どことなく見覚えのある職員の先導で司令室へと続く廊下を歩く綾波レイは、自分の心が驚くほど穏やかに落ち着いているのを感じていた。
(何故…?)
そっと、自問してみる。
司令室で自分がどんな目にあうかなんて、分からない。
でも、そこで自分たちを待っている人たちの事は、本当によく知っているのだ。
にも関わらず、こんなに落ち着いていられる自分がとても不思議だった。
扉を開けた瞬間、葛城一尉に撃たれるかも知れない。私は使徒ではないから仇と見られる謂れはないのだけれど、彼女にとっては些細な事だろう。
あるいは、赤木博士に首を絞められるかも知れない。私は人ではなかったのだから妬まれるのは筋違いだけれど、理性で割り切れるものではないだろう。
そして…碇司令。私はあの人とは違うのだからそれを分かって欲しいのだけれど、彼の抱える妄執がそれを認めることをまだ許さないかも知れない。
(そこまで分かっていて、何故私は怖くないの…?)
自分には代わりがいるからだろうか、と少し自虐的な事を考えてみる。
いや、そんな事は関係がない。もし本当に殺されそうになったら、騒いで、抵抗して、逃げて、どんなにみっともなくても生き延びたいと思う。
それは即ち、今の感情に、今の記憶に執着があるという事の確かな証だ。次の綾波レイになって復活すればそれでいい、などとは到底思えない。
自分には感情の起伏が少ないからか、と寂しい考えも浮かんでくる。
だが、それもどうやら違うように思える。このやわらかな安堵感は、もっと生命としての根源的なところから来ている気がする。
例え恐怖感というものを自覚していなかったかつての自分であっても、この心持ちは変わらなかった事であろう。
では、あの終末で彼らの心を知ったからか?
それはある、と思う。
限りない弱さと果てしない悲しみを抱えた彼らに対して、怖れるのではなく優しさをもって接したいという思いを、レイは確かに感じていた。
それはもしかしたら自分の気持ちではなく、リリスの持つ母性の残滓なのかも知れないけれど。
(でも、本当にそれだけ…?)
「ここを曲がったら、すぐだよ」
職員の声に、レイの意識が現実に引き戻される。自然に、職員の後ろ、レイの前を歩いていた少年の背中に視線が注がれる形となった。
その視線を感じたのか、少年が振り向いた。
彼と…碇シンジと、目が合う。
(あ…!)
レイには、分かってしまった。
何故こんなにも心が穏やかなのか。
自分も彼も自我境界を保っているのに、まるで彼に包み込まれるような温かさを感じられるということ。
それは、碇シンジが自己を認め、他者を怖れず、生を厭わずに生きるという事を始められた証左なのだ。
姿勢が悪いわけではないのにどこか自信の無さそうな歩き方も、常に少し困ったような表情も、前と変わっていない。
けれども、レイにはその変化がはっきりと感じられた。
ほんの一瞬の視線の邂逅の後、シンジはやっぱりちょっと困ったような…それでいて優しい笑顔をレイに向け、すぐに前を向いて歩き始めた。
レイも、後を追って歩みを進める。
ここへ至るまで、まだレイはシンジと全く話をしていない。
司令室にて待機という命令を無視して、メインゲート前で彼の到着を二時間近くも待っていた。
葛城一尉がどこにも出かけていないのは人づてに聞いていたから、電車を乗り継ぎ、徒歩でやって来るだろうと当たりをつけていたのだ。
果たしてシンジが僅かな手荷物を持って現れたその時、レイは自分でも正体の分からない感情が体中を駆け巡るのを感じた。
走り寄って、彼に抱きつきたい。
今の私の最高の笑顔で、おかえりなさいって言いたい。
訝しがられるわけにはいかなかったから、もちろん人の目が有るところでそんな事はしなかったけれど。
恐らくは同じような考えだったのだろう、シンジも控えめにレイに手を振っただけだった。
だから、レイにはシンジがどんな気持ちでここへと帰ってきたのか分からず、それが最初とても不安だった。
自己を認められず、ただ流されるままに全てを繰り返そうとしている?
他者を怖れて、愛されることを拒んで全てを裁こうとしている?
それとも、生を厭うあまり、死と終末への衝動のみに突き動かされている?
