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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部七節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/04/14 00:40
6.フロゥレセント(水辺の花)



「どこから話せばいいかしら。長い上につまらない話よ」

 むつみの雰囲気が一瞬で変貌した。紛れもなく意図的なものだった。高村はそれを知りつつ、口を挟まなかった。状況は高村が仕込んだ。手配も彼がした。だが細部は親娘二人の手に任せるべきだと思った。
 結果生じる負債は、全て自分が負う心算だった。むつみはそれを見越して、あえて気だるげに振舞っているのだろう。
 なつきは連続して突きつけられる暴露に、取り戻しかけた自制心をまたも失っていた。完全に混乱の極みにいる。彼女がいまむつみの話に耳を傾けようとしているのは、反射的な反応であろう。眼窩からはすでに理性的な光が半ば消えかかっている。

「まあでも、結局は死んだと思っていた玖我紗江子が実は生きていた、でまとめられるのかもしれないわ。でも、それだけで納得しろというのもひどい話よね。ひどい母親であることは、自分でも、疑いがないと思うけれど……、そもそも、いまのわたしは、まだ貴女の『母親』なのかしら。どうもそのあたりの自信がないわ。ねえ?」

 なつきは何も答えない。

「少し、外でふたりの話を聞いていたわ。なつき……って、呼んでもいいかしら? 変に遠慮するのもなんだから、そのままで呼ばせてもらうけど。――そうね、結論から言えば、なつき、貴女の記憶が一番地によって編集されているというのは事実よ。だって、わたしがそう依頼したんだもの。そう、交換条件としてね」
「――え」

 わずかになつきの瞳が揺れた。

「恐らくいくつかの記憶が錯綜しているのね。事故後の貴女は重傷を負って心身ともに不安定だから、記憶の改竄にもそうした不具合が出たのでしょう」
「な、どうして、そんな」なつきが、舌をもつれさせながら何かを言いかけた。
「はじまりは、貴女に現れた、HiMEの証である痣よ。左肋骨のすぐ下に、今もあるでしょう?」

 なつきの左手が、むつみの言い当てた場所に触れた。

「ある時期から、風華近辺で産まれた全ての女児の体は、産後すぐあらためられるの。その痣を探すためにね。また土地に限定されず、いわゆる有力な血筋のものは、常に監視体制が取られている。……そんなに大げさなものじゃないけれど。もっとも、これには実は個人差があって、かろうじてそれと識別できるレベルから、明らかに何らかのマークを模していると思われるものまで、多岐にわたる。一般に後者に近いほどHiMEへの親和性が強く、将来的に強力な能力者になると見越されているわ。こうして一番地は囲い込みを始めたの。いまも、実際に力を発現した娘ばかりでなく、それに次ぐ候補者たちはこの土地に集められているはずよ。不測の事態に備えるために」

 これは高村もはじめて聞く話だった。同じ赤い痣は彼の幼馴染である優花・グリーアにも見られたが、であれば彼女もやはり一番地に見つけられていた可能性が高い。

「貴女の場合は、わたしの知り合いからその話が漏れてしまったんでしょうね。貴女はもう忘れてしまったでしょうけれど、わたしの実家というのは元々憑き物筋とか言われている家柄でね、まあ小さい頃から地元じゃ色々苦労したわ。そして偶然かどうかはともかく、それはHiMEの発現家系と一致していた。わたしは一番地系列の会社に就職した当時、そんな裏があるなんて全然知らなくて、しかももう貴女は産まれていたから、HiMEと呼ばれる超能力についてある程度の知識を得たときには、もう遅かった。何より研究が面白かったから。
 それであるとき、上役から要請されたわ。君の娘はHiMEに対してとても高度な順応性を持つ、稀有な素材だ、是非協力してくれって。……わたしは戸惑って、驚いて、……さすがに最初は貴女をかばおうとしたのよ? おなかを痛めて産んだ、実の娘だもの。誰も好き好んで実験動物扱いなんてしたくないわ。でも抗いきるには無理があった。だから常にわたしの監督のもと、常識の範囲内での検査になら協力するって約束した。貴女もおぼえているんじゃない? 小さい頃、よくわたしの職場へ遊びに来ていたでしょう。今考えて、ちょっと不自然だとか、思わなかったかしら。だって、あそこは製薬会社で、わたしは研究開発を行っていたのよ。その研究所に子供が自由に出入りできるなんて、ってね。気づかなかったんなら、それも誰かがフォローしてくれたのかもしれない。どうでもいい話だけど。でも――思えば、ここでした譲歩が、後々の全てを狂わせたんだわ」

 投げ槍に、むつみが顔の横で右手を開閉させる。なつきは唇を震わせて、軽薄な母の姿から目を逸らしていた。

「最初にこの均衡を壊したのは、わたしの元夫。あなたのお父さんよ」
「父、さん、が?」かすれた声でなつきが反問した。

 むつみは頷くと、次のように語った。
 実験の仔細を知らずとも、わが子をサンプルとして扱う妻の行いに、玖我なつきの実父は烈火のごとき怒りを見せたという。彼は外資系商社の出世頭であり、その多忙さは一月に家にいる時間を数えられるほどだった。それでも若くして一戸建てを妻子のために工面して、なおも仕事に励み、家族を愛していた。妻も子も同じように思慕を返していた。だが不幸にも、思考ばかりは完全な一致を見なかった。
 最愛の娘としてなつきを溺愛していた彼は、年齢と職掌に見合わぬ収入を得はじめた妻に疑心を抱いたのである。彼もまた優秀な人間であり、商社の人間にはつき物である広範な人脈を生かして、不完全ながら事実の一端にたどりついて見せた。そしてなつきが何も知らぬままに験されていることを知ると、妻に対して口を極めて罵るほど我を失った。信頼を裏切られ、愛するものを侵されたからこその激昂だった。

「ショックだったわね」むつみはあっけらかんと述懐した。「愛していたし、信じていたから、丁寧に説明すれば、わかってもらえるって思った。でも、全然駄目だったわ。結局この人はわたしより娘が大事なんだなんて、思ったりもした。それでわたしたちの何かが、ぷっつりと途切れたのかもしれない。今考えるとわたしも行き過ぎていたから、彼にしてみればそれがあからさまに見えてしまったということなんでしょうね。ともあれ、非がわたしにあるのは明らかだったから、さすがに貴女を実験に使うことは、もうしないって会社に上申したわ。表面上、それは受け入れられた。――わたしも、それで、終わったと思った」

 しばらくは、以前どおりの日々が続いた。なつきは母の職場に遊びに行く機会が減った。自然家でひとりで暮らす時間が増えた。父も、そして母もできる限り彼女のそばにいようとつとめたが、両者が共働きの高給取りであったことが災いして、娘の孤独はいよいよ抑えがたいものになった。ホームヘルパーだけではまかない切れない淋しさを、夫妻はペットを与えることで癒そうと考えた。

 なつきが、虚ろにその犬の名を呟いた。

「デュラン二世……」
「あのひと、海外のロックバンドが好きだったからね」むつみが補った。「アフガンハウンド。灰色の毛並みで愛嬌のある、可愛い子だったわ。わたしにも懐いていた。いちばんは貴女だったけど……、逆に名づけ親のあのひとにはあんまりで、ちょっとおかしかった」

