「……あら? あなたは?」
空は青いなあ、と呆然と立ちつくしていた才人に声をかけてくる人がいた。
タバサが去ってしまってから半時間の間、とかく才人は無気力に空を見続けていた。
本来好奇心が強いたちではあるが、異常な状況に適応するには少し時間が必要だったのだ。
空を見て、頭に新しい情報が入らないようにしてから、考えねばならないことを順序立てて考えていた。
才人はおもむろに視線を下げて、声のしてきた方を向いた。
メイドだった。
この建物で働いている家政婦なんだろうか、と才人は漠然と考える。
今の今まで様々な方向性にむいた思考をしていたため、通常の思考に戻すには若干の時を要する。
五秒ほど経ったときに、ようやく才人は口を開いた。
「あの、ここは、一体全体どこなんでしょう?」
才人は言った。
今までコルベールやタバサには居丈高な態度で、一体自分を何に巻き込んだのか聞こうとし、ことごとく無視された。
それがいけなかったのかもしれない、と才人は考えて、今度は丁寧な口調で尋ねた。
「へ?」
しかしメイドは、じり、と後ずさる。
見知らぬ格好をした、空を呆けた顔で見つめ続けていた見知らぬ人に声を掛けたことをそのメイドは後悔した。
「いや……なんかいつの間にこんなことに来てて……」
メイドは二歩後ずさった。
ここ、ハルケギニアにも心の病は存在する。
メイドの持っている知識は、たまに過酷な運命に直視したり、不幸な星の元で生まれたりすると、心に病を持つ人間がいるということだった。
その心の病は、不眠状態になる、記憶が喪失する、常識的思考ができなくなる、その他色々。
そして加えて、それらの人全てが他に害を与えるものではないというものの、あまり関わりたくはないタイプの人も少なからずいるということだった。
「そ、そんな脅えないでくれ。別に頭がおかしい人じゃない。……いや、多分、だけど……」
やや自信なさげに才人は言った。
自分の正気を証明する手段が何もなかったからだ。
反面、空を飛ぶ人を見た、ということは才人の今までの経験から言うと、狂気の証明に値する。
才人は頭を抱えた。
そうか、そうだったのか、俺は狂っちまったのか……才人は落ち込んだ。
首をがっくりと下げ、その場で体育座りをする。
「あ、あの……」
メイドは流石に憐れに思った。
突然、頭を抱え、体育座りをするという、常軌に逸した行動を取られ、やはり予想は当たっていたのか、と思う。
とはいえ、そのメイドは優しい子であり、多少はおどおどとした態度ではあったけれど、何か力になってあげよう、とゆっくり手をさしのべた。
「な、何かお困りなら、出来る範囲でお助けしましょうか?」
やや中腰になり、うずくまった才人に手を差し出す。
抜け目なく『出来る範囲で』と言っておくことを忘れない。
「……」
才人は陰鬱な表情の顔を上げた。
メイドの手と顔に交互に視線を向ける。
メイドはまた一歩後ろに下がりたくなったが、引きつった笑みと膝の裏あたりを痙攣させてなんとか踏みとどまった。
「……ふぇ」
才人はぼろぼろと涙を流した。
見知らぬ場所に突然連れてこられ、何がどうなったか聞こうとしてもことごとく無視されて……。
魔法使いのコスプレみたいな格好している連中達は空を飛び、歩いて移動する奴は人形みたい。
それでいて気が付けば一人っきり。
才人は頭の割れるような孤独感を感じ続けていた。
それをおさえるためにも空を見続け、気を逸らしていたのだ。
もしもあのとき、プライドが高く、わめきちらして才人に当たる人物がいれば、その孤独は紛れただろう。
しかし、そんな人はおらず、代わりに無口な少女がいた。
そんな風に落ち込んでいるところに、メイドがやってきたのである。
才人と同じく黒髪で黒い瞳。
そばかすがかわいい、垂れ目のかわいい女の子。
その子がうずくまった自分に声を掛け、手をさしのべてくれた。
才人はこの上のない幸福感を感じ、涙をただひたすらに流した。
「だ、大丈夫ですかっ?」
メイドはものすごく脅えていたけれど、感極まっている才人は気付かない。
嗚咽混じりに「大丈夫です」といい、思いっきり鼻をすする。
「いや、優しくされることが……こんなに嬉しいことだったとは、思わなくって……」
パーカーの裾で、汚れた顔を拭き、才人はゆっくり立ち上がった。
「それで……一体、ここはどこなんでしょう? 俺の脳内世界?
