人のいない都市は静まり返っている。
静寂の中、レイフォンは月明かりに照らされた街並みを宿泊所の屋上から見下ろしていた。
都市内に光源は無い。 レイフォン達のいる建物にはまだ電気が通っていたが、使う者のいなくなった所には一切の光も灯らない。
(襲われてる都市や滅んだ都市を外から見たことはあるけど、内側から見たのは初めてだな……)
汚染獣によって、滅ぼされた都市。
通りに並ぶ建物はことごとく打ち壊され、市街地には無数の爪痕が残されている。
それを見ていると、胸の内に形容し難い空虚さと寂寥感が込み上げてくるのを感じた。
(どんなに平和でも、どんなに栄えていても、滅ぶ時はあっという間か)
そんな風に考えると、自分たち人間が躍起になっている都市同士の争いが不毛にすら思えてくる。
どれほど戦い敵を倒しても、所詮は一時限りの平和を得られるだけ。 いずれ来るであろう滅びの運命からは逃れ得ないのかもしれない。
ならば自分たちは何故、一体何のために戦っているのか………
そこまで考えて、レイフォンは首を振って思考を打ち切った。
それから視線を巡らせ、都市の中央にある建築物を見やる。
この宿泊所からほど近い、せいぜい歩いて五・六分という距離にその施設はあった。
ここから見ても分かるが、随分と大きな建物だ。 おそらく余程重要な施設だったのだろう。
そのビルも今やすでに無人となっており、内側から光が漏れることはない。
(いや……)
無人と断言することはまだできない。
あのビルはフェリの念威の力を以ってしてもなお内部を調べられなかった場所だ。
どんな存在が待ち受けているか予想もつかないし、もしかすると、何かしらの事情で姿を隠していた生存者が見つかる可能性もある。
なんにせよ、明日の調査はあの建物がメインだ。 隅から隅まで調べれば不可解な謎も解けるかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと、背後に近付いてくる人の気配を感じた。
「夜の一人歩きは危険ですよ」
背中へとかけられた声に、レイフォンが振り向く。
「まぁ、あなたに限って危ない目に遭うとは思いませんが」
屋上扉から出て来たフェリがレイフォンの傍まで歩いてきていた。
シャワーを浴び終わった所といった様子で、僅かに頬が火照っている。
彼女が隣に立つと、髪からはほのかなシャンプーの香りがした。
「…………」
お互いに言葉はなく、静かな時が流れる。
しかしそこに居心地の悪さは無い。 ただ無言で、眼下の風景を見下ろしている。
そのままどれくらい経っただろうか、やがてフェリの方から口を開いた。
「……先程の話」
「え?」
「失敗というのは、闇試合のことだったんですね」
「ああ」
そういえば、フェリには以前武芸を捨てようと思った事情について、断片的にではあるが話したことがあったのだった。
グレンダンで大きな失敗をしたこと。 それが理由で武芸者を辞めようと思ったこと。
「どちらかというと失敗したのは闇試合よりも天剣争奪戦の方でしたけど」
苦笑を滲ませながらレイフォンは言う。
闇試合に出ていたことは今でも後悔していないし、間違っていたとも思わない。
たとえ誰が何と言おうと、レイフォンにとって必要なものを得るためには、他に方法が無かったのだ。
いや、もしかすると方法はあったのかもしれない。 だが当時のレイフォンに、あるかどうかもわからない手段を探るような余裕はなく、多少のリスクを伴ってでも、あると分かっている方法を選ぶしか道が無かった。
「とはいえ、どこが失敗だったのかは、今でもまだはっきりとはわからないんですけどね……。 ガハルドに脅迫された時、僕は秘密の露呈を恐れて、全てを闇に葬ろうとしました。 けれど、それが正しかったのかどうかは、今になっても分からないんです」
あの時ガハルドを殺していれば……成程、確かにあの場で秘密が公けになることは避けられただろう。
だが結局は、新たにレイフォンを脅迫しようとする者が、それこそ第二第三のガハルドが現れていたはずだ。
人の口に戸は立てられない。 それは十分に思い知ったことだった。 だからこそ、ガハルドは闇試合の真相を知るに至ったのだから。
次に現れた脅迫者や告発者が、ガハルドよりもさらに悪質な者だった可能性もあった。 あるいは脅迫などせず、即座に公表する者だっていただろう。
その全てを合法的に消すことなど、到底レイフォンには不可能だ。
仮にそれが可能だったとしても、そんなことを繰り返していては、レイフォンと闇試合の関係を女王に知られるのは時間の問題だったろう。
……いや。 あの女王のことだ。 ガハルドが告発するよりも前から、闇試合について知っていてもおかしくはない。
もしそうだとするならば、何故女王は黙認していたのだろうか? それはわからない。
だがそこにどんな理由があるにせよ、事実が公表されてしまえば同じことだ。
仮に女王が闇試合の存在を知った上で、何らかの事情でそれを見逃してくれていたのだったとしても、レイフォンの罪が公けになれば、裁かないわけにはいかない。
公けにならずとも、次から次へと秘密を知る者を口封じのために殺したりなどすれば、流石に女王も止めに入るだろう。
つまりはあの時あの時点で、すでにレイフォンの立ち位置は八方ふさがりだったのだ。
ならば、結局自分はどうすべきだったのか……それはつまり、どうすれば最も上手く立ち回れたのか……
「素直に罪を認めて陛下に自首するべきだったのか……それとも、もっと確実な方法でガハルドを殺すべきだったのか……おとなしく言いなりになって、天剣を譲るべきだったのか……僕は、どうすべきだったんですかね……?」
フェリは答えない。 答えられないのだろう。
当然だ。 レイフォンの立場を自分と置き換えて考えることなど誰にもできはしない。
ましてや育った環境も生きてきた世界もまるで違うフェリやニーナなら尚更だ。
それでもレイフォンは訊いてしまった。 あの時、自分はどうすればよかったのか………
選択肢はあった。 自分はその一つを選んだ。 その結果が、グレンダンの追放だ。
他の選択肢を選んでいれば、こうはならなかったのだろうか。
けれど、結局はそのどれを選んだのだとしても、全てが上手くいく手段などなかったようにレイフォンは思う。
どの手段を取ったとしても、自分の中で、あるいは自分の周囲で、何かが壊れ失われる結果となっていただろう。
あの時どのような選択をすれば最善と言えたのか、今になっても確かな答えは出ない。
ただ……結果的にレイフォンの選択によって崩壊し失われたものは、兄弟たちとの関係、そしてレイフォン自身の地位と名誉だけだった。
