「あー、絡繰さん。エヴァンジェリンの奴何処かに行っちゃったけど、俺って何かやっておいた方が良い事とかある?」
エヴァンジェリンが走り去っていった後、主導権を握っていた筈のエヴァンジェリンが不在のため、その指示に従って此処に来た俺は完全に目的を失っていた。
他人の家にずかずかと踏み込むほどの度胸は無いので、必然的に俺は今居るこの場所で時間を潰す事になるのだが、テーブルを挟んで反対側に立っている絡繰さんから話題を振ってくれるような事は無かった。
しんとした空気に肌がチクチクとし始めたのを切っ掛けに沈黙に耐え切れなくなった俺は絡繰さんに声を掛けた。
エヴァンジェリンが走っていった方向を見ていた絡繰さんは機械的な動作で俺の方を振り向いてこう言った。
「いえ、マスターが黒金さんにどの様な事をして頂くつもりだったのかは私には分かりません。申し訳ありませんがマスターが戻ってくるまで此方でお待ちいただけますか?」
出来れば今居るような見晴らしの良い場所には長居したくなかったが、建物の中に入るのも躊躇われたので頷く俺。
「それと教科書とか今持ってたりしないかな? 先生のやり方なんて分からないけど一応何やるか位知っておきたいから。勿論持ってないと思うけど一応」
学園長との話し合いでは勤め始め等については聞かされていなかったが、そもそも先生になる為の勉強などしていない自分が教鞭を執るのなら事前準備を幾らした所で無駄になることは無いだろう。殆ど無いような知識を掘り返すだけでも黒板の書き方や授業の進行の仕方など、自分に足りないものは自分で分からない程ある。懸念はそれだけじゃない。中学校三年生の授業範囲が自分が履修したときと全く違う可能性もある。学習指導要領の改訂や学校・クラス毎の授業進度、根本的に自分の世界と学習している内容が違う可能性もある。
流石にこれだけ文明が酷似していれば後者の可能性は低いが、100パーセント断言できるだけの材料を持ち合わせていない以上楽観は禁物だ。
それに中学校三年生など、自分は授業の半分以上を寝て過ごしていた気がする。偏差値そこそこの公立一本で受験する自分を周りの人間は苦い顔をしながら止めていた記憶もある。
つまりどういう事かと言うと、中学校三年生の授業について行けるかも分からないという事だ。
学園長が自分を採用した経緯を鑑みれば、勢いだけで明日から授業を任されかねない事が容易に伺える。
ならば手の開いている今この時を有効に活用しない手はない。
「教科書ですか? すみません、全て別荘の外に置いてあるので今は」
「謝らないで良いよ。普通教科書とかこの状況で持ってる筈無いと分かった上で聞いたんだから。どうもありがとう」
のだが、どうもそれは出来ないようだった。
頭を下げてくる絡繰さんを止めて礼を言う。これだけ丁寧に応答してくれるだけで十分幸運と言えるだろう。これがエヴァンジェリンとか普通の女の子なら
「あるわけ無いだろう。よく物を考えてから口を開け馬鹿が」
位は言ってのけるに違いない。全くその通りだと俺も思う。
しかしそうなると途端にやることが無くなってしまう。
エヴァンジェリンから説明を受けた24時間経たないと此処から出られないという条件。
「絡繰さん、俺達が此処に入ってからどの位経ったか分かる?」
「6時間34分経過したところです。秒単位で読み上げますか?」
余り細かい時間を言われても今欲しい情報ではない。
「いやいや、そこまでしなくて大丈夫。ありがとう」
残りは約17時間半。徹夜明けの睡眠でもお釣りが来るほどの長さだ。
それだけの時間を何もせずに過ごすのは、少々苦痛だ。
何か暇を潰せるものを用意してもらおうと絡繰さんに声を掛けようとした時だ。
「すみませんが黒金さん、マスターに呼ばれているようなので失礼させていただきますね」
軽く一礼して建物の方に向き直る絡繰さんを慌てて呼び止める。
「ちょっと待って絡繰さん。エヴァンジェリンに伝言というかとにかく伝えてもらいたいんだけど、落ち着いたらさっさと戻ってきて話の続きを頼むって言っておいて欲しいんだ。半日以上無駄にするのは忍びないからって」
伝言内容を聞いた絡繰さんは短く、
「分かりました。マスターに伝えておきます」
とだけ言って建物の中に消えて行った。
「行っちゃったよ。ああ、何してよ」
そうして一人だだっ広い屋上に取り残された俺は、寝っ転がって空を眺めるのだった。
そうして空に浮かぶ雲を一心に見つめて、時を忘れるままにぼんやりと日向ぼっこを楽しんでいると足音の様な音が聞こえてきた。
恐らくはエヴァンジェリンか絡繰さんが戻ってきたのだろうと、立ち上がって佇まいを正す。とは言ったもののバスローブ姿の俺に正せるのはシワと乱れた裾ぐらいのものだったが。
「やっと戻ってきたか。遅いぞー、エヴァンジェリン」
建物から出てきたエヴァンジェリンは、先ほどとは装いを変え黒い服を着ている。フリルやレースは一見して少なく胸もとのリボンがポイントになっている……ような気がする。そっちにはさっぱり疎い哲にはセーラ服とワンピースの中間の様な物に思えたが、実際はどうなのやら。黒いブーツを履いていて、スカートとの間から見える足が妙に艶めかしい。
時計を持っていない為に正確な時間は分からないが、バキバキに固まった体の具合からして一時間以上は待たされただろう。背中から股関節、腕と指に首、それから足の関節までひと通り鳴らす作業をしながら悪態を吐く。
「私のような最高の女に待たされるんだ、寧ろ喜ぶのが当然という物だろう。それに、元はといえば貴様が……」
