時刻は夕刻。
場所は練武館の第十七小隊に割り当てられた空間。
今日もまたレイフォンは、ニーナの頼みで第十七小隊の面々に訓練を施していた。
「では、僕はこの辺で」
いつものごとく、シャーニッドとフェリは訓練時間の終了と共に我先にと退出してしまったため、レイフォンの言葉に答えたのはニーナとハイネの二人だけだった。
二人が居残り練習を始めるのを見届けて、その場を後にする。
軽くシャワーを浴び、更衣室で着替えてから、建物の外に出た。
いつもならこのまま真っ直ぐ帰るか、あるいは夕食の買い物でもしていくのだが、今日はいつもと違った。
「遅かったですね」
ふとかけられた声にそちらを向くと、先に出たはずのフェリがそこに立っていた。
「フェリ先輩? どうしてここに?」
驚いて声を上げるレイフォンに、フェリは淡々とした様子で返す。
「用がありますので。 少し付き合って下さい」
「ええと…僕に、ですか?」
「他に誰がいるんですか?」
「あ、いや……」
レイフォンは言葉を濁すが、フェリはそんなことを一切意に介さず、こちらに背を向けて歩き出した。
後ろを振り向こうともしない。 レイフォンがついて来ることをまるで疑っていないようだ。
僅かに逡巡した後、誰にともなく溜息を吐き、レイフォンは仕方なくフェリの後ろ姿を追った。
こんな時間に何の用だろう、と考えてみるが、特に思い当たる節は無い。
だが黙々とフェリの後ろを歩いていると、その足が生徒会塔に向かっているのだと分かった。
「あの、フェリ先輩? 用って、先輩の用なんですか?」
「いえ、私ではありません。 兄が、あなたに話があるそうです」
「会長が?」
自分の声が低くなるのを自覚するが、どうしようもない。
レイフォンはフェリの兄、生徒会長でもあるカリアンのことを苦手としていた。
いつも腹の中で何かしら企んでおり、しかも、まるで考えが見えないからだ。
「どんな話かは聞いていませんが、大切な話だとは言っていました」
背を向けているので表情までは確認しようがないが、伝えるフェリの声も若干不快そうな響きを含んでいる。
その類稀な才能ゆえに武芸科に転科させられたことで、フェリは実の兄を恨んでいるのだ。 レイフォンは最終的に自分で決めて転科したが、フェリは不本意なところを無理やりに転科させられたのだから、その怒りも当然だろう。
レイフォンは再び溜息を吐く。
あの生徒会長からの重要な話……。 正直嫌な予感しかしない。
しかし、だからといって逃げたところで何かしら好転するとも思えないのも確かなので、レイフォンは大人しくフェリの後に続いた。
しばらく歩くと、やがて生徒会塔の前に着いた。 入口の前に背の高い男が一人立っている。
フェリとそっくりの長い銀髪に、眼鏡を掛けた知的で怜悧そうな顔立ち、ツェルニ生徒会長のカリアン・ロスだ。
カリアンはいつも通りの柔和な笑顔を浮かべてレイフォン達を迎えた。
「やあレイフォン君、こんばんは。 わざわざ呼び出してすまなかったね。 フェリも御苦労だった」
「あの、それで話って……?」
「まあ、それは後にしよう。 まずは移動しようじゃないか。 立ち話するには少々長くなりそうだし、落ち着ける場所に行こう。 それにそろそろ夕飯時だ。 食事でもしながら話そうじゃないかね」
そう言って、カリアンは歩き出した。 フェリは不快そうな顔をしながらも、黙ってそのあとを追う。
レイフォンはもはや諦めて、同じく二人の後ろを歩いた。
ふと、カリアンが思い出したように口を開く。
「そういえば、最近はどうだね? 身の周りは」
「身の周り? 特に変わったことはありませんけど」
「そうかい? 小隊の勧誘なんかが来たりしてるんじゃないかと思ったんだが」
嫌なことを思い出したのか、レイフォンの眉間に皺が寄る。
「ええ、来てますよ。 ……あれからしょっちゅう」
実際、武闘会が終わってから……というより武闘会でレイフォンが優勝してから度々、小隊員たちから入隊を勧められるようになったのだ。
以前から予想していたことではあったが、実際にその身に起きてみると想像以上に面倒な状況である。
特に人数の揃っていない小隊の勧誘はしつこく、レイフォンは心底から辟易していた。 安易に武闘会に出場したことを後悔し始めているくらいである。
「まあ、彼らも君にその気が無いと分かれば収まると思うから、それまでは辛抱してほしい」
「……気軽に言ってくれますね」
カリアンは本当に申し訳なさそうな様子で言うのだが、逆にレイフォンはそれを信用できず、声にも不機嫌さが混じる。
それからレイフォンは再び大きなため息を吐いた。 本当、早いところ諦めてほしいと切に願う。
勧誘してくる小隊は皆しつこく食い下がり、レイフォンが断固として小隊入りを拒めばその理由を聞きたがる。
それらに対して一々言い訳するのは非常に面倒で、レイフォンはうんざりしていた。
積極的に勧誘してくる小隊の中でも、特にしつこいのは第三小隊だ。
人数が既定の数に達しておらず、さらには隊長が非常に堅物かつ神経質であることもあり、レイフォンとしては非常に面倒な相手である。
第三小隊の隊長であるウィンス曰く、力のある者がその力を最適な場で発揮するのは当然のことであり、それは力を持って生まれた者の義務であると同時に責任でもあると言うのだ。 ゆえに、レイフォンは小隊に入ってツェルニに尽くすべきだという。
別にその考え方を否定する気は無いが、自身の価値観を他人にまで押し付けないでほしいと思う。
しかも彼はそんな自身の考えに一片の疑念も抱いていないのだ。 言うまでもないくらいに当たり前のことだと信じ切っている。 それがまた、さらにも増してやりにくい。
大体そういうことは自分の義務や責任を全うしている者が言うべきことであり、現時点でそれができていない者が使うべき言葉ではない。