自分に手を振ってくれた程度では何も分からない。どれも十分に有り得る思考なだけに、レイは本当に心配だったのだ。
だが。
シンジはほんの少しだけ心を開いて、帰ってきた。
後ろについて歩いていただけでいつの間にかレイの不安は霧散し、心は穏やかさのみで満たされていた。
別に特別な力ではない。シンジは心を開いて、群体の中の個という存在のまま進化を遂げたかも知れないけれど、それでもちっぽけなリリンに過ぎないのだ。
まだ会話もしていないけれど、レイにはそれがとても嬉しいことだと感じられた。
彼が心を開いたことが。そして何より、彼が人という殻を捨てなかったことが。
「さあ、ここだ」
職員の足が止まる。レイはもちろん、シンジにとっても初めてではない司令室の扉。
この奥には、葛城ミサトが、赤木リツコが、碇ゲンドウがいる。
でも、何も怖くは無かった。
(きっと、全ては変えられる)
自分とシンジだけではない。ネルフの皆が、第3新東京市の皆が、そして世界中の皆が心を開いてくれる日が来ると、レイには確かに信じられた。
「失礼します。ファーストチルドレンと例の少年をお連れしました」
真面目な性分なのだろう、職員が直立姿勢で告げる。
「うむ。通してくれ」
「…あ。」
思わず声が出た。
「どうしたの?」
レイの不思議な声を聞いたシンジが、その顔を覗き込む。レイはしばし逡巡したあと、どこかきまりが悪そうにぼそっと言った。
「…副司令の存在を、すっかり忘れていたわ」
綾波レイのそのあまりといえばあまりな発言を聞き、思わずシンジは頭を抱えたい思いにとらわれた。
(綾波、全く怖くないのかな)
今の言葉を聞く限り、恐らくはそうなのだろう。明らかに表情が豊かになっているとはいえ、レイが恐怖に怯える姿はあまり想像できなかったが。
自分はとてもそんな風にはなれない、とシンジは思う。
あの絶望のほとりで人々の心に触れ、シンジは本当に色々なことを考えた。
自分の知らなかったこと。知ろうとしなかったこと。どうすれば良かったのか。どうしたいのか。
知ることは、考えることは苦痛でもあった。果てしない思考のもたらす幻影の中で、何度アスカに当り散らしたことだろう。数えたくもなかった。
だが、自分がここに、この時に帰る選択をした時のことははっきりと覚えている。そしてそれは、相当な決意を伴うものだったはずなのだ。
(きっと僕は何も変わっていない。でも…)
目を閉じて、深呼吸を一つ。
目を開く。
いつの間にか開けられていた扉から、一歩を踏み出す。
レイが続き、そして扉が閉まる気配。
(でも、逃げちゃだめだ)
そして、会談が始まる。
それが未来のためのものか、空しい罪の糾弾か、それとも殺戮の場となるのか、シンジには全く分からなかった。
「意外と早かったな」
最初にシンジに声をかけたのは、哀れにもレイに忘れ去られていたことなど露ほども知らない冬月コウゾウだった。
「君も昨晩、こちらへ来たのだろう?」
こちら、というのは第3新東京市の事ではない。そんな事はもちろんここにいる皆が分かっていた。
はい、とシンジは簡潔に答えた。以前とあまり変わらないその口振りに安心したのだろう、次に口を開いたのは赤木リツコ。
…何故か、腕を包帯で吊っている。松代なんていう時期じゃないはずだけど、とシンジは僅かに首を傾げた。
「元気そうで安心したわ…もちろん、本心よ?」
隣に立つ葛城ミサトのきわめて微妙な視線に気づいて途中で言葉を付け足したその不器用さは、何故か好ましいものに思えた。
「戻ってきたのは、他には誰なのかしら?」
リツコのその質問に、シンジはゆっくりと、ここにはいない大切な人たちの名前を口にする。
「アスカと、加持さんと…カヲル君です」
ミサトの表情が変わったのが分かった。愛する人と『使徒』である彼の名と、どちらに反応したともとれるタイミング。
だが、シンジにもレイにも、それが前者であることが感覚として分かった気がした。
「何故その面子なのか、教えてもらえるかね」
再度の冬月の質問は、シンジが全く予想していないものだった。
補完後の状況を客観的に見るならば、それは確かにシンジの人選という事になるのだろう。
