・第11話 【小学校編⑨後編】
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アフリカの乾季では時に砂混じりの突風が吹き荒れ、バチバチと火薬が爆ぜるような音を立てテントの布へと当たる。NGOへ赴任した直後、オレはそれが一体何の音なのか理解できず、遠くで銃撃戦でも起こっているのか? と怯えた事さえあった。
が、このアフリカで2年以上の年月を過ごした今、集中を妨げられる事はない。高難度手術直前の緊張が満ちているテントの中、深く息を吸う。
「ではアーチファースト法による弓部大動脈全置換術を始める」
医療用テントの中にいるスタッフ全員へ向かい、チーフセルゲフの巌のような落ち着いた声が響く。50を越える年齢ながら、その青い瞳には圧倒的な力強さがある。
オレの師であり目標。義母さんと並んで心から尊敬できる医師。
「はい」
「はい、よろしくお願いします」
ほぼ同時にオレとセリシールの声が響く。第一助手、第二助手として立つオレ達に頷きを送った後、チーフセルゲフは躊躇いなく手に持ったメスを動かした。
上半身裸で仰向けに寝ている患者――40代の男性、体型は痩せ型――の胸から、みぞおちの上辺まで大きく刃先が入っていく。消毒薬の匂いに、濃厚な血の匂いが混じる。
テントの中へ充満している緊張感。それに感化されないよう、オレはゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「アキラ、開胸器を」
「はい」
電気鋸を使い胸骨を切開したセルゲフと立ち位置を交代し、看護士から手渡された開胸器を患者の胸――開いた創――へと差し込む。まるで大型のクリップのような開胸器を梃子の原理で動かし、充分な術野が確保出来るまで開いていく。
ミシミシと骨と肉の軋む手応えと共に見えてくる脂肪。黄色をしたその脂肪を、正面に立った助手――セリシール――が素早く切開していく。精緻な動きにより、彼女の持つ電気メスの先端へ心膜が覗く。
人間に限らず、ほとんどの脊椎動物は――まるで樹木の年輪のように――いくつもの膜で出来ている。その臓器を覆う膜を必要最低限なだけ切開、剥離しなければならない。しかも素早く。
「先輩、フォロー入ります」
一瞬だけセリシールの青い瞳と視線が交わる。迷いの無い手付きで大型クーパー(先端が丸く、かつ湾曲したハサミ状の刀)を操り、手早く膜状の組織を切開、剥離していく。
ドクドクと脈打ちながら動いている心膜へ、余計な傷をつける事の無い見事なアプローチ。
――あの少女の葬儀から、セリシールの技術、メンタルは飛躍的な成長を見せていた。オレも素早くメイヨー(同じくハサミ状の刀)へ器具を持ち替え、彼女と息を合わせながら術野を拡げていく。
「良し。アキラ、セリシール、人工心肺を」
「はい」
「はい」
手術台から一歩引いた位置へ立ち、他スタッフへ様々な指示も出していたチーフの声に頷く。 この手術は患者の立場と政治的な問題を考慮して、執刀医はチーフセルゲフになっている。が、実際に手術をするのはオレとセリシールの2人。
上行大動脈へ人工心肺装置から伸びたチューブを挿入。目の前に立つ彼女も素早く上下大静脈へチューブを挿入していた。
「どうぞ」
ほぼ同時にオレとセリシールは作業を終わらせる。と、すぐに装置がカタカタと小さな音を立てて動きだす。手早く上行大動脈を鉗子で遮断、心筋保護液の注入を開始。これで……たった3時間程度だが、心臓を止めて手術を行なう事が出来る。
ココからが本番。このオペの難易度を思いながら、ゆっくりと口腔内に溜まっていた唾を飲み込む。静かに息を吐き出しつつ、オレ自身のギアを一段階上げる。
手術、それに全ての意識を注ぎ込む。
「では、置換術を始めます。メッツェを」
「同じくメッツェン」
