白い世界の中、自分の意識がバラバラに刻まれていくのを香月は感じていた。まるでジグゾーパズルのピースのように、一つ一つ丁寧に『香月夕呼』という存在から意識が引き剥がされていく。その様は、まるで心が壊されていくようだった。 しかし―――そこに恐怖は無い。 今、彼女が感じていたのはどちらかと言えば懐かしさだった。 走馬灯―――多分、これはそれに近いものだ。引き剥がされていく意識と―――それに付随する記憶達。香月は残っている意識でそれを眺めている。 それは自分の生まれた瞬間から始まっていて、まともに考えれば少し気恥ずかしくはあった。だが、もしも自分の身体が正常に反応していたとしたら、涙を流していただろう。それぐらい懐かしくて―――何処か切なくもあった。 ―――物心着く頃から、神童と呼ばれていた。その基準が世間一般でどう価値があるかは当時の香月には分からなかったが、その稀少性を理解できるぐらいには賢しい子供だった。そして、誰に言われるでもなく、彼女は自らの知的好奇心の赴くままにあらゆる物、あらゆる場所を使って貪欲に知識を吸収し始める。しかしながら、余りにも速い吸収速度に世間のほうが付いていかなくなる。やがて、彼女は知識を吸収するのに飽き始めると―――今度は知識を作り出す快感を覚えた。世間一般で言えば、それは研究と言えるものだったが、彼女にとっては遊びに近いものがあった。 ―――あるいは、『香月夕呼』という女性は、その頃から大して成長していないのかもしれない。誰よりも早く、そして限り無く完璧に近い形で成熟してしまったが故に、それ以上は必要なくなってしまったのだ。 しかしながら、それでも彼女は人間だ。天才であっても完璧ではない。だから―――生きている以上、転機は訪れる。 ―――神宮司まりも。 自身をして、唯一無二の親友と呼べる女性。 最初は―――多分、見下していたと思う。天才である自分と比較すれば、彼女は何処までも凡才だった。多くの天才の有りがちな傾向は、香月にとっても例外ではなかったのだ。 それでもここまで付き合いが長くなったのは何であっただろうか。果たして、一体彼女の何に惹かれたのだろうか。改めて考えると、そんなモノは無かったような気がする。理屈を追求する科学者としては失格かもしれないが、何処か本能で彼女は自分にとって必要な存在なのだと感じたのかもしれない。 やがて、神宮司は軍人として戦場に出ることとなる。それを持ち前の先見性で悟ったが故だったか―――香月はその頭脳を以てして動き出す。 いずれにしても共に戦場に立つことは出来ない。知的好奇心の赴くままに育ったがために、彼女の身体能力は世間一般から見ても低い部類だった。今から鍛え直すには遅すぎる。だから―――彼女とはまた違った方法で戦うことを香月は決めた。 ―――オルタネイティヴ4。 後にそう呼称される極秘計画。何処か子供のような我侭を通すために、彼女はその最高責任者の座についた。そして、それはやがて彼女にとって生き甲斐と言える程まで重要な存在となっていく。 ―――何度も挫折した。 誰に頼ることも出来なくて、常に何かに追い立てられるような焦燥感を表情に出ないように努力した。 ―――魔女は悠然とそこに在らなければならない。 みっともなく喚き散らすこともなく、ただ人類の―――もっと限定的に言えば、自身が守りたいと思う人達を救済する為にその身を粉にしなければ。 ―――何度も発狂しそうになった。 先が見えない闇の中で、あらゆるモノを犠牲にしつつ、ただただもがき続けた。 ―――だが魔女は残酷でなければならない。 それこそが彼女に赦された唯一つのやり方―――唯一つの流儀なのだから。 ありとあらゆるモノを犠牲にしても、どれほどの犠牲を出そうとも―――だからこそ、手に入れうる最上の未来を手に入れる。 だから『香月夕呼』は意識を開く。 光を見つけ、手を伸ばす。 眩むようなそれに向かって手を伸ばす。 届けと。 最早自分には、それしか残されていないのだから。 そして―――その光を手にした『香月夕呼』は死を迎え、『コウヅキユウコ』へと生まれ変わる。 世界を憂う魔女から―――世界を救う聖女へと。 11月12日 その日の朝、白銀は社とB19階にあるシリンダールームで朝食を取っていた。