ファミリーレストランでスポーツ外傷病院を紹介されて丁度二週間。その日祐樹の運命が奇妙な方向に捻じ曲がった日でもあった。
結論から言ってみれば祐樹が紹介された病院に足を向けることはなかった。
やはり健二の携帯電話で確認した咲下井塚という文字列がどうしても引っかかったのである。前世で同じ名前をしていた大塚健二が非常に今の健二と似ていることを含めて、咲下という人物に無警戒のまま近づくのはどうしても躊躇われた。
だからこそ怪我の治療は一般病院に任せきり、空いた練習時間は休養期間と割り切って自宅に引きこもったのである。
ややブラコン気味である珠が喜んだのは言うまでもない。
だがその安寧の日々も決して長くは続かなかった。
「……え?」
テレビでは甲子園の熱闘を伝え続ける八月の終わり。マスコットバットを片手で振り回し、トレーニングを続けていた祐樹に電話があった。相手は最近スタメン出場を果たした弥太郎だ。
彼は非常に言いにくそうに、だがはっきりとした声色で言葉を続けた。
「いや、俺も先輩伝手だから断言できないけど、お前の怪我。随分と深刻だって他校に受け取られているらしい」
最近ギプスも外れ、後は練習復帰を目指すだけだった祐樹だったが弥太郎が告げた連絡に思考が停止した。
突然動きを止めた兄に妹の珠は怪訝な表情を見せたが、祐樹はそれに気がつかない。
「多分ベンチ入りすらしなかったのが原因だろうな。うちの監督は結構放任主義だから何も言わなかったけど、他校や地区の高校はお前をDLリストに指定したと思う。それも大怪我を負ってな。あの日のデッドボール、手首とかに当たったんじゃないか、って推測してるぜ」
不味いことになった、と祐樹は天を仰いだ。頬を伝っていた汗がフローリングの床に落ちる。彼は片手で握り締めていたマスコットバッドを手放すと、頭を掻き毟りながら受話器に耳を傾けた。
「疑惑を晴らしたいのならとっとと試合出場して活躍するのが手っ取り早いんだけど、今のお前でいけるか?」
弥太郎の声と共に反射的に祐樹は自身の右手を見た。ギプスはもう外れているものの、まだ片手でしかバットを触れないのは完治とは言いがたかった。
だから彼は電話の向こうの弥太郎に不可能の旨を伝えるしかない。そしてそれを聞いた弥太郎は「あー」と間延びした声を上げた。
「やばいよやばいよ。一年から故障持ちと思われたら進学先がねえぞ」
祐樹と弥太郎、この二人がここまで焦っているのは彼らのこれからについてである。特に祐樹の場合、中学入学時のゴタゴタ(ここでは割愛)によって地元の名門高校に通うことが難しくなっており、進学先はほぼ県外の高校に中学一年生時点で決定しているのだ。
だがここで故障者リスト入りがネックになってくる。その高校進学というのは勿論野球の才能を買われてのものだ。しかし今のように傷有りの選手として認識されてしまった場合、神崎祐樹という一野球人の価値は半減とまでは言わないものの大幅に下がることは覚悟しなければならない。
そうなってしまっては彼に食指を伸ばす高校が激減してしまうのだ。
何としても最短でのプロ入りを狙う祐樹にとって、それは最大の障害になりかねなかった。
「……なあ祐樹。お前この前健二から聞いたよな?」
何とか解決策を模索しようとしていたとき、ポツリと健二が呟いた。祐樹は彼が台詞を言い切る前に、そこに込められた意味を推測した。
それはすなわち、
「咲下先輩の実家を訪ねろよ。で、治療カルテを書いてもらって身の潔白を証明するんだ。あそこは他校の選手や監督も通っているから、すぐにお前の怪我は大したもんじゃないと知れ渡るぜ」
やはりそうか、と諦めにも似た感情が祐樹の中に渦巻いた。結局のところ、あの日のファミリーレストランで健二に道を示されたときから避けては通れなかったのだ。
むしろ変な警戒を持たずに、おとなしく紹介された病院に通っていればここまで面倒なことにはならなかっただろう。
祐樹は二、三事弥太郎に礼を告げ、受話器を置いた。
怪我とは別の意味で曇った表情は、テレビの向こうの熱闘甲子園とは正反対だった。
そしてこれは翌日のこと。
弧を描くように飛ぶ白球の押収が彼是二十分ほど続いていた。
「つまり纏めれば、神崎くんはデッドボールの影響が全く無いことを証明するため、僕が紹介した病院に行ったと。そういうことだね」
「ああ。お前も昔言ってたけれど、あそこは野球クラブの監督たちの情報源でもあるわけだろ? だからそこで影響がないと診断されたのなら、他校の関係者もそう思う筈だぜ?」
変化球を交えながらの軽いキャッチボール。弥太郎と健二は実戦形式の試合を続けるチームを他所に、ファールグランドの片隅で祐樹について話していた。
「しっかしうちの中学にも俗に言う高校スカウトが来ていたんだね。で、彼らの目に神崎君が全く露出しないから余計な噂が立ったんだ」
「大事を取って休養したのがまずったか……。サボってたわけじゃないんだけどな」
