブカスの進化系みたいな見た目してるしね。でも実際はそうじゃない。こればっかりは神様を恨むしかないよねぇ。
それと似たような話でシンオウ地方から来たお客さんが、「チラーミィが進化したら「モローミィ」か「ガンーミィ」になると思ってたのに!」ってクレーム付けてきた事もあったっけ…。チラーミィをそんな痴漢みたいな名前に進化させないでほしいんだけどなぁ……。
なんて話をチラーミィに言ってみるけど、分かってるのか分かってないのか、不思議そうな顔を向けてくる。……オマエの事を思って言ってるんだぞ?わかってるの?チラーミィの進化には「ひかりのいし」が必要で、貴重な品だっていうしあたしは持ってないけど、勝手に変な進化名で呼ばれないように、そのうち進化させたげるからね。ポケモンの強い彼がくれたポケモンなんだからもっともっと強くしてあげる。一緒にもっと強く、そしてもっともっと幸せになろうね!……その幸せは約束された幸せ。その幸せに向かってあたしは歩き始めたんだ。確かに彼に奥さんには悪い事をしていると思う。奥さんの悲しみの上に成り立つ幸せなのかもしれないけれど、だからこそちゃんと幸せにならないとダメなんだと思う。だから一生懸命幸せになろう!ね、チラーミィ!
そんな事を考えながらチラーミィを撫でていると、遠くから「ホエルオー」の鳴き声が聞こえてきた。……、と思ったけれど、これはホエルオーの鳴き声じゃなくて船の汽笛みたい。秋の雲ひとつない澄んだ空を切り裂くような汽笛と共に、遠目にもわかるホエルオーにも負けないくらいのシルエットをもつ船が悠然と近づいてきた。あれがカントー行きの船。あたし達を新天地に連れてってくれる船だ。その船が自分がはるか遠くからやってきた事をアピールするかのように、もう一度大きな汽笛を鳴らす。その汽笛で妄想の世界から現実世界に引き戻された。気がつくといつのまにか周りには多くの人が集まっていて、先ほどまでの寒さはどこへやら。港は熱気につつまれていた。
大きな荷物を抱えて、これからの旅に希望を抱く人や、それを見送ろうと少しさびしげな顔を見せる人。そしてカントーから帰ってきた人を温かく出迎えようとする人。貨物の積み込み作業で忙しく動き回り険しい顔をしている人。港にはいろんな顔があった。その顔の数だけ想いが溢れている。あたしは今、どんな顔をしているのかな…。新しい人生への希望?想い人と一緒に暮らせる喜び?それとも上手くやっていけるかどうかと言う不安?それとも彼が大切にしていた人への罪悪感?色々な想いが時には喜び、時には悲しみと喜怒哀楽がクルクルと入れ替わって、それはまるで一人で繰り広げる「ローテーションバトル」の様だった。
そんな一人ローテーションバトルに堪えきれずに時計を見る。シンオウ地方ではポケモンウォッチ、略して「ポケッチ」っていう多機能アプリ搭載のナビゲーションシステムが流行っているみたいだけど、イッシュにはその流行はやってきていないのであたしが見るのは普通の時計。でもその普通の時計がそろそろ普通の時間じゃなくなってきた事を指し示している。表示される時間は「16時30分」。
待ち合わせの時間は16時40分だ。彼はいつも待ち合わせの15分前には到着している事が多い。それを考えると少し遅い気がする。本来の意味で待ち合わせ、と言う事を考えるならまだ10分はあるんだし焦る事なんてないハズだ。だけど周りの人たちは接岸した船に次々と取り込んでいて、その光景があたしの心を焦らせているのかもしれない。
船着き場に集まっていた人たちがどんどん船に乗り込んでいくので、それに比例して船着き場に残る人は少なくなり、さっきまであんなに溢れかえっていた熱気が少しずつ冷めていく。するとさっき感じたあの冷たい風に気づいてしまった。あたしは体が少しずつ冷えていくのを感じて、暖を取ろうとチラーミィをギュッと抱きしめる。その体温だけがアタシに温かさをくれる。彼が来てくれたなら心に温かさがよみがえるのに……。早く……、こないかな……。
そんなあたしの想いとは裏腹に時間は刻一刻と過ぎていく。時間は16時50分。待ち合わせの時間は10分も過ぎている。待ち合わせに遅刻した事なんて今まで一度もなかったのにどうしたんだろう?残務整理が長引いているんだろうか…。早く来ないと船が出てしまう。一足先に船に乗る事も考えたけれど、あたし一人で乗っても意味はない。彼と一緒に乗る船だから意味があるんだ。そう思ってギリギリまで待つ事にした。その心を打ち砕くように船が大きな汽笛を鳴らす。出港時間が間近に迫って来ている事を知らせる汽笛。さっきはホエルオーののんきな鳴き声の様に聞こえた汽笛も、今は「バクオング」の「いやなおと」の様にあたしの心の防御力をガクッと奪っていく。
どうして……。どうしてこないの……?
あたしは「ライブキャスター」で彼に連絡を取ろうとダイヤルを押す。
コール音が1回、2回と響く。コールとコールの感覚がものすごく長く感じてしまう……!
………、………、………、………、出ない………。
どうして?なんで出てくれないの?必至になってリダイヤルを押す。
………、………、………、………、やっぱり出ない……!!
もう一度!!次は絶対に出る!!!
………、………、………、………、なんで出ないの……!!!!??
繋がらない事を示す砂嵐の画面が本当の「すなあらし」の様に「いわ」でも「はがね」でもないあたしの弱い心から視界と体力を奪っていく。
おかしいよ…!なんで出てくれないの!?っていうか!来ない!!なんで来ないの!?もう出港しちゃうよ!?あたしと貴方を新世界に導いてくれる船が行ってしまう!
「ブォォォォォォォォーーーー………!!!」
うるさい!!
うるさい!!!
そんな「いやなおと」なんて鳴らさないで!!!
だって彼が来ない!!来ないんだから出港しないで!!!!
待ってよ!!!!絶対に彼は来るんだから!!
「ブォォォォォォォォーーーー………!!!」
もううるさい!!!!!
うるさいって言ってるでしょ!!!??
こんなに言ってるのにわからないの!!??
「ブォォォォォォォォーーーー………!!!」
あぁ!!!!もう本当にうるさ……、
え……………。
ちょっと……、やだ……、なんで………!?
なんで?なんで????
船……、動いてる……!?
なんで!?だって!!!あたし乗ってない……!彼も乗ってないのに………!!??
あたし達乗ってないよ!?
なのになんで動いてるの……!!!!!
ダメだよ……!行っちゃダメだよ……!
そんなに離れたら乗れないじゃない……!
ウソでしょ?そんなのウソなんでしょ?
………、あぁ……、離れて………いく……。
やだ!!!!ダメ!!!!いかないで!!!!!
いかないでぇぇぇええぇぇーーーーー………!!!!!!!!
「………ォォォォォォォォーーーー………」
……………、あ……。行っちゃった………。いっちゃったよ………。
どうして…………
周りにはもう誰もいなかった……。
大きな荷物を抱えてこれからの旅に希望を抱く人や、それを見送ろうと少しさびしげな顔を見せる人。そしてカントーから帰ってきた人を温かく出迎えようとする人。貨物の積み込み作業で忙しく動き回り険しい顔をしている人。そんな人達はもうどこにもいなかった……。
そこにいたのは………、あたし……、だけ………。
誰もいなくなった港にひと際冷たい風が吹いて、あたしの体から全ての熱を奪おうとしてく……。心に灯していた彼への気持ちも…、彼への憧れも…、カントーへ想いも……。
今のあたしの体は「とけないこおり」の様に冷たくなっていた。………その中で一つだけ熱を放っていたのは腕の中にいるチラーミィ……。その温かさが、かろうじてあたしに正気を保たせていた。
ねぇ……、どうして来てくれなかったの……?
ねぇ……、チラーミィ……。どうして彼は来てくれなかったんだろう……?
チラーミィは何も答えず、あたしの腕の中で不思議そうな顔をするだけ……。
……………。
どれだけここに立ち尽くしていただんろう?まだ1分もたっていないのか?それとも1時間以上経過したのか?何も考えられないまま、あたしはただただ立ち尽くしていた……。
だからそれは最初、ただの風の音だと思った。
でもそれは風の音じゃなかった。その音に気を止めると、それは風の音じゃない事がわかった。それは……、ライブキャスターの着信音だった。相手は………、彼!!
私は弾かれたように反応して、すぐに着信ボタンを押す!
「部長!?部長ですか!!??」
ライブキャスター越しの彼は何も答えない。そればかりか一番見たかったはずの彼の顔が表意されていない……!表示されるのは砂嵐とSOUND ONLYの機械的な表示だけ。その画面に狂ったように声を張り上げる!