メニューはいつも通り鯖味噌である。 昨日は色々とあったが、一日過ぎれば思考は日常へとシフトしていく。こうした切り替えができるのは染み付いた軍人体質に依るところが大きいだろう。しかしながら、白銀の気分は酷く複雑なものだった。(―――夕呼先生………) 香月の姿が朝から見えなかった。 いや、予想はつく。昨日、彼女は『今夜00ユニットになる』と言っていたのだ。であるならば、今は人格の転写手術の最中か―――終了後か。いずれにしても、もう彼女は生身の人間では無くなっているだろう。もっと根本的なことを言うならば―――『香月夕呼』はもう死んでいるのだろう。 そして多分―――成功しているはずだ。 三神が『香月夕呼は一度00ユニットになっている。そしてその手術を三神が行った』という前例を作った―――より正確に言うならばその因果情報を内包している以上、彼が手掛ける限り世界から補正が入る。 だから昨日の話に出てきたイレギュラーが起こったとしてもおそらくプラス方向に働くし、よしんばマイナス方向に働いてもそのカウンターとして彼がいる以上何も問題はないはずだ。 しかし―――。(―――くそっ………!分かってるけどさぁ………!) 自分でも相当甘いと自覚している。 何かを得るために何かを犠牲にしなければならないのは理解できる。鑑純夏と人類の救済を両立させるためには、対価としてまた別の誰かを生贄として捧げなければならないのは理解している。 だがそれでも、彼女も白銀にとっては恩師の一人なのだ。 どうしても、心が乱れる。「白銀さん………」「霞………」 そっと手を握られる。白く細い手指は柔らかく、そして少し冷たくて、茹だつ思考の熱を吸いとってくれるようだった。 こんな小さな少女にまで気を遣われるという事実に、白銀は少しだけ自己嫌悪する。そんな状況から早く抜け出したくて、深く吐息して気持ちを落ち着けるように努力すること数秒。やっと彼女の顔を見れるまでに落ち着いた。「ごめん、気を遣わせちまったな………」「いえ………」「大丈夫かな、夕呼先生………」 何となしに呟いた言葉に、社は瞼を閉じるとまるで黙祷を捧げるように沈黙し、やがて言葉を発した。「―――大丈夫です。成功、しました………」「―――え?」「三神さんがほっとしています。………多分、成功したんです」「霞、三神をリーディングは出来ないはずなんじゃ………?」 社の言葉に白銀の脳裏に疑問が過ぎる。 そう言えば、数日前、基地内の雰囲気を改善しようと言う時に、三神自身が話していたはずだ。あの若手少尉二人に絡まれるのが分かっていたので、メッセンジャーとして社を自分と三神のどちらの側に置くかを考え合った時に、『リーディングが効かない私の側に配置したほうがいいだろう』と言っていた。 その理由こそ彼自身も分かっていないようだったが、協力を仰いだ社がそれを否定をしなかったので今の今までそれを信じていたのだが―――どうやら、少し事情が違うらしい。「リーディングは、出来ます。ただ、『理解が出来ない』だけで………」「リーディング出来るけど、理解が出来ない………?」 オウム返しに口にして、白銀は小首を傾げる。「心は分かるんです………。今みたいにほっとしているとか、焦っているとか、楽しいとか、悲しいとか………そういう大まかな感情の色は。でも、何を考えていて、どんな言葉を心で紡いでいるのかは―――『速すぎて』理解出来ないんです」 身振り手振りを交えて何とか説明しようとする社に、白銀は思考を総動員して結論を得ようとする。 つまり、情報として三神をリーディングは出来るが、その情報の精査が出来ない、ということだろうか。これを機械―――丁度パソコン辺りに例えるならば―――。(処理ができないってことか………?) フォルダに入った情報を見ることが出来ても、いざ読み込もうとするとスペックが足りなくて処理落ちしてしまう。それを防ぐために社自身は上っ面の情報は読んでもそれ以上は読まないようにしているらしい。(じゃぁ、逆にそれだけの処理能力があれば………三神をリーディング出来る………?) ふと思いつくが、いや、と小さく首を横に振る。それが出来たところで意味はないだろうと。 