青い空。
どこまでもどこまでも澄んだ青い空に、ところどころ白い雲が浮かんでいる。
そこへぬっと人の顔が現れた。
空の色によくなじむ水色の髪の毛、白い肌、そして何故か赤縁の眼鏡。
平賀才人が見た、異世界=ハルケギニアの最初の光景がそれだった。
「……」
その顔はじっと才人の顔を見据えているだけだった。
才人ももしこのとき「あんた誰?」とでも問いかけられていれば、リアクションのしようがあっただろう。
しかし、その声はいつまで経ってもこなかった。
やがて、才人の目の前に逆さに浮かぶ顔が引っ込んだ。
顔の持ち主は、才人の顔を見るのをやめ、ゆっくりと中年の男性の元へ近寄っていく。
「ミスタ・コルベール」
小さな声で控えめに中年の男性=コルベールの名が呼ばれた。
黒いマントの下に白いブラウス、グレーのプリーツスカートが、体を起こした才人の視界でゆらゆら揺れる。
辺りを見回すと、同じような格好をした人間が遠巻きに取り囲んでいることがわかった。
みな小声で話し、物珍しそうな目で才人を見ている。
年齢は才人とさしてかわらない、少年少女ばかり。
ただ一人違うのは、頭頂に眩い光を反射しているコルベールのみ。
「サモン・サーヴァント、失敗しました」
「失敗ではない、成功だ。ミス・タバサ」
蒼い髪の、ハルケギニアで才人が一番最初に見た人物=タバサは、コルベールの顔に目を向ける。
コルベールの声を聞き、タバサの瞳が一瞬だけ悲しみと絶望の色を見せた。
直ぐにそれは消え、サファイアのような蒼い、しかし、何の感情も浮かばない色に戻る。
コルベールはそれに対して目を逸らし、拳を口元に置いて軽く咳払いをした。
「確かに君は『サモン・サーヴァント』の呪文を唱えた。そしてその結果として彼が現れた。
使い魔としては……まあ、その……一風変わった『種族』が出てきたようだが、
しかし、ちゃんと彼が出てきた。
ということはやはりサモン・サーヴァントは成功しているわけだ。
『春の使い魔召喚の儀式』はトリスティン魔法学院の長い伝統に乗っ取る儀式であるから、
一度成功したにも関わらず、やり直すということはできないのだよ」
コルベールは広い額に汗を少し浮かばせながら、もう一度咳払いをした。
論理性の欠けた、単語の一部を省略した言葉を言っても、タバサには通じない。
長年トリスティン魔法学院に勤めてきたコルベールでも、目の前にいる人形のような少女の相手は苦手だった。
「こ、これでわかっていただけたかな? ミス・タバサ」
タバサは軽く頷いた。
コルベールはほっと息をつく。
タバサは相変わらずの無表情。
感情の発露を一切見せず、コルベールに背を向けてタバサは再び才人に近寄っていった。
「な、なんだよ」
「動かないで」
タバサは座っている才人に詰め寄った。
才人は座ったまま、近寄ってくるタバサから逃げようとするが、それも虚しくタバサに頭を両手で掴まれる。
頭を押さえられてしまったら、中々思うように体が動かせなくなる。
タバサはただ呪文を唱えるためだけの理由で口を動かしていた。
「な、何すんだ……」
才人はようやく現実味のある恐怖を感じていた。
目が覚めたら見知らぬ場所、奇妙な格好をした人、理解できぬ言葉……。
ニュースでその名を聞かない日がないほどの、彼の祖国から近くありながら謎に包まれた国を連想する。
その次に頭に浮かび上がってくる単語は『拉致』
しかし才人は、周りにいる人々が一様に朝鮮系にしてはバタ臭い顔をしており、青い髪、赤い髪、果てはピンク色の髪の人がいることに気付いていない。
「や、やめろ」
一見子どもにしか見えないタバサの顔が迫ってきて、才人はまぶたを閉じた。
極めて無口で何を考えているのか全くわからない相手に、詰め寄られ、才人はますます恐怖の度合いを強めていた。
加えて、才人の理解できぬ、なんだかよくわからない言葉を唱えている相手ならば尚更に。
すっと額に何かが押しつけられる。
これから何をされるのか?