心臓の表面に張り付いている様々な血管を刃先で剥離していく。当然、傷を一切つけてはならないが、しかし時間は限られている為にスピードも求められる。一人一人、微妙に異なる血管のカーブや癖を把握しつつ、数分とかからずに目的の部分まで刃先を動かしていく。
「メス」
「コッヘル3、ペアン2本」
セリシールが何本もの鉗子を同時に操って手早く血管を止める。オレは彼女の動作に流れを委ね、タイミングを同調させながら血管を切除していく。
この手術――弓部大動脈全置換術――では凄まじいスピードと正確さの両立が求められる。心臓という取り返しのつかない器官であるため、求められる水準は最高峰。わずかなミスも致命的となる。
が、オレには余裕さえ生まれ始めていた。全体を見て的確な指示を下すセルゲフ。あくまでサポートに徹し、オレの施術を支えてくれるセリシール。ベテランの看護士と、安心して患者の容態を任せられる麻酔医。
NGOでは、休日はよくて月に2日。昼も夜もない激務続きの日々。支給される給与は故郷の住居維持、家族手当てを含めても日本円で月10万円程度。日常生活を送るだけでギリギリの額、貯金を取り崩しながら生活している者も珍しくない。
けれど不満など聞いたことはなかった。全員の士気は高く、技術、モチベーションともに素晴らしい。
「凄い……」
「そうだな。皆素晴らしい」
ポツリと聞こえたセリシールの声へ、心から同意して呟く。オレも皆に負けてはいられない……と強く思う。素早く人工血管への置換を行ないながら、この場所で共に働ける喜びを噛み締める。
「ヘガール4-0で」
「――っっ。モスキート、続けてケリーを」
オレがして欲しいと思った事を、指示を出す前に行なってくれる助手が心強い。マスクの上から覗く青い瞳と一瞬だけ視線が交差する。
ぴたりとタイミングを合わせ、繊細で複雑極まりない縫合を行なっていく。時間に余裕が充分にあり、置換も順調に行なえている。手術は絶対に成功すると強い確信を抱く。
「汗を」
「こちらもお願いします」
狭いテントの中、向かい合わせで立つオレ達。まるで完璧に息のあった夫婦のようだ……と、一瞬思ってしまう。マスクの下で思わず浮かぶ苦笑。
こんな事を思ったなんてセリシールへ知られたら、気の強い助手の事。セクハラで訴えられるかもしれない。
「アキラ、どうだ?」
「はい、大丈夫です」
セルゲフの低い声へ返事を行なう。最後にセリシールを少しフォローし、置換の状態を確認。この手術が終わればまた別の患者が待っている。
バチバチとテントへ砂埃が当たる音を聞き流しながら、ゆっくりと呼吸を繰り返す。こんなに優れた人達と一緒に働く事ができる。その幸せを強く思う。
これから何があろうとも、ここでの経験はオレにとって誇りになる。すばやく縫合を繰り返しながら、胸の奥でそう呟いた。
◆◆
プールではしゃぐ人達の楽しそうな声、パシャパシャという心地良い水の音。それがプライベートルームでチェアへ寝そべっているボクの耳にまで届く。
透明な天井を通して射しこんでくる陽射しは気持ちよく、大量に植えられている南国風の植物のおかげか、開け放たれたドアから入り込む空気も綺麗。空調も当然完備されており、身につけている水泳パンツだけで充分に快適。テーブルには、新江崎さんがボクへくれたグァバジュース――VIPという事で無理やり渡されたモノらしく、捨てるのも勿体無いと怒りながら持ってきた――まで置いてある。
最高にリラックスできる休日……のはずなのに、ボクは気まずくって仕方ない。それと言うのも、1時間くらい前から、ボクのカラダの上へ1人の少女が乗っているからで……。
「あ、あのさ……、セリちゃん? そろそろボクも遊びたいんだけど……」
「もう、セリシールって呼び捨ていいのに」
「う……じゃあ、セリシール。ボク遊びに行きたいんだけど……」
