才人は杖をへし折った。
それでも尚、ルイズが有利なはずだった。
満身創痍の才人は、それこそ、少し強い風が吹いただけで倒れそうなほど弱っている。
これでは石を拾おうとしただけで転んでしまうだろうし、何にしろ付近にスリングで投げられる大きさの石は落ちていなかった。
このままルイズが、体当たりをしかけるだけでも、十分才人には勝てる。
しかし、そういった現状とはまた別に、ルイズは精神的に負けていた。
杖を折られるというのは通常の決闘の上で、それだけで敗北を意味する。
貴族同士の決闘は、最後まで殺し合うほどでなければ、杖を折るだけで相手の戦闘能力を解除したと見なされる。
ただ今回の場合は、相手が平民で魔法が使えない相手。
それ故まだ決闘は継続しているのだが、杖、ひいては魔法をよりどころにするメイジにとって、それの喪失は実際以上の効果がある。
それに加え、才人の動きがルイズには不気味に見えた。
体全体を左右に揺らし、よたよたと歩く姿は、まるでアンデッドのよう。
しかし、一歩一歩近づいてくるその姿は、ルイズにとって脅威だった。
喉が引きつり、上手く声が出せないルイズ。
逃げようと思えど、足はまるで根が生えたかのように動かない。
すぐそこまで来て、ルイズは才人の目を見たとき、恐怖はより一層高まった。
まるで、アリでも見るかのように見ている。
ルイズは背筋の毛を全て立たせて、才人の目を見る。
顔全体が血まみれになっているせいか、目がくっきりと映っており、その奥には光が存在していない。
真っ正面からこちらを見ているだけなのに、何故か見下ろされているような……ルイズの精神状態のせいもあったが、そう見えた。
もしもアリに人間ほどの感情があり、その感情を言語化出来るほどの知性があったなら、
全てのアリがまず間違いなく考えることをルイズは考えた。
すなわち『踏みつぶされる』と。
「その決闘、ちょっと待った!」
援軍はルイズはおろかこの場にいた貴族達の誰しもが、気付かなかった方向から来た。
貴族の輪をかき分け、バラの造花を加えて、空気を読まずにやってくる。
土系統のドットクラス、ギーシュ・ド・グラモン、ここにあり。
予想だにしない事態に貴族達は、ぽかんと口を開けて驚いている。
ギーシュはそれに気づきもせず、注目を集めていることに、満足げに微笑み、ルイズと才人の間に割り入った。
「今回の決闘、引き分け、ということでどうかな、お二人さん」
「はあ? ふざけんな、引っ込んでろ、タコ」
「た……タコ? いや、待ちたまえ、悪いことは言っちゃいないさ」
ギーシュはそっと才人の傍らに行き、耳元で辺りには聞こえない小さな声で囁いた。
「普通決闘では、勝っても負けても互いに恨みっこ無し、というのが良識とされている。
だが、やっぱり貴族と言えど人間だ、どちらが勝った負けたで遺恨はどうしても残るんだよ。
もし君がこの場でルイズに勝ってしまえば、以降ヴァリエール家から好印象で見られることはなくなるね。
君は平民だから知らないのかもしれないけど、この国でヴァリエール家に刃向かうと、大抵の人はいい死に目は会えないのさ。
引き分けにしておけば、君は負けなかった、ルイズにも勝たなかった。
それで八方丸くおさまるのだから、それがベストとは思わないかい?」
ギーシュは囁き終わると、才人の返事を待たず、身を翻した。
「さあ、彼もこの勝負引き分けであるということを認めた」
観衆に向かって、『名ジャッジをした!』と言わんばかりの態度でギーシュは言った。
今まで驚愕の連続だったために、未だ観客達は感覚の麻痺状態に陥っていたものの、次第にざわざわと騒がしくなっていく。
才人は、すっかりしらけて、スリングをパーカーのポケットに入れた。
なんだかんだ言って、まあ、それでもいいか、なんて思ってもいる。
しかし、全く逆の立ち位置にいた人は、納得することが出来なかった。
「ちょっと待ちなさいよ! ギーシュ!」
ルイズは、今まで恐怖で固まっていたことなど忘れて、ギーシュに噛みついた。
「私は負けていないわ!」
「そうだね、ルイズ。君は負けなかった。しかし勝ちもしなかった。それでいいじゃないか」
「ダメよ! もう少ししたら私が勝っていたんだから!」
もうさっぱり、さっきまでのことは忘れているらしい。
ルイズはちらと才人を見た。
相変わらず顔は血まみれで、どことなくしらけた様子だが、さきほど才人の目を見て抱いた感想はこれっぽっちも沸きそうにない。
やっぱり、あれはただの気のせいだったか、と思考を戻し、ルイズは更にギーシュに文句を言った。
「第一、貴族が平民に負けるわけないじゃないの!」
「だから、君は負けたわけじゃないさ。引き分けというのはどちらも勝たず、どちらも負けぬ結果なんだよ」
「それじゃダメなのよ!」
ルイズに求められているのは必勝、それのみだった。
それ以外ならば、引き分けも負けも大差ないゴミクズなのだ。
ゴミクズを認めるならば、自分もまたゴミクズとなる。
それだけは許せなかった。
もはや、自分の矜持だけの問題ではない。
ヴァリエール家全体の、厳しくも優しい父と母と厳しい姉と優しい姉の名誉をも傷つけかねないことになる。
「まあまあ、落ち着きたまえ、ルイズ。
君にとっても引き分けた方が良い結果になるんだとボクは思うよ。
ここは一つ貴族らしい寛容な心でもって、許してあげた方が得策だろう?」
ギーシュは才人にやったように、ルイズの耳元で囁いた。
「確か君はトライアングルクラスだったろう?
