その日は朝から憂鬱な天気だったように記憶している。 僕はいつもの様に朝の身支度をアニス達に任せ、ぼんやりと曇天の空を眺めていた。 朝一番に来るはずのミーシャが何故か姿を見せず、スヴィータ達が不平を漏らすのに苦笑いをしながら耳を傾ける。 相変わらず距離感を感じるものの、スヴィータやライラも簡単な雑談くらいなら応じてくれるようになっていた。 こういった何気ない話でも彼女らの話を黙って聞くのは、親近感を増すためには大事なことなのだと思う。「でもミーシャ、朝一番には帰るって私には言ってたのですけれどね」「どうせ行き摺りの相手でも見つけて、寝過ごしたんじゃないでしょうか?」 スヴィータが冷静にミーシャを一刀両断。 まあ、そう言われてしまうと弁護する材料よりは、憶測を補足するような内容の事実しか思い浮かばないわけで。 アニスは多分僕と似た気持ちなのか、半分呆れ顔、半分怒っているって感じだ。「そういわれると中々反論出来ないけど、いくらミーシャさんでも仕事を忘れて色事に耽るような人でもないと思うのですけれど」「事実、無断で遅刻しています。許されざる怠慢ですわ。ライラさんから一度厳しくいってもらわないと」「あ、うん。分かった。帰ってきたらちゃんと怒っておくわ、スヴィータ」 口を動かしながらも、一瞬たりとて止まらぬ手元。 流れるような彼女達の動きを意識の端で感じながら、考えることはミーシャが居ない理由ばかり。 もっとも今ここで何をどう悩んだところで、真相に辿り着くことなどありえない。 いつもの笑顔でひょっこり現れたらどんなお仕置きをしてやろうか、想像の中で逃げ惑うミーシャを僕は夢想する。 ふと窓の外をみると、何やら人の出入りが激しい。 いや、普通の一般人ではなくて、兵士達の出入りが激しいようだ。 長い間この窓から外を見ているけれど、あんなに慌しい様子は見たことが無い。 低く垂れ込めた暗い雲と兵士達の様子が、理由も無く僕の心をざわめつかせた。 今朝ミーシャが無断で休んでいる件でヴィヴィオの部下が調査に向かったところ、彼女の失踪が伝えられた。 王都西部地区にある馬車駅の近くの宿に、彼女の荷物が荒らされて放置されていたらしい。 当然当人の姿はどこにも無く、足取りも掴めない状況だ。 じっと机の前にかじりついているしか出来ない現状に、私の焦燥感は募るばかり。 嫌な想像しか浮かんでこないが、まだ決定的な情報は私の元には来ていない。 それだけを頼みの綱に、見知った少女の無事を祈る。 慌しい足音が聞こえたかと思うと、ノックもなしに開け放たれる執務室のドア。 息を切らしたセンドリックだった。 普通であればきちんとノックをしてから入るのが筋ではあるが、今はそういう通常儀礼的なこと一切を無視させている。「報告です! 西地区駅馬車付近の路地にて、多量の血痕を発見いたしました」「っ!」「怪我人、もしくは死体等は付近には見当たりませんでしたが、途中まで引き摺っていった後があったので恐らくは処理されたものかと……」「それが失踪者であるという根拠は?」「数人の目撃者が居ました。彼らの情報から、倒れていたのは女性、年齢が20歳前後、髪がブロンドのショートだそうです」 知らず知らずの間に力が入っていたのか、嫌な音を立てながら奥歯が軋む。 今の情報だけで、その血痕の主がミーシャであるとは断定は出来ないが、恐らくそうなんだろう。「それと、現場にこれが落ちていました」 そっと机の上に差し出された黒く凝固した血にまみれの女物のブレスレッド。 これをもってくる意味が分からず、センドリックを見上げた。「周囲の聞き込みをした結果、アルトワル孤児院と駅馬車の間にある露天商が商っていたものだと判明しました」「……で?」「私が直接話をしました。10中8、9はミーシャ殿が購入された品物であると。店主曰くは、誰かのプレゼントのようであったと」「そうか……。すまないが、引き続き調査を頼む」「はっ、了解しました」 踵を返してセンドリックが足早に部屋から出てゆく。 