「……部長!!!どうして……!どうして来てくれなかったんですか…!?」
答えはない。……もしかして彼に何かあったのでは!?なんて考えた時、画面の向こうから今まで一度も聞いた事のないような弱々しい声が聞こえてきた。
え……?……部長、だよね…?でもその声はいつも自信に充ち溢れていた彼からはとても想像もつかない様な声だった。
「チアキ君……。カントー行きの船は出たのかい…?」
「は、はい…。」
「そうか……。」
その言葉を発したっきり、画面の向こうにいるであろう彼は黙ってしまった。画面は相変わらず砂嵐のまま。でも息遣いだけはハッキリ聞こえてくる。あたしは次の言葉を待った。でも、待っても待っても次の言葉は出てこない。先に沈黙に我慢できなくなったのはあたしだった。
「……、部長……。何か……、あったんですか…?どうして来てくれなかったんですか?…」
「チアキ君……。君に謝らなければならない事がある……。」
その言葉を聞いた瞬間、あたしの背中に得体のしれない何かがゾワゾワと這い上がってくるのを感じた。いつでもハキハキしゃべる彼だけど、今の彼は妙に歯切れが悪い。その歯切れの悪さに加え、謝りたい事……。それはただ遅刻した事を謝るだなんて、そんな生易しい言葉ではなくて、きっとあたしの心を引き裂いてあまりある言葉が飛び出してくるのに違いという予感……。その言葉を聞いてしまったら、きっとあたしは全てを失うだろうと言う予感……。ダメだ…。その言葉を聞いちゃ、言わせちゃダメ……!
「いや……。嫌です……。聞きたくない……。」
「いや、聞いてくれ。」
「ダメ…!聞きたくない…………!聞いたらもう……。」
「……、君には本当にすまないと思っている……。」
「そう思うなら……、言わないで……。」
「……チアキ君……。」
そうだ、言わせちゃいけないんだ。だから……!まだ大丈夫…!まだ大丈夫なはず…!だから今は言わせちゃダメなんだ……!!
「ぶ、部長…!今日は一緒に行けなかったけど明日だったら……!明日になれば一緒にカントーに行けますよね…?今日は残務整理が長引いて遅刻しちゃっただけなんですよね…?ね?」
「………、明日になっても君と一緒にカントーには行けない。」
「じゃ、じゃあ明後日は!?その次は!!??」
「明後日もその次も……。その後でも……、君とは一緒には行けない。」
「…………どうして!!??」
「……、私はもうすでにカントーにいるからだ。」
……………え……………??
そ、そんなのって……?
な、なに?
彼は一体何を言ってるの?
もうすでにカントーにいる…?
あたしと一緒の船でカントーに行くんじゃなかったの?
この旅路はちょっと早い新婚旅行だったんじゃないの……!?
何を言っているのかわからない…………。
疑問がそのまま口から出る。
「チアキ君。君へのプロポーズは取り消しさせて欲しい。」
………え……?
あれ……?なんで……?
そんなのオカシイよ…!
だってプロポーズの……取り消し………、って言うのは……、あたしは……彼とは……、結婚できない……、と言う意味…………だから………。
「だ、ダメ……。そんなの……、ダメ……、だよ……。」
あたしは必至にそれだけを絞り出した。あたしの必死の声が届いたのかどうかわからない。でも彼は言葉を続けた。
「落ち着いて聞いてほしい。1週間ほど前……、妻と話したんだ。自分達家族の事を。私の息子はジムバッチを8つ集め、ついにポケモンリーグに挑むんだと。しかしその挑戦を目前にして自分が留守の間に家族が離婚してしまったら……。子供はきっと自分のせいで離婚になってしまったと思い、チャンピオンになる事を諦めてしまうだろう…。そればかりかポケモンが嫌いになってしまうかもしれない…。全てがポケモンと一緒のこの世界でポケモンが嫌いになってしまうような事があれば……。その世界は子供にとってとてつもなく苦痛な世界になってしまうだろう……。」
苦痛な世界……。確かにそうかもしれない……。でも今、あたしは貴方の言葉で誰よりも苦痛な世界にいるんだよ……?
「ポケモンリーグに挑戦し、チャンピオンになる事はポケモントレーナーにとって何よりの憧れだ。その憧れを叶えるために頑張る息子を支えようと、私の妻も頑張っている。その子供と妻を支えるのが夫としての役目だ。私は今までそれを忘れ、家族の不仲を妻や子供のせいにして、のうのうと過ごしてきてしまった……。今以上に家族と離れるであろうカントー行きだが、だからと言って家族の絆まで離れるワケではない…。今になってやっとそれに気がついたんだ。それに気が付いてしまった以上、私だけが……、私だけが君と幸せになるなんてできないんだ。どうか……、どうかそれをわかって欲しい。」
……、そんなのって……。
じゃああたしの幸せは……?あたしの幸せはどうなるの……?
貴方との絆はどうなるの…?
あたしの憧れはどうなってしまうの……?
「それが言いだせなくて、先に一人でカントーに来てしまったんだ……。ふがいない私を許して欲しい。」
……、許してって……。
そんな………。
許せるワケが……ないじゃない………!
だったら………!
それだったら………っ!!!!!!
「最初からあたしに優しくしなきゃよかったのに!!!!!アナタがあたしに優しくするから…!あたし、勝手に勘違いして……!!!!あたし……、あたし……!!!馬鹿みたいじゃない………!!!!!!!うぅ……!!!」
「チアキ君……!!本当にすまないと思っている…。」
「そんな言葉なんていらない……!!!あたし……!我慢してたんだよ!?アナタには家族がいるからって!だから変な期待なんかしちゃダメだって!!!アナタの一番じゃなくても良いんだって!!!!だからずっと我慢してたのに!!それなのに……、それなのに………!!アナタが………、アナタがプロポーズなんて……するからっ……!!!!」
「………本当にすまない……。それで、君のカントー行きは取り消しをしておいた。1週間の特別休暇を入れておいたから、それで………」
………、あたしの言葉が彼には届かないように、彼の言葉もあたしには届かない。だから、仕方ない……。
仕方ないんだけど………!!!!
どうして……、届かない!?なんで届かないの!?うぅぅぅう……!!!
う……、ぁぁ……。うぅぅ………!!あぁあぁぁぁ……!!!うぅぁああぁぁぁっっ………!!!!!
●第6章、観覧車
気が付いたらそこは………、ライモンシティだった。港から飛び出し、行く当てもなく彷徨って、辿りついた先は……。まだ純粋だったあの頃…、ただ二人で笑って過ごせていた頃…、夢の様なヒトトキを過ごした場所、ミュージカルホールだった……。
もしかしたら、と思って横を向いてみる。
……、フッと横を見ると、あの時と同じクシャクシャな笑顔の彼がそこにいてくれるような気がしたから……。
でも……、それは……、違った。
あたしの横には……、彼は……、いなかった。
………、そっか……。あたしは……、フラれちゃったんだな………。
どうやら……、あたしと彼の関係は変わってしまったけれど、このミュージカルホールはあの日とまったく変わらない。威風堂々としていて、楽しげで……。
捨てられてしまったみすぼらしくて、悲しげなあたしとは大違いだな……。
誰もが笑顔になるハズのこの街で。
笑顔の象徴のようなこの場所で。
あたしは今……、泣いてる。
悲しいからなのか、悔しいからなのか。それとも別の何かなのか……。そんなのはわからないけれど……。ただ涙が溢れた。止まらなかった。
この中ではきっとポケモン達が素敵なステージを繰り広げているんだろうな……。でもそれは今のあたしには眩しすぎて……。だからここはあたしなんかがいて良い場所じゃない。今のあたしを受け入れてなんかくれない……。あたしを黙って見下ろすミュージカルホール。その視線が容赦なく突き刺さる。
いいよ……。そうやってみじめなあたしを見下ろしていればいい…。
アンタがあたしを見下ろすなら、あたしだってアンタを見下ろしてやるんだから……。
あたしはアンタを見下ろす事ができる場所を知っている。子供の頃、親と一緒にアンタを見下ろした。そしてついこの前だって彼と一緒にだって見下ろした。だからあたしはもう一度アンタを見下ろしてやるんだ……。
あたしはミュージカルホールに背を向けて歩き出した。その足は笑顔ばかりの人混みを掻き分けて、ライモンシティでも特ににぎやかな場所へと向かう。そこだってきっと誰もが笑顔なんだ。でも大丈夫。笑顔じゃなくてもいい場所がある。そこに行けば笑顔じゃないあたしだってライモンシティに溶け込む事くらいできるんだから。
途中で道行く人に振り向かれたり、声をかけられたりしたけど、でも気にしない。気になんかしてあげない。笑顔のアンタ達なんかあたしには必要ない。だからほっといて。そう思うと足取りが早くなる。きっと……、あの人も仕事の時はこれくらいの速さで歩いていたんだろうな……。歩く事にでさえ彼を思い出す。あたしの中には彼が染みついている。
アナタはあたしをフッたんだから出てこないで!あたしの中に出てくる権利なんてない!あたしは彼から逃げるように走った。走って走って辿りついた先は……、遊園地の観覧車だった。
幼いころ、あたしは家族で来たミュージカルの後、この遊園地に来た。そしてお父さんと二人で観覧車に乗った。ミュージカルホールもスタジアムもギアステーションも全てはあたしの足元にあった。デザートリゾートだって見えたし、その向こうにはうっすらとヒウンシティも見えた。そして逆を向けばネジ山だって見えた。眼下に広がる雄大な景色に大はしゃぎした。一度じゃ足りなくて今度はお母さんと乗った。
そして今年の夏、彼と出かけたプチ旅行でも乗った。その景色は幼いころと変わらなかった。変わったのは一緒に乗った相手。彼はあたしを抱きしめてくれた。彼の腕の中で見る景色は幼いころよりももっと素敵になった。
そして今、あたしは一人で観覧車の前にいる。これに乗ればあたしを見下ろしたミュージカルホールを逆に見下ろしてやる事が出来る。
でも……、そうだ……、そうだった……!
