誰もが恋焦がれるようなボックスにその男は立っている。
十二回裏、ツーアウト三塁。
スコアは0-0のイーブン。
カウントはツーエンドツー。
ピッチャーは誰もが一度は耳にしたことがあるリリーフエース。
男はアオダモで出来た得物を構え、再度リリーフを睨んだ。
ぼたぼたとリリーフの額から汗が零れている。
先頭打者を歩かせ、バントと一塁への内野ゴロでサードにランナーを進められた彼の表情は震えていた。
だが彼は、“打たれる”ことに対する恐怖を微塵も感じていなかった。
そこにあるのはこれ程にも痺れるマウンドに立っていることに対する喜びだけ。
まさにピッチャーの本懐といえるマウンドで彼は酔いしれていた。
額の汗を手の甲で乱暴に拭い去り、キャッチャーのサインを覗き込むように身を乗り出す。同時にバッターが頭上よりやや高いところにバットを構えた。
これから仕留めなければならないのは自分の勝手知ったるバッター。
同時期にドラフトで指名され、彼是五年間細々とプロ野球人生を歩んでいた同輩だ。ここ二三年で豪腕で名を馳せた自分とは違い、未だにスタメンを勝ち取れない代打屋。
別段勝負強いとか、一発長打があるわけでもない。今シーズンの――現在行われているポストシーズンの成績を含めても打率は二割がやっと。本塁打に至っては事故で打ったような二本だけ。
なら何故この場面に起用されてるかといえば、単純に出せるバッターは全て出し尽くしているのである。
最後の最後、苦渋の選択として、監督からもファンから期待されているわけでもなく彼はバッターボックスに立っていた。
そっと彼がボックスを外す。静まり返ったスタジアムの中で、深呼吸を繰り返している。
そして再び――右打席で構え始めたとき、リリーフはバットが先程よりも数センチ短く持たれていることに気が付いた。どうやらボールをカットした際、絶対に適わぬ球威を感じ取ったのだろう。
リリーフはその様子を哀れだと笑うと同時に、まだ彼が諦めていないことにさらなる喜びを感じた。
キャッチャーが落ちる変化球を要求してきても頑なに首を振る。
彼はここまでのし上がるきっかけとなったストレート以外、投げるつもりはさらさら無かった。
この哀れな代打が幾らでも食らいつけるよう、ど真ん中に剛球をねじ込む。
クイックも何もお構い無しに、自分が思うベストのフォームでリリースした。
パキン、と快音とは程遠い打撃音が響く。
辛うじてバットに当てられた白球は強烈なバックスピンをしながら一塁側のネットに突き刺さった。たった一瞬の出来事だったが、スタジアムにいた両軍のファンは一様にどよめいた。
リリーフはプレートに足を掛け、キャッチャーのリードを無視し、さらに同じ球を同じコースに投げた。
バッターは先ほどと全く同じようにギリギリでカットする。あと数ミリずれていれば完全に三振コースだ。
滝のような汗がリリーフから滴り落ちていた。
「なかなかやるじゃないか。祐樹くん」
必死の形相でこちらを睨みつけるバッターを笑う。侮蔑の意味は無い。ただ純粋な賛美だけがあった。
ロジンバックを握り締め、一応キャッチャーのサインを確認する。
すると、もう精密なリードは諦めたのか『好きなコースにストレート』のサインが出されていた。彼是三年間専用キャッチャーを務めていたためか、こちらの性格は良く知っている。
白球が痛いほど握りこまれ、ストレート勝負の三本目が始まった。
グラブに手を隠し、三塁ランナーを一瞬見やって投球フォームを開始する。リトルリーグ時代から何万回、何十万回と繰り返された動作に今更迷いは無い。
それは対戦するバッターも同じだろう。アベレージヒッターでもパワーヒッターでもない彼だが、一度バッターボックスに立てばそれはもう立派な対戦相手だ。
リリーフは自分の腕が作り出す空気のうねりと風切り音を聞く。
同時にスタンドから流れるチャンステーマにベンチからの応援。
最後に白球を弾く指バネの音に全神経を傾けて、腕を振り切った。
内角高めの伸びのあるストレート。打者からは殆ど無い落差の所為で浮いたように見えるボール。
リリーフ最大の切り札にして、これ以上ないウィニングショット。
バッターがゆっくりとステップを踏む。内角球だとわかっていても、決して身を引かず敢然と立ち向った。バットを数ミリ戻し微調整。ヘッドを少しだけ立てて、早い段階でのスイングを可能にした。
技術も筋力も無いバッターだったが、この時はまさに本能で反応していた。身体を巻くようにヘッドが繰り出されて、白球にバットが接触する。
