「ダスティ、あなたそろそろ、誰かいいひとはいないの?」
ああ、これは夢だ。
自由惑星同盟軍イゼルローン要塞駐留艦隊分艦隊司令官ダスティ・アッテンボロー少将は、自分がいま病院のベットの中であることを思い出す。
これは、数年前の記憶だ。たまたま休暇で帰省したとき、お袋にいわれた言葉だ。俺は夢の中で、母との会話を思い出しているのだ。
「うるさいな。仕事が忙しくて、そんなこと考える暇が無いんだよ」
忙しいというのは決して嘘では無かった。祖国の命運をかけた大戦争は、激しさを増すばかりだ。同盟軍軍人として数千隻単位の艦隊を預かる立場であるダスティ・アッテンボローは、仮に銀河系に住まうすべての人類を多忙な順に並べれば、上位数%に入るのは間違いない。
「一生懸命仕事をして出世するのいいけど、世間体ってものもあるでしょ」
母は、命を賭けて祖国を守る息子を誇らしく思いつつも、一方で息子が浮き世離れした軍人バカなのではないかと心配しているのだ。息子が同年代の一般的な兵士と比較して異常な速さで出世を重ねているという点を除けば、当時の自由惑星同盟のどこでも見られるような、ごくありふれた軍人とその母の会話だっただろう。しかし、このような母親のお節介というものは、いつの時代でも疎ましいものと決まっている。
「ダスティは理想が高すぎるのよ。だから、なかなか理想の人が見つからないのかもね」
「艦隊や要塞にも若い女性兵士はいるんでしょ? 身近にいいひとはいないの?」
「そうよ。要塞にもひとりくらい、好みの娘はいるはずよ。忙しいのはわかるけど、さっさと決めちゃいなさい。そろそろ国のことよりも自分の幸せを追求しなきゃだめよ」
弟とタイミングをあわせて実家に帰省してきた3人の姉までもが、母親といっしょになってダスティに詰め寄る。久しぶりに会う弟を肴に、女子学生のような恋愛談義に花が咲く。彼女達も、ちょっと生意気でやんちゃで、しかし軍の中でも出世頭の自慢の弟が可愛くて仕方が無いのだ。
「あんた、いい年してまだ『伊達と酔狂』とか言ってるの? そんなこと言ってるから恋愛できないのよ」
「ガキね。『伊達と酔狂』って格好良く聞こえるけど、要するに理屈を放棄して格好だけつけるってことよね。あんた軍人にもジャーナリストにも向いてないわ」
「この人のためにこそ『伊達と酔狂』を貫きたい! と思えるような娘を探せばいいのよ。どうせ理屈じゃないんだから、自分の直感を信じなさい!!」
姉たちの弟に対する愛情表現は、実にストレートだ。彼女達は、息子を心配しつつも息子の職業を尊重しようと努力している母とは、まったくちがう。表面上は真面目な弟をからかっているようにみせながらも、他の何よりも彼の身を案じていることは隠しようが無い。
「俺はいま最前線で戦っているんだよ。だから、そんな事を考える余裕がないの」
ダスティにできるのは、これが精一杯の返答だ。さすがに、心配してくれる母や姉に向かって、『自分はいつ死ぬかわからないから』などと言ってしまうほど親不孝な息子ではないつもりだ。だが、それでも母は食い下がるのをやめなかった。
「最前線でも、あなたの同期や先輩だって、ちゃんと結婚して家庭を築いている人もいるじゃないの」
母にそう言われて、反射的に何人かの同僚の顔を思い浮かべてみる。……おそらく母は、キャゼルヌ先輩一家のことを言っているのだろう。だが、イゼルローン要塞司令部の幕僚の中でまともな家庭を築いているのは、キャゼルヌ少将のほかは少数派だ。それどころか、某要塞防御指揮官や某空戦隊長などは、世の一般的な母親からみれば息子には決してまねして欲しくないタイプの人間だろう。いや、それ以上に、もっとも問題があるのは……。
そこに思い至ったダスティがおそるおそる母親の顔をのぞき見てみると、彼女も案の定「しまった」という表情をしている。母は、言ってしまってから、息子がもっとも敬愛している上官であり士官学校の先輩である人物の事を思い出したのだ。アッテンボロー一家は、同盟軍の誇る不敗の魔術師ことヤン・ウェンリー大将と面識がある。そして、ヤン提督が市民として、軍人として、尊敬すべき人間だと知っている。しかし、ダスティの母親からみて、ヤンには重大な欠点があった。あの女気のなさ、朴念仁ぶりだけは、決して息子には見習って欲しくはない。
親子は顔を見合わし、そろって苦笑する。
ゴホン!
