―売られていくよ―
一般的な乗合馬車の乗り心地と言うのは、お世辞にも良くないもの。
私の肉が薄いお尻では、30分も乗れば痛くてたまらなくなってしまうくらいだ。
マチルダのアドバイスに従ってクッションを持ってきて正解だった。日本の舗装道路のありがたみを思い出す道行だ。
朝一番の馬車を捕まえ、見上げれば清々しいほどの青空の下をゴトゴトと揺られていく。
何だか、荷馬車に揺られる昼下がりの子牛になった気分がしないでもない。
朗らかな朝が一転してお通夜のような雰囲気になり果てる呪いの歌をドナドナと口ずさみながら、私は事の発端となった先日の出来事を思い出していた。
穏やかな午後だった。
陽気が暖かくなってきたため、風邪ひきも減り、往診もない一日。
「うむ、だいぶ慣れてきたね」
「そう?」
手を動かしながら、ティファニアは嬉しそうに微笑む。
彼女が持っているのは鋏のような形をした器具。正式な名称は持針器という。
それを手に、チクチクと革の端切れを縫合針で縫う練習を繰り返している。
『私もできる範囲で治療の方法を覚えたい』
先日のトラブルの後で、ティファニアが言いだしたのがきっかけだった。
私がいない時、診療院の機能が麻痺したことに思うところがあったらしい。
ティファニアは魔法が使えない。
厳密には虚無の魔法である『忘却』は使えるが、当人はそれが虚無の魔法だとは気付いておらず、ただの不思議な力だと思っているようだ。幸いにも使う機会もアルビオンから逃れて以来なかったが。
そんな訳で、当然、水系統の魔法は使えないのだが、私の仕事を間近で見ていただけに魔法を使わない治療法の利点をよく理解していた。
私としては、正直、教えていいものか悩んだ。
医療というのは、これでなかなか難しい部分がある。
医術は人を救う技術ではあるが、その技術は同時に救える限界を理解することでもある。
医者は神ではない。神ではないからには、もちろん失敗だってするし、できないこともある。
内科の診断ともなれば、まさに闇の中の手探りゲームなので、絶対誤診するなという方が無理だ。
そんなことから、患者を殺した数だけ腕が上がるという人もいる。
そこを割り切って次に繋げられる精神的タフネスが求められるのが医師という仕事だと思う。
優しくも強いティファニアという子のことを考えると、深入りさせるべきかどうか悩ましい。
とりあえず、簡単な外傷の治療法くらいは大丈夫と思い、手っ取り早く縫合術を覚えてもらうことにした。
「できた! どう?」
出来栄えは60点といったところか。
丁寧ではあるが、まだまだ精進が必要なレベル。
「う~ん、『もう少し頑張りましょう』、ってところかね」
「え~」
眉を下げて泣きそうな顔をする。
ちょっとした意地悪をされた時のティファニアの顔は凶器だ。可愛すぎる。
む~、と唸りながら今一度端切れに向かう彼女の仕草に私は笑みを浮かべた。
その裏で、私は悩む。
ティファニアは虚無だ。それを私は知っている。
それをどのタイミングで伝えたらいいか、私は測りかねている。
四の四がこの世にある限り、現実は地の果てまでティファニアを追ってくるだろう。私とアルビオンの関係どころではない。何かあれば、敵はハルケギニア世界そのものだ。
聖戦が宣言されれば、ティファニアは嫌でも巻き込まれていくだろう。
最後の虚無の使い魔、リーヴスラシルこそが、ティファニアの使い魔なのだから。
ややぎこちなく動く、彼女の手元を見ながら思う。
その指に嵌った、台座だけの指輪。
本来はウエストウッドの森でなされたはずの奇跡は、私の浅慮のために時と場所を変えて具現化してしまった。もう取り返しはつかない。
場合によっては、そのために一人の罪のない少年が死ぬ。
間接的ではあるが、私が殺したと言えなくもないかも知れない。
一縷の望みは、私の数々の独断と偏見が、この世界の正史に罅を入れているかどうか。
パラレルワールドという考え方があるが、既にマチルダとティファニア達の未来を変えてしまったことが、どうこの世界に影響しているかを思う。
それは同時に、期待でもある。
もしかしたら、今、こうしているひと時が私が知る『ゼロの使い魔』ではない、まったく別個の時間流の中にあるのではないかと。
アルビオン王家は倒れず、タルブは平和で、アルビオン攻略戦もなく、当然才人も死なず、ガリアの青髭の火石もない並行世界があってもいいのではないかと。
そんな穏やかな未来に、今が繋がって欲しい。
私が密かに、そして切に願っている未来。
しかし、現実は厳しく、状況は不利だ。
