白球を拾い上げた祐樹がサードを刺す。だが体勢を完全に崩した……半スライディングの体勢から投じた送球に力はなく、一塁走者をアンラッキーなヒットで三塁まで進めてしまう結果になった。
手をついて立ち上がった祐樹がこちらに背を向け、呆然としている健二に声を掛けようとする。だが捕球をし損なった負い目からか、彼の口から言葉が出てくることはなかった。ただ、ズレた帽子を被り直して再びライトに戻っていく。次の守備位置は定位置よりやや後ろ寄りだった。
ツーアウト、一三塁。野球におけるピンチに於いて、最もナインの精神を蝕む場面が今完成した。
残されたアウトカウントはあと一つ。だが単打で確実に一点、長打で二点入りかねないという微妙なシチューエーション。ワンアウトなら併殺打を狙いに行くことも出来るが、ツーアウトとなるとその打ち取り方が余りにも多すぎて、逆に投手と守備陣の心を惑わせる。
また打者もアウトカウント残り一つという極限の緊張感の中、そこに油断はなく、最も下しにくい相手と化すのだ。
守備陣不利、打者有利のチャンス。
その紛れもない事実の中、誰も言葉を発することはなく、ただマウンドの上で相手を仕留め損なったエースが短く息を吐いていた。
彼はもう一度ボールを握りこみ、バッターボックスに入ったバッターを睨み付ける。
まだ彼にはエースという自負心が残っている。彼が語った七回を切り抜けられる投手にならなければ、本当のエースとは呼べない。
三番という、チャンスでランナーを帰すことを目的とした主軸打者との対決が始まろうとしていた。
◆
思わぬ形で打席が回ってきた。
もう誰も相手のエースを攻略することなど不可能かと思われた先、デッドボールから始まったチャンスのシーン。魔物とはよく言ったもので、ツーアウトまで追い詰められていた打線のボルテージが上がり、逆に相手チームを追い詰めようとしている。
三番打者の彼、鳥飼誠は今までの野球人生で、ここまで緊張する場面は無かったと回想する。
怪我をすればいいのにと憎悪を吐き捨てた相手だが、チャンスシーンで相対するには十分すぎる格を持ったエース。
二点ビハインドという場面で、一人でも走者を帰せれば確実に流れが変わるであろう場面。
地区大会の決勝は中学野球で考えられる中でも非常に高い地位に位置づけられる試合だ。ここで打てばこれからの野球人生、間違いなく変わるはずだった。
鳥飼はバットのヘッドでホームベースを二度三度叩き、サイン交換を済ませたエースを睨んだ。
彼の主軸打者としてのプライドが、一人の野球人としての矜持が今息を吹き返す。
◆
今までずっと押さえてきた。はっきりとした敗北はただ一度のみ。
神崎祐樹というチームメイトに返されたあの打球は今でも脳裏にこびり付いている。でもあれはとても気持ちが良いものだった。自身が投じた最高の球が最高の打者に打たれたのだ。不快感なんてあるはずもない。
だが今はどうだろう。
この身体の奥底から沸き上がる焦りは?
もしかしたらまた打たれるかもしれないという恐怖は?
