「おい、サイト。今日はもう上がっていいぞ」
才人が学園の厨房で働くことになって数日が経った。
初日から比べると割る皿の枚数が減り、他の使用人達との仲とも概ね良好な関係を築いている。
「はあ? まだ全部終わってませんけど」
冷たい水の中から手を出し、ふうふうと息を吹きかけて暖めつつ、
才人は積み上げられた皿を見て、声を掛けてきた先輩の皿洗いに目を向けた。
「明日はフリッグの舞踏会っていう宴会が開かれるんだよ。
普段の数倍の皿洗いやらなんやらをやらされるから、新入りのお前じゃ体力が持つかどうかわからん。
役に立たないのならまだしも、足を引っ張られちゃ困るから、今日はもう休め」
そうですか、と才人は納得すると、ぱっぱと手を振り水を切り、渡された前掛けを外して持ち場を離れた。
才人の教育係としてマルトーに指示された先輩は、ややキツイ言葉使いであるものの、面倒見がよかった。
今回も、マルトーから才人を休ませるように、と指示をされていないのに、自主的に才人を休ませる判断を下している。
「あ、そうだ。お前、学生寮のとこで寝泊まりしてるんだろ?
そこにあるサンドイッチの皿を届けてといてくれ」
指さされた先のテーブルには、雑多な調理器具と積み上げられた皿の間にひっそりとサンドイッチの皿が置かれていた。
流石はトリステイン魔法学院だからか、軽食であるのに挟まれた野菜は瑞々しく見え、手抜きは一切ない。
才人は皿の端をつまみ、それをゆっくり持ち上げた。
まだ才人は皿洗いしかさせてもらえず、給仕のように上手く運ぶ技術はない。
配膳とて、皿の上げ下げにすら一定のマナーが存在し、馬鹿に出来るものではないのだ。
とはいえ、才人の先輩も才人にその教養がないことなど百の承知。
ちゃんと皿の上のモノを落とさず、形を崩さずに運べれば十分なものだった。
「じゃあ、お疲れ様です」
声を掛けると、木霊のように厨房から言葉が返ってくる。
才人は、軽く頭を下げ会釈し、手に持った皿の上のサンドイッチが崩れぬよう、ゆっくり歩き出した。
才人が配膳するように指定された場所は、学生寮ではあったが、全く近いところではなかった。
寝泊まりのしているタバサの部屋とは、塔が違う上、階も高い。
二つ返事で了承してしまったものの、これならば皿を洗っていた方が楽だったんじゃないだろうか、と才人は内心溜息をついた。
指示された部屋の前に到着すると、何も言わず、おもむろにドアをノックした。
返答は、ない。
「あのー、すいませーん。厨房に頼まれて夜食運んできたんですけどー」
声を掛けても、返答は無かった。
ひょっとして部屋の中の人は、眠っているんじゃないだろうか、と才人は思った。
果たして、この場合、中の人を起こしてでもサンドイッチを渡すべきか、それとも諦めて引き返した方がいいのか。
心情的には、引き返した方が楽だが、本当にそれでいいのかわからなかった。
皿だけをドアの前に置いておく、という選択肢はない。
いくら掃除がなされているとはいえ、衛生的にあまりよろしくない。
この世界には才人のいた世界とは違い、ラップなどという便利なものはない。
埃が舞い上がれば、それが落ちるのは、サンドイッチの上なのだ。
「すいませーん、夜食、や、しょ、くーッ!」
ノックと共に声をかけるが、これでも返事はない。
かなり大きな音が立っているのに、まだ寝ているなんて、どんな神経の図太いヤツだよ、と才人は心の中で毒づきながら、それでも手と口は止めなかった。
しばらくの間、そのノックは続けられ、才人の忍耐が切れそうになる直前に、一人の女性が現れた。
才人が望んでいる部屋の隣のドアが、ゆっくりと開かれて、隙間からぬぅっと赤い髪の頭が出てきたのだ。
「んもう、うるさいわね。静かにしてよ」
やや乱れた赤い髪をぽりぽり掻きながら、その顔は言った。
しょぼしょぼとした目を擦り、焦点がはっきりした目で、才人を見るや否や、目は大きく見開かれた。
ドアが大きく開かれて、ネグリジェの上にカーディガンを羽織っただけの女性が、廊下に出た。
「あなた、確か、あの、タバサの使い魔……どうしてこんなところにいるの?」
「あ、い、いつぞやはどーも」
才人は突然目の前に現れた、『あられもない格好』という言葉がつく女性にどぎまぎしながら頭を下げた。
才人にとって幸いなのかそうでないのか、彼女はかなり女性的な体つきをしていた。