 懐かしむように言うむつみを、なつきは直視しないよう苦労しているように、高村には見えた。未だ、なつきの内部ではむつみと母を結ぶ記号が成立していないのだろう。無理からぬことだ。
 その抵抗を、むつみは徐々に取り払おうとしている。それはしかし、必ずしもなつきの望むかたちではない。

「このあとに起こったこと、貴女は少し覚えているんじゃない?」

 完全に玖我家を打ち壊す楔となったのは、一番地から岩境製薬に出向していた男だった。家柄が重視される組織から来た男だけあって、優秀でも名誉欲が行き過ぎている人物で、なつきに優秀なHiMEの素養があることを知ると、すぐに彼女を実験に引き込むことを要求してきた。
 九条むつみ――当時の玖我紗江子は、当然これを突っぱねた。

「だって、家庭崩壊の瀬戸際だもの。さっきも言ったけど、わたしの実家は、あまり……、そう、いいところではなかったわ。だからせっかく手に入れた幸福を、わたしは失いたくなかった。それは大枠にしがみつくだけの、浅ましい思いで、もしかしたら純粋にあなたたちを愛していたわけじゃなかったのかもしれないけれど、ともかく断った。無駄だったけれどね」

 玖我なつきは、小学校からの帰り道に略取されたのだった。
 この件は当然、真っ先に紗江子のもとへ伝わった。首謀者から直接なつきに引き合わされたのである。男はさらに、なつきが大切に慈しんだペットも用いて、少女を脅迫した。文言はこうだった。

『君が守らなければ、大切なものがいなくなる』

 そして犬が撃ち殺された。大切な存在を奪われたなつきは次に母を持ち出され、ついに度を失った。能力を発現させ、暴走させ、皮肉にも画策されたとおり、研究に成果を寄与する結末になった。

「それまでの計測で、エレメントやチャイルドの本格的な発現には、媛星の接近をもう数年待たなくてはならないという見込みが立っていたから、貴女が起こしたこの事件は一番地全体を活発化させたわ。資金も下りた。皮肉なことにわたしの立場も上がった。……あなたは、デュランを目の前で殺されて、自閉症に近い状態になった」

 なつきが目をみはった。
 むつみは大げさに嘆息した。

「当然、すぐに夫の知るところになったわ。二度目はなかった。……彼はすぐに離婚を突きつけて、貴女の親権を主張した。無駄なのにね。でもそう説得しても聞耳を持たなくって、貴女は少し回復してもふさぎ込む時間ばかりになって、わたしの家は火が消えたようになった。あれだけ望んだ、しあわせな風景が、一気に色あせてしまった。貴女はわたしが視界から消えるとすぐに不安を訴えた。夜になると寝ても突然泣きながら起きだして、デュランの名を呼びながら、わたしが寝ていてもおかまいなしに起こした。あのころ貴女はもう高学年だったのに、いきなりずいぶん幼くなってしまったみたいで、夫はそれをいつも苦々しく見て、ますます貴女に過保護になっていった。わたしはだんだん……家に足が向かなくなった。
 だから、外に男を作ったの」

 引きつったような音がした。
 なつきの喉が鳴らした声だ。

「あ、あああああ、あぁ」

 持ち上げられた両手が、帽子越しに頭髪をかきむしる。
 ほんの一瞬だけ、苦痛に耐える顔をして、むつみは残酷な吐露を続行した。

「そのひとは一番地と微妙な同調関係にあった、シアーズからの出向だった」

 玖我紗江子には自負があった。自らの優秀性とそれを証明する行為にはばかりを持たなかった。だが娘や夫との一件がその心理に陰りを産んだ。家庭内の不和は急速に肥大化して、すでに外面の維持すらおぼつかなくなっていた。
 思う以上の負担を、それは紗江子に与えた。睡眠不足が疲労と苛立ちに加速をかけた。やがて彼女は夫と娘を愛すと同時に憎むようになった。その逃げ場として、外部に窓口を設けた。矛先がシアーズに所属する諜報員だったのは、相手にとっては必然でも、彼女にとってはそうではない。仮に無辜の第三者がこの位置にいたとしても、変わらず依存しただろう。
 やがて来るべきときがきた。ジョン・スミスというその男が、玖我紗江子に一番地への裏切りを囁いた。
 手土産は研究成果と紗江子自身。そして、娘だった。

「わたしは、それに乗った」

 もはや、なつきは何の反応も見せなくなっていた。いとけなく汚れた床に尻をついて足を崩し、うずくまるように頭を押さえて動かない。時おり肩を震わせて、高村の耳には届かない何事かを呟いている。
 痛ましい姿だった。
 だが、通らねばならない道なのだろう。
 そう思うことで、ようやく高村は目を逸らすことをせずにいられる。
 見やれば、むつみの瞳が赤く染まっていた。声だけが変わらず冷静だった。よほどの胆力が、彼女を支えている。
 芽生えた罪悪感を、高村はかみ締めた。紛れもなくこれも、彼が望んだ結果である。むつみは即興でありながら、高村が想定した以上の結果を招いていた。あるいは、彼女も手の一つとして、この状況を予測していたのかもしれない。
(だけど、それは逃避だ)

「あとは、だいたい予想がつくんじゃないかしら」むつみがいった。「わたしは貴女を連れて海外に、シアーズに逃げようとした。大金と新たなポストに食いついて、新天地でやり直そうと思った。でも、知っての通りすぐにその試みは露見して、阻まれた。わたしたちは事故にあい、わたしも小さくない怪我を負って、貴女はそれどころじゃない危篤状態になってしまった。一番地に拘束されたわたしは、交換条件を持ち出して、そのかわりに、身柄の解放を要求した」
「その、条件ていうのは?」なつきの代わりに、高村は訊いた。
「ひとつは当然、玖我なつきを置いていくこと」高村を見つめて、むつみは無感動に答えた。「もうひとつは、当面のなつきの媒介……想い人として、わたしを固着させる暗示に協力すること。目覚めたなつきがわたしの裏切りを知れば、なつきはわたしへの想いを失い、人への感情も失いかねなかった。だから一番地はストーリーをつくる必要があった。わたしへの愛情を持って、一番地を憎みつつ、それでもHiMEとして生きていく、そんな物語をね。そのついでに、夫の記憶も改竄した、というわけ。……でもそれがまさか、何年も変わらずに抱き続けられるものだなんて、わたしにとっても彼らにとっても予想外だったでしょうけど。ここまで詳しく話したのは、高村くんも初めてよね。つまりわたしって、こういう女だったのよ」

 高村は、無言で天井を仰いだ。
 待ち合わせてからこれまでの、なつきの顔が思い返された。高村の行為は容赦なく、それらを拭い去った。奪ったのかもしれない。
 再び立ち上がる毅さを、高村の立場で期待することは傲慢である。彼がなつきに添えられる手は、即物的なものを除いて、すべて擲たれたのだ。
 むつみが、これだけは心底からの感情を込めて、自棄的に締めくくった。

「これで、おはなしは、おしまい」

 なつきの震えが止まった。
 もう何も呟いていなかった。
 伏せた体の下で、地につく指が爪を立てていた。か細い繊手に、力がこもっていく。ある面で顔より如実に感情を伝えるのが手先だ。だが高村が読み取ったなつきの表情は、渾然となってひとつも実態がつかめない。

