とりたてて大きな事件など起きずに、異世界での日々は一日二日三日と過ぎていった。
タバサは相変わらず無口で、才人が声を掛けても無視し続けている。
それでも負けじと才人は頑張っていたが、今のところそれが報われるような気配はなかった。
「何がいけないんだろうなあ」
才人は中庭で他の使い魔達に溜息混じりの愚痴を漏らしていた。
何匹かの使い魔達が周りに集まって、わかっているのかわかっていないのか、鳴き声を返している。
才人はおおいに暇だった。
使い魔、といっても何することもない。
秘薬の原料になるものを探したり、魔法の詠唱中に主人を守るような場面には未だ出くわしていない。
雑務をしようにも、タバサは洗濯を自分でするし、部屋の掃除も一度徹底的にやってしまえばしばらくは問題はない。
食事の準備も元より学院にいるコックやメイドの仕事。
元の世界にいれば学校があり、友達が居て、パソコンやゲームがあったが、こちらには何もない。
かつては面倒だと思っていたことも、楽しいと思っていたことも一切ない世界は、とても退屈なものだった。
中庭の芝生の上にどっかと座り込み、ひなたぼっこをしている使い魔達と共にのんびり過ごすことが、最近の才人の日課である。
それも十分退屈に思える時間の過ごし方だが、その他に何もやることがなかった。
シエスタなどの手伝いをしようにも、手伝いできるものは少なく、かえって邪魔になってしまうことを、既に才人は学んでいた。
才人が暖かい陽気の中で大あくびをしたとき、空から一匹の風竜が近寄ってきた。
「おおっ?」
ゆっくりと風竜は下降し、地面に降り立つ。
朝、昼、晩とエサを与え続けているためか、使い魔の風竜は才人に懐いている。
才人も好かれるのにはやぶさかではなく、空を飛ぶ爬虫類に敬意を持って接している。
未だ主人には会っていないが、風竜の美しさから、きっと主人も優しい美少女なんだろうなあ、と勝手な妄想を広げていた。
風竜は全長六メイルほどの、大型の使い魔である。
学院の建物の中には入れず、主人の寮にも入れないため、近くの山に住んでいる。
この風竜は、人なつこい性格なのか、甘えた声を出して才人に頬ずりした。
才人が美しい青い鱗に覆われた首を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。
「確かにしゃべったんだよな」
コルベールに聞いても確かに風竜は賢いが、人間の言葉をしゃべらないという。
しかし、以前エサをやったときに風竜がしゃべっていた。
実際にしゃべっているところを見たわけではないが、少なくとも風竜しかいないところから声が聞こえてきた。
あるいは使い魔となったことでしゃべれるようになる事例があるらしいが、そのとき以降はしゃべる気配すらない。
あれはなんだったんだろう、と思いつつ、才人は風竜の首を撫でるのをやめた。
風竜が地面に横たわると、才人は腹の部分に寄りかかって座った。
風竜が来たところで、やることは何もない。
ぼんやりと空を見つめながら、時間をもてあましていた。
「暇だなあ……」
才人のぼやきに応じて、あたりにいた使い魔達も鳴き声を返す。
風竜もきゅいきゅいと喉を鳴らし、才人の体に頭をこすりつけた。
「な、なんだよ……」
ただじゃれているだけでなく、ぐいぐいと才人の体を押す。
才人のパーカーのフードを口でつまみ、引っ張った。
「ちょ、ちょっと、伸びるからやめろって! わ、わかったから!」
地球からハルケギニアへ持ってきた一張羅をダメにされてはかなわぬと、すぐに風竜のさせるがままにした。
「上に乗れ、っての?」
才人の問いに、きゅいきゅいと風竜は首を上げ下げして答える。
おずおずと、風竜の背びれと背びれの間に跨る才人。
「……飛ぶのか」
ぽつりと小さな声での呟きだったが、既に才人の目は輝いていた。
才人は空を飛ぶことに夢を持っていた。
地球ではまず味わうことのできない経験の機会をつかみかけ、心が躍る。
風竜は才人の呟きに、翼を羽ばたかせることによって答えた。
才人は揺れる風竜の上で、慌てて背びれに捕まった。
心拍数が上がり、顔が少し紅潮してゆく。
一瞬で、地面を踏んでいる、という確かな感覚が消失し、風竜は前に動き始めた。
「う、うわぁ……」
ゆっくり高度を上げつつ低空で旋回する風竜。
数メートルの高さまで上がると、建物にそって吹き上げる上昇気流を見つけて、一気に高く飛ぶ。
あっという間に、地上にいた使い魔達が豆粒のように小さくなり、学院の全貌を現した。
みるみるうちに学院も小さくなり、広大な空の真ん中で、ようやく風竜は上昇するのをやめた。
才人は高い空で見える光景を楽しんだ。
学院の外には草原が広がり、それを分断するかのように道が出来ている。
草原が終わると林が、林の奥には森があり、更にその奥には山がある。
全てのものがミニチュアサイズで、目に楽しく感じられる。
人か馬らしきものが、草原の中に砂粒くらいの大きさでぽつんとあるのを見て、才人は笑った。
「すっげぇ」
才人は感嘆し続けた。
竜に跨って空を飛ぶ……地球ではファンタジーとされていたことが実現している。
魔法を直に見せられるよりも更に才人にここが異世界であることを自覚させた。
強い風圧をも心地よく感じ、才人は空中散歩を楽しんでいる。
半時間が経っても、飽きもせずじっと目をこらして、遙か遠くの地上を見つめていた。
学院の方から授業終了の鐘が鳴り響いてきたが、夢中になっている才人はそれに気付かない。
突如、風竜は何かに呼ばれたかのように首を学院の方へ向け、急激に高度を下げてゆく。
人間である才人よりもずっと鋭敏な聴覚を持った風竜は、主人の呼ぶ口笛の音を聞きつけていた。
主人の求めに応じるために、主人の口笛の音のした場所へと飛んでいく。
「うおっ!」
才人は咄嗟に風竜の背びれを強く握り、体勢を低くして急激なGに耐えた。
あまりの風圧に叫び声も上げられない。
風竜は今度は急激に速度を落とし、魔法学院の一つの塔の壁面スレスレを通り抜けようとする。
その直前に塔の窓から人が一人飛び降りた
ちょうど風竜の――そして才人の――上に着地する。
才人は風竜の体と落下してきた人に押しつぶされて、うめき声を漏らす。
その反面、いつもの着地に比べると変な感触を感じた風竜に飛び乗った人が狼狽する。
「なっ、なんなのよ! なんで私のシルフィードに私以外の人間がっ!?」
踏みつぶされた才人は、痛みの声を漏らしながら体を起こす。
くらくらする頭を抑え、ぼんやりした視界で、何が上から落ちてきたのか、確かめた。
ゆっくりと焦点を結んでいく視界に映ったのは、頬を膨らませて怒る桃色の髪の女の子。
以前、才人に出会い、平民のくせに、などと理不尽なことを言ってきた、あの子だった。
才人は、これからろくでもないことになりそうだ、と目の前の子に見られないようにそっと小さな溜息をついた。