海鳥たちが、飛んでいる。
立ち込める朝靄の中、海流に乗って太平洋を東へと進む一隻の船があった。
一見巨大な貨物船のように見えるが、よくよく見ればそうでは無い事が分かる。
山と詰まれた積荷の隙間から僅かに見えるのは、黒く鈍い光を湛えた砲身。…そう、これは戦艦だ。
碇ゲンドウが独自のルートにて引き取った、旧海上自衛隊の老朽艦である。
やはり流石はゲンドウと言うべきか。
第2新東京市での現総理との非公式会談のすぐ後、加持は唐突にこんな事を告げられた。
「明日の夜中、横浜港から一隻の戦艦を出す。君にはそれに乗艦し、ハワイへ行ってもらおう」
「ハワイ、ですか?」
出航が夜中という事や、設備の整った新横須賀ではなく今ではあまり使われていない横浜を使うという事などから極秘の任務である事は分かる。
だが、何故ハワイなのか。あそこにはアメリカ第2支部管轄下の小さな研究施設があっただけの筈だが。
疑問に思う加持に、ゲンドウが表情を変えずに答える。
「3号機だ。今頃は既に運び込まれているだろう」
予想外の言葉。だが、加持の研ぎ澄まされた頭脳は瞬時にゲンドウの真意を探り当てる。
「…成程。大型輸送機は囮で?」
「ああ。そういう事だ」
つまりは、陽動作戦だ。
まだ互いの対立が表面化していなかったにも関わらず、弐号機を載せた輸送機はイラン上空で激しい攻撃を受けた。
当然、今回も同様の事態に陥ることは十二分に考えられるだろう。
こちらの動きにまつわる情報を死守できればいいが、そもそもアメリカは現在あくまでも中立で、明確な味方というわけでは無い。
3号機の移管は親ゲンドウ派が中心となって推進しているものの、ゼーレの意を受けた者は常に目を光らせている筈だ。
そこで、第2支部に輸送機を向かわせてエヴァンゲリオン3号機を受領するという情報を故意に漏らし、そちらにゼーレの注意を引き付ける。
その一方で、実際には極秘裏にハワイへ移させておいた3号機を海路にて日本へ持ち帰る。
そういう寸法だ。
カヲルを首相秘書官に推挙したと後から聞いたときも相当に驚かされたものだが、やはりゲンドウという人物は一味違う。
事象の裏側から策を弄し、情勢を望む形に誘導するという事にかけては彼の右に出るものはいないだろう。
ネルフ司令という立場を捨て表舞台から姿を消した事で、ゲンドウは逆にその才を遺憾無く発揮している。
シンジ達の進まんとする道が如何に光に満ちたものであっても、それを誰かが影で支えねばならない。
そういった意味で、碇ゲンドウの存在感未だ健在、という事を改めて加持は実感したのだった。
「分かりました」
内閣との連絡口という役割を終えたら一度本部へ戻れるかとも思っていたが、そういう事なら仕方が無い。
ミサトに早く会いたいという気持ちが無いと言えば嘘になるが、思春期でもあるまいし数日が我慢出来ないなどという事も無い。
盗聴等にはいつも細心の注意を払っているが、ゲンドウがそこまで用心しているのならば、
3号機を無事本部に届けるまでは連絡も絶った方が良いだろう。これが終われば、少しは落ち着けるかも知れない。
「ところで、前司令はこれからどちらに?」
振り向いたその口元に、いつもの歪んだ笑い。正直悪役にしか見えないのだが。
「…南極だ」
全く、精力的な御方だ。これが終われば落ち着けるかなどと考えている自分の方が、年寄りくさく思えてしまう。
命を粗末にしないという事と、安易に守りに入る事は同義では無いだろう。
自分も、見習わなければ。そう思いながら、加持は料亭前から走り去るゲンドウの車を見送ったものだ。
その加持は今、ポケットに手を突っ込んで後部甲板を一人歩いていた。
まだ薄暗い空に立ち昇って行く煙草の煙を眺めながら物思いに耽る。
(内務省からはお咎め無し、か…)
ドイツ支部を離れると決めた瞬間からゼーレとは完全に決別した加持だが、