「どうして、だ」底冷えするような声でなつきが言った。顔は俯いたままだった。「それなら、どうして、今になって現れた。なぜ、風華になんてやってきた。あなたが……玖我紗江子だとするなら、そしてシアーズ財団の九条むつみなら、どうしてまたわたしに近づいたんだ」
「べつに、個人的に貴女がどうこうってことはないわよ。勘違いさせたなら悪いけど」素っ気無くむつみが答えた。「それとひとつ訂正よ。さっき高村くんも言ったけれど、いまのわたしは財団から籍を移しているの。色々とこちらでも煩わしい事情があるのは変わらないわ。これはきっと、世界のどこにいっても同じなんだわ」
「わたしはみとめない」なつきは更に言い募った。「あなたは母じゃない。わたしが想った母が、あなたなんかであるはずは、ない」
「それはそうよ」むつみは頷いた。「貴女に植えつけられた母親像はわたしを原型にしたもので、実態はただの幻想よ。貴女は貴女の中の母親を想い続けた。目の前から母親がいなくなっても想い続けた。そして実像を持たない思いはとても偏向されやすい。一番地の施した処置のせいもあって、貴女はいつしか自分が理想とする母性を玖我紗江子という型にはめこんだの。仮にわたしが貴女の母を騙る贋物だったとして、だからといって貴女の中の母親が実物に即しているわけでもないわ」
「母が! いなくなって!」慟哭のような叫びを、なつきは上げた。「家が、どうなったと思ってる。みんなが住んでいたうちは、もうない。人手に渡った。壁は塗り替えられた。知らない家になってしまった。あのころのデュランは死んでしまった。父とはもうしばらく会ってない。海外に、別の女がいるそうだ。そいつにわたしと会ってほしいなんていうんだ。わたしに話しかける声は、いつも膜ひとつはさんだみたいで、遠いんだ。わ、わたしはいつも、それを鬱陶しく思ってしまう。大好きだったのに。あんなに好きだった、父さんなのに。……い、一度だけ、エレメントを向けたことがある。家のものを壊した。そんなことがしたいわけじゃなかったのに、わたしたち家族の間を埋めていたものが、それで、もう、どこかに消えた。
 ――ぜんぶ、めちゃくちゃだ。台無しになったんだ。母さんが、ママが、いなくなったから、一番地に、殺されたから……」
「なつき。貴女のそれは、愛情じゃない。執着であり信仰よ」むつみは慈しむように見えた。それがいっそ残酷ですらあった。「事実ひとつで壊れるものもあるかもしれない。でも貴女が信じたものは、貴女が思うよりずっと前にひび割れてしまっていたの。それをしたのがわたしなのよ。貴女の思う優しくて暖かくて完璧な母なんかではない、見ての通りの、女なの」
「黙れ」

 なつきが、はじめて、顔を上げた。
 その横顔に高村は言葉を失った。
 何一つ歪んでいない。美しい顔立ちはそのままだ。
 ただ大きく見開かれた瞳から、大粒の涙がこぼれていた。際限なく落ちて、彼女の頬と顎をつたい、服を手を、床を濡らしていた。
 全身から、可視性の光が立ち上っている。高次物質化能力の余波に間違いなかった。本人の制御を離れ、力が暴走しかけている。

「おまえの言うことが本当だったとして、……はは、それはなんだ?」なつきが無表情に涙を流しながら、いった。「母さんは生きていて、シアーズで、裏切り者で、わたしたちを捨てたって……なんなんだ、それは? わたしの今までって、なんだったんだ? あはは……。道化じゃないか。そんなの、わたしは、ただの、ああああ、コマじゃないか。だ、誰かの手で、いいようにされて、信じたものも、想ったものさえ不確かだなんて―――ふ、ざけるなよ、なぁ。なんでそんな、そんなことを、今さら言うんだ。物語だっていうなら、それは嘘だって必要なものじゃないか? だから、わたしは生きて来れたんじゃないのか? それを、どうして今さら剥ぎ取るんだ。わたしを、指差して笑うためか?」

 虚心の問いだった。流れる涙はそのままに、なつきの全身に燐光がからみついている。
 むつみはまるで物怖じしなかった。ちらと高村を見やった。高村はその視線を受け取った。このやり取りを経て、高村は自分の思惑がむつみに見透かされたことを確信した。
 彼女に言わせていい台詞ではない。
 だが、制止をかければ、むつみの意思に砂をかける真似になる。
(最後まで、勝てないのか)
 忸怩たる思いでむつみを見つめる。高村が憬れた女は、問い詰める娘を前に、最後まで仮面を被りとおした。


「だって、貴女のチャイルドが死んだら、わたしが死んでしまうでしょう?」


 なつきが呆けた。

「だから言ったの。明かしたんだわ。わたしにもすることがあるから。果たす責任があるから。それは陰から捨てた娘を見つめてくだらない保護欲と罪悪感を疼かせる行為より重い意味があるから。そんな貴女の自覚のない無謀に巻き込まれたくないから」むつみは目を細めた。「わたしにも見栄はあるから、いい母親のように想われて、それで死ぬのは満更でもなかったのよ? でもごめんなさい。わたしは結局、貴女を一番にはできないの。……そういう女なの。こういう母親も、いるのよ」

 呆けたまま、なつきが立ち上がった。

「は。はは」

 乾いた笑いを、高村は聞いた。一瞬のあと、なつきを巻く光が消え、そして炸裂した。
 とたん、頭上の蛍光灯が音もなく粉々に砕けた。分解と称すべきかも知れない。破片は目に見えないほど細かく散った。明かりが途絶える寸前に、高村は背後の窓枠の内部で、テープが青白い炎を上げて燃え尽きる様を見た。ガラスもまた電灯と同じ末路をたどった。一度だけ波打つように振動したかと見るや、ふくらみ、ふるえ、弾けて、消えた。全ての破壊は静謐の内に行われた。屋外からぬるい熱帯夜の風が、暗闇に包まれたフロアに吹き込んできた。
 漆黒のはらわたのなかで、中心たる玖我なつきはいった。恐らくはまだ涙を流したままで。

「さようなら」

 そして、静かな足取りで、迷いなく出口を目指すと、エレベーターを開き、階下へ消えた。
 目がくらむほど長い沈黙が、あとに残された。

「わたし、上手くやれたかしら」むつみの声がした。「これでいいのでしょ? 高村くんは満足したの? 誰が、こんなことを頼んだのよって――それくらい、何も見えない台詞を吐けるなら、お互い楽だったのにね」
「でも、俺の仕事まで取られました」高村は強いて空元気を見せた。「なんでわざわざ、露悪的に振舞ったんですか」
「自分で言って、気づいたから」訥々とむつみが応じた。「言ったとおりなの。わたしは、あの子の思う母親のまま死ぬなら、志が半ばでも、あなたやほかのみんなを投げ出しても、それならいいかと思ったの。それを、さっきこの場に来るまで、高村くんに乗せられたってわかるまで、知らないふりをしていたのよ。でも、そんな自分に気づいたら、そのままにはしておけない。だから、自分で、その芽を摘みたかったの。……娘の前で、かっこうをね、つけたかったの。ばかみたい」
「格好いいですよ、紗江子さんは」高村は心からいった。「言っておきますけど、あなたのフォロー、するなって言ってもしますよ。あれはあんまりだ」
「あの子が明かりを消してくれてよかった」火の消えたような声で、茫洋とむつみがいった。「わたし、今からきっと泣くわ」