ジョゼフはミョズニトニルンを召喚していたし、あの血判状が健在なのかアルビオンでは北部連合が貴族派として参戦しており、それ以来、王党軍は総崩れになって押し込まれている。正史のアルビオン内戦の経緯は知らないが、アンドバリの指輪の力は王党派の打った様々な手の上を行っているのだろうか。
私の思惑なぞ一顧だにせず、歴史の歯車は淡々と回り続けている。
ただ、静かに暮らしたい。
それだけのことが、とんでもない無理難題に思えてくる。
いつまでも皆で幸せに、などと贅沢は言わない。地獄に落ちるくらいには手を汚してきた私がどうにかなるのは仕方がないにしても、マチルダとティファニアには幸せであって欲しい。
咎なき彼女たちには、それくらいの未来が許されてもいいはずだろうに。
「姉さん?」
声をかけられて私は我に返った。
「ん、終わったかい?」
「うん・・・どうしたの? 泣きそうな顔してる」
不覚にも、考えていたことが表情に出てしまっていたようだ。
これはいけない。気を付けよう。
「ああ、弟子があまりにも不出来なので世を儚んでいたのさ」
「えー!」
「嘘だよ。今度の方がよくできてるね。バランスよく細かく縫えているよ」
端切れを受け取って私は笑った。
「もう、姉さん最近意地悪だよ」
「どれ、貸してごらんよ」
むくれるティファニアから持針器を受け取り、端切れに取り掛かる。
最近縫合はすっかり魔法任せだからちょっと腕が鈍ったのか、さすがに緊急外来をやっていたころのキレはない。リハビリしなくては。
それでも見ているティファニアは充分驚いている。
玄関の鈴が音を立てたのは、そんなことをやっていた時だった。
パタパタとテファが応対に出て、戻って来ると二人の女性を連れていた。
一人はジェシカだが、もう一人は初めて見る子だった。そして、私が知っている子でもあった。
いつかは会うと思っていたけど、今日だとは思わなかったよ。
黒髪にそばかす。草色のワンピースが似合っている。
「はじめまして。シエスタと言います」
初めて見る生シエスタは、愛嬌が溢れる愛らしい娘さんだった。
正直、パッと見ただけでは男性に関しては狙った獲物は逃がさないハンター属性の猛者には見えない。
とは言え、なかなかに元気はつらつとしていて体つきも健康美に溢れており、もう少し歳がいけばさぞかしダイナマイトなレベルに発展するだろう優良物件だ。
誰ぞからこの子を縁談の仲人をするよう相談を受けたら、トリスタニア診療院責任推薦の一文をしたためようかという子だった。
診察室で茶を出しながら、ジェシカの説明を聞いた。
途中からシエスタも補足に入った話の内容は、簡単ではあるが、私としては予想外の物だった。
「健康診断? 魔法学院で?」
「そう。いつも私たちが受けているみたいなやつをやって欲しいんだって」
『魅惑の妖精』亭では、半年に一度、働いているスタッフの健康診断をやっている。代金はその夜の飲み代だ。
内科的な部分から外科的な部分まで、一通り診察して問題があったら治したり、職場環境まで改善を促す感じのものだが、ジェシカがそのことをシエスタに話したところ、魔法学院のスタッフにも実施できないかと言う話になったらしい。
確かに、貴族に仕える使用人と言うのはかなりの激務だ。肉体労働だけに痛める部位もありそうなものだ。
料理人については食事の習慣にしても気になる部分がある。
どんな仕事でも習慣的なものを言い出したらきりがないが、何はともあれこの世界では希薄だった前向きな健康へのアプローチを希望するのならば、それに協力することは望むところではある。
聞けば学院側には話が通っており、総代であるマルトーからも是非にとの言葉が出ているそうだ。
一日仕事になるだろうが、スケジュールを調整すれば何とかなるだろう。
私は乗り気になった。
トリステイン魔法学院か。初めて行くよ。
コルベール先生、しばらく会ってないけど元気かな。
学院に着き、衛兵に用向きを伝えると、連絡を受けたシエスタが足早に迎えに来た。
「わざわざありがとうございます」
「何の。一度来てみたかったからちょうどよかったよ」
そんなやり取りをしながら案内に従って敷地の中に入る。
いくつかの塔が並ぶように建ち、学び舎らしい厳かな雰囲気が漂っている。
さすがは伝統のある施設だけあって立派な建造物だった。
天守みたいな本塔と、櫓のような5つの塔からなる施設と聞いていたが、まさにその通りの威容だ。
堀や土塁があれば何だか学院というより平城のような佇まいだ。
案内に従って手入れの行き届いた歩道を歩くが、妙な違和感を感じてシエスタを見てみた。