その時点ではもう一つのアルバイト先である日本政府に対してどういう態度を取るか、安易に答えを出す事は躊躇われた。
ミサトやシンジの事を思えばネルフよりも日本政府を優先する事は有り得なかったが、だからといって黙殺するのはまずい。
いずれ訪れるネルフが日本政府と腹を割って話そうと言う時に、加持の不義理が綻びの元となりかねないからだ。
そこで加持はこの一週間弱の間、当たり障りの無い情報だけを政府に伝えていた。ゼーレとの確執や使徒との共存といった部分を避けてである。
その甲斐有って調査部上層に疑われる事も無く、無事先日の会談をセッティングする事に成功した。
だがその会談は同時に自らが裁かれる場であるという事も、加持にはよく分かっていた。
ゲンドウの話を聞けば、加持が知りえた情報を意図的に選別して上げていたというのは明白だ。
事が上手く運び例えネルフと政府が手を取り合う事になったとしても、加持個人は背任の咎で拘束されるかも知れない、と。
それは覚悟していた。
今の自分に出来る最大の仕事はひとまずやり遂げたのだ。命さえあればまたミサトに会える日も来よう。
だから、料亭から出てきたゲンドウから総理の言った言葉を聞いた時には内心驚いた。
「いやあ、有意義な時間が持てました。加持リョウジ君でしたかな、彼に感謝しないといけませんな。内閣にも色々な人間がおりまして、
すぐに方針を纏めることは難しいですが、彼には我々とあなた方の架け橋としてこれからも頑張って欲しいものです」
全ての話を終えた後で、総理はにこやかにそう言ったそうだ。
それは即ち加持を内務省調査部に留任させ、なおかつネオネルフ一員としての立場を優先する事をある程度容認する、という事。
加持にとっては願ったり叶ったりだ。
あまりの都合の良さに、裏があるのではないかと疑ってみる。スパイ稼業の悪い癖だ。
だが、このような措置が政府全体にとって何らかのメリットをもたらすとは考えられなかった。
(そうか、或いは)
総理自身がいみじくも述べたように、政府としての意思決定までにはまだ日数を要する事だろう。
その議論の過程において、ネオネルフに与すべし、討つべしという両論が出るのも予想できる話だ。
更に言うならば、最も意見の多数を占めるのはその中間であろう。国の行く末を決める問題だ。即決出来なくて、当然というもの。
そんな時、送り込んである間諜からネオネルフの気高い理想や少年少女の健気な努力が伝えられればどうだろう。
議員たちの激しく揺れる心に一石を投じる事が出来る。
恐らく総理は、カヲルを傍に置いて使徒というものを見極めつつ、いずれはゲンドウに力を貸したいと思っている。
そして、その時に必要となる説得工作の手伝いを、加持にさせようというのだ。『ネオネルフ寄りの情報』を送らせる事で。
(やれやれ、とんだキューピッドだ)
内閣とネオネルフの架け橋。その役目はこれからこそが本番、という事か。
遥か彼方の水平線を見詰めながら、加持は決断力の不足気味な重鎮の顔とその心を動かせそうな文言を早くも考え始めていた。
直後。
普通なら波音に紛れて聞き逃してしまうであろう極めて小さな物音を、加持の耳が捉えた。
素早く周囲を見回す。人影は、無い。
後部甲板上の船倉の一つが、目に止まった。間違いない、音が聞こえたのはあそこからだ。
足音を立てずに俊敏な動作でその入り口へと近寄り、扉の横の壁に背を付けて中の気配を窺う。
灯りが付いていない事は窓から確認できる。クルーが何か作業をしているのなら、灯りを付けないという事は無いだろう。
不埒な輩の逢引きとも考えられなくは無いが…この船には男しか乗っていなかった筈だ。
(さて、鬼が出るか蛇が出るか…?)
油断無く神経を張り巡らせ───次の瞬間、勢い良く扉を開け放った!
