大学というものは僕にとっては楔みたいなものだった。
それは決して悪い意味で用いているわけではない。ふらふらと世間を浮遊して、そのまま浮上してしまいそうな不安定な僕には、その楔が必要だったのだ。
その大学という名の楔がなければ、僕は本当にどうしようもない状態のまま、暗雲立ち込める社会の渦に投げ込まれで四肢がばらばらになっていたに違いないのだから。
思考の渦にもぐりこみ、そこから中々浮上できない(世間を浮遊しているような僕にはちょうど良い皮肉だ)僕はどうやら少々、人間関係が苦手だ。
必要以上に共感して、感動して、落胆して、絶望する。
しかもそれを己の脳内だけで行うものだから、人には一切自分の感情が伝わっていないため、無感情で暗い奴だと思われているらしい。
ぶしつけに「死んだ魚の目をしている」と言われた時には、流石の僕も軽く憤慨したものだった。
僕は自分では他人以上には激情家であると認識しているのだから、それは周囲との大きな隔たりでもあった。
「おいおい、なに呆けてんの」
やけに込んでいる食堂の長机に腰をかけ、くだらない事に思案を巡らしている僕に声をかけてきたのはスーツを着た斎藤進だった。
同じ合唱系サークルでの友人である。
斉藤は大学生らしからぬ風貌の持ち主で、働き盛りの三十代にしか見えない老け顔の持ち主だった。
本人もそれを自覚しているのか、はたまた家庭教師のアルバイトの都合からか、よくスーツを着込んでいた。
「大学は僕にとってどういう存在なんだろうなぁ、と」
「うわぁ、痛々しい奴だな。せめて高校生でそういうのは卒業しろよ」
「暇が悪いんだよ、きっと」
「俺はそんなこと暇でも考えないけれどな。まあ、社会に出るためのツールみたいなもんだろ、大学は」
そう言って、椅子をひいて親しげに隣に腰をかける斎藤。
むわぁ、と男独特の汗のにおいがした。もうそろそろ春も終わり初夏に入る。いやな夏の知らせだった。
「汗臭いぞ」
「走ったからな。ミーティングに遅刻すると思ってさ。ほら、食堂から校内に入って三階に会議室があるだろう。そこでやるんだが、ちょっと早くついちまったみたいだな」
そう言って、斉藤は腕時計を見た。
「老け顔で汗臭い男。僕の知る限りでは最低ランクに近い存在だな」
「哲学家気取ってる妄想癖持ちよりは幾分かましだな」
「確かに。そんな奴は腋臭の奴並みに近寄りがたいに違いない」
僕らはそこまで互いを酷評すると、顔を見合わせて笑った。
斎藤進は僕が一切の気兼ねをしなくていい、数の少ない友人だった。
文句のつけようがないくらいに良い奴である。
斎藤は二浪していて、人生においても先輩であった。
いろいろと辛苦をなめたこともあり、思い出したくないことも多く経験しているらしい。
その経験から時に様々な助言をしてくれるのだが、それが大いに役に立っている。
彼がいなければ、僕は途中で大学をフェードアウトしていてもおかしくはなかった。
「まあ、まあまあまあ。そんなことはどうでもいいとしてだ。聞いたか、お前」
ひぃひぃ、と喉を笑いでひきつらせていたのを急に停止させ、至って真面目な表情を斎藤は浮かべた。なんだなんだ、と僕も笑いを止める。
「深刻そうだな。なんだろう、話してみなよ」
「貝塚のやつがまたやったらしい」
貝塚。
一瞬、誰の話をしているのだろうと思考が停止しかけたが直ぐに思い出す。
同じサークルの同級生の女性であったはずだ。
そして、それを思い出した途端に次の言葉の予想がついてしまった。
「またって……。これか?」
僕はそう言って、手首をさすって見せた。
斎藤は深々とうなずく。決まりである。
僕は不愉快な気持ちになる。その光景を想像してしまったのだ。
そして、その光景を想像するだけならまだしも、その時の彼女の感情まで推測しようとしてしまったのだ。
きっと絶望にかられていたのだろう、とか。
手首は浴槽につけていたのだろうか、とか。
そんなことを考えてしまう自分に対して自己嫌悪を抱く。
酷く下卑た行為と感じられたし、彼女に対しておこがましいと思ったのだ。また、その行為自体への嫌悪感から一気に気分が悪くなった。
「手首をな、切ったらしい。これで三回目だぜ」
心底疲れたように、斎藤は嘆息をついた。仕方のないことだと思う。
斎藤はサークルの運営にも手を出しているし、それだけじゃなくて彼女自身に対しての交友関係もあったのだ。
初めて貝塚が手首を切った時にはとてもじゃないが見てられたものじゃなく、半狂乱になっていたが、三回目になると流石に慣れたものである。
心配よりもあきれと怒りが先に来たようだ。
僕は貝塚と話したことは一度もない。
僕が所属しているサークルは規模が大きく、口をきいたことがない者が居てもおかしくはなかった。
まして、内向的な僕のことである。
女性なんて挨拶程度でしか会話をしたことがなかった。
ただ、貝塚の容貌は覚えている。
病的だと感じさせるほどに白い肌。絹糸のようにしなやかでたおやかな黒々しい髪を背中まで伸ばしているため、ある種のコントラストになっているとすら思った。
身長も高く、足も長い。すらりとしたモデル体型で、端的に言うならば美人だった。
ただ、事務的な会話以外行ったことはない。
僕は基本的に大した事のない話題を大したことのないように、もしくはそれ以下のようにしか喋ることのできないつまらない奴で、そんなつまらない奴は女性に人気がでないというのは相場だった。
まあ、そんなのもただの言い訳に過ぎず、会話が続かなくて気まずい思いをするのが嫌でなるべく誰とも喋らないようにしている僕のせいに他ならない。
故に、彼女の性格や交友関係に対して確証を持って明確に答えることが出来ないのだが、いつも独りでよく解らない外国の本を読んでいる。
そんなイメージがあった。友達は、僕以上に少なそうであった。
「何に対してそんなに絶望しているのだろうね」
死に対する欲求が解らないわけではない。僕のような根暗な人間ならなおさら、明るく陽気な人間だって時には「あーあ。死にたいなぁ」くらいのことは思う。それの程度が違うのが問題なのだろう。
ようは結局、全てがバランスなのだ。それが、少し、傾いてしまっただけで。
「知るかよ、そんなこと。おおよそ、誰かに構って欲しいんだろうさ」
いい加減にしてもらわないと、サークルを辞めてもらわなくちゃいけなくなる。
続けざまに斉藤はそんなことを呟いて、不快そうに小さく鼻を鳴らした。
「まあ、確かに。トラブルをもたらす人は困るし、それが生死に関わることならば尚更そうだろうね」
少し残酷かも知れないが、爆弾は誰だって避けようとする。そういうことだ。
なにがきっかけで爆発するかなんて解らないのだから。
「この後、執行部内でいい加減あいつの進退について議題をあげてみるわ。流石にもうスルーできん。おっと、そろそろ時間だな」
校内の会議室を借りているから、と言って斉藤は去っていった。
僕はそれを契機に、またくだらない思考に潜り、三十秒と立たない内に貝塚さんのことを頭の中から追いやった。