あたし……、バカだ……!!
だってこの観覧車は……、二人乗りだった……!
だからあたしは……、乗る事ができない……!!
アアハハハハアハハ………!
あぁああはあはぁ!!!
ああぅぅぅうう!!!!
うぅぅぅあああぁぁああ………っっ!!!!
彼にはフラれ、ミュージカルホールには見下ろされ、観覧車からもそっぽを向かれ……。あたしは………、何をしているんだろう………。何をしたらいいんだろう………。
もうわからないよ……。
もう………、
なにもかも……、
どうでも………、
いい………。
その時、音が聞こえた。何の音?まさか……、彼からのライブキャスター!?
……、そんな事があるわけない……よね……。
じゃあ何の音?顔を上げると、小さな光があたしを照らしていた。光の先を追いかけると……、それは自転車だった。
……自転車?さっきの音は自転車のベル……?自転車は人が乗るモノだ。じゃあ誰が乗っているの?顔をあげてみる。
……そこには………、見知らぬ少年がいた。
イッシュ地方では流行りのメーカーの帽子をかぶり、動きやすそうな青いパーカーに、これまたアクティブな黒いパンツ。そして履き心地の良さそうな赤いスニーカー。その背中には大きなリュックが背負われている。どこからどう見ても普通の少年。
どこからどう見てもポケモントレーナー。
歳のころは12~13歳くらいだろうか?多分、彼の子供とおんなじ位の年齢なんだろうな…。目深にかぶった帽子からは表情をうかがい知ることはできないけれど、あたしにベルを鳴らしてきたって事は……、ポケモンバトルを挑まれたんだろうか?
今はそんな気分じゃないんだけど……、でも……、もうなんだっていいや……。観覧車に乗りたくても一人で乗れないんだし、この際この子でも構わない。それにポケモンバトルをすればこの陰鬱な気分も少しはスッキリするかもしれない…。あたしだってそれなりに自信はある。会社で一番強いあの人が鍛えてくれたんだし。この子には悪いけど、こてんぱんにやっつけて憂さ晴らしさせてもらおう!ついでに観覧車に乗れれば言う事なし、かもね…。フフ……。そんな、ちょっとだけ打算的な気持ちで少年に話しかける。
「もう 秋に なっちゃった……
夏は 過ぎるの はやいな……
あ…… ねえ そこの キミ……
いま ちょっと 時間 あるかな?
ここに 観覧車 みえるでしょ?
これね 二人乗り 専用 なの
でも 今 あたしは ひとりぼっち
だから 乗りたくても 乗れないんだ
だから……
もし キミさえ 構わなかったら
お願いしたいんだけど さ
お姉さんと 観覧車に
乗って もらえないかな……?
特に お礼も できないんだけど
もし付き合って もらえるなら
がんばって ポケモン勝負するよ?」
なんだか……、不自然な誘い方になっちゃった?怪しい女になってないかな?ま、でもいっか。ダメならダメで。それに「ポケモントレーナー同士、目が合えばバトルの始まり」なんて言うし。キミがポケモントレーナーだったら、……受けるよね?
あたしの誘いを受けてくれたのか、少年は帽子を少しだけ上にあげた。その子は………、なんだかとても綺麗な瞳をしていた。色々なモノを忘れたり捨てたり諦めたりしながら、大人への道を歩いてきたあたし。あたしも昔はこんな綺麗な瞳だったのかなぁ……。そんな事をボーっと考えていると、少年はあたしの目を見据えてこう言った。
「……、うん。いいよ!勝負しよう!」
なんて明るくて希望に満ちた声……!その声は不安や悩みやその他諸々、マイナスの感情に苛まれまくるあたしとは大違い。ポケモントレーナーである自分の生き方に何の迷いも感じてないんじゃないかなぁ…。なんだか戦う前から負けた気分。……悔しいから、おねーさん、ちょっとだけ本気だしちゃうんだからね!
「出ておいで!チラーミィ!」
ボールから元気に飛び出し来るチラーミィ。この子は……、彼からもらったチラーミィだ。さっきはあんなにも幸せになろうねって一緒に誓ったハズなのに、その幸せはあたしの前から去っていった。そう思ったら……、いや、ダメ…。この子は悪くない。彼とはあんな結果になってしまったけれど、だからってこの子はなんにも悪くなんかない。だって、彼はあたしの前から去っていったけど、この子はあたしの側にいてくれた。港でこの子に顔をうずめて泣いてしまって、綺麗な毛並みをグシャグシャに汚してしまったけれど、それでもこの子はあたしと一緒にいてくれた。だから、この子との関係だけは変わらないんだ。そうだよ!だからこのバトルが終わったら綺麗にしてあげるからね!よし!勝負だ!いくよ!チラーミィ!!頑張ろう!!どんなポケモンだって、あたしとチラーミィでやっつけちゃうんだから!あの少年はどんなポケモンでくるのかな?
「よし!君に決めた!!」
彼の放ったモンスターボールが光に包まれ、その光が大きなシルエットを形取って行く。そこから現れたポケモンは……、大きくて雄々しい角を持ち、貫禄のある髭を生やした逞しい姿。それは……「ダイケンキ」。ミジュマルの最終進化系。そのポケモンが力強く大地を踏みしめる!あたしはその神々しさにしばらく目を奪われていた。
「いくよ、たまらっコ!!」
彼が叫んだ。………え?たま…らっコ……?あ、あぁ……、ポケモンのニックネーム……、だよね? ……たまらっコ……、ねぇ…。
「どうしたの、おねーさん。かかってきなよ!」
あ、っと…、いけない!その姿と名前のギャップにしばらく放心してたみたい…。確かに神々しい姿だし、なんだか変な名前だけど、でも勝負は勝負!
「いくよ、チラーミィ!スイープビンタ!」
チラーミィが飛びあがり、ダイケンキめがけて尻尾を振りおろす!遠心力を加えた尻尾の強撃が1回!2回!3回!とヒットする!でもまだまだ!4回!!そして5回!!!この技がクリーンヒットして倒れなかった相手はいない!例え倒れなかったとしてもあたしのチラーミィはメロメロボディの特性を持っている。不用意に反撃してきた相手をメロメロにして攻撃の手を緩めさせて、そのスキに止めを刺す!それがあたしの戦い方!……相手がメス限定だけど。でもスイープビンタが全てヒットしたんだ!もう起き上がってはこれないハズ………、え?
「ダイケンキ!なみのりだ!!」
少年の声に反応し、チラーミィの攻撃をモノともせずにダイケンキが吠える!とても猛々しく!!叫びと共に荒れ狂う大波が押し寄せ、あたしのチラ―ミィがみるみる流されていく…!その「なみのり」は凄い威力で……、ふさぎ込んでいたあたしの心までさらってしまうような……、そんな力強さがあった……。
「おねーさん、戦闘終了、だね。」
……はっ!?あ、あれ?あたし、負けちゃってた?一撃で?そんなぁ……。
あららぁ…、波に流されたでチラーミィがクルクル目を回しちゃってる…。ごめんね、チラーミィ…。気を失ったチラーミィを抱き上げ、汚れをふき取ってボールに戻してあげる。
でも…、この子がこんなに簡単に負けちゃうなんてなぁ…。部長の特訓でちょっとは自信、あったんだけど……。
……あんなに強いと思ってた部長。そんなのとは比べ物にならないくらいの強さを見せつけてくれた彼。清々しいまでの完敗と激しいなみのりで、なんだかあたしの心の中のモヤモヤやわだかまりが流されていってしまった気がした。
「あーあ 負けちゃったか!
おねーさん 頑張ったんだけどなー」
悔しいとは思いつつも、アッという間に負けちゃった事で、なんだかちょっとだけ可笑しくなってしまった。
「フフフ でも ありがと!