己自身を戒めるための矜持として口にするならともかく、そうあることを他者に無理強いするのは間違っているとレイフォンは思う。
そのしつこさや高圧的な態度に、レイフォンは皮肉の一つでも言ってやりたくなったものだが、なんとか堪えた。
しかしやはり、都市警察の仕事の時のナルキの話から、小隊員の武芸者としての在り方には疑問を感じているのは確かであり、そんな状態で小隊に入ろうとは思えない。
それどころか、勧誘してくる時の小隊員たちの口ぶりを聞いていると、小隊やこの都市の武芸科制度に対する不信感はさらに募っていくのである。
それに、そもそもレイフォンには小隊に入るメリットが無い。
小隊に入ったところで戦い方の幅が広がるとも思えないし、小隊員の特典などにも全く興味はない。 余計な苦労が増える分、むしろマイナス要素の方が大きいくらいだ。
大体、自分よりも遥かに弱い者たちとチームを組んだところで、集団という数の利が活かせるわけもない。
一人で多種多様な戦術・戦法・技を持ち、あらゆる状況に即座に対応できる臨機応変さと、戦いにおける柔軟さを持っているレイフォンならば尚更だ。
中途半端な連携では物の数にならない。
弱者の助力は時に味方の首を絞めることもある。
自分より遥かに実力の劣る者たちは、前方で戦えばレイフォンの攻撃を妨げる障害物となり、後方からの火力支援は逆にこちらのリズムを崩すだけで、煩わしいことこの上ない。
弱い味方は、時に、強い敵よりも重荷となる。
少なくとも、レイフォンは自分からわざわざ要らぬ荷を背負うつもりはない。
背負うと決めた物は、自身と大切な者たちの命だけ。
責任も名誉も、背負うつもりはない。
それに自分には、相手が人間だろうが汚染獣だろうが、独力でも十分戦えるという自負がある。
弱い仲間は、必要無い。 傲慢な考え方だとは自覚しているが、だからといって、その考え方を捨てるつもりはさらさら無い。
事実、この都市にはレイフォンが背中を預けられるだけの力を持った武芸者は存在しないのだから。
(けど、今の状況が続くのも、それはそれで憂鬱なんだよなぁ)
現状、小隊員たちのしつこい勧誘に迷惑しているのも確かだ。 いい加減、我慢の限界に達しそうなほどうんざりしている。
いっそのこと、「自分よりも弱い者の下につくつもりは無い」とでも言ってやろうか。
そうすれば今度は小隊の連中が次々と決闘を申し込んでくることになるかもしれないが、力で解決できる分、そちらの方が手っ取り早いし、自分としても与しやすい。
と、そこまで考えて、レイフォンは頭を振った。
一昨日、ナルキから注意されたばかりではないか。 下手に敵意を招く発言は控えなくてはならない。
実力が低いとはいえ、小隊員たちは仮にも武芸科のトップ集団。 不興を買えば、面倒なことになりかねない。
武闘会で優勝したレイフォン自身はともかく、一般生徒である友人たちは立場が危うくなるかもしれないのだ。 レイフォンと近しいというだけで、要らぬ恨みを買いかねない。
レイフォンとしては、それだけは避けたかった。 赤の他人からどう思われようと興味も無いが、そのとばっちりが友人たちに向かうのは絶対に御免だ。
ならばそうなったときのために、都市のトップであるカリアンやヴァンゼを味方につけておくべきかもしれない。 そうすれば、友人たちの立場が悪くなってもどうにかできる目算がある。 特にカリアンはレイフォンの正体を知っており、かつ、その力を必要としている。 交渉次第では味方につけられる可能性は高い。
しかし、それはそれでまた面倒事に繋がるような……
などと、思考が堂々巡りに陥っている間に、レイフォン達は目的地へと着いたようだった。
目の前の建物を見て、レイフォンの意識が現実に戻ってくる。
カリアンが食事でもしながらといった通り、そこは飲食店だった。
そして店の前に、武芸科の制服を着た二人の男子生徒が立っている。
一人は大柄な体に浅黒い肌をした男、武芸長のヴァンゼ・ハルデイ。
そしてもう一人は……
「久しぶりですね、レイフォン」
透き通るように淡い水色という珍しい色をした、男子にしては細くて長い髪に、色が白くてやや少女めいた、あるいは人形めいた顔立ち。
「ああ、久しぶり。 元気そうだね」
以前の汚染獣戦の時、レイフォンに協力してくれた念威繰者の少年、アルマだった。
「あの時は手伝ってくれてありがとう。 すごく助かったよ」
「お互い様です。 汚染獣に都市が滅ぼされてしまえば、僕も命を落としていましたし」
そう言ってアルマは、やや感情の薄い、それでいて整った顔に、微かな笑みを浮かべた。
「あれ? でも、なんでアルマがこんなところに?」
と、そこでようやくレイフォンは疑問を浮かべた。
「僕は武芸長に呼ばれて来たんですけど、レイフォンは生徒会長に?」
「うん、まぁ……」
答えつつ、カリアンの方を見やる。
「今回は君たち二人に話があってね。 こうして場を設けたんだよ。 本当はフェリにはレイフォン君の呼び出しだけを頼んだんだが……君に重要な話があると言うと、自分もその場に参加すると言ってきかなくてね」
そうなんですか? という問いを込めてフェリの方を見るが、フェリはレイフォンから目を逸らしていた。 やや不機嫌そうな面持ちである。
「ま、話は中に入ってからにしようじゃないか。 こんなところで立ち話をしているのも滑稽だろう」
言うと、カリアンは率先して店に入って行った。 ヴァンゼとフェリも無言で後に続く。
レイフォンはアルマと顔を見合わせると、どちらからともなく店内へと足を向けた。
五人が入った店は飲食店としてはなかなかに大きく、奥に行くと予約制の個室まで設置されていた。
壁の装飾や調度品なども上品かつ高価な物のようで、ここに入るのは一部の実家が裕福な生徒たちくらいだろうなとレイフォンは思った。
