砂塵に汚れた窓の向こうには草一つない荒野が広がっている。
乾燥した大地はあちこちがひび割れ、その断面を鋭く盛り上がらせている。
汚染され、生き物たちが住めなくなった大地を、機械でできた多足を駆使して進むものがある。放浪バスだ。
外の世界では、人は呼吸すらも許されない。世界中の大地と大気を覆う汚染物質は、それに触れた人間の肌を焼き、肉を腐らせ、死に至らしめるからだ。
ゆえに人々はレギオスと呼ばれる自立型移動都市の上で生きている。巨大なテーブル状の胴体の上に無数の建物が立ち並んでおり、下部には太い金属の脚が生えている。都市はエアフィルターで覆われており、それが汚染物質を遮断し、都市内に流れ込ませない。そして都市はその脚を利用して、常に規則的な速度で移動している。都市の動力が生きている限り、都市はその脚を止めることはない。
これが、この世界で当たり前に見られる都市の姿だ。
そしてこの世界では、都市から都市へ移動する場合、放浪バスを利用しなくてはならない。荒れ果て、目印の無い大地では、汚染物質を内外で遮断でき、行き先があらかじめ決まっている放浪バスでなければ目的地へとたどり着くことはできないからだ。
「汚染獣だ!」
バスの乗客の誰かが声を上げた。
バスの窓から見える光景の中に、汚染獣がいる。歩みを止めたバスのそばを通過しようとしている。
乗客たちが騒然としだすが、運転手がそれを抑える。バス内に沈黙が満ち、乗客たちのおびえた息遣いが聞こえる。
誰もかれもが、すぐそばに迫った脅威を怖れ、それが行き過ぎるのを、息を殺して待っている。
汚染獣。
この汚染された大地を支配する、大自然の王者。
この世界に適応し、汚染物質を食んで生きることのできる、唯一の存在。
そしてこの世界に生きる、すべての人類にとっての天敵。
都市を襲い、そこに住まう人々を食いつくそうとする絶対的捕食者。それが汚染獣だ。
乗客たちがおびえる中、取り乱すこともなく落ち着いた顔でバスの窓から外の世界を眺める少年がいた。歳は15,6といったところか。茶髪に藍色の瞳、中肉中背で一見するとどこにでもいそうなごく普通の少年だ。
少年 ――レイフォンは、歳に似合わぬ大人びた表情で、外にいる汚染獣を見据えていた。
無意識のうちに右手を胸に当て、その内側にある感触を確かめる。
「いやだ、死にたくない…」
「お父さん、お母さん……」
「助けて…、誰か……」
乗客たちの小さく押し殺した声が聞こえる。
この世界では、人はとても無力だ。
ただおびえて、祈ることしかできないのだから。
「どうしよう…?どうしよう…?」
「メイ、大丈夫だから」
前の方の席から、泣きそうな少女の小さな声が聞こえた。隣にいる少女2人がそれを慰めている。
しかしその2人もやはり緊張し、恐怖を感じているようだ。
「心配いらないよ、ほら、遠ざかってく」
汚染獣はバスから離れていき、そして見えなくなった。
バス内が安堵の吐息に満たされる。
それからしばらく待ってから、バスは移動を再開した。
ツェルニへと向かって。
自立型移動都市、レギオスにはさまざまな種類があり、それぞれ異なる特徴や働きを持っている。
その中でも教育機関としての働きを特化させた都市である学園都市は、都市内のあらゆる機能が学生によって管理・運営されていおり、学生たちによる完全な自治が行われている。
そこには約6万人の人々が住み、その9割以上を学生が占めている。
学生はいくつかの学科に分かれ、それぞれ異なる分野について学ぶ。
その中でも他学科とは一線を画すのが武芸科だ。
外部からの脅威より都市を守るために高い戦闘能力を持つ、武芸者と呼ばれる者たち。
彼らは剄と呼ばれる生命エネルギーを自在に操る特殊能力を持ち、並の人間を大きく上回る身体能力と、普通の人間ではできないような技を持って外敵から都市を守るために戦う。
そんな武芸者を育成するのが武芸科だ。
学園都市ではその武芸科をはじめとして、医療科や機械科、商業科など、さまざまな科があり、将来どんな仕事に就きたいかによって、生徒達はそれぞれ己の進む道を選び、勉学に励んでいる。
ここは学園都市ツェルニ。多くの都市から集まる多種多様な知識・技術の交流によるさまざまな分野の新技術研究と、その中で優秀な人材を育成することを目的とする、教育機関であり研究機関でもある都市。自分の都市にいるだけでは得ることのできない成長を求める者たちの集う場所。
学生の、学生による、学生のための都市。
ツェルニでは今日、大講堂で今年度の新入生たちの入学式が行われていた。
大講堂には大勢の生徒が集まっており、学科ごとにさまざまな制服を着た在校生たちが新入生を出迎える。
その新入生の中に、レイフォンはいた。
眠たそうな目をした表情は力が無く、弛緩しており、バスの中で汚染獣を見据えていた時とは打って変わって年相応の少年のようだった。
現在大講堂の舞台の上では、生徒会長からの挨拶や諸注意などが行われている。それをレイフォンは聞くともなしに聞いている。
と、後ろの方からやや騒がしい気配がした。どうやら武芸科の新入生どうしが言い争いをしているようだ。
