深夜の図書館。一辺が数十メートル単位で構成され高さは床から天井まで5メートル以上もあり、おまけに地下に地下にと伸びるこの建造物は建造されてから幾度も増設を繰り返された結果未だ人跡未踏の地を残し、地下20数回までの存在が明らかとなっている他にそれが何処まで続いているのかという事すら分からない謎だらけの図書館で、トラップすら潜むそこに自分達以外人っ子一人居ないとなればその静けさや暗さたるや十分に人を恐怖させる事が出来る。
と、そこを歩く哲は思った。
かく言う自分も心内に恐れの感情が有る事を否定しきることは出来ない。というかめちゃめちゃ声高にその存在を誇示していると言っても過言ではないだろう。
周りに数人の人間が居る現状ですら膝が笑っているのである。
これがたった一人きりであったなら恐らく入り口で即座に引き返していただろう。
学校の怪談的なとってもホラーな空気はとてもとても苦手な人間である。鋏を持った男が追いかけてくるゲームを人の背中に隠れながら見ていたこともある人間としてこの経験を生かして夜間このような場所には二度と近づかないことを勝手に誓いたい。
とはいえ男の意地か怖いもの見たさ故にかその足運びに乱れるところは無く、集団から抜きん出る事もなく、はたまた遅れることもなくその中頃を闊歩する姿はとてもそのような思いをしていると余人に気付かせることはなかった。
こういう意味で面の皮が厚いってのも考え物だよな。なんというか凄く頻繁に人間性を勘違いされる。誰がバトロワが開催されたら平気な顔で優勝しそうな面してるんでよ。ていうかそれってどんな面だ。
時々『物凄い』無表情になると言われてきた哲の表情は現在微かな笑みを形作る途中で口が固定されたようなそんな顔だった。
そんな表情で歩く哲を振り向く一人の少女が居た。
長めの髪の毛で視線が隠れてしまうその少女だったが、何故だか見られるたびにその視線に気付けてしまうのはその視線がなんだか普通の視線とは違う温度だからだろうか?
隊列は縦に一直線。先頭から夕映、木乃香、刹那、明日菜、ネギ、のどか、哲、エヴァンジェリンとなっている。
そして哲の直ぐ前を行く少女宮崎のどかは他者の視線に人より鈍感な哲が、その視線を向けられるたび気付いてしまうようなそんな視線を幾度と無く向けてきていた。
哲としては不思議と居心地が悪い。その視線に込められた感情も理解できないし、何よりも後ろから物々と小さな声で独り言を言っているのが聞こえてきてしまうから。
「ッチッ!! あの目は如何いうことだ。何故あんな目が奴に向けられている? この前の体育の時間の接触でか? いいや違うな。あの時は何も会話を交わしていない筈だ。しかしそれを言えばいつの間に図書券等というものを………。忌々しい、恩を仇で返しおって」
不穏すぎる。そして意味が分からない。
誰が何時何処で何を如何すればこんな風に機嫌が悪くなるのか。さっぱり理解できない。
哲の記憶の中では確かにエヴァンジェリンの言葉を受けて夕映がのどかの同行を許可するまでは、エヴァンジェリンの機嫌は悪くなかったはずだ。
話しかけても素気無くかわされ、挙句距離を取られたときにもこんな風にはなっていなかった。
それが出発してから縦一列の隊形を取って書架の上を歩き出してから数分の内に現状のようになってしまった。
先頭で夕映が道を示し、それに続く形で木乃香、前を行く二人に気を配りながらも後方特にエヴァンジェリンを気にしている刹那、そしてしょっちゅうネギの事を気にして世話を焼く明日菜と明日菜の親切に感動するネギ、何故か哲をちらちらみるのどかと後ろを付いてくるエヴァンジェリン。何もおかしいところはない。
道が狭く、また所々にスイッチ式のトラップや書架と書架の間の空間が有るためここまで余りおしゃべりもせず黙々と進んできた一行。
おかしい、何処にも不機嫌になるようなものが有るとは思えん。
その前門のよく分からない視線と後門の理由が分からない棘の生えた空気に挟まれた哲は、いっそ恐怖に飲まれることを楽しみたいと思いながらもそれを実行できなかった。
しかものどかと目線を合わせると何故だかのどかが顔を赤くして前を向きなおしたり、エヴァンジェリンの放つ空気が刃の様な鋭さを持ったりするので迂闊に気になる視線を気にすることも出来ない。
そんな哲に救いがあるとすればかなり前方に居る刹那の項だけだ。
一見平穏そうに見える一行が地下6階に達したときだった。
夕映の持つ携帯に着信があった。
「もしもしゆえー、こちら地上班というかハルナでーす。今どの辺まで行ったー?」
「今ですか? 丁度6階に降りてきたところです。予定ではこの辺が中間地点ですし」
「そうそう、その先に閲覧室があるから休憩取れる筈だよ」
「皆さん、、もう少し行ったところで一旦休憩にしましょう」
発信者は図書館の地上部で待つハルナ。
両者の持つ地図上に記された幾つか存在するマーク。それが意味するのは何故か図書館内に設置された休憩所の存在だ。
とは言え本来図書館内部は何処であれ休憩所として機能するべきである以上、その言葉はここで用いられるには少々異質だ。
しかし階段を下りていくと何故か平然と書架の上を歩かされたり、書架の上に足場を作るための金具と稼動部が存在して居る為に不思議とその響きが受け入れられてしまうのだが。
「ところでさーゆえ、のどかはどうしてる?」