トライアングルクラスの『固定化』がかけられた杖を、あの平民君はまっぷたつにしてしまったんだぞ。
もしこのまま決闘を続けて、あの投石を今度は君の体で直接受けたら一体どうなるか……。
まあ、そのときにへし折れるのは、杖じゃなくて君の背骨だと思うがね。
僕は土系統のメイジだから門外漢なので、とある水系統のメイジに聞いた話なんだが、
背骨が折れたら下半身が動かなくなるそうじゃないか。
君だって、その年で片輪にはなるたくあるまい?」
ギーシュはまた、自分の言いたいことを言い終わると返答など聞かず、観衆の方に体を向ける。
両手を大きく上げ、満足げな表情を浮かべた。
「ルイズも、引き分けでいいそうだ。
このギーシュ・ド・グラモンの大岡捌きで一件落ちゃ……う……」
ギーシュは途中でゆっくりと地面に崩れ落ちた。
両手は股間部に添えられて、尻を高く上げたまま、内股の格好でうつぶせになって倒れていた。
ルイズが咄嗟に後ろから男性の急所を狙った蹴りを放ったのだ。
しこたま、玉を打ち付けたギーシュは、そのインパクトに耐えきれず、その場で無様な姿をさらすことになった。
「私はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールなのよッ!
へ、平民なんかに負けるわけないじゃないのッ!」
ルイズはその場で平民を侮蔑する言葉を吐き続けた。
才人に向かって決闘の続きを徒手でやる勇気はない。
実際には、徒手での続きを望んだ場合、勝つのは確実にルイズであるが、そのことを彼女は知らなかった。
知ったところで、まるで自分の存在を道ばたに落ちている紙くずか何かのように見てきた目を持つ者と、不必要な関わり合いを持ちたくはなかった。
しかしその反面では、貴族として、ヴァリエール家として負けるわけにはいかない自分がある。
今すぐ逃げ出したい気持ちと、逃げ出してはいけない気持ちが互いにぶつかり合い、ジレンマが発生していた。
混乱する思考の中、ルイズが到着した末は『平民を徹底的に見下す言葉を言う』だった。
何故そういう風になったのか、今自分が一体何を言っているのか、ルイズ自身すらわからずに、ただただ平民を悪罵し続けた。
普通の貴族優位主義の思想を持つ、観客の貴族達ですら引くほどの、
ルイズの知識知恵を結集した中身のない悪口が、堰が壊れたかのように流れ出る。
才人はそんなルイズを冷たい目で見下ろしていた。
「死ね! 死んで詫びなさい! あんたら平民が生きていたって何の価値もないのよ。
だったら、死んでこの世に生まれてきたことを……」
一瞬、ルイズは何が起こったのか理解できなかった。
今日は、自分の状況が理解出来ないことが連続して起こっているが、とにかく分からなかった。
少なくとも、冷静でなくなっている今のルイズの頭では理解出来なかった。
正面を向いていた顔が、いつの間にか右の方向を向いている。
そして、左の頬には焼けるような痛みが走っている。
顔を戻すと、右腕を左上に上げている才人がいて、それを見てようやく悟った。
「ぶ、ぶっ、ぶったわね! きっ、き、貴族様にへ、平民が手を出すなんて、そ、そんなこと許され……」
再びルイズは思考停止状態に陥った。
今度は正面を向いていたはずの自分が左を向いている。
例のごとく向いている方向と反対側の頬には焼け付くような痛みが走っている。
正面を向くと、前回と同じく、才人が向いた方向と同じ向きに手を振り上げていた。
「に、二度もぶった! お、お父様にもぶたれたことないのにッ!」
三度目になるともうルイズは、自分に何が起こっているのか最初から理解できた。
じんじんと痛む頬のままに、再び正面を向く。
