昔、友達が野良猫の話をしてくれたことがあった。
どこから来たのか知らないが、ばっちい小さなキジトラの猫だったそうだ。
気まぐれに煮干しをあげたら、それから頻繁に家を訪れるようになり、やがて屋内で餌を食べるようになり、夜になると普通に自分の布団に潜ってきて寝るようになったとか。飼うとも飼わないとも言っていないのに、当たり前のようにそこにいるような素振りだったそうだ。
猫がばら撒いた蚤に刺されて気が狂うほどの痒さを知る羽目になったとか、悪夢に魘されて目が覚めると胸の上で猫が丸くなって寝ていたとか、冬になると炬燵の中で茹ってふらふらと出てきてボテッと倒れるとか、反対に夏になると奴がいるところが一番涼しいとか、掃除機をかけていると血相を変えて逃げだすとか、抱っこすると何故かいつも息が魚臭いとか、自分が風邪をひいて寝ていたら枕元に捕まえた雀を咥えて来て『まあ、これでも食べて元気を出しなさい』みたいな顔をしていたとか、とにかく飽きない毎日だったそうだ。
だが、そんな日々が数年続き、老境に差し掛かった猫がふらりといなくなって2日後に、物陰で静かに、そして穏やかに冷たくなっていたのを見つけたと彼女は語った。
日頃、『あいつは困った奴なんだ』と猫のことを言っていた友人がぽろぽろと零した涙が、今も忘れられない。
火にかかったケトルを見ながら、私は物事の推移について思いを巡らせていた。
茶色い髪の来訪者。
ここにルイズと才人を住まわせた時点で、こんなこともあるかとは思ったことはあったが、いきなりな来訪は、やはり胆が冷える。
アンリエッタ・ド・トリステイン。
できれば接点を持つことなく済めばよかったのだが、物事はそう簡単には行き過ぎてくれないようだ。
この時期の彼女は、アルビオンの人でなしどもに外道な策を仕掛けられて深刻なメイジ不信に陥り、復讐の念が嵩じて視野狭窄を起こしてアルビオン討つべしという戦争特需の利権屋万歳な施策を推し進めていたように思う。
また、ワルドの裏切り問題やヒポグリフ隊の全滅等の魔法衛士隊の崩壊もあり、その結果銃士隊が組織され、アニエスが抜擢されて騎士に任じられたのもこの頃だったはずだ。
アニエスと言えば、最近は多忙なのかタルブからの凱旋のお祝いをして以来すっかりお見限りなのだが、状況の流れからすると、恐らく今頃は銃士隊の統括や、売国奴リッシュモンのあぶり出しに向けた内偵作業で大忙しというところか。さすがに診療院や工房に顔を出す暇などないのだろう。
しかし、そんな一連の出来事の発端となった誘拐事件は私の耳には届いていない。私だけでなく、町内会の網にもかからなかった。問題が問題なだけに、かなり高度な機密になっているのかも知れない。
原作を読んだとき、私としてはあの誘拐事件については少なからずアンリエッタに同情的な感想を持ったものだった。幾ら戦争とは言え乙女の純情につけ込むとは、同じ女として許しがたい所業だ。その罪は山よりも重く海よりも深い。まさに万死に値する重罪だ。
私心を殺すのは為政者としては当然の資質とは言っても、所詮はまだ17歳の小娘、私の前世に当てはめれば高校生だ。前世とこの世界では同じ17歳でも精神の成熟度は比較にならないが、それでもまだまだ経験が足りない年齢だろう。政治の世界において17歳の小娘など海千山千の古狸にかかれば赤ん坊のようなものだ。そんな女の子に対し、老練な王として振る舞えと言うのがそもそも無理な話なのだ。
かのイングランドのヴィクトリア女王の即位も同じような年頃だったと思うが、彼女にも何ちゃら子爵というブレインがいたと記憶している。トリステインではマザリーニがその役を負っているのだと思うが、後ろ盾になるべき彼自体が貴族連中から『鳥の骨』と呼ばれて白い目で見られている状況では、その細い双肩にトリステインという荷物を負わせるのはやはり気の毒だとも思う。
派閥や陰謀の渦巻く伏魔殿で、孤軍奮闘するお姫様。
他人事ながら、同情を禁じ得ない話だ。
しかし、そんな彼女の思惑が我が身に降りかかってくる問題となると話は変わってくる。
復讐に狂い、ルイズすら駒と考えるような精神状態の彼女に会って、私にとって良いことが起こるとは思えない。
このまま互いに何事もなくすれ違えればそれでよし。
そうでなければ、場合によっては彼女を私のささやかな領土を攻めて来た敵と見なさざるを得ない。
もし、この時間軸のアンリエッタがティファニアの事を知っており、虚無の事をも知っていたとしたら最悪だ。大事を前に、そのような重要な存在をアンリエッタが放置しておくとは思えない。
テファを徴兵してアルビオンに送り込むなど、考えただけで総毛立つ思いだ。
もし、そのような意図でテファに手を出して来るような事があったら、私は躊躇わないだろう。私の目の黒いうちは、大事な妹には指一本触れさせるつもりはない。
何もトリステイン全軍を相手に屍山血河を築かなくても、テファを守る事はできる。