母はひとつ咳払いをして、口元を引き締める。
「ヤンさんの事はいいわ。と・に・か・く、次に帰ってくるときには、誰かいいひとをつれてくるのよ。いいわね!」
ダスティ・アッテンボローが夢から目を覚ましたのは、母親の顔がアップになった瞬間だった。
……なんて夢だ。
いい年した成人男性が見る夢として、これほど最悪のものは他にないだろう。あまりの夢見のわるさに、アッテンボローは頭を抱える。今がいつなのか、自分がどこに居るのか、いったいなぜ包帯をぐるぐる巻かれて寝ているのか、思い出すまで幾ばくかの時間がかかったのも無理もない。
そうだ。俺は帝国軍の捕虜に撃たれたんだ。エリザを守ろうとして……。
撃たれた傷は、両足にあわせて4発。小口径低出力のブラスターとはいえ、そのすべてが動脈をはずれたのは運が良かったとしかいいようがない。とはいえ、手術はそれなりに大がかりなものになり、完治するまで三ヶ月以上を要すると宣告されている。
すでに入院してから二ヶ月以上が過ぎた。あんな夢を見てしまうのも、退屈で退屈でたまらない毎日が続いるおかげにちがいない。今日も、鎮痛剤のおかげでうたた寝をしているうちに、一日が終わろうとしている。
司令官はともかく、同僚はみなニヤニヤしながら口をそろえて「名誉の負傷だ、休暇のつもりでゆっくり休め」と言う。しかし、労災のため病院で怠惰な日々を強いられることを有給休暇扱いというのも、考えてみれば酷い話だ。
アッテンボローの入院中も、イゼルローン要塞に対するロイエンタール提督の嫌がらせは相変わらず続いている。その執拗さ、勤勉さ、職務に対する忠実さは、敵ながら敬意に値するだろう。一方、我が身を振り返ってみれば、ただ寝ているばかり。
負傷箇所の大部分が足であったため、ベットの上でデスクワークは多少こなしていても、命をかけて戦っている他の兵士達に申し訳ないという気持ちは、やはりある。あの不良中年が単身敵旗艦に乗り込み、帝国軍の双璧と一騎討ちを演じたと聞けば、うらやましくもある。
ためいきをひとつつき、上半身をおこす。ベットの横に、小さな人影をみとめる。
……今日も来てたのか。
哨戒任務の後なのだろうか。お見舞い用の椅子にこしかけたまま、うつむき居眠りしている少女。同盟軍の制服のベレー帽から豪華な金髪がのぞく、ちいさなちいさな少女。
毎日こなくてもいいと何度も言ったのに。
エリザベートは、アッテンボローが入院して以来、戦闘がある日をのぞいて毎日のようにお見舞いに来ている。
アッテンボローの病室は個室である。同盟軍の病院の規則においては、基本的に、男性の上官と女性の部下が個室でふたりきりになることは禁じられている。エリザがここにいられるのは、アッテンボローの負傷に責任を感じているエリザの強い要望に押し切られた、キャゼルヌ少将の特別なはからいゆえだ。なんだかんだいってもキャゼルヌがアッテンボローを信用している証でもある。
こっくりこっくり、少女の頭がゆっくりと船をこいでいる。ベレー帽がずり落ちそうだ。
この娘の性格から言って、責任を感じるなと言っても無理だろう。しかし、重傷とはいえ命に関わる負傷でもないのに、毎日お見舞いに来る必要はないのになぁ。
コクッ
一瞬、少女の頭が前に垂れかかる。ベレー帽がずれる。それを支えようと、アッテンボローの腕が自然にうごく。が、わずかに間に合わない。ベレー帽が床に落ちる。空振りしたアッテンボローの手の平が、エリザの頭に直接触れる。第三者から見れば、「いい子いい子」と頭を撫でているかのような姿勢。
だが、それでも少女は目をさまさない。静かな寝息。安心しきった無防備な寝顔。口元から、……よだれ?