だが、シンジ自身に選んだという意識など無い。あれは何というか…そう、もっと魂の呼ぶ声というか…
「帰ってきたのは、罪のある人たちよ」
突如、響く声。綾波レイだった。
「でも、それだけじゃない。碇君が本当に愛していた人たちでもあるわ」
ミサトが、静かに泣き崩れた。リツコの表情も、万感の思いに歪んでいた。
「…なるほど。道理だが、光栄なことだ」
そう言った冬月の声も、ほんの少しだけいつもと違うように感じられた。
シンジはといえば、確かにそう言われればその通りかもしれないなどと考えながらも、唯一変化を見せない父を正面から見つめていた。
シンジとて、この再会に胸に迫る思いはある。だが、まだ感傷に呑まれるわけにはいかないのだ。
十秒、二十秒。ミサトの声が完全に聞こえなくなったその時、その男は…碇ゲンドウは、初めて口を開いた。
「お前の望みは、何だ」
互いの心の全てに触れてもなお、シンジには父の今の考えが分からない。それなら言葉を尽くすしかない。それがリリンである事を選んだ自分の責任なのだから。
「望みは、二つあるんだ。一つは、あの終末を回避すること」
ミサトが、他の三人を複雑な顔で見やる。無理もない事だが。
「そしてもう一つが、使徒と共存していく事だ」
今度は、冬月とリツコがミサトの方を見た。慌てて視線を逸らすミサトの様子が可笑しかったのか、レイが僅かに微笑を漏らす。空気が和らいだ気がした。
「それはアレ?『彼』だけじゃなくって全ての使徒と、ってコト?」
よく見ると、ミサトは額に絆創膏を貼っている。もしかして、リツコとの間に何かあったのだろうか。
「…はい。『彼』も他の使徒も、それに人間同士も本当の意味で共存していけたら、素敵だって思うんです」
「一つになるのではなく本当の意味で共存する、か。それが一番難しいのかもしれないわね。でも…」
リツコはそこで言葉を区切ると、晴れやかな表情で言った。
「確かに素敵なことね」
何も付け足さなくともその言葉に偽りはないと、シンジはそう思ったのだった。
「お前はどうするのだ、碇」
冬月が尋ね、自然と全員の眼がゲンドウに注がれる。それでもなお怯んだ様子など見せずに、ゲンドウは再びシンジに問うた。
「その為に力を尽くす覚悟は、あるのか?」
余計なことは考えず、真摯に答えを返す。
…父さんに、心を伝える。
「うん。あるよ」
またも沈黙。十秒、二十秒。そして三十秒、四十秒。
静寂に耐え切れなくなったミサトが何かを言おうとしたまさにその時、ゲンドウが手を伸ばし、机の上の内線電話を取った。
「…碇…?」
冬月の声を気に留める様子も無く、受話器に向かって言葉が紡がれる。
「私だ。回線をオープンにしろ。重要な通達がある」
どうやら、保安部員を呼んで今すぐ始末しようというわけではないようだ。それにしても、通達?それは今の話と関係があるのだろうか。
周りを見ると、皆が皆、ゲンドウの様子を見つめている。あの終末を見てこの男が何を考えたのか、それが次の言葉で明かされる。そんな予感が全員にあった。
そして。
「司令の碇だ。全職員、手を止めて聞け」
不器用に。
「…本日を以て私は司令の座を退く」
とっても不器用に。
「後任はサードチルドレン、碇シンジがパイロットと兼任する事となる」
我が子の願いを後押しする、父の心が。
「まだ子供だが、皆で支えてやって欲しい」
その愛が。
「…以上だ」
吐露されたのだった。
「冬月。弐号機とセカンドは最速でこちらへ回させろ。多少荒っぽい事になっても構わん」
受話器を置いてなお言葉を続けるゲンドウの心は、穏やかだった。別に不思議な事ではない。シンジの顔を見た瞬間から分かっていた事だ。
「赤木博士、ゼーレはすぐに動く。ハッキングに備えてMAGIの防壁を強化しておけ」
誰からも返事は無いが、辞意を表明した途端に反抗というわけでもなかろう。
自分以外の全員が唖然としている雰囲気が伝わってきて、いい気味だ、などと相も変わらずひねくれたことを考える。
「葛城一尉。使徒の殲滅ではなく、使徒との意思疎通を目的として、作戦の見直しを急げ」