そもそも、三神の因果導体開放条件が『不明であることが条件の一つ』であると彼が言っている以上、彼の口から出て来る情報以外を知るのはまずいだろう。社が彼を完全にリーディング出来ないのは、ともすればその部分が絡んでいるのかもしれない。 だから白銀はそれ以上考えないようにして、シリンダーに浮かぶ幼馴染を見上げる。(―――もう少しだけ、待っててくれよ。純夏………) その呼び声に応えることは無く、未だ眠れる姫君は、ただただ蒼白い光の中にいた―――。 芒洋とした白い世界が収束していき、やがて暗闇が訪れる。 バラバラに刻まれた意識達が再集結し、『コウヅキユウコ』という新たな存在を創り上げていくのを、広がっていく意識の中で香月は感じていた。更に、その思考が加速していく。おそらくは、量子電導脳が正常に稼動し始めたのだろう。 半ば本能的に起動確認を始める。 00ユニット『コウヅキユウコ』の起動確認開始―――。 グレイ・ナインの温度安定―――正常稼動中。 ODLの減衰劣化率0.005%未満―――予測稼働限界時間までおよそ68時間と39分。 プログラミング言語精査―――待機状態の為コプロセッサにて作動中。 仮想人格『コウヅキユウコ』起動を確認。思考加速化現象を確認。演算領域の圧迫を認識。対処としてQuantum Computation Languageへの切り替え推奨―――承認。 量子電導脳演算試験開始。試験内容は2のN乗―――試算終了。正常稼動中。 総括。量子電導脳は正常稼動中―――システムに異常は認められず。 続いて擬似生体のバイタルチェック―――終了。各部正常稼働中。転移手術後の拒絶反応も認められず。即時身体使用可。 擬似生体適合率100%―――00ユニット『コウヅキユウコ』完全稼働を確認。 起動確認終了―――00ユニット『コウヅキユウコ』に問題は認められず―――。 次々と脳裏に浮かび上がっていく報告を焦るでもなく捌いていく。エラーは一つとして浮かび上がらず、それを少しつまらなく思い、同時にあの馬鹿はきちんと仕事をしたようねと妙に感心する。(さて、と………。じゃぁ、折角だからちょっとやってみましょうか) 瞼を落としたまま、香月は下唇を舐める。 量子電導脳はそれ単体でも十分過ぎるほどの演算能力を誇るが、その真価はまた別にある。00ユニットが存在する全ての平行世界の量子電導脳へと接続し、その演算能力を借りて行う超並列演算処理こそが00ユニットの本領だ。 そして演算能力を間借りするということは―――他世界の情報を入手できると言う事に他ならない。(例えば―――BETAを簡単に蹴散らせる、呆れるほどぶっ飛んだ兵器の設計図とかね………!) 黒い考えを浮かべながら、しかし『まぁいきなりそれはまずいでしょうけど』と胸中で付け加える。 現段階では00ユニット脅威論を掲げる連中はまだいる。それを封じる為には、最初は無茶な事はできない。明らかにオーバーテクノロジーな兵器を創り上げてしまえば、それが新たな火種になりかねないのだ。 まずは甲21号作戦で00ユニットの試験運用を行い、桜花作戦でその有用性を証明してじわじわと彼等を消していく必要がある。最終的に人類が対BETA戦力として00ユニットに依存するようになれば、後はゴリ押しで脅威論者を封殺することも出来るだろう。(ま、それは来年の楽しみに取っておくとして―――今は、こっちを片付けましょうか………) 無意識領域にあるポートを解放する。 手近な並行世界からノードを繋ぎ、リンクを作ろうとするが―――それが急に消失した。 眉をひそめると同時、暗闇の世界の中から―――ぼんやりと影が浮かび上がった。それは最初、球体の形をしていたが、徐々に人の形となり、最終的に―――よく見知った人物となった。「初めまして、と言うべきかしら?―――『あたし』」「自分の顔を鏡以外で見るってのは、さっき自分の擬似生体を見た時だけだと思ってたんだけどね………」 そのよく見知った人物―――香月夕呼の姿をした『それ』に話しかけられ、香月は苦笑と共に軽口を叩く。これが何であるか、予想は大体つく。「―――無意識領域下の統括者………ってところでいいかしら?」「そうよ。