「のどかですか?」
電話越しにハルナが面白がっている空気が伝わってくる。
この友人は一体全体何を妄想してこんなに一人で盛り上がっているのだろうか。
この早乙女ハルナという友人はいつも一緒に居る三人組の中で最も活発で社交的であり尚且つ行動力も持ち合わせている。これで余りにも趣味に傾倒しすぎているところとどんな事態でも楽しんでしまえる強靭すぎるバイタリティさえなければ………いや、それに加えてどんなものでも楽しもうとするスタンスさえなければ一人の友人としてもっと心穏やかな生活を送れたかもしれない。
正直なところ羨望を覚えるときも少なくないその明るさは少なからず自分の救いとなっているところもないではない。
しかしと心の中で続けながら振り返って話題に挙がったもう一人の友人を見る。
引っ込み思案で臆病で人一倍優しく思いやりに溢れている。自分の自慢の友人は今も休憩を入れられると聞いて彼女の後ろを歩く青年に笑いかけている様だ。それを見た哲ものどかに微笑を返した。
「黒金さんに笑いかけていますね」
「他には?」
「特に何もしていませんが……あ、いえ黒金さんにも笑いかけられて急いで顔を逸らしました」
元々男性恐怖症の彼女が彼に対して笑いかけられること事態が殆ど奇跡みたいな事態だ。はっきり言ってのどか本人から哲と言う男性の話を聞いたときは夢か何かかと思ったぐらいである。
今もちょっと現実離れした物を見ている気がしている。
「あーもー。折角着いて行ったのにその体たらくか。夕映、私の変わりにのどかのこと焚き付けてあげてよ」
「普通そこは背中を押すとか励ますとかそういう表現を用いるべきかと思うのですが」
「いやいや、あののどかが男を好きになったんだよ。男を! ここは押して押して押しまくるべきでしょ」
ハルナの不適当極まりない発言を注意をしても、返ってくる発言をよく聞けば彼女のした表現がむしろ適当であった事を悟らずには居られない。
あいもかわらずブレーキとか自重とか手加減とか駆け引きとかタイミングとかそういった何かが抜け落ちて常に全力フルスロットルな彼女らしい発言と言えた。
その結果貴方はのどかを崖から突き落とす気がしてなりませんよ、ハルナ。
「しかしそれよりも先にのどかには男性恐怖症を治してもらうべきでは有りませんか? 確かに黒金さんに対して好意を寄せている様子も見られますがまともに会話が出来ている様子もないですし」
「そうかなー。黒金さんに対しては怖がっている風には見えなかった気がするけどな。それとものどか自身も気付いてないとか?」
「私にもそれは分かりません。とにかく今日は他に優先すべき目標があります。そちらに関しては後日もう少し分析してみてからでも遅くはないでしょう」
「いやでもゆえっ、ゆえっ! ちょっと聞い」
これ以上話していても話は平行線を辿る事になると思った夕映は喋っている途中のハルナを無視して電話を切ってしまう。
それからもう一度のどかを振り返ると顔が赤くなったまま前を向いていた。
とりあえず部屋に戻ってから話しを聞いてそれから決めましょう。あの人がどんな人なのか見極める必要もあるでしょうし。
とてもとても大切な友人を信じているが、悪い人間に誑かされる事がないとは限らない。その時には例え喧嘩になっても止めなければいけなくなってしまうかもしれない。
勝手と言われれば勝手だろう。それでものどかを大切にしたいと思う。だから勝手に覚悟を決めた。
「夕映、どうしたん? 早く先いこう」
直ぐ後ろを歩いていた木乃香が止まったまま歩みを止めた夕映を心配したのだろう。声を掛けられた。
「いいえ、なんでもありませんよ。あと少しです頑張りましょう」
先ほど自分でも言ったように今は他にやらなければいけない事があるのだ。
「これ、おいしー。流石木乃香ね」
「本当ですね。これほど美味しい物を毎日頂けたら嬉しいですね」
休憩所についた一行は木乃香が持参してきたお弁当を摘もうと机の上に座り込んでいた。
8人で円陣を組むように座って中央に置かれたお弁当に手を伸ばす。椅子ではなく机に座り込むのをしり込みしていた者も最終的に上がり込み、それを咎める者は哲も含めて居ない。
気が進まなかったものの椅子に行儀良く座る気分でもない。何せ今は冒険中なのだから。
のどかの作ってきたお弁当の中身は幾つかのおかずとサンドイッチが詰め込まれたものだ。
運動することを考えた上で作られたそれは軽めの食事で、オーソドックスな具が挟まれたサンドイッチは高揚した気分を抜いても十分美味しいでありエヴァンジェリンも文句一つ言うことなく食事を楽しんでいる。
普段から木乃香の作る食事を食べている明日菜も、そうでない夕映も感心しているのかその手の進みがいつもより速い。
その元気溢れる食事風景に木乃香は思わず笑顔を洩らすと最大の関心事、刹那の感想を聞いてみた。
「せっちゃんは……その、どうや?」
「とても美味しいです、お嬢様」
「ほんまに!? あ、ありがとうせっちゃん」
「う……い、いえ別にお嬢様にお礼を言われるような事は」
息を呑む程緊張していた木乃香だったが刹那の答えに緊張を緩めると花が綻ぶ様な笑顔を見せた。
男がそれを正面から見たらまず間違いなく恋に落ちただろうその笑顔に、同性の刹那も頬に赤みを差した。
「えへへー、せっちゃーん」
「ししし、失礼しますお嬢様」