 するべきことはわかっている。高村はそれには答えず、短く告げた。

「追います」
「お願い」応じるむつみの語尾が上ずった。

 鼻をすすり上げる音に背を向けた。
 これも逃避の一種だと、高村は考えた。ここで九条むつみを支える選択もあるのだろう。だがむつみの求めはそこにはない。彼の手はふたつ、指は十もある。だが掬える人は二人もいない。
 ともすれば、一人もいないのかもしれない。
 その無力な指先が、エレベーターの昇降ボタンを探り当てた。
 と、

「九条さん?」

 高村の背に体温が触れた。暗闇も手伝い、心臓が一際揺れる。振り返った胸元に、小ぶりな頭が当たった。ちょうど一日隣に置いた玖我なつきと、それは同じ位置だった。毛髪から香る女性特有の体臭に思考をかすかに酩酊させて、高村は懐中のむつみの言葉を待った。

「ごめんなさい。十秒だけ、借り、るわ」
「……こんなものでよければ、どうぞ」

 なつきに見繕われた背広を、むつみの手がきつく絞った。腕に納まる狭い肩幅の中心から、引き絞るような息づかいが聞こえた。涕涙を堪えるための仕草だった。水分の滲んだ声が、暗がりで高村の耳を打った。

「駄目な母親ね。弱い女よ。わたしは、ほんとうに」
「あなたをそんなままのお母さんには、俺がさせておきませんよ」

 一瞬だけ、高村はむつみを抱きしめた。
 脅えるように竦んだ小柄な体を、すぐに柔らかく突き放す。

「行ってきます」

 なつきのいないエレベーターが、高村を迎えた。


   ※


 行くあてはない。かといって流離うほど街は広くない。彷徨うには自意識を保ちすぎている。ネオンのきらめく夜の街路を、玖我なつきは浮遊するように逍遥した。
 去来するものは何もなかった。完全な無が彼女の胸を占めていた。価値観の一切と、かろうじて築き上げていた心裡の塔は、基礎地盤から選択を間違えていた。今はただ蹉跌が積みあがっているだけだ。感慨もない。奇妙に客観的なもうひとりの玖我なつきが、いまのなつきを品定めしていた。いま抱きしめられれば、あるいは異なる価値観を与えられれば、犬のように尻尾を振ってわたしはそれにすがりつくだろう。洗脳はそうして行われるわけだ――揶揄ではなくただの事実として、現在の心情をそう評価していた。そしてそれはほぼ正鵠を射ている。

「ハァイ」

 だが、なつきの目の前に現れたのは保護者ではない。純然たる敵対者であった。
 他校の制服を着た結城奈緒が、近場の壁にもたれかかり、腕を組んでなつきを見つめている。表情にはこぼれんばかりの喜色があった。
 なつきの情動はほぼアパシーの域にあった。色のない瞳で奈緒を見返した。なぜ彼女が風華の外の路傍にいるのだろうという疑問さえ浮かばなかった。

「はは、ボロボロじゃん、玖我センパイ?」そんななつきを見て、奈緒がいっそう微笑を深めた。「いっやーん。面白そうだからつけたはいいけどスゴイ退屈でもう帰ろっカナーって思ってたらぁ、最後の最後に超面白いもの、見ちゃったぁ。っていうか、聞いちゃった、カナ? あはは!」
「用がないならわたしは行くぞ」なつきは歩き出しかけた。
「待てよ」その肩を奈緒がつかんだ。「せっかくグーゼン、こんなところで会ったんだからサ、退屈しのぎに付き合ってよ。ねえ?」
「他をあたれ」なつきはにべもない。他者がひたすら疎ましかった。
「ごっきげん斜めねえ。そんなに高村たちに担がれたのが悔しかった? 凄い顔よあんた。もうなぁんにもなぁい、カラッポですーって感じ」

「――おまえ」

 凪いでいたなつきの心中に、小波が走った。奈緒はその様を、喜悦に細めた瞳で観察している。

「いたのか、あそこに」
「聞いてただけよ」奈緒が気さくに笑った。「たまたまじゃん。でもさあ、糸電話とかどうかしらって思ったけど、意外と聞こえるのよねェ、アレ。ぷっ、全部筒抜けだったわよ?」

 盗聴を咎めるよりも先に、なつきを脅かしたのは、唐突にこみ上げた吐気だった。目前で笑う奈緒の顔が歪む。蹌踉とするなつきを尻目に、奈緒は笑声を弾けさせた。

「つまりアレでしょ? 全部茶番だったわけ? アンタが一人でいきってカタキ取るとか吹いてたことも、スキスキってしてた母親も、すかした態度で決めてた色んなことも、ぜんぶ、全部! ――ウ・ソ♪、だったわけだ!」
「ぅ、あ」

 よろめくなつきの胸を押して、奈緒はけたたましい哄笑をあげた。

「うっはぁ、ミ・ジ・メぇ! でも最っ高に笑えるわアンタ。あっはは、カラダ張るならともかく、人生張ってピエロって! すっごいよ、そんなマヌケ見たことないよ!? どんだけ面白いの、ねえ!? どんな気分なの、全部否定されちゃってさぁ! なんだっけ? 『わたしには復讐しかない』? 『意地』ぃ? って、どんなザマでそんなセリフほざいてんだっつうの! ネタフリにもほどがあるから!――ねえ?」

 突然に、奈緒が声のトーンを下げた。一切の笑みを消して、喘ぐなつきの顔を真正面から凝視する。

「これであんたも、分かったんじゃないの? 母親なんて信じたって馬鹿みるってさ。いや、もう見たのか。……ああ、惨め惨め。で、どうすんの? 泣かないの? もしかして今夜もさ、ママのオッパイが恋しい恋しいって言いながら寝たりして? そうだったら、もうホントうけるんだけど――ねえ。なんとか言ったら? 『甘ったれのガキ』にこんな言われて、悔しくないの?」
「まるで。こたえないな」それでも、なつきは言い返した。「『甘ったれのガキ』のいうことだ。なんら、痛痒を感じない。キンキンキンキンと小うるさいだけだ。ふん、犬のほうがもっと節度を持って鳴くぞ、ガキ」
「――いい度胸だわ。ほんと」

 なつきの襟首を捉えた奈緒の手が、腕力に任せて体ごと路地へ引きずり込むべく働いた。なつきは逆らわず、たたらを踏んで夜光の恩恵から離れた。
 逆光を負って、奈緒が残酷に顔を歪ませた。

「いつかも、こんなことがあったわね。……それじゃあ、HiME、狩っちゃおうかな」

 いつかよりも一際凶悪に鋭く変じたエレメントが、奈緒の手を飾る。なつきも応じようとして――留まった。
(あ、れ?)
 あるべきものが欠けていた。
 求めればすぐに応じる気配だ。数年来、なつきの隣人であった高次物質の思念が、その存在を微塵も感じさせなくなっている。
 眼前の脅威も忘れて、なつきは己が手をまんじりともせず眺めた。薄く白い掌がそこにあった。エレメントとして具現化された拳銃など、どこにも見当たらない。痕跡さえない。
(ああ、そうか)
 動揺の振幅は微小だった。枯死した情動が回答を親切に促していた。
 HiMEの力の源は感情である。使い手が唯一の人間へ向ける慮外の熱量が、少女をして異能の駆使者となさしめる。
 ではその源泉を失えばどうなるのだろう。
 答えがなつきの手中に示されている。
 人ならぬ何かが、その判断を行ったのだ。手続きは当人さえ知らぬままに踏まれていた。
 左上半身の中心に、灼けるような痛みがはしった。神経が剥がれ落ちていくような不快な感触とともに、とても重要で深刻なものが、玖我なつきの体から離れていく。
 不思議なほどあっさりと、その事実は腑に落ちた。