伝説の虚無が具現化したことが機密であること、そして女王自らが雲隠れした今の状況は、私に利する。
必要があれば、アンリエッタにはこの場の足取りを最後に永遠に行方不明になってもらうことすら選択肢のひとつだ。ここには避難用の地下道もあるし、何より私は水のメイジだ。死体の始末など幾らでも方法は思いつく。
そんな感じに完全犯罪の絵図面を思い描く私だが、冷静にこういうことを考える自分に対する嫌悪の念がない訳ではない。
人を救う職にありながら、時には躊躇なく人を殺める矛盾した存在。偽善者と言う呼称が、私ほど似合う奴もいないだろう。
だが、私にも譲れないもの、そして、自分の命より大事なものがあるのだ。
最善を祈りつつ、最悪に備える。
後は、あちらの出方次第だ。
願わくば、アンリエッタが何事もなく退出してくれますように。
そんなことを考えているとお湯が沸いたので、お茶を2人分用意して才人の部屋に運ぶ。
伺いを立てようとしていたら才人が部屋から出てきた。
「ちょうどよかった。お茶が入ったから持ってきたよ」
「ああ、ありがとう」
茶道具が載ったお盆を渡そうとしたら、才人は受け取ろうとせず言った。
「悪い。あの子、アンって言うんだけど、ちょっとあの子の相手をお願いできるかな。お礼が言いたいって言っているんだ」
あまりに唐突な言葉に、私は絶句した。
願っていた『最善』の二文字が、背後でガラガラと崩れていく音が聞こえるようだ。
「…お前さんは?」
「ちょっと見回りに行って来る」
その言葉で何となく察しがついた。これは才人の思い付きではないだろう。才人の人の好さにつけ込んで、アンアンが体よく人払いをしたに相違あるまい。
事態は転げ落ちるように最悪への坂を下っていく。
「そ、外は何だか物々しいよ?」
私を一人にするなと心の中で叫ぶが、鈍チンの才人にそんなテレパシーが届く訳はない。
「大丈夫だよ。一回りして、すぐに戻ってくる」
「…気を付けなよ」
薄情にも出て行ってしまった才人を見送り、私は部屋の前で立ちつくしていた。
さて、どういう顔をすればいいのやら。
しらばっくれて才人の帰りを待とうとも思ったが、何しろ相手は次にどんな事をしてくるか判らない人物だ。経過観察は得策ではないように思う。
あれこれ考えてはみるのだが、策を弄そうにも相手の手持ちの情報や出方が判らないので、まずは普通の平民として接する以外思い浮かばない。ここは腹をくくって、出たとこ任せで行くしかないだろう。
ドアの前に立ち、気合を入れる。
しかし、丹田に力を込めようにも脳裏をよぎる暗い未来の予感に、氷の坂を滑りながら登るような脱力感が付きまとう。
負けじと瞑目し、二度三度と深呼吸して力を貯める。
何だか、『あんパン』とでも叫んで自分を奮い立たせないと足が前に出ない感じだ。
そのまま2分ほど費やして、意を決してドアを叩いた。
『どうぞ』の声にドアを開けて部屋に入ると、アンリエッタは椅子に座って私を迎えた。
ルイズの服を着こんで薄く化粧をしている。はち切れそうな胸元が、何だかえっちだ。
初めて会う女王様。
さすがは親戚、目鼻立ちが私によく似ている。
アンリエッタの時間を7年ほど戻し、ちょっとだけ目を切れ長にすると私になる感じだ。
逆に、もし私の時間が正常に流れていたのなら、多分目の前の女性の時計を3年ほど進めたような容姿になっていたのだろうか。
しかし、姿は似ていても、立場は天と地ほども違う私たち。
いい加減に伸ばし放題の私の髪と、綺麗に手入れされたアンリエッタの髪。
その髪が、私たちの立ち位置を浮き彫りにしているような気がする。
「粗茶で済まないが、お茶を入れたよ。よければどうぞ」
「ありがとうございます」
私がカップを勧めると、アンリエッタは優雅な手つきでそれを受け取った。
毒も気にせずいきなり口を付けたのにはちょっと驚いた。ここは、もうちょっと警戒するべきじゃないだろうか。
一口飲んだ後で、目を丸くしたアンリエッタ。
「美味しい」
「口に合うようで良かったよ」
一応、ゴールデンルールというものに則って淹れた茶だ。アルビオン時代、ティーセレモニーのためと言って、茶の作法については結構うるさく叩き込まれたものだった。雀百まで踊り忘れず。特に意識して淹れているわけではないのに、教育と言うのは恐ろしいものだ。
もっとも、茶葉だけは手持ちの中では一番いい奴を奮発した。がぶ飲み用のハーブティーではなく、紅茶だ。
代金は才人の給料からさっ引く、と言いたいところだが、恐らくさっ引いたら彼奴の給料は無くなってしまうだろう。
「いきなり押し掛けた上に、このようなお茶まで御馳走になるとは。心より礼を申します」
何だか鼻につくほど馬鹿丁寧な物言いが引っかかった。平民のふりをするのなら、話し方も平民風にしなければいけないところだろうに。
「いいんだよ。あの馬鹿の無鉄砲は今に始まった事じゃないし、気にしないでおくれ」