嬉しさの余りだろうかそのまま刹那の胸にしな垂れかかろうとした木乃香を前に、刹那は大急ぎで立ち上がって逃げ出してしまった。
「あーん、逃げられてもうた」
「何やってるのよ木乃香。あんたも食べないと無くなっちゃうわよ」
「木乃香さん、本当にこのサンドイッチ美味しいですよ。それとこのからあげも」
「ふん、黙って食事も出来んのかこいつらは。騒がしすぎるぞ」
ドタバタと騒がしい明日菜たちを見てエヴァンジェリンが悪態を吐く。
それを隣で聞いていた哲も確かにとそれに同意して苦笑いを浮かべた。
でも、エヴァンジェリンの気持ちも分からなくは無いがこうやって騒がしく食べるのもこれはこれで楽しいものだ。
「宮崎さんはこういうのどう思う? 嫌いかな?」
二つ目のサンドイッチに取り掛かりながらエヴァンジェリンとは反対側に座っているのどかの方を伺う。
サンドイッチを楽しむ少女達の中でも取り分け少食らしいのどかは僅かな量を口に含んでは咀嚼しまた口に含んでいたが、その様は小動物が食事をしているところよりも愛らしい物があった。
意外な発見に驚きながらも食事している様子を凝視してしまう哲だったが、その視線を浴びるのどかの方は心穏やかとはいかなかった。
ただでさえ見つめられるだけで顔を染めてしまうような恥ずかしがり屋の彼女が自分の食事をまじまじと見つめられているとあっては普段より一層の羞恥を感じたとしてなんの不思議があるだろうか。
しかも直前までのどかの視線は、騒がしく食事を楽しんでいる明日菜達を見ていた哲に注がれていて、瞬きほどの時間視線が合ってしまった気恥ずかしさも混じってのどかの一切の運動を停止させてしまった。
奇しくもサンドイッチを噛み締めた瞬間、振り向こうとする哲に気付いて慌てて視線を移動させる途中だったのどかはそのまま身動きが出来なくなってしまって哲の質問も耳に届かなかった。
しかし、二進も三進もいかない身体とは対照的にのどかの心は高速で運動していた。
木乃香の持参したサンドイッチに手を伸ばしながらも、明日菜達やエヴァンジェリンと会話するでもなく淡々と食を進め時折誰かに視線をやってはまた食事に戻る。
自分のようにその視線に何がしかの感情を滲ませる事もなく、ただ見ているだけの行動は一見冷たさを感じさせるようでいて決してそのような事はない。
温かみも冷たさも無い、かといって空虚ではなく確実な何かが感じられるような今まで見たこともない類のその視線を発する瞳を見つめていた時、のどかの脳裏には今までの哲と自分の会話が思い出されていた。
初めての邂逅は全くの偶然、階段から落下する自分をいつの間にか現れて自分の落下地点に座り込んでいた哲に受け止められていた。
その時の事ははっきり言ってのどかの記憶には余り鮮明に残ってはいない。
とても苦手な筈の男性に、あんな風に危険な状況から助けて貰ったという事実に思考が追い付かなくなっていたのかもしれない。
その後も図書島までの案内の途中も碌な会話は存在しなかった。
その時は哲がまるで上京したての田舎者のようにこの街に溢れかえる洋風建築や街並みに釘付けになっていたために気まずさも感じなかったし、それ以前の出来事のせいで感覚が麻痺していたのか今のように見つめられるだけで、見つめるだけで何かを感じるような事は無かった。
二度目は学校の図書室で。
誰も居ないと思っていた静まり返っていた図書室で返却予定の本を探していたら寝ていた哲を見つけたのだ。
その時は彼を見つけたというよりは彼に見つけられたというか、そんな感じだったのだが。
ともかく、視界を奪うカーテンが視界から消えたら彼の顔が間近にあったのだ。
省みてみればあの時の自分は彼に抱き留められていたような…………。
その事を思い出した瞬間、熱せられた鉄の如き滑らかさでのどかの顔に血が上った。
そして胸に去来する経験の無い感覚と感情に受け止めることも出来ずに流される。激流のような激しさで、羽のように優しく抱きとめられそのまま意識の大部分を攫われる。
柄にも無く大きな声を挙げたくなってしまうがこの状況でそんな事が出来る筈も無く、行き場の無いその衝動はのどかの体内に留まって顔の熱を冷まさせない。
その攫われずに残った少ない意識がその衝動に疑問を抱く。
何故こんな感情を抱くのか、何故これほどの感情を抱くのか、何故こんな感情を抱く対象がこれなのか。
何もかも簡単に答えが出せない。
だって自分は男性恐怖症の筈だ。身体に触れることだって普段なら、彼以外ならば怖くて怖くてとても考えることすら出来ない。
だというのに彼ならば怖くない。
だって自分は彼にたった一度助けて貰っただけだ。それ以外に何も無くそれ自体も何の変哲も無く何の不思議もなく何のロマンスも無い。
だというのに彼が気になって仕方がない。
だって自分は彼にただ受け止められただけだ。転びそうになってカーテン越しに、それと意識することも無く。
だというのに今まで感じたこともない熱さで胸が焼けている。
自分がいつも読んでいるような本の世界の住人ならばいとも簡単に、或いは紆余曲折の末にこれに恋と名前をつけることだろう。
しかし自分には疑問符を浮かべることしか出来ず、そんな意識とは裏腹に手を付けられない衝動に引きずられ続けてしまう。
何かがおかしいと砂粒程の意識が訴える。これが恋であるなんて。