人が空を飛んでるのを見たなんて俺やっぱ絶対頭おかしい……。
ああ、そういえばかわいいメイドさんが俺に親切にしてくれるなんて、馬鹿みたいな妄想だ」
しかし、すぐさまネガティブスイッチが入る。
一瞬明るくなった才人の表情も、みるみるうちに陰がさしていく。
才人に声をかけたメイドは、そろそろその寛容さの底を見せようとしていた。
確かに彼女は親切ではあるが、しかし限界が存在するし、あまり厄介ごとを好まない性格でもある。
引きつった笑顔は、半ば恐怖に歪んでいるようにも見える。
「だ、大丈夫ですか?」
それでも最後の親切として、落ち込んでいた才人に声をかけた。
「大丈夫です……さっき、ちょっと人が空に飛んでいる幻覚を見ただけで」
「え? いや、飛んでますけど……」
メイドは首をかしげた。
トリステイン魔法学院では≪フライ≫の魔法を使い、人が空を飛ぶ光景は日常茶飯事のことである。
とりたてて不思議なことではない。
ひょっとしたら……心の病と何かを勘違いしているのかしら、とメイドは思った。
「……え?」
「ほら、あそこを見てください」
メイドが中空を指さした先には、一人の老人とそれに少し遅れて若い女性が空を飛んでいた。
「……」
才人は目をこらして、それを見る。
老人が突然スピードを落とし、若い女性の下に回り込むと、スカートの中を覗こうとしている。
若い女性は咄嗟に下に回った老人の顔面に蹴りをいれた。
あーれー、と声をあげ、地面に向かって落ちていく老人。
しかし、地面に接近していけばいくほど落下速度は落ちていき、何事もなかったかのように着地。
若い女性に向かって何かを言いながら、再び空を飛んでいった。
「……えっと、見えてる?」
「はい、見えてます」
才人はメイドに尋ねると、間を二秒と開けずに答えを返した。
「……あは、あははは、なんだ、頭がおかしくなったのかと思った」
才人は軽く笑うと、頭を掻きながら照れくさそうにメイドを見た。
「俺、平賀才人って言います。危ないところを助けてもらってありがとうございました」
本当に、才人は危ないところを助けてもらっていた。
あのままネガティブ思考が続いていれば、自殺をしかねなかった。
もっとも、根本的に『人が空を飛ぶ』という彼の常識から言う非常識な事実は変わっていないのだが、これ以上混乱しても事態は好転しないので敢えて無視した。
「あ、私はシエスタと申します。この学院で生徒さん達のお世話をさせてもらっています」
親切なメイド=シエスタは、ぺこりと頭を下げた。
落ち着きを取り戻した才人を見て、ほっと息をつき、自然な笑顔を浮かばせる。
なんだかよくわからなかったが、とにかく勘違いであったことがなんとなく理解できたからだ。
「それで、一体ここはどこなんすか?
俺、さっきまで秋葉原に居たはずなんすけど、突然こんな見知らぬ土地に……」
やっぱりシエスタはもう一歩後ずさった。
「なんか、変な連中に取り囲まれてて、『サモン・サーヴァント』だの『契約』だのそんなことを言ってたんですけど」
「……! ああ、なるほど、そういえば今日は春の使い魔召喚の儀式の日でした。
ひょっとしたら……召喚、されちゃったのではないでしょうか?」
「召喚? 裁判に呼ばれるようなことをした覚えはないよ」
「はい? 裁判? ああ、そっちの意味の召喚ではなくて、貴族の方々が使い魔を呼び出すことの方の召喚です」
「貴族? 使い魔?」
使い魔召喚魔法『サモン・サーヴァント』は一般的にハルケギニアの幻獣・霊獣を召喚する魔法である。
平民を呼び出すことは、普通ありえない。
しかし、才人の話によると『サモン・サーヴァント』で呼び出されたように、シエスタには考えられた。
才人の格好は、この世界の住人にしては奇抜であるし、目鼻顔立ちも少し変わっている。
シエスタの頭の中で、そのことはすんなり受け入れられた。
ふと、何故か祖父のことを思い出したが、すぐにシエスタの頭の中から消え去っていた。
一方才人は、一人納得しているシエスタを余所に混乱を極めていた。
『貴族』『使い魔』『召喚』
確かに全て知っている単語である。
ゲーム、漫画、映画、小説などで定番とも言えるような単語だらけだ。
貴族、過去欧州辺りの国々ではそう呼ばれるものが存在していた、しかし現代日本に本物の貴族は存在しない。
使い魔、大抵しわくちゃな老婆の膝や肩にいる黒猫かカラスであるが、もちろん現代日本には存在しない。
召喚、ゲームでいうなんだか強い生き物を呼び出すことだ、やっぱり現代日本には存在しない。
目の前にいる娘が電波なのか、それともやっぱりこの世界が自分の脳内世界なのか。
才人は戸惑った。
とりあえず、頬を強くつねってみると、目が覚めるような痛みが走る。
やはり夢ではないし、痛みを感じられる範囲では正気であることが才人には文字通り痛いほどわかった。
「どなたに召喚なされたんです?」
「ん? いや、よくわからないけど……この世界で一番最初に会ったのが……」
ふと、才人はあの人形みたいな子を思いだした。
小さな子どものくせに人のファーストキスを奪った相手だ。