「あなたは、彼と親しいのですか?」
「成り行きでね。家族がやってる工房で、臨時雇いに雇っているんだよ」
「そうですか」
ぞんざいな私の物言いに合わせようともせず、アンリエッタの態度はどこまでも王族のそれだ。
「あいつもすぐに戻るだろう。むさいところだけど、ゆっくりしておくれ」
挨拶に関しては義理はもう果たしただろう。それだけ告げて早々に部屋を立ち去ろうとした時だった。
「少し、お話をしませんか?」
嫌な汗が背筋を伝う。
どうしたものかと悩んだが、静かに私を見つめるアンリエッタの視線がトラクタービームのように私の手足に絡みついて来る。視姦という訳でもないのに、それだけでうなじの辺りに鳥肌が立った。
それは、引きちぎろうと思えば簡単に引きちぎれるのに、精神がそれを拒絶するという何とも厄介な引力だった。才人がオルニエールの城の地下で味わった防御不能の吸引力の正体はこれなのかも知れない。今なら判る。あれは才人の浮気ではなく、アンリエッタによる精神的な強要だったのだ。きっとこいつの祖先はブリミルではなく、シスの暗黒卿あたりに違いない。
そんな訳で逃げるに逃げられず、観念してアンリエッタの対面に座る。
私の着席を確認して、アンリエッタはカップを手にしたまま柔らかい視線を部屋に向けた。
「ここは…とても雰囲気のよい診療所ですね」
「そうかい?」
「ええ。空気が、すごく優しく感じます」
アンリエッタが優しい声音で言う。玄関からこの部屋に入るまで、何やらあれこれ眺めていたのは気づいていたが、そんなことを考えていたとは気付かなかった。
「ああ、植物が多いからだろうね」
私が密かに憧れているミセストロロープの御屋敷ほどではないが、我が家も鉢植えやプランターなど結構植物が多い。やはり草木が近くにあると心が和む。
アンリエッタも水のメイジ、草木が発する気配との相性が良いのかも知れない。
それらに優しい視線を向けて、アンリエッタは言った。
「私はこの辺りのことは疎いのですが…暮らし向きや、街の様子はいかがですか?」
「まあ、口に糊していくくらいは何とかね。街の方は最近、少し騒がしいかな。大規模な遠征軍の噂が聞こえているから、戦争景気を当て込んだ連中がだいぶ流れ込んでいてね。でも、賑やかになっても景気の方は増税が効いて結構厳しいね」
「そうですか…」
静かにアンリエッタはカップに口を付ける。
何だか背中のあたりがむずむずするような感じがする。
腹の底を探り合うような雰囲気なようで、それでいて穏やかな陽だまりのような、おかしな時間だ。
しかし、ここは既に戦場。
そんな時間をいきなりぶった切るような言葉の大鉈を、アンリエッタが振り下ろした。
「穏やかに暮らされているのですね、殿下」
いきなり奥座敷に乗り込むような斬り込みに、正直面食らった。それでもポーカーフェイスを保てたところは我ながら上出来だと思う。
「誰と間違えているのか知らないけど、私は殿下なんて呼ばれる身分じゃないよ。お前さんがアンと名乗るようにね」
さて、ここが最後の分かれ道だ。アンリエッタがどう出るか。出方によっては、自分の運命の秤を危険な方に傾けることになると言うことに気付いてくれればいいのだが。
しかし、そんな私のささやかな願いは、あっさりと打ち消されてしまった。
「これは失礼しました」
アンリエッタは椅子に座り直し、威厳のこもった声で告げた。
「私はアンリエッタ・ド・トリステイン。トリステイン王国の、国王です」
私は内心で舌打ちした。
お互い、会わなかったことにしようという私のメッセージはアンリエッタには伝わらなかったようだ。あるいは、それを踏まえたうえで私とコンタクトを取ろうと言うのだろうか。私の中のDefconが3から2にシフトする。
ばれているのなら仕方がない。名乗られたからにはこちらも応じない訳にはいかないだろう。
カップをソーサーに戻し、もう名乗る機会もないと思っていた名を名乗る。
「元、アルビオン王国モード大公が嫡女、ヴィクトリア・オブ・モードです。今は単なる町医者のヴィクトリアですが」
私の名乗りに満足したようにアンリエッタは笑う。
「はじめまして、というのも変な感じですね。従姉妹だというのに。一度お会いしたいと思っておりましたが、ようやく叶いました」
私の気も知らずにお気楽っぽく言うアンリエッタ。私はできれば会いたくなどなかったのだが。
「私の女官が、お世話になっているそうですね」
「ええ。こんなあばら家で恐縮ですが、いろいろ手伝っていただいております」
「ルイズは、あれで楽しんでいるようですよ。毎日いろいろ発見があると楽しそうに申して来ております」
他愛もない世間話から始まる会話だが、互いに隙を窺うような息苦しさが漂っている。
矢合わせはこれくらいでいいだろうと思い、私の方から一歩踏み込んだ。
「それにしても、よく私のような平民に身を落とした王族崩れのことをご存知でしたね」