「そんなこと皆知ってるさ。どうせ君と電話しているときもマスコットバット振ってたんだろ? 彼は才能もあるけど何より努力の人だからね。でもさ、彼が復帰しないことを喜んでいる輩が残念ながら身内にいるよ」
ぽーん、と健二の持ち球ではないカーブが投げられる。弥太郎はそれを救い上げるようにキャッチすると、今度はセカンドベースを刺すような球筋で返球して見せた。健二のグラブから心地よい音がする。
彼は弥太郎から球を受け取った後、実践練習を続けるグラウンドを見やった。
そこでは三番手として投球した加奈子が荒い息を上げ、次の打者を睨んでいる。ランナーを二人背負いながらも、何とかツーアウトまでもぎ取ったようだ。
「ちっ、あのキャッチャー加奈子の扱い方が全然だな。四球が嫌なのか全然コーナーを要求しねえ」
そう。先ほどからリードを観察してみれば、キャッチャーのミットはやや真ん中よりの低目が多かった。球威で男性に劣る加奈子はそのゾーンに馬鹿正直にストレートを投げ込むわけにはいかず、何とか変化球でかわそうと四苦八苦している。
「……違うよ。あれはわざとさ。あの先輩、僕が投げたときは逆にどんどんコーナーを要求してくるよ。でも僕には佐久間さんほどのコントロールはないからとても厳しいんだ」
健二の侮蔑するような一言を聞いて、弥太郎は頭に血が上るのを感じた。それはいまだに思いを寄せている少女が下らぬ先輩の嫉妬でいびられていると気がついたからだ。
「よくも悪くも僕たちは目立ちすぎたんだ。特に神崎君と僕が。あそこで練習している人たちが絶対に届かないような名門校からのスカウトを蹴ったのが駄目だったみたい。でも本来僕らに向けられる筈の嫉妬は、僕たちが先輩たちを叩きのめしたことで叶えられることはなかった。そこで君たち二人に捌け口が向かっているんだ。本当、あいつらなんか大嫌いだ」
普段はにこにこと女子生徒に人気の笑顔を振りまく健二だったが、今回ばかりは勝手が違った。弥太郎は静かに怒りに燃える健二を見て逆に冷静になっていく。
「けれどそれも後二年の辛抱だ。二年たてば俺たちは最上級で誰も文句を言わなくなる」
ボールを返球するよう弥太郎がミットを掲げた。健二は「そうだね」と同意の言葉を告げながらも、背後でマウンドに立つ加奈子のことが気になった。
「……それまで、四人そろって野球をしているとは限らないけど」
健二の呟きは直後の快音でかき消される。音だけで判別がつく痛恨のスリーランホームラン。見事先輩の術中に嵌り、被弾した加奈子は目に涙を込めながら、ダイアモンドを回るランナーを睨みつけていた。
ここでもまた、歯車が少しずつズレていく。
自転車で十五分ほど漕いだ場所に件の病院はあった。
表の看板には スポーツ外傷 ご相談下さい と掲げてある。
祐樹は深く深く深呼吸を繰り返すと、意を決したように表の自動ドアをくぐった。
そして外で感じていた熱気とは別の、冷房独特の冷機を一身に浴びる。咄嗟に肩が冷えないよう汗拭きタオルを首の周りに巻きつけた。
「すいませーん」
薄暗い院内受付には人影が見えない。もしや診療時間を間違えたのでは? と潜ってきた自動ドアを振り返るが、そこに表示された診療時間に問題は無かった。
病院という名を冠しながら、人影一つ見えない室内に違和感を覚えながら祐樹は少し奥にある診察室に足を進めた。もしかしたらそこで医師が休憩でも取っているのではないかと考えて。
だが祐樹のそんな淡い期待は見事に打ち破られることになる。診察室に足を向けたとき、廊下で鉢合わせた人物の所為だった。
「あらあらごめんなさい。今父は外先診断で席を外してます。もう十分程で戻りますので、少しお待ちくださいな」
ぱたぱたとナースサンダルで駆けてきたサマーワンピースの女性。
祐樹は申し訳なさそうに頭を下げるその女性から目線を外すことが出来なかった。
だってそれは、余りにもあれだったのだから。
「咲下……先輩」
震えるように搾り出した声から滲み出るのは懐かしさではない。むしろこの世界で出会ってしまった恐怖にも似た感情だった。
腰まであろうかという艶やかな黒髪も、
こちらの深淵まで見透かされそうな澄んだ瞳も、
そして前世で祐樹を捕らえて話さなかった静かな声色も、
いつか溺れたあの蜜地獄と全く同じだった。
神崎祐樹を縛りつけたのは何も日本シリーズのあの打席だけではない。
唯一彼が前世で愛していた恋人までもが彼を呪う。
彼の打席への再現の道は、易々と上り詰めることの出来るものではなかったのだ。
やきうをしよう。でも本当にそれでいいの?
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こんな時間に更新。
更新ペースは若干文章量を減らすことで対応。
人物パートはどうしても短くなりがち。高校野球編で一気に増えそうなので、しばらくお付き合い下さい。
誤字脱字は今晩一括で修正します。ご指摘ありがとう御座います。