個室の一つに入り、テーブルを挟んでカリアン、ヴァンゼとレイフォン、フェリ、アルマが向かい合う。
「そういえばレイフォン。 今更だが、武闘会優勝おめでとう。 良い試合を見せてもらった。 一般武芸科生徒には良い刺激になっただろうし、小隊に入って天狗になっていた者たちには良い薬になったと思う。 あらためて礼を言う」
「は、はぁ。 どうも」
席に着くなりヴァンゼがそう言うので、レイフォンは曖昧に返事をする。
その武闘会が原因で、今現在、少々面倒な目に遭っていることは言わない方がよさそうだった。
それはさておきと、レイフォンはカリアンの方に目を向ける。
「それで……話というのは?」
「まぁ、それはまた後で。 まずは食事を楽しもうじゃないかね。 勘定は私が持つから」
「はぁ……」
レイフォンとしては早めに要件を終わらせたかったのだが、カリアンは笑みを浮かべてそれを受け流す。
そうこうしているうちに料理が運ばれてきた。 メニューも予約制であり、あらかじめ決まっていたようだ。
見たところ、学生が運営している店にしてはなかなかに豪勢な料理だ。 少なくとも、レイフォンが普段食べている物とは食材からして比べ物にならない。
皿に乗った料理の美味そうな匂いを感じ、そこでやっと自分も空腹であったことを自覚した。
仕方なくレイフォンは目の前の料理に手を付ける。 周りの者たちもそれにならって食事を始めた。
「私はこの店の常連でね。 ここでは食材の選別から調理のやり方まで細部にわたってこだわっているんだ。 その分、料理の味は絶品だよ」
裕福な家の出身で舌の肥えたカリアンが勧めるだけあり、ここの料理は確かに美味かった。
先程まで不機嫌だったフェリの顔も、いくらか和らいでいるように見える。
……おそらく目の前にカリアンがいなければさらに美味しく感じられただろうが。
できればもっと別の機会に食べたかったな、などと考えながらレイフォンも眼前の料理を片づけていく。
まぁカリアンの奢りだからこそ食べられるわけで、そうでなければわざわざこんな店に入ることは無いだろうが。
「美味しいですね。 僕、ツェルニに来てからこんなもの食べたことありません」
アルマが嬉々として感想を述べる。
「そうなの? アルマは上流階級出身かと思ってたんだけど」
なんとなくだが、物腰の丁寧さや品のある顔立ちから裕福な家の出に見える。
「確かに実家は裕福なんですけどね。 色々あって仕送りが無いんですよ。 まぁ、そこそこ奨学金がもらえてるから、今のところ生活に不自由はないですけど」
「へぇ……」
仕送りが無いというのにやや驚いたが、おそらくニーナと似たような境遇なのだろうと思い、深くは訊ねなかった。
もともと学園都市に来るような武芸者は、大なり小なり個人的な事情を抱えている者が多い。
レイフォンもその1人だ。
やがて食事が終わると、店員がテーブルの上の食器が片付け、代わりに食後のお茶を運んできた。
芳醇な香りの湯気が立つカップを持ち上げ口元へと運ぶ。 美味い。
「さて、と」
仕切り直すように一口だけお茶を飲んだカリアンが、おもむろに傍らに置いてあった鞄を開けて中から大きめの封筒を取り出した。
その封筒をレイフォンに差し出し、開けるように促す。
「この間の汚染獣の襲撃から、遅まきながらも都市外の警戒に予算を割かなくてはいけないと思い知らされてね」
「いいことだと思いますよ」
そのことに今まで気付かなかったのは、それだけツェルニが汚染獣の脅威から無縁でいられたということなのだろう。
ここは学生だけの都市。 だからこそ、都市の意識をつかさどる電子精霊も、汚染獣には最新の注意を払っていたに違いない。
ここにいるのは、いざという時に己の身を守ることもできない未熟者たちばかりなのだから。
「ありがとう。 それで、今渡したのは試験的に飛ばした無人探査機が送ってよこした映像なのだが……」
レイフォンが封筒を開けると、中には何枚かの写真が入っていた。
そのうちの一枚を取り出し、まじまじと見てみる。
その写真の画質は最悪だった。全てがぼやけていて、詳しく映っている物は何も無い。
これは大気中にある汚染物質のためだ。無線的な者はほぼ全て汚染物質によって阻害されてしまい、短距離でしか役に立たない。
唯一、長距離でも何とかなるのは念威繰者による探査子の通信だが、これも都市同士繋げるには無理がある。
写真を撮った無人探査機には、念威繰者が関わってはいないのだろう。
「わかりづらいが、これはツェルニの進行方向500キルメルほどのところにある山だ」
カリアンがその山を指でなぞり、ようやくレイフォンもそう見える気がしてきた。
「気になるのは山の……この辺だ」
言って、写真に映っている風景の一部を指で丸を描いて囲んだ。
「どう思う?」
カリアンはこれ以上、特に何も言わなかった。 レイフォンに無用な先入観を持たせないためだろう。
レイフォンもそれ以上質問はせず、写真から離れてみたり目を細めたりして何度も確認した。
しばらくそうやって写真を注視していたが、やがてレイフォンは写真をテーブルに置き、深く溜息を吐く。
それを見届けると、フェリとアルマも左右から顔を出して覗き込む。
「多分、御懸念の通りだと思いますよ」
「ふむ……やはりか……」
レイフォンの答えに、カリアンが難しい顔で椅子の背もたれに体を預けた。
ヴァンゼも唸るような低い声を出して顎に手を当てる。
「なんなのですか、これは?」
しばらくレイフォンの真似をして写真を眺めていたフェリが聞いてくる。
アルマも疑問符の浮かぶ顔でレイフォンの方を仰ぎ見た。
それに対し、レイフォンは端的に答える。
「汚染獣ですよ。 それも成体の」
それを聞き、アルマはもう一度写真をじっくりと見てみる。 確かに、山の一部に大型の生き物らしい影が見えた。
