九回の裏、ツーアウト満塁。二点リードのマウンド。
昨年の関東地区予選でのリリーフを評価された加奈子は、監督からチームの守護神を任せられていた。健二が怪我で暫く投げることが出来なくなった今、完投を繰り返すことが出来る投手は少ない。
そこで低い被打率を誇り、短いイニングなら完璧に押さえることの出来る加奈子が七回から九回のマウンドに立つことが多くなっていた。
そして今日この場面。
三年生になり、キャプテンと四番を受け持つようになった祐樹が放った満塁ホームラン。
先発した二年生も粘りのピッチングで二失点に抑えている。そのまま両チームゼロ行進を続けた上での九回裏。
マウンドに立つのはもちろん加奈子だった。
だが今日の調子ははっきりいってよくない。
ここのところ連続登板をした所為か、肩の疲労が酷い。ウィニングショットのカーブもすっぽ抜けることが多くなり、ストレートのコントロールもボール一個分はずれている。
何だかんだ連打されたり四球を出して、でもアウトを二つもぎ取るとこまでは来ている。
今相対している打者も、ツーストライク、ツーボールまで来ていた。
肩で息をし、滝のような汗を流す加奈子は弥太郎のサインに首を振る。執拗にストレートのサインしか出してこない彼に苛立ちすら覚えていた。
彼の目線は語っている。
「逃げるな、真っ直ぐ向き合え」と。
加奈子が投球動作に入る。この一年間でスリークォーターだった投球フォームはややサイドスロー気味に変化していた。それは新しい球としてスライダーを覚えたことも関係しているのだが、今はそんなことどうでもいい。
加奈子は弥太郎に対する恨み辛みを吐き捨てる。
「あんたに、そんなこと!」
二人いる幼馴染みの、好きじゃない方。
二人いる幼馴染みの、鬱陶しい方。
二人いる幼馴染みの、野球が上手くない――――、
加奈子の脳裏に昨年の大会でバッターボックスに崩れ落ちた祐樹の姿が蘇る。彼女は直前に祐樹と弥太郎がかわしていた言葉を聞いている。
弥太郎は言った。
「ホームラン狙いは駄目だ。後ろを信じろ」
加奈子は祐樹の打席の結果をベンチの前で見守っていた。打ち上がった打球は野球素人ならば打球音も相まってボルテージが上がる最高の打球だった。
けれど、この世界に足を踏み入れてもう十年近くなる彼女から見れば、奇跡を祈るべくもないただのライトフライ。
結局、弥太郎の告げたことは正しかった。
今思えば、あの日正しかったのは弥太郎だけだった。普段はエースとスラッガーの影に隠れている彼が、済んでのところでチームを支えていることがわかった。
健二が抜けた清祥がそこそこの勝率を維持しているのも、彼が投手陣を牽引しているからだと、祐樹も告げていた。
そして今日も彼は正しい。
加奈子の手から離れたボールは最後の最後でコントロールを失った。
昨年の地区大会のように、綺麗に力を抜いた球ではない。ただ力を伝えきれず、失速していくど真ん中の失投だ。
相手のバットがボ殆ど変化しなかったカーブをすくい上げる。伸びていく打球は祐樹が打ったライトフライトは違って、美しい放物線を描きながらライトスタンドに突き刺さった。
逆転満塁サヨナラホームラン。
加奈子が現実を認識したとき、膝から力が抜けた。
ホームベースの向こう側から駆けてきた弥太郎が加奈子の肩を揺さぶる。後ろから祐樹が走ってくる気配を感じた。
加奈子は彼を振り返るのが怖くて――――、
目が覚めた。
加奈子は寝ぼけ眼で目覚まし時計を見た。セットした八時までまだ一時間近くある。
早く起きすぎたともう一度ベッドに倒れ込むが、外から聞こえてくる蝉の声と、彼女にまとわりつく寝汗がそれを許さなかった。
のろのろと起き上がった彼女は素早くパジャマを脱ぎ捨てると、朝食の匂いが漂っている階下に向かう。暑い暑い八月の終わりのことだった。
一年なんてあっという間だった。憎き泥棒猫はとっとと卒業し、今度は自分たちが受験生になった。新しく野球部のキャプテンになったのは夢の中では祐樹だったものの、現実世界では弥太郎だった。
キャッチャーとして誰よりも試合を見ていたことと、その性格が後輩受けしたことが大きい。