「マスターはご入浴後、通常よりも時間を掛けて念入りに身だしなみを整えていらっしゃいました。それもその後いつもならば私に意見を求めるような事は無いのですが、今日に限っては私に「茶々丸、どうだ何かおかしいところはあるか?」とお聞きになったりと…」
「な!? 茶々丸! 貴様デタラメを言うな!!」
「…いいえ、マスター。私は嘘は言っておりません」
「ぐぐぐ、ならばそれ以上喋るな!」
「かしこまりましたマスター」
「……ふ、ふん、まあ、とにかく淑女は色々と準備に時間が掛かるんだ」
予想通りの返答を返してくれたエヴァンジェリンに横から茶々を入れる絡繰さん。
主従関係というにはフランクな感じだが、どちらも不快に思っている様子もないし傍から見ていても微笑ましいじゃれ合いにしか見えない。ただエヴァンジェリンが遊ばれているという可能性も無いではないが。嘘だというなら泰然と受け流せば良いものをその辺のスルースキルは著しく低いらしい。
「まあ、冗談は置いといてさっさとさっきの続きをしてしまいたいんだが。ってどうした? なんかむっとしてないか?」
何故か俺を見るエヴァンジェリンの目が拗ねたような目になっていて、口も横に引き結んでいる。何か機嫌を損ねる様な事を言っただろうか? からかわれていたようだから話題を変えただけだと思うんだが。
と、エヴァンジェリンが髪の毛を一房掴んで、眺めはじめた。よく女の子が枝毛が無いかチェックするアレである。
その間も話が進むことは無く、じりじりと時間だけが過ぎていく。
「なあ、エヴァンジェリン。なにしてるんだよ? 髪の毛そんなに気にするなんて無駄だろ」
「ああ!!?」
「そんだけ綺麗な髪してるんだしさ。女の子が枝毛を気にするのはよくあるけど、お前の場合そんな心配要らないと思うぞ。その辺の女の子と比べても別格に綺麗だと思うぞ」
「はあ?!」
「それとさ、なんだってまたそんな可愛い格好してるんだ? これから外行くなら分かるけどまだ半日以上は此処に居なきゃいけないんじゃないのか?」
「な、何を言っているんだお前!」
「何って見たままを。真実しか申さぬ口ですから」
とっとと話を始めさせようと髪の毛を気にする必要は無いと伝えたは良いが、話がそのまま広がってしまった。脈絡もなく話を展開させたせいかエヴァンジェリンも困惑気味だ。
いや、でももしかしたら服の話は続けた方が良いのだろうか? これから何をするのか分からないがとりあえずさっきの検査?の話をするとして着飾る必要は無い筈だ。それも俺と絡繰さんとエヴァンジェリンのたった三人しか居ない以上誰かの目を気にする必要も無い。もう無いとは思うが、もう一度大爆発を起こしたり、或いはもう一度献血すれば服も汚れる羽目になる。
一つ考えられるとすればエヴァンジェリンにとっての平服がこれだという事だが、昨日見たエヴァンジェリンの服とは服の出来が違う気がする。当然良い方にだ。服なんか安くて丈夫で俺が気に入ればどうでも良いと思っているので詳しい事は何一つ分からないが、ざっと素人目に見た限りでも生地がずっと良いものを使っている気がした。
ううむ、考えれば考えるほど何故こうまで着飾っているのか全く分からない。
「あー、真意を問いただしたい所だけどやっぱりそれは止めとく。とりあえず話を先に進めようぜ」
うん、この世には明らかにしない方が幸せになれる事実も有るというし怖いから触らないでおこう。
さて、と仕切りなおしに一言発して弛緩しきった空気を引き締める。いや、緩い空気のままでも良かったんですけどね。
「さあさあ、さっきの話の続きをしましょうか。仕事始めがいつかもわからないから最低限そっちの準備もしておきたいし」
心配性の性なのか、まだ決まっても無いことであっても心配する事が止められない。ある程度の経験と自信を身につければこれも無くなろうという事だが、自分のスペックを考えればまだしばらくの間は無理だろうな。
目の前の少女くらい堂々と振る舞えれるようになりたいもんだ。
「さ…さっきの続きか……で、でも急にそんな事言われても私にも考える時間が必要だ。そもそも私は別に…お前のことをどう思っている訳でもないのだぞ。……それに私は、まだアイツのことが」
しかし、その目標にしたい少女が目の前で突然もじもじし始めた。
しかも、顔を紅潮させて視線を足元に投げている。
この一瞬の間に何が起こった?
エヴァンジェリンという鮮烈なキャラクターの、初めて見る側面に戸惑いを覚える。チラチラとこちらを見る視線にも落ち着きなく髪を撫でる様子にも、未だかつて、エヴァンジェリンだけでなく全ての女性で目にしたことのない物が感じられる。
エヴァンジェリンの独り言は小声であるために切れ切れにしか聞こえないが、その断片からも何か今までの人生で縁の無かった物の存在を感じる。
か、勘違いでなければ空気が甘酸っぱくないか? どうしてこんな事に。くそ、甘酸っぱいのは大嫌いだ。いち早くこの空気を抜け出したい!
この状況を打破するためには、この空気の発生源であるエヴァンジェリンを叩かねばならない。しかし、エヴァンジェリンが何故こんな空気を発しているのか理解出来ない。安易に斬り込むのは話に深入りするか泥沼になる可能性もある。ここは話を逸らす方向に行こう。
エヴァンジェリンに決意を気取られぬように浅く息を吸う。
「エヴァンジェリン! あのさ……」
「待て、貴様からはもう既に一度気持ちを聞いている。私とて鬼じゃない。ちゃんと返事をするからもう少し待ってくれ」
気持ちって一体全体何の気持ちですか? 犬の気持ちですか?
話の通じないエヴァンジェリンと俺。
絡繰さんを見て見ても、絡繰さんはエヴァンジェリンの方を興味深そうに見つめるばかりでこちらの視線には気づいてくれそうもない。
話が通じないのはエヴァンジェリンがおかしいのか、それとも俺がおかしいのか?