それも……一体や二体ではない。
フェリは目を丸くしていたかと思うと、すぐにきっと兄を睨みつけた。
「兄さんは、また彼を利用するつもりですか?」
「実際、彼に頼るしか生き延びる術がないのでね」
詰問されたカリアンは落ち着いた様子で淡々と答える。
「なんのための武芸科ですか!」
「その武芸科の実力は、フェリ……君もこの間の一件でどのくらいのものかわかったはずだよ。 戦いに参加しなかった君だって、戦場がどんな様子だったかは聞き及んでいるだろう?」
「しかし……」
やり取りを聞いているヴァンゼの顔に苦渋が浮かぶ。 前回の戦いで自らの力の無さを思い知らされているからこそ、フェリにもカリアンにも反論ができないのだ。
実際、目の前の少年に頼る他に手段がないのだから。
レイフォンは無言で、封筒に入っていた他の写真を取り出して見てみる。
先程のよりも近くから撮ったものらしく、画像の悪さは同じくらいだが、そこに写った生き物らしき影は、その形がややはっきりとしていた。
やはり、この影が汚染獣であるのは間違いない。
過去に多くの汚染獣と戦ってきたレイフォンは、自らの経験からそう断じた。
「私だって、できれば彼には武芸大会のことだけを考えてほしいけれどね。 状況がそれを許さないのであれば、諦めるしかないさ。
で、どう思う?」
レイフォンはしばし考え、やがて口を開いた。
「おそらくですけど……汚染獣の雄性体でしょう。 さすがにこの写真からじゃ、何期のかはわかりませんけどね」
写真に写った影は一体や二体ではない。 見えるだけでも十体以上はいる。
仮に成体になりたての個体だとしても、この数は脅威だ。
難しい顔で考え込んでいるうちに視線を感じ、ふとレイフォンは顔を上げた。 皆の方を見ると、全員が説明を求めるような顔をしている。 レイフォンの言葉の意味がよく分からなかったらしい。
仕方なく、レイフォンは汚染獣の生態について詳しく説明し始めた。 どの道、彼らが都市の責任者である以上、この先も知っておくべきことである。
「そうですね……グレンダンでは、まず母体から生まれたばかりの汚染獣を幼生体と呼んでいます。 前回武芸科の人達が戦ったのがこれですね。 特徴としては、動きが鈍くて知能も低く、汚染獣の成長段階の中では最弱に入る個体です。 ただし幼生体は基本的に数が多いので、大概は群れを成して都市を襲撃します。 ですから決して危険度が低いわけではありませんが」
レイフォンの説明を聞き、それぞれ前回の汚染獣の姿を思い浮かべる。
確かに動きは鈍くて単調だったが、その甲殻は頑丈で力も強く、何よりその数が絶望的なほどに多かった。
もしもレイフォンが参戦していなかったら、多大な被害が出ていたに違いない。 否、ツェルニが滅んでいてもおかしくはなかった。
「生まれたばかりの汚染獣は汚染物質を栄養として吸収できないので、母体は休眠する前に溜め込んでいた栄養を子供に分け与えます。 それが足りない場合は幼生体同士で共食いを行い、それでも足りなければ母体をも喰らって幼生体は成長する。 前回は近くに人間がいたから、母体は餌にならずに幼生達が地上に上がってきましたけど」
そしてそれだけでなく、仮に幼生達が全滅した場合、母体は付近の汚染獣を救援に呼び、幼生を殺した人間たちを喰らわせるのだ。
汚染獣の繁殖に対する凄まじいまでの性質に、全員が息を呑む。
「そうやって栄養を蓄え成長した幼生体は、やがて脱皮を行うことによって成体となります。 汚染獣には生まれついての雌雄の別はなく、幼生体は一度目の脱皮によって雄性となるため、これをグレンダンでは雄性一期と呼んでいました。 雄性体は脱皮を繰り返して成長を続けるんですけど、この脱皮の回数を一期二期と数えるんです」
つまり成体となった汚染獣は、脱皮するごとに雄性一期から雄性二期、雄性三期へと成長していくのだ。
そして脱皮するたびに、より大きく、より強くなっていく。
「成長した個体……大体、雄性三期から五期くらいの時に汚染獣は繁殖期を迎えます。 そうなった雄性体は次の脱皮で雌性体へと変わり、腹の中に大量の卵を抱えて地下に潜ります。 そこで孵化の時まで眠りにつく」
そして生まれてきたのがこの間襲ってきた幼生体たちなのだ。
あとは、同じことの繰り返しである。
汚染獣の生態についての説明を聞き終わったカリアンは、ふむ、と口元に手を当てて僅かに思案した。
「あいにくと、私の生まれた都市も汚染獣との交戦記録は長い間なかった。 だから、その強さを感覚的に理解していないのだけれど、どうなのかな?」
そう。 問題は、今も都市がその距離を縮めている汚染獣の強さがどのくらいかということだ。
今回の相手は成体だ。 どう考えても、前回の幼生体たちよりも遥かに大きく、強い個体であることがわかる。
「一期や二期ならば、それほど恐れることはないと思いますよ。 被害を恐れないのであれば、ですけどね」
「ふむ……」
「ただし、今回の相手は複数です。 そこが厄介と言えば厄介ですね。 これだけの数の成体が相手では、普通の都市でも多大な被害が出るでしょうし、未熟者ばかりの学園都市なら尚更です。 むしろ滅んだって不思議じゃない」
淡々と語るレイフォンに、カリアン達が言葉を失う。
「それに、汚染獣の中にはさらに怖ろしい個体もいます。 老性体……繁殖することを放棄し、ただ自らが成長することのみを目指すようになった個体……。 これは、年を経るごとに強くなっていく。 その強さに上限はなく、また、変化の幅にも際限がない。 特に老性の二期以降では、姿が一定でなくなり、個体によっては特異な変化を遂げることもあります。 そして中には特殊な能力を発現させ、単純な暴力で襲ってこない場合もある。 その危険度は……老性一期ですら、都市が半滅するのを覚悟して、初めて勝てるかどうかというものです」