…反応は無い。だが扉が開かれた瞬間、不自然な空気の流れを感じた。
やはり、ここにいる。
荷物のどれかの物陰で息を潜めているであろう曲者からは、差し込んでくる朝日の眩しさでこちらの顔は見えまい。
どこから襲い掛かられても良いように警戒を途切れさせずに、それでいて気楽な口調で声を掛けた。
「そこに居るんだろう?出て来たらどうだい」
ほんの少しの間躊躇うような気配を見せたが、結局その何者かはゆっくりと両手を上げて姿を現した。
「分かった、だから撃たないでくれないか」
「ほぅ…」
女。それもかなりの美女であった。腰にまで達しようかという艶やかなロングヘアに思わず溜息が漏れる。
そんな加持の様子を黙って見ていた女だったが、やがて朝日に目が慣れてきたのか、こちらの顔へと視線を運び、
「!…加持リョウジ監査官、か?」
驚いたような表情でそう言った。
驚いたのはこちらも同じだ。かくのごとく印象的な女性、一度見れば忘れる筈は無い。ならば一方的に面が割れているという事か。
訝しみつつ誰何しようとする加持を遮るように、女性は僅かに口元を緩めて己の名を告げた。
「…シャムシエル。使徒の、シャムシエルだ。赤木博士か葛城一尉から聞いていないか?」
強い潮の香りを含んだ海風が、菫色の髪を揺らす。黒と鉛色の無粋な艦上で、シャムシエルが纏う赤紫のスーツだけが異彩を放っていた。
場所は再び、後部甲板。互いに警戒を解いた二人は薄暗い船倉を出て、ゆっくりと言葉を交わしていた。
「しかし、密航者が使徒とはな。俺以外に見つかったらどうするつもりだったんだ?」
第4使徒シャムシエルについて加持がミサトから聞いていたのは、アスカが対話に成功したという事、
そして独自の目的があると言い残して第3新東京市を去ったという事の二点だけだ。風貌などは聞かされていない。
まさか、こんな洋上で出会うなどとは思いもしない事だった。
「それは…考えていなかったな」
その軽い返事に少し呆れてしまう。
「じゃあ、どうしてこの艦に?ハワイに行きたかったのか?」
観光という事も無いだろうとは思うが、断定は出来ない。対話に成功した使徒は、実質的には彼女がまだ三人目なのだ。
サキエルとカヲルがあれ程違う事からも分かるように、彼らを使徒という一括りで見てはならないだろう。
シャムシエルもまた、他とは違う個性を持っていると考えるべきだ。その言に耳を傾けてみよう、と考える加持だったが。
「ハワイ?この艦はハワイへ行くのか?」
「ああ、そうだ。用があるのはハワイじゃないのか?」
「…中東の方、なんだが」
「………」
どうにも、要領を得ない。もやもやとしたものを抱えつつ、取り敢えずは話を先に進めてみる。
「それなら、どうしてこの艦を選んだ?」
「選んだも何も、私が見つけた港にはこれしか停泊していなかったからな。パスポートがあれば客船が来るまで待ったんだが」
「行き先は、気にしなかったのか?」
「…確認するのを、忘れていた。まあこれがネルフの艦で良かったよ」
そう言って涼しげに笑う、その表情は知的に見えるのだが。
(天然、というヤツか?)