エリザの頭に手を乗せたまま、アッテンボローの頬が緩む。
そんなに疲れているのか? やれやれ。我が同盟軍は、いつからこんな少女までこき使う、非人道的な軍隊に成り下がってしまったんだ? ポプランの奴に、……いや、ヤン先輩に、俺は文句を言ってやるぞ。
アッテンボローはもうひとつため息をつく。そして、あらためて少女の顔をみつめる。重なるように、二ヶ月ほど前の凄惨な光景がよみがえる。
装甲擲弾兵あがりの捕虜に力任せにぶん殴られ、文字通り吹き飛ばされた小さな身体。傷だらけの肢体。苦痛に歪む血だらけの顔。
少女の顔を見つめたまま、アッテンボローは小さく安堵の息をつく。もう傷跡はまったく残っていない。肩の力が抜ける。
ああ……、この娘を守りきれてよかった。
気を抜いた瞬間。まぶたの裏に母の姿がうかんだのは、ちょうどそのタイミングだった。
『あなたそろそろ、誰かいいひとはいないの?』
アッテンボローは息をのむ。よりによってこのタイミングでこの台詞を思い出してしまう自分の神経に驚く。いったいなぜ、このタイミングなのか。なぜこの台詞なのか。なんてタイミングででてくるのだ、おふくろ!!
大きく首をふり、呼吸を整える。アクションがオーバーになるのは、もちろん心の片隅にやましい想いがあることを自覚しているからだ。
だめだ! 耳を貸すな! これは悪魔のささやきだ!
……だが。
アッテンボローの脳裏には、あの光景が強烈に刻み込まれている。今でも油断するたびに、その光景がありありと目に浮かぶ。まさに今、目の前の少女の姿が、記憶の中のそれに重なっている。
突如あらわれた暴漢に力任せにぶん殴られ、一度は吹き飛ばされたされた少女。しかしその数分後、少女は再び立ち上がった。人質となった妹を救うため、全身ぼろぼろになってなお、少女は銃を構える暴漢に立ち向かったのだ。
武装し、さらに人質をかかえた帝国軍装甲擲弾兵に対し、単身で相対する少女。おぼつかない足取り。乱れた髪。殴られた跡。青あざ、擦り傷、血によごれた顔。大きく腫れあがり、歪んだ頬。折れた歯。流血。よだれと鼻水と涙。それでもなお、銃を構えたテロリストに臆すること無く、正面からまっすぐと、まるで射るようなまなざし。
その姿に、アッテンボローはおもわず見とれてしまった。美しいと思ってしまった。あの瞬間「この娘を守りたい」と心の底から思ってしまった。だから、自然に身体が動いたのだ。彼女の盾になるために。
神々しいまでに美しかった少女の姿を反芻するアッテンボローの耳元で、悪魔たちがふたたびささやきはじめる。今度は姉たちだ。かしましい魔女達の顔が順番に目の前に浮かび、声を合わせてダスティに詰め寄る。
『ダスティは理想が高すぎなのよ』『身近にいいひとはいないの?』『要塞にも好みの娘はいるはずよ。さっさと決めちゃいなさい』
まてまてまてまて! やめろ!! だまれ!!!
アッテンボローは、何度も何度もおおきく首をふる。年齢なりにほどほど積み重ねてきた恋愛経験の記憶が、今この瞬間の自分の感情の高ぶりに対して激しい警報を発している。
俺の感情は、いま非常にヤバイ領域に迷い込みつつある。あと一歩で、人間としてとりかえしのつかないところに踏み込んでしまう瀬戸際だ。俺は、退屈な入院生活でおかしくなってしまったか?
ひとつ……、ふたつ……、みっつ……。深呼吸をして、頭を冷やす。
ダスティ・アッテンボローは、独身主義者を気取ってはいても、別に女が嫌いという訳では無い。一生独身でいる覚悟を決めているわけでも無い。事実、学生時代から数えれば、これまで付き合った女性の数は片手では足りない程度にはなる。なんといっても、彼は自由惑星同盟軍の歴史において史上最も若く閣下と呼ばれる身になった超エリート軍人だ。むこうから言い寄ってくる女性も決して少なくはなく、それをすべて無視できるほど彼は聖人君子でもなかった。
だが、アッテンボローは自由でいたかった。自分でもガキっぽいと自覚しているが、精神的に縛られるのがイヤだった。一度なにかに縛られてしまったら、自分はいったいどうなってしまうのか、それを知るのが怖かった。彼は、彼が生まれ育った祖国が内部から徐々に、そして確実に腐敗しつつある事実を、身をもって知ることができる立場にあった。もし、彼にとって祖国よりも大事なものができてしまったら、これまでのように命を賭けて祖国のために戦える自信がなかったのだ。
俺は、好きな女ができてしまっても、『伊達と酔狂』を貫くことができるのか?