「……倒したことがあるのかい? その、老性体というものを」
「ええ、何度か……。 僕が戦った中で最も強かったのが老性の六期。 グレンダンではベヒモトと呼ばれた個体です。 ……ああ。 グレンダンでは、一度の戦闘で倒せなかった強力な老性体には名つきといって固有名をつける習慣があるんですよ。 それで、あの時は確か僕と同僚が三人がかりで、三日三晩戦ってやっと倒しましたね。 あんな厄介な敵は後にも先にもいませんでした。 実際、あの時は死ぬかと思いましたし……。 ちなみに、一緒に戦った二人は技量も経験も僕より上です」
レイフォンの強さを知る者たちは一様に驚く。
まさかあの、幼生体とはいえあれほど手強い汚染獣を素手で倒し、大群ですらあっという間に蹴散らしたレイフォンと、さらに彼よりも強い武芸者が二人も一緒に戦って、それでもなお倒すのに三日もかかった相手がいるとは。
そして……そのレイフォンが死を覚悟するほどの敵がいるとは……。
そんなものがこの学園都市に攻めてきたりなどすれば、確実にツェルニは滅ぶことになるだろう。
カリアンは一瞬絶句するが、すぐさま冷静さを取り戻し、さらに訊ねる。
「それで、今回の相手……勝てるのかね? ここには君がいるわけだが」
今回の相手がその老性体であると決まったわけではない。
そして、並の都市ならば滅亡を覚悟する必要がある危機かもしれないが、現在、ツェルニにはレイフォンがいる。
学生武芸者の枠を、否、並の武芸者の枠を遥かに超えた強者が。
彼ならば、この脅威にも対抗できるかもしれない。
「残念ながら、この写真では相手がどのくらいなのか分からないので断言はできません」
「この間の奴よりも厄介なのか? 前回より数はずっと少ないようだが」
ヴァンゼも真剣な面持ちで聞いてきた。
「正直、前回の幼生体よりもかなり手強いです。 成体と幼生では、個体の強さが桁違いですから……。 外皮だって幼生体のように柔らかくはありませんし。 少なくとも、前回みたいに易々と蹴散らすのは無理ですね。 一体ずつ順番に各個撃破していくしかありません」
汚染獣の成体は、幼生とは比べ物にならないくらいにパワーもスピードも生命力も跳ね上がっているのだ。 体を覆う外皮も同様、強固で分厚く、大抵の攻撃は通さない。
前回の幼生体のように、まるで草を刈るように虐殺するのは無理だろう。
ツェルニが現在直面している危機の大きさに、全員が息を呑む。
幼生体相手にすら苦戦するツェルニの武芸者たちが、はるかに強い雄性体に勝てるとはとても思えない。
「では、至急対策のための準備を始めなければなるまい。 これほどの相手……ツェルニの武芸者が一丸となって事に当たる必要がある。 まずは小隊員たちに敵の存在とその脅威を伝え、会議を開いて対抗策を講じよう。 レイフォン、お前もその会議に参加してくれ」
ヴァンゼが青い顔をしながらも、決然と言い放つ。
それに対して、レイフォンはしばし黙考した後、首を振りながら答えた。
「いえ、必要ありません」
「必要ない? どういうことだ?」
「僕一人で戦います。 他に戦力はいりません」
その場の全員の目が大きく見開かれた。
「何を考えている! これほどの相手に一人で戦おうなど、無謀にもほどがあるぞ!」
ヴァンゼの怒号に、しかしレイフォンは冷静なまま答える。
「成体の汚染獣相手に、学生武芸者では手も足も出ません。 戦いに参加したところで、何もできず一方的に喰われるだけです。 むしろ他の人間は足手まといになります」
レイフォンの、一種冷徹にさえ聞こえる声に、ヴァンゼは頭に上っていた血が一気に引いた気がした。
「雄性体はパワーもスピードも幼生体とは比べ物になりません。 敏捷に宙を飛びまわり、その力と質量とで人間を軽々と押し潰す。 体を覆う外皮は幼生の頃よりも遥かに硬く、そして厚い。 幼生体の甲殻すらまともに破れない学生武芸者の攻撃じゃ、雄性体に傷一つ負わせることはできませんよ。 仮に傷を負わせることができたとしても、小さな傷ならすぐさま再生してしまいますしね」
もちろん、学生武芸者とはいえ自身の実力を最大限に発揮できさえすれば、攻撃にそれなりの威力を出すことはできる。
純粋な実力で見れば、幼生体の甲殻ぐらいなら破ることもできただろうとレイフォンは思う。
しかし、前回は突然の事態にパニックを起こし、さらには恐怖に委縮したため、ツェルニの武芸者たちは本来の実力を発揮できなかったのだ。
だが、そんなことは言い訳にもならない。 実力が十分に発揮できなかったのは、覚悟ができてなかったからだ。
覚悟もできていない武芸者の攻撃が、汚染獣にまともに通じるわけがない。 成体ならば尚更である。
そもそも幼生体相手にすらパニックを起こすような者たちが、サイズも動きも遥かに上回る成体の汚染獣相手に、冷静なまま戦えるはずがないのだ。
そして混乱したまま勝てるほど、汚染獣との戦闘は甘くない。
敵はこちらの都合など、考慮してはくれないのだから。
「しかし、俺たちだけが安全圏で待機というのは……」
「どの道、完全な安全圏なんてものは存在しません。 まぁ、どうしてもというのなら参加してもいいですけど……その場合、僕が戦っている間他の汚染獣を足止めするための生き餌として利用することになりますよ」
平静そのままの口調で冷酷なことを口にするレイフォンに、ヴァンゼが絶句する。
そして気付く。
レイフォンは決して、武芸科生徒の身の安全を慮って一人で行くと言っているのではないということに。
彼が助力を拒むのは、あくまで邪魔だから。 足手まといになるからだ。
そして、それでも来ると言うのなら、そこで命を落とすことを前提として来いと言っているのだ。
自分には他者を気遣いつつ戦う余裕はない。
だから助け合いなど期待するな。