何故か、視界には才人は映らなかった。
とはいえ、才人が正面に立っていないわけではない。
確かに才人はさきほどから変わらぬ位置に立っている。
しかし、正面を向いたルイズの目には映らなかった。
「う……う……な、泣いて、ないわよ!」
瞬きするたびに、瞳から溢れる熱い液体は大粒のまま頬を流れ落ちる。
痛む頬に涙が伝い、じんじんと更に痛みが増していく。
「わ、私は、ルイズなのよ! こんなことで、泣くわけ、ないじゃないのッ!」
夏の夕立のように、最初はぽつぽつと流れていた涙が、瞬時に滝のように大量に流れ出る。
必死で自分は泣いていないことをアピールするルイズだが、誰がどう見ても言葉とは反対の状態にあった。
才人はもはやルイズには興味を無くし、背を向けてよろよろと歩き始めた。
「う、う、うああああああッ! ああああああッ!」
響き渡るルイズの大きな泣き声も無視して、先ほどの中庭の方向へ足を向ける。
ギーシュは引き分けと言ったが、これは引き分けではない。
その場にいた貴族は全員そう考えていた。
あの天才ルイズが、入学当初から極めて優秀な生徒として注目されていたルイズが、今は人目も憚らず大声で泣いている。
この状況を見て、誰が引き分けと考えるか。
才人は確かに血まみれで、泥まみれで、お世辞に言っても乞食と同然の格好。
しかし、そのボロボロな体に纏う威圧感は、貴族達には目に見えるかのようだった。
片や頬を赤くしているだけだがその場で泣きじゃくる者と、片や満身創痍だがハリネズミのように戦意をむき出している者。
この決闘の、どこが引き分けなのか。
「どけよ」
道を遮っていた貴族の野次馬達に、才人は言った。
すると野次馬達は一瞬でざっと横に動き、道を造る。
平民に「どけよ」と言われたら怒り狂い、当然道など譲らない貴族達だが、今回はほとんど反射的に動いていた。
誰に媚びを売ることもせず、誰も寄せ付けぬ雰囲気を纏った決闘の勝者は、
足取りは不安げな、しかし確実に他者の助けもなく、ヴェストリの広場を後にした。
才人は中庭に来た。
いつもはこの時間帯は貴族が食事をしたり歓談したりとにぎやかな場所だが、今日はたった一人しかいなかった。
隅っこの方のテーブルの席につき、例え空から月が降ってこようと平然と読書を続けているだろう印象を受けるタバサだった。
才人はタバサのテーブルの、空いている席に腰掛けた。
だらーと両手足を伸ばし、背もたれに寄りかかり、血まみれの顔を天に向けて、才人は語り出す。
「あー、ルイズってやつと決闘してきた」
タバサは何の反応も返さない。
しかし才人はそれを承知で語り続けた。
「平民だの貴族だの一々うるさいヤツだったからな。
ちょっと魔法が使えるってんで、こっちもこんなザマになっちまったけど、勝ったよ」
才人は段々視界が霞んでいることに気が付いた。
目の前が白みを帯びて、輪郭が朧気になっていく。
それが何の予兆なのか察した才人は、体を起こす。
最後にこれだけは言っておかければ、と、必死になって意識を保とうとした。
「ルイズをぴーぴー泣かしてやったよ。へっ」
ゆるやかにぐらつく視界、段々と途切れ途切れになっていく思考。
「お前、ゼロだなんだと言われてるらしいけど、まあ、俺っていう強い使い魔を従えてるんだから……。
その……なんだっけ……」
もはや限界に達していた。
ふらつく体を支えるために、テーブルの上に腕を載せた。
あざが無数に出来ている腕に激痛が走るが、そんなことは気にならない。
「悪い……なんかちょっと疲れちまった……眠る、わ……」
そのまま顔もテーブルの上に載せる。
そして、才人はそっと意識を手放した。