そう! だ・か・ら、俺はいまだに独身なのだ。
うむ。実に合理的だ。アッテンボローは、自分自身の心理分析の結果に満足して、ひとつ頷く。そうだ、俺は冷静だ。自分の感情と心理をコントロールできるだけの理性がある。
伊達と酔狂を貫くため、俺はいま女とつきあうわけにはいかないのだ。
むりやり冷静さを取り戻したかにみえるダスティだが、姉の顔をした魔女達はまだ諦める気はないらしい。
『あんた、いい年してまだ『伊達と酔狂』とか言ってるの? 』『『伊達と酔狂』って格好良く聞こえるけど、要するに理屈を放棄して格好つけるってことよね』
アッテンボロー本人だって自覚しているのだ。『伊達と酔狂』などというものは、一言でいってしまえば照れ隠しの言い訳なのだと。
世間一般ではまだ若造と言われる年月しか生きていない俺だが、人間の行動原理について学んだ教訓がないわけじゃない。人は、少なくとも俺は、主義や思想のために行動するわけではない。主義や思想を体現した者のために行動するのだ。例えば、俺が戦うのは民主主義のためではない。民主主義を体現した者、要するにヤン先輩のために戦っている。理屈では無いのだ。しかし、いい年をした男が、こんなことを面と向かって他人に言えるはずが無い。自覚するだけでも照れくさい。だから俺は自分に言い訳しているのだ。『伊達と酔狂』のために戦っているのだと。
わずかにひるんだアッテンボローに対して、魔女がとどめの一撃をくりだす。
『この人のためにこそ『伊達と酔狂』を貫きたい! と思えるような娘を探せばいいのよ。どうせ理屈じゃないんだから、自分の直感を信じなさい!!』
たとえば、いま目の前にいる……。
言うな!!!
アッテンボローは全身全霊をもって否定する。それが姉の言葉だったのか、それとも自分の深層心理からしみ出してきた思いなのかはわからない。だが、彼は否定しなければならない。いま最も問題にすべきは、自分の気持ちなどではないのだ。もっともっともっとはるかに大きな問題がある!
おそるおそるもう一度、アッテンボローは視線をむける。あまりにも若すぎる、いや幼すぎる目の前の少女の寝顔に。
……せめて、あと5年、いや3年。それまでは、ダメだ。絶対にダメだ。
ピク!
アッテンボローの手のひらの下、金髪が小さく動く。
やばい。目を覚ましたか。このままの体勢じゃ、絶対誤解されてしまう!
しかし、アッテンボローは動かない。動けない。彼が反応する前にすでに、少女の目は見開かれていた。状況が理解できないのか、それとも顔の距離が近すぎることに驚いているのか、目を見開き、口が半開きのまま固まっている。澄んだ瞳がアッテンボローを見つめている。たった数十センチ、息がかかるほどの距離から、心の中までのぞき込むようなまっすぐな視線。
それは比喩ではない。アッテンボローは本能的にわかった。俺の心の中は、いま覗かれている。そして、俺はそれを許してしまっている。エリザの顔は、あっという間にトマトのように紅くなる。頭の上から、蒸気が吹き上がっている。
いったい何秒間見つめ合っていたのか。永遠にも続くかと思われた沈黙を破ったのは、いつのまにか入室してきた第三者だった。
おほん!!
おそるおそる咳払いの主に視線をむけたアッテンボローは、おもわず声をあげてしまった。
「キャ、キャゼルヌ夫人!」
病室の入り口に仁王立ちしている三つの影。ふたりの娘の手を引くキャゼルヌ夫人だ。アッテンボローのお見舞い用だろう、シャルロット・フィリスは大きな花束をかかえている。
キャゼルヌ夫人は、エリザが実の母以上に慕っている女性だ。そして、イゼルローン要塞を実質的に取り仕切るアレックス・キャゼルヌ少将だけではなく、要塞司令官であるヤン・ウェンリー大将ですら逆らえない女性だ。もちろんアッテンボローも、家族ぐるみで公私ともに世話になっている彼女には、決して頭があがらない。
そんなミセス・オルタンス・キャゼルヌが、ニッコリと微笑みながら、固まったままのふたりをみつめている。
「エリザを迎えにくるついでに親子でお見舞いに参りましたのよ。お元気そうでなによりですわ、アッテンボロー少将」
自分の手がいまだにエリザの頭に乗せられている事にこの時点でやっと気づいたアッテンボローは、腕をすばやく引き戻す。そのまま上半身を硬直させ、敬礼の姿勢をとる。そうする以外、どうすればよいのか思いつかなかったのだ。
「あっ、そっ、それはどうも。おかげでもうすっかり完治しましたよ、はっはっは」
「それはよかったですね。ところで、……ダスティ・アッテンボロー少将!」
一瞬前まで穏やかだったキャゼルヌ夫人の声が、突如ドスのきいたものにかわる。