「わたしは、もう、HiMEじゃないのか――」
「はぁ?」奈緒が盛大に顔をしかめた。「なにそれ。ブラフ? そういうのはいいんですけど」

 なつきはただ自分を嘲笑するだけだった。ついに、最後の寄る辺も失ったのだ。虚空に向けて、長年の相棒の名を呼んだ。寂寥の念か、あるいは惜別か、ひょっとしたら未練を込めた。

「デュラン」

 当然、召喚はなされない。だが、なつきの耳はあるかなきかの遠吠えを捉えていた。
 永訣の咆哮なのかもしれない。

 なつきは独りになった。

 もう何もない。今度こそ、完全に、玖我なつきは孤立したのだ。今まで全てを注いでいた世界からさえ、三行半をつきつけられた。

「え、マジで?」拍子抜けしたように問うと、奈緒は改めて嗜虐的に笑った。「はは……じゃあ何。一方的にこっちが苛められるんだ? 物足りないけど、まあいっか。じゃ、ちょっと顔に消えない傷でも刻んであげよっか」

 エレメントを構えた奈緒となつきの間に、そのとき、割って入った声があった。

「それはちょっと、聞き捨てなりませんなぁ」

 柔らかい語勢と、聞きなれた京訛りだった。路地の出口から、奈緒の肩越しになつきを見つめる瞳がある。
 繁華街に似つかわしくない着物姿だが、間違えようがない。なつきの友人である、藤乃静留がそこにいた。

「静留……?」
「生徒会長?」

 期せずして、なつきと奈緒の疑問が重なった。静留は笑みかけて、なつきの顔を一見するや、かすかに頬をこわばらせた。奈緒を押しのけるように路地に足を踏み入れてくる。

「……なつき。泣いてはるの?」
「あ、いや、これは、その」腫れた目元に触れようとする静留の手から逃れて、なつきは弁解した。「違うんだ。ちょっと、そう、目にゴミが入った」
「嘘やね」優しく、しかしはっきりと静留がいった。「ええよ。いいたくあらへんのやったら、うちも詳しく聞かんようにするさかい。それより――」

 静留の意識が、そこでようやく、奈緒へ向いた。無視されたかたちである奈緒は双眸を吊り上げて、闖入者へ剣呑な気配を発している。

「また空気読まないのがきたわねえ。どっから湧いてきたの、アンタ」
「それはこっちのせりふどす」静留はいつも通り、穏やかに問い返した。「執行部はこの近くのホテルで高校総体の壮行会やっとるさかいにな。夏休みのこの時期は恒例の行事どすえ? 後援会の皆さんもいらはるし、うちはちょうど宴会の会場に遅れて向かっとるところどす。……結城さん、いわはったね。あんたこそ、他校の制服着はって、なんや知らん間に転校しはったん?」
「着物きてるババ臭い女に言われたくないわよ」奈緒が鼻で笑った。「それより、ちょっとそこどいてくんない? あたし、今からそこの玖我センパイにさ、ちょっと用があるのよ。一緒にイジメてほしいっていうんなら、ま、考えてあげなくもないけど」
「そら、物騒な――」

「やめろ」

「なつき……」

 静留の肩を押しのけて、なつきは前に出た。結城奈緒が、能力の有無で手心など加えないのは先刻承知の通りだ。この上静留まで危険にさらし、怪我でも負わせれば、なつきには立つ瀬がない。
(それに、もう)
 投げ槍な心理が働いていることは否めない。
 全てに対する関心と意欲が枯れている。喜怒哀楽さえ、いまのなつきは演じることに苦労している。静留をかばうことも、こうであろうというルーティンに従っているにすぎなかった。たとえ本当に目の前で親友が傷を負っても、いまのなつきは、ただ悲しむふりをすることしかできない。その確信があった。
(どうでもいいんだ。なにもかも)
 そして、だとしても、そんな光景だけは、絶対に見たくない。
 奈緒が、憤りを交えて吐息した。

「友情ゴッコかよ。おままごとならよそでやってくんない?」わざとらしく、目を丸くして、続けた。「あーあー、そういえば、そこの会長ってなんか、レズってウワサあるじゃない! 下級生とか手当たり次第食いまくってるとかさぁ、オトコいないせいでそんなふうに言われてるのかと思ったけど……もしかして、マジだったりするんじゃなぁい? ねえ玖我、アンタ狙われてるのかもよ? それとも、もうデキてたりするのかしら。――うーわ、キモ」
「下衆が」なつきは静かに吐き捨てた。「下卑た勘繰りしかできないのか? 程度が知れるな。親の教育も行き届いていない」
「――あっそ。じゃあ死ねば」

 予告もなく奈緒が片手を振った。なつきは咄嗟に静留をかばい、体を伏せる。耳をつんざくような高音が響いた。
 恐る恐る、顔をあげる。
 息を呑むなつきの目前に、ぞっとするほど深い亀裂が生じていた。左右の壁も、せり出した部分を綺麗に切り取られている。時間差を置いて、コンクリート片がアスファルトに落ち、重い音を立てた。
 奈緒が愉快そうに声を張り上げた。

「あっは! そんなにビビんないでよ! まだ全然小手調べじゃない!」
「貴様……」

 拳を握りかけたなつきの手に、静留がそっと指を寄せた。

「なつき。ええよ。うちにまかしとき。……なんとか、するさかい」
「そんなわけにいくか。おまえはわたしが守る」

 言い聞かせて、われながら空虚な言葉だと、なつきは感じた。まるで実がない。根拠もない。本当の意味の虚勢である。
 そして、無力をかみ締める反骨心さえ、いまのなつきには欠けていた。
 無意味に立ち向かい、無様に這い蹲るのだろう。道化には似合いの結末だ。
 捨て鉢に動きかけたなつきを制したのは、囀りのような静留の言葉だった。

「かわいそうな子やね、結城さん」

 裏腹に包含された嘲弄を受けて、奈緒が口元を緩ませた。

「安い挑発……」
「せやね」静留が薄く笑んだ。「へたに気ぃつくさかい、余計なもんが見えはるんやろ。目に付くものぜんぶに噛み付いて、……ちっちゃなころから、人の顔色ばかりうかがっていはったんとちゃいますか? せやから、なつきのことが気に入らへんようになる……うらやましいから、突っかかる」
「この状況わかっててそんなセリフ吐けるなら、そこの腑抜けより上等かもね」奈緒が顔をひきつらせて、エレメントを掲げた。「でも、さて、これを見てもそのお澄まし顔、そのままかな?――ジュリア!」
「バカが。ここは風華じゃないんだぞ……」なつきは静留の手を引いて、路地を逆行した。「静留、逃げろ! このままじゃまずい!」
「あ、なつき……」裾を手繰りながら、静留も走り出す。

 狭い路地を圧壊させて、半人半蜘蛛のチャイルドが、威容を見せた。舞う土ぼこりの向こうで、奈緒が高みから逃げ惑う二人を見下ろしている。指揮棒を振るように手を一振すると、なつきの進路に赤い網が出現した。