状況についていけず混乱の極みに陥った俺はもう自分が正しいのかどうかも分からなくなってしまった。
現状を理解するために、経緯を整理する。好都合な事にエヴァンジェリンの次のアクションまではまだ時間がありそうだ。
確かこの時間の流れが外よりも早い空間に来て、魔法を使ってみろって言われて呪文を唱えて。此処までは何も問題なかった。それだけは間違いない。次に俺が呪文を唱えたせいで大爆発が起こって俺は気絶、エヴァンジェリンと絡繰さんは魔法か何かで凌いで起きた俺と合流。紆余曲折というか色々在ってまず、俺の体について調べることになって血を吸われて、エヴァンジェリンが我を忘れて血を吸い続けたもんだから必死になって引き剥がしたら今度はエヴァンジェリンが怒りだして、宥める為に血を吸われるのは構わないって言ってついでに俺の血なら幾らでも何時でもくれてやるって言ったらいきなり逃げ出して、二時間くらい待たされて今に至る。こんなもんだったはずだ。
うん、徹頭徹尾普通で何処にも問題はない。ということは俺もエヴァンジェリンもこんな甘酸っぱい空気を作り出す原因は無い筈だ。
それとも吸血鬼には人間とは違う独特の風習とか掟とかあるんだろうか?
結局どれだけ考えても状況を収束させる事が出来なかった。
では場の当事者である二人のうち一人が何も出来ないなら、決着をつけたのは誰なのか。至極単純な問だ。行動を起こしたのはもう一人に他ならない。
「悪いが、お前のことはまだそういう風には思えない」
エヴァンジェリンが口を開いた時、まだ思考に没頭していた哲の頭が上がった。遂に始まってしまった。訳も分からないまま話しを聞く大勢に突入してしまい、諦観の感情が強く顔に浮かぶ。そして同時に俄には想像しがたい、しかし現在の状況にかなりの整合性を持つ可能性に行き当たる。
「お前のことが嫌いだという訳ではない。ただお前とはまだ知り合って日も浅いし、お互いのことを私たちは知らなさ過ぎる。お前は私がどんな生き方をしてきたのか、どれだけの恨みを買ってきたのかを知らない」
間違いない。エヴァンジェリンは自分に告白をされたと思っている。それも先程の俺の一言がどうやら告白の返事を催促しているものだと思っているようだった。
絶望的状況。哲の混乱した脳ではそう言い表すほかにない。しかしそれだけでこの目も当てられない惨状の全容、その全てを表現することが可能だろう。
そんな中、いやいやいや待ってくれよ、とただ停止だけを哲は求める。慣れない状況、想像もつかない展望。それだけでは飽き足らず、凡そ漫画のような現実に比して余程不条理で生ぬるい、そんなアクシデントまでプレゼントしてくれる己の人生の采配を決めた神に。勿論面識の有る自分の平々凡々と枯れていく超絶つまらない人生を狂わせてくれたアレの事ではない。アレは堂々と哲を如何でもいい世界に放り込んだと言っていたのだ。干渉はしてこないと見てまず間違いない。しかし、きっと何処かに居るであろう、きっと自分に好意的でない神様だ。
哲は自分の顔が悲痛な表情に変わっていくのが感じられた。勿論その様は哲の顔を直視するエヴァンジェリンにも、その表情に込められた感情まで余す所無く伝えられた事だろう。ただ、それは致命的なまでに彼女、エヴァンジェリンの考えているものと同一ではない。
「だから…………悪いな」
そう言って哲に背を向けるエヴァンジェリン。その背中には、とてもこの状況が単なる勘違いだったとは言えない物々しい雰囲気がある。
真正面から、真剣に、真摯に俺の告白に向き合った。そうエヴァンジェリンの全身が物語っている。
ちょっと待てと声に出して彼女の誤解を解きたい。しかし呆然としたまま思考だけが空転し、エヴァンジェリンに声を掛けることすら出来ない哲を置き去りにして状況が動き出す。
真実を告げるならば、今が最後のチャンスだ。彼女はとても怒るかもしれないが、勘違いをし始めたのは彼女で、最後まで勘違いをしていたのも彼女だ。きっとちょっと時間が経てば笑い話かからかいのネタにする事が出来るようになる。
そう思っているにも関わらず、哲の喉からは如何頑張っても声が出ない。
口から息を吸い込むことが出来ない。肺で酸素を取り込むことが出来ない。肺から空気を送り出すことが出来ない。空気が喉を震わせない。
馬鹿な。とそう自分の事を罵倒することも出来ない。これじゃ自分が本当にエヴァンジェリンの事を好きだったみたいじゃないか。本当の本当にそんな事は有り得ないというのに。
呼吸が止まってしまったせいで頭まで酸素が行き渡らず、視線がふらふらと宙をさまよい始めた。
引き止めようと声を出すことは出来ず、せめてと手を伸ばそうとしても眩暈に耐えられず、上半身を支えるために膝に下ろされる始末。
え? なんで? どうして? 俺が告白したみたいになってて……しかも振られちゃってますよ。いやいや別に振られた事に対して疑問を覚えてるんじゃなくて、あれ?