何かね…… とっても 楽しかった」
うん、楽しかった…。口に出してみて思った。今のバトル、楽しかったんだ……。部長の事も仕事の事も考えない、ただバトルの事だけを考えたバトル。それが、妙に楽しかった…。あ、そう言えば……、バトルの事で頭がいっぱいで忘れてたけど、あたしは元々観覧車に乗ろうと思ってたんだっけ。一人では乗ることのできない、二人乗りの観覧車。部長と一緒に乗った観覧車に今、見知らぬ少年と乗ろうとしている。……、それもいいかもしれない……。
「じゃ さ……
そろそろ 観覧車 乗ろっか?」
「うん、乗ろう。なんか……、ちょっと緊張しちゃうけど。」
フフ…、子供らしい反応にちょっとだけ優越感を感じる。本来はコテンパンにやっつけて憂さ晴らしするつもりが、逆にコテンパンにされちゃったんだもん、ちょっとだけ大人の余裕ってのを見せてあげるんだから。……なんてね。
うつむき加減で緊張した面持ちを見せる少年と並んで観覧車を待つ。この時間を部長と過ごした時、アタシはこの少年と逆の立場だったかもしれない。彼と二人っきりの空間を想像して、期待と不安が入り混じった感情でドキドキしてたっけな…。
あの時はこんな日が来るとは……、思わなったと言えば……、ウソになるかな……。部長の一番にはならなくてもいい、ただ側にいるだけで幸せだったあの時……。多くは望んでいなかったハズなのに、いつの間にか部長の甘い言葉に自分の立場を忘れて、勝手に舞い上がっていったんだっけ……。
「観覧車、来たよ。さぁ、乗ろう!楽しみだね!」
暗くなっていたあたしに明るく少年が笑いかける。
「……、そうだね。乗ろう!」
あたし達を載せた観覧車はゆっくりと空に昇っていって、目の高さにあった観覧車乗り場が次第に見下ろせるようになっていく。真っ赤に紅葉し始めた木々を見下ろすと、まるで赤い海のようだった。その海は観覧車の上昇に合わせて、どんどん広がっていく。ぼんやりと赤い海を見下ろしていると、少年は口を開いた。
「あのさ…、前に観覧車、乗った事があるんだ。」
「そうなんだ。だれと?あ、もしかして彼女かな?」
「ち、違うよ!男だよ!でもアイツの名前は……、今でも分からないけど……。でもすぐ近いうちに会う事になると思う。決着をつけなきゃいけないから。」
「決着…?ポケモンバトルかな?」
「……、うん、まぁそんな所。でもその時はちょっとね、ゆっくり景色を楽しむ余裕がなかったから、今はゆっくり景色をみたいんだ。」
「そうなんだ…。あたしも…、みたい景色があるの…。」
「へ~、何が見たいの?……あ!ホラ!見てよ、ミュージカルホール!わぁ!あんなに小さく見える!」
………、ミュージカルホール……。うん……、そうだよ…。あたしはそれを見下ろしに来た。あたしを見下ろしてたミュージカルホール。あんなに高くて大きかったくせに今はどんどん小さくなっていってる。ふふ…、思う存分見下ろしてあげるんだから!
……どう?見下ろされる気分は!悔しいでしょ?辛いでしょ?それがあたしが感じた想いなんだ。だからアンタもそれを味わうといい…!
……味あわせてやろうと思ったのに………、なに、これ……。全然、楽しくない……。全然スッキリなんてしない……。
……そっか……。そうだ……。あたりまえ……、だよね。だって、あたしは別にミュージカルホールが憎いワケじゃないんだから。最初っからアナタはあたしを見下ろしてなんかいなかった。アナタはあたしに幸せを、楽しみをくれたんだ。幼いころに憧れていた世界をもう一度見せてくれた。そこにたまたま憧れだったあの人が一緒にいただけ。その気持ちを勘違いして勝手にアナタにぶつけようとしていただけ……。
……元々はただの憧れだったハズ。それがいつの間にか恋に変わり、そして愛に変わっていった。……、変わったと思っていた。でも、違った。「愛」って自分が愛して、相手が愛してくれて、お互いの気持ちが一つに重なった時、初めて「愛」って呼べるモノなんだと思う。だから…、あたしの想いは「愛」ではなかったんだ。……でも、もしかしたらそうじゃない。彼も本当にあたしの事を愛してくれていたのかもしれない。それでもこういう結果になったのだから、その時はあたしを愛していたとしても、やっぱりそれは「愛」じゃなかったんだ。
そう、それはただの憧れのまま………だった……。
あたしは昔の憧れの世界から遠く離れ、仕事に追われる日々を忙しく過ごしていた。別にその後は風呂に入って寝るだけ、ってほどの忙しさではないけれど、それでも輝いていた何かを心の中から失わせる位の毎日を過ごしてきた。ぽっかりと空いた心の穴…。そこに収まったのが……、部長の存在だ…。だからあたしは部長との日々を過ごすことで失われていた輝きを取り戻してきた。ただそれだけの事…。良く考えてみれば、本気で好きだったのかどうかも、今となってはわからない…。それでもあふれ出る涙は、そんな単純な事ではないと教えてくれていた…。
こんなにも素敵な眺めなのに、涙……、とまらないよ……。
「……ステキな 眺めね……
…… だけど……
…… …… グスッ グスッ……
…… ごめん…… となり…… いい?」
もう耐えられなかった……。もう何も考えられなかった……。ただの逃避だとわかってはいるけど、でも……、それでも……。突然涙を流す不審な女に少年は困惑しているとは思うけれど、でも今だけは許してほしかった……。
「だ、大丈夫!?どうしたの…!?」
「うぅん、なんでもない……。何でもないの……。」
……何でもない事なんてない……。でも何も言えない……。あたしはそのまま彼の胸に顔を埋め、声を押し殺しながら……泣いた……。
「…… 降りるまででいいから……
このまま…… お願い……」
地上から遠く離れた空の上。あたしは見知らぬ少年の胸の中にいた。
どうしてあたしはこんな場所でこんな事をしているのだろう?それが分かっていたら、今ここで泣いてなんかいなかったと思う。
とめどなくこぼれ落ちる涙を追いかけてみたら、その先には真っ赤な海が広がっていた。海の上を滑る風がザッ……、とざわめき、波しぶきの代わりに赤い葉を散らす。
風に巻き上げられた赤い波しぶきがあたしの視界を覆い、現実感のない景色があたしの中から更に現実感を奪っていく。
始めはちゃんと輪郭を帯びていた赤い海が、体が空に昇っていくにつれて、いつの間にか赤一色になってきて、それはまるで血の様で、もしかしたらあたしが流しているのは涙じゃなくて血なのかもしれない…。そんな風に感じてしまう。
そうか…。だから寒いんだ…。血を流して冷たくなったあたしの体に、窓の隙間から入り込む秋の風が纏わりつき、残った体温も搾り取る様に奪おうとしている。
そんな風に思ったらもうこのままどこまでも舞い上がってしまって、あたしもこの赤の中に溶け込んでしまえたならいっそ楽になれるのかもしれない…。そんな風に思った。
……でもその時、冷たくなったあたしの手に、ささやかに…、本当にささやかにだけど優しい温もりが重なって、心が少しだけ現実に引き戻してくれた。
その温もりをくれた少年は……、少し困った顔をしていた……。
「…… ……ゴメン ね
観覧車から みえる 景色
眺めてたら さ 色んなこと
思いだしちゃって……」
地上に戻るやいなや開口一番、あたしは彼に謝った。あぁ、みっともない姿みせちゃったなぁ…、しかも子供相手に……。
「……大丈夫?」
しかも心配までされちゃってるんだから大人として恥ずかしいなぁ…。散々泣いて、スッキリしちゃったなんて、ちょっと言いだしにくい雰囲気……。
「もう 大丈夫だから……」
アハハ……。でも、さっきからあたしは彼の事、子供って言ってるけど良く見てみると、なんだか随分大人びて見える気がする。見た目が、ってワケじゃなくて、立ち振る舞いが、かな。ポケモンが強いからなのかなぁ?あれだけポケモンが強いって事は、色んな場所に行って、色んなトレーナーと戦って、色んな経験を積んでるはず。旅をするポケモントレーナーは自分の面倒だけじゃなくてポケモンの面倒をみなければいけない。時には色んな判断を迫られる事があるんだろう。それだけの経験を積んだなら、それはもう大人も同然だ。
あたし、考えてみたら自分の意志で判断した事なんてなかったのかも。部長に言われるまま、されるがままにフラフラ流されて、気がつけばこの状態だ。だから今目の前にいる少年は見た目以上に大人なのかもしれない。それこそあたしなんかよりもずっと。そんな彼にいつまでも「少年」じゃ悪い気がする。だから名前を聞いてみよう。
「そだ……
あたし まだ キミの名前も
聞いてなかったね
ね? よかったら 教えて?」
「あ、そう言えば自己紹介がまだだったね。僕はカノコタウンのトウヤ!」
「……そう トウヤくん か……」
たまらっコについてはどうかと思うけど……、本人は良い名前だね。なんだかちょっと気になる子だなぁ…。トウヤくんはこの後どうするのかな?さっき観覧車で言ってたけど、「決着をつけに行く」のかな?