良くも悪くも祐樹はプレイヤーとして孤高の存在だった。
そして健二はまだ復帰していない。
いや、既に何試合かは登板できるまでに回復したのだが、本格的な手術無しでは以前のように投げられないと彼は語っていた。そしてその手術は成長期まっただ中の今ではなく、ここ二年以内に行うということ。
そんな新生清祥ナインは去年の雪辱を晴らすべく、今年も地区大会予選に出場した。
結果は前回の準優勝にすら届かないベスト4入り。
前回よりダウンした投手力の差が埋まらなかったことと、去年決勝で戦った中学と早くに対戦したことが駄目だった。
健二からスリーランを打った鳥飼誠は謎の覚醒を遂げ、祐樹とまではいかないものの関東地区最強の打者に近づいていた。
先発した二年生は彼に滅多打ちにあい、それまでのらりくらりとかわしていた中継ぎの加奈子も捕まった。結局は祐樹と鳥飼二人による乱打戦になったが、十七対十六の馬鹿試合で競り負けることになった。
こうして、祐樹と加奈子、そして弥太郎や健二の中学野球は終わりを告げた。
何とも呆気ない終わり方に四人して笑ったことは覚えている。もっと感慨深い終わりがあると思っていたら、いつの間にか終わっていたということだ。
変化はまだある。
それは加奈子に一人友人が増えたことだ。
野球部を引退する直前。地区大会が終わった直後。つまり今年の八月の頭。
受験補修というお題目のもと、学校に呼び出されていた加奈子へ声を掛ける女子生徒がいた。今まで彼女に声を掛けてくる女子生徒というのは、特別仲が良い友人を覗けば、祐樹や健二に紹介してくれと群がってくる野次馬ばかりだった。
だからその時もとっとと追い返そうと加奈子は投げやりに応答して見せた。
だがその女子生徒が告げた台詞は少し変わっていた。
「私に野球を教えて」
名を聞けば柏木愛と名乗った女子生徒は、自分とは違い髪の毛を肩口で切りそろえた色白の少女だった。
何でも吹奏楽部の副部長を務めている文化系で、とても野球に興味を持つようなプロフィールではなかった。ところがその感情がよく読めない無表情を貫きながら、柏木は続ける。
「ルールは一応本を買って覚えた。けれど本にはプレイヤーからの視点が書かれていない。だからあなたの体験談、聞かせて」
入道雲が空を支配し、蝉の音が世界を満たす終戦記念日前。
加奈子は思わず首を縦に振っていた。
「あら、加奈子。夏休みというのに随分早起きなこと。これはあれかしら。神崎君と行く今日のお祭りが楽しみなの?」
顔を洗い、朝のシャワーを浴びた加奈子は朝食を用意している母とリビングで出くわした。既に寡黙な父はテーブルに着き新聞を広げている。
「馬鹿いわないでよ。暑いから目が覚めただけ。あ、お母さん、今日ゆーくんは六時くらいに来るから」
テーブルに置かれていた牛乳をラッパ飲みし、加奈子は父の対面に腰掛ける。
寡黙な父はそんな娘を一瞬だけ視線に捉えるが、直ぐに新聞の字面へと視線を戻した。そこには甲子園の結果が書かれている。
「なら夕飯は少し多めに作った方がいいのかしら。きっと木田くんや大塚くんも来るだろうし」
食材はまだあったかしら、と母はぱたぱたと冷蔵庫の確認に向かった。どことなく嬉しそうな口調の母に加奈子はため息を一つつく。彼女は対面に座る父が広げる新聞を睨み付けると、朝食が出てくるのを大人しく待った。
そんな加奈子へ今まで沈黙を貫いていた父が口を開く。
「……そういえば加奈子」
「何? お父さん」
「さっき大塚君から電話があったぞ。昼前に河川敷グラウンドに来て欲しいそうだ」
久しぶりにかわした父娘の会話は実に味の無いものだったが、加奈子はとくに何を考えるでもなく、心のスケジュール帳に『昼前、河川敷』と書き記した。
朝から一人自転車を漕いだ祐樹の体は汗に塗れていた。張り付くYシャツをぱたぱたと煽りながら、彼は一人夏の日差しに照らされた校舎の中を歩く。
途中ですれ違うのは部活で登校している生徒達。中には彼が引退した野球部のメンバーもいて、暑苦しい挨拶を廊下を進む祐樹に放っていた。彼はそれらを適当に裁きつつ、目的の教室にたどり着く。
進路指導室と銘打たれたそこの扉をノックすると、短く「入れ」と聞き覚えのある声が聞こえた。