「まぁ、今更考えても栓の無いことなんですけどね。 失敗したと言っても、僕自身は今の境遇に不満はありませんし」
レイフォンが一番に守ろうとしていたものだけは、守り切ることができた。
ならばこの選択の結果は、最善ではなかったかもしれないが、最悪と言うわけでもなかったということなのだろう。
失敗したのは確かだが、少なくともレイフォンにとっては致命的な過ちではなかった。
最悪さえ避けられたのなら、自分自身が追放されたことなど些細なことだ。
「……随分と自分を突き放しているんですね」
「え?」
「何があなたをそこまで駆り立てたのですか?」
フェリが感情を感じさせない、しかしどこか切迫したような声で問いかける。
「生きることに執着するのは人として当然だと思います。 けれど、それにしてもあなたの生に対する執着、そしてそれ以上の家族に対する献身は尋常とは思えません。 生きるためなら罪を罪とも思わない。 家族を守るためならその家族に恨まれることも厭わない。 それほどの覚悟、誰にでもできるようなことだとは思えません」
「それは………」
レイフォンは僅かに言い淀んだ。
視線をフェリから外しながら胸の内で考える。
自分がそこまで生に執着するのは何故なのか……金銭に固執するようになったのは、いつからだったか。
何が、レイフォン・アルセイフの心と生き方を形作ったのか……
「………昔、僕がまだ武芸者として前線に立つよりも前、グレンダンでは深刻な食糧危機が起こったんですよ」
「食糧危機?」
意味としてはわかるが聞き慣れない単語にフェリが首を傾げる。
「ええ。 七、八年くらい前でしたか、突然都市中に原因不明の伝染病が流行って、グレンダンの生産プラントが大打撃を被ったんです。 都市全体で食糧が不足して、多くの餓死者が出ました。 市場や流通は完全に麻痺し、食糧は配給制に……けれど、当然ながら都市に全ての住民を養うだけの食糧は無い。 そしてグレンダンはあらゆる都市の中でもっとも汚染獣との交戦が頻繁に起こる。 自然、食糧の配給は武芸者が優先されて、それ以外の者は後回しにされました」
日常的に汚染獣と遭遇を繰り返すグレンダンでは、武芸者の減少による戦力の低下は致命的だ。
ゆえに他の都市以上に都市戦力の維持が重視される。
そしてレイフォンは、孤児院の中で一人だけ、他の兄弟たちよりも多くの食料を食べることができた。
ただ武芸者だったからというだけで……ただ、剄脈を持って生まれたというだけで。
「皆は……僕が武芸者だというだけの、ただ剄脈を持って生まれたというだけの理由で、他の人よりもたくさんのご飯が食べられたことを責めようともせず……ただ、たくさん食べて、強くなって、グレンダンを守ってくれって………」
レイフォンの声が微かに震える。
他者より多くの食糧を都市から支給されたレイフォンは、それを孤児院の皆で食べるように主張した。 食糧は自分だけではなく、家族皆で分け合うべきだと。
だが、その主張は受け入れられなかった。
養父も、兄弟たちも、レイフォンが分けようとした食糧を拒み、皆頑なにレイフォンが自分で食べるようにと言い聞かせた。
レイフォンは武芸者だから、汚染獣から都市を守る存在なのだからと、そう言って。
しかしそれはレイフォンにとって耐えられないことだった。
自分が心の底から守りたかったのものは都市などという曖昧で漠然としたものではない。 目の前にいる家族たちだ。
その家族が満足に食べることもできないのに、自分だけがお腹一杯食べるなど、とても許容できるものではなかった。
ましてや、当時まだ戦場に出たことも無かった、ただ剄脈があるというだけの自分が……
その時の経験が今のレイフォンの価値観を形作ったと言える。
武芸者であるがゆえに兄弟たちの犠牲の中生き延びたレイフォンは、その武芸の技を以って仲間を守らなくてはならない。
だからこそ、生きるために守るために、武芸者としての力も立場も最大限利用することを決めた。
その時、家族を守りたいというレイフォン自身の願望と、戦いを生業とする武芸者としての存在意義が、レイフォンの中で完全に一致したのだ。
「やがて食糧危機が収まって流通は再開しましたけど、しばらくは物資も不足がちで物価は高いままでした。 これ以上家族が死ぬのは耐えられない。 けれど、皆が満足に食べるにはたくさんのお金がいる。 幸い、僕には他の人よりも遥かに優れた武芸の才がありました。 どんな都市でもそうであるように、グレンダンダンにおいても、やはり武芸は金になる。 公式戦で勝てば賞金がもらえるし、汚染獣戦に参加すれば報奨金が得られた。 だから僕は、武芸で稼ぐことにしたんです」
そこから先は、ニーナたちにも話した通り。
初めて公式戦に出た八歳の時から二年間、レイフォンはあらゆる大会に出場し、その全てで勝ち抜いた。
汚染獣戦にも幾度となく参加した。 普通ならば前例の無い、ありえないような若さではあったが、レイフォンの境遇と才能がそれを可能にした。
けれど………
「けど、それじゃ足りなかった。 そもそも、たとえ食糧危機がなかったとしても、孤児院が貧窮していたことに変わりはないんです。 僕一人で全ての兄弟たちを養うには、どうしても限界があった」
レイフォンの養父は清貧を旨とする武芸者だった。
お金に関して、良く言えば潔癖、悪く言えば無頓着。
そんな父だったから、いろんなところで金銭的な問題が出てくる。
レイフォンのいた孤児院は経営が苦しく、常に貧しい思いをしていた。
だからといって父を恨んでいるわけではない。
無口で、無愛想で、不器用で……だけれどとても優しく、孤児院にいる血の繋がらない全ての孤児たちを、本当の息子や娘のように愛してくれる。
そんな養父をレイフォン達も愛していた。 孤児院に住まう血の繋がらない兄弟たちはみな、デルクを本当の父親のように慕っている。
レイフォンも、他の孤児たちも、自身の損得を顧みないデルクのその優しさに救われたのだから。
恨みは無い。 グレンダンを出た今でも、レイフォンは心の底からデルクを愛している。
武門を継ぐことは拒んでも、レイフォンはデルクを本当の父親だと思っているし、武芸者として尊敬してもいる。
だがあの時のレイフォンは、父を敬愛すると同時に、父のようなやり方では家族を守りきれないとも感じていた。
父の潔癖さを間違いだと思っていたわけではない。 ただ貧しさに対する焦りと、恐怖だけがあった。
「ある日遂に、もっとも恐れていたことが起こりました。 何よりも守りたかった人が……誰よりも多くの時間を共有し、大切に思っていた人が………飢えによる病で命を落としたんです」