自分はエースではなかったのか。
野球というゲームの絶対的な支配者ではなかったのか。
魔球のストレートも手に入れた。最高のバッテリーを組めるキャッチャーも居る。バックで守備をするナインにも不足はない。
なのに震えが止まらない。
歓喜の震えなんかでは決してない。
四年前に感じた、エースとして主軸打者に相対する喜びなんてどこにもない。
ただ何処か空しい寂寥感だけがあった。
◆
エースが振りかぶった。一瞬視界からボールが消える。だがこれで今日三度目の対戦。何処からボールが出現し、どのような軌道で飛んでくるかはもう覚えている。後はそれに身体がついて行けるかどうか。スピードガンなど存在しないが、優に130は超えてくるスピードの球を打ち返す技術は彼にない。だからコレは一か八かの賭だ。
「しっ!」
ボールが通過するであろう軌道にバットを振り抜く。掠りもしない完全に振り遅れたスイング。やっぱり早い。そして初速と終速の差が殆ど存在していない。所謂ノビのあるスレートだ。彼の、鳥飼の手元で伸びるように白球は投げ込まれている。
だがコースはあっていた。
読める。読めている。
エースの投げるストレートの軌道が完璧に読めていた。不思議な感覚だ。今までの野球人生でも経験したことのない不思議な感覚だった。まるでエースが何を考えているのか手に取るようにわかる。今の彼の心境も、これから自分を打ち取りに来る配球も。
そして彼は己が勝負すべき球は次の球ではなく、ウィニングショットを決めに来る三球目だと定めた。
彼はその球に全力を注ぐため、内角低めに飛来したストレートをカットするだけにとどめた。
想像していたより遙かに重い球だったが、気後れすることはなかった。
大丈夫、予想通りだ。
自分に何度も言い聞かせて、自分がエースを攻略する姿だけを思い浮かべる。ここではもう負けのイメージなんて必要ない。今日六回までこちらを完璧に押さえていた投手とはまるっきり違う人物が投げているのだ。そうだ、自分には打てる。
「俺は、打てるっ!」
三球目、痛いほどにバットのグリップを握りこみ、彼はエースの投球を待った。
◆
振りかぶったとき、思い出したのは自分の原風景と今まで積み上げてきたモノたちだった。
彼は野球が好きだった。辛い思いも沢山してきたがそれでも野球が好きだった。野手に適正がなくなっても、彼は少しでも野球がしたいから嫌いだった投手を続けた。
そしていつの間にか、彼の周りには同レベルのライバルなど存在していなかった。誰も打てない、誰も打ってくれない。野球をするのは自分一人だけ。いつも自分一人で戦ってきた。
それでもいつの間にか、仲間と呼べるチームメイトが出来ていた。ライバルと呼べる宿敵が出来ていた。
何度も何度もスラッガーの夢を見てきたエースは、ライバルに勝ちたいが為に過去の原風景を忘れようとした。
肘が壊れると警告されても、投げることを止めなかった。正直に怪我を打ち明け、セーブしながら投げていたら恐らくここまで酷くならなかったはずだ。
相手打者に祐樹の面影が重なる。
実力なんて、それこそ比べようもないほど開いている二人だが、一野球人として対戦に応じてくれているのは二人とも同じだった。
彼は辛かった。
彼は気がついた。
今まで自分が積み上げてきたモノがどれだけ歪だったのかを。
常に対戦相手を見下し、試合を支配しようとしていた自分が如何に愚かだったのかを。
肘が悲鳴を上げる。もうこれ以上投げ込んではいけないと必死に訴えてきている。それでも彼は投球動作を止めない。もう何千回も、何万回も続けてきた動作を信じ切って、いくら歪んでいようともこれが今の自分の姿だと心に焼き付けながら。
ボールが手から離れた。大きく弧を描いた軌道は彼の魔球であるストレートではない。
健二は選択をした。
健二は逃げた。
健二は、背後でボールを待つナイン達から逃げた。
もう、力でねじ伏せることは出来ない。
勝ちたいと思った。積み上げてきたプライドを土台にして、彼は先発投手として、チームのエースとして成すべき事をしようとした。
だがそれはもう叶わない夢であることを彼は知る。プライドを棄てても、今この場面に一人で立ち向かえるほど彼は強くなかった。
ボールが落ちていく。美しい、止まるような軌道を描いて落ちていく。それは彼が初めて投じた、みんなを信じたカーブ。
打者がバットを繰り出した。
タイミングはずれている。でもスイングの軌道は正確だ。
白球がすくい上げられ、綺麗な放物線が空に伸びていく。
ライトの祐樹が見上げる。彼はもう打球を追えない。
すとんと落ちていった打球は逆転のスリーランホームラン。
そして、マウンドの上で健二が静かに膝をついた。もう、これ以上投げることは出来ないと悟りながら。