「くっ」
「バーカ! そっちは仕込み済みだっての!」奈緒が吠えた。「はい、ゲームオーバー……」

「馬鹿はおまえだ」

「――へっ?」間が抜けた奈緒の呟きが、いやに大きく響いた。

 高村恭司の声だった。となつきが認めた刹那、奈緒はチャイルドの上から引きずり落とされている。夏服の襟をつかまれ、地面に押し倒されて、両手は背後で極められている。

「なんだよ! ちょっと、離してよ! 服が汚れちゃうじゃない!」
「いいからチャイルドしまえ。見つかったら大事になるだろ。ほら」
「いった! ちょ、いったいいたい! うぎゃー!」
「いやうぎゃーっておまえ……」
「マジで痛いんだってばこのボケ!」

 わめく声をよそにして、なつきは苦く、顔を歪めた。

「なんで、来るんだ……」
「なつき?」案じる静留の声に、なつきは応えることができない。

 静留がいなければ、それこそいつかの夜の焼き直しだった。
 だが今の玖我なつきはHiMEではない。高村を疑ってもいない。
 疑いはないが、比べ物にならないほど深い隔絶がある。

「……どうして、おまえなんだ」

 処理しきれない感情を持て余して押し黙るなつきの横顔を、藤乃静留が注視していた。


   ※


 結城奈緒を足下に組み伏せて、高村恭司は、呼吸を整える行為に腐心した。なつきの姿を求めて数百メートルを休みなく疾駆した反動が、汗となって服を湿らせ始めている。
 ほんの数メートルほど背後では、奈緒のチャイルドを目撃した通行人が、足を止めて言葉を交わしていた。狂猛なジュリアの姿を前に、逃げるでもなく携帯電話のカメラを向けている。危機感の欠如について、高村は他人に意見できる立場にいないが、賑々しくはやし立てる人々には文句のひとつも投げつけたいところだった。
 もちろん、今はそんな場合ではない。

「ようやく追いついた。歩くの早いぞ、玖我」十メートルは離れた場所に立つなつきへ、目配せする。「って、藤乃もいるのか。なんでだ」
「部活の壮行会だってさ」奈緒がぼやいた。高村の力が緩んだ隙を見計らい、するりと体を脱出させる。「つうか、むかつくんですけど。なんであたしを抑えるのよ。ヤるならあっちでしょ」

 立ち上がりしな、エレメントとチャイルドを収めて、奈緒が一笑した。周囲の残骸を歯牙にもかけず、衆目へ向けて鋭い目つきを飛ばす。不穏な気配を感じ取ってか、それで集りつつあった耳目の過半は散った。
 高村は安堵にため息をこぼした。

「そもそも、そう言う結城はなんでここにいるんだ?」
「う」と奈緒の口端が引きつった。ぎこちない態度で、顔を背ける。「……まあ、変な偶然てやつじゃない?」
「つけてたのか」正確に事情を看破して、高村は頭を抱えた。「なんでまた……暇人かよ」
「そうよ。暇だったからつけたのよ」奈緒が開き直った。「玖我とアンタのデートなんか、絶好の見世物じゃん。文句ある?」

「……デート?」

 困惑気味に反問したのは、なつきにかばわれる立ち位置のままの藤乃静留だった。訝しげな目が、なつきへ向かう。自然高村と奈緒も追従するかたちになって、三者の意識が渦中の少女へあつまった。
 なつきは、無表情にそれを受け止めている。口を開くそぶりも見せない。陰鬱に黙然として、疲労の極限か、あるいは病んだ老犬のように鈍い瞳を、暗がりで揺蕩わせていた。

「それよりさあ、傑作だよ」ひとり場違いな陽気を装い、奈緒が続きを引き取った。「あいつ、もうHiMEじゃないんだってさ。エレメントもチャイルドも出せないみたいよ? ねえ、玖我センパイ? 何の取りえもない根暗女になった気分とか、けっこう興味あるんですけど?」

 なつきは黙許して奈緒の暴露を見送った。問う高村の視線にも、反応らしい反応を返さない。
 ひとり静留だけが、かすかに目をみはり、なつきの肩に恐る恐る、触れた。

「いまの、……ほんま?」
「ああ」

 極めて短い答えに、静留が刹那だけ打ちひしがれた表情を見せた。どうやらなつきにあらかじめ聞いていたのか、あるいは学園の長という立場ゆえか、事情に通暁している気配だった。

「あら、会長サマもちょっとはもの知ってるみたいね」興が乗った様子の奈緒が、芝居がかった語勢でまくしたてる。「じゃあ、そこの玖我が前代未聞のマザコンってことは知ってた? で、その大好きなママが、実は死んでなくて、そいつを捨ててどっかに行っちゃっただけって話はどうよ。それもなんと、その正体はつい最近まで学校にいた、シスターむつみよ? あげく玖我はさっきのさっきまでそんなこと全然知らなくて、――つまり、ずーっとずーっと騙され続けた、馬鹿丸出しの一人芝居に酔ってるイタイ女だったってコト! おまけにそのことを知らされて、ショックを受けたカワイソウなカワイソウななつきチャンは、傷ついちゃってえ、もうHiMEじゃなくなっちゃいましたあ! 残念でしたあ! あはははっ! かわいそうかわいそう、超かわいそう!――ってさ。ねえ、玖我、アンタのオトモダチにそのこと言ってあげないの?」

 静留が絶句した。言葉もない様子で、なつきに触れた指を震わせている。
 なつきは疵口を抉る声に、顔色を紙のようにしていた。痙攣する手を口元にやって、吐瀉をこらえるように背を曲げている。立っているのがやっとの様子だった。

「結城、よせ」高村は静かにいった。
「なにが?」奈緒は快感すらおぼえているように見えた。「全部ホントのことでしょ。ごまかしたってしょうがない。だいたいセンセイが自分であいつにしてやったことじゃないの。それを善人ぶるとか、やめなよ。はは、らしくないって。ああ――でも、ある意味では善いことだったのかもね。だってさあ、とんでもない勘違いをちゃんと正してやったんだから。フフ、それなら逆に感謝されてもいいくらいだよね。はっ――惜しいことしたわ。できるならあたしもあの場所にいて、泣き喚くアンタの顔を、じっくり見たかっ」

 手が出てから、高村は失策を悟った。
 遅れて耳朶を枯れ木の爆ぜたような音が叩いた。
 奈緒の頬を、高村の手が張った音だった。

 全員が沈黙に陥った。

 高村は凝然と自らの手を眺めていた。なつきはえずきながら、瞳を落としたままだ。静留はそのなつきを介抱しつつ、高村と奈緒から距離を取ろうとしていた。
 そして、結城奈緒は、打たれた姿勢で止まっている。捻った首をそのままに、高村の手が触れた箇所に、奈緒の指が触れた。
 極めてにぶく引き戻された奈緒の顔が、高村に据えられた。

「………………………ああ、そ? なら、もういいわ」

 その瞳を見て、高村は怯んだ。完全にすべての色が消えた眸だった。親しみがもとよりなかったとしても、いかばかりか関心と慣れを含んでいたはずの色が、単一のそれに変化していた。
 無価値なものを見る眼そのものだ。
 高村と奈緒の間にあったのかもしれない温度が、全て消えたその瞬間が、見えるようだった。