そういえば前世でも何度かお世話になったな、と取り留めのないことを考えつつ、祐樹は一つ頭を下げて部屋に足を踏み入れた。
「やっときたか」
目の前の席に腰掛けていたのは三人の中年男子。一人はこの学校の長たる校長。そして一人は祐樹の担任。
最後にこちらを分厚いメガネ越しに睨み付けてくる野球部の監督だった。
「まあ座りなさい」
担任に促されて、祐樹は目の前に置かれていたパイプ椅子に腰掛ける。
ネジが少し緩いのか、耳障りな軋みの音が部屋を一瞬支配した。
「今日登校して貰ったのは他でもない。先の高校から連絡が届いたからだ」
祐樹が腰掛けた途端、口を開いたのは校長だった。彼は封筒を一つ取り出すとこちらに見せつけるように持ってみせる。
「君が希望していたとおり、県外の名門高校の一つから推薦の枠を頂いた。もちろん簡単な受験もあるが、殆どフリーパスだと思ってくれても良い。これは喜ぶべきことだ。何せ、我が校の学力では到底手の届きそうにない学校なのだからな」
祐樹が志望していたのは県外に開校されている高校、つまり甲子園の常連である強豪校だった。
ただ甲子園の強豪であると同時、全国的にも非常に高い学力を誇る高校でもある。お世辞にも座学の成績が良いとは言えない野球部面子では到底入学など適わない高校だった。
そこで祐樹が目を付けたのは野球の実力をアピールする推薦受験である。
学力如何せん関係無しに、推薦ならば純粋な野球の実力で合否を決定される。一年生の頃から地区大会で大暴れした祐樹はもちろん相手方のメガネに適う存在だった。
そこまで考えて、自然と祐樹の頬は緩んだ。
プロに入るための最短距離は甲子園でスカウト相手にアピールすることだ。実際、前世でも甲子園に出場経験があった彼はそれが有利に働いた面もあった。
しかしそんな祐樹の上昇気分を打ち砕く一言が無情にも下される。
それは監督が告げた言葉だった。
「ただし我が校が獲得できた枠はただ一つ。つまりお前のための枠だけだ。今日はこの資料を持ち帰って親御さんとよく相談しろ。締め切り日は来週までだ。もちろん辞退してくれても構わん。だがこれからのお前の人生だ。よーく考えるんだな。…………まあ、お前なら上手くやれるよ。俺が見てきた中でもお前は特別素晴らしいプレイヤーだ」
監督の賛辞は祐樹には届かない。
ただ彼の頭にはいつも共に過ごしてきた三人のことばかり浮かんでいた。
加奈子が河川敷に到着したのは昼前と呼ぶには難しい時間帯だった。一学期の成績について数学の教師に補修を組まれていたことを忘れていた彼女は制服姿のまま河川敷に飛び込んできた。
そこには既に到着していた健二と弥太郎がアイスキャンデーを咥えて日陰に座り込んでいた。足下に転がっているコンビニ袋から、彼らがコンビニまで行って帰ってくることが出来るくらいの時間、遅刻したことを加奈子は思い知らされる。
「ごめんごめん!」
スカートを翻しながら、河川敷を下ってくる加奈子に弥太郎が一言。
「おっ! 今日は白か。似合ってないぞ」
「ぶち殺すぞエロガッパ」
加奈子のローファーが弥太郎の額に突き刺さり、弥太郎は咥えていたアイスを地面に落とした。その様子をみた健二が「あはは」と声を挙げて笑う。
「いつ見ても君達は面白いね」
「「どこが!!」」
弥太郎の胸ぐらを掴み上げ、左右に揺さぶっていた加奈子と、落ちたアイスのことをとやかく叫ぶ弥太郎の声がシンクロした。
「で、こんなところに呼び出してどういうこと? 見たところ野球もしてなさそうだし」
河川敷にはコンビニ袋が転がっていても、バットやボールの類いが見当たらなかった。
そんな珍しい光景を見た加奈子の素直な疑問だった。
「いや、今日は野球をプレイするのではなく、もっと根本的なことを見直そうと思ってね」
咥えていたアイスキャンデーがはずれであることを確認し、健二は手にしていた新品の炭酸飲料を加奈子に手渡した。
なんの気もなしにそれを開封して傾けてみせた加奈子に、健二は言葉を発する。
それは短くとも、彼女の喉の動きを止めるには十分すぎる言葉だった。
「ねえ、佐久間さん。君はいつまでプレイヤーを続けるの?」