だとしたら、あたしはどうしよう……。決着かぁ……。あたしにとっての決着って何なんだろう?それが判明するまでにはまだしばらく時間がかかりそうな気がする……。
別れ際、部長が言ってた言葉を思い出す。あたしはカントーには行かず、今の会社に出戻りになったらしい。そして1週間ほど休みになってる、なんて言うのも聞いたような気もする。だったら……、うん、このまま帰るのもなんだからライモンシティに滞在するのも悪くないかもしれない。幸いカントー行きの準備で滞在準備は万全だ。どこかのホテルにでも泊まってライモンシティで遊んでスッキリしてやろう。うん、それがいい!で、またトウヤくんに会えるといいなぁ、なんて思ったり。でもあんな姿見せちゃったからもう愛想尽かされちゃったかも。はぁ~、みっともないなぁ~。年下の男の子の前であんな姿みせちゃうなんて…。でも……、それでもまた会ってくれると嬉しいかも。なんだか良く分からないけれど、せっかく知り合ったんだからこれで終わりって言うのもなんとなくさびしい気もするし……。
「あたし しばらく ここに いるから
よかったら また観覧車に
乗ってくれると うれしいな」
「うん。それじゃあまたね!」
そう言って、来た時と同じように、自転車に乗って颯爽と去っていった。その後ろ姿を見送るあたし。……なんだか部長の背中を見送っていた事を思い出してしまう。
……しばらくあたしの中の部長は離れていってくれそうもないな……。本人はあたしをおいて、さっさとカントーに行っちゃったクセにね。近くにいないくせに事あるごとに自己主張してくるんだから…。まぁ、でも仕方ないか……。だけど……、トウヤくん、「またね!」だって。……フフ……。観覧車の中で、トウヤくんはあたしの手を握ってくれた。……、握るだなんてそんな自己主張する様な握り方ではなく、寒さと悲しみに震える手に、そっと…、重ねてくれた。ただ重ねてくれただけなんだけど……、その手が……、なんだか今も温かい気がする……。その手をもう片方の手で、そっと包み込んでみる……。そうすると、トウヤくんがまだ近くにいてくれるような、そんな気持ちになってしまう……。
……あ…、や、アレだよ!?別に恋愛感情とか、部長の代わりとかじゃなくて!!だって、ホラ、まだ子供じゃん!ちょっと嬉しかっただけだし!……、まぁ誰に言い訳する必要もないんだけれども…。うぅ…。ま、まぁいいや。あぁ~あ、なんか疲れちゃったな…。今日は色んな事があったからもう休みたい気分。頭もなんだかクラクラする。早くホテルを探そう…。あ!そう言えばチラーミィをポケモンセンターに連れていかなくっちゃ!その場合、ポケモンセンターに泊まりになるかなぁ?まぁなんでもいい…。とりあえず今は早くポケモンセンターに行って
『お預かりのポケモンはみんな元気になりましたよ』
『タブンネー』
どっちだよ!?ってコントみたいなやりとりを聞きに行こう……。
それからのあたしはフラれたのを口実に、仕事も休みになってるってことだし、思いっきりライモンシティを楽しんでやろうと決めた。特にスポーツとか好きってワケじゃないけど、テレビがついてるとなんとなく見てしまうベースボールやアメフトをせっかくだから生で観てやろうと、生まれて初めてのスタジアムに足を踏み入れてみた。そこでとんでもない熱気に包まれて、最初は気後れとかしちゃったりしたものの、気がついたら大声で応援しちゃってたり、たしいてルールも知らないくせに、周りのムードに合わせて一喜一憂してみたり。でもそんなムードに包まれていると、あたしは一人じゃないんだって思えるので心が楽だった。一人になるとどうしてもマイナス思考になっちゃうから。
だから翌日も賑やかに!ってことでミュージカル!前は部長と一緒だったけれど、今度は一人で全部の演目を観てやるんだ!くらいの意気込みで、予習もバッチリ!時間もオールOK!と息巻いて乗り込んでいく。……、逆にそれくらいの勢いがついてないと、ホールに近づくだけで部長の事を思い出してしまって切なくなるのは目に見えていたから。
だからもうね、なんて言うか「カイリキー」の「クロスチョップ」くらいの勢いで入り口めがけて飛び込んでいくあたし。周りの人から変な眼で見られるかもだけど、まぁゴメン。今日くらいは許してね。そして文字通り朝から晩までかけてミュージカルホールに入り浸り、全部の演目を観てやった。途中で意識が飛びそうになったのもまぁよし!としましょう。
普通、これだけ観ればミュージカルはお腹いっぱい!ってなるハズなんだけど、でも全然そうはならなくて、この調子だったら明日もオールが可能なんじゃない?なんて思っちゃったりしてる。あたしってこんなにアクティブだったっけかなぁ?……まぁ…、今のあたしは普通の精神じゃないかもしれないから、当然なのかもしれないけどね。とはいいつつも、やっぱり体は正直なモノで、あちこちが悲鳴を上げている。だから明日の予定は明日考えるとして、今日はゆっくり休むことにした。
ベッドに入ったあたしは部長の事は思い出さないように、今日のミュージカルの賑やかなステージを意識が途切れるまで頭の中で無理矢理再現させてやった。どうだ、あたし!これだけやれば思い出さないでしょ?だからさっさと寝落ちしちゃいなさい……!
それでもそのステージとあたしに緞帳が下りる事はなくて………。
……ダメ……、ですか。やっぱ寝落ちしてはくれませんか……。はぁ……。あたしの手持ちポケモンはチラーミィだけ。「あくび」や「さいみんじゅつ」を使えるポケモンはいない。だからせめて色々考えない様に体はヘトヘトで、頭の中もミュージカルの事でいっぱいにしていたはずなのに……。やっぱり考えちゃうんだね、部長の事……。寝る前から「ダークライ」の「あくむ」に囚われてしまったような気分。でも仕方ないか……。だって、あんな事があったら普通誰だって思い出してしまう。そう、普通の事。あたしはどこにでもいるような普通の女で、普通のOLで、普通の生活をして、そして、普通に不倫をして………。普通に………、フラれて………。
……ふふ……、どこにでもある話だよね、こんなの。たまたまあたしが当事者になってしまっただけ。だから気にする事なんてない。……、ないハズ……。……でも……、やっぱり……、辛いなぁ……。辛いよ……。昼間の賑わいから離れてしまうと、悲しみが津波のように一気に押し寄せてきて、あたしの心を悲しみの海で満たしてしまう。
ダメ…、ダメだよ……、この気分は泣く。絶対泣く。でも……、それこそダメだ…。我慢なんで出来るわけない。だからアタシは泣く事にした。泣いて少しでもスッキリするなら泣いてしまおう。ここには誰もいないんだし。あぁ、でも……、やっぱ一人はさびしいな……。だから……。あたしは枕元に置いてあるモンスターボールに手を伸ばし、ゆっくりとボタンを押す。すると、あたしの今の気分とは正反対な軽快な音が鳴り響き、中からあたしのパートナー、チラーミィが出てきた。
「ねぇ、チラーミィ。一緒に……、寝てくれる…?」
モンスターボールの中にいるポケモンってどうなっているのかは実際には良くわかっていない。意識はあってトレーナーと一緒の光景をみているのか、それともコールドスリープのような状態なのか。そのどちらでもないのか。専門家にだってわかってないのにあたしになんかわかるわけがない。それでもチラーミィはあたしの寂しさを察してくれて、あたしにすりよって来てくれた。……、優しいね、お前は。どうしてそんなに優しいの?どうしてそんなに一途にトレーナーに尽くしてくれるの?ポケモンって誰にでも懐くの?例えば人のポケモンを奪う「プラズマ団」っていうのが最近悪さをしてるらしいけど、奪われたポケモンでも懐くようになるの?だとしたらポケモンって本当に不思議……。自分のトレーナーを疑わずに、どこまでも尽くして戦って……。
多分……、ゲットしたから懐くんじゃない。モンスターボールから洗脳電波が出ている、なんて言う人もいるけど、それは違うと思う。ゲットされたポケモンは自分のパートナーと良い関係になろうと一生懸命頑張るんだ。それが例えプラズマ団みたいな悪い人だったとしても。自分のトレーナーをただ一人のパートナーと決めて、その人の為に頑張ろうと努力するんだ。だから悪い人はいても、悪いポケモンなんて………、いない。ポケモンは愛すべき最愛のパートナーなんだ。
だからポケモントレーナーはその信頼に応えなきゃいけない。パートナーに絶対の信頼を寄せるポケモンに、トレーナーも全力で応えてあげなくちゃダメなんだ。チャンピオンを目指すのもいい。トップコーディネーターやポケモンドクターを目指すのもいい。人とポケモンが信頼し合ってお互いがお互いの為に全力で応えながらお互いを高めていく。だからポケモンは美しいんだ……。だからポケモンと一緒の世界はこんなにも輝いているんだ。
人間とポケモンは言葉を理解しあう事は出来ない。でもこんなにも気持ちは通じあっている。それとは逆に、人間は言葉で通じあう事が出来る。でも心が通じ合っているかどうかはわからない……。だからこそあたしは部長を信じて、部長に尽くして、彼と通じ合う事を心から望んだ………。でも最後には捨てられてしまった……。ポケモンに比べたら人間ってなんて愚かなんだろうね……。心が通じ合った気でいたのはあたしだけ……。そんな深い悲しみがさらなる津波を巻き起こし、グルグルと「うずしお」の様にあたしを飲み込み、「だくりゅう」となって更に深い海へと誘っていく……。
光も届かない、チョンチーもランターンもいない深海……。そこにいるのは……、何億年も姿を変えることなく、悲しみの海を悠々と泳ぐ「ジーランス」だけ…………。
……あたしもアナタみたいに悲しみに囚われず、泳ぐ事ができたら……いいのにな……。
……あ………。海でちょっと思い出した……。それは……、一緒に観覧車に乗ったトウヤくんの事。彼のダイケンキがくりだした「なみのり」は同じ津波でも悲しみなんかじゃなくて、悲しみも憎しみもそういった感情を全てを遠い彼方にさらってしまう、力強さや生命力に溢れた「なみのり」だった。いったいどうやったらあんな「なみのり」が使えるんだろうか?