「殿下がトリステインに逃れてきて程なく、アルビオンから母宛に書状で知らせがあったそうです。私が知ったのは昨年のことでしたが」
「ほう」
アルビオンからの書状というのは少々意外ではあったが、そのような紙が届きながら、私を捨て置いたこの国の首脳部の考えが今一つよく判らない。場合によっては国際問題にもなりかねないだろうに、まだ何か裏があるのだろうか。
それとなく思考の海に沈みかけた私に、アンリエッタがフォローを入れてくる。
「心配は要りません。城で、貴方の事を知っている者は、母と私と一部の者だけです。王都の平民のために走り回っている『慈愛』という治療師の噂は知っていても、それがアルビオンのヴィクトリア姫殿下と知る者はいないでしょう」
少々聞きたくない言葉があったのはさておき、思ったより私のトリステイン非公式滞在を知る者が少ないことは意外だった。しかし、考えてみれば多くの貴族の頭からはモード公家の没落を機に私の存在はオミットされていたことだろうからそう不思議なことではない。
アルビオン国内だったらともかく、トリステインにおいてサウスゴータの騒動の後に行方不明扱いであるはずの私の行き先を追いかけている奴は、よほど上の連中か、あるいは政治目的のろくでもない色眼鏡で私を見る悪党くらいなものだろう。
そもそも下級の貴族ならいざ知らず、公女が平民に身を落とすなどということは、よほどの事がない限りあり得ないというのがこの世界の常識だ。私を生んだ女がいい例で、家が潰えたとしたら、縁戚を頼ったり、どこぞの貴族の愛人になったり、あるいは娘を売ってでも貴族の世界に残る努力をするのが普通だ。それくらい、この世界の貴族と言う身分にはしがみ付きたくなるだけの特権と魅力がある。むしろ、それに何の価値も見出していない私の思考の方が異常なのだ。
恐らくは、知っている範囲はマリアンヌとアンリエッタ、及びその取り巻きであるマザリーニから大臣級、あとは政治的に重要なポストにいる諸侯くらいまでだろうか。
そんな私の心中を知らずか、アンリエッタが続ける。
「平民の生活水準と福利厚生の向上は我が国にとっては重要な政策課題ですが、その先鞭をつけているあなたの功績は小さいものではありません。叶うことであれば、福祉に関する顧問か相談役として城に招聘したいくらいです」
絹物の裏にちらちらと鎧が見えるような語り口だった。私がアルビオン時代に最も嫌だった類の会話だ。トリステインでは平民が公職に就くことはできないことは誰でも知っている。過分な評価は恐縮だが、私としては迷惑この上ない話だ。
「申し訳ありませんが、今の私は市井の一平民です。改めて貴族の末席にお加えいただくにも、出自の問題を看過していただけるとは思えませんし、何より、今の生活が性に合っております」
「安心して下さい。私は優秀な者であれば例え平民であっても取り立てる方針ですが、あなたを役人として城に招くことはありません。残念ですけど」
あまりにあっさり引き下がったので、私としては肩透かしな気分だった。しかし、怪訝な面持ちの私に対してアンリエッタの口から飛び出してきたのは、意外な言葉だった。
「何より、亡きアルビオン国王、ジェームズ1世陛下からも、あなたが政に関わることなく穏やかに暮らせるよう取りはからって欲しい、との親書をいただいています」
彼女の言葉を理解するまでに、10秒ほどかかった。
「…陛下が?」
「ええ。愛されておいでだったのですね。羨ましくなるほどです。私にとっても陛下は伯父。そこまでされては、トリステインとしても貴方に手出しはできません」
アンリエッタの言葉を理解した時、補修したばかりの目元の堤防が怪しくなった。
そうだったね。伯父上も悪戯がお好きな方だったっけね。
知らなかったよ、そんなこと。
本当に意地悪な方だ。そんなことしてもらったって、平民の私に判る訳ないじゃないか。
もう『ありがとう』も言えない所に行ってしまったのに、後からこんなこと知らされても、私にできることなど後悔することくらいしかないと言うのに。
しかしこの時、アンリエッタの表情の変化に気づけなかったのは我ながら抜けていたと思う。
お姫様から政治家への、一瞬の転換。
今の私とアンリエッタの関係は、狩る者と狩られる者のそれだ。彼女という敵を前に、まだ癒えていない伯父上への感情に囚われるあたりはまだまだ私も未熟。そんな私の心の隙を、アンリエッタは見逃してくれなかった。
大きく踏み込まれ、骨にまで届く一撃のような言葉を、アンリエッタが振り下ろしてきた。
「殿下…ジェームズ1世陛下の、仇を討つおつもりはありませんか?」
その言葉が持つ打撃力に私の顔色が変わった事に、アンリエッタは気づいただろう。
「仇討ち…ですか」
伯父上の仇討ち。実を言えば、全く考えなかったわけではない。
「ええ。あなたには、その資格があると思います。あなたが望むのならば、それなりの地位を用意しましょう。アルビオン亡命軍総司令官の椅子が空いています」