自分は助けなど期待していないし、助けるつもりもない。 来るならせいぜい利用してやる。
そう言っているのだ。
そして実際、数多の戦場を生き抜いてきたレイフォンから見れば、ツェルニの武芸者など戦力たりえないのだろう。
事実、幼生体相手にすらあれほど苦戦していたのだから。
小隊員でさえ、その甲殻をまともに破ることはできなかった。 これが成体ならば、さらに困難だろう。
「正直そうしてもらった方が僕としても戦いやすくはあります。 足止めと戦闘を僕一人で同時に行う必要がないなら、より確実に敵を倒せますからね。 ただしその場合、僕以外の武芸者はほぼ全員死ぬことになりますよ。 それに本気で生き餌として投入するつもりなら、それなりの人数を揃える必要もあります。 なにせ、敵の数が数ですから」
他の武芸者たちを囮にする場合、その武芸者たちは一定以上の逃避行動を取ることができない。 それでは囮として機能しないからだ。 敵を引きつけながら都市に向かって逃げては本末転倒になる。
つまり、汚染獣に食われない程度に注意を引いて、敵をそこに足止めしなければならないのだ。
だが実際、学生武芸者たちが成体の汚染獣からそうやって逃げ続けるのはほぼ不可能である。 自然、囮役の者たちは次々と喰われながら時間を稼がなくてはならない。
そして当然ながら、囮とするにもそれなりの大人数を戦線に投入する必要がある。 つまり、ツェルニの武芸者では囮の役目も満足にはこなせないのだ。 だからこそ、数で補う必要がる。
しかし実際にそんなことになれば、武芸科生徒に甚大な人的被害が起こるだろう。 そんなことは都市の首脳として看過できない。
普通の都市ならともかく、ここは学園都市だ。 人材を使い潰すようなことは本来すべきではないのである。
選択肢は二つだ。
可能性は未知数でもレイフォン一人に都市の命運を任せるか、他の武芸者を大勢失ってでも、より確実に勝てる方を選ぶか。
カリアンはレイフォンをまっすぐに見た。
「君一人でも……勝てるのかね? 相手はこれだけの数だが」
「やってみなければわかりません」
レイフォンは即答する。
カリアンはしばし黙って思案していたが、やがて決断した。
「仕方あるまい。 ここは……レイフォン君に任せよう」
「カリアン!」
ヴァンゼは一瞬驚いた様な顔をしたが、反論はしなかった。 ただ、悔しそうな顔で俯くのみだ。
対してカリアンはすぐさま気持ちを入れ替え、具体的な準備について話し合う。
「ではよろしく頼む。 それで、実際にはどのようにすればいいかね。 必要な物、方法、段取り、なんでも言ってくれたまえ。 可能な限り手を打とう」
「そうですね……。 まず、軽量で動きやすい都市外戦用装備を準備してください。 都市外活動用の道具も一式。 汚染獣との戦闘は都市外戦闘が基本です。 あんな怪物と都市の上で戦ったりなんてしたら、尋常でない被害が起こりますからね……。 それと移動用のランドローラーに、別の錬金鋼も必要です。 対人戦ならともかく、汚染獣相手に剄の通りが悪い錬金鋼じゃ戦いにくいですから……」
レイフォンは一つ一つ、必要な物を述べていく。
カリアンはそれを逐一メモしながら、同時にそれらを揃えるための手順や段取りを頭の中で構築していった。
「ふむ……。 錬金鋼の方はこれまで通り、キリク君に要請しておこう。 あとは機械化と技術科の方でそれぞれランドローラーと都市外用装備を準備してもらうよ。 他に、何か必要な物は?」
「あと……一番重要なのは、現場までの案内役ですね。 都市は常に移動している上に、外は一面荒野ですから……目印も無く闇雲に走ったら、あっという間に帰れなくなってしまいます。 できれば実力のある念威繰者の協力が必要なんですけど……」
言いつつ、ついフェリの方を見てしまう。
対してフェリはそっぽを向いたままだった。 レイフォンの視線を意図的に避けているようにも見える。
正直、フェリに手伝ってもらえれば最適だ。 レイフォンが未だかつて見た事の無いような才能を持った彼女ならば、他の誰よりも頼りになるだろう。
だが、不本意に武芸科に入れられたフェリにそんなことを頼むわけにはいかない。 彼女が忌避しているその力を、レイフォンの都合で使わせるわけにはいかないのだ。
そんなレイフォンの内心を知ってか知らずか、カリアンは気負いなく答える。
「わかっている。 君が戻って来れなくなるのは困るからね。 というわけでアルマ君、協力を頼めないかな? 君は念威繰者としての実力も高いようだし、前回の汚染獣戦でもレイフォン君の手伝いをしていただろう。 君なら他の生徒よりもレイフォン君と上手くやれると思うのだが……」
フェリに頼むことはできそうにない。 だからアルマを呼び出していたのだろう。
カリアンの頼みにアルマはしばし沈黙する。
が、やや苦渋の滲む顔で首を振った。
「手伝うのは構いません……。 ただ、僕では力不足だと思います。 都市から五〇〇キルメル先……まぁ、都市が進路を変えずに進み続けている以上、距離は徐々に縮まっていくとは思いますけど……都市の安全を考えると、僕の念威の有効範囲まで近付くのを待つのは、あまり得策ではないと思うんです。 案内だけならともかく、戦闘の補助なんかも考えると、さすがに……」
確かにアルマは優れた才を持つ念威繰者ではあるが、たとえ彼でも都市から何百キルメルも離れた場所まで端子を飛ばすのは難しい。 ましてや案内や戦闘補助をするならば、その間は不眠不休で働かなくてはならない。 いくら才能があるとはいえ、未だ技量が未熟な上に経験の少ないアルマでは、少々荷が重いのが実情だ。
それこそ、フェリほどの才能があれば話は別だろうが……
「何? そうなのかい?」
カリアンは当てが外れて、やや思い悩む様な素振りを見せる。 戦いや武芸とは無縁の一般人ゆえに、優れた念威繰者というものがどの程度できるものなのかまでは、はっきりと把握できていなかったのだろう。