彼と三度目に会ったのは先日のバレーボールの折、女子中等部屋上での事だった。
あわや高等部との争いに発展しようかという場面に現れた彼が高等部の生徒達を説き伏せて追い返した後、授業を開始しようと整列中に何を考えたのか自分は彼にほぼゼロ距離まで近づいたのだ。
あれで顔の高さが同じくらいであれば唇が触れたかもしれないという位の近さだった。
あの時は彼女自身自分の行いに面食らっていたが、それ以上に面食らっていたのは相手の哲だっただろう。
自分に気付いて驚いた哲は、その驚きを隠しもせずに自分にどうしたのか聞いてきた。
自分も分からない物を説明する事など出来ず、そして気恥ずかしさから逃げ出してしまった。
きっと哲を困惑させてしまっただろうと申し訳なさを覚える。
数えてみれば今回で哲と会ったのは4回。たったの4回だ。
それなのに自分が自分と思えないほどの感情を相手に抱いてしまっている。
しかし何故か分からないと素直に答えてその感情から目を背向けるにはそれはあまりに鮮明で強烈過ぎた。
一目惚れをしてしまったんだろうかと自問する。
それにそんな事は無かったと自答する。
駄目だ。そこまで考えて思考がぐるぐると空回りしそうになる前兆のようなものを感じたのどかは急いでそれ以上の思索を諦めた。
そうして何も考えないようにしていると知らず知らずの内に溜息が出てしまった。
自分の事を心配して引きとめてくれた親友に無理を言って付いてきて、こうして食事をしている今でさえ時折気遣わしげな表情をさせてしまっている。
様々な複雑な感情から哲の方を極力意識しないようにして明日菜達と談笑に講じる親友を見やる。
度々哲の視線に硬直しながらものどかは自分を見つめる夕映の視線に気付いていた。
きっと彼女も自分と同じかそれ以上に、引っ込み思案な自分のいつにない暴挙に混乱していることだろう。
自分の性格について自覚的な方だと思い上がるような事は出来ないが、それでも自分がこういう時こういう事に参加するタイプではないことが分かっている。
長い間同室で生活してきて、きっと自分以上に自分を知っている彼女だ。
まだまだ続く探検で足を引っ張らない自信はなかったが心配をかけ続けているというのは嫌だ。
哲の前で格好の悪いところを見せたくないという気持ちもある。
じっとのどかが夕映のほうを見ていると夕映がのどかの視線に気付いたのか彼女とお互いの視線が交錯した。
夕映はのどかの想像通りに心配そうな表情を浮かべ、その腰を浮かそうとした。
が、その視線がのどかの隣に居る哲、そして哲を挟んで反対にいるエヴァンジェリンに移ると一瞬身体を震わせて浮かせた腰を机の上に戻した。
不審な夕映の様子に、彼女の見ていた方向を見ると
「何か用か、宮崎のどか」
のどかの視線が自分の方を向くよりも早く、意識がそちらに向いたことに気付いたかのようにエヴァンジェリンに声を掛けられた。
しかし、その声色に友好的な色など欠片もない。刺々しく敵意を隠そうともしないその声に夕映と同じようにのどかの身体も震えた。
何か自分がしてしまったんだろうか?
見に覚えはなかったが、彼女がのどかの身の安全を保証してくれなければ自分が同行出来たかは怪しいところだ。
まだ助けられるような危ない場面には陥ってないがそれでも恩人と言って差し支えないだろう彼女に睨まれてのどかの心の中に申し訳なさが溢れた。
「八つ当たりに人を睨むのは止めろよエヴァンジェリン。さっきから機嫌悪すぎだろ。腹立つことでも有ったのか?」
「ふん、何でもない。気にするな」
雰囲気の悪さに気付いた訳でもないが、エヴァンジェリンの形相に気付いた哲がエヴァンジェリンを注意した。
「あのな、気にしないわけにも行かないだろ。知らない奴でもないし、ここに居る奴の中じゃお前が一番仲良いんだ」
哲もエヴァンジェリンも先日のことを忘れたわけではなかったが、哲としてはそもそも誤認であるそれをいつまでも気にするような性格をしていないし、自分が振ったわけでもないので今後の付き合い方はエヴァンジェリンの反応次第、という風に気軽に考えていたしエヴァンジェリンの方もそれどころではなかった。
「そ、そうか? しかしお前私に対しては言葉遣いを直そうともしないが」
「ああ、いや。気にするなら改めるけど。仲の良い奴に対して敬語を使うのは違う気がするし気兼ねしないで良いから助かるんだけど。………でもまあよく考えてみればそっちの方が良いか」
「そ、そういう事なら気にするな! 私としては当然敬意と畏怖を持って接してもらいたいところだが特別に許してやる。寛大な私に感謝するんだな」
「ああ、ありがとなエヴァンジェリン」
「……そ、それとだ。もう一つ、私のことはエヴァと呼べ」
「そうか? エヴァンジェリンって響きも結構好きなんだけどな、今のままじゃ駄目か?」
「…無理にとは言わん。好きな方で呼べ」
哲がエヴァンジェリンの方を向いてしまうと隣に座るのどかからは哲の後頭部とエヴァンジェリンの顔しか見えない。
急激に機嫌を良くしたエヴァンジェリンと哲がどんな表情でやりとりをしているのか分からないが、哲の発言の内容も、それに対するエヴァンジェリンの反応も。そしてエヴァンジェリンの表情ものどかには何でもないもののようにやり過ごすことは出来なかった。
どうしてこんな風に思ってしまうのか? どうしてそんな風に言われているのが自分ではないのか?
