タバサはいつもと違った夢を見た。
彼女が幼少時のときからずっと見続けてきた夢……それは母親のはらわたが吹き飛ぶものだった。
過去に実際にみた光景が、今でもそのときの空気の味すらも思い出せるほど鮮明に、睡眠を取るたびに再生される。
始めのころこそ、僅かに残っていた心の残滓が悲鳴を上げていたが、今ではもはや何も感じない。
現実のそれと同じように、無味乾燥とした、感情が発生しないものになっていた。
いや、タバサの心そのものが、衝撃的な夢に対して何のリアクションもしないものになっていた。
タバサがこの夢をみるとき、稀にこぼす寝言と涙にもはや意味はない。
心がまだあったときの名残。
条件反射とほとんど変わらないものだった。
心を失ったものは、心を失ったことに悲しまない。
タバサも自分の心が死んでいることに悲しみを覚えず、寝ているときも起きているときも全く変化しなくなってしまっていた。
ただ、意味も対象もない怒りや憎しみが、陸に揚げられた魚のようにのたうち回っていた。
しかし、昨夜見た夢はそれとは違った。
その夢はタバサの動きを忘れた心が、久しぶりの幸せを感じさせた。
タバサの使い魔がいつものように傍らに眠っていなかったので、タバサの笑顔や幸せそうな声は誰にも聞かれなかった。
見た夢は、タバサの過去を起因としたものではなかった。
タバサの見たことのない光景、タバサの聞いたことのない音、タバサの感じたことのない感覚、タバサの味わったことのない味、タバサの知らない感情……ありとあらゆるタバサではないもので構築された夢だった。
明らかな異物であるにもかかわらず、タバサはそれら全てを楽しんだ。
むしろ、それら全てがタバサを楽しませた。
タバサが密かに抱いている願望が実現したかのような夢だった。
見知らぬ光景、見知らぬ空。
視界は何故か緋色に染まり、様々な要素が混じり合った香りが鼻を衝く。
やけに強い風が肌を叩き、また、その風が起こす金切り音が耳に響く。
何故、このような夢を見るのかはタバサにはわからない。
ただし、そこで見た夢は、タバサを大いに喜ばせた。
「悪い、帰ってきて早々だけど、今日はちょっと早く出る」
タバサは目覚めた後にやってきた男に顔を向けなかった。
今朝見た夢の余韻に浸って、口元が歪みそうになっているところを見られたくない、という感情に囚われた。
何故、見られたくないのかはタバサ自身にもわからなかった。
ただ、恥ずかしいから、という常人が抱く感情が原因ではないことだけは確かだった。
男はいつもと同じようにたらいに水を張り、くしを持って、タバサの髪を整え始めた。
男は、昨晩、部屋に戻ることはなかった。
タバサの髪に慣れた手つきで櫛を通している最中に、何度もあくびをし、眠そうに目を擦る。
タバサの頭に櫛の歯が強く当たらないように調節はしていたが、それでも何度かタバサは頭部に痛みを感じた。
「お前も知っているかもしれないけど、昨日、土くれのフーケって盗賊が学園の宝物庫を襲ったんだってよ。
フーケは、人が集まりすぎたから何も盗らずに逃げた。
そんで、学園側が有志を募って、フーケの捜索をすることになったらしい」
男は眠気を取り払うためにか、一人で会話を始めた。
「たまたま、フーケってやつのゴーレムを見かけたんだよ。
そんとき、ゴーレムの肩に乗っているやつを見たから、昨日の夜から色んな人に同じ話を何度もさせられて……」
男は、大きく口を開けて、あくびをした。
櫛を動かす手を一旦止めて、目尻にこぼれそうになっていた涙を拭く。
再び、櫛をタバサの髪に入れるのと同時に、再びしゃべり始める。
「暗くてあんまり見えなかった、って言ってるのに、フーケはどんな顔をしていたって何度も聞かれたんだぜ。
そんなことばっかりしてて、結局、朝になっちまった。
おかげで、昨日は一睡も出来なかった。
今日は今日で、フーケ捜索の手伝いはさせられるし……」
男は、そこまで言うと、言葉を止めた。
「悪い、愚痴なんて聞かせちまったな」
男は最後にそういうと、黙々とタバサの髪を解かした。
もちろん、タバサはさきほどまでの言葉を全て聞いていなかった。
タバサは、男に髪をとかされている最中も、ただひたすらに昨夜の夢のことを思い出して、余韻に浸っているだけだった。
ちょうど、男から顔を見られることのない位置であったため、控えめに口元をゆがめて、笑みを作っていた。
男は髪を解かし終わり、ふと、水が満ちたたらいを見た。