「にひひ。うん、いいよ! 付き合ってあげる。何がしたい?」
パタパタと両足を動かし、上機嫌でニコニコと微笑んでいる少女。可愛いキャラクターがプリントされた水着姿。
金髪、碧眼でまるで西洋人形みたいに綺麗な白い肌をしているセリシール。その笑顔は非常に愛くるしくって、とてもいい子に思えるんだけれど……。
しかし、何が嬉しいのか? 出会った直後から、少女はボクの歩く先に付きまとい、あげくの果てにチェアーへ寝転んだボクの上へとのって来た。無理矢理どけようとすると本気で泣きだす始末……。
「う、やっぱいいや」
「もう、遠慮しないでね。何でも言っていいのに……って、あっ」
「兄さん! 私もうスライダーに5回も乗ってきたんですけどっ、それも1人で!」
突如、ダンッという感じで床を踏み、桜がプライベートルームへ姿を見せる。着ているスクール水着に長い黒髪が濡れて張り付いていた。
両拳を力いっぱい握りしめ、ギリリ……といった鋭い視線をぶつけてくる。顔も赤く、不機嫌だと瞬時に解るその様子。
「さ、桜。落ち着け。そのさ……」
「む、ペタンコ。私達の邪魔しないで」
「――っっ!」
なんとか言い繕おうとした言葉をさえぎり、恐ろしい一言をあっさりと放つセリシール。ボクの血が音を立てて引いていく。
――桜が毎日牛乳を1リットル飲んでいる理由をボクは知っていたから。しかもそれが何の効果も出てないって事も……。紺色のスクール水着に包まれた胸は、改めて見るまでもなく見事に平坦。
プルプルと華奢な桜の両肩が震えている。瞳は爛々と光り、ジト……という感じでボクを睨む。その眼光の恐ろしさ……。けれどセリシールは、どこ吹く風といった様子でニコニコとボクに微笑みかけてくる。
「に、兄さん……。ちょっといい?」
「あっ、う、うん。その、桜……子供の言うコトだしさ」
「やー、動いたら落ちる。ねえ、ちゃんとギュってしてよっ」
キリキリと胃が痛むのを感じながら、セリシールの軽い体をゆっくりと両手でどかしてチェアから降りる。
とにかく、ヒクヒクとひきつった笑みを浮かべている桜を宥めようと近づいていく。が、腰にはベッタリとセリシールが抱きつき、進みにくくて仕方なかった。
「兄さん。その憎らし……、そのセリちゃんと、どうしてそんなに仲がいいの?」
「いや、それがボクにも……。なんでだろ?」
そう、出会った直後から、何故かこの少女は異様に懐いてきた。父親であるロリス先生の言によると、むしろ人見知りの激しいタイプらしいのだが。いや、桜や恋、新江崎さんに対しては物凄くそっけない態度を見せる。まるで敵意でもあるんじゃないか? っていうほどの。
しかし、ボクが何故だか気に入ったらしく、父親の説得など聞かずに「一緒に遊びたい」と言い張るばかり。まあ、ボクの目から見ると、父親は娘を溺愛しているようで、ほとんど言いなりって感じ。説得なんて聞く様子など欠片も見当たらなかったけれど。
「ふーん。胸は無いのに嫉妬はするんだ」
「はぁ!? な、な、なっ、何をっっ!!」
「桜、落ち着け。子供のいう事……」
「兄さんは黙って!! それに私だって子供ですっ!」
「……」
後橋市にある外国人学校へ通学しているというセリシールは、日本語を何不自由なく喋っている。そう、達者すぎるほどに……。まあ日本人である祖母の影響で、元々ある程度は話せていたそうだけど。
しかし、愛娘の自慢をしたくて堪らない、といった感じのロリス先生の言に拠れば、いわゆる天才ってヤツらしい。
今年の冬、フランスで1週間ほど風邪で寝込み、その直後に「日本で暮らしたい」と言い出したそうだ。日本人である祖母のコネもあり、日本での音楽教師の免許を取得していたロリス先生と共に、今年の春から日本へ滞在中。
そして偶々、今日はここに遊びに来ていて今に至る。
「セ、セリちゃん、貴女だって人の事言えないでしょ」