00ユニットは別世界の00ユニットと無意識領域で繋がっている。転じて言えば、無意識領域を共有していると言ってもいいわね」「それを統括するのがあんた………ってコトね」 言うならば、これはインターフェイスだ。00ユニット専用のナビゲートコンピューターと言っても良い。「―――でも、なんで『あたし』の姿なのよ?」「認識の問題よ。『あたし』を一番知っているのは誰?」「成程、『あたし』を一番に知るのは『あたし』。だから他世界の00ユニットの翻訳としては『あたし』の姿であるのが最も効率的である、か」 例えば、これが鑑純夏であれば鑑純夏の形をした統括者が出て来たであろう。「話が早くて助かるわ。鑑純夏の時は時間が掛かってしょうがなかったからねぇ。―――ま、あんな思いをすればそれも当然でしょうけど」「あんな思い?」「体験してみる?00ユニットは演算能力を共有できるんだもの。当然、情報なんかも共有出来るわ。例え個体が違ったとしても―――同じ量子電導脳ならね」 嫣然と微笑む統括者に、香月が眉をひそめていると―――突如、それが来た。「―――っ!?」 フラッシュバックのように映像が過ぎっていく。それは記憶の奔流だ。しかも、ただの雑多な記憶ではない。鑑純夏の―――生身であった時の、最後の記憶。「か………は………っ………!!」 『その記憶』を追体験する。しかも―――体験とはよく言ったのもので、御丁寧にも感触付きだ。 触手状のものに身体を拘束され、その体液と思われる物で体中ベトベトにされ―――抵抗の意識さえ吹き飛んでいく。まるで頭のネジを一本一本丁寧に抜いて、解体していく作業のように、身体ばかりか心さえ壊されていく。 それに反比例して、性欲だけは異常なまでに昂ぶっていく。催淫剤を致死量限界まで投入されたように、触れられただけで身体が反応する。撫で回されていくだけで、理性が吹き飛びそうになっていく。 ―――拒絶する。だが、香月も『その記憶』の主である鑑純夏も拘束からは抜け出せない。 そしてまるで電流が駆け抜けるように体の末端から痺れ始める。それが絶頂だと気づいたとき、香月は一つの命令を出した。(強制思考制御―――!感覚をシャットアウト………!) 唐突に、五感が抜けた。吹き飛びそうになった意識もフラットライン近くまで強制的に引き戻る。しかし、『その記憶』は終わらない。思考の中、触手群が延々と鑑純夏を陵辱していく映像だけが流れ続けている。何時間も―――あるいは何日もありとあらゆる快楽を植えつけられた彼女は、最早人間と呼べる姿では無くなっていた。 ―――解体だ。 足と言わず、手と言わず、切り離せる部分は全て切り離していく。スプラッタ映画の方がまだマシと思えるほど残酷に、冷酷に―――そして無機質に。 やがて脳髄だけとなって―――。「気分はどう?」「―――最っ悪………!」 追体験の終了と共に、五感を復帰させると、暗闇の中ニタニタと笑う統括者の姿があった。そのいやらしさと言ったら思わずぶん殴りたくなる程だったが―――やめておく。意味が無いし、統括者も言わば香月の一部だ。 一研究者としての立ち位置ならば、自分も同じような笑みを浮かべていたのかもしれないのだから。 諦めるように吐息して、システムを再チェック。今のでODLの減衰劣化率は35%低下していた。感覚をシャットアウトしなければ、下手すると自閉モードに入っていたかもしれない。「何よコレ………!白銀から話には聞いてたけど、とんでも無いわね………!」 ああそれにしても腹が立つ。どうしてあの娘があんな目に遭わなきゃいけないのだ。基本バカでトロくて幼馴染のことしか考えていないちょっとアレな生徒だが、ああいう真っ直ぐな部分は嫌いじゃなかった。大体、自分の受け持ちの生徒をあんな目に合わせたBETAってのは―――。「―――?」 はた、と思考が止まる。自分は今、一体何を考えたのかと自問し答えが返って来る前に統括者が口を開く。「不思議?実はそうでもないわよ。白銀の話は覚えてる?」 白銀の話、と言われて眉を動かすと統括者は御丁寧にも説明を始めた。「白銀は『二回目の世界』で一度『元の世界』に逃げ出した。まぁ、『あたし』の思惑としては鑑純夏の記憶を回収するためにね。