僅かに波立つたらいの水に、タバサの表情がちらりと映っていた。
男がタバサの表情に気づいたように、タバサもまた男に見られていることに気が付いた。
男はさっとタバサの顔を見、タバサはそれよりも早くさっと自分の顔に浮かぶ感情を消した。
「……」
「……」
男は何も言わず、タバサもまた何も言わなかった。
ただ、男の手つきが、先ほどの眠気に苛まれながらのものよりも、遙かに軽くなっていた。
やがて、男はタバサの身支度を終えると、鼻歌を歌いながら、部屋を出た。
一人になったタバサは本棚から本を取り出し、おもむろに開いた。
が、タバサは本を読むことはできなかった。
いつもタバサは本を開いて、ページを眺めているだけで、読んではいなかったが、今日は殊更読むことが出来なかった。
集中力がことごとく散り散りになり、本を持っているだけ、ということに耐えられなくなった。
そわそわと落ち着かずに、部屋のベッドに座って、時間を潰していた。
しばらくすると、男がテーブルと椅子を持って帰ってきた。
男の後ろにはメイドがお盆を持って立っており、男が持ってきたテーブルの上にお盆を乗せた。
お盆の上を見ると、簡素なサンドイッチとサラダ、更には冷たそうな水が注がれたコップが置かれていた。
「フーケの騒動があったから、今日の朝飯は食堂じゃなくて各自部屋で取ることになったんだってさ。
この部屋、テーブルも椅子もないから、借りてきた」
男の声はいつもよりも浮いた感じになっていた。
顔見知りなのか、メイドに礼を言い、一言二言言葉を交わしていた。
メイドが出て行くと、男とタバサは食事を開始した。
男の機嫌は終始良く、自分の皿のサンドイッチを気前よくタバサに振る舞った。
タバサは何も言わず、ただ与えられたものを食べた。
「あ、そうそう、俺、この後、少し出かけてくるから」
食事も終わり、男は皿を重ねながら言った。
「ちょっと、変なヤツに頼み事されてさ。フーケ捜索を手伝わされるんだ。
まあ、手伝わされるっていっても、そんな大したことはやらないんだけどな。
どうせ今日は皿洗いの仕事はないし、ちょっとした借りみたいなのもあるし、付き合わなきゃならなくなった」
男は手を止めて、椅子に座るタバサの前に立った。
ぽんぽん、と手をタバサの頭に乗せて、撫でた。
男の手で整えられた毛が、再び崩れたが、男は気づかない。
もちろん、タバサ本人も気にしない。
「まず無いと思うけど、学園にフーケが戻ってくることもあるかもしれないからな。
俺が出て行ったら、きちんと部屋の鍵を閉めること。
出来るだけ早く帰ってくるつもりだけど、もし変なヤツが来ても、絶対に入れないように。
わかったか?」
男は笑みを絶やさずに言った。
タバサが今まで見てきた中で、最も機嫌の良い状態になっている男は、タバサの肩をぽんぽんと叩いた。
「ま、フーケは俺達が捕まえるから、そんなに心配しなくていいけど、万が一、ってこともあるからな。
今日はなるべく部屋を出ずに、大人しくしとけよ」
男は自分の身支度を始め、部屋を出ようとした。
外へ出て、扉を閉める直前に、再びタバサに視線を向けてきた。
「それじゃ、行ってくる」
ただそれだけを、ひたすら嬉しそうな表情で言い、扉を閉めた。
男の気配が部屋の前からいなくなるのを感じると、タバサは手に持っていた本を本棚に戻した。
そのまま着替えもせず、再びベッドの中に潜り込み、目をつぶる。
もう一度、昨夜見た夢が見られるように、と。
結局、そのときに見た夢は、ただ母親が断末魔を上げるだけのいつもの夢だったが、タバサは落胆しなかった。
元々、それほど期待はしていなかった。
ただ一度だけ、偶然で垣間見ることのできた何かだと薄々解っていた。
タバサがもう一度目覚めたとき、一本のナイフがタバサの首元に向けられていた。
部屋に戻ってきた男が何かを叫んでいるのがわかったが、タバサは現実世界の自分の取り巻く状況など気にも留めずに、昨夜見た夢を忘れないようにと強く思い出していた。
一見、どこかの街のようだった。
漫然と本を読むことにより無意味に溜め込んだ知識から、建築物がアルビオンの南東部地方で見られるものだと判別した。
判別した、といっても、タバサは実際その建築様式を目にした覚えはない。
けれども、その夢では、本の挿絵からでは絶対に想像できないほどのリアルさがあった。
赤黒く染まった空に、いくつもの黒い糸のような煙が真っ直ぐ上がっている。