レイの戸籍の事を考えれば、パスポートくらいそれこそミサトかリツコにでも頼めば一日でどうにかなっただろう。
それを、有名な港の中で一番近い横浜目指してひたすら歩き、辿り着いた時にたまたま停泊していた艦に乗り込んだというのか。
考えるよりは行動、という信条なのだろうか。
少なくとも悪意のある密航では無かったと分かった加持は、少し話題を変える事にする。
「中東、と言ったな。何をしに行こうと言うんだ?」
シャムシエルの目指すそこは、決して安心して歩ける地域ではない。
かねてより進められているネルフのイラン支部建設計画に加え、凍結されていたエジプト支部の建設も再検討が決まったらしい。
恐らくは中東東西の要所を押さえることで資源を確保し、ネオネルフとの戦いを優位に運ぼうというのだろう。
今はまだ態度をはっきりさせていない国が多いとはいえ、その地ではゼーレの輩が既に跳梁跋扈しているに違いない。
そういった事態をシャムシエルが把握出来ているかどうかはともかく、そんな場所へ何の目的があって行くのか。
隠そうとするかとも思ったが、彼女はあっさりと答えた。
「死海文書について、知りたくてな」
死海文書発見の地であるイスラエルを調べれば、分かる事があるかも知れない。それは、加持も一度は考えた事だった。
にも関わらず実行に移さなかったのは、加持の興味が使徒よりも人間にあったからである。
セカンドインパクトで誰が何をしたのか、ゲンドウはネルフで何をしようとしているのか。加持の最も知りたかったのはそこだった。
未知の敵である使徒が何をしようが、それは未知の敵だからという一言で諦めがつく。
だが、人がした事、しようとしている事を知らずにおくのは許せなかった。
だからこそ危険な三重スパイをこなしながらも、アダムもリリスも自ら詳しく調べる事はしなかった。死海文書についても同様である。
「自分について分からないままには、しておけない」
波間を舞う海鳥を目で追いながらシャムシエルは小さな声で、しかしはっきりとそう言った。
それを聞き、加持は目の前の使徒がどういう個性を持つのか、ようやく合点がいった。
思慮が足りないわけでは無いだろう。ただ、真実を求める気持ちが強すぎるのだ。
(まるで、どこかで聞いた話だ)
内心で苦笑する。そして、こう告げた。
「何にせよ、無茶はするなよ。シンジ君もそんな事は望まない」
自分に言えた事では無いが。それを教えてくれたアスカの為にも言わずにおくわけには行かない。
その言葉にシャムシエルは意味ありげな視線をこちらへ向けると、
「…ああ。丁度良い反面教師が居るからな」
…そう言えば、シャムシエルはアスカの記憶を継承したんだったか。
何だか最近、年下の女性に頭が上がらない思いをしてばかりな気もする。以前はこんな事は滅多に無かったものだが。
実年齢はともかく、自分よりも十ほど年下と思われるシャムシエルの横顔をそれとなく見つつ、そんな事を考えた。
「ところで、朝食なんかは用意して貰えないんだろうか?いや、確かに所持金はないのだが…」
金云々以前に密航者という立場が分かっているのだろうか。やはり天然気味なところも個性の一部であるらしかった。
仕方ない、何とかしてやるかと思ったその時。
突如艦内にけたたましい警報音が鳴り響いた。
「何だ!?」
冷静に、シャムシエルが辺りの様子を窺う。だがしかし使徒の視力と言えども、肉眼では何も捉えられなかったようだ。
これだけ波の穏やかな海域で事故という事も無いだろう。
───ゼーレに気付かれたか。
「全く俺が運が悪いのか、それともエヴァが人気者過ぎるのかね…!」
まだ往路のこの艦にはエヴァは積まれていないが、状況は以前とそう変わりは無い。
そんな軽口を叩きながら、ブリッジへと足を向ける。
「シャムシエル!君も来い!」
「いいのか?私は密航者だぞ?」
自覚はあったのか。だが今はそんな事を言っている場合では無い。
「ああ、構わんさ。朝食は後回しになりそうだがな!」
南の海は、俄かに風雲急を告げようとしている。
いつの間にか、海鳥たちはその姿を消していた。
~つづく~
[49]の感想拝見致しました。逆行者については以前にも御意見を頂いた事がありますので、答えさせて頂きます。
原則的にプロローグで語られた九人のみ、というのが現在の構想であり、トウジ、マナ、ペンペンなどは含まれません。
第13使徒戦も、少なくとも悲劇的な形にはしないつもりですが…妹の方に活躍して貰おうかとフラグを立てたりしている所です。
タイトルの支持、及びサキエルの応援も有難うございます。
使徒たちは出来るだけ均等に扱いたいと考えていますが、感想を参考に見せ場の量を調整する事もあるかも知れません。