仲間であり、姉弟であり、同時にそれ以上に大切な存在だった少女……リーリン。
当時のことは今でもはっきりと覚えている。
ある日突然、数多の汚染獣が現れ都市を襲い、その対処に多くの武芸者たちが戦いに駆り出されたのだ。
戦いは丸二日にわたり、その間、都市民たちは地下のシェルターに避難していた。
当然ながらその戦闘にはレイフォンも参加していた。 そして彼が都市外に出ている間に……彼女が倒れたのだ。
ただでさえ普段から家族皆の生活を支えるために幼い体を酷使していた。 その上シェルターに避難している間も、少ない食糧を弟妹たちに優先して分け与えていたのだ。
そんな環境に成長途上の体が耐え切れるわけが無い。 そして、とうとう限界が来たのだ。
汚染獣を倒し、報奨金を手に家に戻ったレイフォンが見たのは、衰弱してベッドに横たわる彼女と、険しい顔で傍に立つ養父、その周りで悲しみに沈む弟妹たちの姿だった。
決して助からない命ではなかった。
不治の病というわけではない。 多少高価ではあっても、薬を使い、適切な処置さえすれば治せる病だった。
十分な栄養を得られるだけの食事を取れば、人並の体力さえあれば、発症すらしない病気だった。
それなのに命を落としたのは、お金が無かったからだ。
必要なのは正義でも名誉でもない。 金だ。 金さえあれば家族を守ることができる。
そして金を得るには戦うしかなかった。 戦い以外の手段を、レイフォンは知らなかった。
「それからの僕は、ただひたすら戦いに明け暮れました。 何よりも誰よりも強くなる。 そうしないと、また誰かが手のひらの上から零れ落ちてしまう。 そんな強迫観念に駆られて、僕は自身の技を高めることと、その技でお金を稼ぐことに邁進しました」
レイフォンが天剣授受者となったのは、リーリンの死から半年ほど経ったころだった。
そして天剣となってすぐ、闇試合にも出場するようになった。
皮肉なものだ。 ようやく家族を守れるようになったと思ったら、その時にはすでに最も大切な者を失ってしまっていた。
けれど、だからといって戦うことを止めるわけにはいかなかった。
レイフォンには、まだ他にも守らなければならない者たちが大勢いる。 彼らを見捨てることなど出来るはずが無い。
粉々に砕けて歪んだ心を引き摺りながら、それでもレイフォンは戦い続けるしかなかった。
「闇試合に出ている時も罪の意識はありませんでした。 それが倫理的、法律的に見て悪いことであるは知っていましたが、僕にとってはそれ以上に、家族の方が大切でしたから」
けして法や倫理を軽んじているわけではない。 レイフォンとて、何らかの事情が無い限りは、可能な限り法や倫理に従って行動している。
ただあの時……食糧危機が起きた時、政府や法律はレイフォン達を……レイフォンの家族を守ってはくれなかった。
別にそれを恨んでいるわけではない。 彼らは民を救わなかったのではなく、あの時の都市には全ての都市民を救うだけの力が無かっただけだ。
ゆえに、レイフォンは自身の力で仲間たちを守っていかなければならないと感じた。
都市に頼ることはできない。 だからこそ、何物にも頼らず、自分の力だけで家族を守る方法をレイフォンは求めた。
そして見つけた。 自身の超絶的な剄の力を利用して家族を守る方法を。
たとえそのために法を破ることになろうとも、己の価値観に従い行動した。
幼くして強大な力を持ち、類稀な才能に恵まれたがゆえに、レイフォンは己の力だけを信じるようになってしまったのだ。
フェリはしばらく口を開けなかった。
脳裏に先程の部屋でのレイフォンの言葉が甦る。
多くを失い、誰かに頼ることもできず……そして自身があまりにも才能に恵まれてしまったがゆえに、レイフォンは進む道を歪めてしまった。
そしてこれこそが、一度はレイフォンが武芸を捨てようと思った理由なのだろう。
あまりにも強く抱いた理由で戦ってきたがゆえに、その理由を失った途端、戦うことができなくなってしまった。
彼の戦う動機はどこまでいっても家族のためであり、家族のために戦うことができなくなった時点で、戦う理由は完全に失われてしまったのだろう。
彼は強かったからこそ、幼くして戦場に出られた。 そして幼くして戦場に出てしまったからこそ、武芸者として当然の考え方ができなくなったのだ。
それが幸福なのか不幸なのか、そこまではわからない。
弱ければ都市を追放されずに済んだのかもしれない。 だがそれでは、家族を守ることはできず、もっと昔に無力感で押し潰されていたかもしれない。
いや、すでに結果が出ている以上、それ以外の場合を想像しても意味はないだろう。 仮定の話をいくらしても仕方が無い。
今わかるのは、レイフォンの武芸を捨てた理由が、フェリとはあまりにも違っていたということだけだ。
「それにしても……やはり解せませんね」
そしてもう一つ、疑問がある。
「何がですか?」
「あなたが法を犯してまで……いいえ、多大なリスクを犯してまで金銭に固執した理由です」
あくまで声音は冷静なままだが、フェリの目はまっすぐにレイフォンを見ていた。
「先程、天剣授受者といっても報酬なんて微々たるものだ、というようなことを言っていましたが、仮にも最強にして最高位の武芸者の称号。 言うほど収入が低いとは思えません。 少なくとも家族を養う分には十分な報酬を得られるのが普通ではないですか? それとも、本当にそこまで生活が厳しかったんですか?」
グレンダンは他のどの都市よりも武芸が盛んな都市。
どこよりも武芸者の数が多く、どこよりもその質は高い。
だがだからこそ、武芸者一人一人に与えられる価値は他の都市よりも低いのかもしれない。
ゆえに天剣といえども、さほど贅沢ができるような立場ではないのかもしれない。
だがそれでも、やはりその地位は特別なものであるはずだ。
一般家庭よりも大勢の孤児がいるとはいえ、全員がまともな生活も送れないほど天剣の俸給が安いとは考えにくい。
フェリの問いに対し、レイフォンは僅かに逡巡したが、やがて小さく嘆息してから口を開いた。
「確かに、天剣授受者は基本給も戦場報酬も普通の武芸者より遥かに上でしたよ。 自分のいた孤児院にいる孤児たちを養うだけなら、天剣だけでも十分だったでしょうね。 けれど強くなって、多くの者たちを守れるようになって……それだけじゃ満足できなくなったんです。 欲が出たんですよ」
「欲?」
一瞬、フェリはレイフォンが初めて手にした大金に目がくらんだのかと思った。
だが、実際は違った。
「僕が武芸者として戦場に出るようになって、確かに僕のいた孤児院は潤いました。 天剣授受者になって、お金に困ることはなくなった。 飢えることも凍えることもなく暮らしていけるようになった。