視界の端、建物の中に消えていこうとするエヴァンジェリンに今更どんな声を出しても届かない。
人生初の失恋がまさか誤解で起ころうとは思いも寄らず、そちらに対する当惑と失恋した(正確には振られただけ)ショックで哲の思考回路は完全にパンクした。
もうなんかどうでもいいや
普通であれば、まだまだ彼女を追いかけることも出来ただろう。彼女の誤解を解く為に彼女に話しかけることも出来た。しかし、いとも容易く哲の思考は諦めの言葉を口にした。
もう、一歩も足を動かしたくない。もう一言も言葉を発したくない。
そう思ってしまっただけで哲の体はそのとおりに全てを諦めた。
いつの間にかとても熱くなった頭を冷やすために、冷たい床に体を横たえて頭を地面に預ける。
屋外で、しかも人の通り道だというのにそこはざらつき一つ感じさせず、ひんやりとした感触。
哲は熱が地面に移っていく感触を心地良く思いながら目を閉じた。
人から勘違いを受けただけの事で、他人なら簡単に笑い飛ばせた筈の出来事。にも、関わらず理由も分からずにその勘違いを、結果的に認めてしまった事実が腹立たしく哲は目を閉じたままで皮肉げに口を歪ませた。
「ちょっと待ってくれよ」
今更どんな言の葉を口にしようと全てが全て終わってしまった後では、何もかも遅かった。
そして、気がつけば俺は麻帆良学園所有の教員寮の一室、そこに備え付けられたベッドに腰掛けていた。
あれから結局別荘を出られるようになるまでの時間放置され、時間になると現れた絡繰さんに連れられ別荘から出た。
そして、絡繰さんから色々と話しを聞かされたのである。
まあ、大した事でもないので総括してしまうと俺はエヴァンジェリンの家ではなく教員寮で部屋を借りることになったと。理由を聞いてみるとそれは何やらエヴァンジェリンが自分と同居するのは気不味いだろうと気を聞かせて学園長に掛け合ったという事だった。
もうとっくに傷心から復活していたが、誤解だったと説明するのも面倒臭く今更に感じたので簡単に了解の意を伝えた。
エライ勘違いをしてくれたエヴァンジェリンだったが、心遣い自体は割と嬉しかったのでメモと鉛筆を貰って数言書き付けてエヴァンジェリンへの伝言とし、絡繰さんに渡してもらうことにした。
それからエヴァンジェリンが買ってきたらしい服を渡された。バスローブで外を彷徨く訳にも行かなかったというのも有るが、単純に他人からの贈り物は大人しく受け取っておく主義だから大人しく受け取っておいた。
受け取った服を身に纏うと少し窮屈に感じた。が、俺がいつも自分のサイズよりも一回り以上大きいブカブカの服を買うからそう感じるだけであって、多分貰った服は俺のサイズにピッタリに作ってあるのだろう。鏡で格好を確認させてもらうと見慣れない顔をして見慣れないセンスの服を来た自分が写っている。俺が選ぶよりも何杯もセンスがいい服が、見慣れない自分に着られている絵は奇妙な、他人を見ているような気分になった。
身支度が完璧に終わり、荷物も無いので出て行く準備が整ったというのにエヴァンジェリンは姿を見せない。
ひと通り絡繰さんに世話になった礼を言い、礼の言葉も尽きると直ぐに玄関まで歩いて行く。
「マスターは、ご自分が顔を見せない方が黒金さんも嬉しいだろうと仰っていまして」
そう言ってエヴァンジェリンが顔を出さない理由を教えてくれた絡繰さんに扉の前に立って言う。
「あの、絡繰さん。エヴァンジェリンに伝えておいてもらえるかな。顔見せてくれた方が全然嬉しいし、お前が悪いわけでもないんだから俺に遠慮する必要ないって。それと一言俺が礼を言ってたって。また今度有ったときにでも自分からも言うつもりですけど、仕事始まるのがいつからになるのか分からないので念のため」
それじゃあ、と礼をしてエヴァンジェリンの家を出て、扉を閉めてから後ろに振り返ると哲の目に約一日ぶりの風景が目に映る。この扉を開けてみる光景は二回目で見慣れたなんてまだまだ言えるような回数では無いが、不思議と此処を去りがたい。項の辺りがむずむずして右手でバリバリと掻き毟る。するとむずむずが脚の方に移っていったのでじたばたと落ち着きのない動きで歩き出した。
玄関先で留まっていた足が地面から離れてその後は執着も抵抗も感じさせずにすいすいと、軽やかに動いていった。
振り返ることも、ここ数日の生活を思い出すこともなく絡繰さんに描いてもらった地図を頼りに教員寮を目指して歩くこと数十分、夢遊病者のように力なくさ迷い歩き、何度か道に迷いながらも辿り着いて前もって受け取っていた鍵を使ってこれからの自分の部屋に入ったのだった。
これが普通の寮ならば、管理人なり寮監なりに挨拶に行くべきなのだろうが、教員寮という性質故か設備保守などは全て寮の住人が共同で行われる事になっていて、そういう役職の人間を特別に用意してはいないらしい。恐らく内々で決めたそのような立場の人は居ても分かりやすい目印が無い為に今直ぐには訪ねていくことも出来ないので、その辺を含めた挨拶回り等は一切合切後回しにして、自分に与えられた部屋の前まで行って鍵を挿し込んで回し、そのまま鍵も抜かぬままに扉を開けた。
開いた扉、その向こうの新居に向かって背後から風が、吸い込まれるように流れ込んだ。暫らく使っていなかったのか、鼻先を埃の匂いがかすめていった。
靴下が埃で汚れるのも構わずに靴を脱いで部屋に上がり込む。風を通すために目についた窓を片端から全開にして開けっ放しにしていく。
簡素な家具が置いてある部屋を冷たい空気が満たしていき、その冷気に追いつかれまいとするかのように足早に部屋を移動すると寝室らしき部屋があった。大きさは分からないが少なくとも一人寝には十分な大きさのベッドが入り口から向かって左側に設置されていて、ベッドに対して垂直方向にある窓は大きく、そこから寮の外の風景が見えた。
そのままベッドの前まで進んでから暫らく黙考すると、俺は大きく息を吐きながらベッドに腰を下ろし、先程の述懐に至るのだった。
今の気分を吐露するなら無気力というのが最も相応しかろう。
エヴァンジェリンに誤解されたことも、その誤解を解くきに成らなくなったことももう心底如何でもよかった。エヴァンジェリンの家を追い出されて、新しく住むことになったこの寮も、いつ始まるかも分からない仕事も今はもう如何でもいい。