「ノン! セリのママはGカップだもん。コーカソイドの遺伝子を舐めないでよね。そっちはどうなの? にひひ」
「っっっぎ、く、うううっ……」
ボクの腰にしがみついたまま、恐ろしい言葉を放つ少女。不味い……桜のお母さん。つまり『ママ』は子供のボクから見ても、その……いわゆるスレンダーな体型。桜はママに似て、すごく整った顔立ちだけれども、体型や雰囲気もなんとなく似ている。つまり、将来的に考えても……。
ギリギリと歯を噛み締めている幼馴染。まだ辛うじて笑顔だけれど、ヒクヒクとこめかみは痙攣し、なにより目が全く笑ってない。これは後が恐ろしすぎる。
なんとか場を収めようと、少女の金髪の頭部へ手を伸ばし、ポンポンと軽く叩きながら口を開く。
「セ、セリシール、冗談でもそんな事言っちゃ駄目だよ。桜は今のままでも充分に可愛いと思うし」
「に、に、にっ、兄さんっ!? な、何をっ」
「――えっっ。あ、あぅ、ご、ごめんなさいっ……。その……つい……。うぅ、許して。ごめんなさい!」
声が裏返ったまま慌てている桜。スクール水着姿のまま後を振り向き、ぶんぶんと両手を振り回している。
対称的に、さっきまでの元気が嘘みたいなのがセリシール。
パッチリした青い瞳へ見る見るうちに涙が溜まっていく。ボクをうるうると見上げながら、悲しそうな顔で謝ってくる。なんというか、酷く悪い事をしてしまった気分。
「ごめん、ちょっと言い過ぎたね。ああ、泣かないで。じゃあさ、一緒に遊ぼうっ。ね、何がしたい?」
「Youpi!! なら2人でスライダーがいい。ぎゅって抱っこしながら滑って、ね、ね!」
「ふぁっ!? ちょっ、に、兄さんっ!」
グイッと勢い良く少女に手を引かれ、プライベートルームから引っ張り出されていく。背後から聞こえる桜の声が、あまりにも恐ろしいけれど、努めて考えないようにする。
それにしても……さっきまで泣きそうだったのが嘘のように、ニコニコと手を引いている少女。その金色に輝く美しい髪を見ながら、ボクは心底深いため息を吐く。
はしゃいでいる人達の楽しそうな声を、あまりにも遠くに感じながら。
◆◆◆
低学年向けのスライダーは勾配がゆるく設計されているけれど、その分グネグネと曲がりくねって距離も長め。そして、一度滑り落ちたら再び長蛇の列へ並び直さなければならない。そんなスライダーをボクはセリシールと2人で繰り返し遊んだ。
けれど当然というべきか。ボクでさえ疲れたのに、まだ9歳のセリシールにとってかなりの負担だったらしく、連続スライダー8回目でとうとう少女はダウン。ボクの背中におんぶされ、コクリコクリとうたた寝を始めていた。
「アキラ、ボクが背負おうか?」
「いや大丈夫。ごめんな恋、せっかく誘ったのにさ」
低学年用プールから200メートルほど離れたプライベートルームに向かい、たまたま遭遇した親友の恋と2人で進む。
ボクがセリシールの相手をしていた間、親友は新江崎さんと2人で急降下スライダーを楽しんでいたらしい。恋の言によれば、新江崎さんは話してみると天然な所があるそうで――フライドポテトにフォークがついてこない事に憤慨し「どうやって食べろとおっしゃるの!?」と店員へ食って掛かったらしい――結構楽しかったとの事。
「ううん、こうやって皆で遊ぶのも楽しいし。ふふっ、でも今度は2人で映画に行きたいな。見たい映画があるんだ。ホラーだけどね」
「いいけどさ。でもお前ってホラーの時、いきなり腕を掴んでくるのやめろよな。ボクまでビクッてしちゃうし」
「あはははっ、もうバカだなぁ。それがホラーの楽しみだってのにさ」
嬉しそうに瞳を細めニッコリと笑う恋。ショートジョンタイプの水着姿がまるで女子のように見える。
ふと、すれ違う人たちは恋の性別をどっちだと思ってるんだろうか? と思う。最低でも半分は女子だと勘違いしそうなほど、今日の恋は表情が柔らかくて可愛らしい。