言いたいことだけを言い終わると、ゲンドウは席を立った。
(俺がやるべき仕事は、もうここにはない)
セフィロトの樹を見上げつつ、出口へと足を向ける。
…この期に及んで、シンジの顔もまともにみられない自身に対する苛立ちを隠しながら。
「待ってよ、父さん」
声が、掛けられる。
「まだ、父さんの望みを聞いてないよ」
足を止め、振り向く。シンジの瞳は、ゲンドウを真っ直ぐ捉えていた。
「初号機は、ユイの…形見だ。壊すな」
あえて口に出した。形見、と。
悲しみはある。だがそれは濁ったものではなく、どこまでも澄み切ったものだった。
「それが、父さんの願いなんだね」
シンジが笑った。ユイによく似たその笑顔を見て、ゲンドウは自分があの妄執から脱したことをようやく実感したのだった。
「やれやれ、極端なところは全く昔と変わらんな」
司令の座を退くという衝撃の発言以降、完全に固まっていた冬月の一言。それをきっかけに、司令室の時間も再び動き出した。
「…え?シンちゃんが上司になるって事?…マジで?」
目を白黒させるミサト。そんな様子に少し苦笑した後、リツコはゲンドウに向かって問いかけた。
「司令…いえ、前司令。これからどうなさるおつもりですか?」
その質問に、ゲンドウはびくっと身体を震わせる。
…異様な間。
(あら?私、変なことをいったかしら?)
改めて問い直そうとしたリツコを片手で遮って、ゲンドウは口を開いた。
「…故人との繋がりと現世の絆は区別されるべきだ。
私はこれから、ここを離れる。内閣の取り込み、ゼーレに代わる経済面での支援組織との交渉などは私にしかできんのでな。
今でもまだ君の心が変わっておらず、私が全てを終えて戻ってくるまで待っていてくれるというのなら…」
ここまで早口でまくしたてるゲンドウをかつて見たことがあっただろうか。
ゲンドウが次に言おうとしている事を肌で理解しつつ、リツコはぼんやりとそんな事を考えていた。
「…その時は、私の妻になって欲しい」
「……」
「……」
「……」
「…なあ碇。私には、赤木博士が単にお前の今後の行動を聞いただけのように聞こえたんだが?」
「碇前司令、自爆したのね」
レイの一言で、司令室は笑いの渦に包まれた。打算も含みも無い、本当の笑顔で。
ああ、やはり帰ってこられて良かったと幸せを噛み締めつつ、リツコは後ろを向いて肩を震わせているゲンドウの元へそっと近づき囁いた。
「ええ、いつまでもお待ちしておりますわ」
逃げるようにしてゲンドウがこの部屋を立ち去った後、ミサトもリツコも冬月も、ほんの二言三言を交わすとすぐに出て行った。
もちろん、ゲンドウの司令としての最後の命令を遂行するためだ。
今回のことはすぐにゼーレにも伝わるだろう。独断での司令交代に、使徒に対する方針の大転換。ネルフの翻意はもはや隠せない。
かつての通りなら第三使徒の襲来が明日に迫っていることも含めて、全てが急ぐべき案件であると、シンジにも分かった。
「それにしても、司令なんて実感が湧かないや」
ぽつりと、そう漏らしてみる。
いきなり本部の全職員に告げてしまうゲンドウの強引さのせいもあろう。実感など湧くはずもない。
それでもシンジは、緊張に震えることも重荷に感じることも無かった。
「碇君なら、出来るわ。…月並みな言葉で申し訳ないけれど」
「ううん、嬉しいよ、綾波」
決して喋ることが得意ではないレイが、一生懸命励ましてくれている。それはシンジにとって、何よりも嬉しいことだった。
ふと、レイがまだ何か言いたげなのに気付く。
「…綾波?」
「碇君」
…本当に、今まで色々なことがあった。でも、やっぱり彼と出会えて良かったと思う。
だから言おう。今の私の、最高の笑顔で。
「おかえりなさい」
~つづく~
作者のふたば草明です。更新はゆったりかつ不規則になるかと思いますが、完結目指して頑張ります。よろしくお願い致します。
この作品のジャンルは「ライト・逆行・使徒擬人化・LRAS・アンチへイトなし」となります。
この作品はArcadiaエヴァ板での発表を前提としており、原作に登場する人物、用語、設定の説明は割愛してあります。御了承下さい。