先日の朗らかな雰囲気が、微かに陰っているように見える。
「何かあったのかい?」
「はい?」
「何だか元気なさそうだが?」
「い、いえ、何もないですよ」
慌てて手を振り、シエスタは先に立って歩いた。
案内されたところは厨房の隣のスタッフの共用スペースだった。
メイドさんとコックさんがずらりと並んで出迎えてくれたのだが、すごい人数だね。
「遠いところ、よく来てくれたな。マルトーだ」
並んだスタッフから無遠慮な品定めの視線を浴びる中、真ん中にいたでっかいおじさんが前に出て言った。
これが噂の必殺料理人か。
確かこの人はメイジが嫌いなはずなのだが、私に向けられる視線に棘はない。
少なくとも、こんな見た目が子供の女の子を相手に嫌悪感を露骨に顔に出すような器の小さい人ではなさそうだ。
「トリスタニアのヴィクトリアだよ。今日はよろしく頼むね」
負けじと胸を張って挨拶する私を、マルトー氏はどこかちょっと困ったような顔で眺めまわした。
「・・・こう言っちゃ悪いが、お前さん、本当に診療所の医者様だよな?」
「そうだよ?」
「気を悪くしねえでもらいてえんだが、何だか可愛らしすぎて、俺としちゃ娘のままごとに呼ばれたみたいな気分なんだが」
その言葉に、周囲が失笑を漏らす。
まあ、言っていることに含むところもないようだし、見た目で損をすることには慣れている。
「あはは、まあ、評価は仕事を見てからにしとくれな。見た目でやる仕事じゃないってとこは、医者も料理人も同じだろう?」
その言葉に、マルトーは大笑いした。
「こりゃ一本取られたな。いいだろう、今日はひとつ、噂の名医の腕前ってのを見せてもらおうかい」
腕前と言っても健康診断くらいでは腕を振るうほどでもないが、彼らにとっては初めての体験だ。
「はい、両手を出して口を開けて」
数人を診るうちに、周囲の気配が変わり始めた。
差し出された相手の両手を、私は腕を交差させて右と左でそれぞれ握手するように握る。
感じる水の流れ。血液、髄液、リンパ液。疾患や不具合は大体これで把握できる。
その情報をもとに、生活習慣について判る事から問診をすると、どこか怯えたような視線を私に向けるようになりはじめた。まるで生活を覗き見されているような気分になったのだろう。血は嘘をつかないものだ。
やってみたところ、料理人諸君はちょっと不健康な人が多い。結構血液ドロドロだよ。総コレステロール値や中性脂肪の数字が洒落にならないのが何人かいる。若い学生連中の食事を作って味見したり残り物を食べるのだろうが、成人が食べるにはカロリーが高すぎると思われる。ハルケギニアに喫煙の習慣がないのが救いだが、まずは有酸素運動の指導が要りそうだ。
メイドさんたちは案の定腰痛持ちが多い。女性の体格で力仕事はやはりいろいろあるようだ。次いで多いのが冷え性。定番だ。
これと併せて、この世界に来て以来、気になっている所がある。
オーラルケアだ。
歯磨きはしていても、口腔環境に関する意識が結構低い。虫歯は本格的に痛くならないと治そうとしないし、歯周病予防に関する意識も高くない。
特に、料理人は口内のPHが酸性に偏る機会が多いだろうから来る前から気にはなっていた。
そんな訳で、通常の検診と一緒に口内も確認するが、やはりメンテナンスが不十分な人がほとんどだ。
ハルケギニアにおいて、中世のように尿でうがいをして虫歯を予防するという習慣がないのは私としては助かっているが、虫歯は、それが原因で死ぬこともあると言うことはできれば広まってもらいたい。
虫歯と同様に問題なのが、世界で最も感染者が多い病気である歯周病だ。
これは現代人にも言えることだが、20歳を過ぎたら口内環境は虫歯菌より歯周病菌に対する警戒に重きを置かねばならない。実際、成人のほとんどが程度の差こそあれ歯周病を患っている。
歯周病の主要な原因は歯垢だ。歯垢は食べカスではなく細菌の塊で、排水溝のぬめりと同じ類の物と考えてよい。
その歯垢が唾液中のカルシウム等とくっついて歯石等になって歯に沈着し、それに反応して歯茎が腫れるのが歯周病の始まり。
歯垢は水に溶けないのでうがいでは取れないし、歯石やバイオフィルムになるとブラッシングでは除去できない。除去には専門家によるスケーリングが必要だ。
放置すると、異物を排除するべく自分の歯ごと切り捨てようとする生体防御反応が働くこと、また細菌が出す酸が歯槽骨を溶かしてしまうことにより、多くの人が歯を失うことになる。
初期症状としては、
・歯を磨いても口の中に甘酸っぱい感じが残る。
・歯茎が下がって来たと感じたり、痩せて来たと感じる。