雰囲気がだんだんと険悪になっていくのを感じる。
突然悲鳴が上がり、人波が起こった。どうやら先程の言い争いが殴り合いの喧嘩に発展したようだ。レイフォンは剄の波動を感じた。
(マズイ)
こんなところで武芸者同士が剄を使って喧嘩などしたら、一般人が巻き込まれるかもしれない。
武芸者でない一般人が剄の力をくらったら、最悪死傷者が出てしまう。
巻き添えを怖れた者たちが、争っている彼らの周囲から逃げ出し、そこから離れようとする。
それによって起こった人波の中で、生徒たちはパニックに陥っている。
その時レイフォンの目に、今まさに人波に呑まれて体勢を崩し、倒れそうになっている女生徒が映った。このままでは大勢の足で踏みつぶされてしまう。
レイフォンはとっさにその女性徒に近づき、後ろ向きに倒れそうな彼女の背中に手をまわして支える。それから自らの背中ともう一方の腕を使って人波をかきわけ、少女をかばいつつ人の流れの外へと彼女を誘導する。
人波から少し離れたところまで少女を連れていき、立たせてやる。
ざっと見て少女に大きな怪我がないことを確認し、ホッと息をつく。
そして次の瞬間、レイフォンの姿がその場から消えた。
いや、消えたように見えた。
一瞬で喧嘩をしている2人の生徒のもとへと近づき、一方の生徒の腕を掴み、胸倉を掴み、足を払い、凄まじい勢いで床に叩きつけた。凄まじい音が大講堂に響き渡る。その生徒は背中を強打して、気を失った。
「なっ」
彼と喧嘩していたもう1人が突然の乱入に驚き、固まっている。
彼だけでなく、周囲のパニックに陥っていた生徒たちも、いきなりのことに動きを止めた。
場を沈黙が満たす中、レイフォンは再び霞むように動き、残ったもう1人にすばやく接近する。そして驚愕で動きを止めている相手の首筋に鋭い手刀を打ちこんだ。
それだけで相手は昏倒し、崩れ落ちる。
あまりの手際に、その場に驚愕と沈黙が満ちた。
「ふう……」
騒ぎが収まるとともに、周囲の者たちが平静を取り戻していく。
注目を浴びる中、レイフォンも落ち着いて状況を認識しだす。
さて、と
いきなりこんなことになっちゃったけど、どうしよう?
レイフォンはこれから先の学生生活に、早くも暗雲が立ちこめているような気がして、気が滅入る思いがした。
生徒会長室。
レイフォンが呼び出され、案内された部屋の扉に掛けられていたプレートにはそう刻まれていた。
少し気後れするのを感じながら、レイフォンは扉をノックした。
「入ってくれたまえ」
「失礼します」
返事を待ってから声をかけ、部屋の中へと入る。
「一般教養科1年、レイフォン・アルセイフです」
部屋の中には、1人の男がいた。
扉の正面にある大きな執務机を前に腰を下ろしている。
レイフォンとは違い、もう大人と言われても問題ないような雰囲気を持っている。
長い銀髪に飾られた、知的に整った顔。
どこか柔和に微笑みながらも、表情とは裏腹に、銀の瞳は冷静に物事を判断しようとレイフォンを見つめている節がある。
その瞳を見ていると、こちらの知られたくないことまで見透かされそうな気持になり、レイフォンは居心地が悪くなった。
「よく来たね。私はカリアン・ロス。司法研究科の6年だ。そしてツェルニの生徒会長でもある」
生徒会長、すなわちこの学園の支配者であり最高責任者だということだ。
「まずは感謝を。君のおかげで新入生たちに怪我人が出ずにすんだよ」
柔和そうな笑みを浮かべたまま、礼を述べる。
そしてカリアンは、やや苦笑気味に言う。
「新入生の帯剣許可を入学半年後にしているのは、こういう、自分がどこにいるのか理解していない生徒がいるためなんだけどね。毎年のこととはいえ、困ったもんだよ」
カリアンがやれやれと嘆息する。レイフォンは何と言っていいかわからない。
「しかし、新入生とはいえ武芸科の生徒2人を一般教養科の君がああも簡単にあしらうとは……、君は何か武芸の心得があるのかい?」
「嗜み程度には」
レイフォンの返答を聞き、カリアンは笑みをより深めた。
「ほほう。嗜み程度……か」
その笑みにレイフォンはさらに居心地が悪くなる。
「用件がもう無いなら、そろそろ教室に戻りたいのですが」
「いや」
短い否定に、背を向けようとしたレイフォンは動きを止めざるを得ない。
「ここからが本題なんだが、君に1つ提案があるんだよ、レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ君」
呼ばれたミドルネームに、レイフォンはあからさまに眉を顰め、目つきを鋭くする。
「……何のことでしょうか?」
「存ぜぬを通すつもりならそれでもいいけどね。実は先程の騒ぎで喧嘩した武芸科の2人には退学してもらった。他国の争いを学園内に持ちこむのは学則違反だ。誓約書にサインしておきながら入学初日にそれを破るなんて、とても武人とは言えないのでね。しかし、そのせいで武芸科の席が2つ空いてしまったんだよ。そこでレイフォン・アルセイフ君、物は相談なんだが、一般教養科から武芸科に転科しないかい?」
「は?」