「もういいわ」

 と、奈緒が繰り返した。高村にも、なつきにも、静留にも、もう一瞥もくれなかった。スカートを翻し雑踏に消えていく。小柄な背中に万言に勝る拒絶が見えた。
(なんだこれは)
 独言は、虚ろだった。
(喪失感って、馬鹿か、俺は)
 高村は常に見送る側だ。去る奈緒から早々と視線を切った。取り戻せないものはある。許容できないものもある。奈緒が早晩その線を踏み越えるであろうことを、彼は常に想定していた。
 今は、それよりも、玖我なつきだった。
 静留に支えられた少女へ、一歩近づく。気取ったなつきが、脅えるように身を竦ませた。その仕草があまりに九条むつみに酷似していて、高村はそれ以上の接近をためらった。

「なにか、用ですやろか」静留が、事務的にいった。
「ああ、玖我に、一言な」高村はこたえた。発した自分が慄くほど、擦り切れ、掠れた声だった。
「……ひとつ、ええどすか」静留がいった。「さっき、結城さんが言わはったこと……」
「本当だよ」高村は頷いた。「言い方はともかく、内容に訂正すべき点はない。あいつがいったことを、そのまま俺は、玖我にした。あるいはもっとひどい仕打ちも、含まれている」
「残念やわ」いつか一度だけ聞いた低い調子で、静留は呟いた。高村を見る眼は既に据わっている。「高村先生やったら、なつきのこと、わかってあげられる思うとったさかいに」
「ぽっと出の他人に、そんな期待をするなよ」高村は簡素に、静留の思い違いを正した。「玖我」

 呼びかけに、なつきは反応しない。暑さのためではない脂汗で額を濡らして、消極的に外界を拒んでいる。藤乃静留という服に包まれて、過ごすことを選ぶのなら、それもひとつの選択だと高村は思う。静留がいるのならば、なつきをいたわるのにこれ以上の適任はいないだろう。
 だが、かける言葉がまだ残っている。

「今夜おまえに言ったことが、なくなったわけじゃない」と高村はいった。「全部残ってる。おまえも覚えているはずだ。今すぐじゃなくてもいい。……落ち着いたら、そうだな、ごはんが食べられるようになったら、考えてみてくれよ。俺や、お母さんの言ったことを。おまえの身に、今日も含めて、起きたことを。……本当のところ、それはそんなに悪いことなのかな? 俺はそう思うんだ。だから、少しだけでいいから、余裕ができたら、考えて欲しい」

 なつきは、やはり、応えない。

「言いたいこと、それだけどすか?」静留が、静かな言葉で突き放した。

 高村は肯んずる。
 静留が眼を伏せた。ひどく珍しい、苛立ちの吐息をさらしていた。次に高村を捉えた半眼には、ただ品定めするような怜悧さだけが宿っている。

「えぞくろしいなぁ。……ほな、さっさと帰りや」


   ※


 気づけば、高村は一時間近く噴水の縁に座っていた。見知らぬ街で、慣れない言葉の奔流に浸りながら、旦夕紡がれる営みの末端に浴している。この上ない夜にいながら、彼が目にするのは痛々しいほどの光ばかりだ。露光反射で眼球が行う微動が、彼が表面上で行う唯一のものだった。
 呼吸さえ、憚るように繰り返している。
 自分が打ちひしがれていることを高村は認めた。全て承知の上でいながら、当然の帰結として生じた結果に、かなり参っている。せめて一晩は何も考えずにいたかった。
(ああ、そういえば、九条さんにデータをもらうのを忘れていたな)
 本来ならば、死活問題になりかねない重要事である。今夜むつみを呼び出した目的の半分がなつきへの暴露ならば、残り半分がそのデータの取得にある。だが、いまの彼には瑣事だった。歯車を回す油は時間だ。高村には休む間が必須だった。
 だとしても、状況は彼のコンディションを忖度しない。携帯電話が無遠慮な着信を告げた。液晶には『石上亘』の名前が表示されている。今さら受けても恨み言をもらうくらいだろうが、高村は彼と話がしたい気分だった。

「はい」
『お疲れさまです』開口一番、石上はそう言った。

 高村は眉をひそめた。

「俺に、石上先生が最初に言うことが、それですか?」
『他にはちょっと思いつかないねえ』石上が陽気に告げてくる。『僕は君を労いたい。ああ、それは真摯な気持ちだよ』
「……?」

 鈍磨していた感性が、違和と危機感を得て活動を再開し始めた。

『君たちは用心深かったつもりなんだろうが、結局は素人だった。そういうことさ』石上は構わず続けた。『本腰を入れた追跡者の手から逃れる用意は、どれだけしても充分とは言えないんだ。現代社会にある覗き窓は、何も人の耳目ばかりを通すわけじゃない。町中に眼がある。耳もある。本当の逃走者とは、安住を求めてはいけないんだよ。あるいは、自分が安らぎを覚えたら、次の瞬間にはもう拠地を移す構えを終えていなければならない』
「何を……」
『迂闊だったってことさ。君も』石上が笑う。『そして九条むつみも。いや、玖我紗江子も、かな? どちらでもいいか。――だから、お疲れさま、さ。僕が君たちに当て込んだ役割は、今夜終わったよ。おかげで、シアーズとの交渉は円滑に進んだ』

 高村は腰を浮かせた。一瞬で数百の罵倒が心中を埋め尽くした。無論己に向いたものだった。


「お話、もう終わった? お兄ちゃん」


 アリッサ・シアーズが、満悦の表情で隣席に腰を落としていた。薄いショールを肩に羽織って、地に届かない足を、縁の上で遊ばせている。いつからそこにいたのか――あるいは、いないのか。高村を見つめる瞳は無邪気そのものだ。
 高村は狼狽する。回線を通した石上か、もしくはアリッサから、少しでも距離を置こうとする。

「むかえにきたよ! お兄ちゃんいつまでも帰ってこないんだもん! さ、かえろ!」アリッサが笑う。
『さようなら、高村先生。短い付き合いでしたね』石上も笑う。

 通話の切れた電話を手に、高村はアリッサへ眼を戻した。爛漫な笑みを崩さない少女は、うだるような暑気の中でひとりだけ清廉だった。人種の違う肌色よりも、根本的な気配に由来を発するのだろう。アリッサは俗世からひとり劃されて妖精のようだ。
 高村はあとずさる。

「アリッサちゃん、ごめん」口早に言った。「俺はまだ帰れない。やることがある」
「え?」アリッサが冗談でも聞き流すように眼を細めた。「だめだめ。そんなの関係ないよ。わがままいうなんて、お兄ちゃんったら、こどもー」

 踵を返した。
 全力で走り出した。一瞬で速度を上げて、ストライドを大きく、跳ぶように足を前へ、

 ――運ぼうとした瞬間に転倒した。

(あ)

 硬球を至近で投擲された衝撃が、背部で爆ぜる。腰となく太腿となく、無数の弾丸が高村を打擲した。彼に振り返る余裕があったのなら、満面の笑みで翼のエレメントを展開し、衆目と高村を区別なく打撃する天使の姿が見えただろう。
 怒号と悲鳴が、夜の町に弾けて消える。
 こめかみへの一撃を受けると、嘔吐の前兆を感じて、高村は昏倒した。