無闇矢鱈と傷つき続ける悲劇捏造性自己陶酔型ナルシスハートが、ぼこぼこと心に風穴を開けまくったせいで、精精が人としての好意を抱いていただけのエヴァンジェリンに勘違いで振られた程度の事で、一晩はノックダウンされたまま指一本動かす気にもなれないだろうと哲は思った。
座った姿勢のまま右手でベッドの感触を確認して、その柔らかさに満足すると出来るだけ大げさに体を倒した。
ぼふんと音を立ててマットレスが僅かに沈み、その反動で毛布が跳ね上がりそれに合わせて大量の埃が舞った。
「ごほ……ごっほ! ごほ」
予想外に埃の寮が多くその多くが驚いて息を吸い込んだせいで呼吸器に吸い込ま
れて咳き込む。目にも埃が入って痒いやら苦しいやらで更に埃を立てながらベッドの上で悪態をつきながらのたうち回る。
咳を耐えることは出来そうになかったので窓を開けた向こうにあるベランダの柵に埃を含んだ毛布を投げ飛ばし、マットレスを退かした。
外の新鮮な空気を取り込み痒い目を擦る。何か対処を間違えている気もするが、態々手を洗いに行くのは面倒くさかった。
「ああ、くっそげほ…ぐ……本当…ごほ……面倒くせえ」
やっとの思い出息を整えるとマットレスの無くなったベッドの基礎部分、ボトムの上に、今度はゆっくりと横になる。金具や板が音を立てて軋みマットレスとは比較に成らない硬さだったが、この際床の上でなければ何処でも良い。とにかく横になりたかった。
横になって深呼吸を繰り返すと頭の中までリフレッシュされて、すっきりしてくる。数分の間それを続けていたので真冬の寒気で手足が凍えてきた俺が縮こまって寒さに耐えているとすーと体から力が抜けていくのが感じられた。
体が脱力していくのに任せるまま縮こまらせていた体躯を伸びやかに逸らしながら寝返りを打つように窓のある方向を向く。
時間が時間だけに明るさなど一片も無く、寒々しさ以外に心に何も湧く物の無い光景にポツンと浮かぶ白い毛布…………?
眠気に閉じられかけていた目を左右に往復させてベランダを眺めてもそれらしき形どころか色調も見つけられない。このまま微睡む訳にもいかず、仕方無しにボトムから体を起こしてベランダに出て行くと、首を出してもう一度確認する。
やっぱり毛布は見つからなかった。
この時点で布団が有りそうな場所など一箇所しかない。失敗に次ぐ失敗というか自業自得とこれからの面倒くさい労働を思うと自暴自棄な行動を悔いるしかない。
サンダルは無かったので渋々玄関から靴を持ってきてベランダに出る。
案の定手すりから顔を出して首を地面に対して水平になるようにすると、黒い地面に落ちた寝具の姿が有った。
「やっぱりこうなりますよね」
バーカバーカ、と落ちた寝具か自分にか野次を飛ばしても毛布が一人でに此処まで戻ってくるはずもない。
もう一度、今度は明確に自分に向けてバーカと言ってから部屋を出た。
階段を降りてロビーから外に出て、自分の部屋のベランダの直下を目指す。帰宅時間帯を過ぎているのか幸いに人気は無かったので、人に見つかって恥ずかしい思いをする前に部屋に引き返した。
毛布を抱えたまま後ろでに扉を閉めてほっと息を吐いた。なんというかとても疲れたのだ。
靴を脱いで部屋に上がり、毛布に土や埃が付着していないことを確認してからマットレスの上に置いて徐ろにキッチンに向かった。
そういえば随分と長い時間飲まず食わずだったことを思い出して、これも部屋に置いてあったコップを持って蛇口を捻った。
水道が開通しているかどうかは実家から出たことのない哲には疑問だったが、心配は杞憂だったようで直ぐに綺麗な水が蛇口を通ってシンクを濡らした。
水流に指を突っ込んで冷たさを確かめてからコップの縁ギリギリまで水を貯めてそれを一気に煽る。コップから体までほぼ真っ直ぐに傾けた結果、コップの中身は一瞬で口の中に落下。喉を激しく鳴らしながら水を飲むと体から熱が出ていってリラックスした状態になった気がした。もう一度コップを水で満たして今度はゆっくりと口の中を濡らす様にして水を飲む。飲み終わったらコップを置いて改めて部屋の中を見渡した。
十分な広さを持った居間(洋風な造りをしているのでダイニングというべきか?)と、矢張り狭いとは言えないキッチン。色々と扉を開けてみると、どうやらトイレも風呂も個別の物があるし、ユニットバスではなくきっちりとバストイレ別だ。各部屋にそれぞれ電源も用意されていて、壁のモデムを見ればネット環境も備えているらしい。それに加えて来る前から置いてあった家具の数々。着の身着のままの哲であったが、椅子もテーブルも、食器、掃除用具、冷蔵庫、冷暖房機、炊飯器と電子レンジ、コンロと調理器具。とりあえず思いつく限り生活必需品と呼べるような物は殆ど置いてある。
実家暮らししかしたことのない哲にはこの部屋が良いものかそれとも普通なのかの判断は出来なかったが、自分の想像する寮という物よりも格段に好物件だと言えた。
掃除の事を考えると広いのも考えものだったが、そもそも教師をする為に貸し与えられた部屋だ。もしかしなくとも掃除をする機会を迎える前に此処を追い出される可能性も当然ある。取らぬ狸の皮算用、そういう事は精精努力をして此処に定住できるようになってから心配すればいいだろうと忘れることにした。
ざっと間取りを把握した所で、さて次は何をしようかと考え始めたとき来客を告げるチャイムが部屋に鳴り響いた。
来客に心当たりが有った。多分学園長の使いの人かこの寮の人辺りだろう。
「今出ます」
念のため覗き窓で扉の前に人が居ないことを確認してから扉を開けると若い男が立っていた。
「君が黒金哲君かな? 初めまして。僕の名前は瀬流彦。学園長から君が慣れるまでの間色々と世話をするように言われてる者だよ」
哲にそう自己紹介した男は、別段気安い笑みを浮かべて哲に驚く事もない。
普通なら俺の若さに驚くと思うんだけどな。と思ったが、何時までも疑問顔で黙っている訳にもいかない。出来るだけ笑顔を意識しつつ自己紹介を返す。
「黒金哲、18歳です。よろしくお願いします」
念のため年齢まで口にするが、それでも男に動揺した気配がない。
「大丈夫だよ。その辺りの事情含め説明されてるからね。それにそっちの事以外でも君に報せることが有ったから僕が選ばれたんだ」