けど、それはあくまで僕たちだけの話。 グレンダンには貧窮している孤児院なんていくらでもある。 自分たちが飢えなくなったからといって、他の孤児たちが尚も苦しんでいるのを、放っておけなくなったんです。 僕にとっては、グレンダン中の孤児全てが家族であるように感じてしまったんですよ」
それは憐憫か、同情か、それとも共感か。
あるいは同じ境遇であることへの仲間意識か。
確かなことは自分でも分からない。 ただあの時は、彼らを放っておくことがどうしてもできなかった。
グレンダン中の全ての孤児を救わなければならないと、そう思ってしまった。
「………それで、闇試合に?」
「ええ。 大金を稼いで、寄付としてグレンダン中の孤児院に配りました」
人によってはそれを偽善と評す者もいるのかもしれない。
けれどレイフォンにとっては他者の評価などどうでもいい。
ただ見捨てられなかったから、助けたいと思ったから助けた。 それだけに過ぎない。
偽善であろうとなんであろうと、助けたいと思った者たちを助けられたのならそれで十分だ。
「それは……むしろ、褒められてもいいことだと思うのですが……。 グレンダンの人々は知っているのですか?」
レイフォンの話を聞いたフェリは怪訝そうに首を傾げる。
「いえ、都市民たちは知らないと思いますよ。 僕も別に大っぴらに宣伝して回ったわけではありませんし」
事情を知っているのは、レイフォンに直々に尋問を行った女王と、そこに居合わせた天剣達だけだろう。
あるいは彼らが他の者にも話したのかもしれないが、それだけで都市民たちのレイフォンに向ける感情が劇的に改善されるとも思えない。
それほどのことを、レイフォンは大勢の都市民たちの前でやったのだ。
「何故ですか? 本当の事情を話していれば、情状酌量は得られたでしょうし、少なくとも都市中から非難されるようなことにはならなかったと思いますが」
「いえ、所詮は犯罪で稼いだお金です。 たとえ正しい目的があったからといって、どんな行いも許されるというわけではありませんよ。 ニーナ先輩が言っていた通り、目的が手段を正当化するわけではありません。
それに、所詮は自己満足です。 正義感とか道徳意識でやったわけじゃありません。 ただ、色々失ってきたから……他の人が、自分と同じ立場の者たちが失っていくのを黙って見ていたくなかっただけ。 ただ僕がそうしたいと思ったから実行しただけなんですよ」
レイフォンがやったことは、どこまでいっても犯罪行為であり違法行為。
加えて、その目的はあくまでも自分のため、自己満足のためにやったことに過ぎない。
言い訳しようが弁解しようが、それこそが覆しようの無い真実。
「それに僕がグレンダンを追放された本当の理由は、闇試合に出たことでも争奪戦でガハルドを斬ったことでもありません。 大勢の一般人の目の前で、武芸者の恐ろしさを見せつけてしまったことです」
「……それは、どういう?」
ピンとこないのだろう、フェリは再び首を傾げる。
「世間的に見て、僕のやったことは悪いことです」
「そうですね。 少なくとも品行方正を旨とする武芸者としては、あまり褒められたことではなかったかもしれません」
「では、何故それで僕が追放になったか分かりますか?」
「え? それは……」
フェリは僅かに思考し考えを纏める。
「……グレンダンの天剣授受者という地位がとても特別なもので、同時に武芸者全体の模範にならなければいけないから、でしょうか」
「まぁ、対外的にはそれで合ってますね。 『天剣授受者がグレンダン武芸者の代表的立場にいる以上、グレンダンの武芸者たちの規範とならねばならない。それを破ったレイフォン・アルセイフには天剣授受者たる資格なし。 天剣没収の上、都市外への退去を命じる。 猶予は一年』」
女王陛下の、どこか白々しさを感じさせるセリフを思い出しながら、レイフォンは言う。
「対外的……というと、本当の理由が別にあると?」
「ええ。 というか、そもそも天剣授受者の連中に一般的なモラルなんてものはありませんよ。 そんなものは選考基準にもありません。 彼らに求められるのは汚染獣に立ち向かう強さだけ。 品行方正で高潔な精神の持ち主なんて、僕を含めた十二人の中でもほんの僅かです。 ……とはいえ、当たり前ですが犯罪に手をつけたりはしないんですけどね」
最後はやや自嘲気味に、レイフォンが言う。
「普段から模範的な武芸者らしく振る舞っている人もほとんどいませんよ。 一日中家にこもってソファに寝転がってる人とか、天剣就任直後に女王に喧嘩売って戦いを仕掛ける人とか、毎晩女性をとっかえひっかえしている人とか、やたらと口が汚くてくそくそ連呼する女性とか……それこそモラルや規範なんて言葉を歯牙にもかけないような人たちばかりです」
生まれつきの強者には変人が多いのか、それとも強さゆえの周囲の環境がそうさせるのか。
どちらにせよ、天剣授受者の連中には変わった性格の、それこそ人間性に難のある癖の強い者が多いのは確かだ。
少なくとも普通の武芸者や一般人とは思考回路すら違うのではないかと思わせることもある。
自分自身にしたところで、模範的な武芸者らしいとはとても言えないだろう。
我が身を振り返りながら天剣連中のことを頭に思い浮かべて苦い顔をしているレイフォンに、フェリはとりあえず気になったことを訊いてみた。
「……女王に反逆するのは犯罪では?」
「あの女王に限って言えば、罪にはなりませんでしたね。 別に王座を狙って反逆したわけでもありませんし」
現在の女王、アルシェイラ・アルモニス陛下は、歴代でも最強と呼ばれる王であり武芸者だ。
その力は天剣授受者をも凌駕し、実力者にして問題児ぞろいの天剣たちを力づくで従える超越者である。
ゆえに女王は自らに歯向かう者に対し権限や立場を利用した制裁や懲罰を好まない。
文句があるなら腕づくで、不満があるなら力を以って、女王に直接訴え出ればいい。 それら全てを力で潰し、己の決定を押し通すのがアルシェイラのやり方だ。
そうやって自分に挑みかかる者を、むしろ歓迎する節すら見受けられる。 自分を打倒して王座に就くような者が現れれば、喜びこそすれ、それを責めたり恨んだりすることは無いだろう。
ある意味で、実力主義を信条とするグレンダンを象徴するような王だ。
レイフォンもまた全ての罪が明るみになった時、アルシェイラの罰によって打ち伏せられ、大勢の目の前で屈服させられた。
そう……その時に、言われたのだ。
「罰を受けて地面に這い蹲る僕に向かって、陛下は言ったんですよ。
『気付かせてはいけないのだよ。 我々武芸者や念威繰者が“人間”ではないということを、人類に、本当の意味で気付かせてはいけないのだ』って」