あるいはフェリのような天才が身近にいたがゆえに、逆にそういったことに疎かったのかもしれない。
当然だ。 いくら大人びて見えても、彼もまた未熟な若輩者の一人。 人並外れた知恵や才覚があろうとも、経験が圧倒的に足りないのだ。
ましてや政治や都市運営ならばともかく、汚染獣などという脅威に対する対処法など知る由もない。 それだけ、彼もまた平和に慣れ切っていたのだろう。
いや、そもそもこのような事態に適切な対応ができる都市責任者が、この世界に何人いるだろうか。
グレンダンならばいざ知らず……
「……では、私が手伝いましょうか?」
突然横から聞こえた澄んだ声に、レイフォンは驚いた。
その声を発したのがフェリだったからだ。 カリアンやヴァンゼも意外そうな顔をしている。
「……えと、本気……ですか?」
レイフォンがおずおずと訊ねる。 彼女は自身の才能を嫌悪し、念威繰者として働くこと、能力を利用されることを拒んでいたはずだ。
「本気ですよ。 今回だけは、手伝ってあげても構いません」
「はぁ……」
正直なところ、レイフォンとしてはフェリの助力を得られるのはありがたかった。
実際フェリの実力はかなりのものだ。 それこそツェルニどころか、他のどの都市の念威繰者をも凌駕するほどに。
その才能……特に念威量は、グレンダン出身のレイフォンですら見た事もないほどに桁外れなものだった。
しかしなぜ、今回に限って助けてくれる気になったのだろうか……。 そんな疑問が頭から離れないのだ。
「えっと……ほんとにいいんですね?」
「問題ありません」
一応念を押してみたが、フェリの決意は固いようだ。
「……ありがとうございます」
やや釈然としない思いをしながらも、レイフォンは礼を言った。
それに対しフェリは……レイフォンから目を背けるようにそっぽを向いた。
暗い夜道を、レイフォンはフェリと並んで歩いていた。
お互いに会話はなく、沈黙を保ったまま真っ直ぐと歩く。 分かれ道までは、まだしばらく歩かなくてはならない。
カリアンとヴァンゼは仕事があると言って生徒会塔に戻り、アルマは逆方向だと言って離れていった。 ゆえに、今は二人きりだ。
「やはり、あなたは戦うんですね」
静寂に包まれる中、唐突にフェリが口を開く。
「ええ、まあ」
「どうして嫌だと言わないんですか? 断ることもできたはずですよ」
フェリの声には若干不機嫌さが滲んでいるように感じた。 戦うことを望んでいない、戦い以外の道を探すためにツェルニに来た、そういう似た立場であるレイフォンが自ら進んで戦場へと赴こうとしていることに、含むところがあるのかもしれない。
「そういうわけにもいきませんよ。 こちらが何と言ったところで、汚染獣は襲って来るんですから」
「だからといって……わざわざあなたが、あなただけが危険を一人で背負う必要は無いと思いますが? ヴァンゼが言ったように、これは武芸科全体で取り組むべき問題です」
「他の人じゃ無理です。 人数が増えたところで犠牲者が増えるだけ。 それなら僕一人の方がマシですよ」
整った顔の眉間に皺が寄る。 今日の彼女は随分と感情が表に現れやすい。
「それで、戦いを望まないあなたが皆の代わりに戦うと? 随分とご立派なことです」
「そんないいもんじゃないですけどね」
「わかっています。 あなたに武芸者としての“崇高な”理念などというものが無いことは存分に理解しているつもりですから。 今のはただの八当たりです」
蔑むような言葉だが、その声にはレイフォンを嘲笑うような響きは無い。 どちらかというと、武芸者の理念とやらの方を揶揄しているようだった。
「……まったく、この都市の武芸者のレベルの低さには、心底嫌になります」
「仕方ないですよ。 ここは学園都市なんですから」
レイフォンは苦笑しつつそう告げる。
平和な都市であったがゆえに、今まで本当の脅威と向き合うことが無かった。 当然、危険に対する備えなどは無い。
それゆえに、一度そのような危機的状況に陥れば、もはや抗すべき手段を持たないのだ。
「弱いくせにプライドだけはご立派で、ホント、うっとうしいです」
「ははは……」
「あなたもあなたです。 あっさりと引き受けてしまって」
「他に方法がありませんしね」
レイフォンはやや諦観の滲む声で言う。
あの場合、引き受けるほかに道はないだろう。 拒否したところで脅威が去るわけではないのだから。
他の誰にも解決できないのなら、自分が目を背けたところで仕方が無い。
「フェリ先輩の方こそ、よく手伝う気になりましたね。 前回の時は、たとえ死ぬことになっても戦場へ行くのは御免だと言っていたのに」
ふい、とフェリはレイフォンから顔を逸らす。
「あなたが言ったのではないですか。 この都市が消えてしまっては、自分のやりたいこと、念威繰者以外の道を探すこともできなくなると。 それは私も困りますから……都市戦はともかく、汚染獣戦なら力を貸すのも致し方ないと思っただけです。 私だって、別に喰われたいわけではありませんから……」
「……そうですか」
「それに、同じ立場であるはずのあなたが戦場に行こうというのに、私だけが駄々をこねていては、まるで子供みたいじゃないですか。 そんなのは屈辱です。 少なくとも、ツェルニの武芸者たちが弱いからといって、あなただけに負担を押し付けるのは私自身が許せません。 他の人ならともかく……。 これは武芸者としてではなく、同じ境遇にある者としての意地です」
フェリは強い調子で言い放った。
自身が武芸者であることを肯定し、望んでいる者たちがリスクを背負うのは当然のことだ。 だからこそ、彼らは尊敬や優遇を勝ち取り、またその状況を望み、受け入れているのだから。
