タバサが目を覚ましたとき、隣に才人はいなかった。
才人は部屋に一つしかない椅子に座っており、タバサが起きるのを待っていた。
「おはよう」
才人の呼びかけに、タバサは答えない。
けれど才人は不満な顔を一つも浮かばせずに、テーブルの上のメガネを手渡した。
才人が丹念に拭いていたのか、レンズに汚れはついていない。
「着替え用意しといたぞ」
タバサがメガネを装着すると、今度は着替えを差し出された。
タバサは首を捻った。
昨日までの才人とは全く態度が違う。
昨日もやたら話しかけてきてはいたが、それにしても今日の態度はおかしく感じられた。
終始にこやかで、自分に対して嫌悪の感情を全く持っていないように見える。
無言で着替えながら、才人の様子をちらちらと覗き見る。
才人は後ろを向いて、着替えをしているタバサに配慮をしている。
おかしい、実におかしい、タバサは思った。
万事に対して憎むか無関心かの二つに一つだったタバサだったが、才人に対して疑惑を抱く。
「ん、着替え終わったか」
別段、自分の使い魔に嫌われてもどうとも思わない自信がタバサにはあった。
むしろ、魔法の使えない自分の、唯一の希望として行ったサモン・サーヴァントで現れたものが平民であり、平民を使い魔にしなければならないことに屈辱を感じてさえいた。
タバサが持つ、この世の全てのものに向けられた憎悪は、才人に対しても例外なく抱いている。
わざと冷たい態度を取り、他人と同じように無視し、邪険に扱ったはずで、タバサの中では才人は自分を憎んでいる予定だったのだが、今日の才人はむしろにこやかだ。
「寝癖直してやるから、後ろ向け」
いつの間にかブラシを持って、にこにこ笑っている。
今まで通り冷たく接していながら、こんなに機嫌良さそうにしている人間は、タバサは見たことが無かった。
不審を通り過ぎて不気味に感じつつも、才人にゆっくりと背中を向けた。
「……」
「……」
才人は、丁寧にタバサの髪にブラシをかける。
タバサは他人に見られる自分の姿にあまり頓着しないので、寝癖を直すことは滅多にしない。
ブラシを使ったのもかなり久しぶりだった。
タバサはあまり髪が長くないので、ブラッシングはそれほど時間のかかるものではなかった。
「ほら、水を汲んどいたから」
これもどこから用意したものか、才人は洗面器を取り出して、テーブルの上に置いた。
やはりタバサはわざわざ顔を水で洗う習慣はなく、特別汚れていない限りはタオルで拭くだけにしていた。
しかし、使い魔が用意してきて、目の前に出されて無視するのも面倒で、才人の意図する通りに顔を洗った。
才人は割と清潔さを保っているタオルでタバサの顔を優しく拭う。
ますますもってタバサは、才人に対する警戒を強めていった。
才人がタバサに見せているものは、明らかに親しみの類の感情だった。
進んでタバサの世話をすることに喜びを見いだしているように見える。
今までそれをしてくれたのは、あの悪夢の始まり以前の父母と従者、それ以降ではペルスランのみ。
トリスティン魔法学院に来て、今日までの一年と少しは誰もそのようなことをしてくれなかった。
嬉しくないとか、わずらわしいとかそういう風にはまだ思わなかったが、しかし、根拠が不明瞭だったことが引っかかった。
冷たく接して、好かれる、ということをタバサは経験したことがないし、理解もできない。
目の前の人間がその種の特殊嗜好を持っているのかもしれないと推測してみるが、それは少し違うような気がした。
タバサの口の中に苦い物が沸いた。
実は才人は自分を見下しているのではないか、という思考がタバサの頭の中に流れ込んでくる。
長年人を信用できず、恨み続けていた結果、染みついてしまった性根は、まずネガティブに物事をとらえる。
無能、ゼロ。
自分の二つ名がタバサの頭をよぎる。
才人は自分のことを見下して、こうやって愚直に従うふりをして心の中では笑っているのではないか。
平民にかしずかれる貴族のくせに、魔法が使えない、と馬鹿にしているのではないか。
タバサの凝り固まった心にとって、どんなことでもマイナスに受け止めることは容易だった。
一度思いこんでしまえば、才人のほんのささいな行動も、全て自分を貶めているかのように見える。
才人に心を許した瞬間に、手のひらを返して、自分のことを馬鹿にするはずだ。
そんなことはさせてたまるか……タバサは、決して才人に心を許さないことを誓った。
「じゃ、食堂に行くか」
ぽんぽん、と才人はタバサの頭を優しく叩いた。
タバサは才人に触れられるのがたまらなく嫌になった。
触られるだけではない、言葉をかけられることもまた嫌だった。
心の中で才人を呪う言葉を際限なく吐き出しながら、それでもタバサは飽くまで無表情を徹する。
悲惨な運命をたどった少女は、どんな感情を抱いていても、それを外に出すことはしない。
それをすることは一種の禁忌的なものですらあった。
心の奥底では、怒り、憎しみ、悲しみなどが濁流のように渦巻いている。
しかし、それを表に出すの心の部分が、麻痺していた。
彼女が持っていた繊細な心が、母親の心の死と体の死に耐えきれなかったのだ。
タバサが感情を表に出さないのには理由などない。
ただ少し、タバサが歪んでいるだけだった。
「……」
タバサと才人は部屋から出て、食堂をめざした。
才人は、何気ない世間話のようなものを自分で始め、自分で続け、自分でオチをつけて、自分で笑っていた。
タバサに返答は求めずに、声をかけていた。
才人はタバサが心を開くように誠心誠意努力していた。
しかし、才人の熱意には反して、タバサはそれをとてもわずらわしく思っている。
そしてタバサはそれを表に出さないため、才人はわからずにタバサに声をかけ続けた。
廊下の窓から朝の太陽に光が差し込んでいる。
才人はすがすがしい朝だな、とタバサに声をかけた。
タバサは返事はせずに、才人と反対のことを考えていた。
東から登る、希望の象徴のような朝日をちらりと見て、タバサは世界が滅べばいいのに、と思った。
何百、何千回と同じことを考えていることに、今日もまた新しい意味が追加される。
世界が滅びれば、両親の仇は死ぬ。
自分より魔法が使えるメイジ達が全員死ぬ。
母親を守れなかった、無能な自分が死ぬ。
そして、今自分の目の前にいる、自分が呼びだした使い魔の、目障りな平民が死ぬ。
タバサは、今までの何千回と同じように、本気で始祖ブリミルに祈った。
しかし、今までの何千回と同じように、その願いは適えられない。
かくして今日もまた新たな不満を抱きながら、タバサの一日が始まる。