もう一度あの「なみのり」が見たい……。
もう一度、彼に……、会ってみたい……。
気がつけば、あたしの心は彼の事でいっぱいになっていた……。なんだか……、これなら……、眠れそうな気がする……。私の腕の中でスヤスヤと寝息を立てるチラーミィの温かさと、規則正しい呼吸音があたしをまどろみへと誘っていく……。
明日……また……、彼に……会いたい……、な………。
トウヤ……、くん……。
●第7章、赤い血と白い包帯
翌朝、鏡に映った腫れぼったい眼に辟易しながら、今日の予定を考えていた。昨日寝る直前に感じた気持ち。トウヤくんにもう一度会いたい。なぜそう思ったのか記憶は定かじゃないけれど、でもなんとなくもう一度会いたかった。その気持ちがアタシを観覧車の前に向かわせようとする。でも……、多分もういないよね……。ポケモントレーナーって、今日は東へ、明日は西へ、ってくらいにジッとしていない。そりゃそうだ。チャンピオンになるためにあちこちで修業したりしてるんだから。別れ際、あたしはライモンシティにいると伝えたけれど、トウヤくんがどこへ行くのかは聞いていない。もしかしたらもう凄い遠くにいて、「そらをとぶ」でもしない限りライモンシティには戻ってこれない様な場所にいるのかもしれないし。そもそも彼が「そらをとぶ」を使えるポケモンを持っているかどうかもわからない。でもあれだけ強いトレーナーだったら大体は「そらをとぶ」を覚えているはずだけど、でももしそうじゃなかったら……。もしどこかで何かの強制イベントに巻き込まれていたりしたら……。完全にアウト。でも仕事が始まるまでまだ時間はある。その間はライモンシティにいるって決めたんだし、ちょっと待ってみよう。急ぐ目的があるわけじゃない。自分の為に時間を使うと決めたんだし。その時間を彼を待つ時間にあててみるのも悪くはない。でも……、待つ事は苦手かも……。色々……、思い出してしまいそうで…。
……、あぁ、もう!考えてても仕方がない!とりあえず行ってみよう!ホテルで一人で考えてるのも精神衛生上よろしくない!誠にもってよろしくない!
散々考えた挙句、まだグチグチと語りかけてくる悪い妄想を熱いシャワーで一気に洗い流し後、さっさと着替えて出かけようとしたのだけれど……、着ていく服が……ない。いや、あるにはあるのだけれど最初に彼に会った時に来てた服しかない。つまり、部長にフラれたあの日着ていた会社の制服。あぁ、しまったなぁ……。カントーに到着したら着替え買えばいいと思って、最小限の私服しか持ってこなかったのがいけなかった…。昨日昨々日で私服は全部着ちゃって、ホテルのクリーニングに預けてある。なので今ある服はいつもの制服しか……ない。この格好で遊園地だなんて、なんだか仕事サボってるOLみたいな感じでヤだなぁ…。まぁいいか…。多少変な眼でみられるかもだけど別に補導されるワケでもないし…。それにトウヤくんに会った時は夜だったし、もしかしたらあたしの事、あんまり覚えてないかもしれないだろうから、この服の方が分かりやすいよね?うん、大丈夫。問題ない。……タブンネー……。
太陽があたしの真上で輝く時間帯になって、ようやく遊園地に到着した。朝番の冷え込みは秋が冬へ移り変わる準備をしている事を感じさせるけれど、ありがたい事に今日は快晴の「にほんばれ」で気温も穏やかだ。絶好の行楽日和と言うにもかかわらず今日は人出もまばらみたい。それもそのはず、さすがに平日の昼間だもんね。お昼休みなのか、あたしと同年代のサラリーマン風な人やOL風な人が広場でお弁当箱を広げている。……、うん、これならあんまり目立たなくて済みそうだ。
さて、問題はいつ彼がやってくるかって事。あたしがライモンシティにいる間に来てくれるのか、それともその間には来てくれないのか。………しまったなぁ…。ライブキャスターの番号、交換しておけばよかったかも……。それに緑だったシキジカもすっかり茶色の毛へと変わっている時期だ。きっと夜は寒くなるはず。そんな時間までは待てないかも……。上着……、持ってきたらよかったなぁ……。
特にすることもなく、観覧車近くのベンチに座ってボーっとしていると、同じく隣に座っているサラリーマン風な男の人達の話が耳に入ってきた。特に聞き耳を立ててるワケでもなかったけれど、ちょっと気になる話題だったので、思わず身を乗り出してまう。
「……、知ってるか?プラズマ団が壊滅したらしいぞ」
「あぁ、らしいなぁ。それに新しいチャンピオンが誕生したんだとか。」
「チャンピオンになったヤツがプラズマ団を壊滅させてらしいな。」
「そうなんだ…。なんか、今回のリーグ戦は波乱づくめだなぁ~。」
「で、プラズマ団を壊滅させた上にチャンピオンになったヤツは誰だったんだ?」
「や~、なんて名前だったかなぁ……。」
……新しいチャンピオンが誕生した……?それってもしかして部長の子供さんの事……?ポケモンリーグに挑戦するって言ってたもんね……。そっかぁ……。部長の子供さん、チャンピオンになれたんだ……。凄いな……。部長もさぞ鼻が高いだろうなぁ……。きっと今頃、家族を上げて大喜びしてるに違いないよね…。その場所にはきっとあたしの居場所なんて……なくて……、あたしと一緒だった日々なんて……忘れていて……。それなのに…あたしは……、こんな所で……、来るかどうかもわからない人を待っている…。たった一人で……。
あぁ……、ダメだ……、こんな人混みの中であたしはまた……、泣いてしまう……。
……。
うぅ……。
「ピコーン…。」
うぅ…、ぁぅ……。
「ピコーン、ピコーン……。」
……ぅえ?
「ピコーン!」
……え?ちょっと…。何、この場にそぐわない音は。ぶち壊しなんですけど…。や、ぶち壊してくれても構わないんだけど、でもだからって……、このぶち壊し方は……。あたしは何事かとそちらの方向を見る。そこには……、くの字に折れ曲がった変な棒を2本もったトウヤくんがいた。
……、な、なにやってんの……?
「あ、あの時のおねーさん。」
何にも言えずに口をパクパクしていると、不自然な自分の姿に気がついたようで、照れ隠しなのか、変な棒っきれをいそいそとリュックにしまいながら話しかけてくる。
「いやぁ、ここで「ダウジングマシン」を使うの忘れててさ。何か探し忘れはないかなぁ~、って思って。うん、あ、あはは…。」
何と言う登場の仕方なんだろう…。たしかにあたしはキミを待ってたハズなのに…。もう!何と言う登場をしてくれるんだよぅ!そんな姿になんて声をかけたらいいのか分からなくて、ついつい声がうわずってしまう。
「あ…… キミ……
あの…… 元気 だったかな……?」
「え?うん、元気だよ。」
不自然だったかな?でも……、そっか……。元気だったんだね…。それはよかった…。その返事を聞いた途端、沈んでいたあたしの心にも、ちょっとだけ元気が戻ってきた気がする。でもさすがにさっきの登場……、あれはない…。実にない。だから罪滅ぼしってワケじゃないけれど、少し付き合ってもらおうかな?なんて気になってしまった。元気にしてるんだし、別にいいよね?ちょっとくらいおねーさんに甘えさせなさい!
そんな上から目線的な気持ちで誘ってやろうかと思ったハズだけど、なんとなく心はドキドキ……。年下の子相手に何をこんなにドキドキしてるんだ、あたしは。
「あのね……
時間 あったらで 構わないけれど また 付き合って もらえないかな?