「現在ツェルニでは君のような腕の立つ武芸者を必要としていてね。この都市の存続のためにも、どうしても協力が必要なんだ」
「存続……って」
深刻な単語につい反応してしまう。
「学園都市対抗の武芸大会は、知っているよね?」
「……いえ」
「要は2年ごとに訪れる、都市同士の戦争のことだよ。学園都市同士の戦争では、これを武芸大会などと呼んで、学生らしい健全な戦いになるように心掛けてはいるが、やはり戦争であることには変わりない。」
都市同士の戦争。自立型移動都市は2年ごとに同類の都市を探し歩き、縄張り争いの喧嘩を仕掛ける。
もちろん、都市同士の争いとはいえ実際に戦うのはその上に住まう人々だ。
そしてその戦争に敗れれば、都市にとって大切なものを失うことになる。
「もちろん非殺傷を心掛けて、刀剣には刃引きがなされるし、射撃系の武器は麻痺弾しか許可されない。しかしその敗北によって失うものは、普通の都市間戦争と同じなんだ」
すなわち、セルニウム鉱山。
都市は生きている。そして都市が生き続けるには燃料が必要になる。それがセルニウムだ。
都市は戦争によってこのセルニウム鉱山を取り合っているのだ。
より多くの鉱山を所有できれば、それだけ都市の寿命が延びる。
逆に全ての鉱山を失えば、都市は滅びるしか道はなくなる。都市が滅びればそこに住まう人々は生きる場を失う。
もちろん、鉱山を失ったからといって都市内のセルニウムがすぐに尽きるわけではない。すぐさま都市が死ぬわけではない。
とはいえ、ゆるやかに、しかし確実に滅びの道を進むのは確かだ。
「ツェルニは過去2回の武芸大会で連敗していてね。残りの鉱山は1つしかない。もう後が無いんだ。だから、今年の武芸大会では敗北が許されない。そこで、君に協力してもらいたい。戦争に勝って、鉱山を確保してもらいたいんだ」
都市の滅びを想像し、レイフォンは寒気に震えた。ここがなくなる。それは困る。とても困る。
だが、
(それでも僕は……、武芸なんて)
そう思い口を開こうとして、笑みを消したカリアンの、鋭く、冷たい視線に言葉を失った。
カリアンが、まっすぐにレイフォンを見ている。
息を呑んだレイフォンに、カリアンが口を開く。
「私は今年で卒業することになる。関係が無くなるといえば、そうとも言える。だが私はここを、この都市を愛しているんだ。たとえそこから自分がいなくなるとしても、二度とその地を踏むことがないとしても、その場所が失われるのは悲しいことだとは思わないかい?
愛しいものを守ろうという気持ちは、ごく自然な感情だよ。そしてそのために手段を問わぬというのも、愛に狂う者の宿命だとは思わないかい?」
最後の部分で、カリアンは笑った。
ほんの少しだけ、冗談でも言ったというように。
カリアンの言葉は、レイフォンの心を揺らしていた。
カリアンの気持ちに、共感する部分があったからだ。
でも、それでも、武芸は……。
「君は就労先に機関部清掃を希望しているようだね。給金はいいが、きつい仕事だ。君の今の奨学金ランクはDだが、もし転科してくれるのならランクをAにしてあげてもいい。学費は免除ということになる。そうなれば、何もきつい仕事をする必要もない。君は自分の生活費だけ稼げばいい。どうかな?」
再び柔和な笑みを浮かべて、カリアンは交渉に入る。
レイフォンとしては、正直この都市が無くなるのは、非常に困る。
ツェルニには後がなく、負ければ終わり。
しかしレイフォンが協力すれば、それを防げるという。
(でも)
今の自分に、剣が持てるのか。
今の無様な自分が剣を持ったところで、役に立つのか。
戦う覚悟も意思もない、そんな武芸者に意味は無い。
戦えないのなら、断るべきだ。
Aランク奨学金は惜しいが、今の自分に、それを受け取るだけの価値は無い。そこまでの金を必要とする、理由も無い。
戦うだけの、理由が無い。
少なくとも、自分にとっての戦うに値するだけの理由は無い。
昔のように、戦いに対する駆り立てられるような感覚が無い。
都市が無くなるのは困るが、必死になるほど、1度は捨てた武芸を再びその手に取るほど、それが自分にとって深刻な問題だとは感じられない。
とても、戦おうとは考えられない。武芸の道を選ぼうとは思えない。
カリアンの目を、まっすぐ見る。
その目に、ひるみそうになる。
だが言わなければ。
「…お断りします」
カリアンの顔から再び笑みが消えた。
「ふむ、条件が悪かったかな? 元とはいえグレンダンの天剣授受者に協力を頼むには、いささか誠意が足りなかったかな? だとしたら……」
「いえ、そういうわけではなく」
やはりこの人はレイフォンの素性を知っている。しかも、元とつけたくらいだ。こちらの事情も知っているのかもしれない。
そのことに苦い感情を抱きながら、レイフォンはカリアンの言葉を否定する。
「では、どういうことなのかな? 私の知るヴォルフシュテインという名の天剣使いは、名誉に固執することなく、ただ金を必要とする人物であるという話なのだが」
随分と的確なことを言ってくれる。少なくとも否定はできない。
