やがて、タバサは読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。
本を本棚に戻し、ランプの火を吹き消す。
「ん?」
ベッドの上に座っていた才人は、ずっと同じ行動を繰り返していたタバサが初めて違う行動を見せたことに、眠くなった目を擦って注目した。
いきなり明かりが消えて、闇に目が慣れず、タバサが何をしているのか才人にはわからなかった。
が、段々と目が慣れていくと、タバサは衣服を脱いでいるところだった。
「わっ、わわっ、お、おま、なんだよ、いっ、いきなり……」
才人は慌てふためくが、タバサは気にしない。
さっとブラウスとプリーツスカートを脱ぎ捨てる。
そしてそのままタンスを開き、寝間着を取り出してそれを着た。
床に無造作に落とされた服をたたみ、タンスに入れて、閉める。
才人は全てが終わった後に、ようやくいくらかの平静を取り戻した。
その後、男のいる部屋で着替えるなんて、不用心な、と才人は憤慨する。
健全な男子であるが故、一瞬だけ、才人は淫らな想像をした。
ベッドに引きずり込まれ、男性の欲求のはけ口にされるタバサ。
しかし、その想像の中でさえも、汚濁を浴びせた相手=才人に対して、人形のような無機質な瞳で見つめていた。
才人は頭を振った。
幼児体型とまではいかないが、女性的な部位の成長が未熟の相手にそのような想像を抱くことに自己嫌悪する。
女性的部位の成長が成熟しているならいいわけでもないが。
「おっと……」
才人は座っていたベッドから立ち上がった。
タバサはその脇を通り、ベッドに身をいれて、毛布を被る。
「……」
才人は一瞬言葉が出なかった。
「そういえば、俺はどこに寝ればいいの?」
肝心なことを肝心なときになってようやく思い出した。
元来少し抜けている性格の才人は、自分のねぐらをどこになのか聞き出すことを忘れていたのだ。
もっとも、それを忘れていなくても、タバサは答えなかっただろうが。
タバサはその問いに答えるかわりに、ベッドの端に寄った。
「隣に、寝ていいってこと?」
再び才人の脳裏に淫らな妄想がよぎる。
今まで女性と男女交際をしたことがなく、例えそれが子どもであっても過剰に反応してしまう男のさがだった。
「……」
タバサは答えない。
ただ、ベッドの端に寄って、目を閉じている。
「……じゃ、失礼して……」
才人は壁側に寄ったタバサの反対側から、そっと体を差し入れた。
タバサに背を向けて、自分の手を枕にし、横向きに体を配置する。
心臓が激しく鼓動するのを、才人は抑えられなかった。
ロリコンではない、と自覚していた才人だが、その意思もぐらつきかかっている。
もちろん、実際に手を出すようなことは間違ってもありえないことではあるが。
「……」
年の近い女性と同じベッドに眠る経験を、才人はしたことがない。
出会い系サイトで登録をするなど、興味はあったが、唐突にそれが訪れることは予測していなかった。
意味もなく興奮し、眠りから遠い位置に立ってしまう才人。
悶々としているうちに、タバサは静かに寝息を立てていた。
「……」
才人も急に冷静になった。
今までの自分の取り乱しようは、自分で顧みて顔を真っ赤にするくらい見苦しいものだったことに気づき、溜息をつく。
タバサが寝ていることを知った才人は、目をつぶり、自分も眠ろうと試みた。
先ほどの興奮の残滓が残り、中々寝付きが悪い。
しかし、まぶたを閉じたまま、何も考えないよう努力した。
どのくらい時間が経ったのか、夢と現の狭間まで来ていた才人にはわからなかった。
ただ朦朧としていた意識の中で、何かの物音を聞いた。
「……母様……」
否、物音ではなく声だった。
か細い、震えるような声。
寂しげで、湿り気のある声。
「……父様……」