「ん? 何さアキラ。ボクの顔って何かついてんの?」
「あ、いや。べつに何もっ」
「ふーん、ならいいけどさ」
思考を切り替える為に頭を軽く振り、たどり着いたプライベートルームのチェアへ金髪の少女を横たえる。うたた寝から完全な睡眠に移行したらしく、セリシールは全く目覚める様子もない。
閉じた瞼のまつげは長くて美しいカーブを描いている。本当に人形のような可愛らしさ。全く……寝顔だけなら文句なく天使だと思う。
「……あうっ、せんぱぃ」
「ん?」
ムニャムニャと寝言を呟いている少女。それはフランス語で上級者、先輩などを意味する単語。学校の夢でも見ているのか? ため息をつきながら軽く金色の髪を撫で、少女のカラダへと大きめのタオルを掛ける。
その時、背後から親友の少し困ったような声が響く。
「あのさアキラ。やっぱキャップがキツくって。ちょっと見て貰っていい?」
「うん。後ろから?」
「あ、うん……」
恋のあまりにもほっそりとした背中――首から下の日焼けしていない真っ白な肌が目に入る――のギリギリへと立ち、ボクは両手で一度スイミングキャップを外す。
茶色で柔らかな恋の髪を少しまとめ、耳へ軽く触れながらキャップを被せようとする。
「んっ、ちょっとくすぐったい……」
「おい、動くなよっ。こらバカ」
「うぅ、ん、あははっだって耳がさ。やん、変なトコ触るなっ」
「お前が動くからだろっ」
くすぐったいのか痛いのか? とにかくジタバタと親友は褐色の手足を動かす。ボクは負けじと、恋の華奢で引き締まっているのに、でもどこか柔らかいカラダを半ば押さえつけるようにする。
そもそも親友から頼んできたってのに、ここまで拒否される意味が解らない。広いプライベートルームの中で、少し意地になったボク達は普段と同じようにはしゃぎまわる。
「あーあ、捕まっちゃったよ」
「バカ、無駄に体力を使わせんな」
ドア近くの壁際へ追い込み、無理やり親友の頭へキャップを被せていく。当初とは違い、真正面からボクを見上げている体勢。背の低い恋の少し茶色の瞳が、下方向から見つめてくる。
全力で走り回った為か、ハァハァという恋の吐息が胸へと当たって温かい。
「……アキラ、やさしくしてね」
「なんだよそれ」
互いに笑いながらパチンとゴム製の帽子を装着。恋は具合を確かめるように、右手で何度も頭部を触っている。そして、まあまあかな? という少し意地悪っぽい微笑みを浮かべてボクを見た。
「ま、アキラがせっかく頑張ったんだから妥協してあげる。うんっ」
「よく言うよ」
軽口を叩きつつ、テーブルへ置いてあったはずのグァバジュースを探す。が、そこには空のグラスが置かれているだけ。たぶん、不貞腐れた桜に飲まれてしまったのだろう。
ピンク色の果汁、少しピーチに似た味わいと南国系フルーツ特有の芳醇な香りが相まって、とても美味しかったのに。
仕方ないかとあきらめ、休憩をするという恋にセリシールの子守を任せ、フードコートへ向かう事にする。が、戸口から出た瞬間、
「兄さんっ、捕まえた」
「うおっ!」
「もう、柊クンってあい変わらず鈍いのね」
がっしりと桜に腕を掴まれる。そして正面には新江崎さんが立っていた。ピンクとブラックのチェック柄水着へ姫の長い髪が流れ、直視できないほど艶かしい雰囲気。
あきれたようにため息をつきながら、その黒髪を耳へかける新江崎さん。そっちの方向を見ないようにしながら、ボクは腕にしがみ付いている桜へ文句を言う。
「邪魔だよ、バカ桜。つーかお前、ボクのジュース飲んだだろ? 弁償しろよ!」
「えぇ? 私マンゴーは好きだけど、グァバは微妙だったから飲んでないもんっ」
「嘘つけよ」
恋は知らないと言っていたし、セリシールはずっとボクといた。なら鍵を持っているのは、桜か新江崎さんしかいない。ということは、まさか……?