二人の間には彼らにしか感じえない、最大の緊張感と最高の興奮が入り混じった時が流れていた。
バキッ、とバットがへし折れる。
スイングスピードと球速がきっ抗し、遂に耐え切れなくなったのだ。
リリーフもバッターも弾け飛ぶ木片を見て、勝負が一つお預けになったことを悟った。その証拠にボールはまだフェアゾーンに飛んでいない。二人の視界から、いや、スタジアムにいる万人の視界から消えて、強烈なスピンの音だけを響かせていた。
最初にボールの行方を知ったのはキャッチャーだった。
彼はミットを構えたまま、凍ったように防具の隙間から白球を見つけた。砕けたバットを舐めるようにして、白球は残されたバットの芯を駆け上がっていた。
そして一刹那置き――、
時速百六十キロ近い七センチの硬球がバッターの側頭部、ヘルメットの耳当てが存在しない部分に直撃した。
日本シリーズ上の悲劇、選手を襲った魔の100マイル
昨日、シリーズ第七戦十二回の裏に代打として出場していた神崎祐樹選手(27)の頭部に自打球が接触。
意識不明の重態となるアクシデントが発生した。
球団側は予断を許さない状況と発表しており、都内の病院に駆けつけたファンからは容態を心配する声が上がった。
◆◇◆◇
一人の少女が、その手にはまだ大きい軟式球を持って、幼稚なフォームで球を投げた。
肩口で切りそろえられた髪、額に浮かんだ球のような汗が健康的な印象を周囲に与えている。
一方、やや弓なりで投げられてた球はストライクゾーンからやや離れた所に飛び込んで来た。
だが、バットを持ってボールを待っていた少年はやや体制を崩しながらもヘッドの先で白球を捕らえ、少女の頭を越して二遊を抜けていくヒットになった。
「わー、ゆーくんすごーい!」
ボールを投げた少女は転々と転がるボールを見て歓声を上げた。そしてグラウンドの端まで転がっていったボールを追いかけていく。
「おい、加奈子。別に無理して付き合わなくてもいいんだぞ」
少年は持っていたバットを地面に置き、外野に走っていった少女を追いかける。丁度セカンドベースが置かれるその位置のところで戻ってきた少女と出くわす。
「いいよ別に気にしなくても。私はこれが好きなんだから」
にこーと加奈子は歯を見せて笑い、ゆーくん――神崎祐樹にバッターボックスまで戻るよう指示する。彼は苦笑しながらも打席に着くと、少女が振りかぶってボールを投げるのを、ゆったりとしたバッティングフォームで待った。
ある日の夕暮れ時、微笑ましい市営グランドの一風景である。
あの痺れるようなバッターボックスで、一人の選手が命を落とした。
技術も、パワーも、身体能力も全てプロの一流とは言えない彼は、大した活躍も出来ないままに球界を、果てはこの世から去ることとなった。
だが野球の神様は寛大なのか気まぐれだったのか、彼に一つチャンスを与えた。
それは前世の記憶をそのままに、今とは少しずれた世界でもう一度人生をやり直すことだった。
初めて彼がそれに気が付いたとき、薄気味悪さや前世に対する後悔よりも、もう一度あの場面に立てるという不思議な高揚感が湧いて出ていた。
神崎祐樹という個人はあの打席に縛られたまま二度目の人生を送ることとなったのである。
十二回裏、ツーアウト三塁。
スコアは0-0のイーブン。
カウントはツーエンドツー。
祐樹は願いそして誓った。再びあの日のボックスに立ち勝負の決着を付けることを。自打球なんかで命を落とさず、勝者と敗者を結論付けた、存在し得なかった未来を見つけることを。
その為に、前世で培った野球の知識と身体トレーニングの知識を総動員して文字通り生まれ変わる。
代打屋ではなくスタメンとして、中軸選手としてあの打席に立つ。
最高の選手になって、最高の試合をしたい。
それだけが彼の目標であり、また夢でもあった。
彼はまだ幼い。リトルリーグに入団する資格すらない。だが着実に、一歩ずつ、神崎祐樹は再起を誓って今を生きている。
後に、平成の大打者として知られる彼の原風景がそこにあった。
◆◇◆◇
おまけ プロスピ的ステータス
神崎祐樹(6) かんざき ゆうき
右投げ左打ち
右巧打力 E
左巧打力 G
長打力 F
走力 E
守備適正 右翼 D
中堅 E
左翼 E
特殊能力 成長◎(パワプロ的?)
◆◇◆◇
投手はBBH風
佐久間 加奈子(6) さくま かなこ
右投げ右打ち
球威 5
変化球 3
コントロール 10
スタミナ 7
守備力 7
合計 35
変化球 特殊能力なし