そんな考えが頭の中を過ぎった。
胸の奥がざわざわとざわついてサンドイッチを掴む手にも自然と力が入ってしまう。
「てえ、ちょっ、宮崎さん!?」
「えっ?」
一瞬ぼーっとしてしまったのどかの喉を疑問の声が震わせた。
慌てて意識を取り直すと哲の顔が直ぐ目前に迫っていた。
もう一度のどかの意識が遠のきかける。
えっと、どうしてこんな事に!?
「うわああ、宮崎さん手、手え!!」
「手? ……あ、きゃあ」
言われたとおり自分の手を見つめると思い切り力の入れられたサンドイッチが具を残らずぶちまけていた。
「のどか! どうかしましたんですか!?」
「あららー、ティッシュティッシュ。早く取ってしまわんと染みになってまうよー」
一変騒然となる一同。夕映が、少し遅れて木乃香がティッシュを手に駆けつけた。
「おー、あぶねーあぶねー」
のどかの持つサンドイッチよりも下の位置で哲の手がサンドイッチの具を受け止めている。
そのお陰でのどかのスカートの被害が僅かで済んでいる。
「ご、ごめんなさい」
「気にしないで良いよ。それよりほらサンドイッチはこっちで貰っちゃうので宮崎さんは手を拭いちゃって。近衛さん、ティッシュを宮崎さんに一枚渡してもらって良いですか」
「わかりましたえ、はいのどかー、これで拭き」
木乃香からティッシュを受け取ってのどかは礼を言う。
ティッシュで手に付いた具やマヨネーズ等を拭き取っていると、木乃香がポンポンと叩くようにしてのどかのスカートから汚れを取っていた。
「夕映もごめんね。ちょっとボーっとしてただけで何でもないよ」
「そうですか? それならいいですけど」
そばにいる夕映にも無事を知らせる。
何故ボーっとしてしまったのか意識しようとするとまた得体の知れない感情が疼く気がして手が付けられず、まさか自分でもよく分からない感情をそのまま告げるわけにも行かずに心配しないように言うことしか出来なかった。
「とりあえずこれでええかな。あんまり汚れてへんかったし、後は帰ってからやな」
「ありがとうございます木乃香さん」
「気にせんでええよ」
「ネギ先生も明日菜さん、エヴァンジェリンさんもお騒がせして済みませんでした」
粗方処置と片づけが済むと慌しくしてしまったことを謝罪していく。
ネギと明日菜はそれに笑顔で気にしないでと答えたが、残るエヴァンジェリンには鼻を鳴らしてそっぽを向かれてしまった。
「ところで、貴様いつまでそのサンドイッチを持ってる心算だ?」
エヴァンジェリンがちらっと横目で哲の手元を見つめながらそう言った。
「あー、いや女の子に食わすのは戸惑われるけど捨てるのも勿体無いだろ。……宮崎さん、これ俺が頂いていいかな?」
両手が自由だったなら困ったように頭でも掻いていただろう。
そんな顔をして哲がのどかの方を振り向いた。
「な、あああっ!!?」
「えええええええっ!!」
何故か先んじてエヴァンジェリンが、続いてのどかが驚愕に声を挙げた。
そして哲のこの発言にはこの二人以外も反応を見せた。
「アンタねえ、普通に考えてそんなの駄目に決まってるでしょ」
と明日菜が怒り、
「うーん、確かに勿体無いな」
と木乃香がずれた事を言う。
夕映は友人の貞操の危機に際して哲をジト目で責めた。
それ以外であるネギはそれぞれ何が問題なのか理解していなかったし、刹那は無関心から特に反応は無かったが。
そして哲は明日菜に責められてあっさりと諦めた。
「まあそれもそうか」
傷ついた様子も無く淡々とそう言って、じゃあどうしよっかと首を傾げる哲にのどかは許諾も拒否も出来なかった。
だって、だってと動かすことの出来ない唇ではなく心で呟く。
だって間接キスになっちゃう。
しかもコップやペットボトルの様な物ではなく食べかけのサンドイッチだ。
しかも今の哲の手にはのどかの手に直接触れたパンや、のどかの手の中に溢れていた具も有る。
そ、それを食べるってことは………。
のどかは自分の脳みそがぐつぐつと煮えているような感覚を覚えた。
最初に浮かんだのは哲と自分がキスしているところ。
縮こまった自分の緊張を解す様に柔らかく笑む哲が、優しく自分の唇に接吻をする。そして哲の顔が離れて何とか目を開ける自分に、悪戯な目をした彼が不意打ちでもう一度唇を寄せるのだ。
もうその段階で顔が真っ赤に染まり頭がふらふらしてしまうというのに、のどかはもう一つ哲の言葉を思い出してしまう。
これ俺が頂いていいかな?