入れ違いに部屋へ現れたのは、沈痛な面持ちのレオとヴィヴィオであった。 私は二人を一瞥してから、軽く首を左右に振る。 私の仕草を見て意味を理解した二人は、深いため息をつきうな垂れた。 そんな二人に声を掛けるのは少し躊躇われたが、早急になんらかの対応をしなければならない。 特にスワジクや彼女付きの侍女たちにどう説明したものか。 レイチェルの時ですら、平静を保つのにそれなりの時間が必要だったのだ。 この上ミーシャまでが事件に巻き込まれたと知ったら、彼女達がどう反応するのか想像もしたくない。「兎に角、今ここで起こっていることは絶対に外に知られてはいけない。特にスワジクとその周りの人間には、だ」「はっ、了解しました」 ヴィヴィオも深く頭を下げて了承の意を示す。 ようやくスワジクの問題が単純化出来そうだと喜んでいた矢先のこの事件。 あまりにタイミングが良すぎる。 それに何故ミーシャを狙ったのだ? ミーシャがスワジクを揺さぶるのに一番効果的な人材だと知っていた? 一連の騒動で誰が一番得をするのか。 いろんな仮定が頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。 そこへまた慌てて、衛士の一人が飛び込んできた。「閣下、大変です! 姫殿下の部屋に何者かが矢を打ち込んできました」「なんだと!?」 今朝は珍しくフェイ兄も現れず、いつもより静かな朝御飯を終わらせた。 普段と変わらぬ朝のはずだが、居るはずの人間が居ないと思うだけで少し心もとなく感じている自分がいる。 どうも先日来からの出来事が、地味にじわじわと僕の心にダメージを与えていたということなのかな。 まあ、実際クッキーについてはミーシャが帰ってくれば経緯が分かるだろうし、ボーマンたちの事だってフェイ兄達がきっと上手くやってくれるに違いない。 そうしたら何もかもが上手くいくに決まっている。「さて、じゃあ自分の部屋へいきますね」「はい、姫様。あ、後でお持ちするお茶はいかがいたしましょう?」「そうですね、アニスに任せます。アニスが入れてくれるお茶はいつも美味しいですから」「お褒め頂き有難うございます。では、ダンブラ産の新茶を用意させていただきます」「ええ、お願いします」 アニスがぺこりと頭を下げて寝室から出てゆく。 僕はそれを見送った後、スヴィータとライラをつれて自室へと向かった。 お姫様という仕事は、なかなかに毎日が退屈だ。 まあ、公務につけと言われても右も左も分からない僕じゃ、何の役にも立たないから仕方が無いんだけれども。 でも日がな一日やることが無く、お茶や散歩で時間つぶしってのも限界がある。 とは言うものの、先日フェイ兄にカミングアウトしたことで家庭教師の時間を明後日から増やされるらしい。 やることは、歴史、礼儀作法、舞踊に貴族家系図。 前二つの授業に凄く時間を割かれる予定で、後ろ2つはまあ付録みたいな感じ。 ミーシャにもいろいろと教えてもらっていたけれど、やっぱり宮廷付の教師になると教える内容の格が違うらしい。 僕自身はミーシャが先生で全然問題なかったんだけどね。「さて、明後日に向けての予習でもしましょうか。ライラ、すいませんが歴史の本をとっていただけますか?」「はい、姫様」 持ってきてもらった本を広げて、頑張って読んで見る。 うう、やっぱりなんか難しい。 ことさら難解な言い回しを使っていたりするもんだから、文章の意味を理解するだけで脳みそがショートしそうになる。 読み始めて3分で嫌になったけど、メイドさん達が見ている手前簡単にギブアップしたのでは恥ずかしい。 妙な意地を張って、僕は頭から湯気を出しながらうんうん唸って暗号解読に勤しむ。 ほどなくしてアニスがワゴンを押して入ってくると、焼きたてクッキーの美味しい匂いが部屋に充満する。 朝ご飯を食べた後だけど、そんな美味しそうな匂いをさせられたら食べたくなるのは仕方ないよね。 