鋭いアンリエッタの眼光に、私は背中に汗をかいた。
私の先入観もあるのかも知れないが、それは共犯者を求めるような眼に思えた。
ただ一人、知恵を振り絞って老獪な貴族連中相手に王宮で奮闘する女王として、腹心になり得る者に飴玉をちらつかせて引き込もうというメフィストフェレスのような艶と毒を含んだ眼だった。
その眼光のベクトルを受け流しながら思う。
確かに、担ぐとしたら私は血筋としては問題はない。諸侯や外国に対してもアピールするには充分なものがあると思う。
しかし、私の過去を知るアルビオン将兵がそれを認めるかは別の問題だろう。ハイランドの凶状持ちのことを、皆が皆都合よく忘れてくれているとは思えない。
何より、仇討ちをするくらいなら、人の都合など考慮せずにとっくの昔にアルビオンに押し掛けている。
自分勝手の謗りを受けようと、忘恩の徒と罵詈雑言を浴びようと、私は今の生活が大切だ。他人から見ればごくありふれた、当り前な暮らしなのかも知れない。しかし、そんな当り前なものが、決して当り前なものではない事を私は知っている。
ここは、決して安くない代償を払って守ってきた、私の心の寄る辺たる空間だ。
血を吐く思いで、伯父上を見捨ててでも守ったかけがえのないその空間を、望まずして得た血筋故のしがらみ等のために手ばなすことなど受け入れられるものではない。
乾きかけた口を開き、こちらも単刀直入に告げる。
「せっかくのお話ですが、辞退させていただきます。私は、もう政治には携わらぬと決めております故。何より、私は咎人です。国を追われた身である私を旗頭に据えても、アルビオンの精兵を束ねる事はできないでしょう」
できるだけ冷静に切り返すが、イニシアチブは常にアンリエッタが握っている。
勢いそのままに、返す言葉を叩きつけてきた。
「ならばこそ、王家と祖国の危機に起つことで汚名を雪げるのではありませんか? ジェームズ1世陛下だけではありません。同じ内容の新書は、ウェールズ皇太子殿下からもいただいています。王族二人からの庇護を受けながら、このまま事態を看過されるおつもりでしょうか」
アンリエッタの切ったカードのあまりに意外な名前に、私は絶句した。
ウェールズ殿下が何故?
それほどの縁が、彼と私の間にあっただろうか。
「他ならぬウェールズ様の御厚情を、軽く見ることは私としては見過ごせません」
アンリエッタから、重々しい圧力が伝わってくる。
決断を迫る目をしていた。
正直、原作ではお花畑の住人のように描かれていたアンリエッタが、これほどまでに押しが強い人物だとは思わなかった。なるほど、王権会議でアブレヒトを閉口させるだけのポテンシャルはあると思う。
ウェールズ殿下がどういうつもりだったのかは知らないが、彼至上主義のアンリエッタにしてみれば、彼をないがしろにした時点で私は彼女にとっての敵として認定されるだろう。
しかし、身に覚えのない厚情を盾に参陣を迫られても、私の言えることは一つしかないのだ。
「申し訳ありませんが、やはり私は、戦場に出向くつもりはありません。恩義は重々感じておりますが、私はもう、貴族であることに疲れてしまったのです」
私の言葉を、アンリエッタは無表情に聞いていた。
その手には杖。
次の瞬間にも、彼女の口が誅伐のルーンを紡ぐかもしれない。
自然と、私も自分の懐の杖を意識する。
Defcon1。
アンリエッタが最初のルーンを口にすると同時に、後の先を取る。
今の私の瞳は、テファが嫌がる無機質なそれに変わっていることだろう。
一触即発と言う危うげな空気が、私たちの間に漂う。
時間して1分。実際にはもっと短かったかもしれない。
ふと、アンリエッタが目から力を抜いた。
「そうですね…確かに、お二人ともあなたが戦場に出向くことを快くは思わないでしょう」
残心を取りつつも、私は静かに息を吐いた。
できれば、穏やかな記憶だけが詰まっているこの家で、人を殺すことはしたくなかった。
アンリエッタから折れてくれた事は、望みうる最高の展開だ。
そんな私の心中を知ってか知らずか、アンリエッタは静かに告げた。
「一つ、大切なことをお話しましょう」
そう言って彼女の唇から洩れた言葉は、今日一番の衝撃をもって私を打った。
「ウェールズ様は、生きておいでです」
しばし、呼吸すら忘れた。
ウェールズ殿下が生きている。
それは、私が知らない物語が、私が知らないところで動き出しているということだ。
原作では礼拝堂でワルドの刃に倒れた貴公子が生きている。
ニューカッスルの蹂躙からアルビオン撤退戦に様相を変えた時間の流れが、彼の命を救ったのかも知れない。
私が起こしたささやかな蝶の羽ばたきが、僅かながらも正史に影響を与えているのだろうか。
私の中で、微かな灯火が生まれた。それは私が知る予定調和からの逸脱という恐怖と、まだ見ぬ未来への希望が混ざった不思議な色をした小さな炎だ。