成程。レイフォンのことをそんなふうに思っていたから、こちらが報酬を吊り上げようとしていると思ったのか。
まあ実際間違ってはいない。確かに天剣を持っていた時の自分は、そんな印象を与える人物だったろう。
しかし、
「その情報は、間違ってはいませんが完璧でもありません。ただ言えるのは、今の僕は金をさほど金を必要としていませんし、金を得るために戦おうとも思いません」
そう言ってカリアンに背を向ける。
「僕にはもう、戦う理由もなければ、その意志も覚悟もありません。そんな僕が武芸科に入ったところで役に立つとも思えません。それどころか、かえって迷惑になると思います。だから、武芸科には転科できません。では、失礼します」
「まあ、待ってくれたまえ」
そのまま外へ出ようとするが、呼びとめられる。
カリアンは机から1枚の書類を取り出す。
「これは転科申請書だ。条件は先程の通り。生徒会長のサインはすでにしてある。
何も早急に結論を出すことはあるまい。気が向いたらでいいから、転科のこと、もう1度ゆっくりと考えてみてくれたまえ」
そう言って、その書類を手渡された。
「その申請書はいつでも受け付けるよ。色よい返事を期待している」
受け取りを拒否する気力もなく、断る言葉も浮かばなかったので、レイフォンは無言で書類を受け取ると、今度こそ部屋から出て行った。
カリアンは1人部屋内に残され、レイフォンが出て行った扉を見つめる。
しばらく扉を見つめてから、視線を外しため息をついた。
「事を急ぎすぎたか」
焦りすぎていた。何としても彼の協力を得なければと思い、気持ちが急いてしまっていた。
前情報から彼の人柄を推し量り、自分の中で決めつけてしまったのも失敗だった。
認識を誤ってしまい、あんな愚かな交渉をする羽目になった。
おまけにこちらに対し悪感情まで持たせてしまったかもしれない。これでは今後の交渉に支障が出るおそれがある。
「今回は失敗だ。だが……」
ツェルニ存続のためにも、彼には何としても武芸科に入ってもらいたい。
そしてそのためにも、先程の申請書にサインさせる方法を考えなくては。
幸い、収穫が無かったわけではない。
彼の心がもっとも動揺した瞬間が確かにあった。
愛しいものを守りたい。その言葉を聞いた時、確かに彼の心は揺れていた。それがわかった。
ここに彼の人柄を知るヒントがあるのかもしれない。
「さて、やることは山積みだ」
これから生徒会長としてやらねばならぬことが沢山ある。
だがこの問題は、その中でも特に重要となるものだ。
まずは彼の人柄を知ることだ。それを知って初めて、彼がグレンダンでやったことの理由がわかる。そして、彼の戦う理由とやらも理解できるのかもしれない。
そして理由が分かれば、彼を味方に引き入れ、その協力を得られるかもしれない。
時間は限られている。しかし、焦って行動して彼の恨みを買うのは得策ではない。
慎重に、かつ迅速に。
これからの方針について考えながら、カリアンは執務机の中からさまざまな書類を取り出し、仕事を始めた。
「なんであの人、僕のこと知ってるんだ?」
廊下を歩きながら、レイフォンは思わず呟く。
今日は入学式だけであるため、すでに校舎の中に人の姿は無い。
人気が無く静かな廊下を、教室に向かって歩く。
本当はさっさと帰りたかったのだが、鞄は教室に置きっぱなしだ。
「あの様子だと諦めたとは思えないし、また絡んでくるだろうなあ」
先程の生徒会長の油断ならない目つきを思い出し、背筋が震える。
まだ入学初日だというのに、早くもこれからの学校生活が危ぶまれる。
先行きの不安さに、暗欝な気分となったまま廊下を進み、教室の前にたどり着く。
1度溜息をついてから扉を開ける。その途端、にぎやかな声が耳に飛び込んできた。
「あれ? 一般教養科? うっそ~、あんなすごい動きできる人が武芸科じゃないなんて!」
声のした方に目を向けると、栗色の髪をしたツインテールの少女がこっちを指さしていた。
隣には、鋭角的なデザインの武芸科の制服を着た女生徒が立っている。
「ほら見ろ。やっぱり一般教養科じゃないか。賭けは私の勝ちだな」
「そんなことないよ! きっと何かの間違いで、ほんとは武芸科なんだよ」
隣に立っていた赤い髪に浅黒い肌をした長身の少女に言葉を返すと、その少女はこちらに近づいてきた。
「ね、ほんとは武芸科だよね!? 何か事情があってたまたまその制服着ているだけだよね?」
「い、いや、僕は一般教養科だけど…」
相手のテンションに若干引きつつ、レイフォンは事実を告げる。
「え~、そんな~」
がっくり肩を落とした少女になんて言っていいかわからず、レイフォンが言葉を探していると、先程の赤い髪の少女がこちらに近づいてきた。
「ミィ、そのへんにしておけ。驚かせてすまないな。この子がどうしてもお礼を言いたいというんで、待っていたんだ」
そう言って横に移動する。
すると赤い髪の少女の後ろから、長い黒髪の少女が現れた。どうやら先程まで赤い髪の少女の長身の後ろに隠れるように立っていたようだ。
「メイシェン、ほら」
赤毛の少女は、彼女の背を押してレイフォンの前に押し出す。