目の前に差し出された紅茶とクッキーを見て、始めたばかりの勉強を中断してお茶に逃げる。「美味しい。流石料理長ですね」「はい、姫様からレシピを頂いた後、毎晩試行錯誤して改良を加えた新作らしいです」「ははは、凄い職人魂」 本当は皆と一緒にお茶をしたかったが、ニーナたちの例もあるのでそこはぐっと我慢する。 一人で食べてもつまらないのにとは思うものの、これが姫様と呼ばれる人の運命だと割り切って考える。 ほんと偉い人になんか成りたくなかったなぁ。 愚痴っぽいことを考えながら暖かいお茶に口をつけていたら、突然背後の窓ガラスが大きな音を立てて砕け散る。「「きゃぁぁぁ!」」 アニスやライラの悲鳴が聞こえる。 多分僕も同じよな悲鳴を上げていたに違いない。 降りかかってきたガラスの破片を振り落としながら、何が起こったのかと辺りを見回す。 砕け散った大窓、壁に突き刺さった太い矢。 その矢に括りつけられた円筒の筒から吐き出される白い煙。 爆発物?「皆、部屋から逃げて!」「え? あ?」 僕の声にとっさに反応できない3人は、煙を吐き出す筒をぼんやりと眺めて不思議そうにしていた。 パチパチっと何かが小さく弾ける音がしたかと思ったら、今度は大きな音を立てて筒が破裂する。「きゃぁぁぁぁ」「早く外へ!」「は、はい!」 僕の叱咤にようやく我を取り戻した3人は、慌てて廊下へとまろびでた。 扉と僕の間に机がある分僕が一番逃げるのに時間が掛かる。 小走りに部屋を出ようと思ったが、打ち込まれた矢はさっきの破裂音以降、音も煙もしなくなった。 僕は恐る恐る矢のほうへ近づくと、爆ぜた筒の中から少し見えている紙の様なものを取り出す。 所々焼け焦げたその紙には、大きな字でこう書かれていた。 帝国の牝犬に尾を振る者に、我らは等しく天誅を加えん。「なに、これ?」 血の様な真っ赤な字で書かれたその文字に、僕は言いようの無い不気味さを感じた。 そこへ随分と慌てたフェイ兄やレオ達が部屋の中に駆け込んでくる。 僕が無事なのを見て安心したのか、ほっとした表情をして近づいて来て、僕の手元にある紙に気がついて凍りつく。「フェイ兄様、これって?」「それは……」 何かを言い淀むフェイ兄をみて、加速度的に増殖する僕の不安。 まさか、それは無いだろうと思いつつも不安を形にしてしまう。「この帝国の牝犬ってボクのことですよね?」「……」「で、それに尻尾を振る者っていうのは、ボクに良くしてくれている人の事って解釈でいいんだよね?」「……いや、それは……」「フェイ兄様、ミーシャはどうしたの? なんでミーシャはここに今居ないんですか?」「……」 僕の中で大きく育ちつつある不安を否定して欲しくて、一歩フェイ兄に詰め寄る。 一方のフェイ兄は、僕の視線を真正面から受け止めきれずに苦しげに横を向く。 その後ろに立つレオだって良く似た表情だ。 何より、彼らはさっきから僕の言葉に対して何一つ反論してくれない。 僕が一番聞きたくない事を、馬鹿なことだと否定してくれないのだ。「フェイ兄! ミーシャに何があったの!?」 僕は思わずフェイ兄の胸倉を強く握り締める。 否定して欲しい。そんなことは無いと言って欲しい。僕の想像は、馬鹿げていると笑い飛ばして欲しい。 どんな言葉でもいいから、早く僕を否定してよ!「フェイ兄!」「ミーシャは、今行方不明だ……。状況からして恐らくは……」 ガシャンという大きな音が、部屋の中に響き渡る。 僕もフェイ兄もハッとなって後ろを振り向くと、そこには扉越しにこちらを呆然と見つめるアニスが居た。 彼女の足元には、さっき彼女が運んできたワゴンが横倒しになっている。「う、うそ……」 アニスの絶望に塗りつぶされた表情を見て、僕は自分の犯してしまったミスに今更ながら後悔する。 いまここで僕は取り乱してフェイ兄を問いただすべきではなかったんだ。 僕はきゅっと下唇をかみ締め、自分自身の迂闊さを呪った。