でもその際、他の人間の記憶も虚数空間にばら蒔かれているのよ」「じゃぁこれは………」「そ。あんたが今感じた怒りや記憶は―――白銀の言う『元の世界』の香月夕呼の因果情報が原因よ」「鑑純夏がそうしたように、あたしも記憶を回収して統合している………?」「ま、今は違和感の方があるでしょうけどね。その内気にならなくなるわ。それはどの世界の『コウヅキユウコ』でも一緒。環境や経験に差こそあっても、所詮はベースを同じくする人間だしね。互換性は当然あるわ」 同じように、心を壊された鑑純夏が00ユニット『カガミスミカ』として、安定性を得るために、別世界の同位体の情報を取り込んだ事例もある。そしてそれは不具合には繋がらず、むしろ00ユニットを完全稼動させる一因となり得た。 そのことから鑑みるに、こうした他世界の因果情報には同位体であれば互換性はあるし、基本的にマイナス要因にはならない。「―――さて、じゃぁ、本題に入りましょうか。あんたの要求はただ一つでしょ?」 統括者が脱線した話を元に戻そうとする。そう言えば、自分は他世界の兵器情報を入手するためにポートを開いて平行世界とリンクしようとしていたのだ。「分かってるなら話は早いわね。―――一番いいのは白銀や三神の言う『前の世界』のやつかしら?」 あまり先進的過ぎても困る。再現できなければ意味が無いし、再現出来ても争いの種になるようなのは御免だ。「そうねぇ。他にも色々あるけれど………あんまり先に行き過ぎたものは周囲から勘ぐられるから、そのあたりが一番いいでしょうね。―――それでもキチンとダウングレードして使うのよ?」 そう言って、統括者は右手を振る。すると、まるで手品か何かのようにそこに正立方体の何かが出来上がる。鑑みるに、それが平行世界の情報―――を圧縮したものだろう。「―――?」 しかしそれを出現させただけで、統括者の動きが止まる。その上―――。「誰がタダでやるって言ったの?」「はぁ?」 陰険な笑みを浮かべて宣う統括者に、さしもの香月も不機嫌な声を挙げた。元々、会話の主導権を握られるのを嫌う彼女だ。こうも良いようにされるのは本意ではない。今我慢しているのは、こちらが主導権を握るためのカードを持っていない為である。 でなければ、とっくの昔に全てを掌握している。「世の中甘くないわよ。演算処理だけならともかく―――情報を引き出すとなると、それなりに準備や条件がいるの。特に白銀や三神の言う『前の世界』のに関しては、ね」「どういう事よ………?」「『前の世界』でどうして香月夕呼が00ユニットになる必要があったかしら?」「それは鑑純夏が機能停止したから………―――!」 言われて気付く。確か、彼等の『前の世界』での結末は―――。「そういう事………か」「話が早くて助かるわ」「因みに聞くけど―――あたしは『何人目』?」「一人目であって何人目でもあるわ。―――世界という概念の前に時間という法則は意味を成さないから」 そうそう、と手を叩いて彼女は続ける。「唯一つだけ言えるのは―――『三神庄司が関わった00ユニット香月夕呼』は、あんたで二人目よ」「―――それは、三神が単一の存在ってこと?」 色々と量子電導脳をフル活用して考察してみるが、結論を得られず問うてみると、統括者はさぁね、と笑みを浮かべた。「まぁ、今あたしに聞かなくても目を覚ましてアイツに会えば分かるわよ。ただ―――そうね、一つだけ忠告しておくわ」 そして、まるで魔女のような託宣を下す。「三神庄司は………いいえ、『ミカミショウジ』はアンタ達の最大の味方にして―――最大の敵よ」 時刻は夕刻。 いつものように屋上へと出た三神は、煙草を取り出して口に加え、風から庇うように手を翳して火をつける。そしてそれを一吸して、紫煙を吐き出し、フェンス越しに廃墟となっている柊町を眺めた。 ―――00ユニット制作は昨日の深夜から行い、早朝には片付いた。 人格転写手術自体は成功したはずだが、彼女が目覚めないことには安心出来ない。故に、経過観察を今まで行っていたのだ。 だが、昼頃にODLの異常劣化を数分だけ起こったことを除けば、概ね順調で、それも前回と同じように量子電導脳の最適化に於ける揺れ幅である可能性を考えると、既に峠は超えたと見て良い。だから三神は一服がてら屋上に上がってきたのだ。 