「それは……どういう意味ですか?」
やはりピンとこない言葉に、フェリが質問を重ねる。
「問題なのは闇試合に出たことじゃない。 天剣争奪戦での僕の行いだったんです」
「けれど……試合自体は不正もせず、真っ向から戦ったと……」
「そう。 天剣授受者になれるかもしれないと目されていた、グレンダンでも屈指の実力者。 そんな相手をただの一太刀で斬り伏せる。 それが本物の、実際に天剣授受者に選ばれるだけの力を持った武芸者なんです。
武芸者とは外の脅威から都市を守ってくれる存在。 けれどふとした拍子にその力が都市に住まう人々に向けられた時、普通の人間は何一つ対抗する手段を持たない。 だからこそ、武芸者たちは強力な道徳観念で自分たちを律している……少なくとも、律していると人々に思わせなければいけない。 時には犯罪に手を染める者もいるにはいるが、そんな者たちは異端で少数で、たとえいたとしても他の、より多くの武芸者たちに駆逐されてしまう存在なんだと、そう思わせておかなければいけないんです」
そして、実際その通りなのだ。
道を踏み外す者の方が少数であり、大半の武芸者は自らを強く律している。
それはただ単に武芸を神聖視しているからという理由だけではない。 そうしなければ、都市運営が成り立たないからだ。
そこにあるのは単純な合理的思考。
「けれど、もし天剣授受者ほどの実力を持った武芸者が犯罪に走ったら、誰にもそれは止められない。 並の武芸者が束になってかかったところで、彼らの前では何の意味も無い。 そしてそういう犯罪に手を染める異端が天剣授受者にもいるなんてことが都市民たちに分かったら……天剣授受者の圧倒的な剄の前では、武芸者たちの律なんて笑って無視できるものなのだと知られたら……そして、そんな天剣授受者が他にもいたらどうなるか……
そんなことに気付かれたら、都市はもう終わりですよ。 都市民たちの間では暴動が起こり、都市全体の機能が麻痺してしまうでしょう。 そうなれば一般人も武芸者も終りです。 都市は、戦争でも汚染獣でもなく、人の暴走によって破滅に向かう」
人は弱い。 武芸者の守護なくしては、汚染獣や戦争の脅威から逃れることはできない。
武芸者もまた弱い。 人がいなければ、社会を維持することもできない。 戦う力だけでは、都市は存続できないのだ。
群れなければ生きていけないのは人も武芸者も同じ。
互いが生きていくためには、この共生関係を維持し続ける他に道は無い。
「だからこそ、僕の行いは都市にとって見過ごせない問題だったんですよ。 大勢の一般人の前で、全力の力でガハルドを斬る。 殺す気で、口封じのために。 そしてそれは都市民たちに、気付かせてはいけないことを知らしめてしまう行為だったんです。
天剣授受者である僕が武芸者の律を犯し、その秘密を知ったガハルドを口封じのために殺す。 ガハルドは……グレンダンでも指折りの武芸者ですら、天剣授受者の力の前ではまるで抗することもできない。 それを僕は大勢の目の前で証明してしまったんですよ」
天剣授受者という存在の恐ろしさを、本当の意味で都市民たちに教えてしまった。
それがレイフォンの失敗であり、女王ですら許容できなかった、レイフォンの罪。
「……実際、全ての罪が明らかになった時、陛下が即座に僕から天剣を剥奪して追放を決定しなければ、それこそ暴動になっていたかもしれないんですよ。 あの事件以来、僕はずっと表に出ないようにしていたし、陛下も監視という名目で僕に天剣を張り付かせていたから、それを防ぐことはできましたけど」
逆に言えば、そのどれかが違っていたら、それこそ都市に深刻な事態が引き起こされていたことすら予想された。
「そういう意味で、僕のやったことは都市にとって非常に危険な行為なんですよ。 だから酌量の余地もなく、僕はグレンダンを追放されたんです」
「……そうですか……」
レイフォンの行いの意味、それは理解した。
だが、今ここで問題となるのはそのことではない。 グレンダンで起きたことは、すでに過ぎてしまったことだ。
重要なのは彼の過去の行いが、ツェルニにおける彼の生活にどんな影響を与えるかだ。
「……それでも、あなたが闇試合に出た理由を知れば、隊長もあなたへの評価を改めると思いますが」
「それで、また相手に期待させて、失望させろと?」
突然硬くなった声に、フェリが言葉に詰まる。
構わず、レイフォンは寒気すら感じさせる声音で続けた。
「生憎と正義の味方扱いされるのは御免です。 勝手に祭り上げられて、勝手に期待されて……そしてこっちが向こうの希望通りの人物でないと分かった途端、勝手に失望される。 失望だけならまだいいですけど、声に出して非難までされて、否定されて侮辱される……そんなのはもう御免ですよ」
たとえ悪党と言われようが外道と思われようがどうでもいい。
何と言われようとも、自らの動機と目的のためには手段を選ばない、そんなレイフォンのやり方が変わるわけではないのだ。
だがそれでも、勝手に勘違いされた揚句に罵倒されるのは愉快とはいえない。 形容しがたい理不尽さを感じてしまう。
だからこそニーナに弁解する必要など感じないし、理解してもらおうとも思わない。
先程示した自分を見て、これまでの自分の姿を見て、その上でニーナがすでに判断を下したのなら、レイフォンとしてはもう十分だ。
これ以上自分の事情に関して話すことはない。
「そもそも僕は自分を正当化するつもりはないんです」
ゆえに……自らに対して、断じる。
「僕の行いがどうして悪とみなされるのか理解できないのは確かですが、だからといって自分が絶対に正しいと言い張るつもりもありません。 他人が自分と違う価値観に基づいているからといって、それを非難する気も無い。
……というより、そもそも善悪の区別に興味は無いんですよ。 僕にとって重要なのは僕自身の気持ちと目的だけ。 守りたいものを守り、欲しい物を手に入れる。 武芸も戦闘もその手段に過ぎない」
家族を守るために強くなった。 必要なものを手に入れるために戦いを繰り返した。
レイフォンにあるのは自身の目的意識と感情だけだ。 己の望み、己の願い、ただそれだけを叶えるために戦ってきた。
そこにあるのは単純にして明確な論理。
誰にでもある、個人的な事情。
人によって違うのは、それを表に出すかどうか、小奇麗な建前で包み込むかどうか、それだけでしかない。
少なくともレイフォンは、そう思う。
「……ニーナ先輩に否定されたことだって、僕は別に気にしてませんよ」
口にすると同時に、自分が言うほど平気ではないのだと自覚する。