おとなしげな少女だ。俯き加減で、おどおどとしている。今にも泣きそうな眉、上目づかいにこちらを見る大きな瞳の下、頬の辺りがかすかに赤らんでいた。
「ああ、さっきの」
入学式の騒ぎで、倒れそうになっていたのを助けた子だ。
レイフォンの呟きに、ぴくりと反応する。
「あの、さっきは……ありがとうございました……」
それだけ言うのが精一杯いという様子で、黒髪の少女は顔を真っ赤にして赤毛の少女の背中に隠れてしまった。
「悪いね、こいつは昔から人見知りが激しいんだ」
「でも入学式で助けてもらったからお礼がしたいって。ね?」
ツインテールの子に言われて、黒髪の少女はさらに赤毛の少女の背中に顔を押しつけてしまった。
赤毛の少女が呆れた吐息をこぼす。
「まったくこの子は……。自己紹介が遅れたな。あたしはナルキ・ゲルニ。武芸科だ」
「で、わたしはミィフィ・ロッテン。一般教養科。そんでもってこっちが、」
そう言って黒髪の少女を引っ張る。
「えっと……、メイシェン・トリンデンです」
黒髪の少女――メイシェンはおどおどと名乗った
「わたしたちは3人ともヨルテムから来たの。知ってる? 交通都市ヨルテム」
「知ってる、放浪バスの中心地だ。ここに来る時通ったよ。
僕はレイフォン・アルセイフ。槍殻都市グレンダンの出身だ」
「わお、武芸の本場だね。だからあんなに強かったんだ」
「いや、そういうわけでもないけど……」
口ごもり、どう説明するかと言葉を探していると、
「ねえ、こんなとこで立ち話もなんじゃない?おなかも空いたし、どこかおいしいものでも食べにいかない?」
「確かに、もう昼過ぎだしな。色々とお前に聞きたいこともあるし、どこかで食事でもしながら落ち着いて話すとするか」
断る理由も思いつかず、レイフォンはその提案に従うことになった。
レイフォンと3人はすぐ近くにあった喫茶店に行き、ギリギリでランチタイムメニューに間に合った。
お昼時はやや過ぎていたため、客の姿は少ない。
「さて。さっそく質問なんだけど、レイとんって何か武術でもやってたの? 入学式のときすごい動きしてたけど」
注文を済ませると、ミィフィが開口一番そう言った。
それにナルキも同意する。
「確かに、あの動きはすごかった。スピードといい身のこなしといい。もしかしてグレンダンで、結構本格的に武芸を習ってたんじゃないか?」
それにレイフォンは、言葉を選びながら答える。
「いちおう、家の近所の剣術道場で剣を習ってたけど」
厳密には剣ではないが、さほど違いは無い。
レイフォンの返答に、ミィフィがさらに興味を示す。
「ほほう、やっぱり何かやってたんだ。わざわざ道場に通って剣を習ってたってことは、やっぱレイとんってグレンダンでも結構強いの?」
「どうかな? わざわざ道場にって言っても、もともとグレンダンには、数えきれないくらいたくさんの武門や道場があるからね。武芸者はみんなどこかしらの流派に所属してたし」
「へえ、やっぱりグレンダンは武芸が盛んなんだ」
「それに僕が通ってた道場は、グレンダンでもかなりマイナーで小規模なところだったから。門下生も数えるくらいしかいなかったし。
……ところでさっきから気になってたけど、レイとんって僕のこと?」
「そ、わたしが考えたあだ名。呼びやすいよね? レイとん」
ミィフィが楽しそうに同意を求めてくる。
「ナッキ、メイっち、レイとん、それでわたしがミィちゃんなわけ。オーケー?」
「お前だけ何のひねりも無いな」
「いいじゃん。自分のあだ名考えたって面白くないし。というわけで、レイとんはレイとんに決定なわけ」
「仕方ない。ではこれからもよろしくな、レイとん」
「そそ、レイとん、レイとん♪」
「……レイとん」
メイシェンにまでそう呼ばれて、レイフォンはなんだか、遠い場所に来たような気分になる。こんなあだ名をつけられるのは初めての経験だ。
「ところで、レイとんはなんで武芸科に入らなかったんだ? 通ってたのが小さい道場だったとはいえ、あれだけ強ければ、かなり活躍できると思うんだが」
ナルキがふと疑問を口にする。
ミィフィもメイシェンも、興味があるのかレイフォンの答えを聞きとろうとする。
その疑問に対し、レイフォンは若干身を強張らせ、言葉を選んでからそれに答える。
「グレンダンにいた時に、武芸でちょっと失敗しちゃってね。だから武芸は捨てることにしたんだ。それで、武芸以外に何かやりたいことを見つけるためにツェルニに来たんだ」
「武芸を……捨てた?」
「うん。失敗したときに、武芸を続ける理由が無くなっちゃったからね。武芸以外の、自分の進む道を見つけるために一般教養科に入ったんだ。まあ、まだ何がやりたいのかも、何になりたいのかも、全然決まっていないんだけどね」
「そうなんだ…」
「未練とか……ないんですか?」
メイシェンが心配そうに訊いてくる。
「まあ、もともと好きで武芸をやってたわけでもないしね。必要だったからやってただけで、特に思い入れも無いし。だからここに、自分が心からやりたいと思えるものを探しに来たんだ」
それはいわゆる夢というものなんだろう。