・歯茎が鬱血していたり濁った色をしている。
こんなことを感じた事がある人は、歯周病が進んでいると見て良い。特に歯茎の下がり・痩せは、歯槽骨や歯根膜の破壊が始まった可能性が高い。宣伝文句で『リンゴをかじると血が出る』と言うのがあるが、そこまで行くと塩だの生薬だのの歯磨き粉でシャカシャカやってもほとんど意味はない。モゴモゴ系の洗浄剤も気休めだ。
症状が進み、歯茎から膿が出るいわゆる歯槽膿漏となるとやがて歯の動揺が始まり、抜歯するか外科的手法で歯槽骨を再生するしか対処法がなくなる。
まずはしっかり歯垢を除去することが肝心なのだが、悲しいかな、どんなに頑張っても歯垢と言うのは個人では完全に取りきる事はできないので、日常のケアのほか、20歳を過ぎたら半年に一度はエステ感覚で定期健診を受けてもらいたい。
そんなことを説明しながら、虫歯だの歯石だのの口内のトラブルを抱えた連中を片端からガリガリとやっていく。スケーラーと合わせ、ドリル代わりの魔法のウォータージェットでう蝕部分や歯石を削り飛ばす。充填剤はアトリエマチルダ謹製のアマルガムの代替品を使用する。これ一つで恐らく一生持つだろうと言う優れものだ。
そんなこんなでいろいろあって、一通り診察が終わるまで一日かかってしまった。
最後の受診者はシエスタだった。
手を取り、口の中を見る。
うむ、全く問題がない。実に健康だ。若いっていいね。
しかし、その表情が曇っているのがどうにも気になる。
「どうしたね、本当に元気のない。どこか気になるところでもあるのかい? 女同士だ、気兼ねはいらないよ?」
「い、いえ」
シエスタは口ごもり、少し間をおいて言葉を探すように口を開いた。
「実は・・・」
「ちょっと、あんたっ!!」
シエスタの言葉を遮るように、派手に響く金切り声に私は振り返った。
そこに、ピンクの物体が立っていた。
そうだった、こいつもここの生徒だったんだっけ。
半ば本気で忘れていたよ、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
何でこんなところをうろついているんだ?
「あんたかい・・・」
私は冷たい視線をルイズに向けた。
こいつがカトレアに宛てた手紙に書いたことを、私は忘れてはいない。その時に立てた誓いもまた、忘れえぬものだ。
こいつの前に私に胸周りのサイズを笑った奴は、街外れの墓場に眠っている。
相変わらず偉そうなルイズの表情に、『12回鞭で叩き、10回縛り首にして、8回地獄に落として、4回虫けらに生まれ変わったところを踏み潰してやりたい』とまでは思わないが、それ相応の制裁は私の精神衛生上必要な措置と判断する。
ちなみに、墓場で眠っている奴の死因は老衰だったが。
「あんたかじゃないわよ。何であんたがここにいるのよ?」
「お仕事だよ。平民はいろいろ大変なんでね」
ルイズは相変わらずジロジロと無遠慮に私を眺めまわし、次いで思いついたように顔を上げた。
「ちょうどよかったわ。ちょっとこっちに来なさい」
言うが早いが、私の白衣の袖口を掴んで引っ張る。
「ちょっと、何事だい!?」
シエスタを残して、私は半ば浚われるようにルイズに引きずられた。
引きずり込まれたのは学生寮だった。
そのうちの一つのドアの前に連れてこられたが、ここがどうやらルイズの自室らしい。
ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む姿に、少しだけ感傷的な気分になった。
普通、メイジはこういう場合は杖でアンロックをするだけで済む。
そうだったね、こいつ、魔法が使えないんだっけ。
本来は気高くも優しい娘であることを知っているだけに、ちょっとだけこいつが可哀そうになった。
もちろん口にはしない。
同情ほど、この娘が辛く感じる物はないだろうからだ。
「入りなさい」
案内されて入った部屋は、無人ではなかった。
見れば、ベッドに一人の少年が横たわっていた。
黒い髪の、異国の風貌を持った、そして懐かしい雰囲気の、青年になりかけの年頃の少年。
私の心臓が、鼓動を早める。
この少年の事を、私は知っていた。
平賀才人。
好奇心から異世界という名の奈落に堕ちた、ごく普通の日本の少年。
その才人が、全身傷だらけでベッドの上で眠っていた。
ブリミル歴6242年。フェオの月。
私の祈りなど、天には届かない。
すべての物語が動き出す引き金である、トリステイン魔法学院の『春の使い魔召喚』が終わっていたのだと、私は知った。
押し寄せてきた現実が、重い。
吐きそうだ。