自分を責める彼女の言葉を思い出し、レイフォンは胸に刺すような痛みを感じた。
やはり親しい者に……少なくともそれなりに好感情を持っていた相手に自分の行いを否定されるのは辛いことだ。 孤児たちに責められた時ほどではないにしても、辛いものは辛い。
そもそも先程の口論で感情的になってしまったこと自体が、自分が動揺し冷静でいられなかったことを表している。
(何を今更……)
そう思わないでもない。
辛いのも悲しいのも覚悟の上で道を選んだのだ。 今更それを悔やむことに意味は無い。
「………隊長は、決してあなたの目指したものを否定したかったわけではないと思いますよ」
それでも、フェリの言葉に揺れる自身の心を自覚せずにはいられない。
「そうかも……しれませんね……」
レイフォンが感情的になってしまったように、ニーナもまた、自身の信じていた者が理想と違い過ぎたことにショックを受けていたのかもしれない。
親しいからこそ憎まずにはいられない。 親しいからこそ、レイフォンの非道を許せなかったのかもしれない。
けれど、それでも……
「……先輩の真意がどうあれ、僕のやることは変わりませんよ。 僕はこれまで通り、自分の目的のために戦う。 自分の望みを叶えるために生きていく。 その過程であの人が敵に回るのなら打ち倒すだけ。 そうでないのなら、あの人がどこで何をしていようと関係……」
「あなたの兄弟たちも、決してあなたを嫌ったわけではないと思いますよ」
フェリの言葉が遮るように切り込む。
「ただ、大好きだった自分たちの兄を失うことになって、自身の感情を制御できなくなってしまっただけで……」
内心の動揺を押し隠すように平静な面持ちを保ちながら話していたレイフォンが、フェリの台詞で一瞬言葉に詰まった。
「………わかってますよ。 なんで皆が僕を責めたのかくらい」
何年も共に過ごしてきた仲だ。 ニーナ以上に、その心情は伝わってくる。
大好きだったからこそ、憎まずにはいられない。
誇りに思っていたからこそ、失望せずにはいられない。
自分たちと同じ孤児院出身の者が都市で最高の栄誉を受ける。 それはグレンダンに生きる孤児全てに希望を与えたことだろう。 それが同じ孤児院に住まう兄弟たちならば尚更だ。
だが、レイフォン自身がそれを奪い取ってしまった。 彼らの誇る英雄と愛する家族を、同時に奪い去ってしまったのだ。
見捨てた、裏切ったと……そう思われてしまっても仕方が無い。
「だけど……たとえ悲しませることになっても、憎まれることになっても、生きていてほしかった。 死なせたくなかった。 だから、ばれたらどうなるか知った上で罪を犯したんです」
全ての孤児院を救いたくて罪を犯した。 それは嘘ではないが、完全な真実でもない。
レイフォンが何をおいても守りたかったものは、やはり同じ孤児院に生きる兄弟たちだった。
何を犠牲にしても、何を捨ててでも、彼らを守りたかった。 彼らに生きていてほしかった。
彼らを……喪いたくなかった。
だから自分に出来る方法で皆を守る術を……多額の金銭を得ようと思った。
他の孤児院を守ろうというのも、所詮は後付けの理由だ。
家族を守りたくて罪を犯し、しかしその時にはすでに金銭的・物質的な貧窮からは脱していた。
それでも途中で止まれなかった。 止まれたはずなのに、レイフォンの中にある金銭への執着意識と貧しさへの焦燥感が、それを許さなかったのだ。
家族を守るためには金が必要。 大切な者を喪ったその時からレイフォンの中でより強くなっていたその考えが、レイフォンをより先へと進ませた。
その強さゆえに、躓くこともできず、立ち止まるきっかけも掴めなかったのかもしれない。
少なくともあの時は、身を焼く様な焦燥と、掻き立てられるような衝動が、レイフォンにはあった。
その結果がグレンダンの追放だ。
それでも……やはり後悔はしていない。
「孤児院の皆は、僕なんかよりもずっと強くてたくましい子たちです。 僕がいなくなっても、自力で立ち上がって進むことができると思いますよ。 彼らなら、きっと自らの力で幸せを掴めるはず。 僕はそう信じています」
結果的に多くを失うことにはなったが、それでも喪わずには済んだ。 最大の望みだけは叶えることができた。
それに……少しは残すこともできた。
レイフォンが稼いだお金は、弟妹たち全員が一人前になるまで養い育てるのに十分な額がある。
彼らが普通にものを食べ、服を着て、十分な教育を受ける。 そんな人並の生活を送れるくらいには、貯蓄がある。
それに家族の暮らしについては女王であるアルシェイラが請け負ってくれた。
人格的に色々と問題のある人物ではあるが、決して冷酷非情な人柄ではない。 請け負ったからには、任せておいても大丈夫だろう。
自分が孤児院の家族たちのためにできることは、もうやりつくしてしまった。 これ以上、彼らに自分の力が必要になることは無い。
だからこそ、自分がいなくても、彼らは幸せに生きていけるだろう。
「では、今のあなたの戦う目的はなんですか?」
「決まっていますよ」
その顔から先程までの、どこか悲しげな、苦しげな色が消えていく。
レイフォンは、まるで重くのしかかっていた物全てをふっ切れたかのように、すっきりとした笑みを浮かべた。
ある種爽快さと、力強さすらも感じさせる、そんな笑顔。
「ツェルニでできた大切な人たちに生きていてもらうことです。 みんなに生きていてほしいから、僕は汚染獣とも戦った。 死なせたくないから、これからも守っていく。 そして皆と別れたくないから、あの都市にも存続してもらわなくちゃならない。 だから都市戦にも協力するんです」
目的はあくまで自己満足。
それでも、レイフォンはそれを貫き通すと決めた。
利己的と言われようと、自分勝手と言われようと、そんな風に生きていくと決めたのだ。
もう二度と後悔しないように。 もう二度と失うことのないように。
フェリはそれを自分勝手だとは思わなかった。
ただその迷いの無い姿に、僅かな憧憬の念を覚えていた。
二人の間で言葉が途絶え、あとはただ眼前の景色に見入っている。
そのまま都市を見下ろしていると、やがて隣でレイフォンが立ち去ろうとする気配がした。
「それじゃ、僕もシャワー浴びてきますね。 何があるかわかりませんし、暗くて危ないですからフェリ先輩も早めに中に戻ってください」
それだけ言うと、レイフォンは宿泊所の中に消えていった。
翌日の朝。
偵察隊のメンバーは両小隊共に件の不審な建物の前に立っていた。
「しっかし……地下中央部の機関部が爆発したってのに、その真上にあるこの建物はまるで無傷かよ」
「よく見れば所々罅が入ってたり欠けてるところもあるけどな。 けど確かに、思ったよりも被害は少ないか」
