才人は塔の屋上に来ていた。
ここ、トリスティン魔法学院では、空を飛ぶ魔法≪フライ≫を使うものが多くいるので、塔の屋上は出入りが可能になっている。
才人は、ひんやりとした石の床に大文字になって横になっていた。
ただぼんやりと夜空を見上げている。
「異世界、かぁ……」
異世界においても、空は地球と同じだな、と才人は思った。
辺りに明かりが少なく、そして空気が綺麗なために、才人の住んでいたところよりも、もっと多くの数の星が見ることができた。
子どもの頃、親に連れられてやったキャンプ場の夜空を思い出しつつ、才人は空に向かって手を伸ばす。
空に浮かぶ無数の星と、それらを支配しているかのように煌めく二つの月。
片方は赤く、片方は青い。
なんとなく手を伸ばし、握ってみればそれが捕まえられるような気がした。
実際にやってみても、もちろん掴めない。
何度繰り返しても、掴めない。
「……母さん」
空に向かってのばした手を、うろんげに床に落とした。
目をつぶると、涙がこぼれる。
才人はまだ十七歳。
そして『もう』十七歳。
全てを捨て去るには、達観できるには早すぎて、人生を生きるたびに増える持ち物の数が多く、遅すぎた。
元の世界に戻ることは完全に不可能ではないだろうが、それでもそれが見つかる確率は極少。
コルベールから聞いた話が、今になって重く心にのしかかってくる。
才人は周囲に流されやすい性格で、順応力も高かったが、しかし、十七歳の少年がそう簡単に割り切れるわけがない。
一人になったときに、どっと感情があふれ出てきた。
しかし才人は耐えた。
涙も、目をつぶったときに数滴溢れただけ。
意地というか矜持というか、才人はとにかくなんらかの信じるものがあって、感情の高ぶりを押さえつけた。
あるいは虚勢だったのかもしれなかったが、この世界で生きるためには、少なからず虚勢が必要だった。
心が石になるようにと、才人は祈る。
この先に存在するどんな障害にも、歯を食いしばって耐え抜く覚悟をした。
腹の下に力を込め、深く息を吸う。
もう才人は大丈夫だった。
ゆっくり目を開く。
時折吹く穏やかな風が、才人の頬を撫でる。
涙が伝った後がひんやりとし、心地よく感じられた。
上半身を起こして片手で支える体勢で、首を後ろに倒す。
呆然と空を見る。
相変わらずの星空。
赤い月と青い月。
ふっ、と、何かが月を横切った。
「……まさか、な」
鳥か何かだろうと才人は思い、月に映った影を見た。
「うわ、すっげ……」
それはドラゴンだった。
青い鱗に覆われた、翼の生えた爬虫類のような生き物。
才人のいた世界では架空の生物とみなされている。
今日一日で、サラマンダー=フレイムやその他の空想の生き物を多々見てきたが、ドラゴンを見た感動はそれの比ではない。
今まで落ち込んでいたことなど忘れ、その場から立ち上がって、空を見上げる。
ドラゴンは悠々と空を飛んでいた。
翼を大きく上下に揺らし、まるで水の中を泳ぐイルカのように宙に浮いている。
「きゅいきゅい」
空の彼方からドラゴンの鳴き声らしいものが聞こえてきた。
才人は、口元に笑みを浮かべる。
「声までイルカみたいだな」
ドラゴンは才人に見られていることに気付いているのかいないのか、ただ空をひらひらと飛んでいる。
くるくると回りながら、高度を上げたり、下げたりを繰り返していた。
「……あの体格で、どうやって飛んでるんだろうなあ」
それは幻想的な光景だった。
文字通り、ここはファンタジーの世界。
空に浮かぶ二つの月。
空で泳ぐ青い竜。
普通に生きていたらまず見られなかった光景に、才人は嘆息する。
ドラゴンは空の散歩を十分楽しんだのか、旋回しつつ高度を下げていた。
段々と才人のいる塔にも近づいてきて、少し離れたところを高速で通過していく。
ちょっとした風圧を感じ、よろけたが、そのまま立ってドラゴンが学院の中庭に不時着するのを見続けた。
ドラゴンは青い鱗に覆われた翼を小刻みに羽ばたかせ、大きな音をたたせずに地面に足をつける。
「ん?」
塔の端から顔を出して下を見ていた才人は、ドラゴンの上に誰かが乗っていたことに気が付いた。
ドラゴンが自分の上空にいたときには気付かずに、上から見下ろす形になって初めてその存在が確認できた。
月の明かりだけでは、上に乗っている人物の様相はわからない。
「すげーなあ、ドラゴンライダーってやつか」
才人はあの自由自在に空を飛んでいたドラゴンの上に人がいたことを知り、唸った。
ドラゴンは本当に自由気ままに空を飛んでおり、上に人が乗っているような素振りを何も見せていなかった。
だからてっきり才人は人が乗っていないのかと思っていたが、実際には乗っていた。
あの機動を見せたドラゴンに乗って、一度も落ちなかったことに対して、あの騎手は余程の手練れなのだろう、と才人は思った。
「ああ、俺もあんなのに乗れたりするのかな」
目をつぶって、自分がドラゴンに乗っている姿を夢想した。
今まで飛行機にすら乗ったことのない才人には、空を飛ぶという行為は全くの未知の領域だったが、とても気分のいいものだろう、と才人は思った。
雲の中に突っ込み、何もかもが小さく見えるほどの高さで地上を見下ろす光景を思い浮かべ、才人の心は躍った。
そんなことをしている間に、ドラゴンの上に乗っていた人物はどこかへと立ち去っていた。
同時にドラゴンは、再び羽ばたき始め、宙に浮かぶ。
「きゅいきゅい」
またもやドラゴンは鳴き声を発し、首を空に向けて、離陸する。
今度はもっと才人のいる塔の近くを飛び、あっという間に空の彼方へと飛び去っていく。
「るーるる、るーるる」
ドラゴンは、今度はイルカのような声ではなく、今度は人の歌声のような音を残していった。
才人は、青いドラゴンの姿が夜の闇に完全に消えるまで、塔の屋上から立って見つめ続けた。
「……落ち込んでいても駄目だよな。うん。
なんにしろ、ここで生きてかなきゃならねーんだ。
悲しいことよりも楽しいことを想像した方がいい」
才人は両手を天に向かって突き出して、大きく伸びをした。
筋肉の筋が伸びる心地よさを感じて、んーっ、と大きくうなり声をあげる。
才人はドラゴンが消えていった方向をもう一度見た後、屋上から立ち去った。
目指すはタバサの部屋。
駄目になるまで頑張ってみよう、と心に決め、機嫌良く出発した。
たまたまやってきた屋上で、才人は、今の才人にとって、ある種救いになるものを手に入れたのだった。