哲が顔色を伺っているのに気付いたのか苦笑しながら男、瀬流彦はそう言った。哲がカマを掛けた事も気にしていないようだ。
「えっと、こんな所で話をするのもなんですからどうぞ上がって下さい」
「はは、悪いけどそうさせてもらうよ」
「って、すいません。部屋中の窓開いてるんで閉めてきますから、上がって待っていて貰えますか?」
換気の為に窓を開け放しておいたが、外の空気はかなり冷たい。自分一人なら寒いのも平気なので放っておくところだったが、これから世話になる人に寒い思いをさせるのも忍びないので、瀬流彦には待ってもらうことにして窓を閉めて回り、瀬流彦の待つ居間に戻った。
テレビラックの中に置いてあった幾つかのリモコン類の中からエアコンのものを選び出して、暖房を入れ瀬流彦の正面に座った。
「では、改めまして黒金哲です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
やや緊張気味の哲に対して、相対して座っている瀬流彦はくつろいだ雰囲気を崩さない。物腰も柔らかくにこやかな笑みを浮かべる瀬流彦を前にして恐恐とした気持ちで会話を開始した。
「それで、これから俺? あ、いや私はどうなるんですか?」
慣れない相手、というよりも仕事の話をしに来た目上の人間に対して余談を繰り広げるようなおおらかさは哲には無かったのでど真ん中直球ストレートを放る。
と、同時に今の異常な状況に戸惑いを感じ無い訳にはいかなかった。
「そんなに鯱張らなくても良いよ、君を取って食べたりはしないから」
心境的にとても笑える状況ではない哲の目の前で笑えない冗談を言いつつ、瀬流彦は自分の発言にあははと軽く笑った。
これはアレか? もしかして瀬流彦さんはそっちのけでもあるのか? それとも単なるジョークか? そもそも人間とは思えない学園長を覗いてこっちの世界で逢う初めての男だからこういう普通の対応一つ一つに対して恐怖感が拭えねえよ。
もしも世界標準が学園長の様であったなら、というある意味で最悪の可能性。それが一瞬でも頭を過ぎったら、もう哲に油断する事など出来ない。あんな理性と常識に真っ向から喧嘩を売る様なハッチャケ方をされるとその標的或いは被害者になる自分としてはとても心臓が持ちそうに無いからだ。
「そ、それでその、学園長からこれからの事については何が?」
「それについてなんだけど、まず君には明日から二週間の職業指導を受けてもらう。指導に関してはその時々で手隙の先生にお願いしてあるかららしいから、多分一時間毎位に違う先生に教わることになると思う。大丈夫? ちゃんと聞こえてるかな?」
瀬流彦がそう言って哲の顔を見た。
慌てて返事を返す哲。
「あ、えと、その大丈夫です。二週間研修を受けるんですよね?」
「そうそう。いやボーっとしてるように見えたからね。話の腰を折って悪かったね」
こちらこそすいませんと頭を下げながら、内心の動揺、拍子抜けした事を悟られないように顔色を繕う哲。警戒していた割に瀬流彦から伝えられた事柄がまともな内容だった事に気落ちというか、肩透かしを食らってしまい思わず間の抜けた顔を見られたのだろう。
心配事の無くなった哲は浮かし気味だった腰を今度は深く沈めた。
「その二週間の間に少しずつ、先生方の授業を見たり、教育実習生みたいに一時間だけ授業を持つこともあるかもしれないからそういう心構えをしておいた方が良いよ」
「う、そうなんですか? 分かりました。出来るだけ頑張って勉強しておきたいと思います」
「まあかなりの無茶だって先生方も理解しているだろうから、そういう時でもフォローをしっかりしてもらえると思うよ。明日の職員会議で君の経緯も知らされるだろうし、学園長に振り回されるのはこれが初めてじゃないからね」
やはり、ははっと笑う瀬流彦。今度の笑みは何処か苦味を含んでいるように見えたのは気のせいではないだろう。
神楽坂と言い、瀬流彦さんと言いあの学園長、一体何をしたんだ? 不思議と隔意とか嫌な物を感じさせないのが然りげ無く凄いけど、完全にまともな性格してないだろ。思えばエヴァンジェリンの学園長に対する態度も雑な所があるし、どうやって付き合っていけば良いんだろうか。雇ってくれた恩もあるし最低限付き合いを持った方が良いとは思うんだが。
何を思い出したのか行動を停止した瀬流彦に、どう反応を返したら良いものか分からない哲が黙りこくると一瞬部屋の中が沈黙した。
「言っておくけど学園長はとてもいい人なんだよ。物凄い功績を立ててるし、魔法使いとしての力だって本国からかなり高位のランクを付けられてるんだから。人望も厚いし、とても優しくてね。この学園には結構な数学園長からの援助を受けて学生生活を送ってる生徒が居る位なんだよ。…………ただね、時々言語に絶するお茶目をするだけの話なんだ」
流石に甘いマスクが崩れて疲れた顔を見せながら慌ててフォローに入る瀬流彦の言葉に思わず、それは見逃しちゃ不味いだろ!! と突っ込みかけたが、苦笑いを浮かべるに留める。ただ、場を硬直させまいと大変ですねとだけ言っておく。
「それと並行する形で書類仕事なんかも教えて行くことになってる。だから君が副担任として受け持つ二年A組の生徒達と顔を合わせることになるのは多分それら全部が終わった後だから、二週間後って事になるのかな。それまでに最低限教師として必要な技能知識の詰め込みを終える予定だから相当の難行になるだろうけど頑張ってね」
「分かりました。出来るだけの努力をして、生徒になる子達に迷惑を掛けないようになりたいと思います」
瀬流彦の顔を見てはっきりと言い放つ。此処に来てそんな事出来ないだのほざいた所でどうにもならないのだ。自分が生きて行く為にも、拾ってくれたエヴァンジェリンに恩を返す為、生徒になる宮崎さんや神楽坂の為にもどうにかこれだけはやり遂せなければならないのだから、ここはいっそ自信過剰な位の姿勢で。失敗したときの惨めさが増せば増すだけ失敗は出来ないのだ。
「そういえば、さっき言ってた瀬流彦さんが選ばれた理由っていうのは?」
話が一段落着いたみたいだったので先ほど妙な言い方をされて引っかかっていた部分について聞いてみることにした。そっちの事以外というのは何のことなのか?