そして、口にした煙草が半分ぐらい灰になった時だった。「―――あら?少佐………?」 不意に、昇降口から声がして、振り向いてみると二人の女性が立っていた。「―――風間と宗像か。どうした」 風間と宗像だ。二人一緒なのはいつものことだが、屋上で鉢合うというのは珍しいシチュエーションだ。だから興味本位で聞いてみたのだが―――。「少佐こそどうされたんですか?随分と黄昏ていたようですが。―――恋のお悩みですか?」「あらあら美冴さん。そんな好奇心をむき出しにしては駄目ですよ?この間のことを考えるに、少佐はシャイな方なんですから」「ああ。そう言えばそうだったな。これからは気をつけよう」 うんうんと二人は頷き合って―――そろってこちらを見る。『―――で?お相手は誰です?』「君達も随分イイ性格しているね………」 どうしてA-01は他人の恋愛沙汰を肴にしたがるのか。他に娯楽がないからか、と三神は結論して、右手にした煙草を軽く見せた。「なに、一仕事片付いて息抜きしていたところだよ」 君達は?と逆に問うと、風間が手にしたものをこちらに見せた。その黒い瓢箪のような形をしたケースを見て、三神はああと頷く。言うまでもなく、ヴァイオリンだ。「今日の訓練は終わりましたから。夕食までもう少し時間がありますし―――少し練習をしようかと」「少佐も如何ですか?―――確か、祷子の演奏はまだ聴いていないでしょう?」 宗像にそう言われ、ふむ、と三神は考える。(ここで固辞するのも逆に変か………まぁ、良い息抜きにはなるかな………) 既に三神の仕事は終わっている。 ここ最近忙しくて、心にゆとりがなかったのも事実だし―――それに、『かつて』の『いつか』、共にあった伴侶の若かりし頃の演奏を今になって生で聴く、というのもなかなか乙なものだと思った三神は静かに頷いた。「―――では拝聴しよう」 統括者の言葉の意味を、香月は高速で考察しつつ―――今まであった情報を元に問いただしてみる。「―――それは、因果律のバタフライ効果と言う意味で?」「その程度は可愛いもんよ。もっと本質的な部分で、アイツは敵なのよ。―――本人は気づいていないだろうし、多分、これから先も気付くことはないだろうけどね」「それは一体………―――!」 問いかけると同時、情報が来た。先程のような追体験ではなく、これはただの情報群だ。送りつけられたそれは、自動で解凍して香月の思考領域に展開していく。「面倒だから情報を送ったわ。―――それを見て判断しなさい」 相変わらず主導権を握られっぱなしで腹立たしい限りだが、こちとら起動して直ぐの―――言わば赤ん坊のような状態である。だから、キチンと00ユニットの機能を使えるように把握してから絶対復讐してやると香月は固く誓う―――が、次々に展開されていく『ミカミショウジ』の情報群を読んでいく度に、段々と香月の表情が強張っていく。 「なんてこと………。冗談じゃないわ………!ちょっと面倒なだけかと思ったら思いっきり面倒なことになってるじゃないっ!!」 思わず叫ぶ香月だが、それで解決するわけでもなし―――そもそも、そんな痴態は統括者を助長させるだけだと気づき、即座に感情を抑えこむ。 どうも新たに取り入れた因果情報―――即ち、白銀の『元の世界』の香月夕呼の影響で、少し熱しやすくなっているようである。「つまり、あんたはあたしに『ミカミショウジ』を救えって言いたいのね?」「まぁ、どちらかと言えばそれはオマケね。まだ時間もあるし『あたし』ならそれまでに対抗策は考えつくでしょ。だから、平行世界の情報を読む条件として―――鑑純夏を………いえ、『カガミスミカ』を救いなさい」 先程の遣り取りで、情報を引き出すのに準備と条件が要ると言っていた為、それ自体は予測できた。だから、香月は違った切り口で問を重ねた。「―――あたしが『カガミスミカ』を救うのは、確定事象なの?」「答えはYESにしてNOよ。この世界軸で見ればYESだけど、世界群全体で見れば自力で世界に抗った『カガミスミカ』もいるでしょう。だから、NOでもあるの。―――そのぐらい、因果律量子論を掲げる『あたし』なら分かるでしょ?」 確かに、と香月は思う。分岐した世界を考えれば、『全ての可能性』があり得るのだ。 