「じゃあかえろ。パパのためにいっぱいいっぱいワルキューレを落とそうね、お兄ちゃん!」

 朦朧たる意識の間で、高村は何かを応えた。
 アリッサの高く美しくそれゆえに嘘のような声が、それを笑った。

「なにいってるの? 無理だよ。お兄ちゃんには無理無理。なにもできないよ。だってお兄ちゃん、深優がいなきゃ立つこともできないのに。歩くのも走るのもアリッサよりへたになっちゃうのに! それでなにができるの? おにいちゃんが強いのはね、ぜーんぶ、ミユのおかげなんだよ! つまり、アリッサのおかげってことでーす! だから無理だよ、お兄ちゃんにはなにもできないよ。お兄ちゃんは深優といっしょにアリッサのそばにいればいいんだよ。そして遊んでくれたらうれしいな。それでわたしはしあわせなの! ねえ、パパみたいに褒めて、だっこして、お絵かきして、遊ぼうよ! お兄ちゃんは、それだけできればいいんだよ! そうだよね? ミユがいなきゃ、お兄ちゃんは、ニンゲンでもないんだもんね! だからほかには、なんにも、なにもできなくていいんだよ! でも心配しないで。もうすぐわたしが、お兄ちゃんをしあわせにしてあげるから!」

 ぷつりと途切れた。


   ※


 拠点へ戻る九条むつみの足取りには、軽さも重さもなかった。長年の荷を捨て、かわりに新たな責務を負った。今夜彼女に起こったのは、結局そうしたことである。
 生きる上では、時として避け得ない出来事が起こる。生老病死に、それは限らない。
 むつみを慰めるのは、そんな当然の摂理だ。
 タクシーを何度か乗り換えて、いくらかは親しんだ郊外のマンションを、妙に懐かしく思いながら仰ぎ見る。むつみらが使っているフロアは二階にあった。いざという時に、手間をかけず逐電するためである。
 むつみは嘆息する。帰るといっても、そこは家ではない。激務と責任だけが彼女を待っている。安らぎなどは到底、望み得ない。
 なのに古巣を望むのは、人が持つ本能なのだろう。
 合鍵をポケットから取り出したむつみは、帰宅を告げながら、扉を開いた。

 見知らぬ少女がそこにいた。

(え?)

 どこにでもいる、可愛らしい少女だった。タイトなシャツとパンツが、体の線を浮き彫りにしている。若々しさと瑞々しさに溢れたフォルムである。流れた髪の質は絹糸のようで、それだけをとっても、美しいものだ。
 だが活力というべきものが一切見えない。
 なぜという疑義に、むつみの洞察が即答した。
 少女の立ち居だ。
 彼女はただ、リビングでたたずみ、むつみを迎えただけである。
 単純な、それだけの動作から、汲み取れる生活感が皆無だった。直観がむつみに囁いた。
(この子)
 少女が、むつみへ向けて一礼する。

「こんばんは、ドクター九条。お初にお目にかかります、わたくしはシアーズ社より参りました汎用アンドロイド・タイプMIYUの四番、呼称は開発名にならい、M-4-Aprilとしていただければ幸いです」

(深優の……!)

 咄嗟に背後を意識する。後ろ手に、扉を閉じたことが悔やまれた。そうでなければ、今すぐ飛び出せただろうに。
 だが、問わねばならないことがあった。むつみは唇を湿す。無機質な微笑を張り付かせたままのM-4へ、ひとつだけ訊いた。

「ここにいた人たちはどうしたの?」
「わたくしが殺害いたしました。四人のご遺体はすでに搬出済みであります」M-4は微笑みながら応えた。「シアーズ社円卓会議における採決の結果ですので、あしからずご了承ください。また過日のサンフランシスコ沖地震に関する情報の隠匿と背任罪によって、ドクターの身柄の拘束もしくは秘密裏な保護あるいは抹殺の命令も、わたくしは受けています。無用な苦痛をもたらす可能性がございますので、どうかご抵抗はなさらぬよう愚考する次第です」
「シアーズは、いつから暗殺粛清なんて行うようになったのかしら」
「五百十二年百十三日と六時間四十九分前からです、ドクター」

 M-4が無手を上げる。それだけの動きに、むつみは死を予感した。身じろぎひとつできない。左右に身をかわす遊びはない。口内が急速に乾燥する。むつみを見つめる少女のガラスの眼の中で、間抜けな女が呆けていた。絶対に間に合わないと知りながら、女は懐中の拳銃へ手を伸ばす。生涯最高の速度でホルダーからバレルを抜いた。ろくに狙いもつけず腕を伸ばした。セーフティを解除した。
 M-4はもう射線にいない。
 自動拳銃が火を吹いた。

(終わ)

 むつみの手先に、熱が走る。飴を溶かしたように遅化する感覚の中で、肌色の指が宙を舞うのが見えていた。細い筋のような赤い線が断面から伸びていた。M-4に断たれた九条むつみの右手人差し指と中指と薬指だった。爪のかたちにあまりに見覚えがありすぎる。完全な死に体で、むつみは落ちていく拳銃を眺める。床に這うような姿勢で、M-4が右手のナイフを一閃し終えていた。むつみの手の甲の先にあるべきものがない。断面は鮮やかで、骨と筋繊維まで見えた。桃色の肉が見えた。すぐに真っ赤な血が滲んだ。痛、とむつみは思った。実際はまだ痛覚は追いついていない。痛みよりも先に死が訪れるだろう。

(った)

 M-4がナイフの切先を構えた。むつみはまだ銃を構えた姿勢のままだった。むつみは眼を閉じた。浮かぶ、というほどそれは自動的な行為ではない。ただ娘の顔を思った。彼女が幸せであればいいのだろうか、とむつみは自問した。それでわたしは満足だろうか? どうやらそれは違った。むつみはなつきと話したかった。恨み言でも構わない。彼女の言葉をもっとぶつけてほしかった。逃げた母がそれを求める勝手を知っている。自分がなつきの立場であればきっと許さないだろう。だが思うことは自由だ。意思は完全に自由だ。その囲われた自由でしか、むつみは満足な母ではいられない。
 それが、寂しかった。

 後頭部に、涼風を感じた。

 あるいは刃が突き抜けた感触かもしれない。死が通り抜けた音なのかもしれない。
 いずれも違った。
 むつみの命に触れたM-4の刃を、もうひとつの剣が、寸前で掃っている。

「深優・グリーアを確認いたしました」M-4が姉の名を呼んだ。「交戦の意志が認められます」

「いいえ」

 一瞬でドアを五つに刻んでむつみを救った深優・グリーアが、冷静に訂正した。

「これは排除です。戦闘にはならない」

 二機の少女が、銀の光を交し合った。


   ※


 藤乃静留は茫然と立ち尽くしている。彼女は学園執行部が予約したホテルの部屋にいる。寸前まで、憔悴しきったなつきは、その部屋のそのベッドに身を横たえていた。
 静留が外出したのは数分程度だ。部屋のロックは厳重だった。実際ドアから誰かが侵入した痕跡はない。

 ただ、窓が消滅していた。

 割られたという次元ではない。破片も残さずに消えているのだ。
 そして、玖我なつきも同様に、姿を消している。

「なつき……?」力ない声で、静留はなつきの名を呼んだ。今夜だけで、何度目かもわからない。そして、今日に限って満足行く返答があった試しはなかった。

 寝巻きのままで、静留は絨毯に崩れ落ちた。高層に吹く強い風が、彼女の長い髪を乱暴にかき乱した。委細に構わず、静留は呆け続けていた。

 玖我なつきは、こうして消えた。

 八月八日の夜はこれで終わる。


   ※


 結城奈緒の長い一日まで、残り七日を切っている。





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