その瞬間加速していた思考が地から足を離して大空に飛び立った。
のどかの脳裏に自分の手を美味しそうに舐めしゃぶる哲がまざまざと、生々しく描かれた。
もしかしたら人によってはそれを妄想とも言ったかもしれない。
今度こそボンッという音がして錯覚ではなくのどかの頭の中が蕩けた。
そののどかの頭の中とは対照的に、現実では哲の手の中のサンドイッチは順調に廃棄処分されそうになっていた。
それを(心の片隅で)期待している人間は恍惚としていたし、それ以外の人間はどちらでもよさそうにしているか反対している人間だけだったからだ。
だから、何事もなければまず間違いなくその元サンドイッチと形容すべき物体は誰かの持っているごみ袋か何かに納まっていたのだ。
「まあ、私なら別にお前が食べたいというなら、どうしても食べたいというなら食べさせてやっても良かったけどな」
エヴァンジェリンのこの一言さえ無かったなら。
その一言がのどかの耳に届くと、瞬く間に空中を浮遊していたのどかの魂は肉体に押し込められ、のどかの意識を復帰させた。
それが例えどれほど小さく呟かれた一言だろうと、それが例えどんな雑踏の中で呟かれようと今ののどかに聞き逃す筈などないと思えた。
そう絶対に聞き逃せた筈などない。
何故なら彼女は、エヴァンジェリンはこういったのだ『私なら』と。
まるで、自分がそれを強く拒絶しているような、その上で『私なら』『あいつとは違う』と言いたげな台詞だ。
それはまだ自分の気持ちというものを掴めていないのどかにも静観出来ない事だ。
先ほど胸の奥で疼いたそれにとてもよく似た別の感情に、エヴァンジェリンの言葉が火種となって投げ入れられる。
するとその小さな火は元々燃えやすくなるように燃料でも付着させてあったみたいに鮮やかに燃え上がった。
「べ、べべべ別に私も構いません。その……わ、わ、わ、私は嫌でも何でもないですからっ」
カッとなってどもりながらも最後まで、強く自分の意思が込められた声を哲に届けたい。
哲の事をどう思っているか分からない。しかし嫌っていると勘違いされてしまうのは耐えられない。
それだけは絶対に嫌だと心の何処かが叫んでいるのだ。
「のどか……、その……」
間接キスといえど中学生女子とは多感な時期であり、嫌いな人とそういう事になれば泣き出す人もいる位だ。
自分が知る限り最も純真で初心な少女に、自分が何を言っているのか分かっているのか聞いてしまいそうになった夕映だったが、のどかの瞳には微塵も冗談の雰囲気は無く、ましてや自分が何を言っているのかの自覚など訊ねるまでもないだろう。
ネギや刹那は言うに及ばず緊迫した空気に木乃香すら口を差し挟めず、口を開こうとした明日菜はエヴァンジェリンの「何を言っているのだこの小娘は」とでも言いた気な猛烈な闘気を浴びて口を閉ざしてしまった。
この場を動かすことが出来るとすれば、もうエヴァンジェリンとのどか、哲の三人しか居ないだろう。
たったこれだけの事を言うだけで勇気を振り絞らねばならないのどか、でもそのために勇気を振り絞ったのどか。
友人が真摯に言の葉を紡いだその結果を邪魔することは出来ないと悟った夕映は大人しく結果を見守ることにして、今は観客に回ることにした。
いずれまた友人が何かをしようとする時、その時は手を貸すことを一人心の中で誓いながら。
そしてその時、緊迫した空気の中心人物、台風の目とでも言うべき男・哲は困窮の極みにあった。
おかしい。おかしいぞ。なんでこんな唾を飲む事すら躊躇われる様な事になっているんだ。
回顧してみれば死んでからこっち、目立たない一般人代表を務める自分の人生で一変も味わったことのない状況に振り回されているせいかまるきり場の空気についていけていない。
これの原因が漫画の世界であるからか、自分が空気を読めていないだけなのかなんて事はどうでも良かった。
心の底から希求しているのは今現状から抜け出す方策である。
図書館島に入った辺りから妙に機嫌が悪いと思っていたエヴァンジェリンは食事時にいきなり視線を険しくして威嚇を始めるし、怒っているのかと思って話しかけてみれば機嫌が良くなり名前呼びまで許す始末。
あれって物凄く悪意的に受け止めるとお前のこと舐めてるんですよと取れなくもないんだけど、何処に気を良くしたのか見事に分からないし、その後今現在の寒気のする視線を放つまでの変遷はもっと分からない。
それに加えて宮崎さんも、落ち着かなくなる視線をずっと向けてくるし、かと言って視線がかち合うと逸らされるし、食事中にサンドイッチ握りつぶすし、挙句にそのサンドイッチを食べても良いとか言い出すし。あ、それと無視もされた。
いやいやこのサンドイッチ食べたいならご自分でどうぞ、とは男以前に人間として言えないが。
それに事の重要性を理解していないとはいえネギ君の前で宮崎さんの食いかけを食べるというのも気が引ける。もしかして自意識過剰かもしれないけどな。
おかしくないか? 片や先日振られたばっかの相手で片や好きな人が直ぐ傍にいる少女。この二人の間でこんな空気に悩まされているのが何故俺なんですか。
神様、あの俺を殺した神様以外の神様がいるというならお助けください。この世界の女子は怖い子ばかりです。