「はっ!」
アッテンボローは反射的に背筋をのばす。上半身だけ、気をつけの姿勢をとる。背筋を冷たい汗がつたう。口の中が乾く。
「私は軍の規則には詳しくありませんが、同盟軍においてセクハラ行為を行った者は軍法会議のうえ懲役3年、そのうえで降格が普通だと聞きました。ちがいますか?」
「はっ、はい。その通りであります!」
「それだけではありません。我が自由惑星同盟の刑法では、16才以下の未成年に対する淫行は犯罪です。暴行罪もあわせて刑事告発されれば懲役20年は間違いないでしょう。わかっていますね!」
「はっ、はひ!!」
士官学校で教官から説教されている時でも、これほど背筋をぴんと伸ばしたことはなかった。そのうえ、返事の声が裏返っている。
「ならばよろしい。……エリザ、今日は帰りますよ」
「はっ、はい」
アッテンボローの隣でやはり身体を硬直させていた小さな肢体が、飛び跳ねるように立ち上がる。そして、床に落ちていたベレー帽をひろおうと手を伸ばした瞬間、その顔をアッテンボローに向けた。ふたたびふたりの間の時が止まる。
なっ、何か、言わなければ。
アッテンボローは、脳細胞をフル稼働させる。しかし、強大な帝国軍艦隊を相手に過激な挑発を繰り返し、あるいは同盟政府首脳や軍最上層部にすら痛烈な皮肉を吐き出すことを躊躇わない彼の毒舌は、この瞬間まったく機能していない。大人として、上官として、男として、言いたいことは沢山あるはずなのに、言葉にならない。ただ、見つめ合う時間だけが過ぎていく。
それは当人にとっては永遠にも思える時間であったが、しかし客観的にはほんの数瞬であった。いまだ表情が固まったままのアッテンボローに向かって、エリザはニッコリと微笑む。100点満点、まぶしいほどの笑顔。あっけにとられる同盟軍少将をその場に残し、少女は振り返り母の元に駆け去って行く。
満足そうな表情のキャゼルヌ夫人と3人の娘が去って行った後、アッテンボローは身体の力が抜け、ベットの中でへなへなと横になってしまった。
こんなに緊張したのは、人生においてはじめての経験だ。帝国の大艦隊に包囲されていても、ここまで冷や汗をかいたことなどない。なんといっても、もっとも得意とする戦術、必殺の『逃げるふり』ができなかったのだ。
退院、復帰したら、彼女の機体はアッテンボローの指揮下に配備されることになるのだろう。
「あー、どんな顔をして命令すればいいんだ、俺は」
アッテンボローは、ベットの上で頭を抱えてのたうち回る。
だが、彼の苦悩は杞憂となった。
次の日も、エリザはいつもの通りにお見舞いに来たのだ。キャゼルヌ夫人や妹とともに病室のドアの前にあらわれた彼女を見て、アッテンボローは目を丸くする。彼は困惑し、狼狽する。突然の事に、いったい何を話せばいいのかわからない。
しかし、彼女は、若き提督の狼狽など気にするそぶりすらみせなかった。幼い妹達はアッテンボロー相手にはしゃぎ、夫人は週刊誌を読む合間に世間話をする。その間、エリザはアッテンボローの横でボーッと時間を過ごすだけだ。そして、たった30分間ほどそうして過ごした後、彼女達は満足げな顔をして帰って行ったのだ。
翌日もその翌日も、そんな温く心地よい日々がつづく。そしてある日、キャゼルヌ夫人がさりげなくアッテンボローに告げる。
「ハイネセンに帰ったら、私たち家族を、少将のご実家に招待していただけるかしら?」
ハイネセン? 次にハイネセンに行くのは、……ローエングラム公の艦隊をおびき出すためにイゼルローン要塞を放棄する時、だろうな。ヤン提督なら、かならずそうするはずだ。しかも、それはそう遠い未来のことじゃない。
同時に、アッテンボローの胸中に、またもやお袋の顔がうかぶ。
『次に帰ってくるときには、誰かいいひとをつれてくるのよ!』
……降参だ。わかったよ。
誰も居ない空中に向かってつぶやく。
予想される障害は多い。無数にあるといってもいい。しかし、こんな時のため、俺にはとっておきの座右の銘がある。
「それがどうした!」
こうして、ダスティ・アッテンボロー提督の長い休暇は終わったのだ。
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年の差的にはケスラーさんよりはましということで。
書いてる最中はノリノリだったのですが、読み返してみるといまいち、というかぜんぜん銀英伝っぽくないですね。番外編ということで勘弁してください。
残りはそんなに長くない予定なので、がんばって完結するぞ! ヤザンナ様とどちらが先かは神のみぞ知る。
2012.11.25 初出