才人はゆっくりと目を開いた。
窓から月光が入り、幾分か明るい部屋が明らかになっていく。
視界がはっきりしていけばいくほど、才人の意識もはっきりしていった。
声の主が誰なのか、ぼうっとしている頭を動かして、目だけを動かして部屋の中を見渡した。
誰もいない。
ひょっとして、目に見えないものが声を発しているのか、と息を飲む。
「置いていかないで……」
しかしその疑いは氷解した。
声をしたのは才人の後ろから。
後ろにいるのはタバサ。
部屋にもう一人いる人物を、才人は失念していた。
そうと分かると、才人はにやけた。
あれほど無口な少女が、母様父様置いていかないで、と寝言で言っていることに面白さを感じていた。
まるで自分の存在をないものかのように扱う少女が、ホームシックにかかっていると思った才人は、タバサにかわいさを見いだしていた。
「……どうして、死んじゃったの」
才人は、激しく後悔した。
タバサの寝言は、ホームシックから出たものではなかった。
今はこの世から去った父親と母親の記憶から出ずるものだったのだ。
タバサの父親はこの世界の国『ガリア』王家の次男だった。
人望で才知溢れるタバサの父を、ガリア王家の長男を押しのけて王座に擁する話が出てきてしまった。
王宮は二つに割れ、醜い争いをし、結果タバサの父は謀殺された。
タバサの不幸はそれだけではとどまらず、タバサの父を謀殺した男は将来の禍根を断つためにタバサを狙った。
タバサの母はそれを察知し、娘の身を庇って、心を失う毒を飲んだ。
精神を狂わされた母親と一緒に、タバサは国境付近の屋敷に追い立てられた。
そこででさえ平穏な生活を過ごすことも許されず、心神喪失状態にあった母親を目の前で父親の仇の刺客に殺された。
同じ刺客にタバサも狙われたが、その屋敷に仕えていたただ一人の執事「ペルスラン」の機転により、なんとか命を取り留めた。
タバサと背丈が同じくらいの娘が、代々同じ時期に近くのラグドリアン湖で溺死し、その死体を埋葬することによって、ガリア王家の血を引く少女の存在を抹消した。
そして、偽名=タバサを名乗り、ガリアではなくトリスタンの魔法学院に逃げ込んだのだった。
その事情を知っているものは、タバサを慕い、様々な工作と手回しを行った執事ペルスランとトリスティン魔法学院の学院長オールド・オスマンのみ。
「父様、母様……」
タバサは寝ながら泣いていた。
今よりもずっと幼いころに、慕っていた父親が突然いなくなり、優しかった母親は毒を盛られ、狂わされ、更に目の前で殺された。
タバサがもしトライアングルクラスの魔法を使えたなら、刺客を撃退できただろう。
しかし、魔法成功率ゼロ故にゼロのタバサと呼ばれているタバサにとって、それほどの力は持っていなかった。
刺客に杖を向けられ、死を目前としていたときに、タバサの母親は今までずっと娘だと思いこんでいた人形を放り投げ、本物のタバサの前に立った。
刺客の魔法は、心を侵され、ガリガリにやせ細っていたタバサの母の腹を抉りとり、完全に息の根を止めた。
腹部が丸々なくなっている母の亡骸が崩れ落ちる光景を、タバサは直視した。
刺客は、発狂した糞ババアが邪魔しやがって、と舌打ちし、本来の目標であるタバサに杖を向けた。
しかし、その杖はもう一度凶器の魔法を発することはなかった。
老僕ペレスランが、老骨に似合わぬ立派な刀剣でもって、刺客の首を切り落としたのだ。
いかな刺客、いかな悪名高き『北花壇騎士』とて、油断をしているところを背後から斬りつけられ、首を落とされては魔法は唱えられない。
愛すべき母親を目の前で惨殺されたタバサは、いくらペレスランが声をかけても、無理矢理力づくで押さえつけられるまで、目を見開いて、まばたきもせずにじっと何もない中空を見つめ続けていた。