「薄々気付いてると思うけど、もう一つの用件っていうのは魔法関連の話の事さ。この学園内での魔法使いの事に関しても話をしておく必要がある」
確かに想定通りの内容だ。エヴァンジェリンの所から追い出された今、自分がどのようにそちらと関わっていくことになるのか出来るだけ早い段階で知りたかったことでもある。
関わる必要が無くなるならそれは御の字だ。君子危うきに近寄らず、危ないことは出来るだけ対岸の火事で在って欲しい。エヴァンジェリンの別荘での一件も有ることだしな。
あれだけの惨状を創りだしたのが自分であるという認識こそ薄いものの、焼けた床と荒れた構造物はどれだけの危険な威力であったかまざまざと想像させる物だっただけに特別近寄りたいものではない。
「その話をする前に、どうだい? まだ夕食を食べていないだろう。何処かに食べに行かないかい?」
「それって外で話をするって事ですよね。大丈夫なんですか? そんな事して」
「それが大丈夫なんだよ。周囲の人間には他愛のない話をしている様に見せかける魔法があって、それのお陰で僕達魔法使いは密室でなくても安心して密談が出来るって訳なんだ。それで、君はどうしたいかな?」
ぬぐぐ、どうしてそうまでして俺に決定権を委ねようとするんだ? これが大人の余裕というモノか。どっちでも良いですなんて言いにくいじゃないか。しかも、腹具合もかなり切羽詰ったところまで来ているらしく、話の最中から腹がなりそうな前兆が現れている。出来れば今直ぐにでも何か食事を摂りたい。
「正式な教員としての着任には少し早いけど、お祝いも兼ねて今日は僕の奢りだよ」
マジっすか!? 太っ腹すぎます瀬流彦さん! 初対面の人、しかも野郎にこの優しさ。尊敬に値するね。勿論ゴチになります。
着の身着のままの状態、しかも財布を焼失してしまったので現在の所持金、及び資産共に0。突然の幸運はまさに地獄に仏である。一もニもなく哲は縋りつく。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂いて。本当に有難うございます。明日の朝まで水しか飲めないものかと覚悟してましたんでとても助かります」
「よし、それじゃあおすすめのお店があるから其処に行こうか」
と、言われて着いたのが現在、美味しい肉まんを頂いている店だ。
「ひええええー。凄いですねえ、人気が。時間のせいも有るんでしょうけど一杯じゃないですか」
「此処の料理人が中学二年生ながらにしてこれだけのリピーターを持つ凄腕の子でね。それだけじゃなく、人が多くても嫌な空気が無くて活気があるから頻繁に来る人も居るぐらいだよ。それなりの割合でさっちゃん個人のファンも居るんだけどね」
「さっちゃんですか?」
「ああ、その凄腕料理人の名前が四葉五月って言ってね、皆親しみを込めてさっちゃんって呼んでるんだ。ほら、そこにいる子がそう」
瀬流彦の案内に従って哲が歩いていると、商店街や学生寮の密集している地域から少し外れた学校よりの開けた場所に、黒山の人だかりが出来上がっていた。
わいわいがやがやという楽しげな話し声が幾つも重なって一つのうねりとなって、遠くにいた時から簡単に人の気配が読み取れた。それと同時に食欲を誘う芳しい匂いが漂い始める。
更に近寄ってみるとさながら地元の小規模なお祭位の規模で人が集まっていて、哲が反射的に仰天の声を挙げると瀬流彦から解説が入れられた。
これだけの人が食べているなら味のほうもかなりの期待が出来る。
今まで抑えていた腹の音が匂いに誘われたのか鳴り始め、それも喧騒へと掻き消えた。
「あの子がですか? 本当に子供じゃないですか」
瀬流彦が指し示した方向を見ると電車を改造した屋台の中で忙しく包丁やお箸を振るっている少女が見て取れた。
身長は低め、髪には幾つかのリボンが着けられコックコートを着込んで、美味しそうに食事を楽しんでいる人を見つめては幸せそうに微笑んでいる。柔らかな風貌を備え、手つきも丁寧そのものだ。
「一口さっちゃんの料理を食べればその考えも変わるよ。それじゃあそこのテーブルを取っておいてもらえるかな? 幾つか料理を頼んでくるよ」
分かりましたと頷いて誰も座っていないテーブルを確保する。
椅子に座り、瀬流彦がさっちゃん、四葉五月に注文をしているのを尻目にテーブルに肘をついて顎を支えながら溜息を吐く。
人と会っているだけなのに結構緊張してるな。これから先副担任として仕事が始まったら相手は男ですらないって言うんだから、早めに慣れないとな。
教師になることなど一度として考えたことのない自分には全く想像の出来ない、未知の世界だ。それも、今まで会ったような特殊な事情を抱えていたり、スペシャリストと呼べるような才能を持った生徒など、生徒の方も一物抱えているような子達ばかりに違いない。
考え及ばずおちおち落ち込んでもいられねえな。宮崎さんや神楽坂が普通の子であることを祈ろう。
「お待たせ黒金君」
「あ、はい。ご馳走になります」
手を引っ込めて姿勢を正しながら瀬流彦を見ると丁度、持っていた蒸篭をテーブルに置いた所だった。
「とりあえず一番最初は超包子特製の肉まんを食べてみるといいよ。特にオススメの商品の一つだから」
「分かりました。じゃあ、頂きますね」
