宇宙歴798年 8月
その日、自由惑星同盟最高評議会議長ヨブ・トリューニヒトにより、全同盟市民にむけてひとつの歴史的な演説がおこなわれた。
銀河帝国皇帝エルウィン・ヨーゼフ2世が自由惑星同盟に対して亡命、さらに同盟政府は亡命政権を承認し、「銀河帝国正統政府」が樹立されたというというのだ。
エルウィン・ヨーゼフ2世は7才の少年である。既に帝国の実権はラインハルト・フォン・ローエングラムに握られており、幼帝の権力は名ばかりのものとなっていることは、同盟市民にも周知のことであった。だが、まさか皇帝自らが同盟に対して亡命し、同盟政府がそれを受け入れてしまうとは、多くの市民にとっては文字通りの寝耳に水であっただろう。
いや、それだけならばまだ、祖国を追われた哀れな幼帝を救うための人道的な措置ということで、理解可能な範疇だったかもしれない。だが、まさか民主主義を国是とする同盟政府が、数百年にわたって戦ってきたはずの専制国家の亡命政権樹立を受け入れてしまうなど、いったいだれが予想し得ただろう。
発表をうけた直後の同盟市民の反応はといえば、ひとことでいえば困惑につきた。自ら選択した政府の決定に対して、あっけにとられたと言っても良い。しかし、時間がたつにつれて人々は我を取り戻し、徐々に議論は盛り上がる。やがて国論は二分され、世論は沸騰した。建国以来もっともはげしい国を挙げた論戦は、皮肉にも、専制国家の君主によってもたらされたのである。
だが、イゼルローン要塞の面々にとっては、皇帝の亡命と臨時政権の樹立それ自体は、驚愕の前座でしかなかった。真の驚愕は、それに付随した正統政府の人事について知らされたとき、もたらされたのだ。
樹立された銀河帝国正統政府の軍務尚書にメルカッツ上級大将が就任するという発表を聞いたヤン・ウェンリーは、耳をうたがった。大抵のことでは驚かないイゼルローン要塞司令部の剛胆な面々も、これには心の底から驚かされた。そしてそれは、メルカッツ本人にとっても驚愕すべきニュースであった。彼は、この件について事前にまったく知らされてはいなかったのだ。
ほんの一瞬の狼狽から立ち直ったメルカッツがまず考えたのは、この驚くべき人事がイゼルローン要塞司令部にあたえる影響である。皇帝の亡命から正統政府樹立までの筋書きには、同盟政府も一枚噛んでいるはずだ。したがって、仮にメルカッツが正統政府への参加を受諾したとしても、現在彼に給料を払っている同盟政府への義理という点では、心配する必要はないだろう。
だが、メルカッツが最も恐れるのは、正統政府の軍事面での責任者を押しつけられることで、ヤンのもとを離れざるを得なくなることであった。イゼルローン要塞の若き司令官は、自分の能力を買ってくれている。バカバカしいとも言える正統政府の樹立にメルカッツがまったく関与していないことも、あたりまえのように理解してくれているようだ。ヤン・ウェンリーを裏切ることは避けたい。たとえ同盟政府や正統政府の意向と異なる行為たとしても、だ。
そのうえなによりも、正統政府とやらに正当性があるとは、メルカッツにはどうしても思えない。今やローエングラム公が握る銀河帝国の覇権を、正統政府が覆すことなど絶対に不可能だ。圧倒的多数をしめる平民達が、いまさらローエングラム公ではなく皇帝陛下を支持することなどあり得ない。しかし……。
しかし、皇帝陛下は正統政府の手の中にある。
メルカッツは、銀河帝国皇帝に対する忠誠心をいまだに捨ててはいない。だからこそ、陛下には政争と戦争の渦中に巻き込まれて欲しくはない。判断力すら具えていない幼い陛下には、権力などにこだわらず、平和に安穏と暮らして欲しい。正統政府の面々は、自分たちのエゴのために陛下を利用としてるだけだ。彼らの手から陛下を守る事ができるのは、メルカッツだけだろう。
はなはだ正当性を欠き、さらに名前だけのむなしい職ではあっても、銀河帝国正統政府の軍務尚書への就任要請は受けざるを得ないであろう。メルカッツは理性とは別の部分で判断していた。
メルカッツは、傍らに立つ少女に視線をあわせる。