それ以来、タバサの心は何もなくなった。
いや、ただ、母親と父親を殺した仇に対する憎悪と、有能な父と母の子であるのに魔法が使えない自分への自己嫌悪。
黒く、冷たい氷塊のみが、タバサの心の中に存在していた。
何故生きているのか、タバサはこの質問を他人にされないかと、常に恐怖していた。
答えられないからだ。
なんのために生きているのか、何故生きているのか。
突き詰めていってしまうと『なんでまだ死んでいないのか』
その問いにすら答えられなかった。
惨憺たる過去が、タバサの生きる目的を奪い、今も尚新しい生きる目的が生まれることを阻害している。
タバサも、なんでこんなに辛い世界にまだ生き続けているのか、自分でもわからなかった。
あるいは生存本能からなのかもしれないが、みじめな生を続けている自分に嫌悪していた。
タバサは自分を閉じている。
自分が強力な魔法が使えたら、玉砕覚悟で仇を討っただろう。
しかし、現実は無能。
差し違えることどころか、再び宮殿に行くことすらもできない。
強力な魔法どころか、基本的な呪文すら、≪レビテーション≫も≪ロック≫も使えない。
簡単な呪文を苦もなく操る貴族が溢れる、トリスティン魔法学院では、タバサにすさまじい劣等感をわき上がらせる。
劣等感はタバサの内面を閉じさせただけでない。
周囲に対して、見境なく激しい憎悪を抱かせていた。
ゲルマニアの留学生にして、全ての男子を誘惑せんとする褐色の美女、キュルケも。
トリスティン魔法学院の学院長で、すでに死んでいるはずのシャルロット=タバサを受け入れ、保護してくれている大魔法使いオールド・オスマンも。
そして、トリステインの名家の三女にして、巧みな魔法を使いこなす才色兼備、桃色がかった髪が特徴の少女も……。
とかく、恩があろうがなかろうが、世の中の全てに対して憎悪していた。
凶行に走らなかったのは、皮肉にも周囲への憎悪が高じすぎていたために心が麻痺していたからだった。
「……母様」
タバサは眠りながら体の向きをかえた。
背中に感じていたぬくもりを、より多く感じるために無意識に行った行動だった。
人肌のぬくもりを感じ、タバサは顔を押しつける。
才人は、背中に水気を感じた。
タバサが涙に濡れた顔を押しつけていたからだ。
ばつ悪く感じながらも、才人は眠っているタバサのしたいようにさせた。
タバサの涙はとめどもなく流れ、才人の寝間着代わりのTシャツの染みをどんどん大きくしていく。
父様、母様、と寝言で必死に呼び続けるタバサに、ついに才人は耐えきれなくなって、タバサから体を離した。
タバサは手を伸ばして、遠ざかっていくぬくもりを捕まえようとした。
しかし才人は手を離させる。
一旦タバサの体から離れると、才人はゆっくり自分の体の向きを変えた。
自分の手でタバサの頭を支えてやる。
「父様……」
タバサは才人の上着を軽く握りしめた。
才人は寝ながら泣くタバサの体を優しく抱きしめてやる。
邪な思いは全くなく、小さなか弱い少女の体を抱きしめる。
やがて安心したのか、タバサは寝息をゆるやかにし、泣くのをやめ、寝言を言うのをやめた。
才人はゆっくり手を離し、天井を見た。
「……辛い目に遭ってきたんだな」
才人は小声でいった。
才人の貧弱な想像力では、タバサの本当の運命に遠く及ばない悲劇だったが、それでも才人の心に熱い炎を宿らせた。
極端に無口なのも、極端に人と関わり合いをしないのも、悲しい過去のせい。
タバサが悪いのではなく、環境が悪かったのだ、と思うと、タバサの力になりたくなった。
例えタバサが自分を無視しても、自分は全力でタバサを支えてやろう。
悲しい過去を思い出さないように。
もう二度と、眠りながら泣かないように、と、才人は決意した。
才人もゆっくりと目を閉じて、ゆるやかに眠りに身を任せた。