しかし、ウェールズ殿下が生きているとなると、一つ合点がいかない部分が出てくる。今ここにアンリエッタがいる事が、私が知る事の流れとの矛盾をはらむように思われたのだ。
ウェールズ殿下が生きているとしたら、アンリエッタがこうして行方不明を演出していることと整合が取れない。アルビオン遠征という悲劇の全て発端は、アンリエッタを襲ったウェールズ殿下の暗殺から繋がる忌わしい誘拐事件だったはずだ。
かまかけのようで気が引けたが、私はひとつだけ問うた。
「先日、王都でウェールズ殿下を見かけたという噂を聞きましたが?」
確かキュルケがトリスタニアに向かうウェールズ殿下のゾンビを目撃していたはずだ。噂に上る可能性は低くはないはず。
それに対し、アンリエッタは苦いものを吐き出すような顔で答えた。
「それは恐らく私を陥れるために送られてきた偽物のことでしょう。良くできたガーゴイルでしたが、既に討ち果たしております。ウェールズ様の所在は伝え聞いていましたからすぐに偽物だと見破れましたが…よくもあそこまでひどい事を思いつくものだと泣きました」
なるほど。城から誘拐されたかどうかまでは判らないが、似たような陰謀は手段を変えた形で実行されたようだ。
しかし、私の意識は本筋とは異なる一つのキーワードに吸い寄せられた。
ガーゴイル。
アンリエッタを陥れようというのだから、さぞ精巧なものだったことだろう。あるいは『スキルニル』という奴だったのかも知れない。
それを考えた時、私の中で黒い感情が鎌首をもたげ始めた。
レコン・キスタにおいて、そのような魔法人形を意のままに操る存在を、私は一人しか知らない。
すなわち、神の頭脳ミョズニトニルン。
思わず口元が緩みそうになった。
お前だとしたら嬉しいよ、シェフィールド。
叶うことなら私の姉妹に手を出した報いがどれだけ高く付くかを、骨の髄まで思い知らせた上で殺してやりたかった女だ。
どうやってディルムッドの一撃から生き延びたのかは知らないが、私がこの手で一寸刻みにしてやれる機会が、まだあるということだ。
復讐の甘美な妄想はさておき、私の中の冷静な部分が警鐘を鳴らし始めた。
悲しいことに、私はウェールズ殿下の生存を手放しでは喜べなかった。
アンリエッタの物言いから察するに、彼はトリステインにはいない。恐らくはアルビオンで、地下に潜っているのだろう。何しろ、王子のくせに下手な変装ながら空賊を演じていたくらい芸達者な御仁だ。何をしているか見当もつかない。
彼が生きているとなれば、アルビオン侵攻に対するアンリエッタのモチベーションは恐らくこれ以上ないくらい高まっているだろう。現に、アンリエッタの眼には、確固たる決意と使命感の輝きが灯っている。
「殿下は、アルビオンに?」
私の問いに、アンリエッタは頷いた。
「やはり…戦になるのですか?」
「なるも何も、我が国は戦の真っ最中です」
「外野の身で恐縮ですが、アルビオン遠征は、あまり上策とは思えません。あの浮遊大陸を攻めた貴国の先達が、どのような目に遭ったかはご存知でしょう」
実際、アルビオンは正に天然の要害だ。ハルケギニアの歴史を見れば、まるでロシアを攻めたヨーロッパの英傑達のように攻めた回数分だけの敗戦が歴史には刻まれている。攻者三倍の法則くらいは私でも知っているが、それに照らしても今回は兵力も充分ではない。『虚無』を頼りに攻め上るのとしたらあまりにも拙攻に過ぎると思う。
「ええ。それは承知の上。ですが、そのアルビオンでは、アルビオン王国の王権継承者たるウェールズ様が今も戦っておいでなのです。始祖の子として、同盟国として、我が国は一日も早く彼を助ける義務があるのです」
アンリエッタの言葉を聞きながら、妙に振動を感じて気づいた。
私の手が、小刻みに震えていた。
アンリエッタが言うことは道理だと思う。
しかし、トリステインのアルビオン侵攻作戦はトリステインにとっても大博打。しくじれば、間違いなく国が滅ぶ。まるでどこぞの星の世界の英雄伝説にある同盟軍による帝国領侵攻のようなものだ。
かと言って、ヴァリエール公爵の言うように、アルビオンを干殺すべく包囲を敷くやり方にも難がある。いかんせん、敵はあのレコン・キスタだ。平然とサウスゴータの食料を取り上げる手法を見るに、国民を飢えさせることも躊躇わないと思われる。飢えた市民の怒りは、恐らく封鎖をかけるトリステインにもその矛先を向けるだろう。食べ物の恨みは恐ろしい。場合によっては、将来に向かいアルビオン国民の対トリステイン感情が悪化する懸念もあるだろう。国益の観点からすれば良手とは言い切れない選択だと私は思う。
どちらも一長一短。急戦と長期戦のどちらが国益や戦費の面などで最終的に効率がいいのかは私には判らない。それを評するのは、最終的には後世の歴史家なのだろう。
それでも、私としてはアルビオン遠征は回避することが望ましかった。