目にした建築物のほとんどは傷を負っていた。
弾痕と思しき傷や、馬車が衝突したかのような凹み、攻撃力のある魔法が命中した跡が、その場で起こった出来事のすさまじさを物語っていた。
細い道には、川が出来ていた。
小広い広場には、山が出来ていた。
川も山も、元々は同じものから作られたものだった。
少しの火薬の臭いと、大量の鉄の臭いが混じり合い、鼻を刺激した。
そして、タバサに感じられない臭いもあった。
その臭いは、実際には存在しないものだった。
厳密に言えば『臭い』に分類されないものであるが、他の感覚器でも捕らえることのできないものであり、最も類似するものが『臭い』だった。
タバサは、この臭いが好きだった。
初めて嗅いだときはそれほどでもなかったが、この夢で味わうこの臭いは、至高の香りだった。
強い風が吹いていた。
まるで高速で移動する船の甲板にいるような、それほどまでに強い風だった。
そのくせ、近くでぶすぶすと音を立てて上がる新鮮な黒煙は、空に向かって真っ直ぐ浮かんでいく。
また、風の吹く方向は一定しておらず、前後左右果ては上下から、めまぐるしく吹く方向が変わっていた。
風の音が、耳を打った。
様々な種類の風の音が、鼓膜を揺らした。
決して綺麗とはいえないそれらの音は、いくつも重なると一つの音楽のように聞こえた。
荒廃した街に、一つの影が動いていた。
それは本当に影そのものだった。
地面や壁にへばりつき、厚みを持たない。
その影は主を持たずに、動き回っていた。
存在そのものがあやふやであるかのように輪郭がぶれているくせに、やたら速く動いていた。
酒樽をまたぎながら酒屋の壁にいたかと思うと、数瞬もたたぬうちに広場の中央の地面にいた。
手がやけに長かったが、狭い路地に潜り込むときに、つっかかることもせず、器用にすいすいと走っていた。
影はまるで気の狂った踊りを踊っているかのように手足をばたつかせていた。
黒い風のように走り回り、訪れた先々でその踊りで山と川を作っては新たな獲物を求め、先へ進んだ。
やがて、荒廃した街から幾多もの小蟻がはい出てきた。
実際に目で見たわけでもないのに、心の奥底を振るわされる存在に気づいたのだ。
無数の仲間の死骸を残し草原に逃げる小蟻たちに、影は躍りかかった。
影は小蟻に追いつくと、瞬く間に小蟻たちを山に変え、川を作り、物言わぬものに変えるとすぐに別の小蟻を求める。
数百、数千の犠牲者を平らげた影は、無尽蔵の餓えに突き動かされていた。
しかし、まだまだ小蟻はそこら中にいる。
全てが自分から逃れようとしているが、すぐに追いつけることを知っていた。
そして、影は空を見た。
空の彼方から、幾多もの物体がやってきた。
空の大部分を覆い尽くさんばかりの大きさと数だった。
それに最も反応したのは、影ではなくタバサだった。
歓喜の気持ちに突き動かされ、今まで埋没していたタバサの感情は浮上した。
この世に生まれいでた理由が眼前にあったからだ。
今までは巨大すぎて、力及ぶことのなかったそれが、手の届く位置にある。
そのことが、タバサを動かした。
タバサは影から浮上した。
皮膜のようにまとわりつく影の表面を、ぴりぴりと破り、腕の先を外気に触れさせた。
赤くぬらぬらとした草原の草を掴み、ありったけの腕力でもって、外へと出ようとする。
上半身が影を食い破って露出すると、タバサはそこで出るのをやめた。
タバサがしようと思っていることは、そこまで出れば十分出来たからだ。
タバサは左手に剣を掴んだ。
その刀身の黒い剣は、小蟻の慟哭を吸い込んでいた。
タバサの細い手では決して持つことのできない重さの剣だが、影が自分の腹を食い破って出てきたタバサの体を背後からそっと支えていた。
「……」
影が何かをつぶやいた。
タバサはそれを聞かなかった。
元々興奮しきっているタバサに聞く耳は持っていなかったし、その言葉はタバサがこれからやることになんら支障を来さないものだった。
自分自身の中で蓄積していたもの全てと、黒い剣の吸い込んだもの全てを使い、タバサは序文を歌った。
あまりにも大きなエネルギーが辺りに風を起こす。
その勢いでタバサも体を揺さぶられたが、背後で影がしっかり支えていた。
重量のある黒い大剣を落とさぬようにきつく握りしめた痛みで感覚が鈍くなったその手に、不意にぬくもりを感じた。
赤くぬらぬらとしたものがこびり付いた影の手が重ねられ、重量と罪を半分、受け取った。
タバサは、破滅の鐘を打ち鳴らした。