ふたりでさ……
ポケモンしたり……
観覧車に 乗ったりして
過ごせたら うれしいんだけどな……」
なんか変な誘い方になっちゃった…。年下の子を誘惑するおねーさんみたいじゃないか!うぅ、なんだか妙に調子が狂う。
「うん、いいよ。もちろん!」
そんなあたしの思いを知ってか知らずか、快活な声が返ってくる。その声には大人の駆け引きもなにもあったもんじゃない。その裏表のなさが逆にうれしかった。
「うれしい…… ありがと……」
……は!……ちょっと……!それにしたって今あたしはすごい笑顔になっている気がする…!こんな心からの笑顔、部長にもみせた事ないんじゃない?先日出会ったばかりの女をこんな笑顔にさせておきながら。「自分はただ子供ですよ」的なアピールをしてくるトウヤくんにちょっとだけ意地悪をしたくなってきた。どんな意地悪をしてあげようか……。
………、そうだ……。あたしが部長との付き合いで、果たせなかった事がある。それは「結婚」をする以外にもう一つ。彼を……、名前で呼ぶ事、だった。
彼を名前で呼ぶ時は、彼と結婚した時……。そんな風に考えていた。あたしにとって相手を名前で呼ぶ事は、それだけの意味が込められていたのに……。結局名前では呼べなかった……。だから今、そのピュアな想いを裏切ってしまおうと思った。それは彼への裏切り行為。でも仕方ない。先に裏切ったの彼の方なんだから。いや……、裏切りとか裏切りじゃないとか、もうそんなのはどうでもいい……。大人の駆け引きなんかに染まらない、そんな彼だからこそ打算的なモノなんてなく、あたしを受け入れてくれるんじゃないかって思った。……どうか、受け入れてほしい……。……、でもどう考えてもこれはおねーさんの誘惑だ。……でもいいや。伝わってないかもだけどさっきから散々誘惑しちゃってる感じなんだし、もういっその事本気で誘惑しちゃえ!ふふっ…!
「じゃあ わがまま ついでに もう ひとつだけ 甘えさせて
今だけで 構わないからさ……
キミのこと 名前で 呼ばせて……」
さぁ、トウヤくん!年上のおねーさんがこれだけの事を言ったらキミはどう思う?誘惑されてるって感じる?それとも友達が気さくに呼び捨てで名前を呼ぶって思う?ふふ…、でもね、キミがどう思おうと、この問いかけには特別な想いが含まれているんだからね…!さぁ、どうするの……!?
「うん、いいよ!」
……!……、この子はよくもまぁあっさりと……。もう!ホントは気づいてるんじゃないの?気づいていながらこう応えるんだったら、この子は相当大人だ……。でもOKしちゃったんだよね?それはあたしの気持ちを受け入れてくれるってこと。だから……もう、どうなっても知らないんだから!
「…… ……じゃあ
トウヤ!
一緒に ポケモンしよ!」
そうして始まるポケモンバトル。ポケモンバトルってポケモンを戦わせる事以上に相手の事を一途に考える、高度なコミュニケーションだと思う。相手はどんな攻撃をしかけてくるのか?どんな攻撃を嫌がるのか?どんな道具を持たせているか?どんなパーティを組んでいるのか?それだけ相手の事を一生懸命考えるんだ。これはもうポケモンを通じた恋愛と言っても間違いじゃない。だから今あたしはトウヤと恋愛をしている。
部長とは……、どうだったっけ……?あ……、そういえば……、あたしは彼とちゃんと戦った記憶がない。確かに特訓はしてもらったけれど、彼の言われるままに技を出し、戦略を練り、ポケモンを育ててきた。だからそれは……、一方通行のコミュニケーション。それって………、恋愛なんかじゃない……よね……。
………、あはは…!
なぁ~んだ。
そうか……。そうだったんだ……!
結局あたしって部長と恋愛なんてしてなかったんじゃないか。だから別れが訪れたんだ。いや、それは「別れ」じゃない。だって、そもそも恋愛じゃなかったんだもん。恋愛じゃないなら別れなんてない。そもそもあたしと部長の歩むべき道は違っていたんだから。たまたま何かの偶然でその道が一瞬重なったしまった時に、それが同じ道なんだって勘違いして自分の道を進まずに、その場で足踏みをしていただけなんだ。その道は実際は部長の歩む道。だからどう頑張ったってあたしは進めない。歩いていけない。だからどんどん先に行ってしまう部長の背中を見送る事になるのは当然の事だったんだ。
そっか……、そうだったんだ……!!
………気が付いたらあたしのチラーミィはやっぱりダイケンキの「なみのり」に流されていた……。
「ふぅ…… 楽しかった……」
本気のバトルって勝っても負けても楽しい。
それはきっと本気の恋愛が良い結果を迎えても、悪い結果を迎えても、本気の気持ちで相手と向き合ったからなんだと思う。バトルもそれと同じなんだ。でも、これだけ実力の差が開いていると、なんだかちょっと釈然としないモノを感じてしまう。それを素直にトウヤにぶつけてみた。
「トウヤ ってさ
ほんと ポケモン うまいね
あたしと 勝負 してても
物足りない でしょ?
なのに 相手して くれて……」
「……そんな事ないよ。僕も楽しいし。」
そう笑顔で応える彼。その笑顔にあたしの心の中に残っていた純粋な部分が刺激されて、なんだか……、アレだ……。大人の余裕で誘惑していたハズなのに……、実はあたしの方が誘惑されてる……?でもその屈託のない笑顔はそんな事はまったく感じさせなくて…。だからこその優しさがあたしの心に染み渡っていき、心のわだかまりがほどけて、とても満たされた気持ちになっていく……。
「優しいな…… あたし……
勘違い しちゃうよ……」
あぁ……、何言ってるんだろ……。
でもなぜかトウヤの瞳から目が逸らせない……。
あの綺麗な瞳で見つめられたら……、あたし……………。
「…… …… …… …… ……」
「…… …… …… ……」
…………、ダメ。ダメだよ、あたし。また部長と同じ事を繰り返すの?トウヤはトウヤのままだから……、純粋な心を持ってるからこそ素敵なんだ。あたしなんかが汚して良い子じゃない。だからどうかその純粋な心を忘れないでいて。その笑顔を忘れないで。
一瞬でもトウヤに変な事を想った事を謝らなければいけないと思って、あたしは沈黙を破った。
「……ゴメンね」
「……、うん…。」
……、トウヤの顔をあたしなんかが曇らしちゃいけない。彼の笑顔を取り戻さないと……!何か良い方法は………、っと……。バカだなぁ、あたし。ここはどこだと思ってるの?目の前にあるじゃん。……フフ!あたしは湿った空気を入れ替えるように元気のいい声を彼にかける。
「そろそろ 観覧車 乗ろっか
ね!いこ! トウヤ!」
「うん!」
トウヤとは2度目の観覧車。トウヤと乗った最初の観覧車は、別に彼と一緒に乗りたかったから乗ったワケじゃない。ミュージカルホールを見下ろす事が出来るなら、相手は別に誰でもよかった。結果としてトウヤになったんだけど、でもそれがトウヤでよかった……。トウヤだったからあたしは色んな事に気がつく事が出来たんだから。だからトウヤと乗る2回目の観覧車はちゃんとあたしが望んで、ちゃんとトウヤと乗っている事を楽しもうと思った。
「……、なんかさ、観覧車に乗る時って、いつも景色を楽しみたいハズなのに、アイツと乗った時も、この前おねーさんと一緒に乗った時も、ちゃんと景色を見てた気がしないんだよね…。あはは……。」
………、前言撤回。そりゃぁ悪うございましたね。どーせ泣きじゃくってましたよ!子供の胸にしがみついてそりゃもう「ウソハチ」の「うそなき」並みに泣いてましたとも!
子供のくせに大人のあたしよりも全然ポケモンが上手かったり、なんか不思議な包容力があったり、もしかしたら見た目以上に大人なんじゃないか?なんて思ったら、今の発言!
んもう!あたしよりも子供のくせに、でもあたしなんかよりもずっと大人っぽい所もあったりと本当に不思議な子……。でも実際はいくつくらいなんだろうなぁ?
「ねぇ、トウヤっていくつなの?」
「13歳だよ。」
「そうなんだ、13歳かぁ……。」
少年ではあるけれど「子供」とは言い切れない年齢。でも決して大人でもない年齢。子供でも大人でもない、どっちにも染まらない心がポケモンとも人間とも純粋な心で向き合わせているのかもしれない。
……あたしは……、大人だ。いや、大人と言われる年齢だ。でも大人になった実感なんて全然なくて。でも世間は大人である事を強要してくる。あたしだってそれに応えられるように生きてきたつもりだ。でも実際はそんな事なかった。なんでも自分で判断しなければいけない年齢なのに、部長との関係の善し悪しを判断する事から逃げていた。それが今回の結果を生んだ。だけど今、それに気がつく事が出来たんだから、あたしはきっとこれから大人として成長していけるはずだ。良い大人にならないとな…。トウヤのお手本になれるくらいの大人に…。
「ねぇ……、おねーさん。聞いてもいいかな?」
トウヤがちょっとバツの悪そうな感じで聞いてくる。
「あの時さ…、なんで泣いてたの?」
あんな話、聞かせるものじゃない…。だからちょっと大人ぶって誤魔化すように言った。
「……トウヤがもっと大人になったらわかるよ。」
でもその言葉をきいたトウヤの顔に少しだけ陰りがさした。
「大人……かぁ……。大人になるのって大変だよね。」
……、あたしはさっき、自分が大人にならなければって思った。確かに大人になるって大変だ。でもトウヤもそれを感じているなんて…。一体何を思ってそう呟いたんだろう?