取り敢えずそれには納得できたので―――だから香月は最終確認をすべく統括者に尋ねた。「―――これは、『約束』じゃないわね?」「そう―――『契約』よ」 魔女は約束を守らない。 だが契約は果たすのだ。「―――厄介な事を押し付けてくれたわね、本当………」 大きく吐息して、軽くこめかみを押さえる香月に、統括者は今までの嘲ったような笑みではなく、何処か同情の色を帯びた笑みを浮かべて、手にした正立方体を投げて寄越す。 それを片手で受け止める香月だが、精査はまだしない。おそらく、解凍できるのは、契約を果たしたその後だ。「仕方ないわよ。既に因果導体じゃなくなった『シロガネタケル』が現れた時点で、『あんたの世界』はこの世界群の最先端となったの。―――先駆者ってのは、何時の時代も苦労するものよ」 だから、と彼女が続けると―――暗闇の世界が薄らぎ始めた。 そろそろこの邂逅も終わりか、と香月の直感的に気づくと、遠ざかっていく思考の中で統括者の最後の声を聞いた。「せいぜい頑張りなさい天才〈あたし〉。―――その全てを掴むために」 そして―――聖女は現世へと還る。 その手で奇跡を起こすために―――。 夕闇に吹く風が、ヴァイオリンの奏でる旋律を運んでいく。その最後に紡がれた音が掻き消されるまで待ってから、三神と宗像は拍手で演奏者を賛えた。「いい腕だね風間。―――将来の夢はプロかね?」「そんな………私なんてまだまだです」 謙虚に応じる風間だが、三神は知っている。BETAが居なくなった世界で、彼女が思うがままにその道を歩んでいたということを。(今回は手伝うことが出来ないが―――応援だけはしておくよ、祷子………) 久々に彼女の音楽を聞いたせいか、妙に感傷的になっている三神に、宗像が口元をにやりと上げて声を掛ける。「では少佐、ここで一つ質問です。祷子が今弾いた曲名と作者は?―――因みに速瀬中尉ならここで『クロイツェル・ソナタ』にラフマニノフと答えるでしょう」「馬鹿にするなよ宗像。クロード・ドビュッシーの夜想曲第一楽章だろう?」『―――』 その素早く正確な解答に、問い掛けた宗像はおろか、風間でさえも閉口した。その様子を不審に思って、三神は首を傾げる。「何かね?」「いえ………正直、驚きました。今時分、ドビュッシーを知ってる方がいるなんて。―――少佐も、何か音楽を?」「まぁ子供の頃に少しな。専門はピアノだが―――付き合いの関係で、ヴァイオリンも少しだけ囓っているよ」 『元の世界』での話だがね、と三神は胸中で付け加える。「それはそれは―――似合いませんね」「み、美冴さん………」「良く言われるよ。まぁ尤も、私自身下手の横好きだから気にはしないが」「と言うと―――ああ、いい人、ですか?」 どうしてもそちら方面に繋げたいのか、宗像がそう言うと三神は小さく方を竦めた。「当たらずとも遠からず、と言ったところか。初恋の人がヴァイオリニストでね。追っかけるようにピアノを習ったはいいが―――ま、元々が横恋慕だったから、結果は推して知るべし、だね」 あの頃は若かった………と、何処か遠い目で三神は述懐する。 何しろ物心ついてから十年越しの初恋だったのだ。実力としては凡才ながらも幾つかのコンクールに入賞するぐらいだったが、失恋と共にすっぱりと止めてしまった。以降は気まぐれでたまに触る程度だ。こちらの世界に来てからは殆ど触っていない。(兄貴と天姉ぇ………元気でやってるだろうか………) 初恋の人と―――その彼女と結ばれた実兄を思い出す。主観時間で言えば、もう数十年も会っていないが―――まぁ、心配しなくてもあのドバカップルは何があっても元気でやっていそうだな、と苦笑する。『………』「―――?どうかしたかね?」 物思いに耽っていた為、気づいたら二人が沈黙していた。不思議に思って問いかけると、彼女達は少しぎこちなく首を振って。「いえ………少佐も、フツーに恋愛するんですね?」「正直、意外でした」「君達は私を何だと思ってるのかね………?」「突然現れた爽やか変態紳士にして戦闘系煽動者―――仲間内での共通認識です」「み、美冴さん!幾ら何でも本当のことを言うのは………」「風間。君、実はフォローする気無いな?