「……ひょっとして新江崎さん?」
「――っっ、し、知らないわよっ!」
やばい……。メチャクチャ不機嫌そうに怒鳴る姫。逆鱗に触れたのか耳まで赤く染め、ピンク色の唇を指で触りながら反論してきた。
まあ確かに新江崎さんが飲むはずが無い。完璧なるお嬢様で育ちのよい彼女が、他人の使ったコップへ口をつける? それは絶対にないだろう。
「ごめん」
「掃除の人が片付けてくれたんじゃない? 兄さん、そんなのどうでもいいからスライダー、絶対に一緒に滑ってもらうからね!」
「私は少し……疲れたから休むからっ」
早口で言い放ち、新江崎さんはトイレの方向へとすごいスピードで歩んでいく。その後姿を見ながら、ボクはズルズルと桜に引っ張られてスライダーへと進む。
「ああもうっ、痛いからひっぱるなよ」
「なによっ、兄さんがフラフラしちゃうのがいけないんでしょ!」
腕を組んだまま耳元で怒鳴る幼馴染。兄妹げんかに見えたのか、周囲の大人達にクスクスと笑われてしまう。生温かい視線が無性に恥ずかしい。
それは桜も同じ様で、頬を赤く染め不機嫌そうにボクを睨む。
「もうっ、全部兄さんのせいだからね!」
「なんでだよ」
ぺちゃくちゃと互いを口で罵り合いながら、でもなんだか心が安らいでいく。やっぱり桜とは長い付き合いだけあって、遠慮する必要がなくて楽だ。ふくれっ面の桜に足を蹴られ、ボクはお返しにこちょこちょとくすぐる。普段と同じ、ありふれたじゃれあい。
そんな事を続けていると、いつのまにかスライダーの順番が迫る。
「ね! 次だよっ」
「わかってるってば」
幼馴染の右手を強く握り、轟々と激しく水が流れているスライダーを覗き込む。やはり低学年用とは違い、かなり角度があって水の勢いも強い。チラチラと互いに視線を交差させながら、ゆっくりと足を踏み出す。
「きゃっ」
「おっ!」
流れ落ちる水からグンッと足を引っ張られる。が、手すりを掴んでしっかりとスライダーへ腰を下ろす。しかし桜が酷い。全く手すりを掴まず、ボクの腰に両腕を回してきた。
「ちょっ」
「えへへ、いくよ!」
「うわ!」
そのままドンッとスライダーの中へ滑り落ちる。桜は、きゃあきゃあとはしゃぎながらボクの背中に爪を立ててしがみ付く。グルグルと目まぐるしく景色が変わり、あらゆる方向からGがかかる。
僅かの恐怖と問答無用の面白さ。ボクも大声で叫びながら桜の体へ抱きつき、2人一緒にプールへ向かって滑り落ちる。全身に降りかかる水の冷たさ……けれど桜と抱き合っている部分だけは温かい。
「――ッッ!!」
ごぼんっと音を立ててプールへ着水。互いに口から泡を吐き出しながら、手足をバタバタと動かしつつ笑い、水面へ顔を出す。
しっかりと手をつなぎあったままで。
◆◆◆◆
プールで遊んでいる時は全く感じないのに、普段着へと着替えて数分が経過すると、途端に全身が重くなる。やっぱり全身運動と言われているだけあって、体の隅々まで疲労しているんだろう。ただ、遊んでいる時は気付かないだけで……。