不安が才人の心を掻き立てる。
しかし、顔を寄せてすることなどそう選択肢などない。
額の感触がなくなったと思うと、唇に何か柔らかい感触を受け、タバサの両手から解放された。
「?」
才人が目を開けたときには、すでにタバサは立ち上がっていた。
まるで何もしなかったかのように、タバサは才人など目もくれていない。
人から例外なく間抜けと評されていた才人だが、目をつぶっている間に何をされたかはわかった。
子どもにファーストキスを奪われるなんて……。
男のファーストキスにどれだけの価値があるのかはさておき、才人は無意味な喪失感を味わった。
才人はなんだか無性に腹が立った。
周囲はざわついているが、こちらに声をかけようとするものは誰もいない。
異様な事態に急に陥り、動揺していた才人だが、流石に唇を奪われたことに対しては抗議の意を示そうとした。
が、その前に、才人の体に異変が起こった。
「『コントラクト・サーヴァント』終わりました」
「うむ、『契約』は一回で成功したようだな」
タバサが苦手なコルベールは、少し引きつった笑みを浮かべて答えた。
「平民だから契約できたんだ」「強力な幻獣だったら無理だったね」などという声が周囲から聞こえてくる。
しかし、タバサは相手にしない。
そんな中、才人は一人急に立ち上がった。
「ぐぁ! あ、熱いッ!」
全身を火であぶられているような熱さを感じ、悲鳴を上げる。
才人が身もだえても、周りの人間は特にリアクションを起こさなかった。
コルベールを始め、遠巻きはただ視線を才人に向けただけで、人によっては2秒も経たずに横を向いておしゃべりに講じている。
タバサに至っては、見てすらもいない。
「な、なに、しやがっ……た」
体に異常な熱を感じながら、才人は言った。
「ああ、君、『使い魔のルーン』を刻んでいるだけだよ。
心配しなくてもいい、しばらくすれば治るし、後遺症も残らないから」
「き、刻むな、んなも……ッん」
コルベールの言葉通り、才人の体の異変は収まった。
その途端、全身から力がぬけ、才人はへなへなとその場で膝をつく。
コルベールはその様子を見て、ルーンが刻まれたことを確認し、才人に近寄る。
才人の左手の甲にいつの間にか浮かび上がっていた模様を確認すると、コルベールは小声で「おや」と呟いた。
「珍しいルーンだな……いや、珍しいのはルーンだけではないが」
「なんなんだよ、あんたら!」
才人は怒鳴るが、もはや誰も相手にしない。
取り巻きの中では大あくびをしているものもいる。
「さてと、じゃあみんな教室に戻るぞ」
コルベールがきびすを返すと、そのまま宙に浮いた。
周りの人々もそれにならって、宙に浮く。
才人はあんぐりと口を開け、その様子を見上げる。
あたりはだだっぴろい草原で、クレーン車その他の空中マジックに用いられそうなものは見受けられない。
ワイヤーらしきものなどどこにもなく、空飛ぶ集団はそのまま城のような石造りの建物の方へと行ってしまった。
しばらく才人は惚けていたが、ふと一人だけ二本の足で地面を踏みしめている人物がいることに気が付いた。
「おいっ、お前!」
タバサのみ、自分の足で建物へと進んでいく。
才人は、自分を全く無視しているその存在に声をかけた。
しかし、まるで何も聞こえないかのようにタバサは歩みを止めない。
「ちょっと待てってば!」
才人は近寄って、タバサの小さな肩を掴む。
タバサは振り返り、才人に目を向ける。
タバサの瞳を見た才人は、背筋も凍る思いを味わった。
タバサの瞳は、初めてそれを見る者に、同じ感想を与えるものだ。
世の中全てにしらけきっているような、そんな印象を受ける。
光を反射はすれど、そこには何も映っていない。
生物的な印象は皆無。
まるで目ではなく、青いガラス玉のような、そんな感じ。
才人は思った。
『人形みたい』だ、と。
比喩ではなく、本物の、魂の存在しない、ただの人型の無機物。
それに見えた。
才人は脅えた。
タバサが人形に見えたのならば、今まで動いていたのは何故なのか。
ホラーに関して必ずしも得意ではない才人は、思わずタバサの肩に乗せた手を放した。
タバサはなんのリアクションも起こさずに、才人に背を向け、そのまま建物の方へと歩いていく。
才人は、そんなタバサが完全に視界からいなくなるまで、ほけっとした顔で見つめたまま立ちつくす他、何もできなかった。