―――宗像、次の訓練では私に背中を見せないことだ」 私の本業は交渉なんだけどなぁ、と思うが『この世界』に来てからこっち、全ての交渉を秘密裏に行っている。その為、彼女達の眼に触れるのは、どうやっても普段の態度と先日の迎撃戦の割合が大きいのだろう。これなら勘違いされても仕方ないとは思うが―――。「まぁ、私はもう行くがあまり風に当たるなよ。―――風邪引いても明日の訓練には強制参加で二人まとめて虐めてやる」 せめてもの仕返しを訓練でする、と言外に伝え、三神は屋上を後にした。 B19階の執務室に戻ってきた香月は、馴染みの椅子に腰掛けて深く吐息した。 今しがた、反応炉をハッキングしてその制御中枢を手中に収め、通信機能も破壊してきた。色々と得るべき情報もあったが、それは一先ず後回しだ。差し当たっては鑑純夏の身体が必要なので、生産区画を割り出し、再起動と共にリーディングした『鑑純夏』のデータを入力してきた。調べてみると、3時間程で出来上がるらしい。 人の身体を3時間で、しかもドリー現象を回避して精製できるBETAのクローニング技術力には正直舌を巻くが―――まぁ、今はそれも後回しだ。「さて、やる事はやったわね………」 誰となく呟いて、今後の予定を立てていると―――執務室の扉が無遠慮に開け放たれた。その先にいたのは、軍装姿の三神だった。少し息が荒いことを考えると、多分、香月の姿がB26階から消えていたので、慌てて心当たりを探していたのだろう。「―――姿が見えないと思ったら………やはりここにいたか」「ああ、三神………―――!」 彼と目を合わせた瞬間だった。 即座にリーディングが発動し、『読み取る』。(これは………そう………そういうことなのね………!) 膨大な情報の奔流。それを量子電導脳が捌いていく。 確かに人一人の処理能力ではこれは無理だろうと香月は思う。社が読み取れるが理解出来ないと言ったのも分かる。経験と記憶を百年以上溜め込んでいるというのにも関わらず、三神の肉体年齢は依然24のままだ。つまり、脳の処理能力もそれに準じ―――しかし膨大な記憶量を整理しなければならない為に常に常人よりも活性化している。言うならば、脳の機能がクロックアップされている状態なのだ。 当然、そんな使い方をしていればやがて壊れてしまうだろうが―――彼は、睡眠時間を多めに取ることによってその負担を極力を減らしている。以前、可能なら一日10時間は寝たいとかほざいていたが―――確かに、それぐらい脳の休息を取らなければ厳しいだろう。いや、それですら所詮は付け焼刃とも言える。 そしてその情報で得る―――『ミカミショウジ』という存在。 統括者が『ミカミショウジ』は最大の味方にして最大の敵と言った―――その真意。それを理解する。「なるほど………ね………」「………?」「いえ、何でもないわ」 訝しげな表情をする三神に、香月は無表情を装って否定した。「―――何処かに行っていたのか?」「ちょっと反応炉までね。―――取り敢えず反応炉の通信機能は潰して来たわ。後、生産区画を再起動して鑑の身体を今精製させているから、3時間後に回収に行って頂戴」「は………?」 しれっと告げると、彼にしては珍しく鳩が豆鉄砲を食らったかのように呆けた。出会ってからここまで、振り回されることが多かったので実に良い気味だ、と内心ほくそ笑んで香月はもう一度指示を出す。「分かった?ああ、それと―――あんたのIDで反応炉区画まで入れるようにしておいたから安心していいわ」「あ、ああ………」 余りにもハイスピードで状況が進んでいたためか、唯々諾々と言った感じで三神は頷く。その様子を満足そうに見やってから、香月は椅子から立ち上がった。「さって、これで本題に取り掛かれるわね………」 何となしに呟いた言葉に、三神が本題?と首を傾げる。香月はふふん、と小さく鼻を鳴らすといつもの不敵な笑みを浮かべた。 折角聖女になれたばかりなのだが、今回はどうやっても魔女として動かねばならない。逆に言うならば、魔女としては―――これが最後の役目なのだろう。 何故ならば―――。「―――さぁ、囚われのお姫様を迎えに征きましょうか」 『おとぎばなし』に於いて、姫君を王子の元へ送り届けるのは、魔女の役目なのだから―――。