エリザベート・フォン・ブラウンシュバイクは、かつて現皇帝エルウィン・ヨーゼフ2世陛下と皇帝の座をあらそった、皇統の血を引く者だ。この少女も、政争の道具として扱われたあげく、門閥貴族連合と共にローエングラム公によって滅ぼされる運命にあった。ぎりぎりのところで、メルカッツが共にイゼルローンに亡命することによって命をすくわれたのだ。いや、この少女の存在と、少女を命をかけて守ったシュナイダー少佐のおかげで、メルカッツ自身が亡命の決意を固めることができたと言った方が正しい。
せめて少女が成人するまでは、彼女を手元に置き、彼女を流れる皇帝の血が呼び込むであろう嵐から彼女の身を守るつもりでいた。だが、エルウィン・ヨーゼフ2世陛下に仕えながら、エリザベートを守ることは不可能だ。今はいち同盟市民として暮らしているエリザベートであるが、正統政府軍務尚書メルカッツとかかわっている限り、ゴールデバウム王朝の亡霊に取り憑かれた連中によって、再び政争に巻き込まれる可能性は否定できない。
「エリザベート」
提督の呼びかけに、少女はビクッと体を震わせる。普段からボーッとしているよう見える彼女も、さすがに一連の事件の報には驚愕しているようだ。そして、なんらかの火の粉が自分の身に降りかかることを、覚悟していたのだろう。緊張がありありとみえる声で応える。
「……はい、提督」
「すでに聞いているだろうが、私は銀河帝国正統政府とやらの軍務尚書に就任するらしい。正式な要請があるまでは、いままで通りヤン提督のもと、司令官顧問という立場を続けさせていただくがな」
メルカッツが一端話を区切る。エリザベートは、微動だにせずに続きをまつ。
「だが、エリザベート。君は正統政府などというくだらないものに付き合う必要はない。ゴールデンバウム朝はすでに滅びたのだ。門閥貴族連合と共にな。エリザベート・フォン・ブラウンシュバイク、……いやエリザベート・キャゼルヌ上等兵、君は従卒の任を解かれることになる」
「はい」
「とはいっても、既に君は実質的にイゼルローン要塞空戦隊の一員だったな。今後のことはヤン提督の指示に従いなさい。これからは、普通の人間として、平凡に生きてゆくのだ。それを見守ってやれないのは残念だが、君には新しい家族と仲間がいる。ひとりぼっちではない。そうだな?」
「はい!」
エリザベートが力強く返事をする。そして、まったく形になっていない下手くそな敬礼をする。メルカッツがお手本のような敬礼をかえす。祖父と孫ほど年の離れた二人は、そのまま数分間にわたって見つめ合っていた。
「……すると、ローエングラム公は、故意に皇帝を逃がしたというわけですか?」
口火を切ったのは、シェーンコップ少将である。
イゼルローン要塞のとある会議室に、メルカッツを除く要塞の幕僚達が自然と集まり、今後の対応について話し合っている。メルカッツが門閥貴族達の愚行に付き合わなければならぬのと同様、彼らは彼ら自身が選んだ同盟政府に付き合わなければならない。
「十分あり得ることだね。そして、彼はこれを大義名分として、同盟領に侵攻してくるだろう」
ヤンが重々しく答える。
今回の亡命騒ぎでいったい誰が得をしたのかを考えれば、おのずと答えはでる。誇り高いローエングラム公としては、幼い皇帝を簡単に殺すわけにもいかず、その扱いに困っていたはずだ。幼帝が表向き自発的に亡命してくれれば、みずから手を汚さずに済む。さらに、同盟政府の対応によっては、一気に同盟領に攻め込む大義名分にもなる。
「しかし、皇帝の身はともかく、同盟と帝国の戦争はすでに数百年間続いています。いまさらローエングラム公に大義名分など必要ないでしょう。しかも、イゼルローン回廊は我々が押さえています。侵攻と言っても難しいのではないですか?」
ムライ参謀長が、あえて常識的な反論を行う。阿吽の呼吸で、ヤンが答えをだす。
「これまでの戦いは皇帝と反乱軍との戦い、ひとことで言ってしまえば、多くの帝国臣民にとってはしょせん他人事だった。しかし、同盟に亡命政権が樹立されたとなれば、状況が変わる。ローエングラム公は帝国の平民に対して呼びかけるだろう。これは平民と門閥貴族残党の戦いだとね。要するに、銀河帝国250億人全てが、我々の敵となってしまったんだ」