夢というものを持ったことが無いから、レイフォンにはよくわからないけれど。
レイフォンは、そんな自分の夢を見つけるためにここへ来たのだ。
「とはいえ、まったく何も感じないってわけでもないかな。必要にせまられて始めたこととはいっても、武芸は僕の人生の大半を占めていたわけだからね。少なくとも武芸をやっているときは一生懸命にやってたし。今の自分を見ると、何かが足りないような、欠落があるような気分になるのも確かなんだけど」
それは事実だ。武芸者の武器である錬金鋼(ダイト)を持たなくなって、すでに1年が過ぎた。それなのに、何も吊るされていない腰に、未だに違和感がある。
武芸を捨てたことを、寂しく感じる自分がいる。
「でも、だからこそなのかな? 強くなるために、ホントに必死だったから。だから理由を失くしたときに、武芸に掛ける意志も覚悟も根こそぎ失くしちゃったみたいでね。どうしても、続ける気になれなかったんだ」
どんなに今の自分に違和感を感じようと、心は武芸には向かわない。
ふと皆を見ると、3人とも心配そうにしている。
会ったばかりのレイフォンを心配してくれている。
それを嬉しいような、申し訳ないような気持ちになりながら、言葉を続ける。
「まあでも、いちおう心の整理はついてるからね。今の自分が嫌いなわけでもないし。
とにかく今の目標は、自分の夢を見つけることと、ここでの生活をできるだけ楽しむことだね」
それを聞いて、やっと3人とも肩から力を抜く。
「よっし、わかった! それならこのミィちゃんに任せて! レイとんがツェルニで楽しく暮らせるように協力してあげるから。何か面白い情報があったら教えてあげるよ」
「あたしもだ。せっかく友達になったんだからな。これから仲良くやっていこう」
「わ、わたしも……」
3人の言葉や態度に、レイフォンは温かい気持ちになる。
ほんのついさっきまで、これからの生活に不安を感じていたのに、それが晴れて行くのを感じる。
レイフォンは幸先いいスタートを切れた気がした。
そこで食事が運ばれてきた。
みんなでそれぞれ料理に手をつける。
「へえ。学園都市っていうくらいだから学生食堂しかないかもって心配してたけど、そんなことなかったね」
味に満足したミィフィが満面の笑顔で言う。ナルキも満足したようにそれに応える。
「学生のみの都市運営ってどんなものかと思っていたが、案外しっかりしてるんだな」
「う~ん、マップの作りがいありそう」
「マップ?」
レイフォンの疑問にミィフィが答える・
「そ、おいしいものマップ。食べ物以外にもいろんなマップを作るつもり。わたしの趣味は情報収集なんだ。いずれは雑誌か新聞の記者になるのが夢」
「こっちでも、そういった関係の仕事するのか?」
ナルキが訊く。
「そうだね。新聞社か…情報系の雑誌作ってるところ探してみるつもり」
「出版社か…。あたしは…そうだな…、警察に就労届を出してみるかな?」
「ナッキは警官になるのが夢だもんね」
「ああ」
と、ここでミィフィがレイフォンに質問の矛先を向ける。
「そういやレイとんは何かバイトするの?」
「ん? あ、ああ」
突然振られて、少しどもる。
「うん、機関掃除をするつもり」
それを聞いて、3人ともが一気にうわっと顔をしかめた。
「なんでまた、よりによって一番しんどい仕事を?」
「時間も不規則だし、生活リズムが崩れると思うぞ」
「……しんどい、よ?」
再び3人に心配顔をされて、レイフォンは苦笑する。
しんどいことはわかっているが、仕方が無い。
「ん。でも仕方ないよ。僕は孤児だからね。仕送りが無い。奨学金のランクも低いし、働かないと」
『孤児』という単語にぎょっとする3人に慌てて付け加える。
「でも大丈夫だよ。体力には自信があるし、掃除も得意だから。心配はいらないよ」
なんてことないように言うレイフォンに、ミィフィやメイシェンはまだ困ったような顔をしていたが、ナルキは気にするのをやめたようだ。
「そうか、なら何も言わないが。けど無理はするなよ。何か困ったことがあったら言ってくれ。できる範囲で協力してやるから」
「ありがと。その時はよろしく」
そう言ってレイフォンは微笑む。
それを見てミィフィも、気遣わしげな表情を収めて笑顔を浮かべる。
メイシェンだけは、気遣わしげな態度はやめたものの、今度は別のことを心配しているように見えた。
それを疑問に思いながらも、レイフォンはメイシェンに話を振る。
「そういえば、メイシェンは何かバイトするの?」
突然レイフォンに話を振られ、メイシェンは一瞬硬直したようになり、それから頬を真っ赤に染めて俯くと、ぽつぽつと話しだした。
「わ……わたしは……、お…お菓子を……作るのが好きで……、将来、お菓子屋さんになりたいんです。だから…、お菓子を作っているところで、働こうと思ってます。」
「お菓子?」
「は、はい」
途切れ途切れになりながらも、一生懸命に話す。
「……わたしが、好きで作ったものを食べて……、みんなが…、とっても幸せそうに……笑ってくれるのが嬉しくて……」
メイシェンはつっかえながらも、一生懸命に自分の気持ちを伝えようとする。