ていうかこれ、このサンドイッチ、食っちゃっていいよね。うん、宮崎さんからは許可出てるし。
そうそうこんな物さえなかったらきっとこの事件も解決するし、世界中も平和になるよね。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
小柄な少女が数回に分けて食べていたサンドイッチも成人間近の哲からすれば一口サイズである。
制止の声が掛からぬ内にさっさと口に放り込んでしまった。
パンの部分こそそのままだが、それ以外の部分は大体が一度自分の素手で受け止めているものだ。
から揚げをつまみ食いするときと変わらないように思えるが意識の上でよくない気分になってしまうのは仕方がないことだろう。
普段より噛む回数を減らし最低限飲み込める形にしてしまうと喉を鳴らして飲み込む。
「あー、美味しかった」
食物となった自然への感謝として感想を述べることも忘れない。
その場で間を開けずに食べてしまえばこのように変に意識することも食べられただろうに、あれほど美味しかった木乃香の手作りサンドイッチも控えめに言ってその美味しさを五割は減じていた。
しかも哲が食べ終わったのを見てエヴァンジェリンは愕然とした表情をしたし、のどかは「はうあ」と奇妙な声を出した。
それを見てどっと疲れを感じた哲は一行のリーダーである夕映にこう言った。
「休憩は終わりにして先に進もうか。早く家に帰ってベッドで休みたい」
程なくして広げたバスケット等を片付けて再出発の準備を済ませた一行は更に図書館島の深部を目指した。
休憩所を過ぎた辺りからトラップの難易度が上がり、その内の幾つかは実際に発動し哲の肝を冷やしたがそれらの全ては発動直後エヴァンジェリンに破壊された。
具体的に言うと本棚が倒れてきたり、矢が飛んできたりしたが蔵書が関係しないものは片端からエヴァンジェリンに八つ裂きにされたのだ。
図書館島入り口での約束を果たしたというより唯の鬱憤晴らしで破壊されるトラップたちに刹那でさえ無表情を保つことは出来なかったが、その激情を更に助長するような結果を避けるために何も言うことはなかった。
態々回避するほうが容易なトラップまで徹底的に壊して回るエヴァンジェリンは、それでも全く溜飲が下がらないのかその度舌打ちで不満を露にする。
そうなるともう、隊列でも前のほうを歩く6人でさえ休憩に入る前の様に口を開くことが出来ず、淡々と、黙々と足を進めバカレンジャー五人で満を持して探検に挑んだ場合の予定時刻よりも更に早く地下11階へと辿り着いたのだった。
ここから横穴を進めば目的の魔法の本が置いてある部屋まで行く事が出来るらしい。
もう少し、もう少しでこの緊張感から抜け出せるのだ。半ば本来の目的を忘れているが息が詰まるような空気の中長時間進むことが思考力を奪うせいでその事を気にする余裕はない。
それは先頭を歩く夕映でさえ例外ではなかったが、のどかとエヴァンジェリンの二人に関しては当て嵌まらなかった。
のどかはのどかで図書館島に入った当初よりも頻繁に哲の方を振り向くようになった。
それだけで哲の後ろから来る重圧が3割程増したが、のどかが歩いているのは哲の前である。
本棚の上は基本的に平坦な板で安定した足場だったが、本棚と本棚の間に掛かっている足場などは所々蝶番の様な金属が付いている箇所が有ったり、そもそもの足場の狭さなどもあり余所見をして進むには非常に危険な場所だ。
しかもトラップの悉くが破壊されるといっても障害となるのはそれだけじゃない。時には断崖からロープを使って降下したり、急な段差を飛び越えたり、腰辺りまで水に使っての行軍である。
元から体力に自信のなかったのどかは既に全快と言えるような状況ではなく集中力も欠いた状況だ。
当然、そんな状態ののどかが前述のような場所を歩けば転倒するようなことも有り得る。
そしてそんなのどかを哲は危なっかしいと思いながらも心配し、事あるごとに見ていたのである。
幸いトラップの全てをエヴァンジェリンがものの見事に破壊されるため、そっちの心配をせずに済むので後は自分が前後不覚にならない程度に注視すればいい。
何が起こっても直ぐに対処できる距離にいて、のどかが転びそうになったとき危なげなく助けに入った。
その際しっかりと前を向いて歩くように言い含め、これで大丈夫だろうと安心した瞬間今度は後ろからの重圧が二倍に膨れ上がった。
もう、背中に子泣き爺でも乗ってるんじゃなかろうかと思うほど、その重さは現実味がある。
そこへ持ってきて更に前のほうからの抗議の空気である。
いい加減にしろ、それ以上刺激するんじゃないとその空気が雄弁に告げるが、エヴァンジェリンには何もした覚えがない哲にはどうすることも出来ず、針の筵の様な状況にただ耐えることしかない。
胃の辺りがキリキリと痛み出した辺りで、辞職願を提出すべきか悩んだが、どちらにしろこの胃の痛みから逃れられないだろうと悟った哲はもうなるようになれと匙を投げた。
ケ・セラ・セラである。
胃の痛みも前後から来るプレッシャーものどかの理解できない行動も全部思考から弾き出して無心に前へ進むことへ専念する。
誰一人喋らず、隊列も乱さずに横穴に進入する。勿論進む順番もそのままだ。