瀬流彦の勧めを素直に受け入れて肉まんを摘み、温度を確認しながら齧り付く。
猫舌なので、くれぐれも中から肉汁が出てきて火傷する事など内容に細心の注意を払いつつ咀嚼、下の上で食材を転がす。
「うっわ!! え、まじで? これめちゃくちゃ美味いですね!! もう、なんていうか……ええ、美味いという以外に……形容出来ません!!」
「うんうん、美味しいのは分かったから落ち着いて。食べながら感想を言ってくれなくても良いから」
と引き気味に瀬流彦さんに止められて、はっとした。ええ、見事に我を忘れていました。完膚なきまでに。
この体中を駆け巡る感動の嵐をどうすることも出来ず、それを表現できない悔しさに涙しながらも肉まんを頬張り続けあっという間に食べ終わってしまった。
このふわふわかつもちもちの皮と、それに包まれた豚肉、玉ねぎ、椎茸、筍とその他見当のつかない食材各種と調味料で作られた具。この二つの抜群の相性と更に蒸されることで肉から出て皮に閉じ込められた肉汁。そしてそれら三つが口の中で融合される時の味覚。っク、コンビニの大量生産品程度で満足してしまっていた事が悔しいぜ。世の中にこれほどの肉まんがあったとは。
「ちょ、ちょっと泣いてるけど大丈夫かい? 黒金君」
「ええ、何の心配も要りません。ただこの並外れた美味しさに感動しているだけなんで」
そこまで喜んでもらえるとは思わなかったな。と汗を掻く瀬流彦さんは見なかったことにしよう。ついでに真面目に涙を流している俺自身も。
「すいません、取り乱しました。それで、食事中なんですけど話を進めて頂いて良いですか?」
そのまま瀬流彦さんの目を忘れて料理に舌鼓を打った後、正気に戻ってから哲は慌てたようにそう話を切り出した。
「そういえば、そうだったね。それじゃあ、食べながら話しをしていこうか。ああ、それと誤認魔法を使ったからこの席での会話は周囲の人には全く別の話題に聞こえるようになってる。周囲に聞こえる会話と齟齬の出る態度だと怪しまれるから出来るだけ普通に会話して」
「と、ここまでやっても話自体はそんなに複雑な物じゃないんだ。ただ、この学園には多くの魔法使いの先生、魔法先生や生徒である魔法生徒が在籍しているけどだからと言って全ての人がそうという訳じゃない。だから普段生活している上では普通の人達には絶対に魔法の話をしたり、魔法をバラしてはいけないって事。魔法を一般人にバラした場合最悪オコジョ刑を受ける事。この二つの事項だけなんだ。それと、話が変わるけど暫らくの間は君が魔法を習う事はないって事」
「そうなんですか?」
ほんの少し、瀬流彦さんが目を細めるようにしてこう言った。
前半の話に関しては言われずとも、そんな物だろうと憶測を立てていたが後半、俺に魔法を教えないというのはどういう事なのか? 現実の時間では2時間も経たない間に魔法の講義を受けようとしていたにも関わらず、それとは全く反対だ。エヴァンジェリンが学園長の意向に反して俺に魔法を教えたとでも言うのだろうか?
「学園長にエヴァンジェリン君の方から連絡が有ったときに、君への指導は彼女が行うからこちらでは手出ししないようにって言われたんだけど、一緒に当分はそれも出来ないって言われた」
瀬流彦が興味深げに目を光らせ哲を見つめた。
「高畑先生も珍しがってたんだけど、何かあったの?」
完全に食事の手を止め、瀬流彦さんが俺に集中するのが肌に感じられる。でも、心当たりの無い俺としては瀬流彦さんがそうまでする理由が理解出来ない。
あの別荘の中での事を思い起こしながら、箸で料理を掴んで口へと運びつつ答えた。
「ええと、簡単な説明を受けて試しに呪文を唱えてみろって言われたんで、言われたとおりに言ってみたら次の瞬間大爆発しました」
「大爆発?」
「はい。なんかエヴァンジェリンに危うく死にそうになったって怒られました」
「エヴァンジェリン君が? 死にそうに?」
「そして気付いたら気絶してたんですけど。何か問題有りました?」
大した事無いだろうと思っ打ち明けた事実で、思った以上に深刻な顔を瀬流彦。
いや、確かに殺しかけたのは不味いんだろうけどそういう深刻さでもない。何か悪夢でも見たかのような顔色をしている。
心ここにあらずといった感じだったので話しかけると、瀬流彦は頭を強く振ってから笑顔を作った。
「そ、そんな事ないよ。平気平気、ボーっとしちゃっただけだよ」
如何に鈍感というか人の機微に疎い俺でもそれは無理があるだろうと思われる誤魔化し方だったが、突っ込むのは躊躇われる。
追求するかしないか考えているうちにすっかり持ち直した瀬流彦さんによって、その話題は流れることになった。
「そ、そうだ! それで明日は君の紹介も有るから8時迄に学園まで来て欲しいんだけど、道とかは分かるかな?」
最終的に必死に額に汗を浮かべている瀬流彦を見て哲は、詮索することを諦めた。教えたくないというならきっと、知らない方がいい事なのだろうと。
「まあ、はい。多分大丈夫だと思います」
「もし駄目そうだと思ったら7時半までに僕の部屋まで来てくれれば連れていってあげるよ」
「分かりました。有難うございます」
「それじゃあ、これで話は切り上げて食事を楽しもうか」
これで瀬流彦の言ったとおりこの話は終わり二人で食事をしたのだが、終始瀬流彦の態度はおかしいままだった。