ヤンはティーカップをもちあげ、茶色の液体をひとくちだけ口に含む。ブランデーが欲しい。
「そして、イゼルローン回廊を我々が確保していることは、同盟の安全を担保しない。幼い皇帝がどうやって、誰に連れられて同盟に来たのか考えればわかる。彼らはフェザーンと組んだと考えるのが自然だ。帝国軍の大艦隊は、大多数の平民の圧倒的な支持の元、フェザーン回廊を通って同盟領になだれ込むだろう」
亡命政権を承認すること自体は、同盟にとってマイナスの面ばかりではなかったはずだ。外交的に上手く立ち回る時間さえあれば、帝国内に僅かに残るであろう門閥貴族の残党を巻き込み、ふたたび帝国を内乱に持ち込むことも不可能ではないだろう。だが、自主的にしろ力ずくにしろ、フェザーンが帝国と組んだのなら話は別だ。安全な通路を確保したローエングラム公は、そのような時間を与えてくれはしない。銀河を統一するため、同盟領を侵攻することに躊躇しないだろう。
「我々の政府は、自分自身の死刑執行書に自らサインしてしまったのさ」
ため息とともに吐き出されたヤンの言葉により、会議室が沈黙で満たされる。少しでも場の空気をかえようと、キャゼルヌが話題をふる。
「首都では騎士症候群が蔓延しているらしい。暴虐な簒奪者の手から幼い皇帝を守って正義のために戦おう、というわけさ」
シェーンコップが、苦々しい表情でかえす。
「ゴールデンバウム朝の専政権力を復活させるのが、民主主義国家の正義ですか? ばかばかしい。反対論はないのですか?」
「慎重論を唱える者は非人道派よばわりさ。7才のこども、というだけで、おおかたは思考停止してしまう」
深く考えずに、アッテンボローが割り込む。
「これが、14、5才の美少女だったら、熱狂度はもっとあがるでしょうね、……あっ!」
自分で言ってしまったことに気づき、アッテンボローが息を呑む。ヤンが、ティーカップから顔をあげる。
ヤンの言うことが正しいとすれば、亡命してきた不幸な皇帝陛下は既に命運が尽きている。たとえ門閥貴族の残党がいたとしても、正統政府とやらと同じ泥舟に乗ろうとは思わないだろう。今は熱狂している同盟市民にしても、帝国軍がフェザーン回廊を突破した時点で邪魔者扱いするに決まっている。
だが、本来皇帝になっておかしくなかった者がもうひとりいたら? それが、身寄りはすべて殺されてしまったひとりぼっちの不幸な美少女だったら? そのうえ、少女自ら戦闘艇を駆り、憎きローエングラム公の大艦隊と戦っているとしたら? 彼女を守る騎士は帝国軍随一の名提督で、しかも同盟軍が誇る不敗の名将の保護をうけているとしたら?
帝国内に混乱をさそうのに、これほどの適材はおるまい。同盟市民の戦意高揚にもつかえる。仮にハイネセンが陥落し、ヤン艦隊の戦いがゲリラ戦に移行したとしても、各勢力から援助を受けるためのハッタリのネタとして不足はない。
エリザベートの存在を秘密にした理由のひとつは、それを口実にローエングラム公が侵攻することを恐れたことであった。だが、今やその心配は意味がなくなった。彼女の存在を公にしたとしても、いまさらマイナスはないはずだ。
「ちょっとまて! まさかエリザを政治的に利用しようなんて考えてないだろうな?」
キャゼルヌが声を上げる。
「まさか! ……ねえヤン先輩、そんなこと考えてませんよね」
アッテンボローは即座に否定する。そして、肩をすくめながら、ヤンに同意を求める。
「……もちろんさ。エリザはただの同盟市民だからね」
ヤンは静かに答える。それがヤン自身に対して言い聞かせているように聞こえたのは、キャゼルヌだけだったかもしれない。
ラインハルト・フォン・ローエングラムが、自由惑星同盟に対し、武力による懲罰を宣言したのは、その数日後であった。両国の戦争が始まり数百年、ここに初めて、公式な宣戦布告がなされたのである。
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次はロイエンタールと一騎打ち……かな?
2011.02.06 初出
2011.02.13 よりによって主人公の年齢をまちがっていたので、訂正しました。すいません。