そして、無機質のような輝きを持つ瞳をもった子だ。
「青い髪の毛をした、ちっちゃい子。なんか人形みたいだった」
「……ああ、なるほど」
シエスタは才人の断片的な情報ですぐに才人の言う人の姿か脳裏に浮かんだ。
タバサ。
二つ名は『ゼロのタバサ』
ゼロというのは魔法成功率ゼロから。
トリスティン魔法学院に、普通よりも早く入学した子。
筆記成績は常にトップを取り、なんとか進級できてはいるが、実地成績はゼロ。
しかもタバサというこの世界でも、適当過ぎる名前で、おそらくは偽名。
出身地不明。
極端に無口。
才人のようにまるで本物の人形のような印象を受ける。
いつも本ばかり読んでいる。
最初の頃はからかわれ、いじめを受けかかっていたけれど、何をされても無関心無表情で、いじめっこからも気味悪がれ、それよりずっと孤立。
今では話しかける人は誰もいない。
ずっと行動を見ていると、彼女は本当に生きていることに執着していないかのように思えてくる。
謎多き少女。
それならば、平民を召喚しても、さして不思議ではないな、とシエスタは何故かおかしく感じた。
「あなたのご主人様はタバサ様です。二つ名は『ゼロのタバサ』 名字は……」
ふとシエスタは言葉を詰まらせた。
なんという名字だったのか、覚えていなかったのだ。
使用人たるもの、この生徒の顔と名前は覚えているのはたしなみ。
シエスタもそのたしなみをちゃんと備えているはずなのだが、何故か思い出せない。
その理由がわかった。
思い出せないのではなく、元々名簿には書かれていなかったのだ。
「名字は?」
「……何か理由があるのか私には知らされておりません」
「はあ……でも、ゼロって何?」
「それは私の口からは申せません」
タバサの二つ名の由来は、タバサにとって不名誉なものだ。
本人が気にするかどうかは……おそらくは何も気にしないだろうが、それでもその由来を勝手にしゃべるのはマナー違反である。
シエスタは口をつぐんだ。
「で、俺、帰れるのかな?」
才人の興味はすぐに逸れた。
元より、それほど気になっていることでもないのだ。
それよりも、元の日本に戻れるかどうかの方が才人にとって重要だった。
脳の飽和状態が続いていたために、逆説的ではあるが才人は自分が異世界にいることを理解していた。
一々考えてもどうせ答えは出ないことがわかり、そもそも考えることが多すぎて、思考することがわずらわしくなってきていたのだ。
理由はどうあれ、魔法がある世界は自分の世界ではない、故にここは異世界だ、と結論づけ、それを証明するものは何一つないままにそれを信じていた。
ある意味、突拍子もない仮定を立てておけば、激しい真実にぶち当たっても精神の平静が、何もしなかったときよりも保てるという精神的自衛の意味も含まれていたのだが。
シエスタは才人の質問にやや言葉を詰まらせて答えた。
「あなたのご主人様が許可をしたら帰れるんじゃないんでしょうか?」
「ここは何て国?」
「トリステインです」
才人の聞いたことのない国だった。
それはそうだろう、異世界だもの、と、才人は投げ槍に考えた。
「あなたは……サイトさんはどこの国にいたんですか?」
「日本」
「ニッポン……?」
「ニホンとも言う。日本の東京に住んでた」
「ニホン……」
シエスタは何故か『ニホン』や『ニッポン』という語感に聞き覚えがあった。
しかしそれがどこだったのか、最近ではなく、シエスタが幼いときに聞いたことのある響きだったのだが。
再びシエスタは、脳裏に祖父の顔を思い出す。
もうおぼろげで、細部はぼやけていたが、しわの寄った口がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ニホン、ニホン……」
シエスタは視線を斜めに落とした。
確かにニホン、ニッポンという単語を、祖父が言っていた記憶がある。
単純にニホン、ニッポンではなく前後に他の単語が混じっていたような気がするが、しかし、もはや記憶の彼方にあるもので、中々思い出せない。
「何? 何か言った?」
「い、いえ……別に何も」
「……」
ふと、才人も気になることがあった。
目の前のメイド、青い髪の少女、ハゲのおっさん。
全て日本語で話している。
「って、あんた日本語をしゃべってるじゃないか!」
「ニホンゴ?」
「そうだよ、日本語だよ。普通に発音も正しい日本語をしゃべってるじゃないか」
「いえ、私もサイトさんも標準トリステイン語を喋ってるんですけど……
サモン・サーヴァントのとき、そうやってサイトさんの知らない言語が理解できる能力が身に付いたんじゃないでしょうか」
「え? あ、そう」
通常時であれば才人は納得しなかっただろうが、シエスタにあっさりとためらいもせずそう言われ、納得してしまった。
実際にシエスタの推測はずばり的中していた。
「とりあえず、こちらへ来てください。
あなたがタバサ様の使い魔であるのならば、私達にはあなたを保護する義務があります」
「え? うん、わかった」
才人は他に頼れるものもいなかったので、大人しくシエスタの後を付いていくことにした。