だが、それら全てを捨ててでも一般人として生きたいと望んでいた自分やレイフォンがリスクを背負うのは間違っているとフェリは思う。 ただ力があるというだけで、他の力無き武芸者たちの分まで重荷を背負う理屈は無いはずだ。
しかし、現実は自分たちにその不条理を押し付けようとしている。 それなのに、自分だけがそこから逃げるのは卑怯だろう。 ましてや彼をその境遇に押し込めたのは兄であるカリアンなのだ。
たとえレイフォンが自身の意思でその道を選んだのだとしても、やはりその責任はカリアンにある。
そして兄の横暴によって望まぬ場所に立っている者に対して、我関せずを通す気にはなれない。
他人から卑怯と呼ばれようと気にもしないが、自分でも譲れない一線というものがある。
とはいえ、そんなことをレイフォンに向かってはっきりと言う気にはなれない。 言えば、レイフォンはさらなる重荷を背負い込むことになるかもしれないからだ。
自分のことで他者が責任を感じることを、レイフォンは望まないだろう。 ゆえに、やや婉曲的な言い方になってしまった。
そんな内心の思いを隅に追いやり、フェリはレイフォンを強く睨む。
「というかそんなことはどうでもいいんです。 それより、問題はあなたでしょう。 兄の理不尽な要求に対して、ろくに交渉もせずに引き受けてしまうなんて。 あなたは馬鹿なんですか?」
フェリの舌鋒がさらに鋭さを増した。
「それに、引き受けるにしろ、それなりの報酬を要求するべきだと思いますが? なのに、見返りが最低限の保障だけだなんて……」
レイフォンは今回の汚染獣戦に際して、相応の見返りを望まなかった。
ただ準備期間中と戦闘中はアルバイトに顔を出せないため、その間のバイト料の立替えと、戦闘後の医療費その他の補償を求めただけだった。
「僕は傭兵ではありませんからね。 都市の問題は結局、都市民の……僕の問題でもあります。 だったら、解決できる人が解決するべきですよ。 もちろん、そのために必要な経費は都市政府から出してもらうのが筋でしょうけど、それ以外で、必要以上に見返りを求めるつもりはありません」
グレンダンの時とは違う。 あの時は、都市を守るためでなく、金銭を得るためだけに戦っていた。
なぜなら、グレンダンにとって汚染獣というものは、決して都市全体の脅威ではなかったからだ。 たとえ自分が戦わなくとも、都市が滅びるなどということはあり得なかった。
だが、ここツェルニは違う。 レイフォンが戦わなければ、数多くの犠牲者が出る。
そしてその中には、レイフォンの大切な人たちも含まれるかもしれないのだ。
ならば、たとえ無償であっても、レイフォンが戦わないわけにはいかないだろう。
そんな事情を知ってか知らずか、嘆息したフェリは淡々とした声でレイフォンを評した。
「まったく……。 あなたはお人好しです」
「そうかもしれませんね」
「これから先も利用されるかもしれませんよ?}
「そうかも………しれません」
「そしてまた同じ失敗を繰り返すことになるかもしれませんよ」
「………」
「そうなったらどうするつもりですか?」
「どうって……」
レイフォンは一瞬、答えに窮した。
「同じ失敗をして、周りに憎まれて、嫌われたらどうするつもりですか?」
「……その時は、おとなしくこの都市を去りますよ」
レイフォンは儚げな笑みを浮かべて言う。
「あなたはそれでいいんですか?」
「良いも悪いも、僕が1番に望むのは、大切な人たちが生きること、彼らが笑顔で暮らせることです。 僕がこの都市を出ることで他のみんなが幸せになれるのなら、僕はここから出ていきますよ」
「嫌われてもなお、彼らを守りたいというわけですか?」
「ええ」
表情は儚げだが、その声に気負いや苦みは無い。 ゆえに本心からの言葉であるとフェリには分かった。
レイフォンにとって最優先すべきは、大切な者たちを守ること。 逆に言えば、それ以外はどうでもいい。
皆を守った末になら、たとえ憎まれることになろうとも、孤立することになろうとも、甘んじてそれを受け入れる覚悟がある。
レイフォンのやや悲しげな、しかし強い決意のこもった言葉に、フェリはしばし口を閉ざしていた。
が、やがて呟くように言葉を紡ぐ。
「……させませんよ」
「え?」
「そんなことにはならせません。 誰よりも重荷を背負うあなただけがそんな目に遭うのは間違っています。 たとえ兄に脅しをかけてでも、あなたが出ていかなければならない事態にはさせません」
語調こそ厳しかったが、フェリの言葉にはレイフォンに対する気遣いと思いやりがこもっていた。
レイフォンはどう返すべきかしばし迷った末、
「……ありがとうございます」
結局はありきたりなセリフで感謝の気持ちを示した。
あとがき
今回は汚染獣接近の知らせと対策会議ですね。
リーリンの手紙が無いので、フェリが対抗心から料理をするエピソードなどは省略、というか変更しました。
お気づきの通り、今回の汚染獣戦は老性体ではありません。 十数体の雄性体です。 形としては、5巻の終盤のような感じでしょうか。(数は2倍以上ですけど)
変更した理由としては、最強の汚染獣である老性体との戦いはもう少し後に回そうと思ったのと、すでに多くのss作品で老性一期との戦闘が行われているからですね。 今更、他の作品よりも劇的で目新しい戦闘シーンが描けるとも思えないので。
代わりに、オリ技とかたくさん出してみたいですね。
ちなみに、フェリはレイフォンの過去を具体的には知りません。
知っているのは、グレンダンにいた頃にレイフォンが武芸で失敗し、守ろうとした者たちから憎まれる結果となって、失意の内に都市を去ったということ。 また、その失敗の原因の1つが、レイフォンの異常なまでの強さであるということくらいです。
天剣やら闇試合に関しては、今のところカリアンとゴルネオしか知りません。