そこで起こることを知っているからこそ、発生して欲しくない原作イベントだ。
大艦隊の整備。
切り札としての『虚無』の投入。
アンドバリの指輪を使った神聖アルビオンの反撃と連合軍の敗走。
そして、単騎で7万に挑む一人の英雄。
確かに、為政者としてはどちらを取っても問題山積ならば、大義名分が立つ方が選びやすいのは確かだ。ましてや、ウェールズのためという目的のためならば、アンリエッタは悩まないだろう。
だが、全面的な戦闘となれば、当然のように尋常ではない数の人が死ぬ。
戦力という数字の話ではない。
それは、人間の話なのだ。
ただの個々の人の死という事象ではない。そんなに簡単なものではない。
死とは、誰かに繋がる誰かがいなくなってしまうことなのだ。
何人も、何十人も、何百人も。
どれほどの涙が落ちることになるのか、私には見当もつかない。
そして、そのうちの一人は、私にも繋がる人物なのだ。
そんなことを考えている私に、アンリエッタは静かに言った。
「状況は難しい局面を迎えております。不本意ではありますが、神聖アルビオンの打倒が成った時、ウェールズ様の身にもしものことがあった場合には、残念ですがあなたの安寧よりも大切なものがあることを御理解いただかなければなりません。神聖アルビオンがウェールズ様を狩り立てるのが先か、我々がウェールズ様を御救いするのが先か。あなたの運命もまた、その盤上に乗っているものと思って下さい」
「私を王に据えることもあると?」
「あなたにとっては望むものではないでしょうが、そうなる可能性もあるとだけは覚悟しておいて下さい」
「…そうならぬことを、祈るのみです」
「ええ。ですが、私としても、あなたをそうそう王座に座らせるつもりはありません」
沈黙する私に、アンリエッタは強い意志を込めて告げた。
「ウェールズ様は、必ずお助けします。そうなれば、あなたを王に据えなくても万事うまくいきますから」
確かに、王になぞ、なりたくはない。
この王都の片隅で、ただ穏やかに過ごせていければそのほうがよほど幸せだ。
ならば、アンリエッタの今の言葉は、多少なりとも今の私の重くなった心を軽くしてくれるものなはずなのだが、泉のように湧き出す不安と嫌悪感は収まらなかった。
今、私の気持ちに鎖をかけて闇の底に沈めようとしているものは、今の生活に執着している私の願いだけではないということなのだろう。
何とも言えない、黒いモヤモヤした物が私の中に渦巻いていた。
そんなことを思った時、玄関のドアが開いた。
足音は才人だ。玄関から軽い足取りでそのまま部屋に戻ってくる。
きちんとノックして入って来た才人を見て、私の中の小さな歯車が音を立てて回り始めた。
「すごい兵隊でした…じゃなくて、すごい兵隊だったよ」
アンリエッタに話しかけるのに、どうしても敬語を使ってしまうあたりはこの男の正直者たる所以だ。
その言葉を受けて、アンリエッタは立ち上がった。
「では、そろそろ出発しましょう。いつまでもこの辺りにはいられません」
「どこに行くんですか?」
「街を出る訳ではありません。安心なさって下さい」
「は、はい…」
才人がアンリエッタと私を交互に見ながら頷く。そんな才人を気にした風もなく、アンリエッタは私に微笑んだ。
「では、院長先生、お邪魔しました」
「大したお構いもできず」
「いえ、大変有意義なひと時でしたわ」
そう言ってドアに向かうアンリエッタを、才人はまじまじと見つめた。
「何か?」
小首を傾げて問うアンリエッタに才人は赤くなった。
「いや…何だか、アンとヴィクトリアってちょっと似てるな、って。何だか姉妹みたいな感じがして」
その言葉にアンリエッタが目を丸くする。似ていると思ったのは私の主観だけではなかったようだ。
「おや、こんな美人さんと似ているとは光栄だね」
「それはこちらも同様ですわ」
そのままアンリエッタたちを玄関まで見送り、才人のエスコートで診療院を出ていくアンリエッタが最後に振り返った。
「では、いずれ、また」
「お気をつけて」
聖女の柔らかい微笑みを残し、ドアが閉まった。
二人を見送った後、私はどうしようもない疲労感を感じて、そのまま待合室の椅子に腰を下ろした。
帰ってきた才人の顔を見た時、すべてに得心がいった。
なるほど、私が感じた感覚の正体は、これだったのか。
医者と患者の関係というものは、『点』の関係だというのが私の持論だ。
『点』の関係とは、すなわち他人。
その『点』のレベルの付き合いとして多くの帰還兵の慟哭に触れてきた私だが、アルビオン遠征が現実のものとなった時、物事が『点』の話ではなくなることに気づいてしまったのだ。
平賀才人。
異世界から召喚された、伝説の使い魔。
平民である私などとは違う世界で、伝説の階段を駆け上っていくはずの少年。
しかし、そんな彼との距離感において、痛恨ともいうべき失策を犯していたことに私はこの時ようやく思い至ったのだ。