「わたしはこれまで、他の人に色々してもらうばかりで……でも、こんなわたしでも、人を喜ばせることができるんだなあって思って……、だから……」
すごいな。
(こんなおとなしい子でも、こんなふうに将来の夢を持っていて、目を輝かせて語るんだ。)
本当にすごい。
レイフォンは心からそう思う。
(眩しいなあ)
「お菓子屋さんに…」
「え?」
「お菓子屋さんに、なれたらいいね」
レイフォンはそう言って、メイシェンに笑いかけた。
メイシェンは再び真っ赤になって俯いてしまう。
本当に、眩しかった。
メイシェンが、ナルキが、ミィフィが。
自分の夢を持っていて、その夢を本当に大切にしていて、心からその夢を叶えたいと思っていて。
レイフォンには無いものを持っていて。
その姿が、本当に眩しくて、羨ましくて、そして少し……寂しかった。
自分には無いものを持っている彼女たちを見て。自分とは違う彼女たちを見て。
まるで彼女たちがガラスの向こう側にいるように感じてしまった。
目に見えているのに、声が聞こえるのに、触ることも踏み込むこともできない、そんなところにあるような。
だから、つい言葉を漏らしてしまう。
「僕も……、僕にもいつか、見つかるかな? 自分の夢が…」
僕もいつか、彼女たちのように、自分の夢を見つけられるのだろうか。自分の夢を語ることができるのだろうか。
この、目の前にあるのに、手が届きそうに見えないくらい眩しいものが、自分の中にも見つかるだろうか。
「き、きっと!……、み、見つかると…、お、思います!」
メイシェンが、突然大きな声を出したため、レイフォンは驚く。
ナルキもミィフィも驚いている。
大声を出したことに気付いたメイシェンが、真っ赤になって縮こまる。
こちらを一生懸命に励ます様子に、レイフォンは嬉しくなった。
(僕も頑張らなきゃな)
「ありがとう、メイシェン」
レイフォンが微笑みながら礼を言うと、メイシェンは再び沸騰するように赤くなった。
そのあとは、色々と雑談をして時間をつぶし、夕方に差し掛かったところで解散になった。
メイシェン達3人と別れ、レイフォンは帰路に着く。
夕日は沈みかけており、周囲は薄暗く、通りに人は少ない。
自分の住まう格安の男子寮に向かって歩いていると、前方で何かが光るのが見えた。
見ると、武芸科の制服を着た1人の女生徒が歩いており、彼女の髪から、わずかにこぼれる光の粒子が見えた。
(下級生? いや、僕が1年だし)
小柄な体躯だったので、最初年下かと思ったが、そんなはずないと思い直す。
(いったい誰だろう?)
そう思いながら女生徒を見ていると、突然彼女が立ち止まってこちらを振り向き、目が合った。
とても綺麗な少女だった。
腰まで届きそうな長い白銀の髪、色素が抜けたような白い肌、尖るような顎先と細い首筋、伏し目がちの銀の瞳の上で揺れる長い睫。
人形のように綺麗な少女だ。
彼女との距離は数メルトルしかない。
無言で見詰めてくる少女に何か言ったものかと思案するが、言葉が浮かばない。
すると、彼女の方から口を開いた。
「武芸科に……、転科しなかったんですね」
突然言われたことに、レイフォンは驚く。何故それを知っているのか。
言葉の見つからないレイフォンの様子を気にすることなく、人形のように無表情で、淡々と話す。
「でも、気をつけた方がいいですよ。あの人は、おそらく諦めてません。いつかまた、貴方に転科を持ちかけてくるでしょう」
それだけ言って、彼女は前に向き直り、再び歩き出す。
レイフォンはどうすべきか迷ったが、どの道彼女は自分の行き先と同じ方向に進んでいるので、とりあえず彼女の後ろを歩くように、男子寮へと向かって歩き出した。
そのまま2人して無言で歩く。
何か言うべきだろうか?レイフォンはそう考えたが、特に言うべきことは思いつかない。
しかし知らない少女と一緒に無言で歩くのは、微妙に居心地が悪い。
かといって立ち止まるのは不自然だし、追い抜くのも何となく気が引ける。
レイフォンがそんなことをごちゃごちゃと考えていると、また彼女の方から口を開いた。前を向いたまま、こちらを見ずに言葉だけを投げかける。
「訊いていいですか? あなたが何故武芸科に入らなかったのか」
「……武芸は…捨てたんです……。グレンダンで、武芸者として失敗して、武芸を続ける理由が無くなってしまったんですよ。だからここで、武芸者でない、それ以外の自分を見つけたくて、一般教養科に入ったんです」
1日に2度も同じことを話す羽目になっている自分に苦笑しながら、レイフォンは理由を話す。
その言葉に何か感じるところがあったのか、少女は1度だけ振り返ってレイフォンを見、再び前に向き直ってから再度レイフォンに話しかける。
「では、やはり気を付けてください。わたしの兄は、ツェルニの存続のためならどんなことでもします。おそらく、何かしら強引な手を使ってでも貴方を武芸科に入れようとするでしょう」
「えっと…、兄って?」
「申し遅れました。わたしの名前はフェリ・ロス。武芸科の2年です。生徒会長のカリアンは、わたしの兄にあたります」