視線をどこへ持っていけばいいのかわからないのと、才人が健全で年頃の男性であることが、才人の挙動を不審にしていた。
とはいえ、その女性……キュルケもそれを見て動じない。
自分の肢体が異性にどのように見え、どのように魅力的なのか、おおよそ正確に自分で認めているからだ。
「んー……差し入れ? それはやっぱり罪の意識からなのかしら?」
「はい?」
キュルケは才人の顔をまじまじと見つめてきた。
才人の考えていることを表情から読み取ろうとしているのか、しげしげとぱっちりした目を向けてくる。
少し経って、息をつくとキュルケは自分の髪の毛をかき揚げた。
「どうやら知らないみたいね。まあ……いいか、私が鍵を開けてあげるわ」
「はあ……でも、中の人寝てるんじゃ?」
「いえ、起きてるわ。あなたが来るまで、部屋の中で動いている物音がしたもの。
ちょうどよかったわ、うるさいって何度言っても壁を殴るの止めなくて困っていたところなのよ」
キュルケの言葉が理解できず、才人は首をかしげた。
一体どういうことなのか聞く合間も置かず、キュルケは部屋の中から杖を持ってくると、呪文を唱え、軽く振った。
小さい金属音が確かに耳に聞こえた。
錠が降りた音だ。
「じゃ、あたしはそういうことで」
間髪置かずにキュルケは自分の部屋の中に入り戸を閉めた。
かと思うと、すぐさまほんの少しドアを開き、隙間から、才人に向かって口を開いた。
「そうそう、揉め事を起こすならくれぐれも外でやって頂戴ね。
もう何日も徹夜に付き合わされて流石にうんざりしてるのよ」
キュルケはそれだけを言うと、再びドアを閉めた。
今度はまた開くことはなく、人の気配もドアから離れていくのが分かる。
一体何だったんだ、もめ事って一体なんのことなんだ? と才人はぽかんと口を開けたまま考えた。
何かよく理解できないまま……才人は考えるのを止めた。
「ま、どうでもいいわな。貴族の言うことなんて」
才人は、魔法で痛めつけられたことがあり、学生達にさげすまれていることを知っているものの、極端な貴族嫌いではなかった。
とはいえ、貴族という存在を好きであるというわけでもない。
端的に言えば、どんなことをしてようが知ったこっちゃない、と。
要するに無関心なのであった。
もし彼の主人がタバサでないとしたら、今よりかはいささか貴族に対して好奇心を抱いたであろう。
才人にとっての貴族との接点があの無口な少女のみなのだ。
貴族という存在を評価するための情報源が、枯渇状態にあるのだから致し方ないことであった。
才人が目の前のドアに手をかけて、ゆっくりと回す。
かちゃりと音がなり、ドアが微かに開いた途端、部屋の中からどたどたと慌ただしい足音が響いてきた。
「あ、すいませーん。差し入れ……って、うおッ!」
掴んでいたドアノブがぐいと引っ張られる。
「さ、差し入れですって! 夜食のサンドイッチを届けに来たんですッ!」
才人も負けじとドアノブを引っ張った。
ドアを閉めようとする力は存外にも弱く、あっさりとドアは開かれた。
その際に、ドアノブにしがみついていた人が、反動で廊下に転げ出た。
「ああっ! す、すいません、いきなり閉めようとするもんだから、つい力をいれちゃって……って、うん?」
廊下に転げた部屋の住人は、桃色の髪をした少女だった。
ぼさぼさの髪に、よれよれの制服。
背は低く、顔色もあまりよくない。
どこか見たことのある風貌の彼女を見て、才人は記憶の糸を辿った。
「こ、この……ッ」
「あっ、あーッ! お、お前、なんでここに!?」
ぎりぎりと歯を食いしばる音とともに出された少女の声が、才人の脳から一人の人物を引きずり出した。
ルイズ・フランソワーズ・なんとかかんとか。
数日前に決闘をし、ひっぱたいて泣かした相手だった。
ルイズは顔を上げ、間髪入れずに才人を大声で罵った。
「何よ! 平民に負けた貴族を笑いに来たって言うの!?
ふざけないでよ! あんたのせいで外も歩けないっていうのに、これ以上辱めるつもりなのッ!」
才人は、ルイズの顔を見てぎょっとした。
ルイズの目は泣きはらした後なのか真っ赤に充血し、瞼は腫れている。
そのくせ、頬のラインが少し凹み、やつれているように見える。
美しさや健康さが欠けているが故、その憤怒の表情は苛烈に感じられた。
まさしく鬼気迫っている様子で、ルイズは才人の胸ぐらを掴み上げる。
「あんたのせいで……あんたのせいで、私、私はッ……!」