最初はティファニアの安全を守るための駒として、彼を鍛えようと思った。
中央広場でルイズと一緒のしょぼくれていたところに声をかけたのも、今思えば気まぐれのようなものだった。
そして、皆で過ごしてきたひと夏の時間。
奇妙な家主と居候の関係。
そんな時間の積み重ねの中で、知らぬ間に、彼は私たちにとって他人ではなくなっていたのだ。
マチルダにとっては気ままに訪れる困ったアルバイターであり、ディルムッドにとっては手塩にかけている弟子であり、ティファニアにとっては大切な友人だ。私にとってもまた、世話の焼ける弟のようなものだ。
同じ食卓で、同じご飯を食べ、毎日馬鹿をやって、皆で笑い合って。
そんな風に、すでに私は彼とは『点』ではなく、『面』の付き合いをしてしまっていた。
誰もが心に持つ一本の線。その外側は他人で、内側は身内。
才人はその線の内側の住人になっていたことに私は気づいてしまった。
その彼の運命に、多大なる影響を与えるのがこの戦いに他ならない。
7万に挑んだトリステインの英雄。
その退却戦の中で、彼は壮絶な討ち死にをし、ウエストウッドの奇跡を持って復活を遂げる。
その奇跡において、大切な役割を果たすパズルのピースがこの時間軸では失われてしまっている事を私は知っている。
他ならぬ、私の浅慮が原因でだ。
腹の奥から、どす黒い、気持ちが悪い何かが込み上げてくる感覚を覚える。
アンリエッタの方針は、恐らく絶対に変わるまい。いかなる障害を除けてでも、ウェールズ救出のために兵を起こすだろう。
その結果として、才人が死ぬ。
あの陽気でスケベな愛すべきお馬鹿な私の弟分が、異郷の地で、想い人を守って死ぬのだ。
それは、予想もしないほど強い衝撃をもたらすものだった。
何ということだろう。
さして知らぬ仲であれば、私は彼を見捨てる事すらしただろう。
だが、もうそれはできそうもない。
知らぬ間に、あの黒髪の猫は、私の心の家の中に住み着いてしまっていたのだ。
困ったことに。
「ただいま~」
しばらく椅子にもたれて瞑目していると、程なく私が愛した笑顔が帰ってきた。
同じように楽しそうな、公爵家の御令嬢も一緒だ。
もはや敬称も付けずに名前呼び合う二人は、それぞれ手に今日の釣果を抱えていた。
「おや、お帰り。早かったね」
「街中兵隊だらけなのよ。興がさめちゃったわ。何があったのかしらね」
不機嫌そうにルイズは口をとがらせる。
「まあ、こういう日は大人しくしとき。居間で待っておいで。今、お茶を淹れるよ」
「あ、姉さん、私がやるわ」
「いいんだよ。帰って来たばっかりなんだから、たまには私の腕前も披露させておくれな」
強引にテファを居間に押し戻し、本日2度目の茶を点て始めた。
背後からは、テファとルイズの楽しそうな声が聞こえる。
その声を聞きながら私は思う。立ち位置が変化したのは、才人だけではなかった。
ピンクの髪を持つもう一匹の猫もまた、いつの間にか線の内側に住んでいるようだ。
ふと、天井を見上げ、そこからゆっくりとまわりを見回す。
思い出が染み込んだ調度が並ぶキッチン。
皆で作った、ささやかな私たちの砦。
トリスタニア診療院。
そこにはディルムッドがいて、マチルダがいて、ティファニアがいて。そして、たまに才人やルイズもいて。
笑って、泣いて、時にはちょっとだけ喧嘩して。
嬉しかった。
楽しかった。
そして、幸せだった。
そんな他愛もない日々さえあれば、他に何もいらなかった。
同時に、判ってもいた。
そんな幸せも、決して永遠に続くものではないということを。
テファが指輪を使ったこと知って以来、どこかで歴史が変わるという淡い期待で自分をごまかしていたということを。
そうして目を閉じ、耳を塞ぎ、気づかないふりをしていた現実が、いつか私に追いついて来ると言うことを。
そして今日、訪れた、小さな綻び。
突きつけられたのは、明確な残り時間だ。
三か月後のウィンの月に、運命の大舞台が始まる。
あとどれくらい、今までのように過ごせるのだろう。
延々と沈みそうになる私を、ケトルの音が現実に引き戻した。
湯気を見ながら、私は両の頬を両手で強く叩いた。
今だけは、頭を切り替えよう。脳内会議は夜になってからにしよう。
今は、気の置けない人たちと共に楽しむ、穏やかなお茶の時間だ。
沸いたお湯をカップとポットに注いで温め、先ほどアンリエッタに出したとっておきの茶葉を用意する。
スプーンを手に、葉を取りながら心の中で祈る。
あの子たちのために一杯。
自分のために一杯。
そして、ポットのために一杯。
湯を注いでゆっくりと蒸らし、それぞれのカップに注ぎ分ける。
最後に落ちる一滴、幸せのゴールデンドロップが誰のカップに入るのかを考えながら、ほのかに香り始めた紅茶の香りに、私はしばし酔った。
翌日、チクトンネ街の排水溝から這い上がってきた傷だらけのアニエスをルイズと一緒に助けに行くのはまた別のお話。