「おそらく、それだけ重要な施設ということだろう。 たとえ機関部が破壊され爆発したとしても、衝撃を外へと逃がし壊れないように設計されているようだ」
「それに機関部そのものだってそう簡単に全破するようなつくりはしてないだろうしな。 一部で火災や爆発が起こっても、それが全体に広がらないようにするための安全機構くらいは備えているはずだ」
冷静に現状を分析しながら言葉を交わす面々だが、その表情はやや固い。
ゴルネオは頑なにレイフォンへと目を向けようとせず、対照的にシャンテは射殺さんばかりにレイフォンを睨みつけていた。
それに対しレイフォンの方はといえば、そんな二人の様子を気にも留めていない風で完全に無視している。 いや、実際何も感じていないのかもしれない。
十七小隊の間にも居心地の悪い空気が漂っている。 それでも努めて普段通りの態度を保とうとしているのが傍目にも明らかだった。
第五小隊の面々は、この任務が始まってからこっち妙に不機嫌そうな隊長と、それを心配そうに見つめる副隊長に困惑しながらも、それについて訊ねることができずにいる。
気休めにもいい雰囲気とは言えないが、だからといって任務を途中で放棄するわけにもいかない。
それぞれ含む所を抱えながらも調査の段取りを進めていく。
「とにかく、外が暗くなったら厄介だ。 日が傾く前に建物内の調査を終わらせよう。 そして可能なら機関部の方も探索しなくては」
「それで……調査の方法はどのように?」
隊員の問いかけに、ゴルネオは一旦全員を見渡してから再び口を開く。
「建物は広い。 何があるか分からないのは危険だが、時間は限られている。 全員で手分けして探索しよう」
「そうだな。 それがよさそうだ。 それぞれ小隊を二人から三人の組に分けて……」
ゴルネオの提案に、ニーナが賛同する。
しかしここでレイフォンが異議を唱えた。
「待ってください。 念威が通じず、外からでは内部構造も分からない状況で小人数に分かれるのは危険です。 小人数では不測の事態に陥った時、対処しきれないかもしれません。 仮に分かれるにしても、念威繰者はここに残して護衛をつけるべきです」
途端、むっとしたような顔でニーナが反論する。
「レイフォン。 私はゴルネオ隊長の案に賛成だ。 時間も人員も限られている。 都市がその足を止めない以上、ツェルニがここに到着するまでにせめて最低限の安全を確認する必要がある。 我々はそのために結成された偵察隊なのだからな」
「駄目です、危険すぎます。 僕らの仕事は安全を確認することであって、わざわざ危険な橋を渡ることではありません。 それに建物内では念威が通じない以上、通信どころか爆雷も使えないと考えるべきです。 そんな場所に念威繰者を連れていくのは得策とは言えません」
レイフォンが言葉を重ねるごとに、ニーナの口調に熱がこもっていく。
「もとより多少の危険は覚悟のうちだ。 そもそも危険が予測される任務でなければ、わざわざ小隊員を送り込んだりはしない」
「だからといって、自分から進んでリスクの大きい選択肢を選ぶ必要も無いでしょう。 危険が予測されるからこそ、可能な限り安全策を取るべきです。 それに念威繰者に何かあれば、予想外の脅威と遭遇した場合、ツェルニと連絡を取ることもできなくなります。 非戦闘員であると同時に通信の要である以上、余計な危険に晒すのは調査隊全体にとってもリスクが大きすぎます」
「この任務中に限りお前は十七小隊の一人で、隊長は私だ。 指示は私が出す」
ニーナは意固地になっている。 レイフォンはそう感じた。
己の感情を、昨日から抱くレイフォンに対する反抗意識を御しきれていないのだ。
こちらの意見を間違いだと考えているというより、レイフォンの言葉に従って意見を翻すことに抵抗を感じているように見受けられる。
その気持ちは分からなくもないが、かといって、個人の私的な感情のために危険を犯すわけにはいかない。
「それなら僕は都市外任務の経験者としてあなた方に助言するように会長から言い遣っています。 先輩も、任務中は僕の言葉を最大限慮るよう会長から言われたはずでしょう。 僕の意見に従うのが気に食わないのは分かりますが、任務中に私情を挟まないでください」
レイフォンはあくまで冷静を保ったまま断じるように言う。
ニーナが再び感情的になりかけたところで、ゴルネオが口を挟んだ。
「確かに、レイフォンの言う通りだ。 安全を最優先に考えても損は無い。 幸いこの都市のエアフィルターは生きている。 予想以上に時間がかかるようなら、接近してきたツェルニと連絡を取って、増員部隊を寄こしてもらうという手もある。 ここは慎重に行くべきだ。 両隊の念威繰者はここで護衛と一緒に待機させよう」
顔をニーナに向け、あくまでレイフォンの方を見ないようにしながら、それでもゴルネオはレイフォンの案を推した。
ニーナはそれでもまだ僅かに反論しそうな素振りを見せたが、ゴルネオが首を横に振ると、力が抜けたように肩を落として小さく頷いた。 あるいは、自分でも冷静さを欠いていたことに気付いたのかもしれない。
彼女が落ち着くのを確認すると、ゴルネオは自身の隊の者たちへと指示を下す。
その様子を、レイフォンは意外なものを見るような目で見ていた。
昨日は少々感情的になっていたが、今日のゴルネオは打って変わって理性的だ。 というよりも、こちらが本来の彼の性格なのかもしれない。
仮にもツェルニの五年生であり小隊員、そしてその隊長を務めるほどの武芸者だ。 まだ経験の浅いニーナよりは場数も踏んでいるだろう。
とはいえ、態度に私情を隠し切れていないところはまだ未熟と言えるかもしれないが。
それでも上級生として、隊を率いる者として最低限の良識は持ち合わせていたらしい、と、レイフォンは内心で思った。
「内部の調査は俺とシャンテ、ニールとアルスランに分かれて行う。 バレルとイルメナはここでリアンと十七小隊のロスを護衛しろ」
ゴルネオは第五小隊の面々に向き直ると、テキパキと指示を出していく。
「僕は一人で大丈夫です」
ゴルネオに続いて隊を分けようと隊員を見渡したニーナに、機先を制するようにレイフォンが言った。
ニーナは一瞬眉を跳ね上げたものの、何も言わず指示を下した。
「私とシャーニッドで調査に向かう。 ハイネとフェリは第五小隊の三人と共にここで待機しろ」
「うへぇ、まじかよ」
不平を洩らしたシャーニッドを横目で睨み、そしてすぐさま視線を外してゴルネオに向き直る。
「具体的にはどうする?」