一応そこも書架の内という事なのか、両脇に本棚が備えられていてどの本棚にもしっかりと書籍が陳列されている狭い通路は、中腰姿勢でも天井に頭が触れる為四つんばいになって進むしか選択肢はなかった。
ズルズルと制服とスーツを引きずる音だけが続き、服は擦り傷だらけ埃だらけになった所で夕映が休憩後初めて口を開いた。
「やりました。あの上が目的の部屋です」
この短い言葉の中に万感の思いが込められているのが5名には分かった。
天井のブロックを横にずらすと、部屋の明かりが差し込んで狭い通路を照らし明るくなった通路を順々に出て行って深い溜息をついた。
「本来ならこの部屋の様相に感動を覚えるところなのでしょうが、今はもうとにかく助かったという思い出一杯です」
「全くよ、出来れば二度と味わいたくないわあんな空気」
「ぼ、ぼくもいやですー」
と疲れ切った様子でぐったりした様子で夕映、明日菜、ネギが言えば
「ほんでも、うちは結構楽しかったけどな。せっちゃんはどうやった?」
「私は特に。でもお嬢様が楽しめたというなら良かったです」
とダメージの少ない二人がまったりとした空気を醸し出した。
「桜咲さんもそうだけど木乃香は元気ねー。そういうところ逞しいって言うか図太いというか」
「僕なんかもう怖くって怖くって……明日菜さーん」
気が緩んだのかネギが涙を浮かべながら明日菜に泣き付いた。
「悪かったわね無理やり連れてきちゃって。ほら、そんなに泣かないの」
普段なら素っ気無く突き放したかもしれないが、今回は寝ているネギを引きずってきたという引け目もあってか明日菜はネギを慰める。
背中を擦ったり頭を撫でたり優しい声を掛ける明日菜としがみ付くネギの図はそれを見るものの目に仲のいい姉弟に映った。
「明日菜ってほんまにやさしいなー。今日はずっとネギ君のこと助けたってるし」
「しょうがないでしょ、私が無理やりに連れてきちゃったんだから。これくらい面倒見るわよ」
それが彼女の本音なのかどうかは彼女自身にしか分からない。
しかし彼女の頬に差した紅色が彼女の照れを表しているように思えて心の中にほんわかと暖かいものが流れ込んでくる。
「それより、アレはどうすんのよ?」
「………アレですか……」
一転して心の中が隙間風が吹き込んでくるようにすーっと冷え込んでいく。
夕映と明日菜の視線の先には隊列の後部を歩いていた2人の姿が。
「のどかをこちら側に連れて来たいところですが、エヴァンジェリンさんには気付いていないようですし、エヴァンジェリンさんはどうやらこの部屋への興味で怒気も薄れているようです。これは何もしないというのが最善の策のように思われますが」
「そうね、帰り道で刹那さんの負担が増えすぎちゃうし」
「それが妥当だろうな。エヴァンジェリンも宮崎さんのことを守ってはくれているし」
「聞いてたの!?」
予期せぬ声が割り込んできて明日菜が振り返ると哲が立っていた。
それだけ言ってスーツに付いた汚れを落としているところを見ると明日菜たちの方針に異議を唱える気はないらしい。
「出来るなら助けて欲しいけど、俺にも原因が分からないし無理だろ。だったら諦めるよ」
「ご、ごめんね。エヴァンジェリンちゃん普段はクラスの誰とも話さないし、こんな時どうしたらいいか分かんないから。まあ、ほらあれよ。『触らぬ神に祟りなし』ってやつ? これ以上何もしなければ大丈夫よ、ね」
労わる様に言葉を掛ける明日菜だったが、哲としてはそれに一言物申さねば気が済まない。
「触らなくても祟るだろ。困ったことに」
何せ触ってもいない神に祟られた結果が自分なのだ。意味は通じなくてもこれだけは言わせて欲しかった。
どうせ自分が何を言っているのかなんてここにいる誰にも分からないと思っていた哲だったが、その予想は裏切られた。
「酷い事言うじゃないか黒金哲。凡庸な有象無象なら泣いて喜ぶほどの能力を与えてやってその上理想的な世界に放り込んでやったというのに。ああ、神の慈悲深さが理解されないのは何時の世も変わらないか」
凛とした鈴の音が鳴るような声が空間全体を均一に振動させた。何処にいても何をしていても同様に聞こえるそれは最早声による意思疎通という次元を超えてテレパシーの様な超能力染みている。
「さて、あなたがこの世界でどのように生活しているか、何か変わったのか見に来たが何一つ変わっていないようで何よりだ。相も変わらず地獄も天国も変わらないとでも思っていそうな生意気な瞳をしている」
普通の人間と同じように発生しているくせにその音声は普通とは言いがたい伝わり方をするし、声色から心情の一つも読み取ることが出来ない声。
平坦で熱がなく電子音声のように無機質なくせに、怒っているような激憤と慟哭する悲嘆を感じさせとびっきりに生々しい。
本来矛盾せずにはいられないような物でさえ平然と並べ立てて一つの物としてしまうその声に哲の全身が総毛だった。
悪寒と吐き気が止まらなくなり、眩暈と吐き気と頭痛が襲い掛かる。
前後不覚ではなく五里夢中。まるであの時みたいだと凍りついた脳髄で思考する。
「お前に絶望を届けに来た。君の事だ、何でもない事のように受け取ってくれるんだろう?」
間違いない。あいつだ。何故だとは考えない。きっと理解できないから。
重要な事はたった一つ。きっと何も変わらない。