施設の駐車場入り口、沢山の自動販売機が並んでいる前へ立つボク達。疲労を感じながらも、皆でロリス先生とセリシールへ別れの挨拶を行っていた。
「それじゃ皆さん、また学校で」
「はい」
「……ノン」
ニコニコと微笑んでいるロリス先生とは対称的に、不機嫌な様子を見せているセリシール。青い瞳が少し潤んでいるようにも見えた。まるで泣くのを我慢しているよう。
最初はこの少女に振り回されたけれど、最後には皆と少し打ち解けた様子だった。何と言っても低学年だし、やっぱり寂しいんだろう。
「ねえ、遊びに行ってもいい?」
「うん」
少女の寂しそうな青い瞳に胸が痛む。前までのボクなら関係ない……と割り切っていたかもしれない。けれど、この数ヶ月の出来事で何か変わってしまった。
隣を見れば桜も頷いているし、ボクは手を伸ばしてセリシールの髪を撫でる。
「ボクも待ってる。夏休みになったらおいでよ。一緒に遊ぼうね」
明るく恋も言う。その横へ立っている新江崎さんまで、どこか優しく微笑んでいた。やっぱり皆で来て良かった……と強く思う。
「それじゃセリ。帰りましょう」
「……待って」
寂しそうな声とともに、ほんの軽くボクの手が握られる。青い瞳から一筋の涙がポトリと落ちていく。そして、何か小さく口を動かす。何て言っているのか聞こえなくて、ボクは身をかがめて少女の口元へ耳を寄せる。
「Je suis amoureuse de toi」
「え!?」
驚きを表情に出さないように、必死で自制する。それというのも、こんな少女が言うにはそぐわない意味だから。けれど声の響き、青い瞳は真剣そのもので、ボクは混乱してしまう。
「それじゃあ皆さん、またね。今日はありがとう!」
ふんぎりをつけたように大きい声で言い、父親の車へ乗り込む少女。金色の髪をなびかせながら車窓の中からブンブンと手を振る。
いよいよお別れ……と思い、ボクも皆と一緒に手を振り返す。しかし予想に反し、運転席の窓が開いてロリス先生が顔を覗かせた。
「どうしたんですか、先生?」
「ああ、言うのを忘れていた事がありまして」
人のよさそうな顔でにっこりと微笑んでいる先生。それは今日さんざんに見てきた愛娘を自慢する時の顔……。
何故だか少しだけ、嫌な予感がする。
「セリなんですが、フランスで小学校の教育課程を全て終わらせてます。なので、来年からはジュニアハイスクール。つまり桜さんの一学年上になりますから」
「へ? どういうこと」
少し意味が解らない。隣の桜と目を合わせながら首をかしげる。つまり……?
「来年、先輩と同じ中学校に編入するからっ」
「――っ!?」
元気に響くセリシールの声。その言葉に驚き、返事をする事も出来ない。今度こそ遠ざかっていくプジョーの後姿を、ボクはただ呆然と見つめていた。
※作中の医療行為、術式手順などはフィクションです。実際とは異なるところがあります。
※ブログからの転載になります※
※4/19にXXX板へIF√を投稿しています。見てなくて興味がある方は読んで貰えたら嬉しいです。ただし18禁です。
※面接終了しました。温かい励ましありがとうございます。更新がんばります><