「このビルは東西南北四面にそれぞれ出入り口があるようだ。 調査隊は四組いる。 それぞれ別々の入り口から入り、各々の判断で調査しよう。 念威による通信は使えんが、普通の電気式通信機は使える。 これで相互に連絡を取り合いながら、それぞれ他の回れない場所をカバーして行こう」
「了解した」
全員が通信機を身に付け、周波数を合わせる。
さて、と裏に回ろうと歩き出したところで、フェリに声をかけられた。
「まったく。 余計な気を回すんですね」
フェリは無表情ながら、どこか苦笑するような雰囲気を滲ませている。
(さすがに気付くか)
レイフォン自身も、己に向けて苦笑する。
私情、という意味ではレイフォンもニーナを笑えない。
先程のレイフォンの意見は、調査効率よりも自身の私情を優先したもの……もっと言えば、隊のリスクというよりもフェリ個人の安全に配慮したものだ。
「ただでさえ戦いを望んでいないフェリ先輩を危険に巻き込むのは、本意ではませんからね。 こう言ってはなんですけど、ニーナ先輩の覚悟にフェリ先輩を巻き込むのは理不尽だと思いますし」
そもそも安全という面に関してなら、余程のことが無い限り問題は無いとレイフォンは考えていた。
場合によっては他の調査隊メンバーには危険が及ぶかもしれないが、自分ならば大抵の危険には対処できる。
それに、いざとなれば都市内の調査も自分一人で十分に事足りると考えていた。
逆に言えば、そんなつまらないことのために、フェリをあえて危険な目に遭わせるのも馬鹿らしいと思っている。
得られた情報を都市に報告する分には、必ずしも全員が生還する必要は無い。
最悪の場合、自分一人でも生きて帰れば上々だ。
ゆえに、隊そのものに危険が及ぶこと自体は問題視していない。 それこそ、ある程度の危険やいざという時の犠牲はそれぞれ覚悟しているだろう。
仮に覚悟ができていなかったとしても、所詮それは自己責任に過ぎない。 少なくとも自分の意思で武芸科の小隊員となったからには、任務で命を落とす可能性も承知のうちのはずだ。
以前ナルキにも言ったが、小隊員が権力に所属する武芸者である以上、有事の際には都市政府の指示に従うのが当然の義務である。 だからこそ、小隊員は他の武芸科生徒よりも多くの面で優遇されているのだ。
もちろん、犠牲が出ないに越したことは無いし、可能な限りサポートはするつもりだが、たとえ犠牲者が出たとしても、レイフォンは必要以上にそのことに拘るつもりは無い。
戦闘時のような武芸の力が必要とされる場においてのみ、レイフォンは非常に合理的であると同時に、冷酷なまでに他者に対して無関心なのだ。
仲違いしているとはいえ、それなりに交流のあったニーナやシャーニッドが危険な目に遭うのはあまり良い気持ちしないが、シャーニッドはともかく、ニーナに関してはそれこそ心配しても無意味だろう。
彼女はこの場にいる誰よりも、危険を覚悟しているはずだ。
そんなふうに考えるレイフォンに、フェリは嘆息しつつ言った。
「人のことばかりでなく、少しは自分の心配をしたらどうですか。 中に何があるか、分からないんですよ?」
「それは今に始まったことじゃありませんよ。 老成体との戦いなんて、予備知識ゼロの方が多いくらいなんです。 この程度の不測事態は日常茶飯事でしたよ」
「そんなことを言って、もし本当に老成体がいたらどうするんですか? 狡猾な汚染獣の罠かもしれないと言ったのはあなたでしょう」
「その時はその時です。 相手がなんであろうと、敵としてそこに存在するなら戦う他ありません。 罠があろうとなかろうと、踏み込むしかないんですよ」
もしほんとに老成体なら他の者を行かせても無意味ですし、とレイフォンは嘯く。
それを見てフェリは、再びやれやれという風に嘆息した。
やがて調査担当の隊員たちが各自建物内の調査へと向かう。
レイフォンは苦笑しながら、自分に割り当てられた入口の方へと足を向けた。
「では行ってきます」
「念威が使えない以上、私には何もできませんが……気を付けてくださいね」
あくまで淡々としたフェリの言葉に見送られながら、レイフォンは正面玄関の反対側へと向かった。
あとがき
また随分と遅くなりましたが、更新です。
とりあえず、ようやっと作品内で日にちをまたぎました。
その割にはさほど進んでないというか、いつもより若干短い気もしますが。
本当はもう一場面ほど書くつもりだったのですが、いい加減遅くなり過ぎたので更新しました。
つうか、たった1日の間に起きた出来事を書くのに数カ月もかけてしまってましたね。 少々、野球漫画の試合場面を連想させます。 ……それはまぁどうでもいいか。
さて、
今回はフォローというか、説明不足だった部分を補う話ですかね。 レイフォンの話相手はほとんどフェリだけですけど。 ニーナに関しては……まぁ、そのうち。
そしてようやく始まった謎の建物の調査(やっと話が先に進む)。 といっても、読者の皆さん的にはゴルネオやシャンテの動向の方が気になるのかもしれませんが。
今回でとりあえず一番難しい場面(というか描写が面倒な場面)を終えたので、今後はもっと早く載せていけるようになることを祈ります。
しかしなんていうか……キャラの心情描写が多い回は毎回執筆に時間かかるんですが、今回はそれに輪をかけて長くなりましたね。
やっぱりこういう話を書くときは原作やら自分の書いた前の方の話やらを読み返したり読み直したりする必要があるもので。
まぁ最近になってレギオス以外のSSを書き始めたのも遅くなった原因の一つかもしれませんが(というか間違いなくそうだ)
ちなみに書いている作品の原作はSAO。 アニメ化とか特に関係なしに二次を書いてみたいなぁと思ったり。
例によってオリ主の設定やら背景やらはすでに細かく決まっていたりします。
それはともかく、レギオスの方もなおざりになり過ぎないようにしたいのですが、如何せん時間が……。
というか、むしろこんなことしていていいのだろうかと思わなくもないのですが。 これでも今年の春で大学4回生ですし。
まぁ学業やら就活に支障を来さない範囲内でこれからも書いていきたいとは思います。 大まかな話の方針自体は結構先まで決まっていますし。
それにやっぱり書いていて楽しいですしね。 職業作家ほどではないとはいえ、大変ですけど。
いちおう、第五小隊メンバーの名前と性別、武器を載せておきます。
公式ではなく、あくまでこの作品内での便宜上として考えたものですが。
第5小隊
隊長:ゴルネオ・ルッケンス ♂:素手(手甲・脚甲) 副隊長:シャンテ・ライテ ♀:槍
アルスラン・レインシャー ♂:剣 ニール・スタット ♂:メイス イルメナ・パーステッツ ♀:細剣
バレル・ビート ♂:狙撃銃 リアン・カートス ♂:念威繰者