「……、なんでそう思うの?」
「僕はさ…、今まで旅をしてきて色んな人に出会って来たんだ。一緒に旅立った友達や色んなトレーナー達。そして……、アイツ。本当の大人もいれば、大人になろうと頑張ってるヤツもいた。」
……なんだかトウヤがすごく大人びた顔をしている。その彼が大人になる事は大変だと言った。トウヤの歩んできた道は、きっと平坦な道じゃなかったんだと思う。なんとなくトウヤの視線を追うと………、普段はみえない何かが見えてきた。遥か北の山の向こう、空気が澄んでいる時だけにうっすらと見える荘厳な建物。……ポケモンリーグ。あたしには良く見えないけれど、トウヤの目にはハッキリと映っているのだろうか?
「大人になるのって、何か結果を残そうとする事なんだと思う。チェレンも必死で見えない何かと戦っている。ベルも何かを見つけようと一生懸命頑張っている。そして……、アイツも……。大人になろうと頑張っていたと思うけど、でもそれは自分の意志じゃなくて……。でもそれまでの経験は全部自分のモノだと思うし……。……、あ、ゴメン!なんでもないんだ。ワケわかんないよね。あはは…。」
……、何を言っているのか良くは分からないけれど……、でもなんとなくわかる気がする。大人になるという事は自分の行いに責任を背負う事。そして責任を背負うという事は何かを成し遂げる事。それが出来るから大人なんだ。例えトウヤの年齢でも責任を背負い、何かを成し遂げたのなら……、大人と呼んでもおかしい事じゃない。トウヤは今、子供から大人に変わろうとしている。彼に一体何があったのか分からないけれど、でもなんだかとても苦しそうに見えてしまった。そしてその姿があたしと重なった。
「そう……、だね。大人になるって大変だよね。」
「おねーさんもそう思う?」
「うん、思うよ。あたしなんて全然子供。見た目ばっかり大人になっちゃって…。多分、トウヤの方が全然大人だと思う。」
「え、そんな事ないよ。早く大人にならなきゃって思うし。」
「今のままだって十分だよ。」
「そんな事ないよ。」
「そんな事あるよ。」
「そんな事ないってば!」
「そんな事あるってば!」
「ないよっ!」
「あるのっ!」
「………!!」
………………、プッ!
「「アハハハハ………」」
他愛のないやり取りに二人で吹き出してしまう。
アハハ……、なんだか久しぶりに心から笑った気がした。久しぶりに笑うと腹筋が痛い…。笑うのって、こんなに苦しかったっけ?ひとしきり笑ってお腹をおさえていると、眼下には先日見下ろしたミュージカルホールが見えてきた。その姿を認識した途端、少しだけ鼻の奥がツンッと痛くなり、胸に切なさがこみ上げてきた。
……やっぱりまだ……、あたしは……。うん、でも大丈夫。思ったよりは大丈夫。あたしは涙声にならないように気を遣いながら思った事を口にする。
「あたしね、そんなに急いで大人にならなくたっていいと思うんだ……。」
「え?」
「だって、トウヤはまだ13歳でしょ?無理に大人になろうとしなくたってトウヤはこれから色んな事を経験していくよ。嬉しい事も、辛い事も。その経験一つ一つがトウヤを大人にしていくんだと思う。」
「………。」
「でもあたしにはそれが足りなかった。……や、違う…。足りなかったんじゃなくて、あたしがちゃんと受け止めていなかったんだ。あたしは年相応には大人にならなければいけないけれど、でも大人になれていなかった。忙しさにかまけて忘れてたフリをしていたんだ……。だから辛い思いをしてしまった……。でもそれだって決して無駄な事なんかじゃなかったと思う。だからあたしはそんな思いも含めて、楽しい事も辛い事も、大人になるために経験してこなかった事を取り戻しながら今でも大人として成長してる最中なの。それなのにさ、トウヤがあたしを差し置いて大人になっちゃったら、あたしはどーしたらいいの?って事になっちゃう。」
「……、アハハ…。そうかもしれないね。」
「それでもトウヤが大人になりたいっていうなら……。」
そこであたしはちょっとした意地悪を思いついてしまった。大人になりたいと願うトウヤに、強制的に大人の階段を上らせちゃうような、そんな意地悪を。
「じゃあさ、トウヤが大人に近づけるように協力してあげよっか?」
「え?どういう事?」
「トウヤが大人になるために必要な経験を積ませたげる。」
いじわるっぽく笑いながら、あたしはトウヤの隣に腰を下ろす。
「え、え…?ちょっと…。」
ふふ、うろたえちゃってもう。可愛いなぁ…。
「ねぇ、トウヤ?」
「な、なに?」
「あたしだけトウヤを名前で呼んでるなんて、ちょっと不公平だと思わない?」
「え、や、そんな事、ないと……、思う……、けど…。」
「ダぁメ!不公平なの!だからさ……、呼んでみて。あたしの名前。」
「え、あ、そう言えばまだおねーさんの名前、聞いてなかった…。」
「……、チアキ……、って言うんだよ。ほら、呼んでみて。」
「え、っ……と……、だ、ダメだよ。恥ずかしいよ!」
「ダ~メ!ちゃんと言って。大人になりたいんでしょ?」
そう言いながらあたしはトウヤの腕に自分の体を押し付ける。
「わぁ!そんなくっつかないで…!」
あぁ、もう真っ赤になっちゃって……。トウヤ……!「ギザモエ、ギザカワユスな……!!!」
「ほら、あたしの名前……、呼んでみて。」
「そんな……、できないよ…。」
「……、名前で呼んでくれないの……?」
あたしはわざと悲しそうな表情を浮かべる。……、あたしだって女の端くれ。こう言う時、どんな顔をしたら男心に訴えかける事が出来るか、それくらい知ってるんだからね~。
「トウヤが名前で呼んでくれないと……、また…、泣くゾ……?」
「う、あ……、チ……、チ、チアキ……さん……。」
「「さん」はいらないの。」
「チ…、う……、チアキ…。」
「何?聞こえない。」
「……、チ、チアキ。」
「なぁ~に?」
「チアキ!」
「トウヤっ!」
あたしはトウヤに抱きついた。
「………!!!」
フフ……!良く頑張りました!おねーさんは嬉しいぞっ!!抱き締められて硬直するトウヤの頭をよしよしってしてあげる。そんな空気に耐えかねたのか、トウヤが震える声で何かを訴えようとしてくる。
「……ね、ねぇ、チアキ……さん。」
「チアキ。」
「……チアキ。」
「なに?」
「やっぱり……、景色が見れない……。っていうか、見る余裕が……、ない。」
「我慢しなさい。」
「は、はい……。」
あたし達は抱き合ったまま、お互いの鼓動を感じながら秋の空気が満たされた観覧車に身をゆだねる。13歳の少年と年上のOL。不思議な取り合わせのカップルがよっぽど珍しいのか、観覧車があたし達をしっかり観察する時間が欲しいかのように、ゆっくり、ゆっくりと回る。
トウヤよりも年齢的には大人なあたしは景色を見る余裕がある。眼下には豆粒のように小さくなったミュージカルホール。あれだけ小さくなっても、心の入れ替えを防ぐかのように「まきびし」みたいにあたしの胸をチクリと刺す。でも……、それでいいんだ。このチクチクを経験しながらあたしは、あたし達は大人になっていくんだから………。
眼下に広がる赤い海……。紅葉した木々……。
自分の流した血の様だと思ったけれど、それならそれで構わない。だって、茶色のシキジカも黒く変化するように、季節は冬へと変わっていく。赤い海にはいずれ白い雪が降り積もるだろう。それはまるで、流した血を癒すかのように巻かれる白い包帯。
楽しい事、辛い事を養分に木々は力を蓄え、雪の包帯が取り外される頃、季節はまた春を迎える。そしてまたピンクの花を咲かせ、緑の葉を茂らせる。そうやって人は少しずつ、少しずつ大人になっていく。
例え今は辛くても、あたしはもう一人じゃない。あたしにはチラーミィがいる。長い時間をかけて絆を深めあった大切なパートナーがいる。
喜びをポケモンと分かち合い、悲しみをポケモンと慰め合う。人とポケモンが共に暮らすこの素晴らしい世界。ポケモンがいてくれる限り、ポケモンと共に暮らす人間を信じる事が出来る。また人を好きになる事ができる。だからもっと恋をしよう。そしてポケモンを愛そう。そうする事で、あたしはもっと大人になっていくことができるんだ……。
だから……、今流れる涙は観覧車で流す最後の涙。泣くのは……、これが最後。最後だから……。
もう一度だけ…、その胸を貸してね、トウヤ………。
…… 降りるまででいいから……
このまま…… お願い……
●エピローグ
「また トウヤに
甘えちゃったな…
あたしの ほうが おねーさんなのに 何か 情けない………
でもトウヤだから……
いや イイや……
何でも ない……
トウヤ! ありがと!
今日は とっても 楽しかった!
また トウヤと
ふたりで 過ごせると いいな!
またね トウヤ!」
OLのチアキ おしまい。