生徒会長の妹と聞いて、少し警戒する。正直カリアンのことは少し苦手だ。
しかし、疑問がある。
「生徒会長の妹さんが、なんでそんな忠告を?」
「兄の犠牲者を他に出したくなかったからです」
「犠牲者?」
「ええ」
そう言うと、突然フェリは立ち止まり、目をつぶる。
それを見て、レイフォンも何となく立ち止まって様子を見る。
すると、フェリの銀の髪から、先程わずかに見えた光の粒子が大量にあふれ出してきた。髪が薄闇をはね散らして燐光のようなものを飛ばしている。レイフォンは目を瞠った。
「これは、さっきの…」
「先程は、少し制御が甘くなったんです」
今やフェリの髪は青い燐光をまとい、ほのかな光を辺りに振りまいている。熱は無く、波動のような微細な空気の揺れが、近くにいるレイフォンにも伝わってきた。
念威だ。外力系衝剄でもあり、内力系活剄もあり、同時にその2つとはまったく異なる。体内に流れる剄を利用しながら、訓練だけでは会得できない、本当の意味で選ばれた才能。
念威繰者は、この念威を利用して情報収集や通信を行う。
レイフォンは驚いていた。
髪は剄や念威にとって優秀な導体であり、念威によって髪が光る現象はレイフォンにも見覚えはある。だがそれは精々、髪の一部だ。しかしフェリは、特に力むことも無く、長い髪の全体を輝かせている。念威の量が尋常ではないのだ。
これほどの念威は見たことが無い。
「これのせいで、兄は一般教養科として入学したわたしを、無理やり武芸科に転科させました」
光を失った髪を押さえ、フェリがぽつりと呟いた。
「わたしは生まれつき尋常ではない量の念威を持っていました…。そして幼い時から念威専門の訓練を受けてきました。家族の誰もが、私自身でさえ、わたしが念威繰者になる将来を疑っていませんでした。……でも…」
その瞬間、フェリの感情が揺らいだように見えた。
「みんな、将来は決まっているのだと思ってた。みんな、自分がなにになるのか知っているのだと思ってた。
でも、違うんですよね……。他のみんなは自分で自分の未来を選択していくんです」
フェリは淡々と話し続ける。
「それに気付いた時、わたしは念威操者にならない自分を想像してみました。誰もが自分の将来を知らないのに、自分だけは最初から何になるのか決まっている。そんな状況に、耐えられなくなったんです。
だから生まれ故郷の都市から離れて、ここへ来ました」
都市の外へ出ようとするフェリに、両親が最大限の譲歩として示したのが、兄の在学しているツェルニだったのだという。
「わたしはここにいる間に、もう一人の自分を、念威繰者ではない別の自分を見つけられるのではないか、そう思っていました」
しかし、それはできなかったのだ。
ツェルニの状況と、フェリの才能を知るカリアンが生徒会長であったことが、それを許さなかったのだ。
「わたしは兄を恨みます。わたしに念威繰者の道しか示せない、示してくれない兄を恨みます」
淡々としたフェリの呟きを、レイフォンは黙って聞いていた。感情の揺らぎの見えない淡々とした声なのに、軋むような悲しみがその内側にこもっているように感じられてならなかった。
「そして、念威繰者にしかなれない、自分が嫌いです」
絶大な才能ゆえに、決まってしまった自分の将来から逃げられない少女はそう呟いた。
「あなたは、自分の思う通りの未来を、自分自身で選んだ道を進んでください」
まるで、自らの将来についてはほとんど諦めているかのようなフェリの最後の呟きに、レイフォンは言葉を返せなかった。
そのあとはずっとお互い無言で進み、途中で別れた。
男子寮の自分の部屋にたどり着くと、レイフォンは制服のままベッドに倒れこむ。
広い部屋だ。本来は2人用の相部屋らしいが、同居人がいないため、現在はレイフォン1人で使っている。
孤児院では、多くの孤児と同じ部屋で過ごしていたので、大きな部屋に独り暮らしというのは、なかなか新鮮に感じる。
ベッドの上で仰向けになりながら、レイフォンはこれまでのこと、そしてこれからのことについて考える。
ここに来てまだそれほど時は経っていないのに、色々あったように感じる。そもそも今日一日だけで色々ありすぎた。
「武芸……か」
武芸を捨てるためにここへ来たはずなのに、早くも躓いてしまった。
生徒会長には秘密を知られ、ツェルニには後が無い。
気付けばすでに追い詰められているように感じる。
これからどうすべきか考えるが、いい案は浮かばない。もともと考えるのは得意ではない。
ぐるぐる悩み過ぎて頭が痛くなってくる。
しばらく頭を使って慣れないことを考え、諦めて思考を放棄した。
今考えても仕方ない。結局、なるようにしかならないし。
とりあえず何か食べてシャワーでも浴びようと、ベッドから降りて着替えを始める。
他の寮生と共用であるキッチンに向かおうと部屋を出る際に、ふと、振り返って自分の机の上を見る。
そこにあるのは一つの箱。布に包まれた木箱である。
放浪バスに乗っている間、ずっと懐にあったもの。故郷を出る前日、養父から渡されたもの。
それを一瞥してから、レイフォンは部屋を出た。